
はてなキーワード:神風とは
――初代戦隊である「秘密戦隊ゴレンジャー」(1975年放送開始)から今年で戦隊は50周年。その記念作であるゴジュウジャーが来年で放送終了になることで、戦隊シリーズは終了してしまうのでしょうか。
いえ、戦隊シリーズとしては終了とは思っていません。休止です。戦隊の放送枠(テレビ朝日系、日曜朝9時半)は新たなものに変わりますが、戦隊作品そのものはいずれ復活する可能性があります。発表前の10月から「戦隊終了」の報道が出て、ここまで反響があるのは想定外でした。戦隊がここまで愛される存在だったのかと、ありがたい思いです。ただいずれ復活するにしても、10年は間を置いた方がいいと私は考えています。
――その理由は。
戦隊の限界が見えてきた。そこを打破すべくいろいろな工夫をしてきましたが、50周年という節目も迎え、根本的に考え直さないといけない場所にきたのは確かです。
一つはコロナ禍からの配信時代の到来です。配信では、特撮も新作と旧作が横並びで見られるようになりました。戦隊にとって、仮面ライダーだけじゃなく過去の戦隊作品もライバルになってきた。
戦隊は毎年毎年、世界観をリセットして新作を出してきました。作品につながりがなく、どこから見てもいいんですが、逆にどこから見たらいいのか分からない。一定の評価がある旧作に対して、よほどの特徴がない限り新作が勝てなくなってきた。
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東映の白倉伸一郎さん。「ナンバーワン戦隊ゴジュウジャー」にちなんで、ナンバーワンポーズ
もう一つの黒船は、アメコミヒーローものの大攻勢です。マーベルの「アベンジャーズ」シリーズは日本でも人気ですね。キャプテンアメリカにしろ、アイアンマンにしろ、もともと別の作品のキャラクターだったものを一つのパッケージにして届けている。
集団ヒーローでも、キャラクターの人格や戦闘能力など明確な設定が元々されている。一方で同じ集団ヒーローである戦隊は、毎年作品が変わりますし、キャラクターづけでは弱い面があった。
この二つの苦境を打破するべく、いろいろ工夫はしてきましたが、根本的に新たな挑戦をするべきだという結論に至りました。
――とはいえ戦隊もさまざまな新機軸を打ち出してきました。近年も、白倉さん自身がチーフプロデューサーとして入った「機界戦隊ゼンカイジャー」(2021年放送開始)では、戦隊5人のうち、人間が1人で4人は機械生命体というとんでもない内容です。戦隊とは数々の挑戦をしてきた歴史では。
もちろん様々なチャレンジをしてきました。それは戦隊という枠の中では新しい試みかもしれないけど、何が新しいのかを楽しむためには戦隊の「お約束」を知っているリテラシーがお客さんに必要になる。お約束を知った上での型破りを、どこまで分かってもらえるのか。
――戦隊といえば誰もが知っているはずなのに、内容は認知されていないと?
戦隊の根本的な課題だったのですが、50年続いただけあり、戦隊はあって当たり前のもの。ある種日本の文化になったと思うんですね。どれくらい見てきたかは人それぞれでも、戦隊と聞いたらカラースーツの5人のヒーローをイメージできる日本人の方が、多いのではないでしょうか。
それはそれだけ定着したという半面、「見なくてもいいもの」と思われる恐怖と隣り合わせです。
毎週その時間にテレビをつければ、変わらずやっている。現代風に変わった描写はあっても、話の大筋は変わらない。子どものときに見て一時卒業したけど、親になり自分の子どもと一緒に見たら、昔と変わっていない安心感がある。むしろ、変わってほしくない。
作品にとってこの状態に甘んじているのは危険で、変わらぬ良さは、見なくてもいいものと表裏一体なんです。どうせ話の筋は分かるし、毎週見なくてもいいやと。なんなら懐かしい旧作を見ればいいやと。新作はいらないと思われることは、作り手にとって常に恐怖です。
戦隊の「当たり前感」は制作陣にとっても危険です。大事なのは、戦隊という伝統の枠の中でどう目立つかではない。2025年の子どもたちに向けて、日本から世界に向けて、本当に必要な作品とは何かを考えることなんです。
東映には戦隊をつくるノウハウがあります。ただそのノウハウが、時に本当に新しいものを作ることを邪魔する。戦隊に慣れきった私たちの世代が抜けて、新たな世代が新たな戦隊を考えるべきだと思います。だから、10年は復活するべきではないと私は考えているのです。
――シリアスな仮面ライダーに対して、戦隊作品の明るさが好きだという視聴者も多いと思うのですが。
戦隊のお決まりですが、5人がスーツ姿に変身してポーズを取る。怪人を倒すと、後ろが爆発して炎が上がる。そして展開はむちゃくちゃだけど、巨大ロボットに乗って、巨大な敵と戦って毎度ビルを爆破する。くだらないと小バカにされるけど、とにかく明るい話。それがいいところなんですよ。
私が90年に東映に入社して「恐竜戦隊ジュウレンジャー」(92年開始)の企画会議に参加したとき、プロデューサーの鈴木武幸が開口一番「今度の巨大化はどうしますか」と言って、脚本家がめちゃめちゃ怒ったんですね。「違うだろう。最初に話すべきは、どういう番組にしようかだろう」って。
鈴木はそれまで何作も戦隊を手がけたベテランですが、いろんな試行錯誤を重ねた結果、もう悟りの境地だったんだと思います。戦隊が成功するにはこういうフォーマットしかないと分かってしまい、その上で(キャラクターを)「どう巨大化するか」をまず考えようという恐ろしい境地に達していたんです。はたから見ると、そこかよって突っ込みたくなりますが。
――30年前にすでにやり尽くしたと制作陣では感じていたのですね。
当時すでに戦隊は風前のともしび。ジュウレンジャーは「もう最後の戦隊かもしれないと思ってやろう」と言っていた。若手がこれまでにないことをやりたいと結託し、6人目の戦士を物語の途中から出したんですね。
――6人目がレギュラーメンバーとして出るのはジュウレンジャーが最初。物語の途中から出るいわゆる「追加戦士」も、6人以上の戦隊も、今では当たり前ですね。
定番になりましたが、当時はそんな未来は考えず、そこから30年も続くとは思いもしませんでした。ジュウレンジャーをベースに米国で作られた「パワーレンジャー」がヒットするというまさかの神風が影響したんでしょうね。
――仮面ライダーにもウルトラマンにも中断期間があります。初期に少し中断はあるものの、ほぼ50年放送が続いてきた特撮ヒーローは、戦隊だけでした。なぜ戦隊は愛されてきたのでしょうか。
そもそも戦隊は事故から生まれたものなんです。仮面ライダーを5人集めて戦うという作品が企画されていたのが、事情があって頓挫した。それで急きょ石ノ森章太郎先生に考えてもらったのが初代の秘密戦隊ゴレンジャーだったんです。さらにその後、(70年代に人気だった)「超電磁ロボ コン・バトラーV」などのロボットアニメの放送が途切れるという事態があり、巨大ロボットの命脈が戦隊に流れ込んできた。
戦隊の草創期の作り手に、理想のヒーローを作ろうと理屈をこねている余裕はなかった。なんとか一つの作品を作らなければならないという試行錯誤の末に、結果として生まれた事象を集めたものが戦隊だった。
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なんでいちいち5人で戦わないといけないのか。なんで巨大ロボットにいちいち乗って戦うのか。それはよく分からない。その理屈を超えたところに、人間の本質がある。なぜかかっこよくて人を引きつける。エンターテインメントとして面白いものの本質を、戦隊は露骨に表してきた作品だったと思います。
善と悪の対立を描きにくくなった
――長年にわたりテレビでヒーローの姿を届けてきた意義も大きいでしょう。
戦隊そのものが描く善悪も、初期からはかなり変遷がありました。東西冷戦が終わり仮想的な「絶対悪」を社会が想定しづらくなった。フィクションのヒーローものでも一面的な善悪を描くことが難しくなっていきます。その中でも工夫をしながら、キャラクターの人物像を大切にしながら、悪い敵を倒す姿を放送してきました。
こと戦隊でいうと、仮面ライダーのような単体ヒーローとは違う。5人で一つのチームで、結束して敵に立ち向かいました。
こうしたことは子どもさんにはすぐに分からないかもしれないけど、大人になった時に「戦隊って大事なことやっていたんだな」って少しでも思ってもらえるかもしれない。
戦隊は当たり前になったと先ほど言いましたが、私は日本人の心の中には、戦隊がいると思っていますし、少しでも戦隊が社会にいい影響を与えられていたならうれしいです。
――50年続いてきた戦隊の放送を終了することに、葛藤はなかったですか。
葛藤、それはないですね。
戦隊を愛してくださったファンの方には感謝します。しかし、次の世代のためにも、どこかで次の挑戦を始めるべきでした。今はヒーロー番組そのものの変革を考えるときです。それがゴジュウジャーの後番組として始まる「超宇宙刑事ギャバン インフィニティ」です。
日本人女性が憧れるフランスのフランス語辞書にはそう書いてある。こういう事実は頭に入れておくべきだ。また、フランス語話者の人口の6割は既にアフリカ居住者というデータがありフランス語は白人が話す言語というイメージはすでに現地では崩壊済み。フランスイコール白人ではないのだ。つまり日本人がイメージするフランスとフランスの国の現状は乖離していて当たり前。
フランス語の「kamikaze」は、「神風特別攻撃隊」や「命知らずの人」「自爆的な」を意味します。フランス語での発音は「カミカズ」です。第二次世界大戦の日本軍の神風特攻隊に由来しますが、現在では自爆テロなどを指す際に使われることが多いです。つまりイランで自爆テロ犯した人は kamikaze とフランス語で報道されるということ。
社会福祉や環境問題について、海外でいかに研究が進んで、そういう学術的根拠を元にロングスパンの計画を立てているかと説明しても、『計画したってうまくいくかどうかはわからないんだから、何も考えず行き当たりばったりな日本の方がうまくいくに違いない』って真顔で言うし本気でそう思い込んでる。
ばっかじゃねーの?
ジャップの根拠はいつもただ一つ。『日本はえらい』から何も考えなくても神風で全てがうまくいくはずだ!
ずっとこれだけ。何世紀も。
戦後の日本は頑張ったから成長したんじゃねー。単にこういう計画的な政策を、先進国に手取り足取り教えて貰ったから普通に進歩ができたんだ。
放っとかれて勝手にやるようになったら途端にすべてうまくいかなくなるのも当然。
あほみんぞく
終わったということはそういうことです。
長かったような短かったような……
次はもっとうまくやれると思うけれど次は無い。
誰かの参考になれば、などという殊勝な考え方は持ち合わせておりません。
様子がおかしくなったのは15年?くらい前。私よりも本人が異常を感じたらしいです。
忘れ物落とし物をすることが多くなった。
普段できていることができなくなった。
そこで「なら私がやる」にしてしまうとさらに何もできなくなるという話も聞いていたので今まで通り生活をしてもらってました。
その後、電車に乗れなくなった(東京近郊なんで免許は無くて仕事行くのも買い物行くのも電車という生活でした)という話を聞いてこれはまずいなとさすがの私も思いました。
とは言えそこまで切迫感を持っていたわけではありません。今思うとこの時点で相談すべきでしたね。
洗濯をすると靴下がばらばらになりました。症状は個人によって違うと思うので参考にもならないのかもしれませんがはっきりと覚えています。
そのころから日常的な家事すら満足にできない私に家事を教えたり、自分で地域の包括支援センターというところに相談したりをしていました。
そういう年なんでかかりつけの医者でも相談して例の薬をもらっていました。
そしてある日包括の人から電話が入っていて家族にも話がしたいと。
休みを取って訪問してもらってデイサービス等の利用を勧められました。
やっぱりショックでしたね。そりゃもう。
元気で言葉は悪いけれど「殺しても死ななそう」みたいな人がそういう判断をされるんだから。
介護サービスを利用するには継続的にお金がかかります。私の収入だけでは心もとない。そのお金をどう調達するか。
ところがです。やってしまった。正直に「認知症がぁ」とぽろっと漏らしてしまったのです。
向こうも困っていました。
そういう電話はコンプラ対策ですべて録音されているわけです。「認知症」はNGワードです。全部の会社でそうなのかはわからないですがその会社ではそうでした。
予定が狂いました……
親も働いていた人なので年金はあります。それじゃ足らない。うーん……
それでも今を生きられなくなるよりはましなのでそういう決断をしました。
給料が安くても毎月お金が入ってくる仕事についているのならしがみつけと。
親の介護が大変で仕事を辞めると共倒れしてしまう可能性がけっこう高いらしいです。
「自分を生んで面倒を見てくれた親よりも仕事を取るとはけしからん」という意見をお持ちの人もいるでしょう。
そこまで極端ではなくてもどっちを取るか迷う人はけっこう多いんじゃないかと思います。
私もそうでした。
自分のケースはただ一つですが包括の人は何十ものケースを見ているはずです。
他のケースも見たうえでそういうアドバイスをしてくれるということには重みを感じました。
もちろん最終的な決断は介護をする自分がしなければなりません。
認知症の場合は本人の決断というのが期待できないので家族が決断しなければなりません。
それでも、他の人の言うがままにこうした、と思うより、自分自身が最終決断したと思うことで自己満足ではありますが後々後悔することは少ないのではないかと私は思っています。
デイサービスというのは曜日単位なんですね。午前コースと午後コース、食事付食事無などいろいろなメニューがある。
利用するまで知りませんでした。
車が迎えに来てくれて車に乗ればあとは帰ってくるまでお任せです。
デイサービスの車の走行距離って全国合わせるとすごいことになってるんでしょうね。事故が多く報じられるのも納得です。毎日あれだけ走っていれば事故も多いわ。
最初のうちは私が家にいる土日は利用していなかったのですが土曜日は利用するようになりました。でもなかなか空かない曜日もあって毎日というわけにはいかない。
仕事続けられるんだろうか?
不安になりました。
デイサービスでは無理、常時介護をお願いできる施設の方がいいんじゃないか。
思い悩んでいるところで神風が吹きました。
それまで在宅勤務は0だったのですが100%在宅勤務になりました!
これなら、これならなんとかなる!
みんな「コロナのせいで」」とか「コロナさえなければ」と言っている中私は「コロナのおかげで!」
そう思った時期が私にもありました……
在宅勤務とは言えというか在宅勤務だからこそ打ち合わせとかありますよね。会議室取らなくていい分増えたような気もします。
打ち合わせしてるじゃないですか。
玄関は鍵閉めてその他対策をして簡単には外に出られないようにしているつもりだから盛り上がってしまったりします。
打ち合わせを終えるといなくなってる……
そして……夜眠っている。朝になるといない……
自分だったらこのトラップを初見で解除できない、そう思っている私が浅はかでした。
本当に認知力に問題あるのだろうか?俺に意地悪しているだけなんじゃないか?とすら思いました。
気を悪くする人もいるでしょうが、実際に触れてみると認知症になった人って子供に戻ってるんじゃないかと思うんですよね。
気を引くためにわざと怒られるようなことをしているように見える節があります。
子育てと似ているのかも。
ただ、根本的な違いがあって子育ては将来に希望があるし終わるタイミングがある程度見えている。
対して認知症の介護は将来治る見込みがなく終わるタイミングが全くわからない。
当たり前といえば当たり前ですが精神的な負担は認知症の介護の方が強いのではないかと思います。
育児も大変ですけど……
横道にそれましたがそんなこんなで限界が近づいているタイミングで利用しているデイサービスの方からももっと手厚い介護を受けた方がいいのではというお話をいただきました。
その時点では日中は家にいる時間よりデイサービスにいる時間の方が長くデイサービスでは私と違って誰かしらが見ている状況なのでそれでも厳しいということだったらと思いケアマネさんと相談を始めました。
提案をされたのはグループホームです。家族の収入にも寄りますが私の収入の場合は公的資金を頼るには多すぎて自己負担が大きい施設を利用するには少なすぎるという中途半端な状況。
無理なくとは言えないまでも無理をすれば支払いができるグループホームを何か所か提案してもらいました。
ここでもコロナで助かりました。
昼休みを潰すと見学に行けちゃうんですわ。やることをやっていればけっこう自由にできる職場だったんで「昼休みのあとちょっと遅れまーす」みたいなことを言えば外出できました。
コロナ前だったらこんな対応不可能でしたね。おそらく有休まで使いきって何日か欠勤してたでしょう。介護休暇?んなもん足りるわけねぇww
見学に行ってよさげに見えても私が決断する前に入居者が決まったり、そもそも見学している時には空きが無かったりとかもありました。
競争率激しいですねぇ。
決め手はなにか?
家から近い!
圧倒的に近い!!
施設は小規模で手厚いサポートとかには不安がありましたけど何かあった時にすぐに行けるという安心感でその施設を選びました。
これは入居してから聞いたのですが、施設で働いている職員の中に私の親が外を歩いているのを見ていた人もいました。
自分のところじゃなくてもいいから入居した方がよさそうだなと思っていたらしいです。
病状は進んで暴れたりすることもあり、気持ちを落ち着かせる薬をもらうのに家族の付き添いが必要ということで、そもそもそういう診断ができる精神科が少なくて予約もできないとかまぁいろいろありました。
そうこうしているうちにこれもまた運がいいことに歩きは無理だけど車なら無理なく行ける場所にあるお医者さんが受け入れてくれました。
診察は最初の1回だけでその後は私が様子を伝えれば処方箋と薬をもらいに行くだけという対応で済むようになりました。
そのお医者さんを見つけたのがかなり大きかったです。私がおかしくなったらそこに行こうかと思ってます。その時にもその先生はいるかどうかはわからんですけどね。
それ以外にもけがをしたりとかいろいろあるたびに医者には連れて行きました。最初は自分で連れていけましたが最終的には介護タクシーを利用しましたね。
車いす対応レンタカーを借りることも検討しましたが行く病院によっては介護タクシーの方が安くつきます。
そうこうしているうちに親の病状が落ち着いてきました。
落ち着いてきた……、それはつまり終わりが見えて来た、ということになります。
精神科にも通院しなくなりそうするとその都度聞いていた様子を聞かない月が出て来たり……
毎月のコミュニケーションはあるんですが通院する時のコミュニケーションはやっぱ濃かったんでね。
施設も職員さんも忙しい中時間を作ってくれてるのはわかるので通院と言う理由なしに「変わりないですよ」という一言を聞くためだけに時間をもらうのもなというのもありました。
ああ、ここでは逆に近いことがマイナスに作用したのかも。近いからいつでもいけるとおもっちゃうんですよね。
そして、様子がおかしいという連絡があり、ちょうど予定していた有休があるのでその時に顔を見に行くという話をしました。
しかしもう一度連絡があってその日が土日だったんでスーパーに買い物に行くついでにちょろっと顔を見に行きました。その時も今日明日と言うようには見えないと言われたし私もそう思ったんですが……。
その翌日、眠ったまま息を引き取りました。
親戚づきあいを濃密にしていたわけでもなく、同世代の友人もみんながみんな元気というわけでもなくということで私が1人で見送るつもりでいましたが、連絡がついた親族や友人経由で小ぢんまりには変わりないですが思ったよりも大勢にお見送りしてもらいました。
知らない人がいると思ってびびってたら40年ぶりくらいに会う人だった。わかるわけがないw
終わったらたぶんほっとするんだろうなぁと思ってましたが違いましたね。
後悔は無いです。
でも、次にやるんだったらもうちょっとうまくやります。経済的な、精神的な負担も今回よりは軽くなるようにやろうと思います。
次はありません。
Permalink |記事への反応(12) | 18:31
はてブやばすぎ。
「ウクライナ人が最後の一人になるまで徹底抗戦しろ!」と言わんばかりの論調でゼレンスキー擁護しまくりで此度の停戦交渉を否定してる連中の多いこと。
お前ら鮮鋭化しすぎだろ。
実際に血を流すのはウクライナ人と義勇兵なのに安全圏から勇ましいこと言ってんじゃねえぞカスども。640万人も脱走者が出てる戦争に勝算あると思ってんのか?
あるんならこれ以上犠牲を出さずにウクライナが領土取り返せる作戦の一つでもブコメに書けよクソどもが。
この鮮鋭化っぷりを見るに、旧日本軍の無茶な進軍や神風特攻隊もこうやって自称良識人の『民主的な同調圧力』に押されて実行されたんだろうなと思わざるを得ないね。
発達障害氷河期老害ブクマカどもはかつての大政翼賛会そのもの。もし台湾有事が起きれば、またお前らクズどもが徹底抗戦を煽り多くの若者を死に追いやるんだろうな。
お前らは害しか無いくせに数だけは多いからな。まるでゴキブリのようだ。
子供でも理解できる超簡単な「宗教由来の選民思想」以外の何物でもないぞ?
要するにアイツラは「我らが教典にはこの様に書いてある。つまり、俺達は正しい」で全部説明しきれると本気で信じてる宗教バカなんだよ。
「神に選ばれたユダヤ人を民族浄化するのは悪。ユダヤ人による民族浄化は聖戦」ただこれだけの話なのよ。
宗教的価値観が第一優先であり、それ以外のあらゆる道徳は二番手以下なわけ。
アイツラが定期的に他民族をぶっ殺してるのなんて、オウム真理教がサリンばら撒いてたのと何も変わらねえんだわ。
そんで自分らがやられたときに騒ぐのはダブスタでもなんでもなく「俺達は神に選ばれた民族なんだぞ!」ってだけなの。
チャチなフィクションの悪役が言うような「偉大なる俺たちに逆らうなんて許されないぞ2等市民共!ましてや異教徒の豚を殺すことを悪と呼ぶとは神託に対する冒涜だ!」を本気で信じてるだけのおバカちゃんなんだ。
まーしゃーないわな、歪んだ教育を幼少期から受け続けてきた人間ってのはそういうもんだよ。
宗教なんてのは葬式や祭りのときにだけ借りてくるようなカビの生えたフィクションだと割り切ってる現代人とは世界観が違うのよ。
昔は日本も天皇が本当に神様で本気出せば神風起こせると信じてたパッパラパーが大勢いたろ?
あのノリがまだ抜けてーのよ。
誰かが責任持って玉音放送でもながしゃいいものをダラダラ先延ばしにしてんだよねー。
大人になって「こんな悪いことしたらゴレンジャーが黙ってないぞ!プリキュアがお前らをやっつけにくるぞ!」と言ってる奴がいたら頭がガキすぎてドン引きだけど、宗教の世界だとそういうやつが沢山いるから不思議だよね。