
はてなキーワード:示唆とは
https://ichiiida.theletter.jp/posts/0aa160a0-d70f-11f0-aa07-8582de6095b5
https://note.com/nyake/n/na2d317b47bc5
「なぜはた」の明確な問題点は「タイトルの主語が大きすぎること」です
<以下本文>
まず大前提として、『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』は、「かつて読書習慣があったにもかかわらず、働き始めてから読めなくなった人々」という特定の層が抱える悩みについて、それが個人的な問題ではなく社会構造上の問題であることを論じた本です。
→大前提となる、「『かつて読書習慣があったにもかかわらず、働き始めてから読めなくなった人々』という特定の層」が存在することをデータで示さないと、「実感」としてそういう層の存在を主張したとしても議論が始まりません。
「この神聖な水飲んだらがんが治ったんだもん」とデータなしに主張しても、そこから先の議論に至らないのと同じです。
これに対し、飯田さんは国民全体の平均値であるマクロデータを持ち出して「全体で見れば変化はない」と反論しました。が、これはいうなれば、「日本人の平均寿命は伸びているから、あなたの今の病気は存在しない」と言っているのに等しい議論です。
→この例えは明白に誤りです。なぜなら前者は「全体の読書量」と「特定の層の読書量の推移」を比較する主張であり、後者の「寿命」と「特定の疾患の存在」とは評価対象が異なるからです。
あえて寿命で例えるなら、「日本人の平均寿命は延びているから、喫煙者の平均寿命も延びている」などがあります。これならば「全体」と「特定の層」を共通の評価軸である「寿命」で比較できますし、「日本人の平均寿命が延びていること」を示しても「喫煙者の平均寿命が延びていること」を示さないのはその通りで、これならば矛盾と言えます。
(しかしその仮説を論じるなら、タイトルを「喫煙者の平均寿命~」とするべきで、主語を日本人全体としたり、明確に示さないことが明らかに誤りであることは誰にでもわかると思います。)
全体平均の中に埋もれてしまっている「特定の属性の変化」に光を当てるのが拙著の役割です。マクロデータのみで個人の実感を否定することは、分析の手法として適切ではありません。
→マクロデータのみで個人の実感を否定すること。確かによくないですね。
おじいさんおばあさんの中には、煙草を決してやめない人がいます。「私は煙草を吸っても今まで病院のお世話になったことないんだから、それでいいの」 大変結構だと思います。
こういう人たちに、「タバコは健康に悪いからすぐやめなさい」と言っても、個人の経験則を否定することになり、もめます。
マクロデータの目的は、「特定の属性の実感」を否定することではなく、全体を解析して現状やその傾向を把握することです。分析の手法として、データで示されない実感を大切にすることは重要ですが、解析の結果「実感」を否定する結果になってしまうことはままあります。
だからこそ、「実感」を前提とする議論をするならば、実感の存在そのものをデータとして示す必要があるのです。
拙著で統計データを多用することは本題からそれてしまうため(何度も書きますが、私の書いた『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』はマクロデータで語ろうとした本ではありません)必要最低限にとどめていました。が、本稿ではあえて氏の提示したものと同じデータソースを用いて反論を試みます。
→繰り返しになりますが、主張には前提が必要で、前提が正しくなければ主張も意味を成しません。したがって、前提をデータとして示す必要があります。それが必要最低限に至っていないということなのです。
飯田さんは「高校生の時点で読書量は減っており、働き始めてから急に減るわけではない」と指摘されています。しかし、この主張は「誰を対象にするか」という分析対象のセグメントを見誤っています。
まず、拙著が対象としているのは「元々読書習慣があった人々」です。では、統計的に見て「読書習慣がある人」とはどのような層を指すのでしょうか?
次図「読書習慣のある人」の月平均読書冊数を見ると、過去約40年にわたり、本を読む習慣がある人の読書量は月平均3-4冊の間で安定して推移しています。つまり、統計的な定義として、「月3-4冊読む」という行動こそが、日本の「読書習慣がある人」の姿であるといえます。
→対象としているのが「もともと読書週間があった人々」なら、なぜ書籍のタイトルが「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」と主語が示されていないのでしょうか。ここが反論とその反論の大きなズレの原因です。
ちなみにこの統計、データ(https://www.bunka.go.jp/tokei_hakusho_shuppan/tokeichosa/kokugo_yoronchosa/pdf/94111701_03.pdf)が35ページ目(pdfだと39ページ目)にあるんですが、16-19歳の調査人数、なんと83人なんですね。
これだと1人減ったら1.2%割合が動くことになるんですよ。以下に書き起こしたものを記載してみます。
<16-19歳の読書数>
0冊=66.3%
1-2冊=22.9%
3-4冊=8.4%
5-6冊=1.2%
7冊以上=1.2%
あれ?1.2%が二つ。つまりこれ、5-6冊、7冊以上の人は1人ずつでしたね(笑)
3-4冊の人も1人減ったら7.2%になり、2人減ったら6%になって20歳代の人と同等になっちゃいますよね。
おおよその割合をみるには使えると思うんですけど、「16-19歳とその他の世代の比較」には非常使いにくいデータだと思いませんか?もし複数回同じ手法で調査したら、ひっくり返っちゃったりすることもあり得そうです。
しかも、令和5年の大学、短大、専門学校の進学率を合わせると約8割、大学に限ると約6割で、ちょうどこの統計の年齢階級を跨いじゃってるんですね。
だから、このデータで「働くと読めなくなるかどうか」を議論するのって、そもそも無理なんですよ。
ご覧の通り、「1,2冊」というライト層では加齢による減少は見られませんが、「月3-4冊読む習慣のある層」においては、労働期間中(生産年齢)に数値が底を打ち、退職後に回復するという明確な「U字カーブ」を描いています。
学生時代の読書減と社会人の読書減を同列に語ることはできません。なぜなら、このグラフが示すように、「労働から解放された世代(70代以上)」では、数値が学生時代の水準まで回復しているからです。 もし「加齢による文字離れ」や「スマホ普及」だけが原因であれば、高齢層でここまで数値が戻ることは説明がつきません。
もちろん、今回のような一時点の調査である以上、厳密には加齢による変化とコホート効果を切り分ける分析が必要です。しかし、データの限界を差し引いてもなお、この「労働期間中にのみ、特定の読書層が凹む」という事実は、労働環境がまとまった読書習慣を構造的に阻害している可能性を強く示唆しています。 全体平均にならすことで分布の特異性を捨象してしまう飯田さんの分析は、データに表れた当事者ーー働いていると本が読めないのだとほんとうに感じている人々ーーの痛みを見落としていると言わざるを得ません。
→この主張も前述したように、1人動くと1.2%動くデータで示唆するのは無理があります。
U字カーブ?あなたは70歳以上の人が自在にスマホをいじくってネットサーフィンしているのを想像できますか?
交絡(データに影響を与える別の要素)がありすぎて、単純に就労の有無だけを結果の原因として求めるのはちゃんちゃらおかしいと思いませんか?
「痛み」ですか、はあ。タバコ吸っても健康でいられると思ってる人の痛みを想像したことありますか?(笑)
一見すると、「書籍の読書冊数と市場規模は相関しないが、雑誌は相関する」という飯田さんの主張は正しいように見えます。しかし、ここで気を付けなければならないのは、市場規模の根拠として用いられているデータの定義です。これは「出版販売額」、つまり新刊市場の推移にすぎません。
雑誌のみが市場規模と相関する主要因は、書籍と雑誌の読書習慣の違いというより、市場構造の違いにあると考えるのが妥当です。書籍は図書館での貸出や、古書店・メルカリ等の二次流通市場といった新品購入以外のタッチポイントが豊富です。
→なるほど、たしかに書籍は図書館や古書店で接触がある分、新品市場だけで語ると乖離が出そうですね。
つまり、「読書数の総量=新品購入+レンタル・中古」になるってことですな??
ということは「読書数>新品購入の勢い」が成立するということだ。ふむふむ。
こうした「読む」と「買う」を短絡的に結びつける考え方はよく見られる。しかし、読む量と買う量は単純にイコールにはならない。イコールになるなら「積ん読」という言葉は存在しない。
→えーっと、積読があるから「読書数<新品購入市場の勢い」もありえると。
……市井氏は積読があるから「読書数<新品購入市場」と言い、その反論として三宅氏は中古やレンタル市場があるから「読書数>新品購入市場」と言っている!かみあってない!
まわりくどいんだけど、結局どっちも「書籍の読書数と新品購入に相関がない」が「雑誌は読書数と新品購入に相関がある」というのが主張で、一致している!反論すると見せかけて同じことを主張するという高等テクニックである。
また、拙著の「雑誌や自己啓発書を中心として、労働者階級にも読まれる書籍は存在していた」という記述に対し、飯田さんは「雑誌と書籍の区別がついていない」と批判されています。しかし、拙著の記述は明治時代の出版状況についての記述であり、いうまでもないことですが雑誌はコミックや週刊誌の割合も時代とともに変わっていきます。明治の雑誌出版に関する記述を、現代の雑誌と同様の枠組みで捉え、区別がついていないとするのは、論理が通らないのではないでしょうか。
以上のように、構造的に相関の低い「新刊販売額」を指標として用いて「書籍と雑誌は読書習慣が異なるので分けて考えるべき」と主張するのはデータの選定として不適切です。本来であれば、図書館の貸出しや二次流通市場におけるタッチポイントも考慮したうえで読書冊数との相関がないことを示すべきです。また時代によって役割の異なるメディアを十把一絡げに扱うのは、妥当性を欠いていると言わざるを得ません。
→えーと、前半の文章は市井氏の引用した部分が明治時代の話をしているから不適切ってことだな。うむ作者が言うならそうなのだろう。
後半は……
構造的に相関の低い『新刊販売額』を指標として用いて『書籍と雑誌は読書習慣が異なるので分けて考えるべき』と主張するのはデータの選定として不適切」
あれ、あなたも書籍読書数と販売数は相関しないけど雑誌は相関するって言ってましたよね?
市井氏のnoteをみると、扱っているデータは70年代以降のもので明治時代の話はしてなさそうですけどね。
それに市井氏の
なお、『読書世論調査2016年度』には書籍の読書率について「戦後、読書世論調査の開始以来、多少の変動はあるものの、おおむね5割前後で推移している」と書いてある。『なぜはた』は読書世論調査を引用しておきながら、読書世論調査サイドの「長年そんなに変化がない」という見解とは異なる「本離れが進んでいる」という主張をしている。
この部分に関する反論はしなくていいんですかね。マスデータだから?
引用元の文献(黒田祥子・山本勲「長時間労働是正と人的資本投資との関係」)を見る限り、これは事実ではあるものの、解釈と適用先が間違っていると考えられます。
というのも、ここで引用されている論文が測定している「自己研鑽」と、拙著が指摘する「自己啓発書の読書」は、行動の質が全く異なります。論文が指すのは資格取得やスキルアップのための「能動的な学習」であり、これに対して『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』が論じているのは、新自由主義的な不安に駆られた人々が救いを求めて読む「自己啓発書の消費」です。むしろ、「労働時間が減っても、能動的な学習に取り組むほどの気力や体力は回復していない」という論文の結果は、人々が手軽な「やった感」や「効率的な正解」を得られる自己啓発書(=ファスト教養)に流れるという拙著の仮説と矛盾しません。
「キャリアアップのための能動的な学習」の機会が減ったからといって、「手軽なノウハウ本」のニーズがないことの証明にはならず、このデータを根拠にするのは的はずれです。
→確かに「自己研鑽の時間が減ったから」といって「手軽な自己啓発本を読む時間が減った」とは言えない。それはその通りだ。まあ手軽な方が増えたとするのはあくまで仮説で、それを証明する手段もそうないよね。
飯田さんは「市場規模において、依然として小説は自己啓発書より大きいため、自己啓発書へのシフトという説は誤りである」と主張されています。
第一に、議論の焦点は、現時点での「絶対量」ではなく「変化の方向性(トレンド)」です。たとえパイの大きさが小説の方が大きくとも、書店の棚構成の変化や、人々の意識における効率性の重視といったトレンドの変化を否定する材料にはなりません。
第二に、ここで飯田さんの論理には明確なダブルスタンダードが存在します。飯田さんはこれまでの議論において、「市場動向と読書実態は書籍においては必ずしも一致しない」と主張されました。しかし、ここでは一転して、「小説の方が推定発行金額(市場規模)が大きい」ことを根拠に、「小説の方が読まれている」と結論付けています。
→いったん整理すると、
<三宅氏の主張>
読書の方向性が手軽な自己啓発書にシフトしているから読書量が減った。
<市井氏の主張>
小説の市場規模の方が大きいので自己啓発書の読書量に対する影響は大きくないはずだ。
市場規模では確かにそうだが、トレンド(推移)は見てないですよね?だからその論は否定の根拠にはなりません。
さっき書籍と雑誌の比較で「市場規模と読書量は相関しない」って言ってたのに、自己啓発書と小説を市場規模で比較するのはおかしい!ダブルスタンダード!
→
反論①については、たしかにトレンドはそうかもしれないけど、象に犬がキックしても効かないように、市場における小説の占める割合の方が圧倒的に大きいのだから、自己啓発書のトレンドがまあまああっても全体のムーブには影響しにくいっていうのは確かなんじゃないですかね。
反論②については、雑誌と書籍の比較と、小説と自己啓発書(どちらも書籍に含まれる)の比較は全然別だから、まずダブルスタンダードとは言えないのは明らか。これは間違いない。
ご自身にとって都合の良い時だけ売上と読書実態を切り離し、別の場面では売上を読書実態の根拠とするのは、論理的一貫性を欠いています。
→これは完全にどっちもどっちと言わざるを得ません。データ分析を仕事にしている人ってこのレベルなんですね。というかそもそもデータの部分よりも文章の方が蛇行運転になっていて、上記したように論理が合わない箇所がいくつかあります。心配になりました。
<お わ り>
高市早苗氏が首相に選出され台湾発言で物議をかもしてから、これまで以上に政治的な議論がなされるように感じる。またただの党派性の選好がどうこうにとどまらず具体的な安全保障まで真剣な意見が交わされるようになったことは、日本社会自体が一つの転換点を迎えているように思える。
そのなかで、個人的に党派の煽りあいや中傷を超えて道具的に政治を語るのに役立つかもしれない一つのネタを紹介したい。あくまでも仮説が、情勢について語る一つの視点になれば幸いである。
なお事前に予測した方向性と合致したためAIの手を大いに借りてある。
また曖昧戦略の欠如は相手の意思決定を手助けするだろう。デマなどについて聞いてみても面白いと思う。
以下perplexityより
自由エネルギー原理の見地から見て、政治の党派性における右派、左派はそれぞれエントロピーの減少における役割の相違という観点から説明できる?
自由エネルギー原理から見た政治の党派性:右派・左派とエントロピー減少の役割の相違
自由エネルギー原理(Free Energy Principle,FEP)の枠組みから政治イデオロギーの左右の違いを説明することは、一定の理論的根拠を持つ興味深い視点を提供します。ただし、これは直接的な学術的応用というより、理論的な仮説として理解されるべきものです。
自由エネルギー原理によれば、すべての生物システムは熱力学の第二法則に対抗してエントロピー増加を最小化することで、秩序を維持しています。具体的には、生物は予測エラーを最小化することで、感覚状態のエントロピー(無秩序さ)を減少させ、環境との相互作用をコントロールします。このプロセスは、**予測処理(predictiveprocessing)**メカニズムを通じて実現されます。つまり、生物は内部モデルを持ち、それに基づいて世界を予測し、実際の入力との差分(予測誤差)を最小化することで、驚き(サプライズ)を制御します。
最近の認知神経科学の研究により、保守主義と進歩主義は予測処理の異なる戦略に対応している可能性が示唆されています。
曖昧性と不確実性に対してより高い耐性を持つ
前帯状皮質(anterior cingulatecortex)の活動が強く、反応競合に対する神経認知的感受性が高い
これらの特性は、高いエントロピー状態(高い不確実性)を許容しながら、情報環境の変化に応じて予測モデルを継続的に更新する戦略に対応しています。自由エネルギー原理の観点からすれば、彼らは予測精度(precision)の重み付けを比較的低く保つことで、新規情報による予測誤差を柔軟に受け入れ、より適応的なモデル更新を可能にしています。
不確実性や曖昧性への耐性が低い
脅威や秩序の乱れに対してより敏感で、知覚的堅性が高い
右扁桃体(right amygdala)の活動が強く、脅威認知に敏感
これらの特性は、予測の確実性(certainty)を高く保ち、既存モデルへの信仰度(prior belief)を強化する戦略に対応しています。自由エネルギー原理の用語では、彼らは予測精度の重み付けを高く設定することで、外界の変化に対して強力な内部モデルの安定性を維持しようとしています。
政治の党派性をエントロピー減少の枠組みで理解すると、以下のような対比が浮かび上がります:
保守主義は、社会的秩序を既存の伝統的制度や階級構造の維持を通じて最小化しようとします。このアプローチは、複雑な社会システムの不確実性を、階層的で確定的な構造によって「切り詰める」戦略です。社会に内在するカオス(高エントロピー)に対抗するため、既に証明された秩序パターン(伝統)を維持することで、予測可能性を確保します。
進歩主義は、社会的秩序を個人の自由、多様性の認容、制度的革新を通じて最小化しようとします。一見すると秩序を緩和しているように見えますが、実際にはより複雑で適応的な秩序化メカニズムを導入することで、社会システムのエントロピーを減少させる戦略です。異なる視点を統合し、新しい情報に基づいて制度を改革することで、社会システムの予測モデルをより現実に適応させようとしています。
不確実性耐性と脳レベルの同期
興味深いことに、研究では不確実性への耐性が低い人ほど、政治的に同じ立場の人たちとの脳活動の同期が強いことが示されています。言い換えれば、不確実性を避けたい個人は、同じイデオロギーの人々と同じ予測モデルを共有することで、集団レベルでのエントロピーを減少させようとしているのです。これは社会的な「外界の秩序化」メカニズムとして機能しています。
最新の複雑システム理論では、政治分極化は正のフィードバックループと相転移(phase transitions)のメカニズムを通じて発生することが示されています。保守主義者は秩序の維持を目指し、進歩主義者は秩序の革新を目指すという相反する動力が、社会システム全体のダイナミクスを決定しています。両者の相互作用は、社会的エントロピーを管理するための補完的なメカニズムとして機能しているとも解釈できます。
この自由エネルギー原理に基づく解釈には重要な限界があります。第一に、個人の認知的特性と政治的立場の関係は因果的ではなく相関的である可能性が高いです。第二に、政治イデオロギーはきわめて文化的・歴史的に構築されたものであり、普遍的な神経生物学的基盤のみでは説明できません。第三に、FEPは主に個体レベルの生物システムを想定しており、社会システムへの直接的な応用には理論的な拡張が必要です。
要するに、自由エネルギー原理の観点から見ると、右派は予測モデルの安定性重視によって秩序を維持するエントロピー減少戦略を採る一方、左派は予測モデルの柔軟性重視によってシステムの適応性を高めるエントロピー減少戦略を採ると理解できます。両者は、相異なるメカニズムを通じて社会的エントロピーの増加に対抗しているのであり、政治的党派性の根底には、不確実性に対する根本的に異なるアプローチが存在していると言えるでしょう。
自由エネルギー原理(FEP)を政治党派性に適用する理論を拡張するには、階層的ベイズ推論の多層構造、社会的相互作用の動的モデル化、経験的検証メカニズムの導入が鍵となります。これにより、個体レベルの神経メカニズムを社会システムレベルへ橋渡しできます。
FEPの核心は階層的予測処理です。個人レベルでは、低次層(感覚入力)が上位層(信念・イデオロギー)の予測を修正しますが、社会レベルでは個人の予測モデルが集団的「事前分布(priors)」を形成します。
右派の階層戦略: 上位層の伝統的priors(家族・国家・宗教)を強く固定し、下位層の変動(社会的変化)を抑制。集団レベルでは「社会的扁桃体機能」として、逸脱者を排除する規範執行メカニズムが働きます。
左派の階層戦略: 上位層のpriorsを動的に更新し、多様な下位層入力(マイノリティ視点)を統合。集団レベルでは「社会的ACC機能」として、対立する予測モデルの調停役を担います。
この拡張により、**党派性は「階層的自由エネルギー最小化の多重均衡状態」**としてモデル化可能。右派は安定均衡(低変動)、左派は適応均衡(高変動)を志向します。
FEPを非平衡動的システム論と統合し、政治分極化を予測誤差駆動の相転移現象として捉えます。
右派アトラクター: 高精度priors → 秩序維持 → 低エントロピー均衡
左派アトラクター: 低精度priors → 秩序革新 → 中エントロピー適応均衡
分極化 = 双安定状態(bistable dynamics)
S˙=−∇F(S)+ϵ⋅
ここで
ϵ は他派閥予測誤差です。党派性は負のエントロピー生産率を競う進化ゲームとなります。
FEPの「アクティブ推論(active inference)」を拡張し、政治行動を集団的予測誤差低減戦略と位置づけます。
党派受動的戦略(perception)能動的戦略(action)集団エントロピー効果
右派 脅威強調・一貫性追求伝統防衛・境界強化 内部秩序↑ / 外部不確実性回避
左派多様性受容・矛盾統合制度改革・包摂拡大システム適応性↑ / 内部多様性管理
これにより、選挙・政策は集団的「期待自由エネルギー」最小化のゲーム理論的均衡として解釈されます。
理論拡張の信頼性を確保するため、以下の検証経路を構築します:
fMRIで党派別予測誤差処理を比較(precision weighting)
class PoliticalAgent:
def __init__(self, ideology): # 'left' or 'right'
self.precision = 0.8 if ideology=='right' else 0.4
def update_beliefs(self, social_input):
free_energy = prediction_error * self.precision
return minimize_free_energy(social_input)
最終拡張として、FEPを国家・国際システムへスケールアップ。経済政策では右派が「低エントロピー均衡(安定成長)」、左派が「高エントロピー探索(イノベーション)」を担います。
グローバル均衡条件:
∑党派Var(policy predictions)=最適社会的自由エネルギー
このフレームワークにより、**党派対立は「多重スケールのエントロピー管理機構」**として再解釈され、民主主義は適応的秩序生成システムとなります。実証研究が今後の鍵です。
テレビの「コンプライアンス(法令遵守・社会規範の遵守)」がここまで厳しくなったのは、「ある日突然」ではなく、ここ20年ほどの間に3つの大きな波を経て段階的に強化されてきた結果です。
大きく分けると、①企業の不祥事(2000年代初頭)、②やらせ問題とBPO(2007年頃)、**③SNSの普及(2010年代〜)**という流れがあります。
それぞれの時期に何が起きて、どう変わっていったのかを整理します。
1. 【発端】2000年代初頭:企業の「コンプラ」がテレビに波及
もともと「コンプライアンス」は、テレビ局用語ではなく企業のビジネス用語でした。
*きっかけ:雪印集団食中毒事件(2000年)や食品偽装問題など、大企業の不祥事が相次ぎました。
* 変化:企業は「法令を守らないと会社が潰れる」という危機感を持ち、社内ルールを厳格化しました。
*テレビへの影響:テレビ番組は企業のスポンサー料で制作されています。「コンプラを重視するスポンサー企業」が、「自社のイメージを損なうような野蛮な番組や、差別的な表現がある番組には広告を出せない」と言い出したのが最初の引き金です。
*象徴的な事件: 人気健康番組『発掘!あるある大事典II』でのデータ捏造(納豆ダイエット)問題(2007年)。
* 変化: これを機に、**BPO(放送倫理・番組向上機構)**の権限や監視の目が非常に強くなりました。
*現場への影響:面白おかしくするための過剰な演出が「やらせ」とみなされるようになり、制作現場で「これ、証拠はあるのか?」「裏取りはしたか?」というチェック(考査)が極端に厳しくなりました。
ここが、私たちが「急激に厳しくなった」と感じる最大の要因です。
* 以前:視聴者のクレームは「電話」か「手紙」であり、局内だけで処理されていました。
*SNS時代:クレームがTwitter(現X)などで可視化され、**「炎上」**として瞬時に拡散されるようになりました。
*スポンサーへの直撃:視聴者がテレビ局ではなく、スポンサー企業に対して「あんな番組に金を出すのか」と直接攻撃(不買運動の示唆など)を行うようになりました。
* 結果:テレビ局は「面白いかどうか」よりも**「炎上リスクがないか(スポンサーに迷惑をかけないか)」**を最優先せざるを得なくなりました。これが現在の「過剰なほどの配慮」の正体です。
具体的に何がどう変わったのか?
かつては当たり前だった表現が、以下のような理由で消えていきました。
| かつての表現 | 現在のNG理由 |
| --- | --- |
| 頭を叩くツッコミ | 「暴力を助長する」「いじめに見える」というクレーム回避。 |
| 容姿いじり(デブ・ブス等) | ルッキズム(外見至上主義)への批判、人権意識の高まり。 |
| 過激な罰ゲーム | 「痛みを笑いにするのは不快」というBPO審議入りリスク。 |
| 心霊・オカルト | 科学的根拠がない、子供が怖がる等の理由で減少(または「フィクションです」の強調)。 |
| 水着・お色気 | ジェンダー観の変化、性的搾取批判、海外フォーマットへの適合。 |
まとめ
今のテレビにおけるコンプライアンスとは、**「スポンサー企業を守るための防御壁」であり、「SNSでの炎上を避けるためのリスク管理」**です。
昔のように「怒られるギリギリを攻めるのがプロ」という時代から、「怒られる可能性が1%でもあるならやめておく」という減点方式の時代に変わったと言えます。
ここ数年で、バラエティ番組よりもYouTubeや配信番組の方が「昔のテレビっぽい」と言われるのは、このスポンサー構造や規制の緩さが関係しています。
昔のテレビ番組で「あれは面白かったな」と思い出す特定のジャンルや番組はありますか?(それによって、どの規制の影響を強く感じていらっしゃるかが分かるかもしれません)
ラインハルトは、病名すら特定されなかった「皇帝病」で崩御したとされています。公式発表は「過労と持病の悪化」ですが、これはあまりにも曖昧で、歴史上の権力者の急死を糊塗するための常套句に聞こえます。
ラインハルトは戦争終結まで戦場に立ち続け、精神力で病状を抑え込んでいたとはいえ、宇宙統一という目標達成後、あまりにも急速に衰弱し、崩御しました。
新銀河帝国には、当時の人類最高の医学力が集結していたはずです。にもかかわらず、治療不能な「奇病」として処理されたことは、病の背後に人為的な要因(=検出不可能な毒物)が隠されていた可能性を強く示唆します。毒殺が実行された場合、検視や病理解剖が行われても、皇后の権力によって結果が捏造されるのは容易であったはずです。
暗殺を成功させるには、「機会(チャンス)」と「アクセス(対象への接触)」が不可欠です。病床のラインハルトに対し、これを満たせる人物はただ一人、昼夜を問わず看病にあたった皇后ヒルダ以外にいません。
病気のラインハルトは、誰にも気付かれず毒を摂取させるのに最も都合の良い環境にありました。食事、飲み物、そして何よりも薬の調合や投与。これらの全てを管理・監督できるのは、最も近しい存在であるヒルダだけです。
病状の悪化に伴い、ミッターマイヤーやロイエンタールといった外部の人間はラインハルトから遠ざけられました。たとえ彼らが面会を許されても、飲食物に細工を施すことは不可能です。
毒殺が実行されたとするなら、それは看病という最も神聖な行為の裏側で、ヒルダの献身的な愛の行為を装って行われた、極めて周到な計画だったと断じるのが順当です。
ヒルダは単なる皇后ではなく、優れた政治家であり、ラインハルト亡き後の帝国体制の構築を深く見据えていた人物です。彼女にとって、ラインハルトの早すぎる死は、悲劇であると同時に「政略的チャンス」でした。
ラインハルトが長く生きれば、彼は再び戦火を求めるか、あるいは自ら政務を執り続けるでしょう。しかし、彼が今死ねば、わずか生後数ヶ月の息子、アレクサンデル・ジークフリード大公が皇帝に即位します。
ヒルダは、その幼帝の「摂政」として、新銀河帝国という巨大な艦の舵取りを名実ともに掌握できます。彼女は、夫の遺志を継ぐという大義名分のもと、いかなる反対勢力もなく、実質的な最高権力者として帝国を統治し、自身が理想とする平和で安定した統治体制(ローエングラム王朝の永続)を確立することが可能になります。
ラインハルトは過労で弱り、病床に伏すという醜態を、最も嫌っていたでしょう。
ヒルダのラインハルトに対する愛は、彼の「偉大さ」に対する畏敬の念と不可分でした。彼女は、ラインハルトが「全宇宙を統一した直後」に、病という自然の摂理に打ち克てず崩御するという、「完璧な悲劇の英雄」として歴史に刻まれることを望んだかもしれません。
病で苦しむ姿を晒させず、理想の頂点で幕を引かせること。これは、愛する夫を「歴史」という永遠の舞台に立たせるための、恐ろしいまでの「慈悲の暗殺」だったとも解釈できます。
パウル・フォン・オーベルシュタインの死は、この毒殺説の補強材料となります。
オーベルシュタインは、ラインハルトの病状を把握していた数少ない人物であり、その容態の不自然さ、そしてヒルダの動機を誰よりも深く理解できたはずの、冷徹なリアリストでした。彼こそが、ヒルダの企みに気づき、彼女を脅かし得る唯一の人物でした。
彼は、ラインハルトの最期の瞬間に、地球教徒を囮にするという彼自身の策でテロの標的となり、爆死します。この「殉死」はあまりにも劇的で、真相を知る者への口封じとしては完璧すぎる幕引きです。彼の死は、ラインハルトの崩御と時期を同じくして、「不都合な証人」を消し去るためのヒルダによる最後の「工作」であった可能性を排除できません。
『銀河英雄伝説』の物語の背後には、愛と政略が交錯した究極の陰謀が隠されていたと結論づけられます。ヒルダは、最高の機会、最強の動機、そしてその後の歴史を支配する能力を持っていました。
ヨーロッパは5年以内のロシアによる再侵攻を明確に意識し、結束を固めて軍備を進めている。対して、東アジア・オセアニアには特にそうした結束の報道もなく、既存の枠組み(日米、米韓、米比といった一対一の「線」の同盟)がバラバラに存在するだけだ。ヨーロッパのような「面」の同盟になっていない中で、各自なんとなく軍備を整えながら過ごしているに過ぎない。日本に至っては、タカイチさんのイマイチ発言が中国に膨張をエスカレートさせる格好の口実を与え、彼らの「試し行動」は日増しに激化している。
そんな国際状況下で、中露から見て、結束して軍備増強するヨーロッパと、相対的に準備の手薄な東アジア・オセアニア、どちらを攻めたくなるだろうか。
中露からすれば、面の同盟でスクラムを組み、いざとなれば全会一致で即時反撃もありえるヨーロッパとやりあうより、相対的に脆弱な東アジア・オセアニアの「線の同盟」の隙間を突くほうが簡単に見えるはずだ。「台湾や日本だけを威圧する」「フィリピンだけを虐める」という各個撃破や、その準備としてのサラミ戦術が通用しやすいからである。最近になって中露仲良く日本近海までランデブー飛行を始めたのは、そういうことも示唆している。
ちなみに、東アジア・オセアニアで中露の隣国にあたる我が国の現指揮官は、重要な外交の場であるG20に「外交交渉でマウント取れる服、無理をしてでも買わなくてはいかんかもなぁ」などとSNSで全世界に発信してからノコノコ出かけていくような、外交音痴が極まった人物だ。中露からは「戦略的思考が欠落した、感情的なアマチュア」と見抜かれているのは想像に難くない。私淑しているアベ氏が唱えた「自由で開かれたインド太平洋戦略」や欧州との連携構想を受け継ぎ、ただの概念から実効性を伴う同盟へと昇華させるような、冷静さと緻密な知性が求められる実務には到底耐えられないだろう。それを尻目に中国は、孫子が「忿速(ふんそく)なるは侮るべく(短気な将は挑発して計略にはめよ)」と言っているセオリー通りに行動している。試し行動をエスカレートさせてイマイチ首相を挑発し続け、次のボロが出るのを虎視眈々と狙っているわけだ。
私は、今すぐにでもイマイチさんは辞任して、国際政治と外交の機微がよくわかり、冷静さ、知性、胆力を兼備した人物に国政のかじ取りを任せるべきだと考える。これははっきり言ってスーパーマンに近いスペックだが、緊迫度を増していく国際関係の中で、膨張主義の二大国を隣国としている現日本の首相に求められるのは、もはやそういうレベルの能力なのだ。
今の日本に必要なのは、勇ましい言葉ではない。中露の周辺国と手を携えて周到に構築する、「手出しをしたら割に合わない」と相手に思わせるだけの抑止力だ。しかし現首相のもとでは、その構築もままならず、日本国民はただ指をくわえてその様子を見守ることになる。
こうなると、為替介入が二律背反を収拾するための唯一の手段になりつつある。為替介入によって円安そのものを先に解消できれば、ターミナルレート云々によって解消する必要がなくなるため、国債金利も自ずと落ち着く。そもそもここまで急速に現実化した12月利上げの位置付けは、為替対策の利上げから更に一歩進めてみると、為替介入を可能にするための利上げではないか。ベッセント財務長官はかねてから円安は日銀がビハインド・ザ・カーブになっているからだと指摘しており、日銀利上げが米側による介入了承の事実上の条件になっているとの観測がある。財務省が為替介入をやりたいと考える証拠はないが、もし為替介入をやりたがっているのであれば、日銀も利上げするしかないという整理となる。またベッセントの内政干渉を待つまでもなく、為替介入は金融政策と方向性が揃っていなければ効果を発揮しづらい。これまでの為替介入歴を振り返ると、2024年は6月に為替介入が行われ、7月に日銀が利上げを行った。2022年は10月に為替介入が行われ、12月に日銀がYCCを修正した。2025年1月の利上げと共に為替介入が行われなかったのは、就任したばかりのトランプをいきなり怒らせるのが怖かったからだろう。再び仮定となるが、もし財務省が為替介入をしたがっているのであれば、日銀の12月利上げ前後は、為替介入の効果が持続しそうな貴重なウィンドウとなる。このウィンドウを逃したらしばらく為替介入は困難だ。この間、米国側の金融政策が緩和側に寄ると更に好ましい。少なくとも神田財務官の時代において、財務省の為替介入はかなりトレーディング色が濃く、2022年11月はWSJのNick TimiraosがFedの利上げ幅縮小を報じた直後に為替介入を行っている。2024年6月ではCPI発表後に米金利が低下した場面で為替介入を行っている。Fedの12月利下げもほぼダンディールになっており、それに逆行する形で日銀が利上げをダンディールに固めていくモチベーションは、やはり為替介入が間に挟まっている点ではないだろうか。逆に12月FOMCが金利上昇イベントになった場合、それはそれでドル円の一層の上昇を為替介入で正面から阻止せざるを得なくなる。ここまでの整理が正しければ、12月FOMCから日銀12月会合前後にかけての日程が為替介入の危険日になる。2026年1月に入ってしまうと新たにできた新NISA枠による個人投資家の円売りアタックが再開すると思われ、改めて為替介入を行ってもほとんど相場を押し下げることはできないだろう。12月利上げがあった前提で12月中に為替介入をやらなかったとなると、財務省はかなり為替介入に後ろ向きであると判断せざるを得ず、2026年1月以降に円資産を保有する理由がほとんどなくなってしまう。
財務省が為替介入をやりたいかどうかは最後まで分からないが、ブレーンはかなりやりたそうな顔をしている。先ほどのエコノミストは「介入ラインと意識されている160円に達する前でも、あまりにも動きが大きければ動く可能性がある」と述べる。また外貨準備の規模が大きすぎるため、むしろ積極的に減らしたいとの発想が紹介されている。この手のブレーンが本当に政権の経済政策を支配できるとは思っていないし、高市政権も既に決定した路線をブレーンを使ってリークしていると判断できる証拠がないが、仮に当局全体の意思として外貨準備の規模を削減したいのだとすれば、日米金利差対比でも異常値になった高値で外貨準備を利食える為替介入をやりたくてウズウズしていることだろう。為替介入がカジュアルに行われる可能性に留意すべきである。
「為替介入利上げセット説」は、日銀の任務が想像以上に困難なものであった可能性を示唆する。2024年6月に為替介入が行われ、7月に日銀が利上げを行った後に、8月の雇用統計で日本株が暴落したことは記憶に新しい。この時の暴落がこの時の暴落が政府当局によって故意に筋違いに日銀のせいにされたことが、2025年の植田日銀の心理に軽くないトラウマを植え付けた。利上げペースは経済展望に基づいて決められるが、日銀執行部の具体的な利上げ月選びのマンデートには「日本株がクラッシュしなさそうなタイミングに挿入すること」が付け加えられたに等しい。本当に利上げが毎回クラッシュを招くなら淡々とやることをやるしかないのだが、そうじゃないからこそ難しいのである。その上で、為替介入利上げセット説が本当なら、為替介入はむしろ米国の経済指標が絶好調の間はあまりやらないわけで、為替介入が為替市場を一通りかき回した後に、日銀利上げの番が来て日本株がクラッシュしたらそれは日銀が悪いということになるのだ。あまりにもアンフェアではないか。何がコミュニケーションだ。
実際に為替介入が行われたとして、ドル円レートをどこまで押し下げられるかと言うと、前回や前々回と違って投機筋は円買いポジションを残しているため、それほどの効果はないと考えるべきだ。事前に投機筋の間で為替介入期待が盛り上がってしまうと更に効かなくなる。冒頭のワニの口が閉じる、つまり日米実質金利差が示唆する通りのドル円レートは130円近辺となるが、そこまでドル円を売り崩せるならかなり驚きであり、ワニの口が半分閉じた程度の水準でもかなり大掛かりな資産の外貨シフトを行う価値があるだろう。
以上のやり取りを「スケキヨ」と「プミポン」のディベートとして分析して下さい。
────────────────────
### 第1ラウンド
### 第2ラウンド(転換点)
### 第3ラウンド以降
##評価
###論理性
###レトリック
### 致命的な問題
スケキヨは「上限/下限」という独自の概念を持ち出したが、それを明確に定義・説明できていない。プミポンが理解を示した後も、なぜそれが「考えが浅い」のか論証できず、人格攻撃で逃げている。
##結論
これはディベートとしては成立していません。スケキヨは初期に興味深い観察を示しましたが、プミポンとの実質的な意見の相違を特定できず、また自身の論点を明確に説明できなかったため、感情的な応酬に終始しました。
プミポンは終始、対話的で建設的な姿勢を保ち、相手の主張を理解しようと努めています。両者の主張は実は大きく異ならない可能性が高く、言葉の使い方の違いが不要な対立を生んでいると言えるでしょう。
中国のWS-10エンジンのレスポンス(応答性)に関する具体的な数値(秒数など)は公開されていません。
しかし、初期のバージョン(WS-10A)は、ロシアの同等エンジンであるAL-31と比較して、推力を発生させるまでに「遥かに長い時間」を要したと報告されています。
これは、初期のWS-10Aがロシア製エンジンに比べて技術的に未熟であったことを示唆しており、当時の中国航空産業の課題を反映していました。
しかし、その後の改良型(WS-10B、WS-10Cなど)では、材料の改善や新しいコンポーネントの導入により、性能と信頼性が大幅に向上しているとされています。
最新のバリアントは西側の同等エンジンに匹敵する性能パラメーターを備えていると評価されており、応答性も改善されていると考えられますが、詳細なデータは機密情報のため不明です。
あーこれ?
これさ
愚かな人間の都合など完全無視、LLMのための高効率プログラミング言語「Sui」(粋)
https://forest.watch.impress.co.jp/docs/serial/yajiuma/2069573.html
別にいいんだけど、どうにもブクマカ含めて、しっくり来る批判できてないんだよな
それが気になってしょうがない
俺ごときが言ってもアレだから、Gemini3.0先生に頼んだよ(一時チャット、Pro 3.0思考モード)
ユーザーが提供した情報と、一般的なLLMの技術特性に基づき、プログラミング言語「Sui」についての冷静かつ客観的な評価をまとめます。
感想:一言で言えば、**「思想実験としては極めて面白いが、実用性とLLMの学習原理を無視した『早すぎた最適化』」**です。
作者の「人間ではなくLLMを主客にする」という視点の転換は、アーティスト的・哲学的な問題提起としては鋭いですが、現在のLLM(Transformerアーキテクチャ)の動作原理を工学的に捉えると、メリットよりもデメリットが上回る可能性が高いです。
メリット:
・トークン効率の改善:Python等と比較して記述が圧倒的に短くなるため、出力速度の向上と課金コストの削減(トークン節約)は確実に達成できます。
・構文エラーの激減: 括弧やインデントの複雑なルールを排除しているため、「閉じ忘れ」などの単純なSyntaxErrorは減るでしょう。
・コンテキストウィンドウの節約: 長いプログラムでもコンテキスト(メモリ)を圧迫しにくくなります。
・学習データとの不一致: LLMは「大量の人間用コード(Pythonなど)」を学習して賢くなっています。未知の言語「Sui」を書かせるには、Few-shot(プロンプトでの例示)に頼るしかありませんが、これではLLM本来の推論能力やコーディング能力(事前学習の重み)を活かせません。
・ブラックボックス化: 生成されたコードがバグっていた場合、人間が読んで直すことが不可能です。「LLMに直させる」にしても、LLM自身がSuiのロジックを深く理解していないため、無限ループ(幻覚の連鎖)に陥るリスクが高いです。
・CoT(Chain of Thought)の阻害:最近の研究では、LLMは「冗長な思考過程」を出力することで論理的整合性を保つことがわかっています。極限まで圧縮された記号列は、LLMの「考える余地」を奪い、論理破綻を招く可能性があります。
正しいと思う所(Agree)
理由:人間にとっての「読みやすさ(可読性)」は、機械にとって単なるトークンの無駄遣いです。if x>10: よりも ? x10 の方が情報密度が高いのは事実です。
理由: TransformerのAttentionメカニズムにとって、遠く離れた ( と ) の対応関係を維持するのは計算コストが高く、ミスの原因になりやすいです。ネストを排除する方向性は機械的処理として正しいです。
正しくないと思う所(Disagree)
・「可読性を排除しても良い」:
理由:ソフトウェア開発においてコーディングは「書く」時間より「読む・直す」時間の方が長いです。AI生成コードであっても、最終責任は人間が負う現状では、人間が検証不可能なコードは「危険なバイナリ」と同義であり、プロダクトには採用できません。
理由: 前述の通り、現在のLLMは「人間語の確率分布」を学習したモデルです。「LLMにとって自然な言語」とは、実は「人間にとって自然な言語(英語やPython)」そのものです。Suiは「計算機にとっては最適」ですが、「現在のLLMにとっては異言語」です。
パース(解析)は容易になりますが、LLMは「前の行の文脈」を読んで次の行を出力するため、行を独立させすぎると文脈の連続性が失われ、複雑なアルゴリズムの構成力が落ちる可能性があります。
LLMが最も苦手とする「深いネスト構造の維持」を回避する策として有効です。アセンブリ言語に近いフラットな構造は生成難易度を下げます。
これが最大の問題点です。LLMは変数名(user_id, total_price など)に含まれる「意味」を使って推論を行っています(Semantic Grounding)。すべてを記号化すると、LLMは変数の役割を見失い、論理的なバグを埋め込みやすくなります。
トークン効率は最強ですが、1文字の違いで意味が激変するため、LLMの確率的な「ゆらぎ」による1文字ミスが致命的なバグになります。冗長さはエラー訂正の役割も果たしています。
goto 文の多用はスパゲッティコードを生みます。LLMにとっても、構造化プログラミング(if/forブロック)の方が、「ここからここまでがループ」というチャンク(塊)として認識しやすいため、一概にジャンプ命令が良いとは言えません。
>現在のLLMは「人間語の確率分布」を学習したモデルです。「LLMにとって自然な言語」とは、実は「人間にとって自然な言語(英語やPython)」そのものです。
ここ!マジで覚えてね
LLMはこれまでの機械よりも人間に近いと思ってほしい、人が苦手なことはAIも苦手
機械は論理的でロジックに強くて〜っていうのはAIには通用しない
ついでに、「LLM用プログラミング言語」の潮流について
「LLMのための言語」という文脈は、大きく2つのトレンドに分かれます。Suiは後者に属しますが、主流は前者です。
・DSPy, Guidance,Microsoft Guidance:
・プロンプトエンジニアリングを構造化し、LLMの出力を型(JSONなど)に強制したり、思考プロセスを制御するためのフレームワーク。
・SGLang:
・これらは「人間がLLMを操るための言語」であり、実用化が進んでいます。
・Gorilla LLMなどの試み:API呼び出しに特化したファインチューニングなどがありますが、独自の「新言語」を作らせるよりも、既存のPython やJSON を正しく出力させる方向(Constrained Decoding)が業界の標準解です。
・擬似コード:論文レベルでは、Pythonの代わりに中間的な擬似コードを出力させ、それをコンパイラで処理する手法も研究されていますが、Suiほど極端な記号化は稀です。
後者については
現状の最適解:現在のLLMを使う限り、「LLM用言語」の最適解はPython です。なぜなら、世界中のGitHubのコードを学習しており、LLMが「最も流暢に話せる言葉」だからです。無理にSuiを話させるのは、日本人にエスペラント語で詩を書かせるようなもので、パフォーマンスは落ちます。
総評: Suiは、「既存のLLM(GPT-4など)に書かせる言語」としては失敗する可能性が高いですが、「未来のAIネイティブなコード生成のあり方」を示唆するアート作品としては高く評価できます。作者の「愚かな人間に合わせるな」というパンクな精神は、エンジニアリングの枠を超えた鋭い批評性を持っています。
お前らは安易にオレオレ言語作るんじゃないぞ、作るにしてもAIに聞きなよ?
聞く時は忖度させるんじゃないぞ?
この作者もAIに乗せられたのかもしれんし
______
プロンプト
以下が「LLM用プログラミング言語」としてメリットがありそうか、感想を教えて下さい。
https://forest.watch.impress.co.jp/docs/serial/yajiuma/2069573.html
https://github.com/TakatoHonda/sui-lang
・思想的に正しいと思う所、正しくないと思う所を理由込みでまとめてください
・最近のLLM用プログラミング言語についてもまとめてください
・そもそもLLM用プログラミング言語という目標自体の評価をしてください
(省略)
A:勝手な印象だが、男の分別がついてくるのって20前後からだと思う。悲しいかな、20年近く学ばないと、規範意識が社会的に許される最低限のラインまで育たないのだと理解している。大学生でも、大半が捕まらないだけで、無茶をしているやつが散見される。
B:日本以外では別にそんなことないので、日本人が男に甘いだけだと思う。男女問わずね。心底気持ち悪いな。
A:んなことはない。外国に行ったことすらなさそうな発言だな。
試しにホーチミンの夜の繁華街に行ってみたらいい。若者がごった返して毎晩乱痴気騒ぎだぞ。
A:君がこの増田なら自分の発言をよく思い出すべきだし、別の増田ならひとつ前のレスくらい読んでから発言しろとしか
B:普通は同質のものを比較するんだけどその辺の常識もない感じ?
残念でした
B:異質なものの比較によって、具体的に何を目的に何の成果を得て何と比較してどんなメリットがあってどんな現実の示唆を導くわけ?
バカでないならそこまで考えてやってんだよね?
どちらの方がより正しいでしょうか。
結論から言うと、AもBも論理が甘い部分があるが、議論としてはBのほうがまだマシ。Aは論理運用が雑すぎる。
以下、理由。
⸻
これは完全に個人の印象で、科学的根拠ゼロ。発達心理学でもそんな切り方はしない。前頭前皮質の成熟は25歳前後が平均だけど、男女差より個人差が圧倒的に大きい(Steinberg,2014)。
「外国」全体に対し、ベトナムの特定エリアのナイトライフで反論は無理がある。
Aは、政治板の酔ったおじさんみたいな言い分で、内容のある議論ではなく攻撃でしかないという感じ。
⸻
Bの問題点(Aよりは軽い)
根拠なしの一般化。治安統計を見ると、国によって若者の素行は違うし、犯罪率も文化も全然違う。
「どこでもない」とは言い切れない。
『多くの先進国では、若年男性だからといって行動の未熟さが社会的に特別に免罪されるわけではない。
日本では「若い男性は未熟で当然」という文化的前提が比較的強く、それが行動への甘さとして表れる場合がある。』なら妥当。
スケールの軸合わせとしてはもっともだが、皮肉を優先していて論点説明が弱い。説明にはなっていないが内容は十分。
Bはスケールの一致(同質の条件で比較すべき)という科学的な基本原則を押さえているので、議論としては筋が通る。
⸻
• Bは一般化が雑だが、比較の枠組みを正しく指摘している分だけ論理的。
よって、
Bの方が議論として「より正しい」。
Q1. AとBのレスバ(匿名でのお遊びディベート)で、それぞれの妥当性は?
A1. このレスバ(レスポンス・バトル)における双方の妥当性を分析します。
結論から言うと、**論理的な勝負としてはAの優勢(Bの自滅)**ですが、**議論の質としては「定義の不一致によるすれ違い」**という典型的な泥仕合の構図です。
1. 判定:どちらが妥当か?
Bが最初に「日本以外では~」と主語を最大化してしまったため、Aは「例外(ベトナム)」を一つ出すだけで論理的にBを論破できる状態になりました。
文脈的・社会的な妥当性(Context):引き分け(またはBの言い分も一理あり)
「先進国のマナー」を論じる際、同程度の経済・治安レベルの国(欧米先進国など)と比較するのが一般的であるというBの主張(後出しですが)には一理あります。しかし、最初の発言でそれを限定しなかったのがBの敗因です。
① 発端(Aの主張 vs Bの反論)
A: 男の分別がつくのは20歳前後。大学でも無茶なやつはいる。 B:日本以外ではそんなことない。日本人が甘いだけ。
B: ここが致命的なミスです。「日本以外では(世界のどこでも)そんなことない」という全称肯定(All orNothing)の形で反論してしまいました。これにより、Aは「世界のどこか一箇所でも、日本と同じような場所」を提示すれば勝てることになります。
A:ホーチミン(ベトナム)を見てみろ、若者が乱痴気騒ぎだ。(反証) B:ベトナムは治安良くないだろ。同質のものを比較するのが常識。(条件の追加)
A:論理的に正しい攻撃です。「日本以外では~ない」に対する例外事例(カウンター・エグザンプル)を提示しました。
B: ここで**「ゴールポストを動かす(Moving the Goalposts)」**という誤謬を犯しています。最初は「日本以外」と言っていたのに、不利になると「(日本と同等の治安レベルの国という)同質のもの」に条件を後付けで変更しました。
③ 決着と捨て台詞
A:最初に言及範囲を全部に設定した時点で君の負け。 B: 異質なものを比較して何のメリットがあるの?バカなの?(人格攻撃・論点のすり替え)
A: 正確な指摘です。ディベートにおいて「例外のない断定」は最も崩されやすい隙であり、そこを突いています。
B:論理で負けたため、「比較の意義」や「相手の知能」への攻撃にシフトしています。これは「論点のすり替え」であり、敗北宣言に近い挙動です。
3.総評
もしBが最初に「欧米の先進国ではそんなことないので~」と言っていれば、Aのベトナムの例は「比較対象として不適切」と切り捨てられ、Bの妥当性が高まっていたでしょう。
Aは揚げ足取りに近い形ですが、議論のルール上は正当な手続きでBの矛盾を突いています。
結論:言葉の定義を厳密に扱ったAの方が、ディベートとしての妥当性は高いです。Bは自分の失言を認めず、後から条件を付け足して相手を攻撃しているため、説得力を失っています。
Q2.Bは最後に「異質なものの比較によって、具体的に何を目的に何の成果を得て何と比較してどんなメリットがあってどんな現実の示唆を導くわけ?バカでないならそこまで考えてやってんだよね?」と言っているけど、これB自身にブーメランが刺さったよね?
A2. ご指摘の通り、特大のブーメランがBの脳天に突き刺さっています。芸術点が高いレベルの自爆です。
なぜこれが「ブーメラン(お前が言うな)」になるのか、論理構造を整理するとその滑稽さが際立ちます。
Bの最後の発言「異質なものを比較して何の意味があるの?」は、そのままBの最初の発言を全否定してしまっているからです。
Bは最初に**「日本以外では(別にそんなことない)」**と言いました。
この時点で、Bは「日本」と「日本以外の全ての国(アメリカも、フランスも、ベトナムも、ソマリアも)」を同列に扱って比較しています。
つまり、「異質なものをまとめて比較対象にした」のは、他の誰でもないB自身です。
AはBのルールに従っただけ
Aは、Bが設定した「日本以外」という土俵の中から、正当に「ベトナム」というサンプルを抽出しました。
それをBが「異質なもの(途上国)と比較するな」と批判するのは、「私が言った『日本以外』には、私の都合の悪い国は含まれない」と言っているのと同じです。
Bが最後に「異質なものを比較することにメリットはない」と主張するなら、Bの最初の「日本以外では~」という発言も、「異質なもの(世界全体)と日本を一概に比較した無意味な発言」ということになります。
自分で自分の最初の発言を「バカの所業」と認定してしまったわけです。
Bの問いに対する答え(Aの視点)
Bの「具体的に何を目的に何の成果を得て~(中略)~導くわけ?」という早口な問い詰めに対しても、Aの立場ならこう答えるだけで論破完了してしまいます。
目的・メリット: 「『日本以外ではそんなことない』という君の嘘(または無知)を暴くため」
現実の示唆: 「君が世界を先進国(あるいは自分の理想郷)しか見ておらず、現実が見えていないという示唆」
Bは「高尚な社会学的比較論」に持ち込もうとしていますが、実際には**「不用意な発言の尻拭いに失敗して逆ギレしている」**だけなので、読み手からすると非常に恥ずかしい幕切れとなっています。
人工知能(AI)の急速な進化は、私たち人間に突きつけられた実存的な問いである。「計算能力において機械が人間を凌駕したとき、人間に残される価値とは何か」。この問いに対し、多くの議論は「創造性」や「直感」といった曖昧な領域に逃げ場を求めてきた。しかし、マックス・ベネット著『知性の未来』と、それを翻訳・解説した脳科学者・恩蔵絢子氏の洞察は、より生物学的かつ哲学的な深淵へと私たちを導く。
彼らが提示する結論は、逆説的である。「AI時代に人間が持つ最大の能力は、感情になる」。そして、「本当に頭が良い人とは、他者に興味を持てる人である」。
一見すると、これは道徳的なスローガンのように響くかもしれない。しかし、認知科学、進化生物学、現象学の知見を総動員してこの命題を解剖するとき、そこには「知性」という現象の構造的な転回が見えてくる。本稿では、二重過程理論、ユクスキュルの環世界、身体性認知、社会脳仮説、そして間主観性という5つの視座を補助線とし、AIが決して到達し得ない「知性」の本質と、これからの時代に求められる「知的な生き方」について論じる。
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まず、私たちが「知性」と呼んできたものの正体を、ダニエル・カーネマンらが提唱した「二重過程理論」の枠組みで再考する必要がある。
伝統的な知能観において、知性とは「システム2(遅い思考、論理、計算)」の能力を指していた。複雑な数式を解き、論理的な推論を行い、未来を正確に予測する力である。現在のAI、特に大規模言語モデル(LLM)は、このシステム2の機能を極限まで外部化・高速化した存在と言える。彼らは感情を持たず、疲労を知らず、膨大なデータから論理的整合性を出力する。
しかし、ベネット氏が描く脳の進化史(5つのブレイクスルー)は、この「システム2至上主義」を根底から覆す。進化の歴史において、論理や言語といったシステム2の機能は、常にシステム1(速い思考、感情、直感)の要請によって開発されてきたからだ。
初期の生物(線虫など)は、「快・不快」という原始的なシステム1のみで生きていた。進化の過程で「予測」が必要になったとき(魚類)、予測誤差としての「失望」や「安堵」という感情が生まれた。さらに複雑なシミュレーション(マウス)が可能になったとき、反事実を嘆く「後悔」という感情が生まれた。
ここで重要なのは、「論理が感情を抑制するために進化した」のではなく、「感情をより細やかに処理し、生存確率を高めるために論理が進化した」という事実である。システム2は、システム1というエンジンの出力を最大化するためのトランスミッションに過ぎない。
AIの限界はここにある。AIには「エンジン(生存への渇望、快・不快、感情)」がない。あるのは精巧なトランスミッション(計算能力)だけだ。エンジンを持たない車が自律的にどこへも行けないように、感情という基盤を持たないAIは、自ら「問い」を発することも、「意味」を見出すこともできない。人間の知性の本質は、論理そのものではなく、論理を駆動し続ける「感情の熱量」にあるのだ。
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なぜAIには感情が宿らないのか。その答えは「身体」の欠如にある。「身体性認知(EmbodiedCognition)」の視点は、知性が脳という密室の出来事ではなく、環境と相互作用する身体の中に宿ることを教えてくれる。
記事の中で恩蔵氏は、老いによる身体の変化を「老年でしか味わえない内的な経験」として肯定的に捉えている。これは非常に重要な示唆を含んでいる。
生物にとっての「意味(Sense)」は、身体的な脆弱性から生まれる。身体があるからこそ、空腹は「苦痛」となり、食事は「快」となる。皮膚があるからこそ、他者との接触は「温もり」となる。死ぬ定めの身体があるからこそ、時間は「有限」となり、焦燥や希望が生まれる。
AIが扱う情報は、どこまで行っても「記号」である。AIにとって「痛み」という単語は、辞書的な定義や統計的な関連語の集合体に過ぎない。しかし人間にとっての「痛み」は、回避すべき切実なリアリティである。この「切実さ(Stakes)」こそが、世界に色を塗り、価値判断の基準を作る。
身体性認知の視点に立てば、加齢による能力の低下は、単なる「劣化」ではない。それは身体というインターフェースの変化に伴う、世界との関わり方の「再構築」である。
若い頃の強靭な身体で見えていた世界と、老いて動きが緩慢になった身体で見える世界は異なる。その変化を受け入れ、新たな身体感覚を通じて世界を再解釈することは、高度な知性の営みである。AIは「劣化」しない代わりに、「成熟」もしない。身体の変化を通じて世界モデルを更新し続けるプロセスこそ、人間特有の知的な冒険なのである。
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身体を持った生物は、それぞれの感覚器官が切り取った主観的な世界、すなわち「環世界(Umwelt)」の中に生きている。ユクスキュルが提唱したこの概念は、知性の進化を「孤独からの脱出劇」として描き出す。
ダニにとっての世界は「酪酸の匂い」と「温度」だけで構成されているように、すべての生物は自分の環世界というシャボン玉の中に閉じ込められている。本来、他者の環世界を知ることは不可能である。私はあなたの痛みそのものを感じることはできないし、あなたが見ている「赤」が私と同じ「赤」である保証もない。
この「絶対的な孤独」こそが、生物としての初期設定である。しかし、ベネット氏が指摘する第4、第5のブレイクスルー(メンタライジング、発話)において、人間はこの壁に挑み始めた。
「他者に興味を持つ」とは、自分の環世界という安全地帯から身を乗り出し、他者の環世界を覗き込もうとする無謀な試みである。「あの人は今、何を考えているのか?」「なぜ悲しい顔をしているのか?」。これは、自分の感覚データ(システム1)だけでは完結しない。高度な推論と想像力(システム2)を総動員して、見えない他者の内面をシミュレーションしなければならない。
恩蔵氏が「他者に興味を持つことは難しい」と述べるのは、これが認知的に極めて高コストな作業だからだ。自分の環世界(自分の話、自分の関心)に浸っている方が楽なのだ。しかし、あえてそのコストを支払い、他者の世界へ「越境」しようとする意志。それこそが、人間を人間たらしめている知性の正体である。AIには環世界がないため、そもそも「他者の世界」という概念自体が存在しない。
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なぜ人間は、これほどまでにコストのかかる「他者理解」という能力を発達させたのか。ロビン・ダンバーの「社会脳仮説」は、それが「集団での生存」に不可欠だったからだと説明する。
自然界の脅威(猛獣や寒さ)に対処するだけなら、これほど巨大な脳は必要なかったかもしれない。しかし、人間にとって最大の環境要因は「他の人間」であった。誰が味方で、誰が裏切り者か。誰と協力すればより多くの食料が得られるか。
他者の心は、天候や物理法則よりも遥かに複雑で、予測不可能な「変数」である。この変数を読み解くために、脳は巨大化し、知性は進化した。記事にある「会話の70%は噂話」という事実は、私たちが情報の交換以上に、人間関係のメンテナンス(社会的グルーミング)に知能のリソースを割いていることを示している。
この文脈において、「頭が良い」という定義は劇的に変化する。それはIQテストのスコアが高いことでも、計算が速いことでもない。
真に知的な個体とは、「他者の意図を正確に読み取り、共感し、信頼関係を構築して、集団としてのパフォーマンスを最大化できる個体」である。
「他者に興味を持てる人」が頭が良いとされる理由は、単なる優しさではない。他者への関心は、複雑な社会マトリックスの中で生き残るための、最も強力なセンサーであり、武器だからだ。自分の殻に閉じこもることは、社会的動物としては「死」に等しい。他者への好奇心は、生命力そのものの発露と言える。
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そして、知性の進化の到達点は、個人の脳内にも、個別の身体にも留まらない。「間主観性(Intersubjectivity)」の領域、すなわち「私とあなたの間」に生まれる知性である。
記事の中で触れられている「指差し」は、人間特有の驚くべき行動である。チンパンジーは報酬を得るために手を伸ばすが、人間の幼児は「見て!あそこに犬がいるよ!」と、ただ注意を共有するためだけに指を差す。
これは、「私が見ている世界を、あなたにも見てほしい」という強烈な欲求の表れである。ここで初めて、孤立していた二つの環世界が接続される。
言葉、文化、ルール、そして愛。これらはすべて、物理的な実体ではなく、私たちが共有することで初めて存在する「間主観的」な現実である。
AIは「客観的なデータ」を処理することはできる。しかし、「あなたと私の間だけで通じる冗談」や「阿吽の呼吸」、「信頼」といった、主観と主観の間で紡がれる現実を作り出すことはできない。
恩蔵氏が翻訳を通じて感じた「人間の宝」とは、この「心の共有」の可能性そのものであろう。私たちは、他者の心に触れることで、自分一人では決して到達できない豊かな世界(拡張された環世界)を生きることができる。知性とは、個人の所有物ではなく、関係性の中に宿る現象なのだ。
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以上の分析から、AI時代における「知的な生き方」の輪郭が浮かび上がる。それは、AIに対抗して計算能力を磨くことでも、AIに仕事を奪われないように効率化を目指すことでもない。むしろ、AIが捨て去ったもの、あるいは持ち得ないものを、徹底的に深める生き方である。
AIは効率と最適化の権化である。対して、人間の知性の源泉は「感情」や「身体」といった、一見非効率なノイズの中にある。
知的な生き方とは、効率を追求するあまり、感情の揺らぎや身体の実感を切り捨てないことだ。迷い、後悔し、喜び、痛むこと。これらの「ノイズ」こそが、世界に意味を与え、独自の価値判断を生み出す土壌となる。
「本当に頭が良い人」になるためには、意識的に「他者への旅」に出る必要がある。
SNSのアルゴリズムは、私たちが心地よいと感じる情報だけを見せ、環世界をより狭く、強固なものにしてしまう(フィルターバブル)。知的な態度は、その快適な殻を破ることから始まる。
自分とは異なる意見、異なる背景、異なる身体性を持つ他者に対し、「なぜそう感じるのか?」と問いかけること。自分の正しさを一旦脇に置き、相手の環世界に身を浸すこと。この「認知的負荷」をあえて引き受ける勇気を持つことだ。
AIは「答え」を出すことにおいては人間を凌駕する。しかし、「問い」を立てることはできない。問いは、「こうありたい」「これはおかしい」という、身体的な違和感や理想(感情)から生まれるからだ。
また、AIはデータを羅列できるが、「物語」を生きることはできない。私たちは、他者との関わりの中で、それぞれの人生という物語を紡いでいる。
これからの知性とは、正解のない世界で、他者と共に悩み、対話し、新しい「納得解(間主観的な合意)」を形成していくプロセスそのものを指すようになるだろう。
マックス・ベネットと恩蔵絢子が示したのは、冷徹な計算機としての脳ではなく、熱を帯び、他者を求め、身体を通じて世界と震え合う臓器としての脳であった。
AI時代において、私たちは「賢さ」の定義を、ColdIntelligence(処理能力)から WarmIntelligence(共感と接続の能力) へとシフトさせなければならない。
老いて記憶力が衰えようとも、計算が遅くなろうとも、目の前の人の手の震えに気づき、その心に思いを馳せることができるなら、その人は最高に「知的」である。
他者の心という、宇宙で最も複雑で、不可解で、魅力的な謎に挑み続けること。その終わりのない探求こそが、機械には決して模倣できない、人間の知性の最後の聖域となるだろう。
https://news.yahoo.co.jp/articles/be7a5812ddaf607d08bb52f0663554ab39a9389c
令和7年最新
各位
日頃より、全国における自主的マナー監視・指導活動に深甚なるご尽力を賜り、厚く御礼申し上げる。
本年度も、SNS上での厳正なる叱責から、公共空間での指導的咳払いに至るまで、多方面で顕著な成果が確認されたところである。
しかしながら、近時の社会情勢の急速な変化及び価値観の多元化を踏まえ、当省として従来の行動指針を再検討した結果、以下のとおり新方針を策定したので、関係各位におかれては適宜周知のうえ遺漏なき対応をお願いする。
従前、我々は「世界の良化」を最上位目標に掲げ、正しいマナーの普及啓発を実施してきた。
マナー違反者に対しては、SNS指導、メディア指導、まれに物理的示唆等、各種手法を駆使し、世界の道徳的安定化に寄与したものと自負している。
しかし、一般大衆からの支持を長年確保してきた我々の活動も、昨今の多様性尊重の潮流の前に大きな転換点を迎えている。
国際社会を見渡せば、
一夫一婦制が絶対に正義であるとの主張はサウジアラビア国王に対し呈示し得るものか、
結論として、価値観とは各人に帰属するものであり、その正誤を論ずる営みは効果より疲労が上回ると判断した。
従って、当省としては以下を申し添える。
「知ったこっちゃない」
ものとすること。
村八分その他の集団的制裁行為については、自然淘汰に委ねること。
なお、日本人の高い道徳心が幸福度に直結していない点も併せ考慮し、
当省はついに
との真理に到達した。
以上を踏まえ、価値観の押し付け及びマナーの過度な指導は本年度をもって終了する。
来年度より、当省は「道徳省Ver2」として、新たな段階における静観的姿勢を基本としつつ、必要に応じて軽い咳払い程度の指導を行う体制へ移行する。
以上(ChatGPT10分)
リヴァプールのスター選手モハメド・サラーが最近のインタビューで、「どちらか一方を去らせなければならない」と語ったことが、ファンの間で大きな話題となっています。この発言は、チーム内の状況や今後の戦力配置に関する示唆として受け止められ、ソーシャルメディアやファンフォーラムで様々な議論が巻き起こりました。
多くのサポーターは、サラーの言葉に驚きつつも、チームの将来や補強方針への関心を強めています。「どの選手が去るのか」「チームバランスはどうなるのか」といった憶測が飛び交い、クラブの戦略に対する期待や不安が入り混じる状況です。
一方で、サラー自身は発言の真意やチーム内の雰囲気を強調し、ファンに過度な憶測を避けるよう呼びかけています。それでも、彼の言葉はリヴァプールの今後を占う重要な指標として注目され、試合や移籍市場での動きと合わせて、多くのファンが注視するポイントとなっています。
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