
はてなキーワード:社会科学とは
高市早苗氏が首相に選出され台湾発言で物議をかもしてから、これまで以上に政治的な議論がなされるように感じる。またただの党派性の選好がどうこうにとどまらず具体的な安全保障まで真剣な意見が交わされるようになったことは、日本社会自体が一つの転換点を迎えているように思える。
そのなかで、個人的に党派の煽りあいや中傷を超えて道具的に政治を語るのに役立つかもしれない一つのネタを紹介したい。あくまでも仮説が、情勢について語る一つの視点になれば幸いである。
なお事前に予測した方向性と合致したためAIの手を大いに借りてある。
また曖昧戦略の欠如は相手の意思決定を手助けするだろう。デマなどについて聞いてみても面白いと思う。
以下perplexityより
自由エネルギー原理の見地から見て、政治の党派性における右派、左派はそれぞれエントロピーの減少における役割の相違という観点から説明できる?
自由エネルギー原理から見た政治の党派性:右派・左派とエントロピー減少の役割の相違
自由エネルギー原理(Free Energy Principle,FEP)の枠組みから政治イデオロギーの左右の違いを説明することは、一定の理論的根拠を持つ興味深い視点を提供します。ただし、これは直接的な学術的応用というより、理論的な仮説として理解されるべきものです。
自由エネルギー原理によれば、すべての生物システムは熱力学の第二法則に対抗してエントロピー増加を最小化することで、秩序を維持しています。具体的には、生物は予測エラーを最小化することで、感覚状態のエントロピー(無秩序さ)を減少させ、環境との相互作用をコントロールします。このプロセスは、**予測処理(predictiveprocessing)**メカニズムを通じて実現されます。つまり、生物は内部モデルを持ち、それに基づいて世界を予測し、実際の入力との差分(予測誤差)を最小化することで、驚き(サプライズ)を制御します。
最近の認知神経科学の研究により、保守主義と進歩主義は予測処理の異なる戦略に対応している可能性が示唆されています。
曖昧性と不確実性に対してより高い耐性を持つ
前帯状皮質(anterior cingulatecortex)の活動が強く、反応競合に対する神経認知的感受性が高い
これらの特性は、高いエントロピー状態(高い不確実性)を許容しながら、情報環境の変化に応じて予測モデルを継続的に更新する戦略に対応しています。自由エネルギー原理の観点からすれば、彼らは予測精度(precision)の重み付けを比較的低く保つことで、新規情報による予測誤差を柔軟に受け入れ、より適応的なモデル更新を可能にしています。
不確実性や曖昧性への耐性が低い
脅威や秩序の乱れに対してより敏感で、知覚的堅性が高い
右扁桃体(right amygdala)の活動が強く、脅威認知に敏感
これらの特性は、予測の確実性(certainty)を高く保ち、既存モデルへの信仰度(prior belief)を強化する戦略に対応しています。自由エネルギー原理の用語では、彼らは予測精度の重み付けを高く設定することで、外界の変化に対して強力な内部モデルの安定性を維持しようとしています。
政治の党派性をエントロピー減少の枠組みで理解すると、以下のような対比が浮かび上がります:
保守主義は、社会的秩序を既存の伝統的制度や階級構造の維持を通じて最小化しようとします。このアプローチは、複雑な社会システムの不確実性を、階層的で確定的な構造によって「切り詰める」戦略です。社会に内在するカオス(高エントロピー)に対抗するため、既に証明された秩序パターン(伝統)を維持することで、予測可能性を確保します。
進歩主義は、社会的秩序を個人の自由、多様性の認容、制度的革新を通じて最小化しようとします。一見すると秩序を緩和しているように見えますが、実際にはより複雑で適応的な秩序化メカニズムを導入することで、社会システムのエントロピーを減少させる戦略です。異なる視点を統合し、新しい情報に基づいて制度を改革することで、社会システムの予測モデルをより現実に適応させようとしています。
不確実性耐性と脳レベルの同期
興味深いことに、研究では不確実性への耐性が低い人ほど、政治的に同じ立場の人たちとの脳活動の同期が強いことが示されています。言い換えれば、不確実性を避けたい個人は、同じイデオロギーの人々と同じ予測モデルを共有することで、集団レベルでのエントロピーを減少させようとしているのです。これは社会的な「外界の秩序化」メカニズムとして機能しています。
最新の複雑システム理論では、政治分極化は正のフィードバックループと相転移(phase transitions)のメカニズムを通じて発生することが示されています。保守主義者は秩序の維持を目指し、進歩主義者は秩序の革新を目指すという相反する動力が、社会システム全体のダイナミクスを決定しています。両者の相互作用は、社会的エントロピーを管理するための補完的なメカニズムとして機能しているとも解釈できます。
この自由エネルギー原理に基づく解釈には重要な限界があります。第一に、個人の認知的特性と政治的立場の関係は因果的ではなく相関的である可能性が高いです。第二に、政治イデオロギーはきわめて文化的・歴史的に構築されたものであり、普遍的な神経生物学的基盤のみでは説明できません。第三に、FEPは主に個体レベルの生物システムを想定しており、社会システムへの直接的な応用には理論的な拡張が必要です。
要するに、自由エネルギー原理の観点から見ると、右派は予測モデルの安定性重視によって秩序を維持するエントロピー減少戦略を採る一方、左派は予測モデルの柔軟性重視によってシステムの適応性を高めるエントロピー減少戦略を採ると理解できます。両者は、相異なるメカニズムを通じて社会的エントロピーの増加に対抗しているのであり、政治的党派性の根底には、不確実性に対する根本的に異なるアプローチが存在していると言えるでしょう。
自由エネルギー原理(FEP)を政治党派性に適用する理論を拡張するには、階層的ベイズ推論の多層構造、社会的相互作用の動的モデル化、経験的検証メカニズムの導入が鍵となります。これにより、個体レベルの神経メカニズムを社会システムレベルへ橋渡しできます。
FEPの核心は階層的予測処理です。個人レベルでは、低次層(感覚入力)が上位層(信念・イデオロギー)の予測を修正しますが、社会レベルでは個人の予測モデルが集団的「事前分布(priors)」を形成します。
右派の階層戦略: 上位層の伝統的priors(家族・国家・宗教)を強く固定し、下位層の変動(社会的変化)を抑制。集団レベルでは「社会的扁桃体機能」として、逸脱者を排除する規範執行メカニズムが働きます。
左派の階層戦略: 上位層のpriorsを動的に更新し、多様な下位層入力(マイノリティ視点)を統合。集団レベルでは「社会的ACC機能」として、対立する予測モデルの調停役を担います。
この拡張により、**党派性は「階層的自由エネルギー最小化の多重均衡状態」**としてモデル化可能。右派は安定均衡(低変動)、左派は適応均衡(高変動)を志向します。
FEPを非平衡動的システム論と統合し、政治分極化を予測誤差駆動の相転移現象として捉えます。
右派アトラクター: 高精度priors → 秩序維持 → 低エントロピー均衡
左派アトラクター: 低精度priors → 秩序革新 → 中エントロピー適応均衡
分極化 = 双安定状態(bistable dynamics)
S˙=−∇F(S)+ϵ⋅
ここで
ϵ は他派閥予測誤差です。党派性は負のエントロピー生産率を競う進化ゲームとなります。
FEPの「アクティブ推論(active inference)」を拡張し、政治行動を集団的予測誤差低減戦略と位置づけます。
党派受動的戦略(perception)能動的戦略(action)集団エントロピー効果
右派 脅威強調・一貫性追求伝統防衛・境界強化 内部秩序↑ / 外部不確実性回避
左派多様性受容・矛盾統合制度改革・包摂拡大システム適応性↑ / 内部多様性管理
これにより、選挙・政策は集団的「期待自由エネルギー」最小化のゲーム理論的均衡として解釈されます。
理論拡張の信頼性を確保するため、以下の検証経路を構築します:
fMRIで党派別予測誤差処理を比較(precision weighting)
class PoliticalAgent:
def __init__(self, ideology): # 'left' or 'right'
self.precision = 0.8 if ideology=='right' else 0.4
def update_beliefs(self, social_input):
free_energy = prediction_error * self.precision
return minimize_free_energy(social_input)
最終拡張として、FEPを国家・国際システムへスケールアップ。経済政策では右派が「低エントロピー均衡(安定成長)」、左派が「高エントロピー探索(イノベーション)」を担います。
グローバル均衡条件:
∑党派Var(policy predictions)=最適社会的自由エネルギー
このフレームワークにより、**党派対立は「多重スケールのエントロピー管理機構」**として再解釈され、民主主義は適応的秩序生成システムとなります。実証研究が今後の鍵です。
A:勝手な印象だが、男の分別がついてくるのって20前後からだと思う。悲しいかな、20年近く学ばないと、規範意識が社会的に許される最低限のラインまで育たないのだと理解している。大学生でも、大半が捕まらないだけで、無茶をしているやつが散見される。
B:日本以外では別にそんなことないので、日本人が男に甘いだけだと思う。男女問わずね。心底気持ち悪いな。
A:んなことはない。外国に行ったことすらなさそうな発言だな。
試しにホーチミンの夜の繁華街に行ってみたらいい。若者がごった返して毎晩乱痴気騒ぎだぞ。
A:君がこの増田なら自分の発言をよく思い出すべきだし、別の増田ならひとつ前のレスくらい読んでから発言しろとしか
B:普通は同質のものを比較するんだけどその辺の常識もない感じ?
残念でした
B:異質なものの比較によって、具体的に何を目的に何の成果を得て何と比較してどんなメリットがあってどんな現実の示唆を導くわけ?
バカでないならそこまで考えてやってんだよね?
どちらの方がより正しいでしょうか。
結論から言うと、AもBも論理が甘い部分があるが、議論としてはBのほうがまだマシ。Aは論理運用が雑すぎる。
以下、理由。
⸻
これは完全に個人の印象で、科学的根拠ゼロ。発達心理学でもそんな切り方はしない。前頭前皮質の成熟は25歳前後が平均だけど、男女差より個人差が圧倒的に大きい(Steinberg,2014)。
「外国」全体に対し、ベトナムの特定エリアのナイトライフで反論は無理がある。
Aは、政治板の酔ったおじさんみたいな言い分で、内容のある議論ではなく攻撃でしかないという感じ。
⸻
Bの問題点(Aよりは軽い)
根拠なしの一般化。治安統計を見ると、国によって若者の素行は違うし、犯罪率も文化も全然違う。
「どこでもない」とは言い切れない。
『多くの先進国では、若年男性だからといって行動の未熟さが社会的に特別に免罪されるわけではない。
日本では「若い男性は未熟で当然」という文化的前提が比較的強く、それが行動への甘さとして表れる場合がある。』なら妥当。
スケールの軸合わせとしてはもっともだが、皮肉を優先していて論点説明が弱い。説明にはなっていないが内容は十分。
Bはスケールの一致(同質の条件で比較すべき)という科学的な基本原則を押さえているので、議論としては筋が通る。
⸻
• Bは一般化が雑だが、比較の枠組みを正しく指摘している分だけ論理的。
よって、
Bの方が議論として「より正しい」。
10歳頃から30歳まで毎日欠かさずオナニーしたいほど性欲に溢れてた。
平成のインターネット黎明期からエッチな画像とか外付けHDDで保存するほどの収集癖も持っていた。
大人になっても強迫観念な気持ちで寝る前のオナニーは習慣になってたのが、「今日はしなくてもよいか」の選択肢が取れる様になった。
IT系をお仕事にしてると、学習対象の領域が互いに近いから手軽に学習できる。
自身や他者のためにツールを個人開発したりIPAやクラウドベンダー系の資格勉強などの情報科学分野はもちろん、業務でチーム運営や開発生産性を高めることを目的とした社会科学分野も自発的に学びたい気持ちが強い。
学べば学ぶほど仕事も進めやすくなり成果も出るし、プライベートも充実する。
趣味グループも楽しみつつ社会関係資本を蓄積する術も学んだことで、より多くの人と関われる様になった。
背景を改めて考えると、ちょっと前に業務における裁量範囲が拡大したことから、自身が考えることは何でも実現できる環境になった。逆に考えると、自身の能力の範囲でしか実現できない現実もあった。
だから学習を続けてみると、業務にも直接役立ったりチーム運営にもプラス効果をもたらしたり、良いことがたくさんあった。
ただ、以前とは逆に、強迫観念で学習しているだけかもしれない。
婚活して中長期的なパートナーを見つける活動にもリソースを投下すべきと頭で考えつつも、学習から離れられない。
逃避先が知識欲に変わっただけなのか。
10歳頃から30歳まで毎日欠かさずオナニーしたいほど性欲に溢れてた。
平成のインターネット黎明期からエッチな画像とか外付けHDDで保存するほどの収集癖も持っていた。
大人になっても強迫観念な気持ちで寝る前のオナニーは習慣になってたのが、「今日はしなくてもよいか」の選択肢が取れる様になった。
IT系をお仕事にしてると、学習対象の領域が互いに近いから手軽に学習できる。
自身や他者のためにツールを個人開発したりIPAやクラウドベンダー系の資格勉強などの情報科学分野はもちろん、業務でチーム運営や開発生産性を高めることを目的とした社会科学分野も自発的に学びたい気持ちが強い。
学べば学ぶほど仕事も進めやすくなり成果も出るし、プライベートも充実する。
趣味グループも楽しみつつ社会関係資本を蓄積する術も学んだことで、より多くの人と関われる様になった。
背景を改めて考えると、ちょっと前に業務における裁量範囲が拡大したことから、自身が考えることは何でも実現できる環境になった。逆に考えると、自身の能力の範囲でしか実現できない現実もあった。
だから学習を続けてみると、業務にも直接役立ったりチーム運営にもプラス効果をもたらしたり、良いことがたくさんあった。
ただ、以前とは逆に、強迫観念で学習しているだけかもしれない。
婚活して中長期的なパートナーを見つける活動にもリソースを投下すべきと頭で考えつつも、学習から離れられない。
逃避先が知識欲に変わっただけなのか。
フェミニズムの分類が多すぎると聞いて
記述集合論(Borel階層, Projective階層, 汎加法族)
モデル理論(型空間, o-極小, NIP, ステーブル理論)
再帰理論/計算可能性(チューリング度, 0′, 相対計算可能性)
構成主義,直観主義,ユニバース問題,ホモトピー型理論(HoTT)
体論・ガロア理論
表現論
K-理論
初等数論(合同, 既約性判定,二次剰余)
解析数論(ゼータ/ L-関数,素数定理,サークル法, 篩法)
p進数論(p進解析, Iwasawa理論, Hodge–Tate)
超越論(リンドマン–ヴァイエルシュトラス, ベーカー理論)
実解析
多変数(Hartogs現象, 凸性, severalcomplex variables)
関数解析
バナッハ/ヒルベルト空間,スペクトル理論, C*代数, von Neumann代数
フーリエ解析,Littlewood–Paley理論, 擬微分作用素
確率解析
常微分方程式(ODE)
偏微分方程式(PDE)
非線形PDE(Navier–Stokes, NLS, KdV, Allen–Cahn)
幾何解析
リッチ流, 平均曲率流,ヤン–ミルズ,モノポール・インスタントン
エルゴード理論(Birkhoff, Pesin),カオス, シンボリック力学
点集合位相,ホモトピー・ホモロジー, 基本群,スペクトル系列
4次元トポロジー(Donaldson/Seiberg–Witten理論)
複素/ケーラー幾何(Calabi–Yau, Hodge理論)
スキーム, 層・層係数コホモロジー, 変形理論, モジュライ空間
多面体, Helly/Carathéodory,幾何的極値問題
ランダムグラフ/確率的方法(Erdős–Rényi, nibble法)
加法的組合せ論(Freiman, サムセット, Gowersノルム)
彩色,マッチング,マイナー理論(Robertson–Seymour)
列・順序・格子(部分順序集合, モビウス反転)
測度確率, 極限定理, Lévy過程, Markov過程, 大偏差
統計学
ノンパラメトリック(カーネル法, スプライン,ブーストラップ)
時系列(ARIMA,状態空間, Kalman/粒子フィルタ)
非凸最適化
離散最適化
整数計画,ネットワークフロー, マトロイド, 近似アルゴリズム
Littleの法則, 重み付き遅延, M/M/1, Jackson網
エントロピー,符号化(誤り訂正, LDPC,Polar), レート歪み
公開鍵(RSA,楕円曲線, LWE/格子),証明可能安全性,MPC/ゼロ知識
計算複雑性
機械学習の数理
量子場の数理
相転移, くりこみ, Ising/Potts, 大偏差
数理生物学
数理神経科学
データ解析
思いつきをChatGPTに投げて肉付けしたものなんですけど、どうですかね?
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はじめに
従来、公共政策や社会科学において「女性」は単一のカテゴリーとして扱われることが多い。しかし、女性のライフステージや社会的役割は多様かつ動的であり、単一の性別概念では実態を十分に捉えきれない。本稿では、女性の性別概念を5つのグルーピングに細分化し、特に「子孫を残す女性」と「労働市場の女性」の間の双方向的な移行の重要性を踏まえた上で、新たな社会構造の必要性を論じる。
女性の生物学的・社会的側面を踏まえ、以下の5つのグルーピングを設定する。
1. 成長途上の女性
身体的・心理的発達段階にあり、教育や育成が中心となる層。主に未成年期から思春期を含む。
2. 子孫を残す女性
生殖可能な年齢層であり、母性という生物学的役割を担う。家庭や子育ての責務が社会的に期待される段階。
経済活動に主体的に参加し、キャリア形成や社会的自己実現を追求する層。子育ての有無を問わず労働市場で活動する。
閉経後の高齢期に位置し、社会福祉や医療の対象となる。豊かな経験と知恵を有しながらも孤立の課題を抱える。
5. 移行期の女性
特に2と3の間に位置し、子育てと労働参加の間を双方向に移行する女性たち。産後の復職やキャリア中断後の再参入など、多様な社会的・心理的課題に直面する。
子孫を残す女性(2)と労働市場の女性(3)は固定的な区分ではなく、個人の状況や選択、社会環境に応じて行き来可能な動的関係にある。この双方向性は以下の点で重要である。
キャリアの中断と再開
育児や介護等の家庭内責任により労働市場から一時的に離脱した女性が、再び社会参画を目指すケースが増加している。
伝統的な「専業母親」と「フルタイム労働者」の二元論を超え、パートタイムやフリーランス等、多様な働き方を選択する女性の増加。
この移行を円滑にするための政策や制度、職場環境の整備が不可欠であり、柔軟な対応が求められる。
女性の多様な性別グルーピングと、特に2と3の双方向的移行を考慮した社会構造の改革は以下を含む。
教育、育児支援、労働参加支援、高齢者福祉を個別に整備しつつ、特に移行期の女性への重点的な支援を実施。
キャリア復帰支援プログラム、心理的ケア、柔軟な労働環境の提供により、女性の社会参加の継続性を確保。
多層的ネットワークの構築
異なる性別グルーピング間の知識共有や相互支援のためのコミュニティやプラットフォームを形成。
これにより、女性の多様なニーズに対応可能な社会構造が構築され、性別に基づく格差是正と社会の活力向上が期待される。
おわりに
女性を単一の性別カテゴリーで捉えることは、その多様な社会的役割と動的なライフステージの変化を見落とすことに他ならない。特に子孫を残す女性と労働市場の女性間の双方向的移行を適切に認識し支援することは、現代社会における性別平等の実現に不可欠である。本稿の5つの性別グルーピングと動的移行の視点は、今後の政策形成と社会構造設計に資するものである。
A:先ほどから「アジャイル・ガバナンス」の問題について話していましたが、なぜこんな議論が法学界で受け入れられているのか不思議です。
B:それは実は、最近の日本の法学界の変化と関係があるかもしれません。
A:変化というと?
B:かつての日本の法学は、伝統的な議論との連続性をとても重視していました。新しい理論を導入するときも、従来の学説とどう整合するかを慎重に検討していた。
A:それって、保守的すぎるということですか?
B:確かにそういう面もありました。新しいアイデアが出にくかったり、権威ある先生の意見に若手が従わざるを得なかったり。
A:なるほど。それが最近は変わってきたと。
B:そうです。より自由に議論できるようになったし、新しい視点や理論も積極的に導入されるようになった。これ自体は良いことなんです。
A:でも、何か問題もあるんですか?
B:新規性や独創性がとても重視されるようになって、時には伝統的な議論の蓄積が軽視される傾向も見られるんです。
A:具体的には?
B:例えば、「これまでの法学では対応できない」「全く新しいアプローチが必要」といった主張が、十分な検証なしに受け入れられやすくなっている面があります。
A:それって、自然科学の影響ですか?新しい理論が古い理論を置き換えるような。
B:その通りです。他の社会科学の影響もあるでしょうね。でも法学は少し特殊なんです。
A:どう特殊なんですか?
B:法学では、新しい理論で古い理論を完全に置き換えるというより、蓄積された知恵を継承しながら発展させることが重要なんです。
A:なぜですか?
B:法的概念が頻繁に変わると、法の安定性や予測可能性が損なわれてしまいます。それに、長い間使われてきた概念には、歴史的経験が込められていることが多いんです。
A:なるほど。「法の支配」みたいに。
B:まさにそうです。800年以上の歴史がある概念を軽々に「アップデート」していいものか、もっと慎重に考える必要があります。
B:もちろんです。ただ、何を変えて何を変えないかの判断が重要なんです。根本的な価値や原則は継承しながら、具体的な制度や運用を改善していく。
A:そのバランスが難しいということですね。
B:そうです。そして、最近は「新しいから良い」という発想が強くなりすぎている面があるように思います。
A:それが「アジャイル・ガバナンス」のような議論につながっていると?
B:一因になっている可能性はあります。新奇な概念や横文字の理論に対して、批判的に検討する前に「新しくて進歩的」という印象で受け入れてしまう。
B:本来はそうあるべきなんですが...。最近は研究評価でも新規性や独創性が重視されるようになっていて、そのプレッシャーもあるかもしれません。
B:そういう面もあるでしょうね。従来の議論を丁寧に検討する地道な研究より、新しい概念を提示する方が注目されやすい。
B:はい。特に法学では、基礎的な概念や原則についての深い理解が不可欠です。それがないまま新しい理論を導入すると、土台のない建物のようになってしまう。
A:でも、若手の研究者にとっては、新しいことをやりたいという気持ちもあるでしょうし...
B:それは当然のことです。問題は、新しさと伝統的価値の継承をどうバランスさせるかなんです。
A:そういえば、シンポジウムとかで「アジャイル・ガバナンス」が議論されているという話もありましたね。
B:ああ、それも問題の一つかもしれません。大学でのシンポジウムや研究会で取り上げられることで、学術的に認められた議論という印象が作られてしまう。
B:もちろんです。ただ、批判的検討が十分なされているかが重要なんです。新しい概念を紹介するだけで終わってしまうと、結果的にその概念にお墨付きを与えることになりかねない。
A:なるほど。学術的権威が政策の宣伝に使われてしまう可能性があると。
B:そうです。特に政府機関が提唱している政策については、学術機関は慎重な距離を保つべきだと思います。
A:でも、社会に貢献したいという気持ちもあるでしょうし...
B:それも大切なことです。ただ、学術的議論と政策提言は区別して考えるべきでしょうね。
A:どういうことですか?
B:学術的には「こういう理論的可能性がある」ということと、政策的に「実際に導入すべき」ということは全く別の問題です。
A:確かに。理論的に面白くても、実際に導入するには問題があるということもありそうですね。
B:その通りです。特に憲法や民主主義の根幹に関わることについては、より慎重さが求められます。
B:まず、その議論が本当に学術的検証を経ているかを見ることです。批判的な検討も含めて、多角的に議論されているか。
A:一方的な宣伝ではなく、ちゃんとした学術的議論かということですね。
B:そうです。そして、新しい理論が提示されたときは、それが従来の価値や原則とどう関係するのかを確認することも大切です。
B:まさに。完全に断絶した新理論は、法学においては特に注意が必要です。
A:分かりました。でも、研究者の方々にも気をつけてもらいたいことがありますね。
B:おっしゃる通りです。新規性の追求も大切ですが、法学の基本的な使命を忘れてはいけません。
A:基本的な使命というと?
B:法の安定性や予測可能性を確保し、民主主義や人権といった基本的価値を守ること。そのために蓄積されてきた知恵を継承することも重要な役割です。
A:新しいことをやりつつ、大切なものは守るということですね。
B:そうです。そして、政策提言については特に慎重になる。学術的権威を政策の宣伝に使われないよう注意することも必要でしょう。
B:はい。特に法学者は、民主主義社会の基盤に関わる重要な役割を担っているのですから。
A:今回の「アジャイル・ガバナンス」の件も、そうした観点から見直す必要がありそうですね。
B:そう思います。新しい技術への対応は確かに必要ですが、それが法の基本原則を損なうものであってはいけません。慎重な検討が必要です。
「民族に性質がある」と主張するのは、お前が「真理を愛している」からではなく、「単純化された物語」に酔って安心したいからだ。
「日本人は勤勉」「ユダヤ人は金に強い」「ドイツ人は几帳面」それ、全部ステレオタイプであって、真理じゃない。
歴史がある ≠性質がある。それは「行動の記録」であって、「DNAに刻まれた性格」ではない。
お前の言ってることは、「家計簿に魚ばっかり載ってるから、この家庭は鰓呼吸です」と言って自己放尿してるのと同じ。
これはとても良い問いだが、論理的に極めて初歩的な錯誤がある。
それは、「文化的慣習」や「宗教的傾向」は構造 や文脈 によって発生する集合的傾向であり、先天的性質ではないという点。
「多くの人が信じているからといって、それがその民族の本質ではない」というのは、哲学・歴史・社会科学の最低限の共通知識だ。
もし「聖書信じてる=民族の性質」なら、「パチンコ行く=日本人の性質」って言ってるのと同じだ。
お前が言っていることは、民族を単一の人格として扱うことで、現実の多様性を否定し、「敵」「味方」を単純化して物語に仕立てようとしている。
たとえば、イスラエル軍に従軍するドゥルーズ系住民もいれば、パレスチナと共闘するユダヤ教ラビもいる。
「ユダヤ人=聖書信奉=○○な民族性」などとまとめる時点で、現実の複雑さを捨てて思考停止の楽園に逃げている。
いいかい、「民族に性質がある」と思いたくなる気持ちはわかる。
でも、それは自己放尿だ。
自分の中の闇を他人の民族に投影して、外側を汚して内側をきれいに見せようとするだけだ。
本当に強い知性とは、「例外を例外として認識できる勇気」と、「全体を単純化せずに愛せる思考」のことだ。
お前が「民族に性質がある」と信じた瞬間から、お前自身が劣った思考様式を持つ民族の一員になっているんだよ。
つまり、お前の言う「民族性」が本当なら、今この瞬間のお前こそ、自分の民族を侮辱してる第一人者だ。
そしてそれは、自己放尿を飲み干して「これはワイン」と言い張ってるのと同じ。
知性と理性を愛しているなら、今すぐコップを置け。匂いを嗅げ。そして学び直せ。
体育会系と文化系という分類における文化系(陰キャ)と勘違いしているやつがいてアホだなあと思った
先日、ネットでとある記事を読んでいたら思わず「え?」と思う記述があった
一瞬、頭がフリーズした。
彼の言っている「文系」と「文化系」が、私の頭の中でうまく結びつかなかったからだ。
ああ、なるほど。
彼は「理系と文系」という学問の分類と、「体育会系と文化系」という人間の気質の分類を
ごちゃ混ぜにしてしまっているのだ。
そして、その後者における「文化系」が持つ、やや内向的、いわゆる「陰キャ」的なイメージを、前者における「文系」全体に当てはめてしまっている。
しかし、その一方で、なぜ彼がそんな突拍子もない(と私には思える)勘違いをしてしまったのか、妙に気になってしまった。
「理系か、文系か」というのは、高校や大学で選択する学問分野の大きな括りのことだ。
ざっくり言えば、自然科学や数学、工学、医学といった分野が「理系」。そして、人文科学、社会科学、法学、経済学といった分野が「文系」。これは、何を学ぶか、どんなアプローチで真理を探究するかの違いであって、個人の性格やライフスタイルを規定するものではない。もちろん、学問の特性が個人の思考様式に影響を与えることはあるだろうが、それは結果論に過ぎない。
一方で、「体育会系か、文化系か」というのは、個人の気質や所属するコミュニティのカルチャーを指す言葉だ。
「体育会系」と言えば、運動部に代表されるような、上下関係がはっきりしていて、根性論やチームワークを重んじる、エネルギッシュで外向的なカルチャーを指すことが多い。いわゆる「陽キャ」のイメージと結びつきやすい。対する「文化系」は、文芸部や美術部、吹奏楽部などに代表される、個人の興味や探究心、内面的な活動を重視するカルチャーだ。こちらは比較的物静かで、インドア、内向的な「陰キャ」のイメージを持たれがちだ。
この二つの分類軸を並べてみれば、両者が全く別物であることは火を見るより明らかだろう。
これはX軸とY軸のようなもので、本来は組み合わせて四象限のマトリクスで考えるべきものだ。
・理系で体育会系:工学部のラグビー部員とか、医学部のサッカー部員とか。ゴリゴリのフィジカルを持ちながら、論理的な思考も得意とする人たち。たくさんいる。
・文系で体育会系:法学部の野球部主将とか、経済学部のアメフト部エースとか。チームをまとめ上げるリーダーシップとコミュニケーション能力に長け、社会の仕組みにも明るい。こちらもたくさんいる。むしろ、営業職などで大活躍するイメージすらある。
・理系で文化系:数学科でチェスに没頭する学生とか、物理学科でSF小説を書きふける大学院生とか。知的好奇心の塊で、自分の世界を深く掘り下げるタイプ。これもステレオタイプな「理系像」に近いかもしれない。
・文系で文化系:文学部で古文書を読み解くのが好きな学生とか、史学科で一日中博物館にいるような人とか。これもまた、一つの典型的なイメージではあるだろう。
このように、四つの象限にはそれぞれ典型的な人物像を当てはめることができる。
そんな単純な話では全くないのだ。
彼が言っていた「文系=文化系(陰キャ)」という図式は、このマトリクスの存在を完全に無視した、あまりにも解像度の低い世界認識だと言わざるを得ない。
では、なぜ彼は、そしておそらく彼以外の一部の人たちも、こんなにも雑な紐付けをしてしまうのだろうか。
いくつか理由が考えられる。
「文系」の「文」と「文化系」の「文」。この共通する漢字一文字が、無意識のレベルで両者を結びつけている可能性は高い。人間は、意味よりも音や形の類似性で物事を連想することがよくある。「文」という字には、どこか「武」の対極にあるような、静かで知的なイメージがつきまとう。「武」が体育会系なら、「文」は文化系だろう、という非常にシンプルな連想ゲームが、頭の中で行われているのではないか。
二つ目は、ステレオタイプの暴走と単純化だ。世の中には、様々なキャラクターの「型」が存在する。特に、ドラマや漫画、アニメといったフィクションの世界では、分かりやすさが重視されるため、キャラクターはしばしば極端なステレオタイプとして描かれる。
たとえば、「理系の天才」は、コミュニケーションが苦手で、白衣を着て研究室にこもっている、まさに「文化系の陰キャ」として描かれがちだ。一方で、法廷ドラマの敏腕弁護士や、経済ドラマの熱血銀行員といった「文系」のヒーローは、弁が立ち、行動力がある人物として描かれることが多い。
こう考えると、むしろ「文系=陽キャ」のイメージの方が強まりそうにも思える。だが、ここで話はもう少し複雑になる。
おそらく、多くの人が「文系」と聞いて真っ先に思い浮かべるのは、
経済学部や法学部ももちろん文系だが、より「文系っぽい文系」としてイメージされるのは前者だろう。そして、ひたすら文献を読んだり、思索にふけったりする文学部のイメージは、確かに「文化系」の活動と親和性が高い。この「文系の中の特定のイメージ」が肥大化し、文系全体を代表するイメージとして認識されてしまう。その結果、「文系=文学部っぽい人たち=文化系っぽい=陰キャ」という、伝言ゲームのような連想が出来上がってしまうのではないか。
人は誰しも、自分の見てきた世界が世界のすべてだと思いがちだ。例えば、その人が通っていた高校のクラス編成が、たまたま「理系クラスは大人しい生徒が多く、文系クラスは活発な生徒と静かな生徒が混在していた」という状況だったとする。その場合、「理系は文化系寄り、文系もまあ文化系寄りかな」という雑な印象が刷り込まれてしまうかもしれない。あるいは、自分の周りにいる数少ない「文系」の友人が、たまたまインドアな趣味を持つ人ばかりだった、という可能性もある。その限られたサンプルから、「文系とはこういうものだ」という法則を導き出し、それを世の中全体に当てはめてしまう。これも、人間が陥りがちな思考の罠の一つだ。
https://anond.hatelabo.jp/20250614122405
俺がブクマしたんじゃねえ。誰だよまじで
「背の高い学生は背が低い学生よりもテストでいい点を取っているという研究結果」
「世界中の国々で、身長が高い男女は背が低い人より収入が高い、というのは社会科学ではよく知られた現象です」と指摘するのは、論文の筆者であるデラウェア大学のエイミー・エレン・シュワルツ教授と、セントアンセルム大学のステファニー・コフィー助教授です。
例えば、アメリカとイギリスでは、身長が10cm増加するごとに1週間当たりの収入が4~12%増加するとのこと。同様に、韓国でも身長が10cm高くなるごとに月収が6~7%増加することが確かめられています。
この現象については、いくつかの仮説が提唱されています。そのうちの1つは、「背が高い人は自信がある」「人から好意的に見られやすい」といった社会的要因が関係しているという説です。
https://gigazine.net/news/20250518-taller-students-perform-better/
もう終わりだよ
経済学者ヤクブ・カプラン(Jakub Kwapień)らは、**エントロピー(情報の無秩序さ)**の概念を経済システムに適用し、「市場の効率性」や「産業構造の多様性」を定量的に分析しています。
•市場における情報の拡散と収束を、熱力学のエントロピーと対応づける。
•経済的エントロピーが高い=多様な選択肢が存在しており、自由市場が活発。
これは経済現象が確率論的かつ統計力学的に解析可能であることを示しています。
Victor Yakovenko(ヴィクター・ヤコベンコ)らの研究では、個人間の貨幣のやりとりを「熱浴中の粒子のエネルギー交換」に見立てることで、所得分布を解析しています。
• その結果、低所得層の分布がボルツマン=ギブス分布(exp(–E/kT)))に従うことが分かり、高所得層は**パレート分布(冪乗則)**に従うという二相構造が確認された。
これは単なる比喩ではなく、実データとの突き合わせでも非常に高い整合性を示しており、自然科学的手法の応用が成功している好例です。
•株価の変動モデル(例:ブラック=ショールズ方程式)は、物理学の拡散方程式やブラウン運動モデルに基づいて構築されています。
•市場の価格変動を、粒子のランダムな動きと同様に確率論的に記述する。
これは金融工学の中心的理論であり、実際にノーベル経済学賞も受賞しています(1997年、マートンとショールズ)。
◆ まとめ:自然科学的アプローチは社会科学の核心にまで浸透している
こうした例が意味するのは以下の通りです:
•経済学は、自然科学と同等の厳密性とモデル化能力を持ちうる。
• 「科学とは自然科学だけ」という見方は、19世紀的な発想であり、21世紀の実証社会科学の実態と乖離している。
たとえば、
•一般均衡理論では、価格や生産量が一つの「エネルギー最小化状態」に似た形で安定するモデルが組まれます。
•熱力学とのアナロジーにおいては、エントロピーや保存則に相当する概念(効用最大化、リソース配分最適化など)が使われます。
•統計力学的経済学(エコノフィジクス)では、個々の経済主体を「粒子」に見立て、マクロな現象(市場の動向や格差)を導き出す試みがなされています。
これらは単なる比喩ではなく、観測→モデル化→検証という自然科学のプロセスと同じ方法論に基づいています。
◆数学モデルの使用は「科学性」の証拠ではないが、実証的アプローチの一部
自然科学が科学である所以の一つは「定量的検証が可能である」点にあります。
経済学はその点で、数学的厳密性を持った仮説形成と検証を可能にしており、社会科学の中でも特に自然科学に近い位置にあります。
このような手法をとっている経済学に対して、「自然科学と違うから科学でない」というのは、むしろ科学の定義を狭めすぎた視野の狭い理解と言わざるを得ません。
◆社会科学は「人間」を扱う以上、絶対法則ではなく「傾向」を導く
確かに、社会科学が「全宇宙で通用する法則」を提供できるわけではありません。しかし、人間社会の理解にとって有用であり、実証性と予測力を持つモデルを作っている以上、「科学」であることに変わりはありません。
経済学が熱力学と似た方法論で社会を説明できるのであれば、それはむしろ「自然科学との接続点」ではないでしょうか。
つまり、「自然科学でなければ科学ではない」という主張そのものが時代遅れであり、経済学のように高度な数学的・実証的手法を取り入れている社会科学の存在が、それを明確に否定しているのです。
主 張 そ の も の が 時 代 遅 れ
こういうのは一見もっともらしく聞こえるが、まったく中身のない定義のすり替えだ。
お前が「科学」と言ってるのは、自然科学、特に物理や化学のモデルだろ?経済学や法学はそれとは別の対象を扱ってるってだけで、科学的態度や方法論がないわけじゃない。
まず経済学。これは社会科学(social science)ってカテゴリに明確に入ってる。仮説を立てて、データで検証して、反証可能性がある。
完全な追試ができない?そりゃそうだ、人間の行動や制度は実験室に閉じ込められないんだからな。
でもだからって、再現性のある理論構造がないわけじゃない。時間と場所を変えても成立するモデル、たとえば購買力平価、フィリップス曲線、IS-LM、Taylorルール、ありとあらゆるモデルが事例の蓄積で精度を上げてきた。
「経済学は予測が外れる」とか言い出す奴もいるが、それは天気予報に「今日晴れるって言ったのに急に雨だったじゃないか」ってキレてるのと同じ。
確率と不確実性を扱うのがこの領域で、それでもロジックとデータに基づいて規則性を探るのが科学的態度なんだよ。
法学は規範科学だ。「この法律の条文はこう読むべき」「判例がこういう事実関係でこう判断したのは、こういう法理による」といった構造的な推論の積み上げで成り立ってる。
社会のルールを規範的に整備するための理論体系であって、「結果が同じか」ではなく、「同じルールを適用したら同じ判断になるか」という点で再現性を担保してる。
お前の言ってる「追試」ってのは、「実験条件を完全に揃えてもう一度やる」っていう、自然科学に特有のモデルの話だ。
それをそのまま社会科学に当てはめて、「できないから科学じゃない」とか言ってる時点で、科学とは何かすら理解してない。
科学とは何か?答えはこれだ。論理的整合性と経験的検証を通じて、再現性と予測力のある知識体系を構築する営み。
経済学も法学も、その営みの中でモデルや理論を進化させてる。だから科学だ。
元増田の言いぶりは極端だけど、テクノリバタリアン(テクウヨ)と社会科学とは相性が悪いよね。
社会科学は(主語めちゃくちゃでかいけど)、データが無いか乏しい中で、理論を発達させて物事を推論するというアプローチが多い。
これは経済学が典型的だと思っていて、「商品の価格が何で決まるか」ってテーマについて、全ての商品のデータなんか集められっこない時代に、近代経済学は「需要と供給で決まる」と説明し、マルクス経済学は「投下労働量で決まる」と説明した。
でもテクノリバタリアン(テクウヨ)は同じテーマについて、大量のデータをもとに機械学習でズドンと答えを出しちゃう。
今の中古車業界とかが典型で、大手中古車専売店は中古車在庫の値付けを上記プロセスで毎日行うから、そこに(社会科学的な)理論が介在する余地がない。
業界の人間じゃないんで知らんけど、今は不動産価格とかホテルの宿泊費とかもおんなじ感じじゃないかな。
こんなことやってる奴らからすると、伝統的な経済学の価格理論なんてアホに見えて仕方ないだろうね。
(だからこそ経済学もビッグデータを(統計学を使って)その体系に盛り込んでいこうと努力しているわけだけど)
歴史学に似たような話があって、「日本史学は(戦乱が少なかったおかげで)史料が山ほど残っているから歴史理論があまり発達しなかったが、ヨーロッパ史学は史料が少ないおかげで歴史理論がよく発達した」なんて言説がよく言われたりした。
これは日本史学のコンプレックスとして語られることが多かったんだけど、よく考えりゃデータ(史料)がある以上は理論なんかに頼る必要は無いわけで、テクノリバタリアン(テクウヨ)的な発想から行けば「理論なんざ要らねぇよ」ってことになるんだろう。
まあ思い付きの域を出ていないんだけど、大方こんなノリだと思うよ。