
はてなキーワード:社会学部とは
子の付き添い入院を経験してそれを何かの形にしたいと思っているのだけれど、その「形」とエスノグラフィは8割くらい被ってる気がする。「当事者研究」とも近い。
この本は、私が付き添い入院と付き添い入院の間、数ヶ月の在宅治療中に、「なんかメンタルが整うような本ないかな」と思って立ち寄ったスーパーの中にある本屋で、めぼしいものが見つからず、「じゃあ新しい学びでも得るか」と立ち寄った新書コーナーで見つけた本だ。「エスノグラフィってなんだっけ?」と思って手に取ったが、初めて知った言葉だった。
買って一日で読み切ってしまった。
この本では「エスノグラフィとは何か?」という問いに対し、冒頭に結論となる文章が書かれている。初見では分かりにくい文章だが、その中で登場するキーワードを、各章で細かく説明する形で理解を深めていくようになっている。
私の感想もその文章の各キーワードについて、「付き添い入院中に私がやってたのってエスノグラフィなのかな〜違うかな〜」など、思ったことを書いていく。
その文章の説明をするところの前に「はじめに」と第一章の「エスノグラフィを体感する」があるので、そこの感想。
エスノグラフィは社会学の一部らしい。私は社会学部卒だったのでこの本を手に取ったのも必然だったか、という気持ち。あとこの「はじめに」の中に「在宅酸素療法」という言葉が出てくるのにも驚き。子がまさに酸素療法中だったので、「空気って大事なんだな」って話に非常に縁を感じた。
賭けトランプと棺の話面白い。ざっくりこの辺まで立ち読みして買うのを決めた。
『エスノグラフィは何も隠されてはいない、ありふれた日々の「生活を書く」ことを基本にします』。付き添い入院が行われている小児病棟は、隠されているわけではないけど、限られた条件の人しか参加できない。ただ、そこでは少し変わってはいるものの確実に生活が営まれている。
フィールドで見た場面と研究主題の接続:これが私の書きたいこととエスノグラフィの違い。私特に主題っぽいものを持ってない。「貧困」とか「差別」みたいな。多分。問題意識はあるんだけどそれをいま書いて訴えたいかと言われると、ちょっとピントがズレる。
フィールドと自分の普段の生活を二重写しにみる:これはそう。付き添い入院を知らなかった私には戻れない。
フィールド調査の十戒:これは基本的に「部外者」としての考え方だ。「当事者」として病棟にいた私が、より理性的に振る舞うために何が必要だったか考えさせられた。寛大であることと関わる人を中傷しないことは難しかった。私は「奪われた」寄りの人間だったから、無駄に奪われないために戦う必要があったし、中傷もした。「そういう考え方もあるね」と俯瞰することもないではなかったけど。フィールドの文化と歴史を知るために調べて歩き回ることは意識した。付き添い入院がどういった背景で行われているのか調べ、実際に入院する前に病棟の見学もさせてもらった。情報があまりにも少ないことが不安を生んでたからだ。偉そうにしないこととただの見学にならないように記録することも「部外者」の発想だと思う。
書くことについては、私は完璧に考えがまとまってから書くのでも、書きながら考えが立ち上がってくるのでもなく、考えた端から書きつけていかないと気が済まないタチ。不安や怒りといった感情とこれからすべきことは何かといった思考が絡まった状態で脳内にあるので、言語化して要らない感情は捨てて、必要な思考を拾い上げていく。整理してまとめ上げるというよりは断捨離。
章間にあるコラム全部面白い。ストリートコーナーソサエティの付則が面白いって書いてあるのと似てるかもしれない。
エスノグラフィは、経験科学の中でもフィールド科学に収まるものであり、なかでも①不可量のものに注目し記述するアプローチである。不可量のものの記述とは、具体的には②生活を書くことによって進められる。そして生活を書くために調査者は、フィールドで流れている③時間に参与することが必要になる。こうしておこなわれたフィールド調査は、関連文献を④対比的に読むことで着眼点が定まっていく。そうして出来上がった⑤事例の記述を通して、特定の主題(「貧困」「身体」など)についての洗練された説明へと結実させる。
妊娠中に子が先天性心疾患を持っていることがわかった。付き添い入院の必要があることが分かったのは生まれて1か月が経ったころ。2か月で手術をし、付き添い入院が始まり、4か月で退院した。現在子は7か月で、この先もう一度、手術と付き添い入院の予定がある。そしてその母親である私は、大変な記録魔である。それも、数字の記録はあまり続かず、起きたことを起きた時に感情と共に記録することを、携帯が普及し始めた学生時代からずっと続けてきた。そのため、子の病気に関することや私の生活についての数千件にも及ぶメモが分単位で記録されている。これは、不可量のものが記録されたフィールドノートになるのか?
客観化の客観化:エスノグラファーが研究対象に参加しようと努力するのに似て、私は自身や自身の置かれている環境を観察できるよう、自分の心から離れた位置から事象を捉えようと心がけてたように思う。発生時点では一人称的な見方になるし、ショックも受けるが、落ち着いたら、相手の立場に立ったり、制度面での欠陥がどこにあるのかを考えたりもした。冷静になりたかったし、付き添い入院で経験したことを有益にしたかった。
この章に出てくる市について『2024年の能登半島地震で被害に遭った地域にある』との記述を見て驚く。待ってこの本いつ出たの?2024年9月!!??出版されて一年経ってない本を私はいま手に取って「やべ〜めっちゃ今私が知りたかった視点だ〜」とか思ってるの!?「いまーここ」すぎる。
私が付き添い入院中記録していたことは100%これだ。事件もあったが、日常をひたすら記録していた。というか、育児日記を書いているママは大勢いるから、生活を書いている人はたくさんいるんだろう。参与ではなく当事者研究に近い行い。
アフリカの毒については、退院後の外来で、他のママが「あの環境って独特ですよね。なんか連帯感というか」となんだか楽しげに言っていたのが印象深い。子の命が懸かっているので、アフリカのように無限に往復したい場所ではないのだが、そこを無視すれば、一種の寮のような共同生活は他にはない体験ができる場所だ。具体的にどこがとは言いづらいが、非常に「日本的」だとも感じた。
フィールドを『問題地域としてのみみなすような態度を取らない』ことは、付き添いが始まる前はどうしてもできなかったことで、始まってみて「どこにいようが日常は続くな」と思うようになったことを思い出した。ちょっと石岡先生の言いたいこととズレてる気もする。
ここで『かわいそうでもたくましいでもない』という記述がある。かわいそう、たくましい。この二つは患者家族がめちゃくちゃ言われる言葉トップ2だ。そうね。かわいそうだし、たくましくもある。そのあっさい感想で、あっさい関係性の人たちについてはもういい。だがもうちょっと地に着いた、実際どうなの?というところを知りたい人に対して、私はものを書きたい。この記述太字で書いてあって、後半にも出てくるから、先生の中で通底してる考えなんだろうと思うととても嬉しい。
部落の話を通じて「いまーここ」を見つめようという話は、目を逸らしたい気持ちだった。自身の中にもいろんな偏見があって、正すべきだとわかっているけれど、今ちょっとそんな余裕がない。ごめん。の気持ち。
エスノグラフィで記述されるのはすでにあるものって話も、私を勇気づけるものだった。こんな当たり前のこと書いてなんになるんだろうと思うような話ばかりだが、丁寧に調べて書けば、論文にすらなるんだと思うと心が晴れた。
買ってから気づいたのだけど、この本には挿絵が入っている。印象的な場面やキーワードをページ一枚のイラストという形でも表している。図表は一個もない。大学教授が自身の研究と参考文献を大量に提示した、論文に近い新書でこの形式はとても珍しいと思うが、文章だけでなく絵で切り取ってみるのも、エスノグラフィが一つの事例を深掘りし、「何が」を調べるものではなく、「いかに」を調べる学問であるという説明を強化しているなあと思った。
その場に見学者としているだけではなく役割を持って参加することを持って「時間に参与する」と表現しているようだ。私は当事者なので参与も何も、強制参加させられて日常に帰ってきたのちに、「あの経験をエスノグラフィにできないか?」と、入り口ではなく出口としてエスノグラフィを使おうとしている立場である。
参与観察はもう少ししたかった。他の家族がどうやって子を看病しているか、一日のスケジュールがどうなっているか、経済状況、家族構成、抱えている困難。知り合いになった結果面倒ごとを押し付けられそうで、退院が確定するまで(いざとなったら逃げられる状況になるまで)他者を詮索するリスクを取れなかった。逆に言えば退院が決まってからはめっちゃ人と話した。
この本を読む以前に私がやってきたことがエスノグラフィ(というか研究)じゃないのはここだなあと。大学時代にやったことだが、研究には先行論文を読むステップが欠かせない。ただ単に「これってこうだと思うんですよ!」だけじゃダメで、「この論文ではこう言ってて、この研究ではこういう結果で、でも自分はここの部分はこう思ってて。で実際調査してみた結果がこれ。ね?あってるでしょ?」みたいな。
そして今日この本を読み終わって思ったのが、「この本を読んだことで、私のエスノグラフィ始まったんじゃない?」ということ。まあ当事者なので完全にエスノグラフィにはならないし、仮説を立てるとか主題を持つとかする気はないのだけど、この部分はエスノグラフィっぽい、ここは違うな、と「対比的に読んだ」ことで、ただの雑記が、研究や分析みたいな深みを得そうな気配がした。
それ以外にも「対比的に読む」ことはしていて、いま書こうとしているのと同じ媒体の、似たタイプの作者の書いたものを大量に読んで勉強している。書きながらやっているので、自分がぶち当たっている壁をどう解決しているのか教えてくれる最良の教科書として機能しているし、自分が書くもののどこがユニークなのかを都度確認もしている。
あとここで先生は『容赦なく書き込む』ことを推奨しているので、ここで初めてマーカーを手に取った。私は本を汚している感じがして書き込みをしない。けど、書いた人がそうしてというなら遠慮なくそうする。「はじめに」に書いていてほしかったな。なんでこんなど真ん中で…。先生の言うように初読の読むペースの時間的経験の中で重要と思われる部分にマークしていくべきだった。珍しく凄まじいスピードで読んだから、この文章を書きながら再読している時の咀嚼感と全然違う。
対比的に読むことがデータをつくることに関連している:一回目の付き添い入院は初体験だったので新鮮な驚きや緊張感で乗り越えられた気がするが、待ち受けている二回目に向けてのモチベがなくて困っていた。どういった姿勢で臨むべきか決めかねていて。そんな悩みに光を差す記述として、『フィールドで得た漠然とした問題意識を明確にするために文献を読み、着眼点を得て、その着眼点、気づきを持ってフィールドに戻って、「データをつくる」ためにインタビューやフィールドノートの記述をするのだ』(要約)と書いてありました。なるほどな〜と。二回目もやはり逃げられる状況になるまで他者のインタビューはリスキーではあるけれど、とりあえず一回目の振り返りをして、二回目はどんな記録をしていきたいか見定め、関連資料を探すことをしようと思う。
私は日常を書きたいだけで主題がないので、この章は自分のやってることとはちょっと違うかなということが多かったのだけど、主題があるとすればできることはあるなあと思った。前章の対比的に読むことや、社会学の文脈で書くこともそうだし、比較するのではなく、対比することもそう。
子の闘病において、病棟で暮らすことと、家で暮らすことのほかに、「外来」という場所がある。退院後も月に一回程度はその病院の外来に足を運んで検査をするし、外来を重ねてまた入院することもある。病棟にいるとよく聞く会話に「外来来るよね?」というものがある。最初耳にした時はそんなこと確認してなんになるのかと思ったが、別の日、外来に来た母親が病棟にも顔を出すというので、病棟の外に大量の母親たちに、なんと医師と看護師と病棟保育士まで集合しているのを見た。主題を「人間関係」とかに置いた場合、「病棟」と「家」だけで見たら抜け落ちてしまうものがこの「外来」という場所にありそう、対比して調査する場所として必須なのではと感じた。外来もまた病棟とは違った、独特な空気感を感じる場所である。
時間的予見を奪う:これは私に取って大きな学びだった。本書ではフィリピンの立ち退きに遭ったスラム住人の例が挙げられていたが、付き添い入院もこの困難を抱えていることを自覚したからだ。付き添い入院は始まる時も終わる時も未定で、予告されるのが数日前だったりする。病気を抱えているから当然だと思うだろうか?では、その入院する病棟が、盆正月やGWといった長期休暇にはガラガラになることを知っても同じ感想を持つだろうか?病気の子を人質に医療者の都合が押し付けられているのだ。あーあ書いちゃった。まだ治療が続くので今は敵に回したくないんだけど、気づいたら書かずにはいられない性分で。先の見通しが立たないことは病児看護において日常になる。生まれてから、治療が終わるまで、年単位でスケジュールが未定になる。純粋に病気のせいの部分もあるが、先に書いたように医療者の都合による部分が確実にあるにも関わらず、それは私たちには容易には分からない上、付き添い入院は「家族がどうしてもやりたいっていうからやらせてあげている」ていになっているので、余計にストレスが溜まる。この気づきを得たのは大きかったな。
病棟が長期休暇になると患者が減ることは他の家族のインスタで知った。付き添い入院において背景や論理を知ることは難しい。先にも書いたように詮索することで子の手術や看護といった医療サービスが適切なタイミングや質で受けられなくなるかもしれない不安が付きまとうからだ。医療者の側から観察できればいいのだけど。もしくは保育士や清掃員とかで入るのもいい。
ある人々にとっての現実の把握:この、たった一つの真相を知るでもなく、多元的な見方をするのでもなく、バイアスがかかっていることを自覚しながら観察するのは、当事者としてもいい見方だなと思った。私は当然患者家族であるので、その立場からものを見て言いますよと、自省的なのか開き直りなのか分からない姿勢にも自信が持てるというもの。
ミクロな視点からマクロを見る:付き添い入院がマクロにまで射程が届く研究対象なのは明らかだろう。付き添い家族をターゲットにしたNPOあるくらいだし。一方でその実態は泣く子と眠れない夜を明かし洗濯をし食器を洗いシャワーを浴びて食事をする、とても地味でありふれたミクロな場面の連続だ。
ルポルタージュとの違い:エスノグラフィは時間の縛りがない事がルポとの違いらしい。なるほど。昨日『ダーウィンが来た』で、動物写真家がシロイワヤギを40年追っかけてるっての見たけど、そっちと近いんだろうか。文学とも重なる感じ。先生も書いてるけどエスノグラフィは「読み物として面白い」ものが多そう。まだ私一冊も読んでないけど、本書で引用されたものだけでも十分面白かった。けど、「研究」でもあるので、主題と紐付けて研究結果が出てくるところが、エッセイやルポとの違いだろうか。エッセイでも面白いものはそうした「発見」みたいなのはちょいちょい見る気がするけど。社会学の文脈にびたびたに浸って先人たちのあれやこれやを紐づけまくってその上に自分の見た事象からの発見を記載できればエスノグラフィなのかな。知らんけど。ここは明確な区切りがわからなかった。
長文の研究計画書を書くって書いてあったけど、そこに何書くんだろう?私は主題はなくてフィールドが強制的に決められて問題意識(不平不満)と記録は大量にあるわけだけど、大学生とかは、①エスノグラフィというものがあるのを知り、②「子供の貧困について研究したい!」とかって主題を決め、③エスノグラフィで調査しようと決めて、④主題と関係が深そうなフィールドを探して(こども食堂とか?)、⑤主題に繋がりそうな場面に遭遇しないかな〜と思いながら参与観察するみたいな感じだろうか。やりてえ〜大学生に戻って。
研究とお金の話は文系も理系も似たような感じだな〜と思った。応用研究は金出るけど基礎研究にはなかなか出ないし長期での研究も難しいみたいなの話。
私が今付き添い入院をフィールドにエスノグラフィができない理由はここまで書いた通りで、問題意識を表出すると角が立つからだなあ。当事者は奪われる側なので。できない分ここで社会学の視点からみれそうな表現で問題意識については書いたつもりなので、誰かやってください。ほんとはやりたいよ。今すぐ石油王になって付き添い入院病棟を全て個人産院並の、シャワートイレ冷凍冷蔵庫付きで親と子それぞれのベッドがある広めの個室にして、食事もついて、付き添い保育士を外注できるようにして、その病棟の看護師と患者家族全員が参加Permalink |記事への反応(2) | 17:51
1位 社会学部
ずるいくらいに何でもあり。性産業や貧困、カルト宗教等、センセーショナルなテーマをやり放題。
2位 文学部
これは学科によるが、まぁ社会学部の次にやりたい放題なのは間違いないだろう。
3位 理学部
文学部の理系バージョンだからもちろん学科によるだろうが、才能があれば楽しめそう。文系みたいなやりたい放題はできなさそうだけど、どうなんだろう。
(中略)
ひたすら暗記。安定した収入のために突っ走る。人体に興味が持てればまぁ楽しいだろうが、暗記量とその単調さにめげてしまいそう。優秀な人が集まる場なのに、学部レベルでは独自性を一切発揮できないのもつらそう。
ビリ 法学部
柴田英里
@erishibata
すごい。身長体重の中央値から違うという事実や統計とかをまるっと無視だ。
2C1Pacific
@2C1Pacific
岡田桂教授「体力とは、男性が有利になるものだけを測ってきた、文化的に偏った概念」
立命館大学産業社会学部スポーツ社会専攻、すごい。ツイッターのネタでなく、こういう講義が実在するとは。
*マジキチ
オリンピックなど、世界的な大会でこれまで物議を醸(かも)してきたことの一つに、トランスジェンダーなど性別をめぐる問題があります。パリ五輪でも、男性ホルモンとも呼ばれるテストステロン値が高い女子ボクシングの選手が出場し、物議を醸しました。立命館大学産業社会学部の授業「スポーツとジェンダー」は、こうしたスポーツにおけるジェンダーの課題など、近現代のスポーツのありようと社会とのつながりについて、「性」に関わる視点から検討しています。
産業社会学部は2007年にカリキュラム改革を行って現代社会学科の1学科制となり、現代社会専攻、メディア社会専攻、スポーツ社会専攻、子ども社会専攻、人間福祉専攻の5つの専攻を設置しました。「スポーツとジェンダー」の授業を開講した経緯について、スポーツ社会専攻の岡田桂教授はこう話します。
「他大学のように体育学部やスポーツ科学部などに設置されているスポーツ専攻と違って、立命館大学の場合は、産業社会学部の中にスポーツ社会専攻があります。社会におけるスポーツを学ぶので、ジェンダーの視点というのは欠かせません」
授業を担当する教員は年度によって異なり、全15回の授業内容は教員によって違いますが、主軸となるのはこれまでスポーツにおいてジェンダーがどのように問題となってきたのか、歴史や事例について学ぶことです。
「必ず学ぶのは、近代スポーツが生まれた経緯です。なぜなら、スポーツという文化はもともと男性だけが行う前提でつくられたものということを知る必要があるからです」
岡田教授によると、近代スポーツの発祥は19世紀で、エリート教育を行うイギリスのパブリックスクール(男子校)で、課外活動の一つとして取り入れられるようになり、発展していきました。
「スポーツは男性のほうが有利と、一般的には認識されています。しかし、そもそも男性の体の資質に合ったものが選択され、男性が有利になるように制度化されてきたものが近代スポーツなのです」
「男性の体の資質に合ったものが選択され、男性が有利になるように制度化されてきたものが近代スポーツ」完全にウソですね。だから男性の方が体力があるというのは嘘ということにはならない。計測やルールは公平性や正確性を持っており、男性が有利になるという目的は意識的無意識的にかかわらず存在しない。ジーン・キング時代みたいな古い例しか出せないのは、その後ルールやトレーニング法が整備されて対抗できなくなったとい事実を無視するためで、似非科学です。
確かに、体力は女性より男性のほうがあると、当たり前のように認識されています。実際に小学校や中学校で行われる体力テストのスコアは、男子のほうが女子を上回りますが、岡田教授はその理由を次のように説明します。
「学校で行われる体力テストは、文部科学省が定めている体力の基準8項目(握力、上体起こし、長座体前屈、反復横跳び、20mシャトルラン、50m走、立ち幅跳び、ボール投げ)をテストします。このうち7項目は筋力によって左右されるので、男性が有利になります。一方、柔軟性をみる長座体前屈は、女性のスコアのほうが上回ります。つまり、男性が有利となるような項目が、体力を測る物差しになっているのです。そもそも体力とは何かを考えると、実は科学的なものではなく、男性が有利になるものだけを測ってきた、文化的に偏った概念だということがわかります」
まずこの表現自体が被害妄想でWokeですね。アメリカでは一笑に付される。文化じゃなくて科学の問題。だから文系は科学が理解できない野蛮人しかいない。
「スポーツというと、アスレチックな競技だけを指す傾向がありますが、イギリスではスポーツは気晴らし全般を指すので、チェスやビリヤード、トランプなども含まれます。スポーツにおいて完全な男女平等は難しいことですが、できる部分は平等にしつつ、スポーツに関する新たな価値観を広げることは、男性も女性も生きやすくなることにつながると思います」
それならマラソンもスポーツなので、楽しむという意味ではスポーツです。
スポーツ社会専攻には保健体育の教職課程があり、スポーツでの成功体験を積んだ学生が多くいます。「そうした学生だからこそ、スポーツとジェンダーを学ぶ意義が大きい」と岡田教授は話します。
「特に男子学生は自分が有利になるような条件の中で成果を得てきたということを、最低限知ってほしいですし、教員になるのであれば必ず知っておかなければならないことです。女子学生は、スポーツをしてきた中で自分が不利な立場になった経験があるなど、問題意識を持つ学生が多いように感じます。知識を得ることで、こうした問題意識を言語化できるようになってほしいと思います」
中学校の保健体育の授業では、男女別の授業があり、自分の性に違和感がある生徒にとっては着替えの問題などが出てきます。
「保健体育の現場では性に関わる問題に対応しなければならない場面が出てきやすいのですが、中学校の教員も十分に対応できていないというのが現状です」
一方で、中学校の保健体育でダンスが必修化されるなど、性差が出にくい種目を増やす動きも出ています。岡田教授はこう話します。
「学生たちの意識にも変化が見られます。男子学生は自分たちが特権的に持っているものを否定されたように感じるのか、以前は私の授業に対して拒否反応を示すことがありました。この10年くらいで学生の意識は急激に変わり、男子学生も受け入れなければならないと感じているようです」
男子が精神がおかしくなりがちなのはこんな押し付けという虐待を大学で平気で講義でやっているからのようです。
https://www.asahi.com/thinkcampus/article-111243/
Permalink |記事への反応(19) | 16:40
赤いきつねのCMが性的に見えるってことで、炎上してるおり、弱者男性が「エロくないし!エロくて何が悪いんだ!」と対抗言論として集団発狂しているというニュースを見た
映像を見たが口元を強調していたり、ことさら髪をかきあげる仕草があったりと映像表現学的に明らかに性的な描写を含んだ内容だった
性的な表現は、女性への性に基づく差別で女性の性を貶め、人格を傷つけ、女性への心理的な暴力の行使で男性の支配と女性の従属という社会的構造を構築するので倫理的によろしくないんだよね
性的な表現を擁護するのって選挙中にデマを流したり、ヘイトスピーチを行うのを表現の自由って擁護するようなもんなんだよ
擁護してる弱者男性って高卒とかで人文知を身に付けなかったのかなあ(高専は教養科目でやるよね)
漱石を引き合いに出してるので、明治から大正の頃の大衆の娯楽は……という話だと思うけど、大正にもなると、社会の中層くらいであれば、寄席や芝居・演劇、活動写真もあればレコードもある、てな時代。また、漱石なんかは新聞の連載小説ではあるけれど、それを「個人が黙読する」ことが当たり前である現代とは異なり、家族の中に読み書きできない人や子供がいることを前提に家族に「読み聞かせる」ことを通例にしていたりする場合もあった。だから、当時の人のリテラシーや知的水準が現代よりはるかに高かった、ということは、まあ、無い。
ちなみに社会の下層と言われる人々における「娯楽」について言えば、(データを基にすると)こんな感じだそうだ。
『日雇労働者問題』に収録された内務省調査によれば、かれら(日雇労働者のこと:引用者注)の半数以上が飲酒にひたっている。かれらが娯楽対象としてあげる最大のものは酒であり、そのあとに大きく水をあけられて、寄席、活動写真(映画)、タバコ、読物、女がつづいている。大衆雑誌、小説など読物の比率は酒の8分の1ほどにすぎない。新聞を娯楽とするものは、1、300人のなかでたったひとりにすぎない。もっとも、新聞は娯楽メディアとして、他のものと比較するのは無理であろう。だが、日雇労働者のなかに新聞読者がいかに少なかったかということだけは、この調査が示唆している。
新聞読者層はリテラシーなどを考えると都市の日雇労働者のなかでは1割前後しかなかったと推測される。これらの調査は大正中期~後期に実施されたものであるが、昭和初期にもこの比率にさほどの変化はなかったと思われる。
当方、齢37である。来月末に引っ越しをする。大学卒業から約15年、暮らしてきた実家近くのアパートを離れるのである。
社会人としての稼ぎが少なすぎて、実家の手を借りなければ生きられない。よくメシを食べに行っていた。情けない社会人だった。それは結婚しても変わらなかった……幸い、子どもはいない。
妻は、いいやつだ。こんな貧乏暮らしの人間と結婚してくれた。見栄っ張りなのが玉にキズである。親戚や近所同士の集まりでも、コモンカード(MTGで言うと「モグの狂信者」 わかったぞ! わかったぞ! わか……)に等しい私を、高年収の正規サラリマンとして紹介することがあった。
よくできた妻だと思う。私にはもったいないくらいの。悪態をつくことはあるけど、裏切ったりしない。近所の実家にお米や野菜をたかりに行く時も、一緒に付いてきてくれた。
もし、この世界がエロ漫画の世界で、あらくれ氏が描くみたいなオッサンに妻が寝取られてしまったとしても、私は許すと思う。私に尽くしてくれる良妻である。
大学時代、ぜんぜんダメな子だった。偏差値50台の二流以下の大学で、学生時代はアルバイトばかりやっており、部活もサークルもせずにダラダラ過ごしていた。就職活動はひどいものだった。
「Fの就職チャンネル」で就活生の動画(ex.大学4年の6月から就活始めたりする)をたまにやってると思うが、まさにあんな感じの、圧倒的ダメダメ就活生だった。
さて今回、引っ越しをするのは、晴れて正社員としての採用が決まったからである。関西の南の方に住んでるのだが、隣県での採用が決まった。大まかな括りだと機械操作オペレータである。年収+はなんと約200万円。
今まで、この田舎にある小さい製造会社で毎日毎日、機械や仕様書・図面と格闘してきた。25才の時、契約社員として雇ってもらった。それまでは近所にある町中華の店でアルバイトしていた。
正直キツかった。専門知識は一切ない私立文系人間である。マジで辛かったよ。しかも、小さい会社なのに出張まであるんだからな……だがしかし、ついに培ってきたワザが評価されたのだ!!
今年の4月になってから(妻の強い勧めで)転職サイトに登録してみたところ、私のワザというのは、意外と需要のあるスキルだったようである。(ビズリーーーーーーーーーーチッ!!)
大したことは思いつかなかったが、とりあえずやってみたことを列挙する。
・少し高級な中華料理屋で暴飲暴食
・昔の思い出グッズを漁る(MTGカード、進研ゼミ中学版、ガラケーの写真など)
・地元神社の奉納祭り役員への立候補。当日記を書き始めた頃に無事終了
あとは、里山登りかな。幼い頃、祖母に連れられてよく里山散歩をしていた。小高い山の頂上から見下ろす町並みは壮観だった。
なにぶん田舎なので、里山がたくさんある。グーグルマップで見てみると、東京の方でも端っこの方は青々とした山が広がっている。あんな標高数百メートル以内の山を、ひたすらに登っていく。
自宅の裏から繋がる山道の入口から始まって、よいしょよいしょっと里山を登っていく。私が子どもの頃は、近所の人はみんな林業してたから、開けた地形がけっこうあった。里山というよりは丘陵に樹木が生えてる感じだった。
亡き祖父の話によると、戦時中はどの里山もはげ山状態だったらしい。戦争で石油燃料が不足したため、国民単位でみんな柴刈りをやりまくったのだ。グーグルマップで言うと、あの青々とした山がほぼ肌色だったということだ。
今は林業をする人はおらず、里山は荒れ放題である。てっぺんまで行っても町の景色など見えやしない。雑木の群れが頂上を覆い隠している。
樹木が生い茂ってないところだと、町の景色が見えたりする。山の標高は低いけど、限界効用が低いとでも言えばいいのか、珍しい景色なので壮観である。汗ダラダラで意識が朦朧としてるのもある。脳がマヒしている。
https://tadaup.jp/15183559802496/
高校時代の卒業アルバムも読んだっけ。柔道部に籍を置いていた。
高校卒業式の直後、部活メンバーみんなで柔道場でお祝いをするのだが――その時の写真が出てきた。
なんと、みんなからの寄せ書きも残っていた!! 超恥ずかしいけど公開してみよう。別にいいだろ。増田にこういう投稿するの、人生最初で最後なんだからさ。
(部員一同)
増田さんは、□△高校の相川さんがロリロリで好みなんですよね!!
相川さんを是非モノにしてください
増田先輩の行動で一番驚いたのは、■▲高校の藤田さんの写真をこっそり撮って、救急箱に貼っていたことです
閉会式の時、柔道着の藤田さんが目を閉じて、優勝旗に顔を傾けているやつです
とにかく3年間お疲れ様でした。先輩にはクソお世話になりました!!
増田先輩の柔道、粘り腰で凄かったです。どんな時でもあきらめずに、ベストを尽くしてました
冬の大会で4人抜かれてから5人抜きした時はマジでびっくりしました!
増田先輩の変態エクストリームハートには緊張させられっぱなしでした。
早く警察に捕まってください!!笑
増田先輩へ
増田先輩
お疲れ様でした!!
けど、引退した後もたくさん乱取り付き合ってくれて、たくさん寝技も教えてくれて、感謝してます
いままでありがとうございました♡
増田君が入部してきた頃にはどうなることかと心配をしました。ご卒業おめでとうございます。キャプテンとしての重責、大変ご苦労様でした。柔の道は、将来どこかで役に立つ時がきます。力必達(※つとむればかならずたっす)。何事も最後まで諦めず努めてください
・先輩ご卒業おめでとうございます これからも頑張ってください
・3年間お疲れさまでした 面白い先輩でした笑
・これからも今までみたいに頑張ってください
これはひどいwwwwwwを地で行く内容である。こんなん、人に見せられるもんじゃねーだろ。
でも、いいよ。増田民へのサービスだ。いつもお世話になってるからな。
そんなこんなで先月に就職が決まってから、結局最後までできなかったことがある。大学時代の思い出の開封である。
それ以外の思い出BOXはすぐに開封できた。実家にある元自分の部屋にある段ボール箱のテープを、ビリッとやればそれでよかった。でも、大学生時代は後味が悪すぎる。就職すらできずに、逃げるようにして卒業したんだから。正直、嫌な思い出である。トラウマと言っていい。
いや、大学の卒業式は出席したのだ。謝恩会にも。問題は、マクドナルドでの思い出である。
マクドでアルバイトしてたんだけどさ、卒店式っていうのがある。文字どおり店舗からの卒業式である。毎年3月にある。
卒店式だけど、マクドナルドって経営や店舗運営が外資ルールだから、エリア内の店ごとに売上を競わせるんだよな。
それで、いい結果を出してる店舗だとそれなりの貸館施設で、いまいちな結果の店舗だと近所の公民館を無料で借りて、ジュースやお菓子をテーブルに並べて卒店式をやる。
大学時代にアルバイトをしてたマクドの店は、成績がいいところだった。京都にある四条河原町店という名門店舗である。店舗番号は100番以内、つまりマクドナルド黎明期に作られたお店のひとつだ(今でもあるのかな)。
当時の私は就職活動に失敗して、無職neatでの卒業が決まって落ち込んでいた。
そんな時、自分のひとつ年下の後輩のスウィングマネージャー(※できるアルバイトが社員の仕事をする。時給+50円)から話があった。「増田さん今までお世話になりました。卒店式、ホテルグランヴィア京都でやりますからね。店長が、すげー男を見せてくれた(※足りない分は自腹切ったらしい)んすよ!! 自分、増田先輩のために送辞読みます」とか言ってた。
でも、私は嬉しくなかった。就職活動に失敗してニート確定の自分が、そんな場で送辞を読まれたって嬉しくもなんともない。畜生というやつだ。
結局、卒店式には出ないって後輩君に伝えた。すごくガッカリしていたよ。だって、彼が初心者の頃、私がずっと付いて教えていた。彼が嫌なことあって、アルバイト中に不貞腐れてる時でも、構わずにとにかく、いろいろ教えていったよ。
この子は才能があるから、すぐにうまくなるだろうと思ったけど、やっぱりすぐに上手になった。
ただスキルがあるだけじゃなくて、なんというか、仕事の本質がわかってるというか。能でいうところの上手(うわて)みたいな感じである。世阿弥がさ、『風姿花伝』で伝えてるような、社会人技能について嵩があって丈もあって(※今でいうとT型人材)、本質的なことがわかってる子だった。
一度だけ、後輩君から催促を受けた。二度だったかもしれない。あの時のことは覚えてる。
あれは事務所だった。「卒店式出ましょうよ」というシンプルなものだった。しかし私の答えは……。
「そんな気分じゃない。早く就職しないと。すぐにできないかもしれんが」と言ったら、「増田さん。AJCCで2回も勝ったじゃないですか!! 余裕っすよ」と言ってた。
※AJCC…マクドナルドの技能大会。「2回勝った」とは、地区大会と府大会で部門別優勝したの意。関西大会では、府大会と違うメンツでオペレーションになったので、コミュ障だった私はボロボロの成績だった
その後の後輩君とのやり取りは覚えてない。最後の方だと「あのな、後輩君。どんだけ綺麗に、上手く、速く、素早く、ハンバーガー作れたってな。社会じゃ何の役にも立たねーんだよ!」と悪態をついた。
それで、後輩君は黙ってしまって、それ以来やつとは会話していない。最後の勤務日も、淡々と仕事を終わらせて――いや違う、確か女性の学生客がトイレでゲロ吐いたんだっけ――それの片付けを夜に終えて、私にとってのマクドナルドは終焉を迎えた。
帰りに、同じくマクドナルド河原町三条店(※こちらは関西最古の店舗らしい。今でもあるのかな)に寄って、チョコパイかベーコンポテトパイを買って帰った。マックポークだったかもしれない。マックチキン……( ;∀;)
しんみりしてしまった。
学生時代の思い出を開封するのは心理的にキツイ。けど、時間は限られている。いったん妻とこのアパートを出たら、帰ってくるのは十数年後になるかもしれない。妻はうちの実家嫌いなので……。
そんなのはちょっと、想像したくなかった。というわけで、アパートの自室の押し入れを開けて、学生時代の禁断に近い思い出の段ボール箱を開封した。
そしたら、いろんなものが出てきた。当時のガラケーとか、大学時代の成績表とか、学位記とか、マクドナルド辞めてから郵送で届いた卒店式の寄せ書きとか、昔の授業ノートとかだな。産業社会学部のゼミのみんなで撮った記念写真もあった。京都駅の近くで行われた社会科学の研究展示会で賞を取った時のやつだった。当時の日記も出てきた。
その日記、最後の方だけパッと読んでたんだが、どうやら学生時代の私は卒業時に108万円の貯金があったらしい。なんでそんなにあったかというと、大学1回生の時からマクドナルドで週5で働き続けていたからである。いわゆる超修行をしていた。ここまで働いてると、身体が脳をハックするようになる。
……厨房の注文画面が「ピッ」と鳴ったら、考えるよりも前に身体がハンバーガーを作り始める。考えるんじゃなくて、調理行程を『感覚』が捉えるようになる。トングとか、ソースガンとか手に取るんだけど、なんかさ、感覚がさ、一体感がすごい。トングが身体の延長というか、もはやマクドナルドというお店自体が、自分と一つになってるような、そういう感じ。
例えば、トングを握ってパティ(肉)を掴んでる時って、体のどこがそれを認識してるのだろうか。
指先だと思うかもしれない。けど、その指を支えているのは筋肉組織と関節であり、それらをさらに骨組織が支えている。物質に触れている指先というのは、入口である。
骨組織と言ったけど、トングでパティを掴んだ時の刺激って、関節の中を電気信号が走って、最後は脳に伝わる。ということは、刺激というのは、結局は指先じゃなくて『脳』が認識している。
でも、その刺激って指先が認識してると人は解釈することができるし、実際にしている。脳が認識してると捉えることもできるし、体の先っちょが認識してると捉えることもできる。
こういう解釈が成り立つということは、指先が触れてるトングそのものが、パティの感触を認識してるってことにもならないだろうか。
剣道の達人だと、竹刀が体の一部みたいになっていたりする。サッカー選手だったらボールである。そうだ、ここでの私にとっての肉体の最延長は、指先じゃなくて、トングなのだ!!
もう少し延長すると、店舗で働いている自分というのは、床に立っている。呼吸をしている。ほかの従業員やお客さんの存在を感じ取っている。ということは、其処に存在している以上は、その床を、空気を、ほかの店舗スタッフを、お客さんを、なによりマクドナルド四条河原町店という、その存在が――私という人間の延長として考えることはできないだろうか。
実際、国際赤十字とか、国連とか、国際NPOとかで働いている人、それ以外にも人類福祉のための活動してる人って、地球とか、人類社会そのものを自分の延長として捉えてるんじゃないか? そう感じざるを得ないようなニュースがたまに飛び込んできたりする。
それはさておき。108万円の貯金、結局どうしたんだっけ。
あー、そうだ。グータラだった自分は、フリーター生活とともに2年もしないうちに霧消したんだった。でも、あのお金があってよかった。あれがなければ、秋から始まる奨学金の返済に対応できなかった。
あの頃(23~25才)の私は、アルバイトではダメだと、奨学金の返済に耐えられるだけの仕事を探して、探して、探しまくって、ようやくたどり着いたのが今勤めている金型の製造工場だった。
始めは出荷場での勤務だったけど、オペレータの給料が高いというので転属を申し出たのだ。これらは当時の日記を読み返して初めてわかった。案外、人は記憶を改ざんするものである笑
ちなみに、まだ奨学金を返済できていない。普通の社会人だったら、繰り上げで30前半くらいには全額返済できていると思われる。今はその程度の稼ぐ力すらないけど、これから妻と一緒に創り上げていきたい。
@itoukaityou
何度も言うが、「文系学部→文系サラリーマン」ルートは一度レールから外れると不可逆的な破滅をもたらしかねないので、慎重に決断すべき。
これ嘘ではないんだよな。
法科大学院とか予備校で300万円ぐらい金をかけて司法試験や司法修習に受かったのに、コンビニでバイトしてる弁護士もいるし、国選みたいなクソまずい案件しか取れず、予後があまりよくない話はちらほら聞く。
弁護士ルートでなくとも、適応障害をきっかけに発達障害が発覚して、そのままレールが外れて、就労移行支援事業所B型ルートやニートルート、最低賃金での雇用ルートになることもある。
前
https://anond.hatelabo.jp/20240502193040
この大学を卒業してから長い時間が経った。あれから1回転職して、新卒で入った会社とは別の電子機器メーカーで働いてる。東プレという会社だ。今は、産業用のキーボードとか作る仕事をしている。
オフィスや工場は、東京~神奈川にある。もしかしたら、地下鉄なんかで増田民やはてな民とニアミスしてるかもしれない。
今では佛教大学に感謝してる。あの頃はいろいろ思うこともあったけど、だからこそ今の自分があるのだ。
仮に、第一志望だった同志社大学に進んでいたとしたら、きっと、ここまで努力は重ねなかった。自分に実力があると勘違いして、学業に力を入れるとか、TOEICで相応の点数を取るとか、就職活動に超力を入れるとか、そんなことはなかっただろう。
この道は、正しかった。第一志望の大学に不合格でよかった。親や兄弟や親戚に不合格をバカにされてよかった。だから、悔しさをバネに努力ができた。
自分は運がよかった。今ではそう思って、歩んできたこの道に感謝してる。
でも、実は後悔がひとつだけある。卒業式である。実は、自分は卒業式に遅刻している。その前日にアルバイト+飲み会があって、就寝が遅くなった。朝起きたら卒業式開始の10分前だった。
失敗はそれだけじゃない。なんと、卒業式の最中にゲリピーブレイクになってしまい、トイレに行っている間に式が終わっていたのだ……あれはショックだった。遅刻だけならまだいい。遅刻してる学生はたくさんいた。しかし、これは……「失敗した」という思いが強かった。ずっと引きずっていた。
というわけで、先日3/18(月)に佛教大学の卒業式に参加してきた。もちろん保護者席である笑
後ろの方の席だったけど、約十年前もあんな感じだったな、としみじみした気分になった。この時はさすがに遅刻はしなかった。しかし、残念なことに……式の最中にゲリピーブレイクが再発した。
焦った。これは焦った。けれども、ここで奇跡が起こった。十年前のことを思い出したのだ。十年前の失敗は確か、最後まで我慢しようとしたのが原因だった。それで、学歌斉唱が始まったあたりで体育館の和式トイレ(※洋式はない)に駆け込んだ。それで、失敗した。
式次第を読んでみる。そして、学長その他3名による卒業祝いの挨拶が長時間になると踏んだ。「よし今なら……いける!」と、その時間帯に会場を抜け出し、体育館の和式トイレ(※洋式はなかった)に駆け込んだ。
会場に帰る頃には、ちょうど学歌斉唱が始まっていた。そういえば、大学の学歌ってほとんど聞いたことがない。どこの大学でもそんなものだろうか。
とにかく、卒業式は無事に終わった。終わったのだ。十年来の無念が晴れた気がした。最後はプロジェクションマッピングがあって、マジでびびったわ……。
ところで、式次第には学位記授与のことが書いてあった。卒業式の後、それぞれの教室で学位記を受け取る儀式があるのだ。
ああ、確かこんなのあったなと思いながら、ついでに保護者枠で参加することにした。幸い、見た目は学生時代から老けている。今ではすっかり小太りのおじさんである。社内では、同輩や後輩から「部長」と呼ばれることもある。保護者に見えなくはないはずだ。
卒業式の会場を出てから、100席ちょっとの教室に入ると、今まさに社会学部のとある学科の学位記授与が行われようとしていた。この時も、約十年前にあった学位記授与の記憶が蘇ってきた。
約十年前は、学位記授与の担当教員に怒られたんだっけ。小さい講義室で、学生たちがあまりに煩いものだから、学位記を授与する前に怒号が鳴り響いたのだ。懐かしい。4年前の入学式でも、やはり怒号が鳴っていた笑
あとは、その日の夜にあったホテルでの謝恩会の時も、一番最後に卒業生代表が、ステージ上で「私がこの学校に入学が決まるまで、大学受験で苦戦しました~3月の最後の最後まで受験を続けて、それで最後に合格を掴み取ったのが、この佛教大学でした~卒業生の皆さんも~(以下覚えていない)」といった卒業記念の挨拶をしていた。が、当時の卒業生諸君は大騒ぎだった。卒業生代表の話なんて聞いちゃいなかった。
今では、そんなことは一切ない。みんな、小さい教室の中で静かにしている。雑談している子は1人もいない。こういうのって、なんだろうな。もしかして、少子化によって選ばれし優秀な遺伝子しか世の中に存在できなくなりつつあるのか?
それはいいとして。学位記の授与では、一人ひとりが名前を呼ばれて学位記を受け取ってたんだが、やはりその……しみじみとした思いがした。自分はずっと、彼ら彼女らが教員から学位記をもらうのを眺めていた。全員が終わるまで30分以上もかかった。
(以下要約)
・あなた達はコロナ禍の大変な時期(※2020年度)に入学してきた
・入学式はなく、授業はリモートだった。学食でも黙食であり、不安も大きかったと思う
・社会人になってもどうかそのことを忘れずに、自信をもって働いてほしい
すべてが終わると、学生たちは粛々と立ち上がって、静かに退出しようとしていた。俺がいた頃とは大違いだ。あの頃は、絶対にみんな大騒ぎだったと思う。懐かしい。「威勢のよさ」と「常識の順守」がトレードオフになっている。そんな気がした。
※推測だが、2020年当時って、入学式やオリエンテーションはないし、マスクオンで皆の顔わからないし、何より授業はリモートだし、学食でも黙食が義務だった。ということは、学生間の絆のレベルがコロナ禍以前に比べて低かったのかもしれない。
ちなみに、ほかの学部の学位記授与の教室もチラッと外から覗いてみたのだが、どこもいい雰囲気だった。先生も学生も、熱の篭った感じで最後の儀式に興じていた。特に、教育とか保健とか看護の学部がよかった。
大学を出た後、近くにある千本北大路の交差点で、卒業生達が「じゃあな」と言いながら別れていくのを見た。
社会人をやって十年以上が経つけど、今日という日は感慨深いものがあった。涙までは出なかったけどな。
これで結びになる。
若い頃は楽しかったってよく聞くけどさ。実際、そこまで楽しくはなかったよな。当時の日記を読み返してて感じたんだけど、「早く実力を身に付けたい」の一点張りだった。あの頃は、自分が雑魚すぎて嫌だった。
「あの頃はキラキラして、いつでも輝いていた~」みたいなことは絶対なかった。あるわけねーだろ。当時の日記を参考に、あの頃の気分を一文で表すと、砂漠をうろついてるフンコロガシみたいだったよ。でっかい玉を作りたくて、己のショボい脳と身体でどこまでも足掻いていた。満たされなくて、いつも飢えていた。心が。
大学の中も、大学以外の外にある世界全体も――学業、アルバイト先、恋愛とかでも、自分よりはるかに格上のヤツがいっぱいいた。劣等感が凄かった。自分が何者でもない感じがして、苦しかった。自分の雑魚さ加減が嫌になったよ。そんな4年間だった。
今でも夢に見る。学生時代の下宿で、コタツ机に昔の自分が座ってる。深夜1時だというのに、アルバイトから帰った後で、TOEICの教材でリスニングの勉強をしている。
なんだか寝落ちしそうな雰囲気なのだが、その度にコタツ机から立ち上がり、頭をそのへんの壁に打ち付けていた。一息を吐いてから、それでまた、勉強に戻る。
「あきらめないでくれ……」
夢の中にいる自分は、そう応援するくらいしか手段がなかった。でも、勝手に声が出ていた。
「昔の俺よ、どうかあきらめてくれるなよ」
って、そう祈っていた。そしたら、いつの間にか目が醒めていて、いつもの布団の中にいる。天井を見上げている。
でも、現時点の感覚で、「学生時代は楽しかったか?」と自問すると、「楽しかったよ」が答えになる。
当時は辛かったんだろうけど、でもなぜか、今になると「あの頃は楽しかった」に記憶がすり替わっている。
苦しかったはずの日々なのに、どうして「あの頃は楽しかった」ということになるのか? それって錯覚じゃないか? 自分で自分を騙してる。なぜ、こんなことが起きる?
確信はないけど。【一所懸命】だったからじゃないか。自分は忘れても、脳は覚えてる。あの頃、一生懸命に苦しんで、欲しがった何かが――今、自分の手元にあるんだって。無意識ではわかってる。
だから、それまでの過程がぜんぶ、愛おしくて、切なくて、やり切った感があって、いい思い出として変換されるのだ。実際は辛くてしょうがなかったのに。
苦しかった時のことほど、楽しく思い出すことができる。反対に、楽しかった頃の記憶って、特に何も感じない。脳裏から記憶が消し飛んでいく。それだけだ。
今回、自分の記憶を整理する機会に恵まれた。十年ぶりに大学の卒業式に参加することができた。おそらくもう、あの大学の門をくぐることはないと思うけど、本当に運がよかった。