
はてなキーワード:童謡とは
星は個人的な好みを表したもので作品への評価ではないです。アニメ会社とか声優はよく分からんので。
好みの星はたぶん見ていくうちに変わるし変えてる。自分と違ったとしたら「こいつとは趣味があわんな」くらいのレベルで見てください。
小さい頃から共に暮らす天才女性科学者と将来を誓い合ったが、ある事件に巻き込まれてコールドスリープ。
この世界では人数や性別関係なく一緒になれる(結婚のような)、"エルシー"という制度があるらしい。ネットミームになりそうでならないワード。
最初の方は敵も味方も容赦ない行動をしてたのが好きだったけど、途中から落ち着ていてる気もする。自分の中では右肩下がりです。
出てくる女の子キャラはみんなかわいい。アモル可哀想すぎじゃないですかね。
韓国の小説及び漫画が原作。製作は中国アニメ会社。よくあるケースだけど、これは言われないと分からないかも。
未来視の能力を持つお姫様が主人公。赤ん坊ながら夢で父親に追放されるという未来を見てしまう姫様。
9才のあの日、父に出会って暗く辛い人生になるはずだったのに、まさか5才の今、会ってしまった。
姫の行動で以前に見た未来が変わっていく・・?姫がかわいいんよ。
実は転生モノなこともあり、こういうタイトルなんだけど、アニメでは転生の説明や描写がないのでタイトルが訳分からんことになっている。
初回1時間で3話分放送。テンポはえー。日本のテレビ放送向けに編集してる感じ。次回予告は映画の予告くらい尺を取った編集。
9話では14才になる。
容姿端麗でクールで仕事が出来そうな女性だけど実はコミュ障で不器用。
あえて周りから壁を作るような態度を作っているのだが、新人男性社員の教育係になる。
不器用から出るぶっきらぼうな態度。その後に反省する姿がかわいらしい。けど面倒くさい先輩だなあとも思う。
先輩は心を許している相手にはつい方言(九州弁)が出る。ちなみに原作漫画作者は大分出身。
OPはangela 実はOPの最後は1話から少しずつかわってて、二人の距離がだんだん近づいているという表現になっている。
そんなコンプレックスを持ちながら、幼馴染でイケメンの同級生男子に恋心を抱く。
友達以上の感情なんだけど、友達より先へは進めない。友達だからトモダチ・・・でも・・・なんとももどかしい。
夏アニメでいうと温度的には「ブスに花束を」か。感情を言語化するのが上手だと思う。
札幌が舞台。原作者も札幌市在住。なので登場するコンビニはセイコーマートです。
OPは秦基博。デビュー20周年おめでとう。毎回CM明けのアイキャッチが面白い。
主人公席(外窓側一番後ろ)ではない。香川さん怒るともう百姓貴族の荒川弘なんよ。
不器用かつ不幸体質でいつもどこかを怪我する矢野くんと、そんな矢野くんが心配で見守り、あ、これもう私好きじゃんと自覚する委員長のお話。
矢野くんを献身的に支える真っすぐな吉田さんが愛おしい。あとリアクションが面白い。
座席は主人公席ではない。窓際に居ると蜂の大群に襲われるらしい。
お、え、あれ?まだ6話なのに・・・おめでとう。
最近はクマが怖いので海辺キャンプが多い私です。先日私もふたりキャンプデビューしました。いいものですね。
女性輪行キャンパー現る。雫とのライバルキャラですね。厳の夢、キャンプ場造りについてが語られることが増える。
14話は青野原 野呂ロッジキャンプ場。本編冒頭で分かりやすく名前が出てる珍しいパターン。
16話は山梨の黒坂オートキャンプ場。最初はあんなにツンツンしてたのに。もうめっちゃ仲いいやん。
19話、ソロキャンでは浦山口駅近くの橋立川キャンプ場、ふたりソロキャンプでは田貫湖キャンプ場。20話も。やっぱり富士山が見える湖畔はいいですね。
22話と23話、ナラ入沢渓流釣りキャンプ場 修羅場キャンプが始まった。お兄ちゃん・・・
名前から想像できると思うが、妖(あやかし)が存在するアニメ。
周囲で起こっている事件を解決していくというミステリー要素がある。
廻船問屋、薬師問屋、手広くやっている「長崎屋」の若旦那が主人公。
夏アニメでは鬼人幻燈抄が好きだったので、こういった時代設定とストーリーは助かる。
通常は食べると体調に影響が出てしまう魔獣。そんな魔獣を美味しく食べちゃいましょう。グリル厄介アニメ。
懇親会の最中に突然魔獣が出てきて「おいおいマジかよ」とか思ったけど、
我々のいる現実も、街中でイベントやってて突然に熊が出てきてもおかしくない世の中になってきましたな。
ストーリーよりも食を楽しむアニメかな。3話分くらい竜で飛びっぱなしなのは笑った。まーだ飛んでる。まーだ降りないんだ。って。
フラッシュアニメみたいな感じ。肝心のメシは写真でも登場する。どれも美味しそう。
最初は15分アニメでいいのでは?と思ったけど全然気にならない。あっという間に終わる。
OPはMegaShinnosuke。本名らしい。EDはサバシスター。
EDに登場する看板が「SABASISTER」「スナックななこ(ななこお姉さん)」「双葉寿司(双葉社)」など、この作品やクレヨンしんちゃんに関係するものになっている。
開始1秒で婚約破棄される貴族令嬢スカーレットが本作の主人公。
汚名を着させられ悪役令嬢と呼ばれ、婚約破棄されてた子は普通「かわいそう・・」となるのだが、この令嬢も暴力的でヤベー女だった。
やはり暴力・・・・‼暴力は全てを解決する・・・・‼。嫌いな奴はボンボコボンボコ、スカッとスカーレット。
見てて体感時間早い。これもアクセラレーションの力なのか。OPはCHiCO with HoneyWorks
今作は通常10才になると女神の祝福により職業とそれに適したスキルが与えられるという世界。
だがしかし、主人公にはそれが無し。つまり無職だったと。でも努力の天才で、努力で本来得ないはずのスキルをラーニングしてく。
5話では剣神杯で優勝し、無職ながら剣ではかなり強くなった。次は魔法だ。7話からは魔法学院編。
製作が「わたたべ製作委員会」ということなので「わたたべ」が略称らしい。
前期までSummerPocketが瀬戸内海だったが、今シーズンは今作が瀬戸内海アニメだ。
死にたがり主人公に集まる妖怪との百合アニメ。百合スキーな人にはいいアニメなのかな?
協力に愛媛県、伊予市、松前町、伊予鉄グループ、伊予農業高校などなど
4話はEDは特殊ED。本編とおまけとEDが風邪ひきそうになるくらいの温度差。
8話のEDはあやめの過去を映し出す特殊ED。11話は汐莉をメインとした特殊ED。
サンタクロースおじさんにも変身できる、色々と設定が斬新で、子供における我々の"あたりまえの環境"が当たり前じゃない世界。
BEASTARSと同じ作者ということもあり、BEASTARSのグッズがちょいちょい登場する。
男女の制服に違いがないこと、小野がどうして消えたのか、基本的に眠らない子供たちなど。5話でいろいろと明らかになる。
韓国の学習漫画が原作。昨年10月から今年の3月にかけて2クール分放送していた。
それの第2シリーズ。まさかのOPとED変らず。(OPの絵は少しだけ変わってる)
また、サブタイトルが以前は「その1」だったのが、「その1(全3話)」と分かりやすくなっている。
さて、今回はお詫びと訂正なしで完走できるだろうか。
テーマは水不足、巨大地震、干潟。巨大地震回においては冒頭に震災に伴うPTSDに配慮したメッセージが入る。
9話の干潟のサバイバルが終わった後は第1シリーズの再放送になった。
1年・・いやもう約2年ぶりの2期。エッチなやつです。
普通の男子高校生が元々異世界人の幼馴染を追いかけて異世界転移。
異世界の脅威に対抗すべく、5人の姫と結婚し、光・火・水・風・土の5つの指輪を手に入れる話だった。
もうあんまり覚えてないが、ただひたすらエロかったことだけは覚えてる。AT-Xや配信では丸見えバージョンがある。
そういや1期は新キャラが登場して終了だったなー。もう5人の姫と一緒になってるし、これから何するんだっけ。
継続2クール目。OPとED変更。OPはshallm。今回のOP好き。
EDは平手友梨奈の「失敗しないメンヘラの育て方」なんだこのEDのタイトルと歌詞w歌手や作品にあってると言えばそうかもしれんが。
いよいよサツキの複雑な家庭環境に踏み込む。そしてサツキの心も動き出す。
これも登場人物の全員の性格あんまり好きじゃないんだけど、心理学的に中々見逃せない。
見ていて息苦しいんだよなぁ。それだけに何か物事が解決した時に流れるいつもの曲が好きになる。
あーでも昔のトレンディドラマってこんな感じの面倒くさいの多かったかもなー
なんだかんだで終盤に行くにつれて収まるところにおさまっていく感じがホッとする。さすが2クール使っただけはある。
前シーズンでいう『勇者パーティーを追放された白魔導師、Sランク冒険者に(略)』がダメだった人はダメだろう・・
終末後の日本を、EV化したヤマハ・セローで2人旅ツーリング。
開始は終末より週末って感じの始まり。ガソリン453円、EVは110円、H2は281円の時代。
と思ったらタイトルが出てきたくらいから説明なしでいきなり終末になった。
戦車が暴走して襲ってきたり、女の子がアンドロイド(?)ミルキーハイウェイのマキナよろしくビームぶっぱなしたりで思ってたのと違う。
最初の情景からここまで一体なにがあったのか。どれくらい経ったのか。何故この二人しかいないのか。
船が山の方まで運ばれる程の何があったのか。時折見る昔の景色は本人の記憶なのか。それ以外の人の記憶なのか。土地の記憶なのか。謎が多い。
童謡や民謡が歌われることがある。箱根では「箱根八里」横浜では「赤い靴」横須賀では「横須賀市歌」、台場・有明付近では「鉄道唱歌」、
秋葉原では「てのひらを太陽に」、木更津で雨が降った時は「あめふり」、つくばでは「Twinkle, Twinkle,LittleStar」、大谷では「牛若丸」
現代だし、一応フシが望んだ?世界になったわけだし、みんなが生き返って集合したし、
今までのシーズンとは違ったテイストでスタート。3話目で狂ってきた。やっぱりこうじゃなくっちゃ。
スーパークリークと武豊が走った菊花賞の話も出るのね。スーパークリークといえば有馬記念はどう書くのだろう。
EDはオグリとタマモのデュエット曲。いいっすね。上手ですね。どこかの歌手かと思った。
2025年8月12日放送のマツコの知らない世界でこのアニメが紹介されたんだけど、マツコさんには刺さってなかったっぽいなー
オグリキャップドンピシャ世代で有馬記念では号泣してたみたいだから、この機会に見て欲しかったなー
ゾーンの演出いいな。ベルノも自ら走ってオグリを徹底的に研究するの好き。
相変わらず登場キャラクタ全員いいな。ウマ娘も人も。この少ない話数でこれだけ多くのキャラクタに話を持たせて好感持たせるのは熱いし好き。もうみんな好き。
仮面ライダーに本気で憧れ、体も本気で鍛え上げた。
ショッカー強盗が流行っているこのご時世。まさに目の前でもそれが起こっていた。
悪は見逃せない。屋台で買った仮面ライダーのお面をかぶり、ショッカーの前に立ちふさがる。
その時不思議な事が起こった
あー好きですね音楽もいいですね。原作曲のアレンジもいいですね。やっぱ好きなものに異常に取り組む人の話に弱いね、私。
OPはTeddyLoid feat. Shigeru Matsuzaki acceleratedby TOPHAMHAT-KYO。松崎しげるおるんかい。
最近でいうと「男女の友情は成立する?(いや、しないっ!!)」くらい面倒くさい恋愛アニメ・・・と思ってたけど
3話でやってること終始ドン引きだったんだけど。ちょっと受け入れられないなこれ。
まぁサブタイに「俺だけがウザい」とあったが。それにしてもだ。
OPアニメーション、ほぼ全てパロディネタ。さて、君はどれくらい元ネタを知っているかな?
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書ききれないので続きはこの下へ
この童謡の根底にあるのは、「追う者と追われる者」という不健全な構図です。女性が森でクマに遭遇し、「逃げなさい」と言われたにも関わらず、クマは執拗に追いかけてくる。結果としてクマが落とし物を届けに来たという結末ですが、これはストーカー行為を美化し、子どもたちに不必要な恐怖と、不適切な男女の関わり方を無意識のうちに刷り込んでいませんか?
現代社会において、一方的な追跡は決してロマンチックな出来事ではありません。また、「お嬢さん」という言葉も、時代にそぐわない固定的なジェンダー観を助長しています。
子どもたちの歌は、安全と平等を教えるものであるべきです。この歌のように、恐怖を和解でごまかし、「追跡」を無害化するようなメッセージは、現代の教育方針に逆行しています!
私たちは、もっと多様性を尊重し、相互理解を促す、新しい童謡を積極的に推奨するべきです。表現の自由は大切ですが、子どもの安全と健全な発達を守るために、私はこの童謡の公的な場での使用禁止を強く訴えます!
世界的にバズったフィットネスチャレンジに「BringSally UpPush Up Challenge」というものがある。
これは刑事ニコラス主演の「60セカンズ」のOPで使用されたMobyのFlowerの楽曲にあわせて腕立て伏せをするというもの。
この楽曲は「BringSally Up and BringSally Down」という歌詞を3分間ほぼ延々と繰り返すため、「BringSally Up」で挙げる、「BringSally Down」で下げるを繰り返すことで腕立て伏せが楽しくできちまうんだ!というバカクソキツいトレーニングチャレンジである。途中にちょっとした歌詞や間奏が差し込まれるため、プランク的なキープ力、アイソレーション刺激が求められるうえ純粋に30回くらい歌詞が繰り返されるので普通にキツい。
で、このMobyのFlowerなんだけど歌詞がよくわからない。
よくわからないっていうのは「文学的すぎてわからない」「パリピすぎてわからない」という内容の話ではなく、サイトによって書かれている歌詞が違うのである。
例えば「Moby -Flower」で検索するとGoogle君が出してくれる歌詞では「GreenSally Up andgreenSally Down」となっている。しかし他のサイトを見ると「BringSally Up and BringSally Down」と表記されていたりする。
「Greensally UP」勢のサイトのほうが若干公式臭が強いので優勢に感じられるが、Mobyの本場で流行ったはずのチャンレンジは「BringSally UpPush Up Challenge」となっている。本場の人間がこんな歌詞間違いするか?という話である。
なので、本場の人間に聞いてみたところ「正式にはGreensally UP。そもそもGreensally UPって童謡があってMobyはそれをサンプリングして曲を作ってるから間違えるわけないんだよ。じゃあなんでBringSally Upチャレンジになったかっていうと、日本で言う空耳アワーみたいなもんで身体(sally)を持ち上げろ(Bring up)でゴロがよかったからだね。日本ではBringSally Upが正式な歌詞だと思われてるんの?ウケるねハハッ」とのことだった。
聞いてみればなるほど納得である。
盗み、踏みにじり、食い散らかし、平然と笑っている。
ファジアーノ岡山が今年、ようやくJ1にたどり着いた。
地方クラブがどれほどの苦労を経てその舞台に立つのか、都会の人間にはわかるまい。
童謡「桃太郎」のメロディーに乗せ、「おーかやまです」と繰り返す、ただの自己紹介。
それを笑うな。
FC東京サポーターは臆面もなく岡山のチャントを剽窃し、くだらない替え歌に変えた。
「とーきょうです とうきょうです。
みなさんご存知 とうきょうです。
緑が嫌いな とうきょうです。」
岡山の祈りは、東京の「ダービーごっこ」を盛り上げるための道具に成り下がった。
これが東京だ。
いつだってそうだ。
地方が血と汗で積み重ねたものを、都会は奪い取り、都合よく加工し、笑いながら消費する。
悪びれもしない。
盗人猛々しいにも程がある。
地方の文化を奪って踏みにじりながら「リスペクト」と言い張る。
都会は地方を食い物にして肥え太り続ける。
若者を吸い上げ、労働力を奪い、資源を根こそぎ収奪し、文化をパロディーのネタにする。
それでも都会は言うのだ。
どこまで傲慢なのか。
地方の祭りも、方言も、食も、キャラクターも、都会にとっては「面白ネタ」でしかない。
地方の人々が命をかけて守ってきた文化を、都会は消耗品として浪費する。
「悪気はなかった」「盛り上がったんだから問題ない」「むしろ喜んでいるはず」。
奪う側の鈍感さと、奪われる側の悔しさ。
その非対称が、日本を歪ませ続けている。
はっきり言おう。
これは搾取だ。
これは侮辱だ。
これは暴力だ。
東京が岡山のチャントを盗んだのは、地方に対する精神的植民地支配の表れだ。
奪われ、笑われ、踏みにじられ、それでも「都会に取り上げてもらえた」と喜ぶフリをするのは、もうやめるべきだ。
怒りを隠してはいけない。
「ふざけるな」と叫ぶことだ。
笑いながら、当然のように、恥もなく。
だが、地方はただの遊び道具ではない。
文化は奪われるためにあるのではない。
岡山の歌は岡山のものであり、東京が好き勝手に踏みにじっていいものではない。
地方は怒れ。
牙をむけ。
都会の偽善を叩き壊せ。
文化の剽窃を行い、「喜んでるからいいだろう」と、地方を抑圧するのだ。
ファジアーノ岡山というJリーグクラブが今年、悲願のJ1リーグに初進出した。
岡山という街を知ってほしいと声高らかに歌うのが、「おーかやまですおかやまです」という、郷土の誇る桃太郎をモチーフにした「桃太郎チャント」である。
童謡「桃太郎」のメロディーに合わせ、岡山を繰り返し名乗るその歌は、自己紹介であり、地方クラブの誇りであり、17年にわたり歌い継がれてきた伝統である。
このチャントが全国的に注目を浴びたのは、ファジアーノが初めてJ1の舞台に立ち、多くの人々が「岡山」という名を目にするようになった2025年のことであった。
地元のサポーターにとって、それは「ようやく届いた」という感慨を伴う瞬間であった。
ところが、その誇りが即座に都会の「消費」の対象となった。
2025年9月15日、東京都の味の素スタジアムで行われたFC東京対東京ヴェルディの「東京ダービー」において、FC東京のゴール裏から響いたのは、なんと「桃太郎」のメロディーに乗せた替え歌だった。
「とーきょうです とうきょうです。
みなさんご存知 とうきょうです。
緑が嫌いな とうきょうです。」
岡山が「知ってほしい」という切実な願いを込め、長年歌い続けてきたチャントは、東京のサッカー文化において「ダービーを盛り上げるための道具」として軽々しく消費され、他者を愚弄する言葉にすり替えられた。
そこにあるのは、常に地方の文化を「資源」とみなし、消費し、利用し尽くす都会の姿である。
地方が長年育んできたものを、「都会」が一夜にして奪い去り、自らの娯楽や競争の道具に変えてしまう。
その構造は、まさに「都会による地方の搾取」と呼ぶにふさわしい。
思えば、日本の近代化そのものがそうした構造に支えられてきた。
地方は労働力を供給し、資源を差し出し、人口を都会に吸い上げられてきた。
若者は「チャンス」を求めて東京に流れ、残された地方には過疎と高齢化が進む。
地場産業は都会の市場に組み込まれ、価格決定権を握られ、やがては消耗品のように扱われて衰退していく。
地方の方言、祭り、食べ物、キャラクター、スポーツクラブ――これらは地元の人々にとって生活と誇りの象徴である。
だが、都会はそれらを「面白い」「新しい」「地方らしい」と切り取っては消費する。
テレビ番組の一コーナーに使い捨てられ、SNSでバズらせる素材として消化される。
残るのは一時的な話題性であり、文化の本来の意味や背景は失われていく。
サポーターが積み重ねた17年の歴史は、東京のダービーにおいて「地方発の面白ネタ」として消費されるや否や、その文脈は切り捨てられた。
そこには「地方の文化をリスペクトする」という態度は存在せず、「都会が盛り上がればいい」という一方的な価値観だけがあった。
都会の人々は往々にしてこう言うだろう。
「取り上げてもらえるだけありがたい」「注目されているのだから喜ぶべきだ」と。
地方が「利用されること」と「尊重されること」の違いを無視し、都会の快楽を正当化する方便である。
問題は、こうした構造が無自覚のうちに常態化している点にある。
文化の盗用が「悪気のないユーモア」と片付けられ、経済の収奪が「効率化」と称される。
地方にとっては痛みを伴う出来事も、都会にとっては一瞬の娯楽にすぎない。
本来、地方の文化は地方に根ざし、そこに暮らす人々のアイデンティティを支えるものである。
それを都会が享楽のために軽々しく扱うならば、文化は空洞化し、地方の人々は誇りを失ってしまうだろう。
だからこそ、地方の文化を尊重し、正しい文脈の中で理解し、支える態度が求められる。
この言葉は決して誇張ではない。
経済的にも文化的にも、地方は常に「資源」として扱われ、消費されてきた。
岡山のチャントが剽窃された一件は、その構造を象徴する小さな事件である。
だが、そこに目を凝らせば、私たちの社会のひずみがくっきりと浮かび上がる。
その声をかき消すのではなく、耳を傾けること。
都会が「奪う」のではなく、「ともに生きる」方向へ歩みを進めること。
そうして初めて、日本全体の文化もまた、真に豊かになるのではないだろうか。
詳細
「ドナドナ」とは、童謡であり、子牛が市場に運ばれていく情景を描いた歌です。歌詞は少し暗めのトーンで、子牛の悲しそうな瞳や、牧場に帰りたい気持ちが歌われています。
ある晴れた昼さがり
市場へ続く道
荷馬車がゴトゴト
子牛を乗せて行く
かわいい子牛 売られてゆくよ
悲しそうな瞳で見ているよ
荷馬車が揺れる
青い空 そよぐ風
燕が飛びかう
荷馬車が市場へ
子牛を乗せて行く
もしも翼ががあったならば
この歌は、小学校などで歌われることが多く、子牛の悲しい運命を描くことから、哀愁を帯びた印象を与えます。また、バイクを手放す際に「ドナドナ」という言葉が使われることもありますが、これはバイクが運ばれていく情景をこの歌の歌詞になぞらえたものです モトメガネバイク買取。
自分は小学2年生~小学5年生の時に、ピアノ教室で通ってピアノを習っていた。
ピアノ教室は、週1で水曜日の30分のレッスンだったはずで、月に何回か忘れたが毎週か隔週に通っていたと思う。
個人宅の一戸建ての1部屋をピアノ教室にしたような所で、自分と歳が近そうな息子がいる主婦な女性の先生だった。
ピアノ教室に通って1~2年間は、1回のレッスンで1曲をクリアしていくペースだった。教材がまだ簡単だったせいか、家であんまり練習しなくても6割程度を通しで弾けたと思う。
しかし、通って3年目頃から弾く曲がちょっとずつ難しくなるとつまづく事が多くなり、達成感も無くなり、モチベーションが下がっていった。なんで弾きたいかもよく分からなくなっていたと思う。
惰性でピアノ教室を通うようになっていって、ちょっとずつピアノ教室が楽しくなくなっていった。
小2からピアノ教室を始めたが、自宅にピアノとかまともな楽器が無かったので(お下がりの鍵盤ハーモニカやリコーダーや、あっても父親が昔の若い頃に使っていた置物状態の錆びかけたクラシックギターしかない)、小3の頃に父親からもらったお年玉で1~2万円程度のCASIOの電子キーボードを買ってもらった。(関係ない余談だが、ゲーム音楽を弾いてる芸人の「こまつ」が2000年代頃に所持していた電子キーボードとほぼ同じ種類の電子キーボードだった。)
しかしその電子キーボードは、5オクターブ(61鍵とか)程度しかないキーボードで、それでピアノの練習をするという、何だか今思うとおかしいというかケチった初期投資や環境だった。
電子キーボード購入当時はお金を気にしてか、なぜか電子ピアノを購入する発想にならなかった。自分も親も電子キーボードでピアノの代用ができると薄っすら思っていたようだった。
近場の家電量販店で電子キーボードを選んで購入時には気付かなかったが、使っていく内に弾き押した感覚がピアノと全く違う事に気付いた(鍵盤を押した重さやピアノの音色や響きや音質など、電子キーボードでは差がありすぎた)。とにかく漠然と「コレジャナイ」というのが頭のどこかの隅にありながら練習をしていた。「ピアノの感覚で弾きたいのに…」と地味に不満に思ってて、モチベーションが下がっていった地味に要因の一つだったと思う。
しかも自分が知らない間に、父親が何となくリビングに電子キーボードを設置してくれたが、自分はリビングで弾くのが恥ずかしかった(自分が弾いてる姿も)。どちらかというと自室とかにこもって独りで弾きたかった。恥ずかしさや迷惑さで親にも相談できなかった。そんな事もあってリビングに誰もいない時を狙って隠れて弾くため練習頻度が下がった。
友達にも「ピアノ教室に通ってるけど、何の曲を弾いてるの?」と聞かれたが、弾いてる曲も子供向けの曲(曲名も無名な曲)で恥ずかしくて、濁すしかなかった。
小5の頃には、練習をかなりサボるようになったりして先生の前で弾けなかったり、ピアノ教室に行く事をグズったり遅刻したりしていて、次男から「辞めろよピアノ教室」と軽蔑気味に言われて(※自分は末っ子)、ピアノ教室の日が来る度に内心苦しく困ったままで通って、妥協しながらやり過ごしていた。
先生から特にサボってる程の練習量について何も言われなかった。自分の動機とか音楽の好みとか自宅の練習環境とか理解されてなかったと思う。先生とも音楽の好みが合わなかったと思う。
小5の頃には、先生も教え方が余所余所しくなり、「躓いてるけど、自分で反復練習するものだから」と素っ気なくなっていた。
(自分は人見知りな事もあって、先生と打ち解けた事はほぼ無くて、レッスン中に「先生がトイレに行ってるから何か弾いててもいい」と言われたが、恥ずかしくて自分は何も弾けずに無音状態で待っていたら、トイレから戻った先生から「また静かだった」と言われて戸惑った程に人見知り。)
小5の頃からなぜか自分は勘繰りが起こるようになり「先生の教え方が手抜きになってないか?」「手抜きなのに親に月謝を払ってもらっている、つまり自分は鴨になっているのではないか?」と疑心が生まれて「どうせ自分へのレッスンは金蔓なんだろうな」という偏見や感情が芽生えていた。
元々自分は幼稚園生の頃からゲーム音楽が好きでDDRとかbeatmania(5鍵)やギタドラ初期などの音ゲーとかにも興味があって「楽譜を読めるようになりたい」とかで漠然なまま「音楽を習ってみるか」となってたが、レッスンを受けると訳分からない童謡みたいな子供向けの曲を弾かされて、演奏する曲の殆どがそもそも自分の好みの曲ではなかったし、好みでない曲はフラストレーションの要因でしかなかった。
当時は自覚していなかったが、どちらかというと自分は座学がやりたかった。座学はあったが30分のレッスン時間の内の10分間程度の座学で、座学だけをやるような選択はなく、座学には重点が置かれていなかった(「座学と実践」の割合は、3:7ぐらいだったと思う)。今ならコード進行とか学びたかった。
(一応、学習指導向けのピアノテキスト教本で、それに沿って演奏して実技が身に付くような教え方はされた。他には「バーナムピアノテクニック」の教本に沿って実技をしていた記憶がある。)
レッスンを受ける意義も分からなくなり、自分が好きな曲を弾きたいという動機は薄っすら残っていて、小5の時に「ゲーム音楽を弾きたい」とようやく相談して、自分が小4の頃に器楽クラブの顧問から運良く頂けた「スーパーマリオブラザーズ(地上面)」の楽譜を、ピアノ教室の先生に見せたら何故かスルーされて、先生が所持してる楽譜の中から弾けるゲーム音楽を選ぶ事になった。
しかし今よりゲーム音楽は有名でないせいか、選べるゲーム音楽の楽譜が少なく、ドラクエ序曲のマーチアレンジ(子供向けな編曲)やFF10の「ザナルカンドにて (終末的な悲しい曲)」のピアノ楽譜があって自分としてはどちらかというと本望ではないが、それらをレッスンで弾く曲に選ばせてもらって弾いたが、なぜか楽しくなかった。どちらかというと恥ずかしさとか気まずさが強く、弾いてて感情移入してる感じがしなかった。
小5の時に同級生が、近所におじさんが教えてるパソコン教室があって、そこに通っている事を知った、それを母親に相談して自分もパソコン教室にも通わせてくれる頃に、自分はピアノ教室を辞めたいような意思になって辞める方向になった。
これまで送り迎えだけだった母と一緒にピアノ教室の部屋に入り、母親が先生に受講を辞める相談をしていってる最中に自分は、なぜか目から涙が流れてしまい止まらず、かなり気まずい雰囲気になってしまった。惨めや悔しさの涙だったと思う。
そもそもピアノ教室に通うようになった経緯は、「楽譜の読み方が知りたかった」とか「ピアノのドの鍵盤ってどこ?」というような素朴な疑問が動機で、それを母親に話したら適当なピアノ教室を勧められて、どういうピアノ教室か分からず吟味せずに何となくでピアノ教室を選んでしまっていた。
(ピアノ教室受講した後に知ったが、近所にも似たようなピアノ教室があったのに、なぜか近所から少し離れた町のそのピアノ教室が選ばれてしまって、親による送迎の負担が増えただけだった。まだ機会費用的に近所のピアノ教室の方が良かったのになんで?と思う。)
今思うと「インターネットで楽譜の読み方を知る」というのが「顧客が本当に必要だったもの」だったように思えた。(当時、親はIT関連に疎くPC購入やネット開通もかなり消極的だった。)
実は「ドラムがやりたかった」「まだピアノよりドラムの方がまだ才能が伸びていたのではないか?」という懐疑がある。
あとは「もしピアノ教室の先生がゲーム音楽や電子音楽に興味があったらまだ変わっていたのではないか?」と思う。もし当時の小学生時代にKraftwerkとかYMOとか勧められて知っていたら多分今より音楽の知識が身に付いていたと思う。(YMOが自分に刺さったきっかけは中2の頃に見たYouTubeのMV動画だったと思う。ちなみにJ-POPとか邦楽の流行歌には興味がない。)
(ちなみに器楽クラブの顧問も女性の教師で、たまたま「スーパーマリオブラザーズ(地上面)」の楽譜を教師が偶然に持っていただけで、ゲーム音楽や電子音楽には興味無いようだった。)
当時から言語化できないような無自覚的なフラストレーションや水面下な問題が溜まってたばかりで、今でも地続きで機会損失が大きくなってると思うと、今は後悔でしかない。黒歴史。
小4の時に小学校のクラブ活動で、グループに分かれて合奏をするような器楽クラブに入ったが、自分だけが落ちこぼれでクラブは女子しかいなくて女子と打ち解けれないし助けを求められず割と浮いてて孤独で、上級生だけでなく同学年の女子も普通に楽譜通りスラスラ楽器が弾ける人ばかりだった。
自分はピアノを習っていて楽譜が読めていたと思っていたはずが、弾きながらも楽譜が読めない・まず大体を暗譜しないと読めない状況で(オーケストラ用の楽譜で見慣れない程に楽譜も小さくどこのパートの楽譜か迷子になったり、ヘ音記号の楽譜なのにト音記号の楽譜であると思い違いして読み間違えにしばらく気付かなかったり)、
その弱点に気付かず能力の無さに内心焦りながら、自分の雰囲気だけは皆と演奏してやってるという感じを醸したクラブ活動をしていて、クラブ活動も尻込みになった。
学校でそういうさり気ない悩みがあっても、器楽クラブに入ってる事をピアノ教室の先生に言えてない、親も自分が器楽クラブに入ってる事を知っていないと思う。
(ちなみに小5からは科学部(科学クラブ)に入った。ほぼ遊びみたいで楽しかった。小6になって別のクラブに入ったけど。あと、その頃に受講を始めたパソコン教室は最終的には円満的に通い切った。) (中学生時代の部活はほぼ3年間は帰宅部。器楽クラブの影響で、地味に部活動というのがトラウマや無力感になってると思う。)
「才能が無い自分のせい」と言われればそれまでだが、マッチング的に「自分の嗜好や動機などを理解されず能力のようなものを引き出せられなかった周囲も残念な環境だったのでは」と思う。巡り合わせの問題とか。
自分は歳を重ねるに連れて自分が好きだった音楽を耳にする度に「絶対音感の能力があれば…」ぐらいの無念さ劣等感が大きくなってくる。「絶対音感があれば、好きな音楽の耳コピとか分析が高精度で確実にできて、人生が変わっていただろうな」と。好きなはずなのに馬の耳に念仏で溜息しか出ない。山月記みたいになりそう。
自分は本当に音楽が好きなんだろうか…。単純接触効果的な大きな勘違いでなければいいが…。
余談だが、音ゲーについての自分の腕前は、家庭用IIDXHAPPY SKYの段位認定10段をアナコンでクリアしたのが限界で、高1がピークだったと思う。高2の頃からほとんど音ゲーには触ってない。自分は音ゲーやゲームも才能が無いと強く気付き始めていったのはその頃だった。
自分は音ゲーの楽曲についての話をピアノ教室やクラブ活動などでも話す機会は一切無く、幼小から自分が好きだった音楽は誰にも繋がらず糧にもならなかったのであった。
すべてが雑務だ。人生に意味なんてないことは元から分かりきってるが、頭がおかしくなりつつある。加速度的に頭がおかしくなりつつある。
世の中年はどうやって自分の人生のつまらなさに折り合いをつけているのだろう。KIRINJIを口ずさみながら日々をこなしている。
最近自分を慰めるために意味不明な散財をしてしまう。タバコは吸わないが多少のリフレッシュになるかと思いVAPEを買ってみた。突然知恵の輪を買ってみた。GUで5000円分(送料無料になる範囲)の服を買った。
と書き出してから別に意味不明でもないかと思い直した。ドラゴンの仮面とか、ドラゴンが描いてあるプラスチックの箱とかを買えばよかった。別に欲しくないよ。ただただ助けてほしい。独り言が増えつつある。頭がおかしくなりつつある。
この間自転車に乗っているとき、一人で童謡を歌っている自分に気がついた。単純にこどもを送迎してるときの癖ですね。これは別に単なるミスであって頭おかしいとか、そういう話ではないかもしれない。
コロナ禍に買った椅子がぶっ壊れて全くリクライニングできなくなった。この文章はやたらといい姿勢で書かれている。春になったというのに手が荒れ続けている。ユースキンを塗る。
頭おかしいといいつつ結局リスクとリターンを勘案しながら適切に行動を抑制している。捨て鉢にならないだけ俺は偉いよ。なんて、つまんねーただのビビリが何言ってんだ。お前の人生がつまんねーのはお前がつまらんからだよ。(つまんねえ意見だ。)
予防線張って生きていけ。
最近ふと思ったんだけどさ、ヒット曲の法則って色々言われるじゃん?コード進行がどうとか、BPMがどうとか。でも、もっと単純な法則がある気がするんだよね。
考えてみてほしいんだけど、学校の休み時間とか、部活の応援とか、会社の忘年会とかでさ、なんかみんなで歌う時って、元々あるヒット曲の歌詞を変えて歌うこと多くない?
子供の頃なんか、童謡とかアニメソングとか、CMソングとか、意味不明な歌詞に変えてゲラゲラ笑いながら歌ってた記憶、誰にでもあると思うんだ。
あれって、なんでかって言うと、元のメロディーがシンプルで覚えやすいからなんだよな。リズムがはっきりしてて、口ずさみやすい。特にサビがキャッチーで、短いフレーズを繰り返すような曲。こういう曲は、元の歌詞を知らなくてもメロディーだけで何となく乗れるし、だからこそ、そこに新しい言葉を当てはめやすい。
で、ここからが重要なんだけど、そうやって替え歌として消費されることで、元の曲の認知度がめちゃくちゃ上がると思うんだ。
面白い替え歌が流行ると、「これ元ネタなんだっけ?」って原曲を聴きに行く人が出てくる。SNSや動画サイトで替え歌がバズれば、それに比例して原曲への注目も集まる。結果的に、原曲のヒットにつながったり、ロングヒットになったりするんじゃないかと。
最近のヒット曲を見てても、TikTokとかで一部分だけ切り取られて、全然違う文脈で使われたり、面白い振り付けと一緒に替え歌っぽく使われたりしてる曲って多い気がする。それも広い意味での「替え歌のしやすさ」が関係してるんじゃないかな。
みんなが参加しやすく、いじりやすい「余白」がある曲。そういう曲が結局、多くの人に広まって、結果的に「売れる」につながるんじゃないか。
もちろん、音楽的に凝った曲とか、歌詞がすごく深い曲がヒットすることもあるし、替え歌にしやすいからって全部が売れるわけじゃないけどさ。
でも、「覚えやすくて」「口ずさみやすくて」「いじりやすい(替え歌しやすい)」っていうのは、ヒットの一つの大きな要因になってる気がするんだよな。
初めて書きます。
もしコメントいただけるようであれば優しくしてください。大丈夫だよと言われたいだけです。
子は3ヶ月を迎え、体重は産まれた時の2倍以上となりすくすく育っている。首もすわりかけて小児科の先生からも親族からも順調だねと言われてはいるが、ここまで来るにあたって後悔していることがいくつかある。
もともと完母希望ではなく、むしろミルクの方が誰にでもあげてもらえるからいいと思っていたのだが、母乳が出なくなってからTwitterで母乳育児推奨(免疫、愛着などの面で)のポストを見かけるようになり、自分の都合で母乳をやめてしまったこと、産前に充分に調べなかったことを後悔している。
産まれてすぐ〜入院中は、母乳を左右5〜15分ずつ、足りなそうならミルクを追加という流れで授乳。乳がかなり張り、1度だけ母乳で満足して寝てくれたこともあったので、頑張れば完母も目指せたのだと思う。
退院後は1ヶ月間私の実家にお世話になったが、実父母にとっては孫と長期間一緒にいられる最初で最後の機会かなと思い、日中はミルクを実父母にあげてもらっていた。今思えば入院中と同じように母乳してからミルクをお願いすれば良かったのだが、おなかが空いて声が枯れるだけ一生懸命泣いている子を目の当たりにすると焦ってしまい手っ取り早くミルクで満足させたくてだんだんと日中の母乳の回数が減っていった。
夜間は自分一人でお世話していたため、1日1回程度は母乳を挟んでミルクを飲ませていたのだが、母乳を挟んだ後のミルクの量が日中のミルクの量と変わらず、夜間の母乳も減っていった。
1ヶ月を過ぎて自宅へ戻った後、なんとなく咥えさせてみたが、ほとんど出ていないようだったので、時間がかかるだけだと思いそのまま咥えさせることもなくなった。
やりたくてもできなかったのではなくて、できたのにやらなかったということが今になってふとした瞬間に暗い気持ちにさせる。
②触れ合いが少なかった
特に新生児期は触れることさえ怖く、抱っこも必要最低限で泣いてない時間は起きててもベッドに置いて、私はとにかく寝ていた。私が話しかけるのは3時間毎のおむつ替えやミルクのタイミングだけだったので、反応がないとはいえ絵本の読み聞かせや童謡を歌うなどいくらでもできることはあった。抱っこが怖くても寝かせながら手を繋いだり足をさすったりもできたはず。
当たり前だが今日の子には明日は会えない。ほんの少しの期間寝れなくても睡眠より触れ合いを優先すれば良かった。怖がらずに隅から隅まで触っておけば良かった。
いくつかと書いたがとりあえずこのふたつ。
こんな時代に自分のエゴで産んでごめんね。元気に産まれてきてくれてありがとう。考えてもしょうがないことでウジウジ悩んでごめんね。必ず幸せにするね。
喫茶店の時計が三時を指す瞬間、ドアのベルが鳴る。彼が傘を振り子のように揺らしながら入ってくる。白いブラウスの裾がデニムの上で波打つ。今日も女装だ。
「遅れました?」
声は意図的に高めている。喉仏が上下するたび、戦時中の暗号文を解読するような気分になる。彼の本名を知らない。お互いに必要のない情報だ。
コーヒーカップの縁に口紅が付く度、高校時代の書道部顧問・田村先生を思い出す。あの先生も朱墨で半紙に俳句を書いていた。「男女の別は紅葉の踏み分け道」。今ならその意味がわかる気がする。
地下鉄のホームで別れる時、彼は必ず逆向きのエスカレーターを使う。上昇する階段を下りながら手を振る姿は、古いSF映画の逆再生シーンのようだ。この関係が永遠にループするのか、それとも──。
昨夜妻が風呂場で歌っていた童謡が耳に残る。「ずいずいずっころばし」。メロディーに乗せて「倫理倫理ずっころばし」と脳内で変換していた自分に気付く。湯船の水面がゆれる。
新宿御苑のベンチに置き忘れたパラソルが心配だ。あの柄は江戸切子の紋様に似ていた。次回会う時までに雨が降らなければよいが。いや、むしろ降って欲しい。濡れた黒髪が彼の頬に張り付く様を見たいから。