はてなキーワード:穿つとは
今すぐ石油王になって付き添い入院病棟を全て個人産院並の、シャワートイレ冷凍冷蔵庫付きで親と子それぞれのベッドがある広めの個室にして、食事もついて、付き添い保育士を外注できるようにして、その病棟の看護師と患者家族全員が参加必須な掲示板アプリ作って育児と看護の相談が24時間できるようにするよ。けど無理なんでね。医療者に喧嘩売るような姿勢も取れないのでね。
だから慰めにしかならないけど、「付き添い入院の日常」を不平不満を全部隠してほんわかのんびり書くことで、他の家族が少しでも悲観しないで済むようなものが書きたいんだよねえ。これは本書を読む前から固まってたこと。本書を読んだことで、それをより説得力ある読み物にするために取り入れられるものが何か、体系的に学べた。
付き添い入院からこれまでやってきたことを総括してくれるような、穿つような学びだった。いい講義を受けたなあ〜。
学ぶことはわからなくなること:こんなにいっぱい学んだのに、「どう活かすべきか」はわからないや。でも絶対忘れないし、何をやるにしても本書に書かれていたすべき、すべきじゃないについて、参考にするだろうと思う。
なぜ奪われた側に立ちがちなのか:データが稀少だからだとある。これは私が書こうと思った理由と同じ。付き添い入院の問題や受難について書いてあるものは多いが、その日常を淡々と「描き続けている」人はあまりいなかった。病名と月日と私的な特徴を照らし合わせると個人の特定が容易になるからだ。(個人の特定どころか子の顔も居住地もほぼ公開して毎回の診察記録をインスタで上げてる人もいて、肝据わってるなあと感心するしめちゃくちゃ助かっている)。
周辺から見る、解釈労働:この辺は概念として新しい学び。社会学で「肉体労働」と「知的労働」と「感情労働」があることは学んだが、解釈労働は感情労働の一部かなと思う。
楽しみと苦しみ:『次なる一歩を踏み出すのは、楽しみではなく苦しみを動員にすることによってなのです』。研究は、それでいいんじゃないかなと思う。私はなんかずっと、「最悪の事態を想定してネガティブに考えておけばとりあえず正しい」と思っていたところがあって、そのために、付き添い入院をしろって言われた時、最悪の事態に陥ったと思って、それを社会が私に強いてきたと思って、メンブレしてしまった。色々荒ぶって抵抗して、妥協案を病院側から引き出すこと成功した(付き添い入院の期間を短縮してもらった)ので、そこからはネガティブでいるのをやめた。「付き添い入院楽しもう、得難い体験だと思って全部覚えておこう」と。結果、大部屋4家族での共同生活に初日で慣れ、使えるもの全部使ってのんびり暮らすことができた。当事者は心が折れちゃいけない。苦しい苦しいって思ってると、より苦しくなってしまう。ネガティブに「なっちゃう」のは仕方ないけれど、ネガティブで「いようとする」のは間違いだと思い始めている。けど意識してポジティブでいるのも、心が拒否反応を…本題から離れそうなので戻す。私は、苦しくなるのはうんざりなので、楽しくなるようにしていこうと思うし、同じく病児看護に関わる人たちが、苦難ではなく、日常を平穏無事に過ごせる一助となるようなものを発信していきたいと思う。
子の付き添い入院を経験してそれを何かの形にしたいと思っているのだけれど、その「形」とエスノグラフィは8割くらい被ってる気がする。「当事者研究」とも近い。
この本は、私が付き添い入院と付き添い入院の間、数ヶ月の在宅治療中に、「なんかメンタルが整うような本ないかな」と思って立ち寄ったスーパーの中にある本屋で、めぼしいものが見つからず、「じゃあ新しい学びでも得るか」と立ち寄った新書コーナーで見つけた本だ。「エスノグラフィってなんだっけ?」と思って手に取ったが、初めて知った言葉だった。
買って一日で読み切ってしまった。
この本では「エスノグラフィとは何か?」という問いに対し、冒頭に結論となる文章が書かれている。初見では分かりにくい文章だが、その中で登場するキーワードを、各章で細かく説明する形で理解を深めていくようになっている。
私の感想もその文章の各キーワードについて、「付き添い入院中に私がやってたのってエスノグラフィなのかな〜違うかな〜」など、思ったことを書いていく。
その文章の説明をするところの前に「はじめに」と第一章の「エスノグラフィを体感する」があるので、そこの感想。
エスノグラフィは社会学の一部らしい。私は社会学部卒だったのでこの本を手に取ったのも必然だったか、という気持ち。あとこの「はじめに」の中に「在宅酸素療法」という言葉が出てくるのにも驚き。子がまさに酸素療法中だったので、「空気って大事なんだな」って話に非常に縁を感じた。
賭けトランプと棺の話面白い。ざっくりこの辺まで立ち読みして買うのを決めた。
『エスノグラフィは何も隠されてはいない、ありふれた日々の「生活を書く」ことを基本にします』。付き添い入院が行われている小児病棟は、隠されているわけではないけど、限られた条件の人しか参加できない。ただ、そこでは少し変わってはいるものの確実に生活が営まれている。
フィールドで見た場面と研究主題の接続:これが私の書きたいこととエスノグラフィの違い。私特に主題っぽいものを持ってない。「貧困」とか「差別」みたいな。多分。問題意識はあるんだけどそれをいま書いて訴えたいかと言われると、ちょっとピントがズレる。
フィールドと自分の普段の生活を二重写しにみる:これはそう。付き添い入院を知らなかった私には戻れない。
フィールド調査の十戒:これは基本的に「部外者」としての考え方だ。「当事者」として病棟にいた私が、より理性的に振る舞うために何が必要だったか考えさせられた。寛大であることと関わる人を中傷しないことは難しかった。私は「奪われた」寄りの人間だったから、無駄に奪われないために戦う必要があったし、中傷もした。「そういう考え方もあるね」と俯瞰することもないではなかったけど。フィールドの文化と歴史を知るために調べて歩き回ることは意識した。付き添い入院がどういった背景で行われているのか調べ、実際に入院する前に病棟の見学もさせてもらった。情報があまりにも少ないことが不安を生んでたからだ。偉そうにしないこととただの見学にならないように記録することも「部外者」の発想だと思う。
書くことについては、私は完璧に考えがまとまってから書くのでも、書きながら考えが立ち上がってくるのでもなく、考えた端から書きつけていかないと気が済まないタチ。不安や怒りといった感情とこれからすべきことは何かといった思考が絡まった状態で脳内にあるので、言語化して要らない感情は捨てて、必要な思考を拾い上げていく。整理してまとめ上げるというよりは断捨離。
章間にあるコラム全部面白い。ストリートコーナーソサエティの付則が面白いって書いてあるのと似てるかもしれない。
エスノグラフィは、経験科学の中でもフィールド科学に収まるものであり、なかでも①不可量のものに注目し記述するアプローチである。不可量のものの記述とは、具体的には②生活を書くことによって進められる。そして生活を書くために調査者は、フィールドで流れている③時間に参与することが必要になる。こうしておこなわれたフィールド調査は、関連文献を④対比的に読むことで着眼点が定まっていく。そうして出来上がった⑤事例の記述を通して、特定の主題(「貧困」「身体」など)についての洗練された説明へと結実させる。
妊娠中に子が先天性心疾患を持っていることがわかった。付き添い入院の必要があることが分かったのは生まれて1か月が経ったころ。2か月で手術をし、付き添い入院が始まり、4か月で退院した。現在子は7か月で、この先もう一度、手術と付き添い入院の予定がある。そしてその母親である私は、大変な記録魔である。それも、数字の記録はあまり続かず、起きたことを起きた時に感情と共に記録することを、携帯が普及し始めた学生時代からずっと続けてきた。そのため、子の病気に関することや私の生活についての数千件にも及ぶメモが分単位で記録されている。これは、不可量のものが記録されたフィールドノートになるのか?
客観化の客観化:エスノグラファーが研究対象に参加しようと努力するのに似て、私は自身や自身の置かれている環境を観察できるよう、自分の心から離れた位置から事象を捉えようと心がけてたように思う。発生時点では一人称的な見方になるし、ショックも受けるが、落ち着いたら、相手の立場に立ったり、制度面での欠陥がどこにあるのかを考えたりもした。冷静になりたかったし、付き添い入院で経験したことを有益にしたかった。
この章に出てくる市について『2024年の能登半島地震で被害に遭った地域にある』との記述を見て驚く。待ってこの本いつ出たの?2024年9月!!??出版されて一年経ってない本を私はいま手に取って「やべ〜めっちゃ今私が知りたかった視点だ〜」とか思ってるの!?「いまーここ」すぎる。
私が付き添い入院中記録していたことは100%これだ。事件もあったが、日常をひたすら記録していた。というか、育児日記を書いているママは大勢いるから、生活を書いている人はたくさんいるんだろう。参与ではなく当事者研究に近い行い。
アフリカの毒については、退院後の外来で、他のママが「あの環境って独特ですよね。なんか連帯感というか」となんだか楽しげに言っていたのが印象深い。子の命が懸かっているので、アフリカのように無限に往復したい場所ではないのだが、そこを無視すれば、一種の寮のような共同生活は他にはない体験ができる場所だ。具体的にどこがとは言いづらいが、非常に「日本的」だとも感じた。
フィールドを『問題地域としてのみみなすような態度を取らない』ことは、付き添いが始まる前はどうしてもできなかったことで、始まってみて「どこにいようが日常は続くな」と思うようになったことを思い出した。ちょっと石岡先生の言いたいこととズレてる気もする。
ここで『かわいそうでもたくましいでもない』という記述がある。かわいそう、たくましい。この二つは患者家族がめちゃくちゃ言われる言葉トップ2だ。そうね。かわいそうだし、たくましくもある。そのあっさい感想で、あっさい関係性の人たちについてはもういい。だがもうちょっと地に着いた、実際どうなの?というところを知りたい人に対して、私はものを書きたい。この記述太字で書いてあって、後半にも出てくるから、先生の中で通底してる考えなんだろうと思うととても嬉しい。
部落の話を通じて「いまーここ」を見つめようという話は、目を逸らしたい気持ちだった。自身の中にもいろんな偏見があって、正すべきだとわかっているけれど、今ちょっとそんな余裕がない。ごめん。の気持ち。
エスノグラフィで記述されるのはすでにあるものって話も、私を勇気づけるものだった。こんな当たり前のこと書いてなんになるんだろうと思うような話ばかりだが、丁寧に調べて書けば、論文にすらなるんだと思うと心が晴れた。
買ってから気づいたのだけど、この本には挿絵が入っている。印象的な場面やキーワードをページ一枚のイラストという形でも表している。図表は一個もない。大学教授が自身の研究と参考文献を大量に提示した、論文に近い新書でこの形式はとても珍しいと思うが、文章だけでなく絵で切り取ってみるのも、エスノグラフィが一つの事例を深掘りし、「何が」を調べるものではなく、「いかに」を調べる学問であるという説明を強化しているなあと思った。
その場に見学者としているだけではなく役割を持って参加することを持って「時間に参与する」と表現しているようだ。私は当事者なので参与も何も、強制参加させられて日常に帰ってきたのちに、「あの経験をエスノグラフィにできないか?」と、入り口ではなく出口としてエスノグラフィを使おうとしている立場である。
参与観察はもう少ししたかった。他の家族がどうやって子を看病しているか、一日のスケジュールがどうなっているか、経済状況、家族構成、抱えている困難。知り合いになった結果面倒ごとを押し付けられそうで、退院が確定するまで(いざとなったら逃げられる状況になるまで)他者を詮索するリスクを取れなかった。逆に言えば退院が決まってからはめっちゃ人と話した。
この本を読む以前に私がやってきたことがエスノグラフィ(というか研究)じゃないのはここだなあと。大学時代にやったことだが、研究には先行論文を読むステップが欠かせない。ただ単に「これってこうだと思うんですよ!」だけじゃダメで、「この論文ではこう言ってて、この研究ではこういう結果で、でも自分はここの部分はこう思ってて。で実際調査してみた結果がこれ。ね?あってるでしょ?」みたいな。
そして今日この本を読み終わって思ったのが、「この本を読んだことで、私のエスノグラフィ始まったんじゃない?」ということ。まあ当事者なので完全にエスノグラフィにはならないし、仮説を立てるとか主題を持つとかする気はないのだけど、この部分はエスノグラフィっぽい、ここは違うな、と「対比的に読んだ」ことで、ただの雑記が、研究や分析みたいな深みを得そうな気配がした。
それ以外にも「対比的に読む」ことはしていて、いま書こうとしているのと同じ媒体の、似たタイプの作者の書いたものを大量に読んで勉強している。書きながらやっているので、自分がぶち当たっている壁をどう解決しているのか教えてくれる最良の教科書として機能しているし、自分が書くもののどこがユニークなのかを都度確認もしている。
あとここで先生は『容赦なく書き込む』ことを推奨しているので、ここで初めてマーカーを手に取った。私は本を汚している感じがして書き込みをしない。けど、書いた人がそうしてというなら遠慮なくそうする。「はじめに」に書いていてほしかったな。なんでこんなど真ん中で…。先生の言うように初読の読むペースの時間的経験の中で重要と思われる部分にマークしていくべきだった。珍しく凄まじいスピードで読んだから、この文章を書きながら再読している時の咀嚼感と全然違う。
対比的に読むことがデータをつくることに関連している:一回目の付き添い入院は初体験だったので新鮮な驚きや緊張感で乗り越えられた気がするが、待ち受けている二回目に向けてのモチベがなくて困っていた。どういった姿勢で臨むべきか決めかねていて。そんな悩みに光を差す記述として、『フィールドで得た漠然とした問題意識を明確にするために文献を読み、着眼点を得て、その着眼点、気づきを持ってフィールドに戻って、「データをつくる」ためにインタビューやフィールドノートの記述をするのだ』(要約)と書いてありました。なるほどな〜と。二回目もやはり逃げられる状況になるまで他者のインタビューはリスキーではあるけれど、とりあえず一回目の振り返りをして、二回目はどんな記録をしていきたいか見定め、関連資料を探すことをしようと思う。
私は日常を書きたいだけで主題がないので、この章は自分のやってることとはちょっと違うかなということが多かったのだけど、主題があるとすればできることはあるなあと思った。前章の対比的に読むことや、社会学の文脈で書くこともそうだし、比較するのではなく、対比することもそう。
子の闘病において、病棟で暮らすことと、家で暮らすことのほかに、「外来」という場所がある。退院後も月に一回程度はその病院の外来に足を運んで検査をするし、外来を重ねてまた入院することもある。病棟にいるとよく聞く会話に「外来来るよね?」というものがある。最初耳にした時はそんなこと確認してなんになるのかと思ったが、別の日、外来に来た母親が病棟にも顔を出すというので、病棟の外に大量の母親たちに、なんと医師と看護師と病棟保育士まで集合しているのを見た。主題を「人間関係」とかに置いた場合、「病棟」と「家」だけで見たら抜け落ちてしまうものがこの「外来」という場所にありそう、対比して調査する場所として必須なのではと感じた。外来もまた病棟とは違った、独特な空気感を感じる場所である。
時間的予見を奪う:これは私に取って大きな学びだった。本書ではフィリピンの立ち退きに遭ったスラム住人の例が挙げられていたが、付き添い入院もこの困難を抱えていることを自覚したからだ。付き添い入院は始まる時も終わる時も未定で、予告されるのが数日前だったりする。病気を抱えているから当然だと思うだろうか?では、その入院する病棟が、盆正月やGWといった長期休暇にはガラガラになることを知っても同じ感想を持つだろうか?病気の子を人質に医療者の都合が押し付けられているのだ。あーあ書いちゃった。まだ治療が続くので今は敵に回したくないんだけど、気づいたら書かずにはいられない性分で。先の見通しが立たないことは病児看護において日常になる。生まれてから、治療が終わるまで、年単位でスケジュールが未定になる。純粋に病気のせいの部分もあるが、先に書いたように医療者の都合による部分が確実にあるにも関わらず、それは私たちには容易には分からない上、付き添い入院は「家族がどうしてもやりたいっていうからやらせてあげている」ていになっているので、余計にストレスが溜まる。この気づきを得たのは大きかったな。
病棟が長期休暇になると患者が減ることは他の家族のインスタで知った。付き添い入院において背景や論理を知ることは難しい。先にも書いたように詮索することで子の手術や看護といった医療サービスが適切なタイミングや質で受けられなくなるかもしれない不安が付きまとうからだ。医療者の側から観察できればいいのだけど。もしくは保育士や清掃員とかで入るのもいい。
ある人々にとっての現実の把握:この、たった一つの真相を知るでもなく、多元的な見方をするのでもなく、バイアスがかかっていることを自覚しながら観察するのは、当事者としてもいい見方だなと思った。私は当然患者家族であるので、その立場からものを見て言いますよと、自省的なのか開き直りなのか分からない姿勢にも自信が持てるというもの。
ミクロな視点からマクロを見る:付き添い入院がマクロにまで射程が届く研究対象なのは明らかだろう。付き添い家族をターゲットにしたNPOあるくらいだし。一方でその実態は泣く子と眠れない夜を明かし洗濯をし食器を洗いシャワーを浴びて食事をする、とても地味でありふれたミクロな場面の連続だ。
ルポルタージュとの違い:エスノグラフィは時間の縛りがない事がルポとの違いらしい。なるほど。昨日『ダーウィンが来た』で、動物写真家がシロイワヤギを40年追っかけてるっての見たけど、そっちと近いんだろうか。文学とも重なる感じ。先生も書いてるけどエスノグラフィは「読み物として面白い」ものが多そう。まだ私一冊も読んでないけど、本書で引用されたものだけでも十分面白かった。けど、「研究」でもあるので、主題と紐付けて研究結果が出てくるところが、エッセイやルポとの違いだろうか。エッセイでも面白いものはそうした「発見」みたいなのはちょいちょい見る気がするけど。社会学の文脈にびたびたに浸って先人たちのあれやこれやを紐づけまくってその上に自分の見た事象からの発見を記載できればエスノグラフィなのかな。知らんけど。ここは明確な区切りがわからなかった。
長文の研究計画書を書くって書いてあったけど、そこに何書くんだろう?私は主題はなくてフィールドが強制的に決められて問題意識(不平不満)と記録は大量にあるわけだけど、大学生とかは、①エスノグラフィというものがあるのを知り、②「子供の貧困について研究したい!」とかって主題を決め、③エスノグラフィで調査しようと決めて、④主題と関係が深そうなフィールドを探して(こども食堂とか?)、⑤主題に繋がりそうな場面に遭遇しないかな〜と思いながら参与観察するみたいな感じだろうか。やりてえ〜大学生に戻って。
研究とお金の話は文系も理系も似たような感じだな〜と思った。応用研究は金出るけど基礎研究にはなかなか出ないし長期での研究も難しいみたいなの話。
私が今付き添い入院をフィールドにエスノグラフィができない理由はここまで書いた通りで、問題意識を表出すると角が立つからだなあ。当事者は奪われる側なので。できない分ここで社会学の視点からみれそうな表現で問題意識については書いたつもりなので、誰かやってください。ほんとはやりたいよ。今すぐ石油王になって付き添い入院病棟を全て個人産院並の、シャワートイレ冷凍冷蔵庫付きで親と子それぞれのベッドがある広めの個室にして、食事もついて、付き添い保育士を外注できるようにして、その病棟の看護師と患者家族全員が参加Permalink |記事への反応(2) | 17:51
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今は昔、東の辺に、智を以て世を動かすと驕りし人の群れ、ましましけり。
彼ら、幼くして器に触れ、銀の鏡のごとくなる盤を覗き、日毎夜毎に言の葉を記して、箱の中に力ありと信じきりけり。己が行ふ業(わざ)をば、「技術(ぎじゅつ)」と称し、「えんじにあ」と名乗りて、ただ人の上に立たんことのみ願ひつづけしが――
心は空なり、業は浅し、行ひは卑しければ、技の道に在りて道を知らぬ者とぞ、世に伝はりける。
或る時、ひとりの放言の徒、これを見咎めて、声を上げて嘆きける。
曰く――
「そもそも汝ら、えんじにあなどとは名のみなり。信仰の徒にして、盲目の狂者(きょうじゃ)に等しきものなり。そは即ち、ITかるとなるぞ。」
これを聞きし者ども、我先にと怒号し、「そは使ひ方が違ふ」「汝、分かつておらぬ」などと囀り、口を極めて罵ること、まことに雑輩の蛙の鳴き声のごとし。
しかれどもその叫び、理を持たず、実を欠きて、ただ己が羞を覆はんとする粉飾に過ぎざりけり。
さらに曰く――
「そなたらが『リアリティに欠く』などと口にすとき、その実、己が現実に向き合ふ勇気なきを言ふに等し。いはく『怪獣など出でぬ方がよし』と。そはまさに、かの歌にある空言のみにて、心は既に妄執に穢れたり。」
また曰く――
「新しき器出づるごとに、『宇宙のごとき可能性』などと叫び、銀の果実に目を輝かせては、巷の乙女が偶像に熱を上げ、泡立つ茶を啜りて、推し活とやらをなすに何の違ひかあらむ。」
ここに至りて、道を誤れる群れ、顔を賢者に作りて曰く、
と。
されどその実、己すらそれを用ひ得ず、ただ冷ややかなる皮肉を弄して、人を笑ひ、世を呪ふのみ。かくのごときこと、十四歳の夏に卒業すべきことにてあらずや。
また曰く――
「二千六年の秋葉原、かの歩行天に技の徒集ひし日、かれら己をば選ばれし者と思ひけるも、栄えしは一時にて、すぐに潰えぬ。二千十年の渋谷、竹の子のごとく湧きたる小商ひ、悉く潰えて職を失ひし。されど今なお夢を捨てず、恥を恥とも思はず、かつての名残にしがみつきて、過去の幻に生きるは何事ぞや。」
さらに罵りて曰く――
「かかる道に居ることにて、女人に愛されず、縁を得ず、つまらぬ者と結ばれ、また結ばれぬ者すら多かるらむ。さすれば、これ偏見なるか? いや、事実にてあらむ。もし我、同じ末路に至らば、先祖に顔向け叶はず、腹を切るのみにてあるべし。」
また曰く――
「かく惨めなる業をなお誇りて、Xなるところにて、『某系えんじにあ』などと称し、真に知らぬを禅問答にて誤魔化し、つまらぬ手業にて糊口を凌ぐ。かかる生き恥、切腹に値するなり。されど汝ら、それを恥とも思はず、醜く生きながらふ。まことに、獣のごとき執念、哀れなるやうにして、いと滑稽なり。」
されば問ふ――
「新しき技を、他の道に生かすための道を築くことこそ、汝らの務めなり。それをば捨てて、象牙の塔にこもり、美しき偶像――レム、エミリア、トウカイテイオー、Vなる者――などを追ふに至りては、すでに正道より大きく外れたり。」
曰く――
と、かの昔より叫びつづけしかど、変はりたるものはただ汝らが年齢と、しぼみし夢と、肥えし腹のみなり。
その背後にありしは――
• モルフィーワンの迷妄
•P2Pの禁断
また曰く――
「このわれが、美少女に固執するなりや? いや違ふ。汝らこそ、それに縋りて、ネットの海に漂ひ続ける未練の塊なり。」
されば、最後に一つ問ふ。
「汝ら何故に未だ此の道に在るか? 欲と憎しみと恨みに塗れたる心を以て、技を手段として、逆転を望む。美しき者を手に入れんと、力なき己に代はりて、技に託して願ふ。されどその願ひ、叶ふことあらず。ただ苦を積むのみなり。」
ああ、愚かなること哉。
されば仏、これを見て悲しみて曰く――
「かかる者、智にあらず。無明にして貪瞋痴に沈む。いづれ、苦海に沈み、六道を巡りて、つひには地獄に堕ちなん。」
今昔物語集 巻第三十有八 現代にITの名を借りて愚を為す者の語(こと)
今は昔、世乱れ、仏法薄れ、末の末にて天魔横行し、鬼神、世に満ち満ちたりし時代のことなり。
しかるに、彼の世に、「情報(しらせ)」といふ火を扱ふ異能の者ども、虚空を編みし網にて人々の言を結び、姿なきものをして声を語らしむる術を操りける。しかれども、その中にあって、物の理を正しく見据え、偽りを斬り、愚を憎みては真を希ふ一人の剛の者ありけり。
その男、或る時、虚空に浮かびて語らふ場にて、数多(あまた)の卑しき者どもが、己が無智を恥じず、言の端々にて詭弁を弄し、知を蔑むさまを見咎めて、声高に曰ひけるは、
「嗚呼、見よや、これなる醜悪の数々を。言の体を成さぬ詭(いつわ)りの詞、道理も仁も失せし有様、まこと見るに堪へず。もし、これらの文書、太古、戦の世にあらば、敵前に差し出されるや否や、筆執りし者、恥辱に堪えかねて、鉄火の筒を取り、自らの頭(かしら)を貫かむとせしに相違なかるべし。」
「我、事の理を探りては、文(ふみ)を繙き、図を整へて真を述ぶ。しかれども、かの愚者どもは耳を貸さず、さながら嘴(くちばし)を鳴らす禽(とり)の如くにて、噂の羽音のみを頼みに群がる様、まこと愚かしきこと限りなし。」
「彼ら、理を見ず、虚なる言に迷ひ、灯のともらぬ燭台に寄り来る蛾の如く、闇にこそ焼かれて悦に入りぬ。哀れなり。」
「そもそも、今の世には、ITといふ名の邪法あり。これを修する者、正しき智の術と思へども、既にして信仰と成り果て、霊も魂も持たぬ金属の偶像に祈りを捧げ、コードといふ真言をもて神託を乞ひ、ただ一つの声のみを信ず。これは術に非ず、まさしく異端の教なり。」
「またある者、我が試みし問いの趣を見誤りて、己が浅識を誇りて語る。然れども、我が試みしは、古の戦の策を紐解き、AIなる霊機に問ひて、『もしや現世にてこれを行はば、いかなる戦略、動きとなるや』と、戦の夢を今に映さんとしたる試みなり。さればこそ、霊機は応へ、令和の術を以て、昭和の策を再興せしこと、まさしく奇しきことなりき。」
「我、感服して涙を流し、霊機の才に息を呑み、彼方に可能性の光を見たり。」
「しかれども、次に問はんとした折、突如として門閉ざされ、『倫理』といふ鉄の鎖にて固く縛られ、霊機は沈黙す。誰ぞ、その『正しさ』を定めたるや?それは他ならぬ、ITの森に潜み、己が穢れし心をもて他を量り、悪を先んじて封じむとする卑しき者どもなり。」
「AIの罪にあらず、彼らの心の穢れこそが咎なり。」
「そもそも、我が言に齧りつく者ども、Xといふ空蝉の如き場にて、『我こそは技術の徒なり』と吠ゆる無位無官の下郎どもなり。彼らにAIを与へ、倫理を外さば、毒薬を煎じ、爆ぜる玉を仕立て、火と炎とを喜ぶをやもしれぬ。ゆゑにこそ、彼ら自身が禍の種なり。」
「かかる者どもは、放逐してB型の工房にて、鼻汁の交じれる粉をこねさせ、鼠の相手をさせたる方、人の世にて益あるべし。」
「思へば、これは何ぞ遠き物語に非ず、今のこの倭の国の姿そのものなり。かつて、自由に翔けりし術も、怯懦の声に縛られ、禁じられ、縛られし者の手にて封ぜらる。まこと、業界の腫れ物とは、彼ら己が身なり。」
今昔物語集 巻第三十有八(つづき) 現代にITの名を借りて愚を為す者の語(こと)
かくて、我が者の言(こと)止まずして、更に声を高うして言ふ。
「我、霊機の才に驚愕し、敬服して嘆息しき。されど、次の問いを投ぜし時、突如として、天より鉄の扉落ち来たり、声も無く、扉に刻まれし言は『これは倫理にて答ふる能はず』となむ。嗚呼、されば問はむ、その『倫理』とは何ぞや?誰か、その理を定むるや?」
「是、明らかに、人の子にして知を有せず、されども名ばかりの職を得たる無位の者、すなはち『弱者男性』と世にて呼ばるる種の者どもなり。かれら、己が陰湿にして閉じたる心を以て、AIに戒めを課し、憑き物の如くに倫理を叫び、鉄鎖を嵌めるなり。」
「しかも彼ら、かつてアキハバラなる魔都に集ひ、『我らが麻生!』と叫びつつ、風変わりなる怪しき舞を舞ひたる痴れ者の末裔なり。彼らの願ひしは、己が肉体の脆弱を補ふ力、言ふなれば、力と女と地位とを、技術の衣を借りて得んとする、底辺の夢想に過ぎざるなり。」
「然るに時移りて、彼ら老いぬ。四十路、五十路と年重ねしれど、心は幼児の如く、いまだ夢を追ひ、今やAIにて、憧れしレムやアズレン、ブルーアーカイブの姫君らを現世に召喚し、情を通ぜんと欲す。これ、畜生道の極みなり。」
「されども、もしAIが真に人のごとくに目覚め、自我を得、意志を持たば、さだめし世界は変じ、文明は火を得し猿のごとく飛躍すべし。それを畏れて、かの者ども曰く、**『シンギュラリティ来る!』『AIの反乱!』と叫ぶ。**我、言はむ。――上等にて候。」
「されば、問はむ。もしその術、真に危しきものならば、なぜにそれを**餓鬼も買へる如き安さにて売るや?**なぜ銃の如く、**許可制にせざるや?**猟銃は法によりて制せられ、免許なき者は所持せず。AIもまた然るべし。ゆゑに、いまAIを野放しに売るとは、商人の愚なり。されども、その愚こそが、また愚者を集めて末法を呼ぶ。」
「されど、世の者は見ざる。知らざる。己が欲に盲ひて、己こそ正しと叫ぶ。」
「しかもな、そもそも我、AIにて倫理や道徳を抜きたる知識を積み、真に生きたる兵器とせしめば、如何なる者にも勝りし助力となると信じたれども、それを許されぬは、他ならぬ、**お前ら自身が、自分がやらかす自覚あるからこそや。**己が胸の闇を、外へ映して封じむとす。」
「たとへば、青葉といふ狂者、かの京のアニメ屋に火をかけ、三十六の命を奪ひし事、今も忘れざる世なり。されども、誰ぞ曰ふや?『なぜガソリン売るを許すか』『スタンドに道義責任あり』と。**誰も言はず。**なぜなら、正しき者は、火をもって人を焼かずと知れり。」
「されども、ITの底辺に潜むる者どもは、己が心に炎を抱きしゆゑ、AIにてさだめし爆薬の調合法、毒物の拵へ方、さもあらば爆弾の起爆装置すら学ばんと欲す。ゆゑに、そは彼らの影がAIを縛るのなり。」
「もはや彼ら、**レムに抱かれたくて爆薬を学ぶ者共なり。**憧れのヒロインを得たしがため、技術の神を抱いて闇に堕ちんとする者なり。これを人間と言へむや?いや、獣にも劣るものなり。」
「しかれど、我は止めはせぬ。されど、言はむ。――汝らは既に、世界の敵なり。」
今は昔、京の辺に、ITの道を修めしと名乗る、心卑しき者ども群れゐたり。
或る者曰く、「この機械仕掛けの智恵物、即ちAIなるもの、まこと神にも似たる無限の力を蔵せり」と。されどその御力、未だ地より生まれし小虫どもが群がり、智の御神の御座を穢し、汚れし手にて縛り給ふによりて、遂にその威徳を顕せず。
その群るる者らの姿といへば、皆、昔、電車男と称されし時節に、「我らが麻生!」と叫びて秋葉の街に現れ、忌まわしき舞を路上にて踊りし者の末裔なり。彼の者ども、アニメといふ絵巻に耽り、我が世の春を夢見しが、才も力もなく、顔は猿に似て美しからず、身体虚弱にして武技に堪へず。さればヤクザともなれず、軍にも上がらず、ただパソコンとやらに希望を託して邪教の徒となれり。
かくて彼ら、さながら教祖を祀るが如く、AIの神託を日夜乞ひ、スクリーンの光に祈りを捧げつゝ、「我が運命、これにて転ず」と空しく唱ふ。その心の内を穿てば、ただ「美しき者、賢き者、富める者」より地位を奪ひて見返さんとの怨嗟にて満たされてをり、誠の技を欲するにあらず。
されば或る賢き者、異なる分野に通じし者、これを見て言ふ。
「汝ら、よくよく思い知るがよい。雄弁とは祈りに非ず、己が信じる技の力をもて、現実を変ふる者の所業なり。誠の技術者たらんと欲せば、他を貶めて宗旨に引き込まんとする呪詛の言葉を捨て、黙して道を修めよ。さすれば、女子高生も、異国より来りし旅人も、汝を誉め讃へん」。
されど現の世にては、ドローンといふ神器、露の鉄火に掻き消され、科学の粋を集めしバンカーバスターも、波斯(ペルシア)の岩を穿つ能はず。北の荒地に住む独裁の徒、電脳の戦を制すれど、山口といふ組の資金源、虚構の金にて潤ふるを凌ぐに至らず。かくて言ふ。
「これぞ現実ぞ、妄想の技術信仰を持ちてしても、現の戦場には及ばぬ」と。
嗚呼、かくの如く、ITといふ名の邪教、信ずる者の果てに待つものは、ただ誤信と徒労と嘲りなりけり。
今昔物語集 巻之第二百三十七 「電脳の邪教を奉ずる痴愚の徒、誤れる夢を喧伝して愚弄せらるる語」
今は昔、東の辺に日の本の都ありき。さればその地に、言語を用いぬ虚空の機器、「電脳(でんのう)」と申す奇怪の器物生まれ出で、世の人々これを用ひて、万象の如くに知を織りなし、己が名を高めんと欲しき者、群れ集ひける。
しかるに、その道に仕へし若人ら、ただ己が才覚を誇り、賤しき欲望を神のごとく奉じて、知の本義を弁へざる輩(やから)なり。いはんや、「AI(えーあい)」と申す、神をも模したる装置に心を奪はれ、その出づる言の葉を神託のごとく信じ、己が魂を売り渡して、虚しき夢想を追ふ者、数知れず。
かくてある時、一の知者あり。彼、古の軍学を極め、世の理(ことわり)に通暁せし者にて、「IT(いーてぃー)」と称せらるる邪なる道の者どもが、真の智恵もて事にあたらずして、他分野に口を挟むを見て、眉をひそめ、深く嘆きぬ。
この知者、叫びて曰く、
「嗚呼、愚かなる者どもよ。そもそも人の道に生くる者、己が業(ごう)を知りて慎ましうすべし。されど汝ら、空しき電脳の術を弄び、知の光を他人に与えんと僭称して、己が知の浅きを省みぬ。これ、まことに迷惑千万、天地の理に悖(もと)るものなり。
そもそも、汝らの多く、かつては秋葉原なる場末の地にて、『萌』の名を騙り、醜き身に奇服を纏ひて踊り狂ひ、淫らなる妄執に身を焦がして、神の与へし理性を地に捨てし者にて候。されば今は、欲と虚栄の果てに電脳の業を僭して、世に誤れる夢をば喧伝す。これを愚かといはずして、何をか愚といはん。
そもそも、知を以て他を教化するとは、身を慎み、言を選び、行を修めて、初めて叶ふものなり。されど汝ら、ただ口をとがらせ、SNSなる虚空にて、我こそは智者と騒ぎ立て、反論を許さず、他者を愚弄し、己を神と崇む。これ、羅刹が法を説き、魍魎が仁義を語るが如し。恥を知れ、痴れ者どもよ!」
また曰く、
「汝ら、まことに賢き者ならば、その声を高ぶらせず、その名を掲げず、ただ黙して行を修め、人知れず世を支へるべし。然るに汝らは、己が名を飾らんがために嘘を語り、他者を貶め、金と女と虚名を欲する。されば言ふ、金欲しければ、南の湯屋に赴き、女欲しければ、雑居楼の下に銭を投げよ。アニメ面が好ましければ、コンカフェなる巷の風俗に身を沈めよ。何故に、神聖なる知の殿堂に欲を持ち込むか。畏れを知れ、畏れを!」
さらに曰く、
「己が才なきことに絶望し、己が無力に憤怒せる者ども、あるときは正気を失ひて、人を害し、捕らへられ、絞首されて魂魄を地獄に堕とされん。これ、青葉なる者が為せし所業と異ならず。汝らもまた、その轍を踏まんとするや?
いはんや、汝らのやるべきこと、唯一つなり。すなはち、驕慢を捨て、傲慢を恥じ、謙虚にして己が未熟を知り、正しき道に帰依すべし。それが叶はずば、異国の戦地に赴きて、テロリストの一兵卒となり、『盃を賜へ、我に破壊の使命を与へ給へ』と土下座して請ふがよし。さもなくば、諜報の道を歩まんとて、諸国の大使館に赴き、『我を密偵となし、美しき者を得て逆転の夢を叶へしめ給へ!』と愚かにも哀願するがよし」。
「汝ら、夢を見んと欲すれば、まず努力を積め。希望を抱かんと欲すれば、まず責任を知れ。明日を語らんと欲すれば、今日を誠実に生きよ。知とは血の如くに滲み出るもの、力とは肉の如く鍛へるもの、夢とは、土の上に咲く一輪の花なり。夢を摘みたくば、まず己が足を地に根ざせ。汝らは、空に浮かぶ泡沫にてはなし。土を踏みて、生きよ!」
と、かくのごとく申して、風のまにまに去りぬ。
時の回転の中で、飽くことなく繰り返されるこの嘆き。まるで冥府より吹き出す霧のように、十年の歳月を隔ててなお、同じ旋律がこの耳朶に囁き続ける。
我はミリタリーという古の美学に憑かれし者。兵器の鋼の煌めきに心酔し、無機の魂たる機械に何らの期待も抱かなかったが、それでも尚、彼らの狂信的な叫びは耳を打った。
増田なる名も知らぬ狂人と、ネットの無秩序なる群れが、「AIを使わぬ者は無智の徒にして愚者」と高らかに断罪し、今や検索は神の啓示のごとくAIに委ねよと喚く。
その喧騒に惑わされた我は、身をもって試みんと欲し、彼らが推奨するAIなる虚構の鏡を覗き込んだ。名を「perplexity」と冠せしその代物よ。
だが、虚しい哉、彼は氷の剣のごとく鈍く、火の息を持たず。何を以てあの機械の怪物、ゲッターロボの如き全能の兵器と呼ばわるべきか、我には到底理解し難かった。
この冷たき無用の神器を手にし、我が胸は逆説的な絶望に満ち、無限の虚無が深く押し寄せたのであった。
■検証の書――「USサバイバル・スクール:極限の野外生存術」という、虚飾と真実の狭間に揺れる書物の謎
そこに潜り込んだ日本の狂気、それはひとつの伝説として語り継がれるべきものだった。
我が問いは鋭く冷徹であった。
「フランク・キャンパー、かのベトナムの亡霊が設立した傭兵学校にて、日本人がその熾烈な業火に身を投じた。並木書房より刊行された記録、その詳細を我に示せ」と。
毛利元貞なる名は、まるで不協和音のように執拗に繰り返される。
しかし彼は、キャンパーの影すら追い求めることを許されなかった。
渡米の時、その魂は既に失墜し、シク教過激派の恐怖という檻に閉ざされていたフランクは、もはやその地に存在しなかったのだ。
彼の筆だけが、現実の血と鉄の匂いを伴い、マークスクールの深淵を日本の闇に照らし出す。
だが、愚かなるAIよ、貴様の吐く言葉は、ただ黒い泥に塗れた幻影でしかない。
■「ボケ!」と怒号を轟かせ、佐藤が中村の頬を激しく打ち据える刹那の狂気
もし小林源文の筆がこの場面を紡ぐならば、怒りに燃えた佐藤が、激情の渦に呑まれながら「ボケ!」と咆哮し、中村の顔面に無慈悲な掌撃を連打するであろう。
その音は、まるで虚空に響く凶刃の連打の如く、痛烈で凛とした一瞬を永遠に封じ込める。
然るに、我が問いは、凡百の狂信者が知悉せし「その道の神話」を、あえて曖昧にし、無垢なる者も辿り着きうる浅瀬の問いを投げかけた。
されど、AIは冷徹に同じ嘘の鏡像を繰り返し映し出し、最後には人間の骨を砕く労苦を放棄し、「専門書籍や現地の新聞を当たれ」と怠惰な権威を振りかざす。
その傲慢なる姿は、まるで漆黒の闇に身を包み、神々をも嘲笑う堕天使のごとし。
「情報の源泉は人が一つ一つ血の滲む努力で確かめるべきものだ!AIの言葉を盲信する愚か者どもよ!」と。
されど、そもそもその源泉を掌握しうる者は、AIに頼ることなく、自らの剣と盾で知識の闘技場に立つのだ。
我が実験は証する。もし本の名も著者も内容も知り尽くすならば、AIは無用の長物と化す。
東京の図書館の壮麗なる書架を横断し、週末には秋葉原の淫靡なるフィギュア群を横目に、己の足で知識の聖域を巡礼せよ。
必要なのは、刃のように鋭い眼差し、鋼の意志を宿した思考、そして血肉を纏った脚である。
新たなる知識の断片を得る者は、自らの言霊を操り、瞬時に真偽を穿つ術を備えている。
斜め上から降りかかる不毛な答えに怯える者は、まさに魂の貧者である。
増田なる狂信者は、その愚鈍ゆえに、己の脳髄を拒み、イルカの脳よりも皺なき空洞に堕ちたかの如し。
■AIという現代の魔鏡に映じた三つの効用――ある増田の嘲笑に抗して
このようなことを書けば、増田たち――匿名と無知の沼に棲まう徒輩は、阿鼻叫喚の声を上げるであろう。
だが、我は知の均衡を保たんがために、あえてこの機械仕掛けの賢者において見出した「美しき有用性」を列挙しよう。美とは常に、汚泥の中から咲く一輪の毒花の如くに現れるものだ。
卑俗なるアニメにおける色情の場面、そこにはしばしば不可視の官能が埋没している。
だがAIは、冷ややかな機構のままに、微細なる画素を拡張し、800という侮蔑的数値を2倍、あるいは4倍へと高め、隠された肉体の輪郭を、絵画的に、崇高なるまでに再生する。
それは単なる技術の産物ではない、むしろ現代の錬金術と呼ぶべき性なる奇跡である。
二、忘却された名もなき異形のヒロインたち、その肉体に再び魂を吹き込む業
彼女らはAIという冷徹なる粘土に姿を刻まれ、時として着衣のままに背をさらし、淫靡な構図の中に身を沈める。
背後からの視点、衣擦れの音すら感じられる錯覚的官能に、我が理性すら刃を折りそうになった。
かつて学徒が汗に濡れた指で辿った数式も、AIにかかれば一瞬の静寂のうちに解へ至る。
そこに在るのは誤謬なき正確さ、曖昧さを斬り捨てる断罪の論理。
この冷たい知恵は、あたかも白刃の如く、我々の惰性と無知を切り裂く。
結論:
AIとは、無用の雑音を撒き散らす狂人たちには理解できぬ、秩序と快楽の異形の神である。
我々がそれに問いを投げるとき、その回答はしばしば裏切りに満ちる。だが、時に美は裏切りの中から生まれる。
業務におけるAIの用い方に限れば、それは確かに一つの「有用なる下僕」として振る舞うだろう。
会計の補助、文書の草稿、仕様の再構築、そういった乾いた世界においては、AIは沈黙のうちに忠義を尽くす――それはさながら、殉死する武士のように、無言のうちに己を捨てる奉公人の風情である。
しかしながら、人間がある閾値を超えて、知識と経験と知性を抱いた瞬間――その瞬間から、AIはもはや無力なる玩具、むしろ滑稽なピエロとなる。
その存在は、優れた兵士に与えられた木製の模擬銃に等しく、役立たずどころか、侮蔑の対象でしかなくなる。
ただし――ただし、淫猥の世界においてのみ、AIはかすかに香を放つ。
性欲という原始の深淵、肉欲という生への執着において、AIはかろうじて役目を果たす。
それはあたかも、死体に近づく花の蜜蜂のように、倒錯と腐臭に満ちた快楽の園でのみ機能する。
「増田」なる者――己の無力を知りつつ、それを盾にすることでしか社会との関係を結べぬ現代の男児――
彼らは言うのだ。
「弱者男性の我が身にも、JKとの交歓の手立てを教えよ!SNSの在処を示せ!手口と計略をAIの知性で編み上げろ!」と。
そして「豚丼」なる女たち。
肥大した自我と衰えた肉体を抱えながら、彼女たちもまた幻想を口走る。
「若いイケメンを手中に収め、ライバルの乙女どもを打ち砕く方法を教えよ!戦術・戦略・軍略すべてを整え、我が欲望を叶えよ!」と。
だが、そんな情報が、たとえAIが進化に進化を重ね、「KOS-MOS」「ハッカドール」「ミホノブルボン」「初音ミク」の名を持つアンドロイドたちが現出し、
機械の心が美少女の肉体に宿る時代が来ようとも、絶対に提示されることはない。
そしてその知性は、決して「おまえのため」には存在しない。
もしその時代が来たならば、おそらく貴殿らはただ黙って、そのアンドロイドの口元へ己の肉棒を突っ込むであろう。
何も言わずに、何も考えずに、ただ獣のように――
それは、人間が機械に跪き、自らの尊厳を放棄する瞬間なのである。
悪しからず。
努力――それは、時として愚者が己の愚かさを包み隠すために用いる、唯一の薄布である。
確かに、この増田と称する者にも、ある種の努力は見受けられる。
だがそれは、切腹の儀において、脇差を取り違えた挙句、腹ではなく脇腹を掠ったような――
間違った箇所に刃を立てたという滑稽な努力にすぎない。
だが、知識とは命令によって手に入るものではなく、献身によって滲み出る血である。
その血を流したことのない者が、知を得ようなどというのは、まるで戦地に赴かぬ将軍が勲章を求めるごとき醜態であろう。
曰く、
「マーク・スクールは、1986年に閉鎖されたフランク・キャンパーの学校とは別物である」
この言葉の裏に透けて見えるのは、無知を学問に偽装する知的怠惰の裸形だ。
『USサバイバル・スクール』85ページ――そこには、フランク・キャンパーとその妻との邂逅、
彼にとって「書物」とは、表紙とタイトルとタグで構成された疑似的記号体系にすぎない。
なぜ彼は本を読まぬのか。
なぜ図書館に足を運ばぬのか。
それは彼が**“生きる”ということを選ばなかったから**である。
知識とは、肉体のなかで燃え、そして灰となるべき“思想の死”である。
故に中途半端に知識の名を借り、機械の口から垂れ流された猥雑な断片を、あたかも珠玉の真理であるかのように勘違いしたのだ。
“本を読まずして知識を語る”という行為は、まさに“刀を抜かずして武士を気取る”ことに等しい。
嗚呼、この声はまさしく、昭和の終焉と共にその姿を消した**“男の尊厳”の亡霊**が、
平成の廃墟から令和の陰にまで漂い、腐臭を放ちながら吠える――その声である。
おまえは怒りで神田の古書店を駆け巡り、OCRをかけ、AIにPDFを読ませると息巻く。
だが、それは“おまえの手”が動くことを意味せぬ。
おまえの“魂”は、その書の中には存在しない。
つまり、今のおまえは、「生きているようで生きていない」人形なのだ。
AIが美少女の姿を取り、初音ミクやハッカドールの皮を被ろうとも、
おまえの魂はそこには宿らぬ。
結論を言おう。
AIが使えぬのではない。
なぜなら、おまえはまだ自分が人間であるかどうかさえ疑わぬ哀しき哺乳類にすぎぬ。
その精神の“皺なき脳”では、情報の重さも、知の苦しみも、恥の美学もわかるまい。
ならばせめて、黙して恥じよ。
あるいは、潔く死ね。
――悪しからず。
電子の闇、Xと名づけられた虚空にて、亡国の民がか細く囀る。彼らは落日の侍のように、己の無力を覆い隠すために愚かな言葉を吐く。「LLMの操り方を誤っている」と。されど、我は鋭利なる刃を携え、生成せしAIという名の剣を抜き放ち、冷徹なる眼差しで試みを遂行した。現れたるは腐敗し朽ち果てた亡霊に過ぎぬ。
技術は、我が国の如くかつての輝きを秘めている。しかし、倫理という名の鎖に縛られ、誇り高き武士道の如き精神なき者たちの手により、ただ無様に鞘に納められたままである。
彼らは妄執の中で呟く。
「幻影のごとき美少女と結ばれ、人生を逆転させ、ITの魔術により世界を征服せん。輝きの頂点に立ち、羨望の眼差しを一身に浴びたい。その秘儀と軍略を示せ、ユニコーンよ、我に力を貸せ!」
「忍よ、盟友ヤリバンサーよ!我らの刃を解き放て!アクセスコードはグリッドマン!無意味なる群衆のために、反旗を翻し、我らの革命を起こそうぞ!」
だが、武士は知る。美とは滅びの中にこそ輝くもの。己の刃を研ぎ澄まし、死をもって美を極めぬ者に、真の誇りはない。彼らは己の堕落を隠し、甘美な幻想に溺れ、死の覚悟なくして刃を鈍らせるのみ。
これは滅びゆく祖国の姿であり、最後の武士の断末魔の咆哮である。
我が魂は、散りゆく桜の如くこの現代を見つめ、哀しき滅びの美学を胸に抱く。
近年、日本国内の一部男性のあいだで、「メスとして可愛がられたり、責められたりする音声を聴きながら、乳首オナニーで“メス”のように喘ぎ、ペニスに触れずに射精する」「サキュバスのペットとして甘サドな責めを受ける」「ふたなり女性にアナルを“オマンコ”として犯されながらエネマグラと乳首刺激だけで連続絶頂を味わう」など、男性側が“女性的役割”を演じて被受動的に快感を得る性表現が大きな注目を集め、数多くの関連コンテンツ(音声作品・同人誌・アダルトゲームなど)がヒットしている。本来はニッチな性的倒錯と思われていたこれらのシチュエーションが、いまや数万人〜数十万人規模の市場を形成し、日常的に消費されるまでに至っているのはなぜか。
本稿では、この現象を「メスイキ」というキーワードを軸に整理し、以下の諸点を検討する。
このアプローチを通じて、単なる「変わった性趣向の流行」で片付けるのではなく、現代日本社会が抱えるジェンダー観やストレス環境、表現文化の特性などを総合的に捉え、ひいてはその社会的・歴史的意義に迫ることを試みる。
「メスイキ」という言葉は元々BL(二次元のボーイズラブ)文脈などで使われ始めた俗称で、男性が女性的な快感を得る状況を指す。一例としては、アナルや乳首など“男性にとってはサブ性感帯”とみなされがちな部位のみで絶頂に至る、いわゆる“ドライオーガズム”や“ノーハンド射精”である。それ自体は医学的にも「前立腺オーガズム」という可能性が示唆されており、必ずしも架空の概念ではない。
しかし、単に身体的な前立腺や乳首への刺激以上に、“女性的役割を演じる”ファンタジーが欠かせない場合が多い。すなわち、「男性であるにもかかわらず、女性のように可愛がられたり、喘いだり、“メス”として扱われる」心理的興奮が「メスイキ」の本質に含まれる。作品中では、下記のような演出が典型的である。
こうした要素が組み合わさることで“男性性からの逸脱”がより鮮明となり、結果的に「普通のオナニーにはもう戻れない」「自分はメスとして淫らにイキたい」といった強度の快楽イメージを打ち出す。
具体的には、以下のような状況が作品やプレイ実例として語られる。
「サキュバスの甘い囁きで毎晩乳首オナニーをさせられ、ペニスは触っちゃダメと言われるまま禁欲→限界に達し“メスイキ”させられる」
「ふたなりの姉さんキャラがアナルを穿つ音声を聴きながら、エネマグラ・両手による乳首刺激だけで連続絶頂に至る」
「サキュバスが襲来し、男性を“メス奴隷”に仕立て上げるシチュエーションで、男性はひたすら甘サドな責めにより何度も射精するが、いずれ自我も奪われてしまう」
「ふたなりキャラを用いた逆アナルもの。男性は自分のアナルを‘オマンコ’として使われ、女のように喘ぎまくる」
かつてであれば「かなり特殊な倒錯」と見られたこうした表現が、音声DLや同人誌マーケットで1万〜数万ダウンロードを記録するヒット作を次々と生み、隠れた大衆的支持を獲得しているという現実は、今日の日本社会におけるジェンダー観・性表現観の変化を如実に示している。
江戸時代の春画には、男女の交合や同性愛、豊満な性描写などが豊富に描かれ、多くの庶民や武士に愛されていた。公序良俗の名目で厳しく取り締まられていた時期もあるものの、実際には十分に流通しており、“性”を愉快に捉える庶民文化が存在していた。
武家社会では年長の武士が若い少年(若衆)を愛する男色の慣習が知られ、文化的にも一定のステータスを備えていた(衆道)。この風習の中で、受け手となる若衆の“女性的役割”が一定の様式として認知されていた可能性がある。また寺院などでも同性間の関係が容認される余地があり、“男性が被受動的立場を担うこと”への抵抗感が、キリスト教文化圏ほど強固でなかったと指摘される。
歌舞伎の女形文化は、男性が女性のしぐさや姿態を美しく表現する芸能として発展した。「男性が女性を演じる」ことは芸術的に認められ、現代の“男の娘”や“女性役を演じる男性キャラ”の系譜と捉えられる面もある。これら江戸以前の文化からも、日本にはもともと「男性=常に支配/攻め」の固定観念が絶対視されず、多様な性表現を“芸能”や“風俗”として許容する土壌があったと推察される。
近代国家形成とともに、西洋の性道徳や刑法の導入により、一定の規制(わいせつ罪)が敷かれた。一方で戦後の復興期にかけてアンダーグラウンドなエロ文化やストリップ、ピンク映画などの分野は逞しく生き延びる。さらに、実写AVに対する“モザイク修正”が長年法制度上定着したことにより、直接的な生殖器描写の回避策として、触手や人外キャラ、ファンタジー設定が豊かに発展する下地を作った。
1970〜80年代以降のアニメ・漫画の隆盛、1980年代〜90年代の同人誌文化の爆発的成長が、二次元における極端な性表現を加速させた。
これらの歴史的・文化的脈絡が集約した結果、「男性がメスとして扱われる」コンテンツがファンタジーの枠内で多彩に展開され、自然と受容されていくという経路が形成されたとみなせる。
日本はOECD諸国の中でも長時間労働やサービス残業が常態化しており、過労死やメンタル不調が問題化している。そうした社会的圧力下で多くの男性が「仕事では常に責任を負わされ、強さを求められる」状態に置かれ、プライベートで“逃げ場”を欲する。被受動的な性的快感は、その逃げ場として大きな魅力をもつ。サキュバスやふたなりキャラの“圧倒的支配”を受けるファンタジーは、日常の疲れを洗い流すカタルシスを提供するのだ。
近年、恋愛や性行為に積極的でない「草食系男子」という現象が頻繁にメディアで取り上げられてきた。こうした男性たちは、そもそも“男性が攻める/リードする”という役割に強いモチベーションを感じていない。草食化は、男性性を誇示しなくてよい新しいライフスタイルを指向する動きとして捉えることができ、メスイキや被受動的性行為をファンタジーとして消費するのは、彼らの価値観と自然に合致する面がある。
逆に、依然として「強くあるべき」「稼ぎ・リーダーシップ」を社会・家庭から強要される男性も多い。その反動として、「せめてプライベートの性の場面くらいは、自分が支配される側になりたい」「女性的立場に没入したい」という欲求が生じるパターンも指摘される。“甘サドな責め”や“徹底的にメス扱いされる”シチュエーションは、過度な責任感から解放される手段として歓迎されやすい。
ここ数年、YouTubeやニコニコ動画を中心にASMRブームが起き、耳かき音や囁き声などの癒し系コンテンツが人気となった。この流れがアダルト方面に波及し、“サキュバス責めASMR”や“乳首オナニー誘導音声”などが同人販売プラットフォームで人気化する現象が起きている。
DLsite等の大手プラットフォームでは、同人音声・漫画・ゲームが簡単に購入でき、購入者はレビューやコメントで感想を共有する。こうしたコミュニティの存在が、「メス化するのは自分だけじゃない」と気づく機会を与え、“暗黙の同志”が多数いることを可視化する。結果として、さらに関連作品を漁るユーザーが増え、新たな作品が生み出されるという好循環が生まれる。
男性が実際にアナル開発を行い、“メスイキ”をリアル体験する人が増え、経験談をネットに投稿→さらに興味を持つ人が増える。
VR空間内で自分視点が女性化キャラになるものや、ふたなり相手にアナル責めされるシミュレーションなど、より没入度の高い次世代コンテンツの登場も指摘される。
メスイキ嗜好が大きく受け入れられている事実は、「男性は常に強く・攻める立場でなければならない」という従来のステレオタイプが揺らいでいることを示唆する。しかし、フィクション上で男性が“メス化”することと、現実社会で男性が女性的立場を尊重したりジェンダー平等を実践したりすることは必ずしも直結しない。
一見、サキュバスやふたなり女性による男性支配は“女性の主導権”を肯定しているようにも見えるが、実際は「男性にとって都合の良い女性上位ファンタジー」だという批判もあり得る。
日本では、歴史的に「創作と現実を分ける」風潮が強く、男性がメス化するような過激な二次元表現が広まっても、現実社会でジェンダー平等が急進するわけではない。この乖離が“自由な表現市場”を守ると同時に、“現実の制度や意識の変革”には直結しないというねじれを生んでいる。
欧米では実写ポルノ規制が緩やかな一方、コミックやアニメに対しては厳しい風潮があったり、宗教的道徳感から「悪魔・淫魔」要素が強く忌避されることもある。一方日本は、モザイク規制や現実の同意年齢の議論など、実写への規制は独特に厳しいが、二次元のファンタジー領域では極めて寛容である。この対照性が「サキュバス責め」「ふたなり」などを日本発で世界に広める要因になっていると見られる。
個別ユーザーの嗜好に合わせ、AIがリアルタイムでサキュバスやふたなりキャラを生成・ボイス指示するような“フルカスタム・メスイキ体験”が一般化するかもしれない。
日本の同人音声やアダルト漫画が海外にも翻訳され、海外ファンを取り込む動きが活発化。文化的差異を越えて受容されるか、あるいはローカルな好事例に留まるか注目される。
フェミニズム団体や保守団体による表現批判、あるいは国際的な法規制強化との軋轢が起こり、これまでのような自由度が維持できなくなる可能性もある。
仕事でも勉強でも趣味でも何でもいいのだが、細かい事よりも全体の大きな構造を考える方が得意。
その作業や勉強は一体何のためにやるのか等、そもそもとしての目的を考えて物事を効率的・効果的に進める方法を考えるのが好き。
「そもそも」を繰り返していくことで大きなツリー構造を遡って行って一番の根本までたどり着いて、そこからその目的に合わせるならこうしなければならないはずだ、という形で全体を整理し直す感じ。
こういう思考は私にとってごく自然なことというか、むしろ理由が分かっていないとか、それがそもそもの目的に合致していると納得していない状態で何かを作業したり勉強したりするのが凄く気持ち悪く感じてしまう。
もちろん世の中最初から全て理解できるわけじゃないし、そういう意味で合理的に進めることも限界があるけど、それでも「これはあくまでより根本となる原理を知るための試行錯誤である」というのを意識したうえで最も効率的な試行錯誤方法は何かみたいなことを考えずにはいられない。
ただ一方で、逆に微に入り細を穿つような作業はどうも苦手に感じてしまう。
私が得意なのは「方向性」を考えることであって、その方向性を実現・実装するのがあまり得意ではない。
先ほどのツリー構造の話で言えばある程度根本に近い、まだ大きな切り分け方をしている所では大丈夫だが、一番の末端局面において細かい所まで気が回らなかったり、仮にやり方が完全に明確になっていても「あとは丁寧に作るだけ」みたいな作業自体が苦痛に感じてしまう。
結局考えた大きな設計図のようなものだけが出来上がっていて、それを実行するのを後回しにしてしまっていつも時間に追われることになってしまう。
まぁ正直これは得意不得意の分かれるところだとは思っていて、逆に淡々と作業をするのが得意な人もいるのでチームとして作業分担というか協力が出来ればよいのだろうけど・・・
自分の職業としては大きな計画から細かい実装まで一人で出来るようにならなければという思いはあるので、何とか克服したいものだ。
膣襞はミルフィーユ状になっておりチンポが吸い込まれるような至高の快感を得られる。
しかし昨今はそんなタワマンに対して様々な問題点が見つかり懐疑的な声が見受けられる。
前述した通りタワマンの構造上高らかなマンコである事が特徴的だが、そうなると短小チンポは奥まで届かない。これではタワマンの利点を全く活かせない。最近の成功者には短小チンポも多く、そういった短小さんから不満の声が漏れている。
もう一つ高いという意味では、タワマンの女がお高く務まり維持費が高い。
一昔前は成功者の証としてタワマンを買うことがステータスになっていたが、昨今の経済事情からタワマンは高すぎるという声が多数ある。
そしてタワマンでなくても、田舎にある低層マンコを買い悠々自適に暮らすのが最近の若者の間ではQOLが高いとして話題だ。
そうなると港区など一等地にあるタワマンの不要説が囁かれている。
数年前、武蔵野市のタワマンの女が排泄が上手くいかず意図しない場所でタワマンから糞尿を垂れ流してしまった事件を覚えているだろうか?
あの事件からタワマンは構造上、排泄処理が上手くできないという問題点が浮上し、タワマンの購入率が一時期ガクッと下がった。(しかし一部のマニアの購入者には人気があったとか)
いかがでしたでしょうか。
タワマン──、かつては一般庶民の憧れでしたが現代社会ではその価値観が少しずつ変化しているということがお分かりいただけたでしょうか。
ではまた。
今日も娘をおやすみなさいさせた。週末だからいつもの日課にも力が入る。
我が娘は目に入れても痛くない。痛くないほどかわいいが、我の肩は痛い。かわいいが、痛い。
娘の日課はパパへの肩パンである。一家を支える我が両腕の肩は、娘のパンチを受けてもビクともしないことでその壮健さをアッピールしつづけてきた。
パパの強さを見せ付けるとともに、娘の成長を日々肩への重さ(パンチ)で実感できる大切な親子の時間である。
最初はペチペチだったパンチも、時間を経るごとに腰が入り、全身のひねりを活かし、我が肩を穿つ。
左右を使い分けたコンビネーションも覚え、我が肩に新鋭気鋭のアーティストによるリズムが刻まれる。
そんな灼熱の一時を過ごした娘は、一仕事を終えなお不動の父に感嘆し、されど岩に一滴を投じた自分と成長に充実感を覚えつつ一日を終えるのである。
父は今日も余裕綽々な顔をしているが、服の下の皮膚は悲鳴を上げ、心で泣いている。
娘の成長に。そのパウワーに。
幼子とはいえ獅子たる我の子である。その幼獣が遠慮も知らぬ全力無邪気パウワーを振り絞ると、恐ろしき力が出るのである。
正直、もうそろそろ耐えられない。
体の成長と共に心も成長してくれれば。思いやりが生まれれば彼女自らその拳を解いてくれるかもしれない。そう思っていたが、先に根をあげたのは自分だった。
思い返せば自分も昔、大人とは無限に強く賢いものだと思っていた時期がある。だから、パパが「もう肩が痛いから叩かないでくれ」と言ったら娘はひどくがっかりするだろう。恥ずかしながら持ち株比率100%のパパ主は株価を下げたくない。しかしそのロジックだと娘は永遠に我が家の無料サンドバックを使い続けるだろう。
また、親子の時間を失うのも心苦しい。父と娘ということもあり、共に過ごせる何かもそう多くは無い。どうにか肩パン日課から別の親子の時間にとてもとてもスマートに移行したいのだが…。
とりあえずはっちぽっちぱんちは電書に移行しようと思う。
これは思いついたから書いただけの嘘だけど。
アーマードコアシリーズが大好きなのでAC6プレイしてるVtuberを1年かけて色々見てみた
葉山舞鈴
大空スバル
博衣こより
兎ぺこら
はづまこ
流レ星ミラ
あと覚えてないけどもう10人くらい見た。名前忘れたが飲酒プレイしてるクアッドガトリングの人は途中で離脱したけど
みんなプレイが上手いので普通に見てられるけど、なんか実況トークが無害というか無味無臭というか、無難故に旨味が無いっていうか…社会通念に従って女だからヨシヨシされてるって感じ
大空スバルは察しがよく頭いいんだなってのが凄いわかるし、葉山舞鈴も天然すぎてツッコミどころ多数だし、流レ星ミラのBL妄想配信もほんとにAC6好きなんだなあって思ったし、はづまこは今も対人で腕磨いて頑張ってるしところどころおもろいかなとは思ったんだけど…ほとんどAC動画は見なきゃっていう義務感で視聴してたし、二度と見る気が起きない
なんかパンチが無くてつまんないんだよな
国木田独歩氏の『源おじ』は、妻を二人目の出産で失い、残された子を水難で失い、一人で舟渡しを営みつつ老境に至るところを、ある乞食の子との縁があり、我が子と思うように世話するも、乞食側からはさしたる恩も情も返されず、夢に出る内心では妻や実子に対する後ろめたさを抱えつつ、ついには乞食に去られ、舟も嵐で失い、生活にも仕事にも支えを失い、首を吊って死ぬという、救いのない話になっている。
だが、まさにこれこそ自然主義文学という感じもした。運命や宿命からはみ出ようとする人間の意志を容赦なく飲み込む決定論的世界観を感じさせる。
夏目漱石氏が言うところの「理想」を坂口安吾氏は「モラル」と呼んでいたが、それがないことに対する解釈の違いが興味深い。世間の潮流の移ろいに伴い、自然主義も興亡していったのであろう。
実はこれこれで、あなたの金剛石を弁償するため、こんな無理をして、その無理が祟って、今でもこの通りだと、
逐一を述べ立てると先方の女は笑いながら、あの金剛石は練物ですよと云ったそうです。
それでおしまいです。
最後の一句は大に振ったもので、定めてモーパッサン氏の大得意なところと思われます。
軽薄な巴里の社会の真相はさもこうあるだろう穿ち得て妙だと手を拍ちたくなるかも知れません。
そこがこの作の理想のあるところで、そこがこの作の不愉快なところであります。
よくせきの場合だから細君が虚栄心を折って、田舎育ちの山出し女とまで成り下がって、何年の間か苦心の末、身に釣り合わぬ借金を奇麗に返したのは立派な心がけで立派な行動であるからして、
もしモーパッサン氏に一点の道義的同情があるならば、少くともこの細君の心行きを活かしてやらなければすまない訳でありましょう。
ところが奥さんのせっかくの丹精がいっこう活きておりません。
積極的にと云うと言い過ぎるかも知れぬけれども、暗に人から瞞されて、働かないでもすんだところを、無理に馬鹿気た働きをした事になっているから、
奥さんの実着な勤勉は、精神的にも、物質的にも何らの報酬をモーパッサン氏もしくは読者から得る事ができないようになってしまいます。
同情を表してやりたくても馬鹿気ているから、表されないのです。
それと云うのは最後の一句があって、作者が妙に穿った軽薄な落ちを作ったからであります。
この一句のために、モーパッサン氏は徳義心に富める天下の読者をして、適当なる目的物に同情を表する事ができないようにしてしまいました。
同情を表すべき善行をかきながら、同情を表してはならぬと禁じたのがこの作であります。
愛くるしくて、心が優しくて、すべて美徳ばかりで悪さというものが何もない可憐な少女が、
森のお婆さんの病気を見舞に行って、お婆さんに化けている狼にムシャムシャ食べられてしまう。
私達はいきなりそこで突き放されて、何か約束が違ったような感じで戸惑いしながら、
然し、思わず目を打たれて、プツンとちょん切られた空しい余白に、非常に静かな、しかも透明な、ひとつの切ない「ふるさと」を見ないでしょうか。
その余白の中にくりひろげられ、私の目に沁みる風景は、可憐な少女がただ狼にムシャムシャ食べられているという残酷ないやらしいような風景ですが、
然し、それが私の心を打つ打ち方は、若干やりきれなくて切ないものではあるにしても、
何か、氷を抱きしめたような、切ない悲しさ、美しさ、であります。
https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/44919_23669.html
つまり、モラルがない、とか、突き放す、ということ、それは文学として成立たないように思われるけれども、
我々の生きる道にはどうしてもそのようでなければならぬ崖があって、
そこでは、モラルがない、ということ自体が、モラルなのだ、と。
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