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はてなキーワード:直接支配とは

2025-07-27

劉仲敬のインタビュー「劉仲敬訪談 096(2020年7月8日)」

https://anond.hatelabo.jp/20250727144129

■ 要約(簡潔版)

大英帝国の核心は本国ではなくインド帝国であり、直布羅陀~スエズインドシンガポールオーストラリア海上交通線が生命線だった。

シンガポールは東の防衛拠点だったが、その防衛あくまオーストラリアニュージーランドのための前線として機能しており、マレー半島自体捨て駒的な扱いだった。

1941年日本シンガポールが陥落したことで、大英帝国東方から完全に後退。オーストラリアニュージーランド防衛アメリカに移り、以後は「アングロ・サクソンの米豪連携体制」へと移行。

それでもインド帝国を守れたことで、大英帝国「コア」を保持できた。これは張伯倫の「地中海防衛優先戦略」の成果。

帝国拡張は当初、自由貿易と最低限の支配で成立していた(1815年がピーク)。しかし、19世紀末以降、他の帝国(独仏露)との勢力いから、コスト高の直接支配へと転換し衰退が始まる。

インド以東の領土シンガポールなど)は、実は英国にとって「コスト過多の義務」でしかなかった。その放棄は、むしろ帝国延命につながった。

比較として、現代アメリカドイツから一部撤兵する決定も、英帝国の「戦略的収縮」と重なる――利益にならない場所から撤退するというリアリズム判断

■ 詳細ポイント

項目 内容

インド位置づけ英国にとっては「本体」であり、統治機構インドにあったことで帝国として機能

地中海重要性 英印間の交通線を守るための「命脈」。ここを守れなければ帝国存在しない。

シンガポール役割インド豪州防衛拠点であり、現地防衛意思は弱く、放棄も想定済みだった。

戦略分配の背景英国内だけでなく、インドカナダ・豪・NZとの利害調整の結果として戦略が決定されていた。

シンガポール陥落の影響豪州NZ米国依存が始まり英連邦から実質的な自立が進む契機に。

英国の「非正規帝国理論 実際の支配ではなく、貿易権益支点のみで成り立つ帝国構想(1815年頃が理想形)。

総評(劉仲敬の視点

大英帝国戦略後退は、失敗ではなく**「選択と集中」**による合理的判断

地図で大きいか重要」と考える独裁者ヒトラーなど)は戦略を誤る。

同じように現代アメリカも、無限戦線拡大をやめ、利益にならない場所から引くべきだという示唆

https://vocus.cc/article/5f0eba1ffd89780001785200

Permalink |記事への反応(0) | 14:51

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2025-07-21

カブールタリバン統治下にしてアフガニスタンでは開明的な都市の1つ

なんだかんだカブールではイスラム法優越するとはいえ文化的で開かれている

これが地方タリバン直接支配の及ばない領域に行くと、女子供人権はない

とはいえ別に虐げられているわけではなく、主に家の中で大事に飼われている

男性家長のいる公の空間にこそ姿を表さなものの、女性同士のコミュニティ存在している。

ただ居住の自由移動の自由就労もできない、そんな環境にある

いまカブールに住む人々はそうした氏族支配領域において人権のない立場の人々である

強制収容されてしま女性だったり、男性でも何かしらのハラムに抵触する人々がいる

彼らはカブールから水が失われようと行くアテがない。

アフガン国内地方はもとより南東のパキスタン国境地帯も強烈な原理主義支配するエリアである

東方中国国境を接してはいるが、数百kmの死の渓谷を踏破する必要があり難民にはとても無理だ

北方ウズベクタジク人領域パシュトゥーン人が旅するのは困難だろう

そしてカブールの近隣は意外と栄えている

タリバンもいるにはいるが独立独歩で裕福な農家が多かったり、大学のある都市もある

カブールで困窮したとしてそちらに流れても、治安が良いがために居場所がなく排除されてしま

国道を車で走っていける距離はだいたいそんな感じなので蟻地獄みたいな状況である

ここらへんがタリバン領域であれば計画的分散棄民もできたのだろうが、そうではないのだ

まあヤバいのはヤバいけど、ガザみたいに即座に死んでしまますという状況ではないのが救いであ

Permalink |記事への反応(0) | 01:08

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2023-07-19

anond:20230719010642

それよく言われるけど

要するに本社機能の集約というインフラ一極集中問題本質でしょ

そこをなんとかしないで金だけ流すって

ようするにその金を流す政治家裁量権直接支配されるってことだぞ

効率産業に場当たり的に投資されるし賃上げだって継続的に起きるわけなくないか

それより金を生むインフラ投資して市場原理で上げるのが正常でしょ

北九州なんかは半導体投資ですでに賃金が上がり始めてるし

Permalink |記事への反応(1) | 01:17

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2022-09-20

シルバー民主主義どころかシルバー直接支配されてる

10年前俺が入社した時にすでに65を過ぎていたであろう経営陣が今も全員続投してる

Permalink |記事への反応(0) | 19:04

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2022-03-05

ロシアボコられたせいで樺太中国に取られてしま

この戦争で間違いなく現在ロシアはなくなるだろう。そうなった場合中国樺太を取りに来るのではないか?と考えている。

樺太ってロシアのものだと思われているけれど、一応南樺太帰属国際法上決まっていない。

千島樺太交換条約で交換しただろうと思うかもしれないけれど、交換したのは北樺太だし、交換したのは千島列島であっていわゆる四島でもないけど(共産党支持者のはてなーはよく知っていることだろう)。

北方領土はともかく、南樺太に関しては中国自分のものだと言ったところで国際法おかしな主張ではない。

中国ロシアは仲がいいみたいに思われがちだけど、アメリカという共通の敵いるか私たちからはそう見えるだけで、シベリア中国人が勝手に入ってくるものからロシア国内シベリア移住者補助金を出して移住を促進しているし、シベリアを守るみたいな発言ロシア政治家によくみられる。

極東においてロシア中国は今までもバチバチやっていたわけ。

シベリアガス田開発も中国じゃなく、日本に声をかけていたし。

そんなロシアボコられて力を失うと、中国シベリア樺太進出するのは間違いないと思われる。

さすがにシベリア直接支配ではなく、独立させて中国傀儡国家になるとかだろう。

ただ樺太は直轄にしたいはず。

仮に、中国南樺太を取るとどうなるのだろうか。

北海道との国境がごく近くなるけれど、さすがの中国北海道への野心をむき出しにして睨みをきかせることはないだろう。

北海道がなくとも南樺太があれば太平洋にも出やすくなる。

北極海ルート拠点として樺太軍港になるかもしれない。南シナ海における牛の舌のように領海の主張を強めてくるだろうか。

そして、アメリカはそれを黙って見ているのか。

そんなはずがない。

樺太中国の手に入れば、いよいよアメリカ本土中国の野心の前にさらけ出されることになる。

今回のウクライナへの侵攻は間接的ではなく直接的に日本へ大きな影響を与える、そう考えている。

Permalink |記事への反応(2) | 21:00

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2018-02-01

anond:20180131190342

どれも言いたいことはわかるが現代においての考察しか語っていない。

いちばん重要歴史的観点が抜けている。

生理古来より「穢れ」として扱われてきた。

このために女性は常に男性より劣るものとして扱われ、神職直接支配者にもなれなかった。

※もともと体力的に男性の方が強いことな複数の要員はあるけれど。

卑弥呼がいるじゃないか!ってのもあるがこういうケースは非常にまれ

現代で培われてきたような考え方ではなく、

ソフトではあるが)忌み嫌うものとして、それこそ人間生理インプットされてると思われる。

Permalink |記事への反応(1) | 16:30

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2017-06-05

続・山川出版日本史の何がすごいのか、さっぱり分からない

http://anond.hatelabo.jp/20170604204919

これの続き。(文字数制限にひっかかったので分割します)

  

三省堂日本史B 改訂版』(日B 015)

1183(寿永2)年、義仲軍は京都に入り、食糧不足もあって狼藉を続けた。京都にとどまった後白河法皇後鳥羽天皇即位させ、寿永二年の宣旨頼朝東国での支配権を認めるとともに、義仲軍の乱暴ぶりを口実にして頼朝上京要請するなど、政治力の強化につとめた。しかし、頼朝東国支配を固めるために鎌倉を動かず、かわりに弟の範頼・義経上京し、1184(元暦元)年、二人は義仲を打ち破った。

義仲が京都乱暴狼藉を働いたという記述があるのは、意外にもこの教科書だけでした。

兵糧不足のまま進撃して首都占領しても、どうせ軍規が乱れて略奪しまくるぞというのは、日中戦争における南京事件南京大虐殺)のことを言いたいのかなと思いましたが、それは深読みのしすぎかもしれませんね。どうなんでしょう?

  

また、これは下記の引用部分になりますが、頼朝が初めて上京したタイミングがいつだったかを明記しているのは、この教科書だけだと思います

(この点はとりわけ山川の『詳説日本史』が最悪です。頼朝西国での平家追討の仕事をすべて弟の範頼・義経らにやらせ自分はその間ずっと鎌倉にひきこもって地盤を固めていたという基本的事項すらも把握できない書き方がされているんです。)

頼朝挙兵以来、北条氏三浦氏などの東国武士たちと主従関係を結んで、彼らを御家人として組織した。そして1180(治承4)年、御家人の統率と軍事警察担当する侍所を設けて、有力御家人和田義盛別当長官)に据えた。さらに1184(元暦元)年、一般政務をつかさどる公文所(のち政所)と問注所を開設し、実務に優れた下級官人らを側近にして職務を分担させるなど、支配機構の整備を進めた。

頼朝後白河法皇要請を受け、範頼と義経平家追討を命じ、1185(文治元)年、長門壇ノ浦平氏を滅亡させた。後白河法皇頼朝権力拡大を恐れて義経を重用し、頼朝の追討を命じたが失敗した。逆に頼朝は、親鎌倉派の公卿九条兼実藤原兼実)らを朝廷重要政務担当する議奏につかせ、反鎌倉派の貴族追放し、義経の捜索を名目に国ごとに地頭を置くことを認めさせた。さらに1189(文治5)年、頼朝義経をかくまったことを口実に藤原秀衡の子の泰衡を攻め、奥州藤原氏を滅ぼした。こうして頼朝東国西国の多数の武士御家人として組織しながら、主に東国支配確立していった。

1190(建久元)年、頼朝挙兵後はじめて京都に入り、右近大将に任命され、後白河法皇没後の1192(建久3)年には、法皇の反対で就任できなかった征夷大将軍に任命され、名実ともに鎌倉幕府が成立した。」

当然ながら『詳説日本史』にも、侍所政所問注所地頭というキーワードは出てきますしかし、治承・寿永の乱とは別項に記述されているため、時系列が分かりづらくなっています

それに比べて、この教科書歴史の流れの中にキーワードを配置しています。だから時系列に即してこれらの言葉意味理解することができるはずです。

  

結びが「名実ともに鎌倉幕府が成立した」という記述になっているのも、味わい深いです。

鎌倉幕府の成立が何年かという論争を垣間見ることができます名目的には1192年に幕府が成立したと言えるが、実質的にはそれ以前から幕府政治機構ができあがっていたというニュアンスを含ませているのでしょう。

  

  

  

あとは、上記引用中の「義経の捜索を名目に国ごとに地頭を置くことを認めさせた」という記述が最高にクールです。

一般には1185年、義経の捜索を名目にして守護地頭が設置されたとされていますし、国ごとに置かれた役職地頭ではなく守護だと暗記している人が多いんじゃないでしょうか?

例えば山川の『詳説日本史』はそうなっています。それによると、頼朝は1185年に「諸国には守護を、荘園公領には地頭を任命する権利」を獲得したとされています守護は「おもに東国出身の有力御家人から選ばれて「原則として各国に一人ずつ」任命され、「大犯三箇条などの職務を任とし」て国内御家人を指揮統率し、とくに東国では在庁官人支配することで「地方行政官としての役割も果たし」ました。いっぽう、地頭は「御家人のなかから任命され、任務年貢徴収・納入と土地官吏および治安維持」です。「頼朝は主人として御家人に対し、おもに地頭に任命することによって先祖伝来の所領の支配保障したり(本領安堵)、新たな領地を与えたりした(新恩給与)」わけですが、このことが御恩と奉公関係となって封建制度の基礎となりました。

  

ところが、三省堂の『日本史B 改訂版』(日B 015)によると、ここの説明がこれとまったく異なります。私が先に引用した項では、1185年の出来事として守護の設置には言及せず、地頭の設置だけが記述されていますしかもその"地頭"は国ごとに置かれたものだとされているのです。

私は最初にこれを読んだとき、わけがからなくて混乱しました。それでがんばって自力で調べてみて(独学なので苦労したナァ)ようやく理解できたのですが、1185年の文治の勅許守護地頭が置かれたとする『吾妻鏡』の記述には疑いがあり、実はこれがかつて学者の間でも論争になったテーマだったらしいのです。

1960年石母田正が新説を発表したのですが、おおざっぱに言うと、新説では、この時点で置かれたもの守護地頭ではなく、地頭(国地頭)だったとしています。それはわれわれが普通一般に知っている地頭(荘郷地頭)とは異なり、一国を統括する強大な権限を持つ存在です。この国地頭はすぐに廃止され消滅しましたが、守護前身となりました。

三省堂教科書は、次項でそのことが説明されています頼朝がはじめは国ごとに"地頭"を派遣して荘園国衙領のいずれからも兵糧米を徴収させていたこと、そのやり方がひどすぎたから反発を招いて、以後は"地頭"に代わるものとして守護を置いた、という記述になっています。またこれに続いて、頼朝は「荘郷地頭と呼ばれる地頭を任命し」、平氏没官領や謀反人の所領跡で「年貢公事徴収治安維持に当たらせた」としています

このように、三省堂教科書では、「国地頭」と「荘郷地頭」をはっきりと区別しているのです。

  

実教出版もこの新説を採用していますこちらも合わせて読んでおくと、国地頭のことが大変よく分かります東京出版は本文の記述が旧説に拠っていますけど、欄外では国地頭が惣追捕使とならび、守護前身として存在していた話をちょこっと説明しています。これらの教科書は「国地頭」論争の成果を取り入れており、学問的に誠実だと思います

それに対して山川の『詳説日本史』は旧説を採用し、1185年に守護地頭の設置が認められたとする断定的な記述になっています。これが他の教科書とのあいだに無用矛盾を生じさせているのです。私と同じようにこの点につまづいて、困惑してしまった高校生が少なからずいるんじゃないでしょうか。

  

なお、山川参考書『詳説日本史研究』にもこの新説の紹介はありません。同社『日本史B用語集』には「国地頭」という用語掲載されていて、そこでは一応説明がされているんですが、あたかも国地頭が荘郷地頭前身だったと思わせるような記述です。

地頭(じとう)⑪:1185年、頼朝要請後白河法皇諸国公領荘園地頭を設置することを認めた。当初は1国単位荘園公領支配する国地頭を設置したが、まもなく平家一族の所領として没収された平家没官領と謀反人跡地に限定した荘郷地頭となった。しかし、公家寺社の強い反対で、一時縮小、承久の乱後に全国化した。任務土地管理年貢・兵糧米の徴収治安維持など。

地頭⑤ 荘郷地頭

  

山川出版日本史B用語集』より

ですが三省堂実教出版東京書籍の教科書によると、国地頭はむしろ守護へと発展的解消を遂げたという記述なんですから、『日本史B用語集』のこの説明とはやはり若干の矛盾が生じています

「国地頭」を教科書に載せている上記の主要3社の文脈に従うなら、この用語独立の項目として取り扱うか、せめて「地頭」の項目じゃなく「守護」の項目にいれて取り扱うべきじゃないでしょうか。

  

(追記 これはインターネット上の情報なので私は未確認ですが、現在は『詳説日本史』にも国地頭掲載されているそうです。近年改訂されたんでしょうか。

予防線を張っておくと、私は高校日本史Bを履修しなかったし、大学理系に進みました。教科書を読んだのは興味本位にすぎません。

はじめに書いたとおり、最新版教科書を持ってません。今回はてブでバズっていてびっくりしましたが、筆者は歴史学の専門家でも何でもないことをお断りしておきます

追記id:HRYKtbykさん、確認をしてくださり感謝です。)

  

  

  

追記

複数教科書を読み比べすることで、『詳説日本史』を読むだけでは見えないポイントが浮かび上がってきます

『詳説日本史』では、前九年合戦後三年合戦のところで、「これらの戦いを通じて源氏東国武士団との主従関係を強め、武家棟梁としての地位を固めていった」とあります。これが後の頼朝挙兵につながるわけですが、それは時代を経てからのことだから教科書のページが離れすぎていて、この関連が把握しづらくなっています

ここで例えば山川出版社『新日本史B 改訂版』(日B 018)のような他の教科書と読み比べてみると、『詳説日本史』がこの簡潔な一文を通して伝えたかたことを理解することができるのです。(上述参照)

  

つぎは例えば、貫高制・石高制を見てみましょう。

『詳説日本史』によると、戦国大名性格は次のように説明されています戦国大名は「新たに征服した土地などで検地をしばしばおこなっ」て、それにより「農民に対する直接支配」を強化しました。そして国人地侍を取り込むため、貫高制を導入しました。これは戦国大名が彼らを「貫高という基準統一的に把握」して軍役を課す制度でした。それでここからすこし時代下り、別のページで豊臣秀吉太閤検地説明しています太閤検地により石高制が確立しました。それは「荘園制のもとで一つの土地に何人もの権利が重なりあっていた状態を整理」し、「一地一作人」を原則とするものです。農民は「自分田畑所有権を法的に認められることになった」わけです。

このような記述だけでも表層的な理解はできると思いますが、実教出版日本史B 新訂版』(日B 014)は、貫高制について「荘園の複雑な土地制度は貫高に組み込まれ大名統一的な国内政治を推進」するものとしています。『詳説日本史』ではせいぜい石高制と荘園制の関係しかからないでしょうが、本書はこのように貫高制と荘園制の関係を明示しているのです。

この視点を最もわかりやす記述しているのが、三省堂日本史B 改訂版』(日B 015)です。本書は貫高制、石高制、荘園制の全部を一つの項目に入れて記述しています。それによると、秀吉太閤検地を行い、「戦国大名の貫高制にかわって、それを発展させて全国に広げた石高制」を導入、その結果「荘園制を完全に崩壊させ」ました。このポイントを把握しておけば、中世から近世への社会の変化を、土地一元的支配確立荘園制の衰退・消滅という視点で見ることができます。本書の特徴は、貫高制・石高制をともにこの視点から語っていることと、しかもそれが荘園制を「完全に崩壊させ」たと言い切っていることです。

ちなみに、東京書籍『日本史B』(日B 004)では、石高制を「近世封建制体制原理」と書いています。これがまったく新しい制度であることを強調しつつ、近世という言葉を使ってその射程を江戸時代にまで広げているのです。)

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