
はてなキーワード:競争とは
2026年2月12日、平日午後の情報番組として長年君臨してきた「情報ライブ ミヤネ屋」が2026年9月末で終了することが、司会の宮根誠司氏により正式に発表された。番組終盤、宮根氏は約4分間のスピーチで視聴者やスタッフへの感謝を述べ、自らの言葉で番組からの「卒業」を伝えた。この発表は、2006年7月の番組開始から約20年という節目を迎えた長寿番組の終焉を意味する。
番組終了の第一報は、2026年1月28日に「女性セブンプラス」が報じた。関係者への取材によれば、宮根氏自身が読売テレビ側に「番組を終えたい」と申し出たことが発端だった。局側は必死に慰留したが、宮根氏の意思は固く、その後読売テレビと日本テレビの上層部との話し合いを経て、10月期の改編で終了することが決まった。
2月12日の生放送では、宮根氏は「この9月末をもって私、このミヤネ屋を卒業させていただく運びになりました」と述べた。フリーアナウンサーとして番組の終わりが来ることは覚悟していたとしながらも、「何度か卒業しようと考えたこともございます。そのたびに読売テレビはじめ、皆さまにありがたいことに慰留していただきまして、この20年まで続けることができました。本当に幸せ者です」と感謝の言葉を続けた。
宮根氏は局アナ時代を含めると26歳から37年間、63歳になる年まで月曜から金曜の帯番組を担当し続けてきた。この長いキャリアを振り返りながら、「信じられないくらい恵まれた環境で、テレビに携わらせていただきました」と語った。スピーチの最後には、「やめるのをやめたという可能性もありますので、その時はまたご報告させていただきます」と笑いを誘う一幕もあった。
「ミヤネ屋」は2006年7月31日、読売テレビ制作の関西ローカル番組としてスタートした。前身は金曜のみ放送されていた「激テレ★金曜日」で、これを月曜から金曜までの帯番組にリニューアルする形で誕生した。当初は午後の遅い時間帯からの放送だったが、評判の良さから徐々に放送地域を拡大していく。
2007年10月には関東と長野を除く全国ネットに昇格し、2008年3月31日からは日本テレビでも放送が開始され、完全な全国ネット番組となった。これは、2007年9月に草野仁氏が司会を務めていた「ザ・ワイド」が終了し、日本テレビが午後のワイドショーから一時撤退したことが背景にある。読売テレビが独自に育てた「ミヤネ屋」が、結果的にその枠を埋める形となった。
番組の特徴は、宮根氏の歯に衣着せぬトークと、関西弁を駆使した親しみやすい進行スタイルにあった。読売新聞特別編集委員の橋本五郎氏、弁護士の野村修也氏といった論客とのやり取りも人気を集め、政治から芸能まで幅広いテーマを扱う情報番組として、平日午後の顔となった。
視聴率面では、2009年度から9年連続で関東・関西地区ともに通期の平均世帯視聴率でトップを獲得。20年間にわたり全国平均で5から7パーセント台を安定的に維持し、累計放送回数は4000回を超えた。近年はTBS系「ゴゴスマ」やフジテレビ系「旬感LIVE とれたてっ!」など他局の追い上げもあったが、コア視聴率では依然として同時間帯首位をキープしており、高視聴率を保ったままの終了となる。
宮根氏が番組終了を決断した理由として、複数のメディアが共通して伝えているのは、「新しいことに挑戦したい」という本人の強い意志である。関係者の証言によれば、2年前に還暦を迎えた頃から「安定にしがみつくのではなく、新しいことに挑戦したい」という思いを抱いていたという。2025年7月に番組が20周年を迎えたことが、その思いをさらに強くした。
宮根氏は1963年生まれで現在62歳。朝日放送に1987年にアナウンサーとして入社し、関西で人気アナウンサーとして活躍した後、2004年にフリーへ転身した。その際も40歳という節目で「一から出直す覚悟」を決めたとされ、今回も同じ心境で新たな挑戦に臨むという。
また、平日は大阪で「ミヤネ屋」、週末に上京してフジテレビ系「Mr.サンデー」に出演するという生活を15年間続けてきた体力的な負担も、決断の背景にあるとの見方もある。関係者は「年齢的にもいまが最後のチャンスと考えている」と語っており、宮根氏自身が番組の20周年という区切りを、自らのキャリアの転換点として捉えたことがうかがえる。
宮根氏は2025年7月の20周年の際、「平時は型にはまらず楽しく、もし大きな災害や緊急事態が起こったときはいちばん頼りにされる。そんな正体不明の番組であり続けたい」と今後の意気込みを語っていたが、この頃すでに大きな決断を胸に秘めていたとみられる。
「ミヤネ屋」の成功は、テレビ業界において大きな意味を持つ。地方局が制作する情報番組を全国ネットで放送するというスタイルは、現在では珍しくないが、その先駆者こそが「ミヤネ屋」だった。放送関係者は「番組の成功を見て各局がまねた格好。昼の情報番組に与えた影響は計り知れない」とその功績を評価している。
ただし、番組終了の裏では、後番組をめぐる読売テレビと日本テレビの複雑な関係も指摘されている。全国放送での月曜から金曜の帯番組は、地方局にとって貴重な枠であり、CMなどの営業収入も莫大だ。読売テレビ内では「ミヤネ屋」が全番組の中でも最大の収益源となっていた。
この枠をめぐり、日本テレビ側が「枠を戻せ」と主張する可能性も報じられている。かつて日本テレビは「ザ・ワイド」を終了させ午後のワイドショーから撤退したが、読売テレビが独自に育てた「ミヤネ屋」が成功を収めたことで、複雑な思いを抱えていたとされる。現在、後番組については未定とされており、今後の動向が注目される。
「ミヤネ屋」の終了により、平日午後の視聴率競争は新たな局面を迎える。現在、同時間帯ではTBS系「ゴゴスマ」が健闘しており、司会の石井亮次氏、フジテレビ系「旬感LIVE とれたてっ!」の青木源太氏と、宮根氏を含めたフリーアナウンサー三つ巴の戦いが注目されていた。最古参の宮根氏が退くことで、この構図は大きく変わることになる。
一方、宮根氏の今後については、現時点で具体的な発表はない。「Mr.サンデー」の司会は継続するとみられるが、新たな挑戦の内容は明らかにされていない。関係者は「40歳のときと同じ心境で一から出直す覚悟を決めている」と語っており、宮根氏自身がどのような道を選ぶのか、業界内外の関心が高まっている。
番組は2026年9月末まで放送を続ける。宮根氏は「残り半年ありますので、まだ半年頑張っていきたい」と述べ、最後まで視聴者とともに歩む姿勢を示した。20年にわたり平日午後の情報番組をリードしてきた「ミヤネ屋」が、どのような形で幕を閉じるのか、そしてその後の平日昼のテレビ界がどう動くのか、今後の展開に注目が集まっている。
衆議院選挙2026で中道は大きく議席を減らした。選挙直後から、「野党は批判ばかりだ」という批判が相次いだ。選挙結果の分析として語られたこれらの言葉は、やがて野党の存在意義そのものを問う論調へと拡張していく。
だが、この「批判ばかり」というフレーズは、単なる戦術論や広報戦略の問題にとどまらない。そこには、野党の役割をどのように理解するのか、さらには日本の民主主義をどのような構造として維持するのかという、制度的な問いが含まれている。
本稿では、この言説が持つ政治的意味を整理し、いわゆる「ネオ55年体制」論とも照らし合わせながら、野党の監視機能と政策提示機能の関係について考察する。
議会制民主主義における野党の機能は、大きく二つに整理できる。
第一は、アカウンタビリティの確保である。政府の政策決定過程を監視し、問題点を追及し、不透明な権力行使を抑制する。これは単なる「批判」ではなく、制度的なチェック機能である。三権分立が権力分散を前提とするのと同様、議会内部における対抗勢力の存在は、権力集中を防ぐための基本構造である。
第二は、代替案の提示である。与党案に対する修正提案や独自法案の提出を通じて、政策選択肢を示す。政権交代が可能であるためには、実行可能なオルタナティブが存在しなければならない。
重要なのは、この二つは排他的ではないという点である。監視と提案は本来、同時に行われるべきものであり、「批判か提案か」という二項対立は制度論的に成立しない。
それにもかかわらず、「野党は批判ばかり」という言説が広がる背景には、いくつかの政治的効果が想定される。
第一に、監視機能の正統性を相対化する効果である。批判を「足を引っ張る行為」と位置づければ、政権追及そのものがネガティブに映る。結果として、チェック機能が弱体化する。
第二に、「政権担当能力がない」という印象の固定化である。批判中心というイメージは、「建設的でない」「責任を負えない」という連想を伴う。これは、政権選択選挙としての意味を薄める。
第三に、「提案型野党」への誘導である。一見前向きな要求に見えるが、その内実は「批判を前面に出すな」という圧力を含む場合がある。与党にとって管理可能な範囲での提案にとどまるなら、野党は補完勢力に近づく。
これらは意図的か否かにかかわらず、結果として野党の役割を限定する方向に作用する。
もっとも、野党側にも課題は存在する。政策パッケージの一貫性、党内統合、メッセージ戦略の明確化など、政権選択肢としての説得力を高める努力は不可欠である。また、多党化の進行により、有権者の支持が分散しやすい環境も影響している。
さらに、メディア報道の構造も無視できない。国会質疑のうち政策提案部分より対立場面が強調されれば、「批判ばかり」という印象は強化される。認知の問題と実態の問題は、必ずしも一致しない。
野党が批判を行うことは、制度的に正当であり不可欠である。同時に、代替政策を提示し、統治能力を示すことも求められる。両者は二者択一ではない。
問題は、「批判=悪」という単純化された図式が広がることで、監視機能の正統性が損なわれる点にある。政権交代可能性が現実味を失えば、民主主義は形式的に存続しても、競争性を失う。
ネオ55年体制という言葉が示唆するのは、単なる議席構造の問題ではない。政治的想像力の縮減、すなわち「変わりうる」という前提の後退である。民主主義は使い倒されてはいない。むしろ、その機能を十分に活用してきたとは言い難い。
野党が批判を続けることは、権力に対するブレーキである。同時に、提案を重ねることは、将来の選択肢を広げる行為である。両機能をどう統合し、有権者に可視化するかが今後の課題となる。
必要なのは、対立を弱める方向の「効率化」ではない。監視と競争が正当に機能するよう、制度と運用を再設計すること
競馬競艇競輪などの公営賭博は集客のために様々なキャンペーンを行っている。
よく行われているのは購入金額の数パーセントキャッシュバックだ。
販売チャンネルによって還元率は異なり、殿様商売のJRAはプリペイドカードへの現金チャージからの購入のみ0.5%還元と低額だが、地方競馬や競輪だとネット投票者を対象に1割に近い大盤振る舞いをすることもある。
また顧客をつなぎ止めるために今月(または直近数ヶ月)○万円購入すれば来月(来季)の還元率を優遇するなどの優待キャンペーンも行っていた。
キャンペーン競争は民間企業が仲介業を行っている地方競馬や競輪で顕著だったのだが、競艇は競艇で施工者の各自治体ごとの競争が働くのか、中には節間数十万円から数百万円の購入者に向けたキャンペーンを組む競艇場が存在していた。競艇は3日から6日程度の開催を一節と呼ぶので、1週間で何十万何百万円も舟券を買うギャン中を優遇しますよということになる。
これらのキャンペーンが公営賭博の売上回復の一助となっていたのは事実だが、いくら何でも節操なさ過ぎでしょとギャンブル中毒者対策のために規制が入ることとなった。
主に問題視されたのは高額購入者への還元率優待で、これからはいくら購入しようと還元率は変わらず、また還元率自体も1%を上限とするそうだ。
現在最後のあがきとばかりに各競輪投票サイトでは高還元率キャンペーンを行っている。キャッシュバックで差が付けられなくなる前に常連客を確保したいのだろう。
財政再建だの減税だの社会保障の充実だのと、世の中は今日も元気にスローガンを投げ合っている。
しかし、ここで一回、冷水をぶっかけておく必要がある。歳入歳出の問題とは、結局のところどの痛みを誰が受け入れるかという配分問題であり、そこから目を逸らした瞬間に、議論は経済学ではなく宗教儀式になる。
いや、宗教ならまだ筋が通る場合もある。問題は、筋が通っているフリをして自己放尿するタイプの議論が多すぎることだ。
政府の仕事とは、市場が機能するための最小限のルール整備に極限まで縮退させるのが基本形である。
自由市場とは、万能ではないが、少なくとも分散した情報を価格に集約し、意思決定を分権化し、試行錯誤の淘汰を通じて資源配分を改善する装置だ。
価格メカニズムは神ではないが、政治家よりはだいぶマシな情報処理装置である。ここで「だいぶマシ」というのが重要で、政治が介入するたびに知識問題が増幅し、情報の局所性が無視され、結局は官僚制のヒューリスティックが国全体の最適化を代替してしまう。
政治が市場を置き換えようとした瞬間に、見えざる手ではなく、見えざる自己放尿が働き始める。
ここが現実だ。日本は社会保障を手厚くし、再分配を強化し、政府支出を一定以上維持し続ける構造を選んでいる。
つまり、日本社会は競争による淘汰と自己責任の痛みを相対的に抑制し、その代わりに高負担・低成長・制度維持の痛みを受け入れる方向にコミットしている。
これは倫理的に正しいとか間違っているとか以前に、単なる選択の問題だ。経済学的には、トレードオフをどう置いたかという話である。
それなのに、減税だの給付だのを同時に叫び、財源の議論を後で考えると言い出す。これが自己放尿でなくて何なのか。
政府予算制約式という、経済学の最も退屈で最も重要な現実から逃げている。
政府は魔法使いではない。支出を増やすなら、税を上げるか、国債を増やすか、インフレ税で実質負担を国民に押し付けるか、どれかしかない。
これが財政のハード・バジェット制約だ。これを無視して「社会保障は守れ、税は下げろ、景気は良くしろ」と言うのは、制約条件を消して目的関数だけで最適化しているのと同じで、ただの自己放尿である。
リカードの中立命題を持ち出して、増税が予想されるなら家計は貯蓄を増やすから問題ないと言うのは理論的には可能だが、現実には完全な合理性も完全な資本市場も存在しない。
民主主義が持つ時間的不整合性の典型例である。短期の政治的利得と長期の財政健全性が衝突するとき、だいたい負けるのは長期のほうだ。これは合理的期待以前の、人間の仕様である。
さらに言えば、日本は人口動態が財政に対して非常に残酷な国だ。
高齢化は単なる人数の問題ではなく、制度の設計思想そのものを破壊する。
賦課方式の年金・医療・介護は、現役世代が高齢世代を支える構造だが、現役人口が縮み、高齢人口が増えれば、負担率が上がるか給付が減るかの二択になる。
ここで「成長すれば解決する」という反射神経が出るが、成長率を外生的に願望で決めるのもまた自己放尿である。
成長は政策の掛け声ではなく、生産性上昇の結果としてしか起こらない。
生産性は教育、技術進歩、資本蓄積、企業統治、労働市場の柔軟性、規制構造、そして競争環境の積み重ねからしか生まれない。成長を祈るなら、祈祷師より規制改革のほうがまだマシだ。
そして規制改革という話になると、日本社会はまたしても痛みの受け入れを避ける。
競争は勝者と敗者を生む。市場は効率を生むが、分配の不平等を生む。創造的破壊は技術進歩を促すが、既存産業を壊す。
つまり市場主義を採用するとは、失業、賃金格差、企業淘汰、地域衰退といった摩擦を受け入れることでもある。
市場の自由は長期的には社会を豊かにするが、同時に短期的には痛みが出ることを否定していない。
むしろ、痛みを抑えようと政府が価格統制や産業保護をすれば、情報が歪み、非効率が固定化し、成長が止まる。
「政府介入はだいたい二次被害を生む」という経験則に直結する。
日本の政治経済は、競争の痛みを緩和するために、規制を残し、補助金を配り、産業を守り、雇用調整を遅らせ、そして社会保障で受け止める。
つまり市場の荒波で鍛える社会ではなく、制度の堤防で守る社会を選んでいる。
これは日本人の価値観として一貫している。連帯を重視し、格差を嫌い、共同体の安定を優先する。
だから社会保障を充実させる。これは単なる政策の偶然ではなく、社会的選好の表れだ。
経済学的に言えば、日本はリスク共有と保険の厚みを最大化し、効率性よりも安定性を高く評価する社会的効用関数を採用している。
問題は、その選択をしたなら、そのコストも受け入れろということだ。
高福祉・高負担モデルをやるなら、税負担は上がる。労働供給への歪みも増える。企業の投資インセンティブも下がる。潜在成長率も落ちる可能性がある。
さらに政府支出が増えれば、官僚制が拡大し、レントシーキングの余地が増える。補助金や規制の設計を巡って、政治的な取引が増える。
公共選択論の観点では、政府部門の肥大化は利益集団の固定化と情報の非対称性を通じて、政策をますます非効率にする。つまり、痛みは消えない。形が変わるだけだ。
逆に、小さな政府・市場主義モデルを採用するなら、社会保障の給付は削られる。
競争は激化し、賃金格差は拡大し、生活の不安定性が増す。労働市場の流動化が進めば、雇用保障は弱くなる。
ここで「自己責任社会だ、弱者切り捨てだ」と騒ぐ人が出るが、それもまた議論の本質を外している。
市場主義は倫理の議論ではなく、制度の設計の議論だ。保険を薄くして競争を強め、効率を上げ、成長率を取りに行くという戦略であり、それは確かに痛い。
しかしその痛みを通じて、長期的な所得水準の上昇を狙うのが市場主義の論理である。
財政問題は痛みをゼロにする方法ではなく、どの痛みを採用するかの選択でしかない。
増税反対、給付維持、経済成長、財政健全化を全部同時に叫ぶのは、制約を無視して目的を盛り込んだだけの自己放尿である。
しかもその自己放尿は、選挙で票を取るための麻薬として機能する。
国民も政治家も、現実を直視するより麻薬を欲しがる。これは供給と需要が一致しているので、市場原理的には非常に美しい。悲しいことに。
日本が今選んでいるのは、市場主義の荒々しい競争ではなく、社会保障を厚くして安定を買う道だ。
つまり、競争の痛みを減らし、その代わりに税負担と成長鈍化と制度維持の痛みを引き受ける道である。
しかし現実には、政治もメディアも、選択を選択として語らない。
痛みの話をすると嫌われるからだ。だが、嫌われるから言わないというのは、政策論ではなく人気商売である。
政府は善意で地獄を舗装する。善意で制度を守り、善意で給付を増やし、善意で規制を強め、善意で補助金を撒く。
しかし結果として、価格メカニズムは歪み、生産性は落ち、財政は硬直化し、未来の自由度は奪われる。
制度設計とは、人間が利己的であり、政治家が票を欲しがり、官僚が権限を欲しがり、企業が補助金を欲しがるという現実から出発しなければならない。
聖人が統治する世界を前提にした政策は、現実世界ではだいたい破綻する。
だから、歳入歳出の議論でまず必要なのは、幻想を捨てることだ。
概ねその通り。というか「クリエイターが稼いでる」は平均値の罠で、現実は超歪んだ分布。
稼いでるのはクリエイターじゃなくて、正確には
この2つ。SNSで見えるのは上澄みだけで、しかもその上澄みは実際の生活じゃなくて、広告としての生活を演出してる。なぜなら、キラキラしてないと次の案件も次のフォロワーも来ないから。
さらに構造的に、クリエイター市場は供給過剰。参入障壁が低いから、才能以前に人数が多すぎる。結果として労働力の買い叩きが起きる。イラスト、動画編集、作曲、ライター、全部そう。
「好きなことで生きていく」
「才能があれば稼げる」
みたいな形で、労働市場の現実(競争・営業・運・資本)を隠してること。
「クリエイターで稼ぐ」は職業というより芸能界に近いギャンブルなんだよな。成功例だけが宣伝され、失敗者は統計から消える。
出力ユーザーの行動を抑制する効果が薄いという意味では実効性の高いものではないという認識は十分理解はできる
(手元のパソコンにLLMとシステムを全部載せることも可能ではあるから)
ただしその実効性のなさをもって規制が不要であるとするには理由として不十分
商用サービスとしてインターネットで提供するのに「第三者のデータが容易に改変可能」「データが同意なくシステムの動作リソースとして利用されている」状況に一切手をつけなくてもよいとするのは、消費者保護や不正競争の防止の観点からしておかしい
商用提供する企業としての責任を持たせるうえでの規制があったうえで「技術そのものには規制をかける理由がないか実効性がない」と語るならば、まだ技術開発者としての信頼を寄せてもよかったものの、ポストされて以降のテレビ出演等でほぼ商用サービス側の責任について話してない
それを見越して減らしてたってわけ?(ではないよね?)
当然受け入れる社会側も考えないとだろうけどね
気持ちはわからんでもないけど、それ言い出したらアルペンもスキーじゃねえし、大回転とは一見スキーだけどコースバリバリ作ってるし、モーグルは?ってなる。最近だとスロープもある。クロスは競争だしね
ボードはより顕著だわな
選挙マッチングという仕組みは、一見すると民主主義の効率化装置に見える。
質問に答えれば、自分と政策的に近い政党や候補者がランキングされる。
政治を知らない人にとっては入口になり、情報格差を縮める便利ツールにも思える。
選挙マッチングとは、政策選好の測定装置ではなく、選好の生成装置である。
測っているように見えて、実際には作っている。
つまりこれは、統計的インターフェースを装った政治的誘導であり、より正確に言えば工作のためのプラットフォームになり得る。
工作という言葉を聞くと、多くの人は陰謀論を連想して思考停止する。
単に他者の意思決定を、自分に有利な方向へ動かすための設計を意味する。
広告も、マーケティングも、SNSアルゴリズムも、すべて工作である。
そして政治は消費よりも致命的だ。
つまり、政治における工作は、単なる情報操作ではなく、社会の支配構造を設計する行為になる。
しかしマッチングは、質問項目を通じて意見を低次元のベクトルに圧縮する。
ここで何が起きるか。圧縮とは情報の破壊であり、破壊される情報は設計者が選べる。
つまりマッチングは「この国の政治はこの論点でできている」というフレームを強制する装置になる。
政治とは本質的に「何を議題にするか」のゲームであり、「どう答えるか」は二次的だ。
しかも選挙マッチングは、その世界観を「中立な診断テスト」の形で提示する。
中立に見えることが最大の武器だ。これは医療診断の権威を政治に転用した詐術に近い。
人間は「あなたはこのタイプです」と言われると、それを自己理解として内面化する傾向がある。
つまりマッチング結果は、単なる推薦ではなく、アイデンティティの付与になる。
たとえば「格差を是正するために富裕層への課税を強化すべきだ」という問いは、一見公平に見えるが、すでに「格差は是正されるべきである」「富裕層課税は是正の手段である」という価値前提を埋め込んでいる。
問いは中立な容器ではない。問い自体が論理式であり、前提を含む。言語は常に誘導する。質問を作るとは、政治的現実の記述ではなく、政治的現実の編集である。
ここで「いや、回答者が自由に答えればいいだけだ」と言う人がいる。
しかしその反論は、情報理論的に幼稚である。人間の意見は、質問形式に依存して変化する。
フレーミング効果、アンカリング、選択肢の提示順序、否定形の有無、尺度の粒度。
つまりマッチングは、ユーザーの「元々の意見」を測定しているのではなく、質問に曝された後の「変形された意見」を測っている。
しかもマッチングは、最終的に「あなたはこの政党と一致度85%」のような数値を出す。
ここで人間は数値に弱い。数値が出た瞬間、それは客観的事実のように見える。
だがその85%は、設計者が定義した距離関数の結果でしかない。重み付けを変えれば順位は変わる。
質問の重要度を均等にするのか、特定争点を強調するのか。政策一致をコサイン類似度で測るのか、ユークリッド距離で測るのか。曖昧回答をどう扱うのか。未回答をどう補完するのか。
これらの選択は数学の衣を着た政治判断である。数値は政治的意思決定の上に乗っているだけで、政治判断を消し去ってはいない。
選挙マッチングが工作になる第二の理由は、二値化による思考破壊だ。
政治的問題の多くはトレードオフである。たとえば防衛費増額は安全保障を強めるが財政を圧迫する。
移民受け入れは労働供給を増やすが社会統合コストを伴う。規制緩和は成長を促すが安全性を下げる場合がある。
現実の政治判断は、複数の目的関数の同時最適化であり、パレートフロンティアの上での選択である。
ところがマッチングは、これを「賛成か反対か」の単純なビット列に変換する。
つまり政策を理解する能力ではなく、反射神経を測るテストになる。こうして政治が「道徳クイズ」へ堕落する。
利害調整、官僚機構の制御、外交交渉、予算編成、法案作成、危機対応。政策は宣言であり、実務は別物だ。
マッチングはこの現実を完全に無視し、「政策の一致度」という最も分かりやすい幻想だけを見せる。
これは、料理を評価するのにレシピだけを見て、調理人の腕も厨房の設備も無視するようなものだ。
ランキングは、人間の意思決定を強制する。上位にあるものは正しい気がする。これは認知心理学のヒューリスティックであり、探索コストを減らすために人間が採用する合理的なバイアスだ。
マッチングはこのバイアスを利用し、ユーザーの投票行動を数候補への収束に導く。
これが何を意味するか。選挙マッチングは、選挙市場における需要の誘導装置になる。検索エンジンの上位表示が商業を支配するのと同じ構造が、民主主義に侵入する。
そして最も危険なのは、マッチングの背後にある主体が不透明な点だ。
誰が運営しているのか。資金源は何か。質問は誰が決めたのか。政党の回答はどのように取得し、検証し、更新しているのか。候補者が嘘をついた場合にどう扱うのか。アルゴリズムは公開されているのか。重み付けは固定か。ユーザー属性に応じて変わるのか。
これらがブラックボックスなら、それは政治的レコメンドエンジンであり、事実上の選挙介入である。
しかもSNSのように露骨ではない。教育的ツールを装っている分、遥かに強い。
重要なのは機能である。システムが特定方向への誘導を内蔵しているなら、それは工作機械である。
旋盤が意図的に金属を削っているかどうかなど問題ではない。削る機能があるから旋盤なのだ。
同様に、選挙マッチングは意見を削り、争点を削り、候補者を削り、最終的に投票行動を削り出す。これは政治のCNC加工機である。
もしユーザーの回答履歴が蓄積されれば、政治的クラスタリングが可能になる。年齢、地域、職業、関心領域、回答パターンから、政治的嗜好の潜在変数が推定できる。
これは推薦システムの典型的応用であり、NetflixやAmazonがやっていることと同じだ。
すると次に起きるのは、パーソナライズされた政治誘導である。あるユーザーには経済政策を前面に出し、別のユーザーには治安を前面に出す。質問の順番を変え、回答を誘導し、結果を最適化する。
つまり「あなたの性格に合わせた政治プロパガンダ」が自動生成される。これはもう民主主義ではなく、行動制御の最適化問題である。
ここで反論が出る。「それでも政治に無関心な層が投票に行くならプラスでは?」。
だがこの反論は、民主主義を単なる投票率競争に矮小化している。
無関心層を動かすこと自体が善なのではない。どう動かすかが本質だ。
誘導された意思決定は、意思決定ではなく条件反射である。民主主義は、条件反射の総和を集計するための制度ではない。少なくとも理念上は。
選挙マッチングの最大の罪は、「政治とは何か」という理解を誤らせる点にある。
政治は、単なる政策の一致ゲームではない。政治とは、価値観の衝突を制度の中に封じ込め、暴力なしで調整する技術である。
さらに言えば、政治は時間軸を含む。短期の人気政策と長期の持続可能性は対立する。
インフレ抑制と景気刺激は対立する。社会保障の拡充と財政規律は対立する。現実は多目的最適化であり、単一の正解はない。
ところがマッチングは「あなたの正解」を提示してしまう。この瞬間、政治は宗教化する。正解があると思った人間は、対話をやめ、敵を作り、道徳で殴り始める。
そして皮肉なことに、選挙マッチングは中立ツールを装うことで、政治的責任を回避する。
推薦した結果が社会を破壊しても、運営者は「我々はただの情報提供をしただけ」と言える。
しかしそれは、銃を売った者が「撃ったのはあなた」と言うのに似ている。形式的には正しいが、本質的には責任逃れである。推薦とは介入である。介入は責任を伴う。
選挙マッチングは、政治の理解を深める装置ではなく、政治の複雑性を圧縮し、認知バイアスを利用し、意思決定を誘導する装置である。
ゆえにそれは工作である。工作とは「誰かが裏で悪意を持って操っている」という陰謀の話ではない。設計された情報環境が、個人の選択を体系的に変形するという、構造の話だ。
そして現代社会において最も危険な工作とは、強制ではなく、便利さとして提供される。
人は鎖で縛られるより、最適化されることを好む。摩擦のない誘導は、抵抗されない。選挙マッチングが普及すればするほど、人々は自分の政治的意見を「診断結果」として受け入れるようになる。
そうなったとき民主主義は、熟議ではなくレコメンドによって動く。これは政治の消費化であり、最終的には政治そのものの死である。
ニュージーランドという国は南半球の最果てにあるような国であり、日本では未だに「人工よりも羊が多い国」としか認識されていないが、それなりに近代化を果たした国でもある。
かつて原宿にあったクッキータイムスの店舗ではクッキーを売っていたが、現地ではレジの脇で二束三文で売られているひたすらに脂っこいお菓子であり、クッキーなのに噛むと「ジュワッ」とした食感が消化器系を着実に殺しにかかってくる。
さて、ニュージーランドは一体誰の国だろうか、マオリの国だとうか、英国系移民の国だろうか、マルチカルチャであるがゆえに「特に誰か特定の民族の国ではない」だろうか、近年では凄まじ勢いでインド人の国になりつつある。
ワイタンギ条約というマオリ族とイギリスが締結した条約によってニュージーランドは英国目線では英国の植民地となり、マオリ目線では英国の保護のもとマオリの国を保ったと認識している。
これはワイタンギ条約における人類史上最悪の誤訳の一つに数えられる誤訳が英語版とマオリ語版の間にあるからだ。
マオリ語版では「英国王室の保護のもとニュージーランドはマオリの国として維持される」となっており、英語版では「ニュージーランドは英国の植民地でありマオリ族には英国の市民権が与えられる」となっている。
この誤訳は長い間放置されており、問題が完全に民族間のルサンチマンに入れ墨のように入り込んでおり、地域によってはマオリ族による強盗があとを立たない。これは「我々の国に勝手に外国人が来てものをおいているんだからこれは我々のものである」という理屈を振りかざしているから彼らには良心の呵責などは一切ない。
つまり所マオリ族の認識ではニュージーランドはマオリ族のものでありそれ以外は出ていくべきだという人も少なくないし、彼らはそういった論理で度々デモをしている。
日本人にも有名な観光地であるロトルアでは完全に資本主義に屈服したマオリ族が観光客向けに様々なアクティビティを披露しているが、彼らの生活は安定しているが他のマオリからは白い目で見られている可能性もある。
こういった誤訳のあるワイタンギ条約においてもマオリ族の利権はかなり強力なレベルで維持されており、その一つ、ニュージーランドの土地はマオリ族と英国王室の間でのみ売買される、を根拠にマオリ族の許可なしには一切の開発を行うことができない。
ニュージーランドのオークランドが最大歳になっている理由は、ワイタンギ条約締結直後に正式に英国王室がマオリ族から土地を買収したために自由に開発を行えるからでしかない。
ちなみにこのときの売買価格があまりにも安くマオリ族も現地で王室から土地を買う英国商人も全く儲からないことから不満が爆発しマオリ戦争になった。マオリ戦争では末に英国がマオリ族に売りつけたマスケット銃をマオリ族は駆使したが、当時の英国の物量の前になすすべもなく一方的なマオリの敗北となった。
もう一つちなみにだが、マオリ族がマスケット銃を手に入れたことで部族間闘争も更に悲惨な状態になっていったという問題もある。
他にも林業や漁業はマオリ族の専有となっており、マオリ族が捕まえた魚しか店頭に並ぶことはない。そのせいでこの業種で競争が成立しておらず、マオリの最大権益となっている。
ニュージーランドの副首相であるデビッド・シーモアはこのワイタンギ条約に手を付けようとしたニュージーランドでは初の政治家と言っていいだろう。
私の中で悪名高いウィンストン・ピータースもワイタンギ条約自体は「単なる3つの文章が書かれた紙」と要しており価値は認めていないが、手を付けようとしたことはない。
デビッド・シーモアは連立の条件の一つにワイタンギ条約改正を掲げておりラクソンは受け入れざるを得なかった。ウィンストン・ピータースは「議論には出すが人々の良識にかける」とのっけから逃げ腰だった。
彼は「ワイタンギ条約はそもそもイギリスとマオリとの間の条約でありニュージーランドが批准する義務はないのだ」などとも言っており、本心ではワイタンギ条約の破棄、またはニュージーランドとしてワイタンギ条約に批准する責任はないことを法的に確認したいのだろうと言われているが、一番言っていることは「この国はマオリと英国移民だけではなく多数の移民がいる、そんなマルチカルチャのくにで各人がそれぞれ公平に扱われる条約が必要だ」だが、これを信じている国民はいないように見える。
そんなワイタンギ条約が締結された日を「ワイタンギ・デー」という名前で国の祝日にしているが、この日は政治家がワイタンギでスピーチをする。ワイタンギ条約のワイタンギはニュージーランドの地名だ。
その中でスピーチをしたのがデビッド・シーモアという最悪のキャスティングをした今の政府のセンスのなさはもう誰も止めようがないのかもしれないが、彼はスピーチの中で「ニュージーランドを植民地にしたことはマオリにとっても良かった」と言ってしまい、大炎上した。
彼がなぜこんなことを言ったのかはわからないが、マオリ族からしたら植民地になった覚えはないので大騒ぎとなってしまった。
ワイタンギ条約と言ってもわからない人のために軽く経緯を説明すると以下のようになる。
2. タスマンがニュージーランドを発見、当時の乗組員がオランダの故郷であるジーランドにちなんでニュージーランドと命名するも現地のマオリと乱闘になり逃亡
3.ジェームス・クックがニュージーランドに再上陸、今度はマオリとうまく行った
4.英国人が新天地を求めてニュージーランドに移住、この時点でニュージーランドはマオリの国だった
5.英国人が資本主義に疎いマオリ族から土地をだまし取ったりマスケット銃を売りつけて部族間抗争を悲惨にしていく
7. 現地にいる英国人の安全確保や詐欺同然の商慣習に対応するためにワイタンギ条約を締結してニュージーランドを英国の植民地にしてフランスから守った
つまり、マオリからしたら帝国主義列強に完全に巻き込まれているのだがデビッド・シーモアの言い分としては「植民地化したことでニュージーランドの土地が英仏戦争の戦場にならなくて良かったな」なのか「より文化的な生活を享受できてよかったな」なのか’はわからないがこのような過酷な運命に翻弄されているマオリ族からしたら許しがたい一言であっただろうことは間違いがない。
今の政権が年末の選挙で一体どうなるかはわからないが、もうじき選挙が始まるこのような時期に不穏なことを行ってしまえるデビッド・シーモアという政治家には不安しか感じない。適当に耳障りの良いことを言って支持率を集めるジャシンダ・あーダーンのようなことをする必要はないのだが、お前の私的な意見なんか誰も求めていないということを国としてしっかりと選挙結果に表すべきだろうが、そうするといウィンストン・ピータース率いるニュージーランド・ファースト政党がますます力をつけるかもしれないので、もうこの国はどう転んでも同仕様もないところまできた可能性がある。
日本経済の停滞を「需要不足」や「デフレマインド」といった心理現象に還元する議論は、だいたい自己満足の物語で終わる。
問題はマクロの気分ではなく、ミクロのインセンティブ設計と市場の競争構造にある。
成長とは、資源配分の効率化と生産性上昇の結果であって、祈祷ではない。
したがって日本経済復活の鍵は、内向きの保護と規制で安定を買うことではなく、グローバリズムを極大化して競争圧力を最大化し、資本・労働・技術の最適配分を強制的に起こすことにある。
グローバリズムとは、感情的には「外国に奪われる」物語として語られがちだが、経済学的には比較優位と分業の徹底である。
比較優位が働く世界では、各国は自国が相対的に得意な領域に資源を集中し、不得意な領域は輸入する。
これにより総生産が増える。ここで重要なのは、これは「善意の国際協調」ではなく、価格シグナルによる資源配分の自動最適化だという点だ。
国境を越えた競争は、企業の非効率(ぬるま湯組織の怠惰)を破壊し、利潤最大化行動を通じて生産性を引き上げる。
国内市場に閉じている限り、日本は既得権益の温床としての規制に守られ、競争の欠如から技術革新の圧力が弱まる。
これは市場の失敗ではなく、政府の失敗が温存される構造である。
日本が直面している本質的問題は、成長率の低下というより、全要素生産性(TFP)の伸び悩みだ。
TFPは精神論では増えない。TFPが増えるのは、技術進歩、資本深化、そして競争による淘汰が起きるときだけだ。
つまりシュンペーター的創造的破壊が必要であり、その燃料が国際競争である。
国内でゾンビ企業を延命させ、非効率部門を温存し続ける政策は、資源の誤配分を固定化し、成長率を削る。
これは典型的な政治的資本主義、すなわち市場を装った官製配分であり、自由市場とは逆方向の制度だ。
日本の労働市場は、硬直性と内部労働市場の過剰保護によって、人的資本の再配分が遅い。
解雇規制、年功賃金、過剰な雇用保護は、表面的には安定を提供するが、実態は労働移動を阻害し、成長産業への資源移転を遅らせる摩擦コストである。
グローバル競争が激化すれば、企業は利潤率を維持するために組織改革と賃金体系の合理化を迫られ、結果として労働市場の柔軟性が増す。
これは「労働者いじめ」ではなく、労働が最も高い限界生産性を持つ場所へ移動することを可能にする制度改革である。
さらに資本市場の観点でも、グローバリズムは不可避の処方箋になる。
国際資本移動が自由化されれば、国内企業は株主価値と資本収益率を世界基準で問われる。
企業統治の改善、資本コスト意識の浸透、非採算事業の切り捨てが進む。
ここで起きるのは道徳改革ではなく、資本市場がもたらす規律である。
規律とは、企業にとっては不快だが、社会全体の資源配分にとっては必要不可欠な強制力だ。
日本ではしばしば「産業保護」「食料安全保障」「経済安全保障」という言葉が万能の免罪符として使われる。
しかし、これはレントシーキング(政治的に利益を獲得する活動)の温床であり、保護の名を借りた独占の固定化である。
関税、補助金、参入規制は、短期的には国内企業の利潤を守るが、長期的には技術革新を止め、価格を引き上げ、消費者余剰を破壊する。
これは国益ではなく、特定業界の利益を国益と錯覚させる政治的マーケティングに過ぎない。
市場の競争が消えると、品質改善もコスト削減も止まり、経済全体が静かに腐る。
グローバリズム極大化の真価は、輸出拡大ではなく輸入拡大にある。
輸入とは敗北ではない。輸入は、安価で高品質な財を国内に導入し、国内の生活コストを下げ、実質賃金を引き上げる。
ここで「貿易赤字は悪」という素朴重商主義を持ち出すのは、経済学的には前時代的である。
経常収支は貯蓄投資バランスの鏡像であり、貿易収支だけを道徳的に裁くのは会計の読み間違いだ。
また、日本のイノベーション停滞は「技術力の低下」ではなく、インセンティブの弱さとして理解する方が筋が良い。
国内市場で規制と補助金に守られていれば、企業はリスクを取って研究開発するより、政治的ロビー活動で安定利潤を確保する方が合理的になる。
これがレント志向経済の病理だ。グローバリズムの極大化は、この病理を破壊する。国際市場で勝たなければ利益が出ない環境に置かれれば、企業は嫌でも技術投資と経営改革を行う。
日本が復活するには、国内で「再分配を厚くして安心を与える」よりも、成長率を引き上げてパイを拡大する方が合理的である。
成長のない再分配は、結局インフレ税や国債依存という形で将来世代に押し付けられる。
インフレは常に貨幣的現象であり、財政拡張による需要刺激で成長を捏造しようとすれば、最後は貨幣価値の毀損に行き着く。
日本が必要としているのは、マネーの増量ではなく、生産性の上昇である。
日本経済の復活とは「世界市場の荒波に投げ込まれ、勝ち残れる構造を作る」ことに尽きる。
自由貿易、資本移動の自由化、移民・高度人材の受け入れ、規制撤廃、競争政策の強化、企業統治改革。
すなわち市場の価格メカニズムを最大限機能させ、資源配分を最適化し、利潤動機を通じてイノベーションを誘発することだ。
グローバリズムを恐れる態度は、実のところ競争を恐れる態度であり、競争を恐れる経済は停滞を選ぶ経済である。
日本が再び成長するために必要なのは、国内のぬるま湯を温存する政策ではない。
世界市場という冷水に飛び込み、競争圧力を極大化し、創造的破壊を起こし続ける制度設計である。
やることはめちゃくちゃ単純
まず愛国を軸にする
左派だって愛国心ゼロなわけないんだから、そこは共通土台にする
政策は党内で調整すればいい
自民がやってることと同じだよ
ここを徹底的にクリーンにする
それだけでかなり票動く
これだけで自民の受け皿になる
こんな当たり前の設計すらできないで、
自民が強いんじゃなくて、
対抗勢力の作り方が下手すぎるだけ
中道が大敗したらしいという報道を受けてちょっと思ったのが、どうせなら一度完全に崩壊したほうがいいなって。
戦略をもう少し上手くやっていたとしてもただちょっと延命してただけだと思う。
うっすら感じていた古臭さみたいなのが今回の選挙で確信に変わったし、立民は絶対どこかで行き詰まってた。
たぶんこれから起きるのはいずれ来る自民党離れに備えての浮動票の獲得競争。
消費者が支払った代金から、10%に当たる金額を、販売者は消費税として納税している。
なら同じことだろうと思うかもしれないけど、全然違う。
ちょっと前にも書いたけど、消費者が支払った代金からは、家賃、仕入れ代金、人件費、備品、機械等々の代金、広告費なども支払われてる。
その意味では、消費者は、人件費も広告費も法人税も消費税も、支払っているように見ることができる。
ただ、家賃のように当初設定を変えるのが難しい費用はあるけど、人件費や備品代、広告費などは、売り上げに応じて倒産しないように調整できる。
賭けを打つなら増額もできる。
いきなり不景気となったら、借り入れをしたりして、延命を図る。
んだけど、消費税は、泣く泣く大赤字で在庫処分した売り上げからすら、10%を強奪していくのだ。
でもでも、販売者は「10%の消費税分上乗せして」売ってるんでしょ? ってレシート見て聞いてくる人がいる。
違う。
上乗せなんてしてない。
できてない。
「この金額、何があろうと国に取られます」「売れた金額のうち10%のこの金額は、赤字であろうが原価割れであろうが、高利貸しから金借りさせられてでも、国に強奪されます」って書かれてるだけなんよ。
酒税とかタバコ税、ガソリン税あたりは「替えが効かないから、それを買う人は、税金上乗せした金額で買う」し、「その金額で売っても買ってもらえる」から成り立つのよ。
足も早くないし。
でも、「チーズバーガーセット高いから松屋の牛丼で」って、他で代替可能な一般消費財は、「馬鹿正直に上乗せしたら売れない」ので、ギリギリまで安くしないと、そもそも売り上げが立たない。
売れる金額はだいたい決まってんのよ。
ってシワひとつもなさそうなつるっつるの脳みそで、大して考えもせずに偉そうに言ってくる手合いもいるんだけど、それやったら「ソ連みたいにおいしくもないくせに価格だけはむちゃ高い店が一店舗しかない、選択の余地のない縮小経済」に収斂するぞ。
1店舗しか生き残らず、生き残ったその店舗は競争がなくなって何の経営努力もしなくなるから。
買うものなんて毎日ほぼ変わらない、って国なら、消費税は何とか成り立つだろうけど、買う側の自由だけじゃなく、働く側の自由も存在しない、ってのは理解しておくべきだろう。
今の「消費税」に対して、昔は「物品税」ってのがあって、贅沢品に特別に課税されていたわけだが、その当時はその税金を払ってでも買う、という人が存在したから成り立っていた。
限られた人しかしない贅沢品の購入にかけるより、全ての人が絶対にする一般消費財に税金をかけた方が、確実に税収は上がる。
数字上は。
と、東大法学部卒のアホどもは「俺っち、頭いいー」って考えたんだろうな。
お金を、市中で再投資などによって回転する前に、回収してたら、経済は回らねーんよ。
もうね、アホかと。馬鹿かと。
まだそれでも、人件費は計算根拠からさっ引いてくれればまだ何とかなったんだ。
それがないから、人直接雇用すればするほど、納税額が上がっていく「罰ゲーム税」になっている。
しかも頑張って国内の経済を回してる会社には、輸出還付金で戻ってくることもない。
他方、国内の労働力使っていながら、輸出したら納税を免れるって、どう考えてもおかしくねぇか?
どこぞの党が偉そうに宣ってるような「社会保障費が問題」なんじゃない。
財務省のレクを受けて、簡単に丸め込まれた程度の頭の持ち主じゃないかよ w
3%程度なら、まだ何とか経営努力で吸収できただろうけど、10%とかさ。
今は何とかペイみたいなつまらん仕組みで2~3%、手数料で取られるんだから。
これで近い将来、12%,15%,20%って、お前らマジで経済理解してんのか? と。
消費税の税率と、法人税の税率の、国内企業に与える影響違い、理解してるか?
ってことなんよ。
今の仕組みは、小さくて不安定な中小企業を、景気の波の影響から国を守るための緩衝材にしてるんだよ。
そんな中小企業はどんどん潰れろって、どこ行ってもマック、松屋、日高屋みたいな店しかなくて、誰もがそこのパートアルバイトとしてしか働けない、って未来がバラ色の未来か?
規範と実証の分離。政策議論が壊れる典型例(善意で地獄、etc)。
「仮定が現実的か」ではなく「予測精度で裁け」という有名な話。
実物要因と貨幣要因の分離。
公共選択論の導入。
この教科書の特徴は、
バブル崩壊直後の1990年代、日本社会には「豊かさへの違和感」があった。家電は揃い、街には商品が溢れ、平均的な生活水準は世界的に見ても高かった。それでも人々は「心が満たされない」と語った。競争の激化、長時間労働、成果主義の浸透により、豊かさは数字や所有物に還元され、人間関係や安心感は後景に退いたからだ。物質は増えたが、それを分かち合う余白が失われていった。
それから30年。今や日本は、実質賃金の停滞、将来不安の常態化、社会保障への不信という「物質的な貧しさ」に直面している。だが不思議なことに、心は回復するどころか、さらに貧しくなったように見える。理由の一つは、希望の縮小だ。かつては努力すれば報われるという物語が、社会の共通言語として存在した。今はその前提が崩れ、努力は自己責任へと押し返される。結果、人は他者ではなく自分を責め、孤立を深める。
もう一つは、つながりの質の劣化である。SNSは人を結びつけたが、同時に比較と分断を拡散した。承認は数値化され、共感は即時性を求められる。ゆっくり育つ信頼や連帯は、効率の悪いものとして排除されがちだ。物質的に貧しくなった社会では、本来なら支え合いが価値を持つはずだが、競争の論理がそれを許さない。
心の貧しさは、個人の弱さではなく、社会の設計の問題である。物質の量でも、精神論でもない。安心できる未来、失敗を許す制度、評価されない時間の尊重。それらが欠けたままでは、豊かさを取り戻しても心は満たされない。問い直すべきは、何を「成功」と呼ぶ社会なのか、という根本なのだ。
・日本の少子化は東京一極集中で若者が東京に集まりすぎたのも原因の一つになっている。
・婚活アプリは女性よりも男性のほうがユーザーが多くアンバランスな状態で非常に競争が厳しく女性は選べても選ばないので晩婚化がひたすら進むことになる。40歳、50歳未婚の日本に住む女性もいずれ当たり前になると予想。女性の単身者が急増しそう。
ーー
データや傾向から見ると、日本では女性にとって選択肢が少ない環境の方が結婚に結びつきやすい構造があります。理由を整理します。
1.心理的要因
・選択肢が多い → 「もっと良い相手がいるかも」と迷う →決断を先延ばし
・選択肢が少ない →「この人しかいない。他はいない。」妥協点を見つけやすく、決断が早まる
結果として、地方都市や小規模コミュニティでは婚姻率が高くなる傾向
・首都圏は女性優位で選べる環境が多く、独身率が高くなる。若い女性が日本全国から東京に集結する。賃金格差、男女格差、田舎の仕事は現実的ではないと判断されたか。
・地方都市は男女比が比較的バランスが良く、選択肢が少ないため婚活成功率が上がる
出会いのチャンスが少なくても、「出会った相手と結婚しやすい」構造
3. 実際の傾向
婚活市場:選択肢が多いほどマッチングは成立しやすいが、結婚に至る確率は低い
💡結論
婚活戦略としては、地方都市や比較的選択肢の少ない環境で勝負する方が効率的
ーー
再掲
ーー
地方の男女比はある程度バランスが取れていたのに対し、首都圏では男性過多・女性少数の偏りが発生
都心三区は上昇傾向と聞くが他の地域は晩婚化が進んでいて、日本に住む女性は男性が選べても選ばない、永遠に次を探し続けて決断できていない現状がある。こだわりが強すぎ?
1.結婚率の現状
30代~40代の独身男性・女性が多く、結婚に至らないケースが多い
2.出生率の低さ
東京都の合計特殊出生率は全国平均より低め(2025年時点で約1.0台)
原因:
選択肢が多い →独身男性・女性の比率も高い →出会いがあっても結婚に至りにくい
結果として、出生率も低くなる
🔹まとめ
東京は「出会いの選択肢は多いが、結婚・出生率は低い都市」と言える
ーー
💡結論
――米銀シティバンクの在ロンドン金利・為替トレーダーとして、2008年のリーマン・ショック後、低金利の長期化を予測し、大もうけしたとか。
「私はロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)で経済学を学び、トレーダーになったばかりでした。当時は同僚たちも、エコノミストたちも、経済の落ち込みは一時的だとみていました。景気が回復すれば、各国でゼロパーセント近くにまで引き下げられていた金利も徐々に上向いていくというのが市場の予想でした」
「しかし、そんなことはあり得ないと思いました。彼らは末期がんを、季節性の風邪か何かと誤診していたのです。結局、経済の停滞と低金利はその後何年も続きました。金利が上がらないことに賭ける金利先物取引などで、私は年に何千万ドルもの利益を銀行にもたらし、歩合のボーナスで私も億万長者になりました」
――ゼロ金利で経済は回復に向かうものでは。なぜ、危機が長引くと予想できたのでしょう。
「いくら金利が低かろうが、普通の家庭にお金を使う余裕などないと体感的に知っていたからです。私は東ロンドンの貧しい地域と家庭で生まれ育ちました。ドラッグ売買で高校を退学させられたこともあります。カネがなくて穴の開いた靴を履き、地下鉄の料金をケチろうと改札を飛び越えるような友人もいた。多くの知人は仕事もなく、住宅ローンが払えず家を追い出されていました」
「財産を失い、追い詰められている彼らに『金利が低いのに、なぜもっとお金を使わないのか』と問うのは無意味です。人々がお金を使わなければ、経済は回復などしません。トレーダーも経済学者も上流階級出身者ばかりで、理論上の『平均的な経済人』の分析はできても、庶民の暮らしや経済の実態を把握できていませんでした」
――一方で、株式や不動産といった資産価格はかなり上がりましたね。
「私は大富豪と仕事をしてきたのでよくわかりますが、彼らは有り余るカネを消費しきれず、不動産や株、金などの資産を買いあさる。それも、低金利のマネーで元手を膨らませて。富豪はブラックホールのように社会の富を吸い上げ、あらゆる資産価格をつり上げ、その結果、ますます豊かになりました」
「そのあおりで、庶民は家も買えない社会になってしまった。社会の資源をめぐって、富豪たちは庶民のあなた方と競争しているわけです。土地も、食料も。そして『専門家』とされる賢い人の労働力もです。確かに私は小金持ちにはなりましたが、それは、大金持ちがもっと大金持ちになるのを助けたからです」
「欧米に比べれば、中間層が厚い日本はまだマシです。庶民のための質の良いレストランもホテルもたくさんある。しかし、このまま不平等が拡大すれば、超高級か超貧相か、その両極端のサービスしかなくなっていくでしょう」
「格差は一度広がりだしたら止まらず、放っておけば、いずれ極限まで行き着きます。インドやアルゼンチン、ブラジル、南アフリカをみてほしい。英国も日本も、そうならない保証はありません」
――心のバランスを崩し、トレーダーの仕事を5年あまりで辞めましたね。
「私は東日本大震災でも金利の取引で大金を稼ぎました。トレーダーとしてはやりきったという思いと、人々の生活が崩壊し、将来が悪くなることに賭けてもうけるのはもう十分という気持ちもありました。大学院に通い、経済解説の仕事を始めました」
「私の父は郵便局員でした。早起きして電車で通勤し、夜遅くまで働き、疲れ果てて帰ってきた。その父の年収の何倍もを、私は働きだしてすぐに稼ぎました。それは良くないことだと思う。もっとも稼ぐべきなのは、もっとも社会に貢献した人のはずです」
「トレーダーのような『おいしい仕事』にはコネが必要で、ほとんど金持ちの子女しか就けなくなりました。政治家もそうです。格差はいずれ、どれだけ優秀か、どんな仕事ができるか、どれだけ働くかではなく、『親が誰であるか』が唯一の要因になっていくでしょう」
「すると、優秀な人にすら仕事が回ってこなくなります。社会のためではなく、富豪のために財産を管理することが、賢い人の主な仕事になる。貧しい人からカネを巻き上げ、金持ちにさらに集中させる仕事です」
――大富豪といえば、トランプ米大統領と一時は蜜月関係にあった起業家イーロン・マスク氏をどう評価しますか。
「政治権力やプラットフォームも含めて、全てをカネで買い占めようとした彼の存在は、大富豪がいかに社会に有害かを典型的に示していると思います」
「彼らは人々がこの構造に気づき、団結するのを恐れています。トランプが関税を連打し、マスクが欧州の右派に肩入れし、そして2人とも移民の危険性を喧伝(けんでん)してみせるのは、『問題は自分たちの内側ではなく外国にある』と人々に思い込ませたいからです」
――米国では大富豪がメディアを手中に収める動きが目立ちますね。
「メディアには二つの種類の仕事があります。人々に真実を伝えるか。あるいは、金持ちのために、彼らが人々に信じ込ませたいストーリーを流すのか。後者を買収する力を富豪は持っています。(米FOXニュースを立ち上げ、米紙ウォールストリート・ジャーナルなども傘下に収めたメディア王)ルパート・マードックや(米紙ワシントン・ポストを個人で買収した米アマゾン創業者)ジェフ・ベゾスをみてほしい」
「残念ながら、今のままでは不平等は拡大し、資産価格だけが上がり続けるでしょう。だから、私は個人では金や株を買っています。しかし、それと同時に人々の生活は破壊され、排外主義が高まってゆく。ファシズムにつながっていった1930年代と今との類似点を見いだすのは、歴史の学生でなくてもできることです」
――反転のすべは残っていないのでしょうか。
「とりわけ米英では金持ちが税制で優遇され、相続税の負担が軽いため、世代を越えて不平等が固定化されてしまっています。手っ取り早い処方箋(せん)は富裕税です。労働所得への課税を軽くし、資産に重い税を課すのがポイントで、それなら優秀な人の国外流出も招きません」
「英国のフードバンクを訪れたとき、最も貧しいであろう人々が、ウクライナ向けの支援物資をせっせと箱詰めしていました。たとえほんのわずかしか持っていなくとも、人々はより良い未来のために団結し、声を上げ、働けるということです。今とは違う未来があると示すことが、これからの私の仕事だと考えています」
Gary Stevenson 1986年、英国の東ロンドン・イルフォード生まれ。ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)を経て2008年に米シティバンクの為替・金利トレーダーとなり、ロンドンと東京で勤務。14年に退職後、英オックスフォード大で経済学修士。ユーチューブに経済解説チャンネル「Garys Economics」(ギャリーの経済学)を立ち上げ、登録者数は約153万人。24年に出した自伝が英国でベストセラーとなり、邦訳「トレーディング・ゲーム 天才トレーダーのクソったれ人生」(早川書房)が25年に出版された。
https://digital.asahi.com/articles/ASV264FQ0V26ULFA02HM.html
「減税」合戦、その先は自己責任社会でいいのか 奪い合わない選択は
NPO法人POSSE代表理事・岩本菜々=寄稿2026年2月7日 9時00分
だが、こうした状況に対して、社会の多くの人は無関心である。それどころか、権利を要求する生活保護受給者をたたき、切り下げを積極的に支持していくような雰囲気すらある。こうした世論があるからこそ、国が司法の判断を軽視することが可能になっていると言ってもよいだろう。物価高騰にともなう社会全体の貧困化は、賃上げや社会保障の拡充要求へと向かうのではなく、むしろ「自分たちの生活を守るために他者を切り捨てる」という意識を広げているように思われる。
これを象徴するのが、現在行われている選挙で各党が掲げる「減税」合戦である。たしかに減税を行えば、多少なりとも手取りは増えるかもしれない。しかしその結果として社会保障が削減されることになれば、よりいっそう自己責任が強化された社会が待っている。
昨今の選挙では、外国人が社会保障に「ただ乗り」し、日本人の納めた税金を奪っているという主張や、高齢者の医療費負担が若者の生活を圧迫しているといった主張が人々の共感と支持を得ている。
私たちはこのまま、自分の生活を防衛するためなら他者を切り捨てることもいとわない、冷たい社会へとつきすすんでいくほかないのだろうか――。本稿では生活保護切り下げや「減税」合戦がもたらす現状を分析し、そこから抜け出す可能性を考えていきたい。
上がり続ける物価、夏場は生きるのがつらい
いま、私が代表を務めるNPO法人POSSEも含む支援団体で行っている生活相談会では、生活保護受給者からの相談が急増している。全国の支援団体や弁護士が連携し年3回開催する「なんでも相談会」の埼玉会場では毎回食料配布を行っているのだが、この2年ほど、生活保護を受給している人が食料を求めて列に並ぶことが増えてきた。
たとえば、25年春の相談会では、生活保護費と年金で生活する80代の夫婦が、朝早くに訪れた。2人は、生活保護費が足りず、食事を十分に取れずに痩せ細っていた。特につらいのはエアコン代のかかる夏場だという。電気代を払うと食費が足りなくなってしまうため、1日1食、安いせんべいを買って水に溶かして食べて空腹をしのいだり、コッペパンを3等分して食べたりして乗り切った。妻は、ひと夏で体重が4キロ落ち、夫はレタスもかめないほど衰弱してしまったという。
生活保護費が足りずに亡くなったと思われる方も出てきている。生活保護引き下げ違憲訴訟の集会では、生活保護を受ける当事者から「エアコンが使えず、生活保護を受給していた仲間が熱中症を発症して亡くなってしまった」という報告を、昨年だけで2回聞いた。亡くなったうちの1人は東京に住む女性で、もう1人は神奈川で生活保護裁判の支援もしていた男性である。
5年ほど前までは、失業した人や、病気で働けない人も、生活保護につなげばなんとか命を守ることができた。だからこそ、相談会でも「生活保護につなげる」ことが一つの目標だった。しかし、生活保護の減額が維持されたまま、物価が上がり続けていることで、生活保護を受けても生存が守られなくなりつつある。
セーフティーネットが十分に機能しない社会では、生活を維持するためには、ひたすら自己責任で働き続けなければならず、ひとたび病気になったり、高齢により就労が難しくなったりしたら、途端に死への恐怖と隣り合わせになる。その残酷さを、日々現場で実感している。
選挙で繰り広げられる「減税」合戦は、こうした状況に拍車をかけている。この数年は、減税による「現役世代の手取り増」が焦点化されてきた。この主張は、一部の政党の公約では、外国人や高齢者などへの社会保障削減と表裏一体の形で展開され、人々の支持を集めてきた。
たとえば、国民民主党や日本維新の会は、現役世代の保険料負担を軽減すると同時に、高齢者の医療費負担の引き上げを公約に掲げている。さらに、参政党は「終末期における過度な延命処置に高額な医療費をかけることが国全体の医療費を押し上げる要因の一つとなっている」として、尊厳死の法制化を公約に掲げているほか、外国人への生活保護の支給停止も訴えている。
大胆な減税への要求と、「税金を食い潰している」として高齢者や外国人などを攻撃する排外的な主張が支持を集めるなか、高市政権下ではすでに、様々なセーフティーネットの切り下げが検討されている。たとえば厚生労働省は、高額療養費制度の見直し案として、所得に応じて27年夏までに自己負担の月額上限を7~38%程度引き上げる案を提案している。さらに25年12月には、維新と自民党が、市販薬と成分が似ているOTC類似薬について、約1100品目について25%の患者負担増とすることで合意した。
減税合戦がエスカレートすればするほど、「次は誰を切り捨てるか」ということが問われ、不断に排除と分断が生み出されていく。
なぜなら、法人税増税、富裕層増税などが実現されないまま減税によって貧困を克服しようとすれば、「では、どの支出を削るのか?」という問いは避けられないからだ。そうした構図の中で、排除の線引きが、「外国人労働者」「高齢者」「難病患者」など、様々な形で引かれていく。
この構図を見て私が想起したのは、21年に大流行したNetflixドラマ「イカゲーム」だ。
様々な理由で多額の借金を抱えた貧者たちがデスゲームの会場に集められ、賞金を目当てに殺し合いをさせられるという物語。死者が増えるたびに生存者に割り当てられる賞金の額が増えるため、参加者たちは、自分自身や自分の家族を守るため、「自主的」にゲームに参加し、参加者同士で裏切り、殺し合う。その様子を、上から超富裕層が楽しげに見物しているが、ゲームの参加者は彼らの存在に気がつかない。
限られた財源の負担と配分をめぐり、人々は他者を排除し、少しでも自分の取り分を得るという競争に巻き込まれてしまっている。今の日本の政治状況は、まるで「イカゲーム」の世界がそのまま現実になっているかのようだ。
多くの人が、他者への分配を減らすことで減税を実現することが、自分の生活を防衛する唯一の方法であると思わされてしまっている。しかし、本当にそれしか方法はないのだろうか。「イカゲーム」ではシリーズの後半、主人公が参加者を説得して味方につけ、ゲームの主催者に闘いを挑むことで、ゲームそれ自体を終わらせようとする。
他国に目を向ければ、現実の世界でも、社会の99%を占める労働者が連帯し、富を独占する1%に闘いを挑むことで、富と貧困が同時に拡大する社会にNOを突きつけ、誰もが生存可能な社会をつくろうとする試みが広がっている。
たとえば、25年の米ニューヨーク市長選では、イスラム教徒で移民であるゾーラン・マムダニ氏が当選した。彼は、富裕層への増税を行い、その財源で幼児教育の無償化・市営バスの無料化・家賃の値上げ凍結などを実現するという主張を掲げ、貧困化する労働者層の支持を得たのだ。その背後には、若い世代を中心とする10万人近くの選挙ボランティアによる、地道な個別訪問による説得があった。ボランティアらは、生活苦のなか、敵対の構図は「白人労働者」vs「移民労働者」などではなく、「99%の貧しい労働者」vs「富を独占する1%の富裕層」なのだと、有権者に語りかけたのだ。
こうした動きは、アメリカ全土で広がりを見せている。25年10月にあった「NOKINGS(王はいらない)」デモは、「NOKINGS NO BILLIONAIRES(王はいらない、富裕層はいらない)」をスローガンに掲げ、主催者発表によると全米で700万人を動員したという。
労働組合を結成し賃上げを求める闘いも広がっている。アメリカのスターバックスでは、550店舗で働く約1万2千人が労働組合に加入し、CEOが平均的な労働者の6千倍近くの報酬を得ていることを批判し、賃上げを要求している。さらに、ニューヨーク市の複数の私立病院では、26年1月12日から看護師計約1万5千人がストライキに突入した。現場となった病院の一つでは、CEOが年間でおよそ2630万ドルもの報酬を受け取っていた。看護師たちは、賃上げや人員の確保を要求し、現場で働く労働者と地域住民のために富を使うよう経営陣に迫っている。
日本でも26年2月2日、減税合戦が繰り広げられる選挙戦のただ中で、「非正規春闘」の開始宣言が行われた。これは、労働者が様々な差異を乗り越えて連帯し、利益を分配しない企業や富裕層に対抗していくという世界の運動の流れをくむものだ。
今年の非正規春闘では、非正規雇用労働者を組織する35の労働組合が、160社、10自治体に対し賃上げを求める方針だ。日本企業がため込んでいる利益である内部留保が過去最高となる一方、社会を支えるエッセンシャルワーカーは低賃金でこき使われている。こうした状況に対抗するべく、10%以上の賃上げを求めて非正規労働者らが連帯し、交渉を始めたのだ。
記者会見には、保育士・語学講師・飲食店アルバイト・出版流通で働く労働者など、会社・職種・国籍の垣根を越えた非正規労働者たちが集まり、非正規雇用労働者全体の底上げを求めていく決意が語られた。
貧しい者同士の分断があおられ、誰もが目先の手取りに関心を奪われている日本社会で、仲間とつながり、賃上げや社会保障の拡充を求める連帯を地道に広げていくというのは、困難な道のりかもしれない。しかし、こうした取り組みを広げていくことが、誰もが手取りの減少におびえ、生活苦が進むほど財源の負担をめぐって互いを蹴落とし合うという絶望的なゲームから抜け出す唯一の方法だと、私は思う。
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