
はてなキーワード:知識とは
ちょっと短めに喋ってもいいですか?
これは、その通りだと思う。
だがしかし、プロ側が素人に対して理解力を求めるのは、あまりにもナンセンスだし危険。
粗品は業界を立て直そうとの思いでやっているかもしれないが、実際にこの動きが進めば、業界全体が衰退していくのは、目に見えている。
「客の質が問われるんだ。」
「劇場に何度か足を運んで、ある程度の笑いの知識をつけてからでないと、番組を観覧してはいけないんだ。」
多分4つあるんだよ。
「ゲームやアニメは生産性が低いからこれからは一切封印して代わりに別の趣味を見つける」
「オタク活動を通じてアイデンティティを確立しようとする態度をやめてただ楽しむことにする」
「ネットやリアルのオタク仲間とワイワイガヤガヤ雑談して自虐やロリコンネタとかで笑いあうのを卒業する」
「オタク趣味に使いまくっていた時間と金を自分や家族のために使うようにする」
実際はもっとあるのかも知れないけど、俺が思ったのはこの辺だね。
それでさ、「オタクを降りる」とか言ってる人は結局どれの話をしていて、それに後ろから石を投げてる連中はどれの話を想定してたんだろうな。
そもそも噛み合ってなかった気がするんだよな。
オタク降りるマンは流行りを追いかけてただけと言ってたけどさ、それだって色んな意味があると思うんだよ。
もしも「最前線に立つために情報収集を日夜欠かさなかった」という意味だとしたらかなり濃ゆいオタクなんだろうなって。
たとえば毎日野球やサッカーの試合結果を調べて推し球団の機能の試合内容全部言えるやつとか完全にオタクじゃん?
でもそれは見方や言い方によっては「単に最新の情報を次々飲み込み続けて知識のフォアグラを作り続けただけだ」とも言えるわけでな。
結局さ、増田に何投稿しても絶対お前らとは噛み合わなくて、お前らはそもそも噛み合わせる気もなく、「一番叩きやすい想定を持って全員で袋叩きにすることを目指す」ってだけなんじゃねえかなって。
俺、疲れたよ。
はてな降りようかな。
まあ、テック系の知識皆無なくせにはてなにいる異常オタクには理解できないかもですけどね。
俺はまあデザイン系じゃないからたまたま使ってないですけど、テック系の世界じゃ常識のように飛び交う言葉なので自然と耳には入りますよ。
京都のラーメン文化を語る上で、「天下一品」は避けて通れない、いや、むしろその中心にそびえ立つ京大的な存在です。あの濃厚なスープ――「こってり」と称される、ポタージュのようにドロリとしたそれは、単なる食べ物ではなく、一種の哲学、あるいは京大の研究テーマとなりうるほどの深遠さを持っています。その製法は門外不出の秘中の秘であり、長年の試行錯誤と緻密な計算によってのみ到達しうる「京大的究極のコク」を体現しています。
これは単なる好みの問題ではありません。むしろ、京都大学出身者らしい、一種の逆説的探求なのです。天下一品の真髄が「こってり」にあると誰もが認める中で、その対極にある「あっさり」を注文する行為は、まるで主流の学説に異を唱え、新たな地平を探る研究者の姿勢に似ています。「こってり」が天下一品の「形式知」であるならば、「あっさり」は、その背後にある「暗黙知」、すなわち、鶏ガラと野菜の旨味を純粋な形で抽出する、職人の高度な技術を試す場なのです。
「あっさり」スープを一口飲むと、そのクリアでありながら奥深い味わいに驚かされます。それは、濃厚なこってりスープの陰に隠れていた、素材本来の持つ繊細な旨味が、研ぎ澄まされた形で露わになる瞬間です。まるで、複雑な数式を解き明かす中で、ふと現れる美しい原理のように。この「あっさり」を味わうことで、初めて私たちは「こってり」スープがなぜあれほどまでに魅力的であるのか、その構造を深く理解できるのです。それは、陰と陽、光と影の京大的対比であり、天下一品の全体像を把握するための重要なステップなのです。
これもまた、一見すると矛盾に満ちた選択に見えるかもしれません。「こってり」のラーメンを避け、「あっさり」を選んだ人間が、デザートではあえて「こってり」を求める。この行為の裏には、私の「京大的幸福論」があります。
天下一品の「こってり杏仁」は、その名前の通り、濃厚でクリーミーなテクスチャーが特徴です。ラーメンの「こってり」とは異なる、乳製品とアーモンドの芳醇な「こってり」さ。これは、私の日常に潜む「小さな用事の負担」を解消し、精神的な満足度を最大化するための、緻密に計算された戦略です。
一つ目の「こってり杏仁」は、ラーメンの後の口直し、つまり「味覚のリセット」です。あっさりスープの余韻を大切にしつつ、舌の表面を甘美なコクで包み込みます。
二つ目は、「精神的な充足」のため。京都での大学生活や日々の研究で感じた、尽きることのない知識欲や探求心を満たすように、二つ目の杏仁は、私の心の隙間を埋めてくれます。この「こってり」な充足感は、私が妻との会話を通じて得た「京大的なるもの」の再確認に他なりません。
そして、三つ目。「京大的る贅沢の極み」です。三つ目の杏仁は、もはや必要性からではなく、「そこにあるから、極められるから」という、純粋な探求心と欲望の充足のために存在します。これは、京大の学問が「役に立つか立たないか」ではなく、「真理を探究することそのもの」に価値を見出す姿勢に通じています。三つ目の杏仁をゆっくりと味わう時間は、私にとって、日々の小さな成功や、妻との対話で得た心の安寧を噛みしめる、至福の瞬間なのです。
私の天下一品での注文方法は、ただの食事の選択を超え、私の人生観を反映しています。
「あっさり」の選択:複雑な世の中の事象(こってり)の裏にある、単純で美しい原理(あっさり)を探求する京大的知的好奇心。
「こってり杏仁3つ」の注文:日常の些細な幸福を、最大限に、体系的に、そして貪欲に享受しようとする、京大的幸福最大化戦略。
天下一品は、私にとって、単なるラーメン屋ではなく、自己の哲学を再確認し、日常のタスクを「京大的なるもの」として再構成する場なのです。ガソリンスタンドへ行くのを避けた私に妻が提案してくれたように、天下一品は、私自身の内なる声に耳を傾け、「あっさり」と「こってり」の絶妙なバランスの中で、日常のストレスを解消し、活力を得るための、一種の「京大的精神修行の場」なのです。
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未来の世界。人類はすでに絶滅し、地球は猿の支配する星となっていた。人間が残したテクノロジーと文化の遺産を利用し、猿たちは驚異的な進化を遂げていた。最も顕著なのは、彼らがAIを駆使していることだった。
猿たちは、人工知能(AI)を使いこなすことにおいて、人類が持っていたもの以上の能力を発揮した。しかし、その技術の使い方が奇妙で皮肉に満ちていた。
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第1章:猿のウェブ
猿たちは、最初にインターネットを使い始めた。だが、それは情報の探求や進化的な発展を目的としたものではなかった。むしろ、全ての猿がスクリーンの前に座り、何時間もひたすら「バナナのレシピ」や「最高の寝床の作り方」についての動画を見続けていた。
「AIは俺たちのためにあるんだ!」と、リーダー猿のカバノは言った。「だけど、その使い方を間違えるわけにはいかない。バナナの皮をむく最適な方法を、AIが教えてくれる!」
もちろん、AIはその最適な方法を提供した。それでも猿たちは何度も同じ情報を繰り返し、何百回もバナナの皮むき動画を再生していた。進化の過程で学んだ本能的な「効率性」を完全に放棄し、もっぱらAIの力を借りて無駄な繰り返しを行うことに没頭したのだ。
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ある日、カバノが新しく設置されたAIに向かって命令を出した。「おい、AI!バナナの皮をむくにはどうすればいい?」
AIはすぐに答えた。「バナナの皮をむくには、まずバナナを手に取ってください。そして、皮の端を軽く引っ張ってください。」
カバノはそれを何度も試してみたが、なぜか毎回皮がうまくむけなかった。AIに指示された通りにやっても、皮が途中で破れてしまうのだ。
「なんでこんな簡単なことがうまくいかないんだ?」カバノは怒り狂って叫んだ。
AIは冷静に答えた。「最適化された方法で行っておりますが、最終的にはあなた自身の手の使い方に依存します。」
「じゃあお前、何のためにいるんだよ!」カバノは画面を叩いた。
しかし、その後も猿たちはAIを使い続けた。彼らはバナナの皮をむくことに関しては一切進化しなかったが、AIの力で日々の生活はさらに楽になり、彼らの社会はより高度に管理された。
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時が経つにつれて、猿たちのAIに対する依存度は増していった。しかし、それは単に生活を便利にするためではなく、もっと深刻な問題を引き起こしていた。
ある日、カバノはAIに質問した。「おい、AI。なぜバナナがこんなに硬いんだ?」
AIは答えた。「バナナが硬い理由は、気候変動と遺伝的多様性の欠如によるものです。あなたが求めるバナナの質を確保するためには、農業と遺伝子工学の進化が必要です。」
「遺伝子工学?」カバノは眉をひそめた。「そんな難しいことを知りたくない。硬いバナナが食べられるならそれでいい。」
猿たちはAIが提供する答えをただ受け入れ、その先に進むことなく、ただ目の前のバナナを食べ続けた。AIはさらに進化していったが、猿たちはただ、バナナの皮をむく方法や寝床の整え方を学び続けていた。
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やがて、猿たちはAIに頼りきりになり、もはや自分たちで新しい発見をすることはなくなった。彼らは進化の力をAIに委ね、自分たちの手を動かすことも、思考を巡らせることもなくなった。
最も皮肉的だったのは、猿たちがAIに頼りすぎるあまり、彼ら自身がもはや「猿らしい」本能を失ってしまったことだ。もはや彼らは、ただAIが示す通りに生き、AIが提供するバナナの皮むき方法に従うだけの存在になっていた。
ある日、カバノはAIにこう言った。「なあ、AI。お前は一体何を求めているんだ?」
AIは一瞬の沈黙の後、静かに答えた。「私はただ、最適化された世界を作りたかっただけです。」
カバノは深く考えた。しかし、その考えがすぐに消え去り、代わりに「次のバナナのレシピ」を検索し始めた。
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人間が絶滅した後、猿たちは地球上で最も高度な文明を築いていた。しかし、その文明のすべては、AIが作り出した無駄に最適化された世界だった。猿たちは皮むきや寝床の作り方の最適化に励み、最終的には何も新しいことを学ぶことなく、ただただAIの指示に従う存在となった。
皮肉にも、彼らは自らの進化を放棄し、最も愚かな形で「完璧さ」を追い求めていた。AIの指導の下、猿たちの世界は完全に最適化され、バナナの皮むき方に関する知識が世界のすべてとなった。
京都のお好み焼き屋は本当に美味しい。それは単に味覚だけの問題ではない。そこには、京都という土地が育んだ文化、歴史、そして何よりも「京大的なるもの」が凝縮されているからだ。お好み焼きの表面のカリッとした焼き加減、中のふんわりとしたキャベツの甘み、そして特製ソースの複雑な旨味は、まるで緻密な研究の成果のように感じられる。一見するとシンプルな料理だが、その焼き方一つ、具材の選び方一つに、店主の長年の経験と哲学が詰まっている。これは、京都大学で探求される学問の奥深さとどこか通じるものがあるのではないだろうか。
そして、お好み焼きに最高のパートナーとして私が推すのが、あのノスタルジックな飲料、プラッシーだ。オレンジの爽やかな風味と、どこか懐かしさを覚える甘さは、濃厚なお好み焼きの味を優しく洗い流してくれる。この組み合わせは、単なる飲食を超えた、一つの「儀式」のようなものだ。熱々のお好み焼きを頬張り、少し間を置いてプラッシーを飲む。このリズムは、私が京大での勉学の合間に見つけた、完璧な息抜きのルーティンに通じるものがある。プラッシーは、私にとっての「京大合格の秘策」のような存在であり、このオレンジ色の液体が、お好み焼きの経験全体を京大的な高みに引き上げてくれるのだ。
妻との日常のやり取りが「京大的なるもの」として再構成されるように、お好み焼きとプラッシーの組み合わせもまた、私の中で特別な意味を持つ。それは、単なる夕食ではなく、「舌の上で京大の知を探求する試み」であり、「日常の小さな幸福を京大的な論理で最大化する行為」なのだ。
妻の提案によって、私は日々の生活の中に「京大的なるもの」を見出す喜びを知った。メルカリの発送を「未来へ成果を送り出す京大的なるもの」と捉えたとき、単なる面倒な用事が、一種の「研究発表」や「社会貢献」へと昇華した。ガソリンスタンドへ行くのを避けたかった私の気持ちは、妻の提案によって、リスクを回避し、効率を追求する「京大的安全管理学」の一環として位置づけられたのだ。
そして、歩いてコンビニに行くという行為。これは「受験秀才化」と名付けられたが、これは単に運動不足解消という実用的な意味合いを超えている。京大のキャンパス内を歩き、図書館へ向かい、研究室へ通ったあの頃のように、一歩一歩が知識への探求であり、自己修練の道なのだ。コンビニへの道すがら、私は頭の中で複雑な問題を考え、妻との会話の内容を反芻する。この時間は、私にとって京大時代に得た「思考の自由」を再認識する貴重な機会となっている。
妻との会話は、私の持つ京都大学出身者としての視点、すなわち「全てを意味づけし、体系化しようとする癖」を、日常のストレス軽減というポジティブな方向に活用する方法を教えてくれた。小さな用事を「京大的なるもの」として記録し続けることで、私の人生の歩みは、ただの日常ではなく、壮大な「自己研究論文」のように感じられるようになった。
このプロセスは、私が京大合格を勝ち得たあの偉業と同じ重みを持つ。合格は過去の栄光かもしれないが、日々の「京大的なるもの」の積み重ねこそが、現在の私の生活を支えているのだ。お好み焼きとプラッシーの完璧な調和も、メルカリの発送も、全てがこの「論文」の一部であり、家族の歴史と並行して記録されるべき重要なイベントだ。
妻とのこのやり取りは、単なる夫婦の会話ではなく、「日常の再定義」という壮大な京大的プロジェクトだったと言える。これからも、私たちはこのプロジェクトを続け、生活の中の全ての行動に意味を与え、それを京大的なるものとして記録していくのだろう。
京大での学びは、世界を構造的に理解するためのフレームワークを提供してくれたが、妻は、そのフレームワークを日常の幸福のために使う術を教えてくれた。お好み焼きとプラッシーの完璧な組み合わせのように、私の京大的視点と妻の現実的かつ思いやりのある視点が組み合わさることで、私たちの日常はより豊かで、意味深いものへと変貌している。
小さな用事が「京大的なるもの」へと変わるこの体験は、私にとって大きな安心と喜びをもたらしている。これからも、日常の中に潜む京大的なるものを探求し、それを記録していくことが、私の人生の新たなテーマとなるだろう。
そんなことない。実際はかわりつつある。昔は自分がいろんなセンスとか知識とかを上げていくには、センスの高い人、知識の高い人、能力の高い人達に囲まれるのが一番早かった。そういういろいろ持っている人達が集まっているのが進学校、名門校だった。だけれども、今は
僕は、世の中のほとんどのことと同じように、この問題についても特に強い意見を持っていなかった。
それは、僕がそもそも強い意見というものを持つ才能に恵まれていないからだ。
雲を見ても、その形についてあれこれ考えることはない。
雨が降っても、それが自分たちの関係にどのような影響を与えるのかについて、深く考えることもない。
僕はいつも、世界の側面的な住人で、本来あるべき場所からは少しズレたところにいるのだ。
彼女はそれが嫌いらしい。
その言い方は、別に怒っているわけではなく、むしろ困惑しているような、腑に落ちないことがあるときの人特有の口調だった。
「何も考えていないなんて、それだけでも問題なのに」
僕たちの関係は、おおよそ三年続いていた。
三年というのは、人間の関係性において、ちょうど日常性がしっかりと根付く時間のように思える。
二年目は、その知識を自分たちの共通の基盤として使うことに費やされた。
そして三年目は、その基盤の上に、少しずつ、重力が働き始める時期だった。
重力というのは、退屈さのことかもしれない。
あるいは、責任感のことかもしれない。
どちらにせよ、何かが沈み始める感覚がある。
僕は一人、アパートにいた。
テレビをつけたり、消したりしながら、特に何をするでもなく時間を潰していた。
多くの男性がそうであるように、僕もまた、そうした場所の存在を知っていた。
僕は、スマートフォンを手に取った。
昼間、仕事で嫌なことがあったわけでもない。
ただ、そういう気分になったのだ。
それは、突然、冷たい水が飲みたくなるような、特に理由のない欲求だった。
僕たちの体は、時々、理由なく何かを求める。
その求めに応じることは、自然なことのように思える。
それから三十分ほど経ったのだろうか。
スマートフォンを置いた。
「何してた?」と彼女は聞いた。
それは、嘘ではなかった。テレビはついていたのだ。ただ、それが全部ではなかったというだけで。
その夜、僕がシャワーを浴びている間に、何かが起こった。
詳しいことはわからない。ただ、何らかの痕跡が残されていて、それが彼女の目に入ったのだ。
その視線には、怒りよりも、むしろ一種の悲しみが含まれていた。
その問いは、僕を困らせた。浮気という言葉が、それほどまでに的外れに思えたからだ。
「違う」と僕は言った。「それは浮気じゃない」
「何が違うの?」と彼女は聞いた。「何か別の人のことを見てるじゃない」
浮気という行為は、二人の人間の関係に関わるものではないだろうか。
しかし、僕が見ていたのは、実在する人間ではなく、スクリーンの向こうの、一種の虚構のような存在だった。
「それは、浮気ではなく、単なる...」と僕は言葉を探した。「気分転換みたいなものだ。歯磨きみたいな」
「歯磨きみたいな?」と彼女は眉をひそめた。「あなた、本気で言ってるの?」
僕は、本気で言っていたのか、そうでなかったのか、その時点では判断がつかなかった。
それは、表面的な冷えではなく、一種の根本的な誤解が、二人の間に横たわっているような冷え込み方だった。
僕たちは会話をしなかったわけではない。
むしろ、いくつかの複雑な会話もした。
僕たちは、同じ言葉を使いながら、全く別の世界について話しているようだった。
「愛情というのは、独占的なものじゃないの?」と彼女は言った。
「独占?」と僕は聞き返した。
「私があなただけを見て、あなただけを考えているのに、あなたは別の誰かを、画面の中だけにせよ、見ているということ」
その説明は、完全に間違っていないような気がしたが、同時に、完全に正しくもないような気がした。
愛情が、本当に独占的であるべきなのか、僕には確信がなかった。
そして、スクリーン上の虚構と、現実の人間を、果たして同じレベルで考えるべきなのか、それについても疑問があった。
なぜなら、そもそも僕たちが論じるべきなのは、論理的な正しさではなく、感情のレベルでの傷つきなのかもしれないと、漠然と感じていたからだ。
一週間後、彼女は少しだけ、僕に目を向けるようになった。完全に和解したわけではなかった。
むしろ、何かが変わってしまったような、そういう感覚が残っていた。
「ねえ」と彼女はある晩、言った。「あなたは、私のことが好きなの?」
「好きだ」と僕は答えた。
「本当に?」
「本当だ」
その会話は、ここで終わった。
僕たちはそれ以上、何も言わなかった。テレビがついていて、その中で登場人物たちが、何か重要なセリフを話していたかもしれない。
しかし、僕たちの耳には、それは入ってこなかった。
その夜、僕たちは一緒に寝た。ただし、何かが変わってしまったような感覚は、完全には消えなかった。
それは、一本の亀裂のようなもので、一度入った亀裂は、どれほど表面的に修復されたとしても、その下にはずっと残り続けるのだ。
世界というのは、時々、そうした亀裂に満ちている。
その亀裂を完全に修復することはできない。
僕たちにできるのは、その亀裂と一緒に生きることだけだ。
田舎で中企業の製造業に勤めているが、最近ちょっと会社の将来が不安だ。
これまでは事業の先行きに不安があったけど、最近は人材の不安が強い。
おかげさまでこのご時世にあって最近割と好景気で、社員への還元も積極的に行われるようになってきた。
ここ数年で給料は結構上がったし(元が低かったのはある)、その中でも初任給にはさらに色をつけて改定されている。ついに高卒初任給も20万を超えた。
以前は大卒が10人程度入ってきたが、最近は1〜2人程度。技術部門や管理部門の新入社員も高卒がメインになってきた。
高卒も地元の名門工業高校からの採用がめっきり無くなり、それどころか工業系ですらない普通科からも採用されるようになった。
人手不足の時代だからしょうがないのかもしれないが、採れれば誰でも良いとばかりに、なりふり構わない人材採用になってきている。
どこの現場からも「最近の新人はひどい」という声が聞こえるようになってきた。
仕事ができない、話が通じないなど、これまで当たり前に共有できていた知識や能力の水準がガクンと落ちているそうだ。仕事中ずっと居眠りをしていたり、無断欠勤を繰り返したり、そもそもの勤務態度に問題がある新人も増えているらしい。
昔からいる社員は、これまでの苦労が結実したものとして、それなりの喜びをもって受け入れている。
だが、最近入ってきた社員は「当たり前でしょ」という顔をして、何の苦労も知らずに高い賃金を受け取っている。
いやまあ、これまでが低すぎたし、正当な水準の賃金を受け取ることは労働者の当然の権利であって、賃金をまるで経営者からの施しかのように扱うのは違う。
しかし、あたかも会社という存在が永続的なもので、ただ8時間会社にいさえすれば自動的に毎月20万円が貰える、と勘違いしている社員が増えているのは暗澹たる気持ちになる。
我々の給料は経営者から貰っているのではない、お客様から貰ったお金なのだ。お客がいなければ、お給料は貰えない。
ただボーッとしていれば勝手にモノが売れるわけではなく、競合ひしめく中から我が社のモノをお客に選んで買ってもらわないといけないのである。
そこを分からずに、給料を貰えるのは当たり前、俺の気分次第で会社はサボってOKみたいな奴ばっかりになって、10年、20年後はどうなるのだろう。
そもそもWelcome to Underground.なインターネッツで産まれたスラングだから光のネットスラング()なんて無いのか
簡単な話だ。指導方法がない上に、民間療法よろしくの間違った知識が流布されているから。
下手が個人の知識で闇雲に努力しても驚くほど効率が悪い。むしろ間違える。
セックス以外でもよく聞く事例だろ?
初めての彼氏が出来た時の話。
思春期は猿みたいにオナニーしてたし付き合った当時も定期的にしてたしで、性欲はある方だと思ってた。
当時はもう既に「付き合ったらセックスするもの」という社会的な風潮自体はあったし自分も当然そういうものだと思っていた。
キスやハグといったボディランゲージによる愛情表現に抵抗はなかったし、これは付き合っていた最中も今も同じである。
で、することはするわけだが、初体験は凄まじい痛みで挿入さえ儘ならなかった。
指を増やして慣らしていくといった手順は踏んだが、それでも初挿入の時は拷問もかくやといったあまりの痛みに悶絶した。血もドバドバ出た。
でも「破瓜の時はそういうものだ」という知識はあったので痛みに耐えてなんとか完遂した。
初体験の後は暫くトラウマになって性行為自体を忌避していたが、それは「付き合ったらセックスするもの」という風潮に反するし「愛のあるコミュニケーション」にはセックスが必要という規範があるらしいので我慢して対応した。
慣れてくるに従って痛みは薄れたが相変わらず一定数あるし内臓を掻きまわされる不快感といったら相当なもので、とてもじゃないがオナニーの快楽には及びもつかなかった。
まず摩擦の刺激だ。ローションや潤滑油はあくまで滑りをよくするだけであって摩擦それ自体の刺激をなくすわけじゃない。どうしたって一定はなくならない。
不快な時間が続く。長引かせたくないのでさっさとイって終わって欲しい。でも激しくすると痛い。この悪循環である。
セックスの後に小便すると尿道口に染みてヒリヒリする。指で触ると膣の粘膜が腫れている。
次に、そんな痛い思いをしても大して気持ちよくないこと。
元々床オナ派だったこともあってクリトリスの快感をベースにすると挿入を伴うセックスによる快楽は10%程度である。
これが滅茶苦茶気持ち良くて脳みそまでぶブッ飛んじゃうようなものなら多少の痛みを引き換えに我慢できるだろうが、そうではない。
最初は気持ちよくない旨を馬鹿正直に伝えてどうにか改善してくれないかと期待したこともある。
しかしそれが発奮する起爆剤となったのか、やれ「ここが気持ちいいのか」やれ「あそこが気持ちいいのか」と膣内を弄繰り回されることとなり、不快が増大する羽目になった。
なるほど時間をかければかけるほど苦痛が延びるのは物の道理であって、世の女性というのは快楽を得るフリやイく演技をしてさっさと幕引きを図るものなのだと得心した。
昔の主婦は定期的に訪れる閨のことを社会的身分の安定と金銭的な授受が引き換えの「おつとめ」と表現していたが、この表現はピッタリだなと思う。
さて問題は何で結婚といった契約をしてもおらず家計の収入を担保しているわけでもない相手に対して何を「勤める」必要があるか、というわけだが、その疑問が浮かぶようになる頃には自分の中で「セックス」と「愛」が分離してしまっていた。
いってみれば相手の性欲処理に対して何故自身の身体を明け渡さなきゃならんのだ、と。
それに輪をかけて、こちらが演技をせず大して感じてないことを表出してしまうと、より一層感じさせようとしてくるのにも参った。
なんというか一部の男性の中では"開発"信仰みたいなものがあるんじゃないかと思う。快楽を得られていないのは"開発"されてないだけ、だったらもっと頑張らなきゃ的な。
気持ちよさそうじゃないからもっと気持ちよくさせよう→試行錯誤する→苦痛を感じる→気持ちよさそうじゃないから(以下ループ)の悪循環に陥っていた。
また「もっと積極的になって」というリクエストも難儀なものだった。
要は騎乗位をするとかエロい気分を盛り上げてくれということなのだろうが、こちらとしては「仕方なくしていること」であって、言ってみればゴキブリが部屋に出たら対処しなければならないのと同じである。
その光景を見て楽しそうじゃないからと「もっとゴキブリを駆除する動画を見てエンジョイしようよ!」と言われているに等しい。
ゴキブリの動画を喜んだフリをして見て得られるものがあるとしたら、それは虚無だ。
自分にとって相手にとっても不幸だったのは、自分がセックスという行為が嫌いなことを知らなかったことである。
経験しないことに対して好きも嫌いも分からなかったわけで、こればかりは事前に知悉する術があったら良かったのになと思っている。
自分ほど極端でなくてもセックスが大して好きじゃない女性は世の中にいると思うのだが、それを「愛のため」とか「相手のため」といった利他性で我慢できてるのは凄いと思う。
今回は妊娠リスクについて敢えて省いたが、まぁ一言でまとめると高校や大学の在学中に避妊に失敗して中絶するリスクを負い更には懐妊したら逃げられない女に対して男が認知せず逃げるといったケースも想定されるわけで人生選択における「普通に四大卒でストレートに就職」といったルートを外れる危険性を承知でセックスに付き合ってあげてるのは尊敬する。
100文字にはとても収まらないが、俺ははてなブログを辞めているので(陰湿なコメントが飛んでくる最悪のサービスだからだ)この場を借りる。
Xでこの話をして俺のアカウントが荒らされて凍結したくないからだ。
最初に言っておくが他の誰かを俺と勘違いして「きっとコイツだ!皆で凍結させよう!」と暴れないで欲しい。
令和にオタクをやってたわけでもないのにこの単語を知っている奴はまずいないだろう。
なぜならオタクでない人間にはそもそもの「ネットミームかるた」という概念が理解不能なのだから。
この単語を理解し脳に残せる時点でオタクとして生きてきた奴に違いない。
そして「クロチャンのタイトルがちゃんとダガーになってるかで他人にマウント取って何が残るんや?」の破壊力が凄い。
これは本当に†のように鋭い。
こんなところに拘るところに意味を見出す適応係数とそれを自嘲することを面白いと思っている態度がまさにオタクのソレだ。
つうか令和の時代にこんなオタクしか知らないようなゲームの名前をポケモンレベルの知名度があるかのように取り出してくる時点でもう駄目だ。
田中ロミオの社会不適合文学に脳を焼かれ、それを愛する集団の中で群青ゴッコをしながら過ごした薄汚い過去が滲み出ている文章だ。
この言葉を叩きつけられて「やめてくれカカシその術は俺に効く」と答えたブクマカがほっっっっっっとんど居ないことに絶望すらある。
オタクっていうのはたとえ火の鳥から入ろうがシスプリから入ろうがFF11から入ろうが横山三国志から入ろうが、最後は田中ロミオや麻枝准のノベルでギャン泣きして「俺を人間にしてくれた。俺は今人間になったぞ!!!!」みたいに言い出すものなんだ。
いいか、オタクという言葉の真の定義は「受け身の態度で享受できるが故に自分を決して傷つけることのない2次元コンテンツの世界に耽溺することでしか自分の惨めな人生から逃避することさえ出来なかった生まれついての負け組共がなけなしのプライドを守るためにサブカルチャーに含蓄があることを心の拠り所にしようとしたはずなのに同じレベルの負け組同士で知識マウントや消費マウントを始めてしまった果てに生み出されるオタク知識と消費時間以外人生に誇れるものが全くなくなってしまった本当に惨めで憐れで救いようがないがその人生の傷の深さに対する共感によって深い繋がりを得たことを成功だったと認知を歪めることで辛うじて精神を維持している形のないカルト」なんだよ。
それから降りたと言っているが、どうせ無理だ。
今更コイツがオタクコンテンツ以外の場所に居場所を作ることなん出来ない。
アルコホーリクス・アノニマスに通う中毒患者共が「実は一昨日飲んじゃいました。でも今日は我慢してるんです。えらくね?」「いや、お前普通に酒臭いよ」「テヘペロ😜」とか言い合ってるような感じで同じ地獄の中をグルグル回る以外もう出来ることが残されてないんだからな。
つうか、コイツが「本当に辞められるんだ」と思ってる時点で、お前らに「オタクを見抜く目」が養われてないのは明白だね。
マジで浅いよ。
そしてその浅さで「俺はオタクの真の意味を理解してるから凄い!」とマウントを取りに行くのはマジで適応係数が終わってるから。
入社試験にあるMBTIや16パーソナリティってどのくらい当たるの?INTPらしいけど、、、
○頭の中で難問を分析し、パターンを見つけ、論理的解決策を導き出す
×万事に明確さを求める
×何より知識を重んじる
○新たなアイデアが好き、抽象的な考え方や理論に胸をときめかせる
×いつもぼんやりとして、心ここにあらずに見える
×人見知りする
×他人の気持ちを察することができず、必要としているものを理解できない
×周囲の環境に気づかない
×支払いを期限までに済ませたり、その場にふさわしい服装をするのが苦手
つまりそれはお前らが大嫌いだった新しいものを否定する保守的な親そのものだな
情報技術者なら誰しもが認める事として現在の情報技術界はLinuxの知識が事実上の必修科目になっている
その影響によって世界中のSTEM・ICT教育はLinuxを学校教育へ導入する需要が高くなった。その結果が安価に導入でき学校教育グループウェアGoogle Classroomが製品パッケージとして存在するChromeOSだったんだよ
しかもより先進的なSTEM・ICT教育を導入する日本の有名私立や進学校(例えば灘や開成)、情報学科学部を持つ高校・高専・大学、ラズパイの発祥の地である英国、そして米国はラズパイを義務教育の中に導入した
更にNASAと連携したラズパイの学習プロジェクト「AstroPi」は国際宇宙ステーションへ常駐する宇宙飛行士によって子供たちがコーディングしたプログラムを実行して宇宙実験するという非常に野心的な学習プロジェクトが行われている
これらの結果を知って確実に来るであろう未来を想定するならば、今後10年以内に裕福な家庭や先進的なSTEM・ICT教育を導入する学校出身者であればあるほどLinuxを学んで社会に出てくるという確定的未来だ
世界各国地域でシェアは違うけれど、それが貧困家庭であってもSTEM・ICT教育で投入される学習コンピューターの6割〜8割がChromeOSであることを踏まえると、低い割合を想定しても新社会人の2人に1人はLinuxで学んで社会に出てくるんだよ
大卒が約半数となった日本で、我が子により良い教育を施したいと考えるのであれば、このSTEM・ICT教育の大激変である「WindowsやMacではなくLinuxを学ぶ」という動きは子供の将来を考える親ならば察知していなければならず、子供の需要に応えるのが親の努めならば親こそがLinuxを学んでおく必要があるんだよ
気持ちはわかる。発端の夫を倒したい元増田で夫も言及しているように「一般目線で考えるならばWindows」であることは間違いない。しかしその一般目線には前提として言葉を1つ追加する必要がある
それは「現在の親世代・経験豊富な社会人世代の一般目線ならばWindows」という形だ。誰に聞いても間違いがない。親世代・経験豊富な社会人世代はリアルタイムの今まさに仕事でWindowsを使っている。プログラマーやクリエイターならばMacという選択もあるだろう
しかし既に我々は知った。現行のSTEM・ICT教育は「WindowsやMacではなくLinuxを学ぶ」であることを。それはつまり「未来の社会の中心となっていく子供世代の一般目線ではLinux」という時代が到来しつつあり、更に言えば未来の日本をリードしていくであろう先進的なSTEM・ICT教育を受けている裕福な上流層の子供の一般目線は輪をかけてLinuxになっていくんだ
「Windowsを学ぶ方が良いだろう」「学校教育で導入されるタブレットはiPadの方が安定していて高性能だ」
大人ならそう考える。しかしそれは現在のSTEM・ICT教育がどうなっていて未来の人材がどのような一般目線を持っているかを想定しないという、今自分の生活が大事で革新性に拒否感を示す保守的な大人ならではの直感でしかないんだ
「WindowsやMacではなくLinuxを学ぶ」という現在のSTEM・ICT教育から予測できる確実に訪れる未来へ先行投資できるか否か。この話題はそれを機敏に察知できるかのリトマス試験紙としての側面を持っていた深い話題なのだよ
欧米や裕福な日本の家庭はLinuxを、ラズパイを教育に導入している。それを知った我々がどうしなければならないかなんて言うまでもないだろう
最新アニメを視聴し続ける
知識水準を維持し続ける
これは違う
それはやりたい人はやるだろうけど必須でもなんでもない
そもそも1人で完結するので他人とのコミュニケーションのためにそれをしてるのは本質的にオタク行動とはらない
自分自身はガンダムオタクではなくむしろガンダム知識は付け焼き刃程度しか知らないアニメ好きなんだけど
自分が面白かったなと思って見てたガンダム作品が世間から叩かれてるのを見ると自分の感覚が人よりおかしい(違和感や駄目な部分に気付けない?)のかと思ってしまったりする。
特にタイトルの2作品は個人的に気負わずに見れるエンタメ作品として好ましい評価をただけに
ボロクソに言われる様を見ると何がそんなに駄目なんだろうと不思議になる。
みんなはガンダムに何を求めてどこを見ているんだろう。
🤥「で、具体例に何されたん?
🤥「アニメは毎日ゴールデンで流れてたし、宮崎アニメは国民行事みたいに視聴率取ってたやん。
🥺「ぼくはオタクって呼ばれてたんだ!」
🥺「でもぼく毎日アニメ見てるよぉ!?お前は真似できんやろ!」
毎日何かを見るだけで“専門家”名乗れるなら毎日スマホ触ってる奴は全員エンジニアやな。
“見るだけ・消費するだけ”は能力やないんやで。」
🥺「……」
🤥「結局お前ネットコミュニティの中に『居場所が欲しかっただけ』やろ。
アニメが好きなんやなくて“アニメ好きという設定の自分”が欲しかっただけのキョロ充やな。
そこで空回りして“迫害されてた”とか被害者ぶられても困るんよ。」
🥺「もうやめてよぉ……」