
はてなキーワード:福島第一原発とは
今どき新聞を購読し続けてるのはアナクロでしかない、ニュースはネットでただで読めるものなのだから紙の新聞なんぞ必要ない
という時代ではあるが、仕事の兼ね合いもあって新聞を紙で取り続けていた。
とはいえ取っていたのは毎日新聞なので、あまり仕事は関係なく、最後の数年はほぼほぼ意地であった。
元々、実家は二世帯住宅で祖母宅は朝日、父母は毎日を購読していた。物心ついたころからリベラル寄りの家と言うわけでもない。たぶん実家に家を建てたときに来たのがこの2紙なのだろう。
なので、毎日新聞で私は育った。小学生時代は毎日小学生新聞を読んでいた。園山俊二の「がんばれゴンべ」を読んで育った(いやそれは言い過ぎか。僕の小学生時代にはすでにアナクロだった)
その後もずっと毎朝、毎日新聞を読んでいた。旧石器捏造事件もリアルタイムで読んだ。あの当時の紙面構成もいまだに覚えている。
21世紀になるころに実家を出た。最初に来た新聞の勧誘がたまたま毎日新聞だったのでそのまま購読した。まだまだ新聞を取るのが常識の時代だった。毎日は大して販促品をくれなかった。翌日に来た読売が山ほど洗剤やらなんやらの販促品をもってきたので、そっちにすればよかったと思った。
数年後、更新のタイミングで現在の家を購入した。とはいえ都内で一軒家を建てられる甲斐性はないのでマンションだ。
たまたま新開発の地域だったこともあり、マンション全体の管理の都合上、購読紙は管理組合が読売がおすすめ、それ以外でもまあいいけどそこまで推奨しないということだった。
なので最初の1か月はお試しで読売を取ってみたが、思った以上に紙面が読みにくく1週間ほどでギブアップしてしまった。新聞なんてどれでも大したことないと思っていたが、思った以上に文体も紙面構成も自分の肌に合わなかった。
1か月で切り上げて朝日に切り替えた。そうしたら、困ったのはチラシだ。居住エリアとチラシが全然合わない。どうやら朝日の販売店のエリアが住まい周辺は端っこらしく、チラシが普段全然使わない駅のスーパーものばかりになってしまったのだ。
困ったのでマンションの元受けに電話してみたら、読売と同じチラシが入るのは毎日だと言われた。
このころ(ゼロ年代半ばくらい)は毎日新聞の論調はまだマシだった。例のWaiWai問題はあるものの紙面そのものは特におかしいところは少なかった。もともとの自身のリベラル志向と新聞の相性が悪くなかったんだと思う。
なんとなくの転機はやはり東日本大震災だと思う。震災後、特に福島第一原発後あたりからかなりおかしくなってきた。
とはいえその頃の毎日新聞には、自分が信頼を置ける記者が何人かいて、その人たちは冷静でポジティブな記事を書いていて非常に好感を持っていた。
なんか紙面全体が、昔はよかった昔はよかったとぶつくさ言いながら喫茶店や床屋で政談をふっかけるおっさんみたいになってきた。
自民党が選挙で大勝して安倍政権になってからはさらにその傾向が強くなった。
僕が信頼していた記者も一人は退職し、もう一人は記者ではなくCSR関連の部署にいってしまい、ものすごく残念だった。
HPVワクチン報道、草津温泉の件など、信頼できない記事が目に見えて増えているのもかなりきつかった。
紙面全体に漂う「ネット言論はすべて敵だ」みたいな空気もすごくきつかった。
だんだん、毎日を取る理由は広告以上のものはなくなっていった。とはいえ、なんとなく経営の危うい(危ういのはもう30年くらい前からだが)新聞を買い支えてる気持ちもあった。
このころ、毎日で唯一よかったのは紙をとっていれば、ネットの有料記事も無料で読めたことだった。
しかし、それも少し前に改定されてしまい、紙でとっていても追加料金を払わなければ紙面をよめなくなってしまった。
この辺でいわば買い支えていた心がぽっきり折れた。そもそも購読料がどんどん値上がりするのもダメすぎた。その金額に情報価値が見合ってなさ過ぎた。
まあ40年も読み続けていれば飽きるというのもある。
実はこの10年ほど仕事で必要というのもあり、日経を電子版で購読していた。
朝の通勤時は日経電子版を読むことが多かった。はてなでは日経は観測気球や飛ばしが多いという印象をもたれがちだが、正直、日経の方が経済への影響を視野に入れるためか、政治や国際情勢に関する記事はフラットで読めるものが多い印象をもった。
今年に入り、自分の支出を見直すようになったこともあり、選択肢として新聞も考えることにした。
そして、毎日をやめて日経を紙でもとることにした。電子版に追加料金で取れるのでこっちでよかった。実は毎日を紙と電子版で両方取った場合と金額はかわらないのだが、毎日を電子と紙で取るという選択肢はなかった。
今年の春くらいから日経に切り替えたので、そろそろ半年たつ。少し懸念していたチラシについては、欲しいチラシは全部入るので日経で十分。
紙面内容もこちらの方が満足度が高い。私の履歴書で有名な文化面が実は読みごたえがあるのに初めて気づいた。通勤時の電子版では後半を読まないので気づかなかった。日経はそもそもの購読者を想定しているせいか、紙面に啓蒙しようという空気が薄いのが良い。啓蒙と言えば聞こえがよいが、今の毎日や朝日はバカを言いくるめようとしているだけとしか思えない。日経は多少のリテラシーがあることを前提に記事を書いてるように思う。つまり読者を信頼している。今の毎日や朝日は読者をバカにしてるのではないだろうか。
毎日では入らないラグジュアリーブランドの広告なんかも逆に面白い。15段ぶち抜いた派手な広告は毎日ではこの数年お目にかかったことが無い。
エコーチャンバーな情報はさんざんネットで浴びるように読んでいるので、新聞はもう少しフラットな情報を読ませてほしい。そういうニーズにこたえてくれるのは今は僕にとっては日経なのだろう。
ようは今の毎日新聞の紙面はクソだと言いたいだけの記事でした。
ところで、この記事を書くために毎日新聞のwikipediaを見たら、なんかしらんがごっそり内容が削除されてるね。以前は誤報や議論となった報道がぎっしり書かれていたんだが。
変更履歴をみたら、去年の10月にごっそり半分くらい削除されてるっぽい。変更した人はこの毎日の記事だけしか手掛けてない。特にそれについて議論もされてないな。なんだこれ。
俺様:
3.11の東日本大震災での原発事故を受けて安全基準も新しくなったと思うのですが、この安全基準が本当に安全なのかを検証したいと思います。もし、3.11の事故当時の朝に戻れたとすると、この新しい安全基準で補強された原子炉や手順書は、同じ災害にあったとしても、メルトダウンを回避できるのでしょうか?できるとしたら、なぜできるのか、どの更新された安全基準がそれを可能にしているのか教えてください
https://grok.com/share/bGVnYWN5_bc94a3fb-fed1-4c89-b4cf-3a0df30c4fb3
AI:
東日本大震災(2011年3月11日)で発生した福島第一原子力発電所事故を踏まえ、日本では原子力発電所の安全基準が大幅に見直され、2013年に新しい規制基準が施行されました。この新しい安全基準が本当に安全かどうか、また当時の状況下でメルトダウンを回避できたかどうかを検証するには、事故の原因と新基準の具体的な強化点を比較し、論理的に考える必要があります。以下で、順を追って説明します。###福島第一原発事故の主な原因福島第一原発事故では、地震による揺れで原子炉は自動停止しましたが、その後の津波が全ての電源(外部電源と非常用ディーゼル発電機)を喪失させました。これにより、冷却システムが機能せず、1~3号機でメルトダウンが発生し、水素爆発や放射性物質の放出に至りました。主な問題点は以下の通りです:1. **津波対策の不足**: 想定を超える14~15mの津波が襲来し、敷地高さ10mの防護が不十分だった。2. **全電源喪失(SBO:Station Blackout)への備え不足**:電源喪失後、冷却を維持する手段が限られていた。3. **非常用冷却装置の脆弱性**: 例えば1号機の非常用復水器(IC)は手動操作が必要で、電源喪失で確認・制御が困難だった。4. **複数号機同時事故への対応不足**:複数号機が同時に危機に瀕し、人的・物的リソースが分散した。5. **水素爆発対策の欠如**: 格納容器から漏れた水素が建屋内で爆発し、事態を悪化させた。### 新しい安全基準の概要2013年7月に施行された原子力規制委員会(NRA)の「新たな規制基準」は、福島事故の教訓を反映し、以下の点を強化しました:1. **自然災害対策の強化**: -津波や地震の想定を見直し、過去最大級の自然災害を基準に設計(例:津波高さの再評価と防潮堤の強化)。 -敷地高さを超える津波でも重要設備が浸水しない設計を義務化。2. **電源喪失への対策**: - 7日間以上の連続運用が可能な非常用電源(移動式発電機やバッテリー)の配備。 -複数かつ独立した電源系統の確保。3. **冷却機能の多重化**: -電源喪失時でも動作する代替注水手段(例:消防車やポンプによる外部注水)の準備。 - 蒸気駆動の冷却装置(RCICなど)の信頼性向上。4. **シビアアクシデント(過酷事故)対策**: -水素爆発防止のための水素制御装置(再結合器やベント設備)の設置。 - 格納容器の圧力制御を強化するフィルター付きベントの義務化。 - 溶けた燃料(デブリ)の冷却・封じ込め手順の整備。5. **複数号機事故への備え**: -複数号機が同時に事故に陥るシナリオを想定した訓練と設備の冗長性強化。###2011年3月11日の状況で新基準が適用されていた場合、メルトダウンは回避できたか?新基準が当時の福島第一原発に適用されていたと仮定し、事故当日の状況(地震M9.0、津波高14~15m)を再現した場合、メルトダウンを回避できる可能性は高まりますが、完全に保証できるわけではありません。以下に、回避可能と考えられる理由と、それを支える新基準の要素を挙げます。#### 1.津波対策の強化による電源維持- **新基準の効果**:津波高さの想定が事故前の5.7mから、過去最大級(例: 869年の貞観津波など)を基にした15m以上に引き上げられ、防潮堤や重要設備の防水化が義務化。- **当時の状況との比較**:福島第一では津波が敷地を越え、非常用ディーゼル発電機が地下で水没。新基準下では、発電機が浸水しない高所配置や防水設計が施され、電源喪失が回避できた可能性が高い。- **結果**: 電源が維持されれば、ポンプや冷却システムが稼働し続け、燃料の露出と溶融を防げた。#### 2.電源喪失時でも冷却可能な設備- **新基準の効果**: 移動式電源車や代替注水手段が事前に準備され、電源喪失後でも冷却が可能に。- **当時の状況との比較**:事故時、外部電源復旧まで時間がかかり、消防車による注水も遅延。新基準では、即座に代替手段が展開され、注水が継続できた。- **結果**: 燃料が水没した状態を維持でき、メルトダウンに至らない可能性が高まる。#### 3.水素爆発の防止- **新基準の効果**:水素制御装置やフィルター付きベントが整備され、水素の蓄積と爆発が防止される。- **当時の状況との比較**: 1・3号機では水素が建屋内に溜まり爆発。新基準ではベントで水素を安全に排出でき、建屋損壊を回避。- **結果**: 爆発による作業中断や放射性物質の拡散が抑えられ、事故の拡大が防げた。#### 4.複数号機対応の改善- **新基準の効果**:複数号機事故を想定したリソース配分と訓練が強化。- **当時の状況との比較**:現場では1~4号機が同時に危機に瀕し、対応が混乱。新基準では事前準備により、号機ごとの優先順位付けやリソース割り当てが効率化。- **結果**: 各号機の冷却が適切に管理され、連鎖的なメルトダウンが抑制された可能性。### どの安全基準が決定的か?特に重要なのは以下の2点です:1. **津波対策と電源の確保**:電源喪失が事故の起点だったため、これを防ぐ設計(防潮堤の高さ、設備の防水化、冗長電源)が最も効果的。2. **シビアアクシデント対策**: 仮に冷却が一時的に途絶えても、フィルター付きベントや代替注水で事態を収束させ、メルトダウンを回避。### 注意点と限界ただし、新基準が万全とは言い切れません。福島事故では想定外の津波高さが問題でしたが、将来さらに大きな自然災害が発生する可能性は否定できません。また、手順書の完璧な実行には人的要因(訓練の質、判断力)が関わるため、現場の混乱が再現されれば効果が薄れるリスクもあります。###結論新基準で補強された原子炉と手順書があれば、2011年3月11日の状況でもメルトダウンを回避できた可能性は高いです。特に津波対策と電源確保が鍵となり、これにより冷却機能が維持され、連鎖的な事故拡大が防げたと考えられます。ただし、自然災害の規模や人的対応の不確実性を考慮すると、100%の保証は難しいものの、新基準は事故の教訓を反映した大幅な安全性向上をもたらしていると言えます。
100%回避できるとはいえないものの、補強された基準で結構安全になったと思う。
たぶん、これ以上を目指すには、OKLOが開発してる小型原子炉(空冷でok)とかが実用化されるか、爆発しそうになったら即沈められる洋上原子炉とかになるのだと思う。
もちろん、核融合の実用化とかも期待したいところではあるが、あれは永遠のあと10年をずっとやってるからなあ。早く実現してほしい。
非モテ論壇は、小谷野敦の「もてない男」 (1999年)に始まり、本田透に引き継がれるが、ものすごく盛り上がっているというほどでもなかった。本田は消息が分からなくなり、小谷野も2017年頃から売れなくなった。ツイッターでは雁琳のような第三波フェミニズムに応対できる論者が主流となっているが、そういうのの影に隠れたかたちであろう。大場博幸「非モテ独身男性をめぐる言説史とその社会的包摂」(2021年、教育學雑誌 (57)31-43)というレビュー論文がある。ロスジェネ論壇も盛り上がった印象はない。氷河期世代はそれどころではなかったのだろうか。雑誌「ロスジェネ」は迷走してしまい、第3号は「エロスジェネ」で、第4号で終刊した。
東のゼロ年代はゼロアカ道場で幕を閉じる。東チルドレンを競わせるという企画であり、ゼロアカとは「アカデミズムがゼロになる」という意味らしい(「現代日本の批評2001-2016」、講談社、101頁)。彼らは東浩紀しか参照していないので、アカデミズムとしてはゼロなのかもしれない。ここで台頭したのが藤田直哉であり、ザクティ革命と称して、飲み会動画を無編集でアップした。ゲンロンのプロトタイプかもしれない。藤田はwokeしたが、東チルドレンでそちらに行ったのは彼くらいではないか。
3 ゲンロン
ニコニコ動画に「動ポノムコウ」(2020)というMADがあるが、ゼロ年代の東は輝いていたものの、震災後は落ちぶれてしまったという史観で編集されていた。落ちぶれたかどうかはともかく、震災前後に断絶があることは疑いない。東は移動を躊躇わないところがあり、90年代末に批評空間を離れたように、震災後に自らが立ち上げた動ポモ論壇からも離れてしまう。
ゲンロンの前身である合同会社コンテクチュアズは2010年4月6日に創業された。2009年の秋の飲み会でアイデアが出たそうである。宇野常寛、濱野智史、浅子佳英(建築家)、李明喜(空間デザイナー)との飲み会であった。「ゲンロン戦記」(2020年)では李はXとされているが、ウィキペディアには実名で出てきている。李はコンテクチュアズの代表に就任したものの、使い込みを起こして、2011年1月末日付で解任されている。代わって東が代表に就任し、李から使い込んだ金を回収した。ちょうど震災前のことで、震災後だと回収は難しかったかもしれないらしい(「ゲンロン戦記」、42頁)。この頃には、宇野や濱野は去っており、浅子が右腕だったが、その浅子も2012年には退任する。
「一般意志2.0」は震災前に雑誌「本」に連載されていた。2009年12月号から2011年4月号まで連載されていて、4月号は3月頭に出るものなので、ちょうど震災が起こる直前に終わったことになる。「ゲンロン戦記」には「その原稿は2010年代に書かれたのですが、出版は震災後の2011年11月になりました」(22頁)とあるが、ゼロ年代に連載が始まっているし、出版されたのも2010年代なので、おかしな文である。「震災前に書かれた」と直すべきところであろう。「一般意志2.0」はゼロ年代のパラダイムに属している。デジタル民主主義の本であるが、ちょっとひねって、ニコニコ動画のようなもので民意をくみ上げようというものである。ゲンロンもニコニコ動画でやられているので、その所信表明でもあるのであろう。ゼロ年代とゲンロンをつなぐ蝶番的な書物ではあった。
「サイバースペース」「情報自由論」は一冊の本として刊行されることはなかったのであるが、「一般意志2.0」は刊行された。すっきりとした構想だったからだろうか。東はネット草創期のアングラさのようなものを後光にして輝いていたのであるが、この本を最後に、アーキテクチャを本格的に論じることを止める。ニコニコ動画は2ちゃんねるの動画版のようなところがあったが、ツイッターをはじめとするSNSにネットの中心が移り、ネットはもはや2ちゃん的ではなくなり、東の想定していたアーキテクチャではなくなってきたのかもしれない。東はツイッターも使いこなしているが、かつてほどの存在感はない。
「一般意志2.0」の次の主著は「観光客の哲学」(2017年)であるが、サブカルチャーを批評することで「ひとり勝ち」した東が観光客を論じるのは意外性がある。娘が生まれてから、アニメやゲームに関心を失い、その代わり観光が好きになったとのことで、東の関心の移動を反映しているようである。「観光客の哲学 増補版」第2章によると、観光客は二次創作するオタクに似ている。二次創作するオタクは原作の好きなところだけつまみ食いするように、観光客も住民の暮らしなどお構いなしに無責任に観光地をつまみ食いしていく。このように観光客は現実を二次創作しているそうである。
「福島第一原発観光地化計画(思想地図β vol.4-2)」(2013年)は、一万部も売れなかったそうである。ふざけていると思われたのだろうか。観光に関心を持っていたところに、福島第一原発で事故があり、ダークツーリズムの対象にできないかと閃いたのであろう。もともと観光に関心がなければ、なかなか出てこないアイデアではないかと思われる。東によると、ダークツーリズムは二次創作への抵抗である(「観光客の哲学 増補版」第2章)。それなりの歴史のある土地であっても、しょせんは無名なので、原発事故のような惨事が起こると、そのイメージだけで覆い尽くされることになる(二次創作)。しかし、そういう土地に観光に出かけると、普通の場所であることが分かり、にもかかわらず起こった突然の惨事について思いをはせる機会にもなるそうである(二次創作への抵抗)。
社会学者の開沼博は福島第一原発観光地化計画に参加して、前掲書に寄稿しているのにもかかわらず、これに抗議した。東と開沼は毎日新聞のウェブ版で往復書簡を交わしているが、開沼の主張は「福島イコール原発事故のイメージを強化する試みはやめろ」というものであった(「観光客の哲学 増補版」第2章)。原発事故を語りにくくすることで忘却を促すというのが政府の戦略のようであるが、これは成功した。開沼は2021年に東京大学大学院情報学環准教授に就任している。原発事故への応答としては、佐藤嘉幸・田口卓臣「脱原発の哲学」(2016年)もあるが、こちらはほとんど読まれなかった。ジュディス・バトラーは佐藤の博論(「権力と抵抗」)の審査委員の一人であり、佐藤はバトラーに近い(竹村和子亡き後、バトラーの著作の邦訳を担っている)。「脱原発の哲学」にもそれっぽい論法が出てくるのが、こちらは功を奏しなかった。資本主義と真っ向から対立するような場面では効かないのだろう。ちなみに佐藤の博論には東も登場しており、バトラーも東の名前は知っているものと思われる。
「観光客の哲学」はネグリ・ハート「帝国」を下敷きにしているが、そこでのマルチチュードは、共通性がなくても集まればいいという発想で集められているものであり、否定神学的であるとして、郵便的マルチチュードとしての観光客を対置する。東は原発事故後の市民運動に対して否定的であり、SEALDsなどを毛嫌いしていた。第二次安倍政権は次々と「戦後レジーム」を否定する法案を提出しており、それに対抗する市民運動は盛り上がっていたが、負け続けていた。しかし、Me too運動が始まってからというもの、リベラルはマイノリティ運動に乗り換え、勝ち続けるようになる。「観光客の哲学」は市民運動が負け続ける状況に応答しているが、「訂正可能性の哲学」(2023年)はマイノリティ運動が勝ち続ける状況に応答している。小熊英二やこたつぬこ(木下ちがや)はSEALDsの同伴者であったが、マイノリティ運動に与した共産党には批判的である。小熊の「1968」(2009年)は絓秀実「革命的なあまりに革命的な」(2003年)のマイノリティ運動に対する評価をひっくり返したものなので、こういう対応は分からなくはない。東も「革あ革」を評価していない。「絓さんの本は、ぼくにはよくわからなかった。六八年の革命は失敗ではなく成功だというのだけれど、その理由が明確に示されないまま細かい話が続いていく。どうして六八年革命が成功していることになるのか」(「現代日本の批評2001-2016」、講談社、71頁)。論旨そのものは分かりやすい本なので、かなりの無理解であろう。
東はアベノミクスには何も言っていない。政治には入れ込んでいるが、経済は分からないので口を出さないという姿勢である。経済について分かっていないのに口を出そうとしてリフレ派に行ってしまった人は多い。宮﨑哲弥が典型であろうが、北田もそうである。ブレイディみかこ・松尾匡と「そろそろ左派は<経済>を語ろう――レフト3.0の政治経済学」(2018年)という対談本を出している。リベラルが負け続けているのは、文化左翼路線だけでは大衆に支持されることはなく、経済についても考える必要があるという主張であるが、リベラルがマイノリティ運動で勝ちだしてからはこういうことは言わなくなった。北田は2023年から刊行されている「岩波講座社会学」の編集委員の代表を務めている。
「観光客の哲学」の次の主著は「訂正可能性の哲学」である。こちらも郵便本の続編といっていいのであろうが、そこに出てきた訂正可能性(コレクタビリティ)という概念がフィーチャーされている。政治的な正しさ(ポリティカル・コレクトネス)を奉じている者がそうしているように、理想を固定したものとして考えるのではなく、誤りをコレクトするという姿勢が大事であるということらしい。駄洒落のようであると言われることもある。森脇によると、東は状況に合わせてありきたりの概念の意味を変えるという「再発明」の戦略を採っているが、この「再発明」の戦略を言い換えたものが訂正可能性なのだという(森脇「東浩紀の批評的アクティヴィズムについて」)。そうだとすると、訂正可能性は郵便本では脇役であったが、これが四半世紀後に主役になることには必然性があったということであろうか。
こうして現在(2024年7月)まで辿りついたのであるが、東は多くの人と関係を断ってきたため、周りに人がいなくなっている。東も自身の気質を自覚している。「ぼくはいつも自分で始めた仕事を自分で壊してしまう。親しい友人も自罰的に切ってしまう。「自己解体と境界侵犯の欲望」が制御できなくなってしまう。だからぼくには五年以上付き合っている友人がいない。本当にいないのだ」(東浩紀・桜坂洋「キャラクターズ」、2008年、73頁)。一人称小説の語り手の言葉であるものの、現実の東と遠からぬものと見ていいであろう。ここからは東の決裂を振り返る。
宇野常寛は東を批判して「ゼロ年代の想像力」(2008年)でデビューしたのであるが、東に接近してきた。ゲンロンは宇野のような東に近い若手論客が結集する場として企画されたそうである。東によると、宇野を切ったのは、映画「AZM48」の権利を宇野が要求してきたかららしい。「東浩紀氏の告白・・・AZM48をめぐるトラブルの裏側」というtogetterに東のツイートが集められている。2011年3月10日から11日を跨ぐ時間帯に投稿されたものであり、まさに震災直前である。「AZM48」は「コンテクチュアズ友の会」の会報「しそちず!」に宇野が連載した小説である(映画の原作なのだろう)が、宇野のウィキペディアには書かれていない(2024年7月27日閲覧)。円堂都司昭は「ゼロ年代の論点」(2011年)の終章で「AZM48」を論じようと企画していたが、止めておいたそうである。「ゼロ年代の批評をふり返った本の終章なのだから、2010年代を多少なりとも展望してみましょうというパートなわけだ。批評家たちのホモパロディを熱く語ってどうする。そこに未来はあるのか?」(「『ゼロ年代の論点』に書かなかった幻の「AZM48」論」)。
濱野智史は「アーキテクチャの生態系」(2008年)でデビューしているが、アーキテクチャ論こそ「「ゼロ年代批評」の可能性の中心」(森脇、前掲論文)であった。東の右腕的存在だったこともあり、「ised:情報社会の倫理と設計」を東と共編している。濱野は東と決裂したというより、壊れてしまった。その頃、AKB48などのアイドルが流行りつつあり、宇野は、東をレイプファンタジーなどと批判していたのにもかかわらず、アイドル評論を始めたのであるが、濱野もそちらに付いていってしまった。「前田敦子はキリストを超えた宗教としてのAKB48」(2012年)を刊行する。これだけならよかったものの、アーキテクチャ論を実践すべく、2014年、アイドルグループPlatonics Idol Platform (PIP)をプロデュースするも大失敗してしまい、精神を病んでしまった。行方が分からなくなっていたが、「『豪の部屋』濱野智史(社会学者)が経験したアイドルプロデュースの真相」(2022年)に出演して、東に「ぐうパワハラされた」ことを明かした。
千葉雅也の博論本「動きすぎてはいけない」(2013年)には、浅田彰と東浩紀が帯を書いていて、「構造と力」や「存在論的、郵便的」を承継する構えを見せていた。郵便本をきちんと咀嚼した希な例ということらしい。東がイベントで千葉はゲイであることをアウティングしたのであるが、その場では千葉は黙っていたものの、「怒っている。」などとツイートする(2019年3月7日、「男性性に疲れた東浩紀と何をいまさらと怒る千葉雅也」)。これに反応して、東は「千葉との本は出さないことにした。仕事も二度としない。彼は僕の人生を全否定した」などと生放送で二時間ほど怒涛の千葉批判を行った。こうして縁が切れたわけであるが、千葉くらいは残しておいても良かったのではないかと思われる。國分は数年に一度ゲンロンに登壇するようであるが、このくらいの関係でないと続かないということだろうか。
大澤聡も切ったらしいのであるが、「東浩紀突発#110 大澤聡さんが5年ぶりにキタ!」(2023年10月16日)で再会している。どうして切ったのかはもはやよく分からないが、それほどの遺恨はなかったのだろう。
福嶋亮大は向こうから去って行ったらしい。鼎談「現代日本の批評」の第1回、第2回に参加しながら、第3回に参加することを拒んだらしい。東も理由はよく分からないようである。珍しいケースといえよう。
津田大介とは「あずまんのつだっち大好き・2018年猛暑の巻」(2018年8月17日)というイベントが開催されるほど仲が良かった。津田は2017年7月17日にアイチトリエンナーレ2019の芸術監督に就任し、東は2017年10月、企画アドバイザーに就任する。しかし、企画展「表現の不自由展・その後」に政治的圧力が加えられ、2019年8月14日、東は企画アドバイザーを辞任する。この辞任はリベラルからも顰蹙を買い、東はますますリベラル嫌いになっていく。批評家は大衆に寄り添わざるを得ないので、こういう判断もあり得るのだろうか。
東浩紀の伝記を書く。ゼロ年代に二十代を過ごした私たちにとって、東浩紀は特別の存在であった。これは今の若い人には分からないであろう。経験していないとネット草創期の興奮はおそらく分からないからである。たしかにその頃は就職状況が悪かったのであるが、それはまた別に、インターネットは楽しかったのであり、インターネットが全てを変えていくだろうという夢があった。ゼロ年代を代表する人物を3人挙げるとすれば、東浩紀、堀江貴文(ホリエモン)、西村博之(ひろゆき)ということになりそうであるが、彼らはネット草創期に大暴れした面々である。今の若い人たちはデジタルネイティブであり、それこそ赤ちゃんの頃からスマホを触っているそうであるが、我々の小さい頃にはスマホはおろか携帯電話すらなかったのである。ファミコンはあったが。今の若い人たちにはネットがない状況など想像もできないだろう。
私は東浩紀の主著は読んでいるものの、書いたものを網羅的に読んでいるというほどではなく、酔っ払い配信もほとんど見ていない。しかし、2ちゃんねる(5ちゃんねる)の東浩紀スレの古参ではあり、ゴシップ的なことはよく知っているつもりである。そういう立場から彼の伝記を書いていきたいと思う。
東浩紀は71年5月9日生まれである。「動ポモ」でも援用されている見田宗介の時代区分だと、虚構の時代のちょうど入り口で生を享けたことになる。國分功一郎は74年、千葉雅也は78年生まれである。國分とはたった3歳しか離れていないが、東が早々にデビューしたために、彼らとはもっと年が離れていると錯覚してしまう。
東は中流家庭に生まれたらしい。三鷹市から横浜市に引っ越した。東には妹がおり、医療従事者らしい(医者ではない)。父親は金沢の出身で、金沢二水高校を出ているそうである(【政治番組】東浩紀×津田大介×夏野剛×三浦瑠麗が「内閣改造」について大盛り上がり!「今の左翼は新左翼。左翼よりバカ!」【真実と幻想と】)。
東は日能研でさっそく頭角を現す。模試で全国一桁にいきなり入った(らしい)。特別栄冠を得た(らしい)。これに比べたら、大学予備校の模試でどうとかいうのは、どうでもいいことであろう。
筑駒(筑波大学附属駒場中学校)に進学する。筑駒在学中の特筆すべきエピソードとしては、おニャン子クラブの高井麻巳子の福井県の実家を訪問したことであろうか。秋元康が結婚したのは高井であり、東の目の高さが分かるであろう。また、東は中学生時代にうる星やつらのファンクラブを立ち上げたが、舐められるのがイヤで年を誤魔化していたところ、それを言い出せずに逃げ出したらしい(5ちゃんねる、東浩紀スレ722の555)。
もう一つエピソードがあって、昭和天皇が死んだときに、記帳に訪れたらしい。
東は東大文一に入学する。文三ではないことに注意されたい。そこで柄谷行人の講演を聞きに行って何か質問をしたところ、後で会おうと言われ、「批評空間」に弱冠21歳でデビューする。「ソルジェニーツィン試論」(1993年4月)である。ソルジェニーツィンなどよく読んでいたなと思うが、新潮文庫のノーベル賞作家を潰していくという読書計画だったらしい。また、残虐記のようなのがけっこう好きで、よく読んでいたというのもある。三里塚闘争についても関心があったようだ。「ハンスが殺されたことが悲劇なのではない。むしろハンスでも誰でもよかったこと、つまりハンスが殺されなかったかも知れないことこそが悲劇なのだ」(「存在論的、郵便的」)という問題意識で書かれている。ルーマン用語でいえば、偶発性(別様であり得ること)の問題であろうか。
東は、教養課程では、佐藤誠三郎のゼミに所属していた。佐藤は村上泰亮、公文俊平とともに「文明としてのイエ社会」(1979年)を出している。共著者のうち公文俊平だけは現在(2024年7月)も存命であるが、ゼロ年代に東は公文とグロコムで同僚となる。「文明としてのイエ社会」は「思想地図」第1号で言及されており、浩瀚な本なので本当に読んだのだろうかと思ったものであるが、佐藤のゼミに所属していたことから、学部時代に読んだのだろう。
東は94年3月に東京大学教養学部教養学科科学史・科学哲学分科を卒業し、同4月に東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻に進学する。修士論文はバフチンで書いたらしい。博士論文ではデリダを扱っている。批評空間に94年から97年にかけて連載したものをまとめたものである。私たちの世代は三読くらいしたものである。博論本「存在論的、郵便的」は98年に出た。浅田彰が「東浩紀との出会いは新鮮な驚きだった。(・・・)その驚きとともに私は『構造と力』がとうとう完全に過去のものとなったことを認めたのである」という帯文を書いていた。
郵便本の内容はウィキペディアの要約が分かりやすく、ツイッターで清水高志が褒めていた。「25年後の東浩紀」(2024年)という本が出て、この本の第3部に、森脇透青と小川歩人による90ページにわたる要約が付いている。森脇は東の後継者と一部で目されている。
東の若いころの友達に阿部和重がいる。阿部はゲンロンの当初からの会員だったらしい。妻の川上未映子は「ゲンロン15」(2023年)に「春に思っていたこと」というエッセイを寄稿している。川上は早稲田文学の市川真人によって見出されたらしく、市川は渡辺直己の直弟子である。市川は鼎談「現代日本の批評」にも参加している。
東は、翻訳家・小鷹信光の娘で、作家のほしおさなえ(1964年生まれ)と結婚した。7歳年上である。不倫だったらしい。98年2月には同棲していたとウィキペディアには書かれていたのであるが、いつのまにか98年に学生結婚と書かれていた。辻田真佐憲によるインタビュー「東浩紀「批評家が中小企業を経営するということ」アップリンク問題はなぜ起きたか」(2020年)で「それは結婚の年でもあります」と言っており、そこが根拠かもしれないが、明示されているわけではない。
そして娘の汐音ちゃんが生まれる。汐音ちゃんは2005年の6月6日生まれである。ウィキペディアには午後1時半ごろと、生まれた時間まで書かれている。名前はクラナドの「汐」と胎児用聴診器「心音ちゃん」から取ったらしい。ツイッターのアイコンに汐音ちゃんの写真を使っていたものの、フェミに叩かれ、自分の写真に代えた。汐音ちゃんは「よいこのための吾妻ひでお」 (2012年)のカバーを飾っている。「日本科学未来館「世界の終わりのものがたり」展に潜入 "The End ofthe World - 73 Questions We MustAnswer"」(2012年6月9日)では7歳になったばかりの汐音ちゃんが見られる。
96年、コロンビア大学の大学院入試に、柄谷の推薦状があったのにもかかわらず落ちている。フラタニティ的な評価によるものではないかと、どこかで東は推測していた。入試について東はこう言っている。「入試が残酷なのは、それが受験生を合格と不合格に振り分けるからなのではない。ほんとうに残酷なのは、それが、数年にわたって、受験生や家族に対し「おまえの未来は合格か不合格かどちらかだ」と単純な対立を押しつけてくることにあるのだ」(「選択肢は無限である」、「ゆるく考える」所収)。いかにも東らしい発想といえよう。
2 ゼロ年代
東の次の主著は「動物化するポストモダン」で、これは2001年に刊行される。98年から01年という3年の間に、急旋回を遂げたことになる。「サイバースペースはなぜそう呼ばれるか」はその間の論考である。
東はエヴァに嵌っており、「庵野秀明はいかにして八〇年代日本アニメを終わらせたか」(1996年)などのエヴァ論も書いている。その頃に書いたエッセイは「郵便的不安たち」(1999年)に収められた。エヴァ本をデビュー作にすることも考えたらしいが、浅田彰に止められたらしい。だから、サブカル本を出すというのは、最初から頭の中にあったのだろう。
「いま批評の場所はどこにあるのか」(批評空間第Ⅱ期第21号、1999年3月)というシンポジウムを経て、東は批評空間と決裂するが、それについて25年後に次のように総括している。「ぼくが考える哲学が『批評空間』にはないと思ってしまった。でも感情的には移転があるから、「お前はバカだ」と非難されるような状態にならないと関係が切れない」(「25年後の東浩紀」、224-5頁)。
動ポモは10万部くらい売れたらしいが、まさに時代を切り拓く書物であった。10万部というのは大した部数ではないようにも思われるかもしれないが、ここから「動ポモ論壇」が立ち上がったのであり、観客の数としては10万もいれば十分なのであろう。動ポモはフェミニストには評判が悪いようである。北村紗衣も東のことが嫌いらしい。動ポモは英訳されている(Otaku:Japan's Database Animals, Univ Of Minnesota Press. 2009)。「一般意志2.0」「観光客の哲学」も英訳されているが、アマゾンのglobal ratingsの数は動ポモが60、「一般意志2.0」が4つ、「観光客の哲学」が3つと動ポモが圧倒的である(2024年8月3日閲覧)。動ポモは海外の論文でもよく引用されているらしい。
次の主著である「ゲーム的リアリズムの誕生――動物化するポストモダン2」までは6年空き、2007年に出た。この間、東は「情報自由論」も書いていたが、監視を否定する立場から肯定する立場へと、途中で考えが変わったこともあり、単著としては出さず、「サイバースペース」と抱き合わせで、同じく2007年に発売される(「情報環境論集―東浩紀コレクションS」)。「サイバースペース」は「東浩紀アーカイブス2」(2011年)として文庫化されるが、「情報自由論」はここでしか読めない。「サイバースペース」と「情報自由論」はどちらも評価が高く、この頃の東は多作であった。
この頃は北田暁大と仲が良かった。北田は東と同じく1971年生まれである。東と北田は、2008年から2010年にかけて「思想地図」を共編でNHK出版から出すが、3号あたりで方針が合わなくなり、5号で終わる。北田は「思想地図β」1号(2010年)の鼎談には出てきたものの、今はもう交流はないようである。北田はかつてツイッターで活発に活動していたが、今はやっていない。ユミソンという人(本名らしい)からセクハラを告発されたこともあるが、不発に終わったようである。結婚して子供もできて幸せらしい。
その頃は2ちゃんねるがネットの中心であったが、北田は「嗤う日本の「ナショナリズム」」(2006年)で2ちゃんを俎上に載せている。北田は「広告都市・東京」(2002年)で「つながりの社会性」という概念を出していたが、コミュニケーションの中身よりも、コミュニケーションが接続していくことに意味があるというような事態を表していた。この概念を応用し、2ちゃんでは際どいことが言われているが、それはネタなので心配しなくていいというようなことが書かれていた。2ちゃん分析の古典ではある。
東は宮台真司や大澤真幸とも付き合っているが、彼らは北田のように鋭くゼロ年代を観察したというわけではなく、先行文献の著者である。宮台は98年にフィールドワークを止めてからは、研究者というよりは評論家になってしまった。大澤は日本のジジェクと称されるが、何を論じても同じなのもジジェクと同様である。動ポモは彼らの議論を整理して更新しているのであるが、動ポモも「ゲーム的リアリズムの誕生」も、実際に下敷きになっているのは大塚英志であろう。
宮台や大澤や北田はいずれもルーマン派であるが、ルーマンっぽいことを言っているだけという印象で、東とルーマンも似ているところもあるというくらいだろう。しかし、ルーマン研究者の馬場靖雄(2021年に逝去)は批評空間に連載されていた頃から「存在論的、郵便的」に注目しており、早くも論文「正義の門前」(1996)で言及していた。最初期の言及ではないだろうか。主著「ルーマンの社会理論」(2001)には東は出てこないが、主著と同年刊の編著「反=理論のアクチュアリティー」(2001)所収の「二つの批評、二つの「社会」」ではルーマンと東が並べて論じられている。
佐々木敦「ニッポンの思想」(2009年)によると、ゼロ年代の思想は東の「ひとり勝ち」であった。額縁批評などと揶揄される佐々木ではあるが、堅実にまとまっている。類書としては、仲正昌樹「集中講義!日本の現代思想ポストモダンとは何だったのか」 (2006)や本上まもる「 “ポストモダン”とは何だったのか―1983‐2007」 (2007)があったが、仲正は今でも読まれているようである。本上は忘れられているのではないか。この手の本はこれ以後出ていない。需要がないのだろうか。
佐々木の「ひとり勝ち」判定であるが、そもそもゼロ年代の思想の土俵を作ったのは動ポモであり、そこで東が勝つというのは当たり前のことであった。いわゆる東チルドレンは東の手のひらで踊っていただけなのかもしれない。懐かしい人たちではある。
北田によると、東の「情報技術と公共性をめぐる近年の議論」は、「批評が、社会科学的な知――局所から全体を推測する手続きを重視する言説群――を媒介せずに、技術、工学的知と直結した形で存在する可能性の模索である」(「社会の批評Introduction」、「思想地図vol.5」、81-2頁)ということであるが、ゼロ年代の東はこういう道を歩んでいた。キットラーに似ており、東チルドレンでは濱野智史がこの道を歩んだのであるが、東チルドレンが全てそうだったわけでもなく、社会学でサブカルを語るというような緩い営みに終始していた。宇野常寛などはまさにこれであろう。
佐々木「ニッポンの思想」と同じ2009年7月に、毛利嘉孝「ストリートの思想」が出ている。文化左翼の歴史をたどっているのであるが、この頃はまだ大人しかった。ポスコロ・カルスタなどと揶揄されていた。しかし、テン年代(佐々木の命名)から勢いが増していき、今や大学、メディア、大企業、裁判所を押さえるに至っている。しかし、ゼロ年代において、動ポモ論壇と比較できるのは、非モテ論壇やロスジェネ論壇であろう。
非モテ論壇は、小谷野敦の「もてない男」 (1999年)に始まり、本田透に引き継がれるが、ものすごく盛り上がっているというほどでもなかった。本田は消息が分からなくなり、小谷野も2017年頃から売れなくなった。ツイッターでは雁琳のような第三波フェミニズムに応対できる論者が主流となっているが、そういうのの影に隠れたかたちであろう。大場博幸「非モテ独身男性をめぐる言説史とその社会的包摂」(2021年、教育學Permalink |記事への反応(13) | 17:44
ワイの答え。
https://togetter.com/li/2369637
東日本大震災のあったこの年、カオスラウンジのメンバーである梅ラボが
画像掲示板のふたばで作られた「キメこな」を丸パクリしたことが発覚
リーダーの黒瀬陽平が「ネットの画像は好き勝手に使わせてもらう」と明言したことで
pixivを巻き込んだ大炎上となったことで一躍有名となった。
当時のカオスラウンジは
アート業界からは村上隆、オタク業界からはpixiv、言論業界からは東浩紀という
三業界からの強力なバックアップを受けた一大プロジェクトであった。
しかし、この炎上が原因となり、村上とpixivはカスラジとの関係を断ち
以降は東浩紀率いるゲンロンのバックアップの下で活動していくことになる。
当時、東浩紀は「福島もチェルノブイリのようにダークツーリズムで客を集めよう」との考えから
https://togetter.com/li/609484
また、2015年には「ゲンロンカオス*ラウンジ 新芸術校」を開設。
「表現の不自由展」で有名になったあいちトリエンナーレ2019には
2020年、当時カオスラウンジ社員の女性が黒瀬のセクハラ、パワハラを告発し告訴。
後に「調査した結果そのような事実はなかった」として女性側を逆告訴した。
2022年に「セクハラはあったがパワハラはなかった」と判決が下ったが、女性側は控訴している。
なお、黒瀬は本件の責任を取りカスラジを退任。後任は藤代嘘となった。
2011年の炎上の当事者である梅ラボは、本件には無関係で被告にもなっていない。
本人曰く「黒瀬らと被害女性との話し合いの仲介をしていたが、裁判を避けられなかった」として
同時に「契約違反があった」としてカオスラウンジを提訴しているが、違反の内容や裁判の結果は明らかになっていない。
2013年8月にキュレーターとして「お分かりでしょうけれど、私は画家であることをやめていません。」展を開催した。
カオスラウンジとしての活動ではないが、参加アーティストはほぼカオスラウンジと同じであった。
@hazuma
能登地震について、これから芸術家とか音楽家とかやってきて食い物にするぞ、気をつけろという投稿を早くも発見し、
日本における現代美術に対する不信感は相当なものだと暗い気持ちになった。
奥能登国際芸術祭とか、どうなるのかな。震災前からやっているんだけど。
@hazuma
椹木さん岩渕さん、梅ラボ解説とともに原発麻雀中ー みんな大爆笑whttp://t.co/WfKpYnXBgk
https://twitter.com/hazuma/status/416133444364554240
2013-12-26 18:08:39
ちだいの動画は正直な所見る気しなくて文字起こしを雑に2分割してGPT3.5に要約して貰った文章だけ見て済ませてたわ
この文章は、選挙チャッチさんが放射能汚染水の海洋放出について語っている内容です。要約すると以下のようになります:
選挙チャッチさんは、放射能汚染水処理水について詳しい。政府などは薄めれば安全だと主張しているが、その薄める必要性に疑問を持っている。
彼は、海洋放出の仕組みを入浴剤を例に使って説明し、海水から薄めていくプロセスを紹介した。しかし、薄めること自体に疑問を抱いており、生物濃縮と海流の影響についても説明している。
また、彼は海洋放出が長期間にわたって行われており、総量が重要であることを強調しています。
この文章では、入浴剤を例にして、福島第一原発からの汚染水の海洋放出についての疑念を表現しています。要約すると以下のようになります:
選挙チャッチさんは、入浴剤を使って海洋放出について疑問を提起しています。彼は、入浴剤を大量に使用することで、その成分が濃くなり、安全でなくなる可能性を示唆しています。
彼は、汚染水の海洋放出において、海水の濃度が問題であり、薄めているからといって問題が解決するわけではないと指摘しています。また、海洋放出が続けられる限り、問題が残り続けることを強調しています。
さらに、彼は政府や東京電力の説明に対して疑念を抱き、安全だとされる海水の実際の状態を示唆しています。最終的には、彼はこの問題に対する疑念を持ちながらも、安全だと言われるからと言って、入浴剤のお風呂に入ることに対して皮肉を込めて言及しています。
志位が福島差別する中国の責任を追及せず日本が悪いって書いてんだから終わってるよ。
志位和夫@shiikazuo
海洋放出を中止し、中国政府と事態の打開に向けた協議を行うべきだ。
同時に、日中両国政府は、いたずらに対立を激化させるのではなく、冷静な話し合いで問題を解決する努力をしていくべきだ。
https://twitter.com/shiikazuo/status/1696324566950486504?s=20
中国はおそらく科学的に安全だと分かってるし、分かりながら情報統制して差別的な世論を作っているはバレてるっちゅうの。
中国SNS “処理水の海洋放出は問題ない”とする投稿を削除か |NHK |福島第一原発 処理水https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230825/k10014174301000.html