
はてなキーワード:発話行為とは
「なんか面白いこと言って」という発話を語用論的に分析するには、文の表面的な意味(直示的意味)と、話し手の意図や文脈によって推論される意味(含意・発話行為・会話の含意)を分けて考える必要があります。
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1. 直示的意味(literal meaning)
• 文の表面上の意味は、「何か面白い内容を言ってください」という依頼の命令文に近いものです。
• 「なんか」=曖昧な指示詞、「何かの」意味(カジュアル・曖昧)
• 「言って」=発話行為を求める命令形(ただし、柔らかく使われている)
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Searleの発話行為理論に基づくと、この発話は以下のように解釈できます:
•実質的には「話を盛り上げてほしい」「場を和ませてほしい」といった娯楽的または関係構築的な依頼。
•聞き手が笑う、話を続ける、話題を変える、などの効果を狙っている。
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3. 会話の含意(Conversational Implicature)
Griceの会話の公理(協調の原理)に基づくと、発話者は以下のような含意を持っている可能性があります:
• 量の公理:
•情報は足りていない(「なんか」という曖昧な言い方)→受け手に裁量を委ねている。
• 「いまここで面白いことを言うべき状況だ」と暗に伝えている。
•曖昧にして、直接的な命令を避けている(「面白いことを言ってください」ではなく「なんか…」と曖昧化)。
この含意は、しばしば冗談半分の軽い依頼であり、場の空気を読むことが求められる。
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Brown & Levinson の理論に基づけば、この発話は聞き手の負のポライトネス(freedom toact)をある程度脅かす依頼にあたるが、以下のような戦略で緩和されている:
• 「なんか」や「面白いこと」などの曖昧な語彙で距離を取ることで、親密な関係性の中で成立するカジュアルなやりとりに見せかけている。
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• 友人同士の気軽な会話なら:
• 緊張した場面で言われたら:
• →空気を和らげるための緊急依頼
• →能力を当然視している含意もあり得る(=フェイスを脅かす)
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まとめ:語用論的分析の要点
この論文が端的に示しているのは、政治的言説が**「ドッグ・ホイッスル(隠されたメッセージ)」と「ウルフ・クライ(証明できない危険の主張)」**という、本質的に証明が難しい二種類の発話行為(スピーチ・アクト)を互いに非難し合うことで、**解決不能な悪循環(弁証法)**に陥るメカニズムです。
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この論文は、**ドッグ・ホイッスリング(DW)**と**ウルフ・クライイング(WC)**といった特定の**スピーチ・アクト(発話行為)**に対する**帰属(Attribution)**が、現代の政治的言説において、どのようにして敵対的な弁証法と新たな**発散(Divergence)**を生み出し、解決不能な膠着状態に陥るのかを分析しています [1]。
この問題は、DWもWCも、その性質上、**認識論的に(知識の観点から)帰属が困難な**発話行為であることから発生します [1]。この困難さが原因で、DWやWCに対する**非難や指摘(帰属)**自体が、合理的であるにもかかわらず、**確定的に検証または反証できない**主張となってしまうのです [1]。その結果、これらの帰属のパターンは、DWとWCが相互に強化し合い、固定化する**相互的な悪循環(viciouscycle)**へと発展し、「不幸な現状(unhappystatus quo)」を築き上げます [1, 2]。
DWとWCは、政治的環境において特定の影響力を持ち、政治的言説を構成するスピーチ・アクトです [3]。スピーチ・アクトとは、話し手が直接述べた文字通りの意味(locutionary meaning)を超えて、間接的に暗示された力(illocutionary force)や、世界との相互作用において追加された力(perlocutionary force)を持つ発話の形式を指します [4]。
DWは、**論争的ではない公のメッセージ**の中に**論争的な隠されたメッセージ**を埋め込んで送るスピーチ・アクトです [5]。
WCは、**危険が実際には存在しないか、あるいは証明できない**場合に、危険が存在すると主張するスピーチ・アクトです [3]。
これらDWやWCを**「〜という発話行為である」とみなす**行為が、第二階次のスピーチ・アクトであるSAAです [7]。ドッグタウンのシナリオでは、Alphaを除いて、すべての参加者が互いにSAAを行っています [7]。SAAは、他者の行為を指摘する役割と、それ自体が新たなスピーチ・アクトであるという二重の役割を持ちます [7]。
DWとWCがこの弁証法的な問題を引き起こすのは、それらが定義上、間接的で**隠された(covert)**スピーチ・アクトであるため、**誤導的(misdirecting)**な性質を持つからです [8]。
DWは、公衆には無害なメッセージとして聞こえる一方で、特定の受け手にだけ私的なメッセージを送る、話者と受け手の**私的な意図と解釈**に依存するスピーチ・アクトです [8]。
WCは、私的に観察されたとされる危険についての公的なメッセージですが、**その主張の真偽**が外部から証明されていません [9]。
これらのスピーチ・アクトの帰属を行う人々は、証拠の一部しか得られず、全体像の一部のみを見て全体を判断する「盲人と象」のような、**認識論的に不利な立場**に置かれてしまいます [10-12]。
認識論的な困難さの結果、あるスピーチ・アクト(DWまたはWC)を非難する行為(SAA)自体が、相手からは敵対的な別の種類のスピーチ・アクトとして解釈されるという非対称性が生じます [13, 14]。
DWの帰属者(DWA「あいつはDogwhistlerだ」と指摘する人)は、隠された秘密のメッセージを証明しなければならない立場に置かれますが、DWの主体は常に自身の意図の直接的な(私的な)証拠に訴えて否定することができます [11, 15]。そのため、DWAは常に**認識論的に不利な立場**に立たされます [11]。
WCの帰属者(WCA「あいつはWolf crierだ」と指摘する人)は、クライアーの個人的な経験に反して、「狼」が存在しないことを証明しなければならない立場に置かれます [12]。WCAは、非観察者でありながら、第一人称の観察者よりも権威ある知識を持っていると主張する不利な立場に置かれます [12]。
この相互に敵対的な帰属の非対称性が、DW帰属がWCとして返され、WC帰属がDWとして返されるという**多極的な相互作用**を生み出し、**認識論的な発散(epistemic divergence)**のプロセスを構成します [18, 19]。
帰属自体がスピーチ・アクトであるため、帰属はそれ自体に再帰的に適用されます。これは**スピーチ・アクト帰属の帰属**として例示されます [20]。ドッグタウンの例では、Alpha(DW候補)→Buddy(DWA)→Charlie(WC A)→Duke(DWA)というサイクルが**無限に継続**します [2, 21]。
このプロセスは、**多極スピーチ・アクト帰属相互性**(DW帰属がWCとして、WC帰属がDWとして相互に強化し合うこと)であり、反復されることで**悪循環**となります [2, 19]。対話参加者全員が、互いの主張が共通の基盤として受け入れられないまま、**非難の応酬**を繰り返します [19]。これは、単に敵意や内集団バイアスから生じるのではなく、**相互的な認識論的な膠着状態**から生じる現象です [18]。
この悪循環が政治的言説の領域内で修辞的な規範として安定化すると、**定常状態の均衡(steady-state equilibrium)**が出現します [2]。これは、参加者が戦略を変えるインセンティブを提供しないため、持続します [2]。
最終的に、**ドッグ・ホイッスル/ウルフ・クライ帰属均衡**が形成され、誰もがデフォルトで互いをDWまたはWCのいずれかであると見なすようになります [22]。これは、相互に矛盾する信念から構成される**信念均衡(belief equilibrium)**の一種です [23]。
この均衡は、参加者が真実を追求しようとする**認識論的な美徳**から生じているにもかかわらず、以下の3つの深刻な問題を引き起こします [24, 25]。
これは、**相互に認識論的に強化し合うが、相互に認識論的に不適合な**視点のシステムです [26]。DWやWCの帰属は、合理的であるにもかかわらず**不確定**である可能性があり、この合理性と確定性の間のギャップが、相互に合理的だが相反する立場が**未解決のまま均衡**することを可能にします [26]。これにより、真実に到達するための「理想的な発話状況」の実現が不可能になり、会話の前提条件が満たされなくなります [26]。
この状態では、**スピーチ・アクトの帰属**が、**事実に関する帰属**を圧倒します [27]。政治的言説の内容は、ほとんどが「あなたの言葉はDWだ」「あなたの主張はWCだ」といった帰属で占められ、事実に関する議論はわずかになります [27]。
この飽和は、最初の扇動的な事実(犬の噛みつき事件など)自体が忘れ去られたり、無関係になったり、解決されたりした後でも継続する可能性があります [28]。なぜなら、最初の出来事Aそのものよりも、「Aに関するスピーチ・アクトの疑わしさ」の方が、政治的に重要であるように見えてしまうからです [28]。帰属飽和は、事実から独立した状態となり得ます [28]。
帰属を行う者の動機が**真実の探求**であるにもかかわらず、その追求自体が、実際には真実に到達しない均衡を生み出すという点で**自己敗北的**になり得ます [25]。
DWやWCの帰属は、特定の認識論的視点から見て合理的であったり、あるいは実際に正しい場合もあります [29]。しかし、不確実性が支配的な状況でこれらの帰属を提案することは、政治的に不安定化をもたらします [29]。したがって、帰属者の真実追求的な衝動こそが、言説をこの悪い均衡の罠に陥れる原因となり得るのです [29]。
この弁証法的な問題は、相互に合理的な認識論的視点から生じる**自己組織化された社会現象**であるため、単一の加害者を特定することはできません [30]。均衡から脱出するためには、政治的コミュニティにおける参加者の**満場一致の同意**が必要ですが、これは強力な反対者によって容易に崩壊する可能性があり、困難です(「一方主義者の呪い」) [30]。
帰属の伝播を防ぐため、すべての当事者に高い検証・反証基準を課すことが提案されます [31]。しかし、誤導的なスピーチ・アクトの性質上、単純な検証や反証はできません [31]。より現実的な解決策は、スピーチ・アクト帰属の飽和を減らし、事実に関する問いを再び顕著にすることです [31]。これには、相互理解を深めるための**修辞的傾聴(rhetorical listening)**のスキルセットが必要となるかもしれません [31]。
帰属の落とし穴を認識し、増幅サイクルを抑制するために、新しい用語を導入する提案もあります [32]。
これらの新しいラベルが、過剰なSAAの力を無力化し、サイクルを終結させることが期待されますが、これらのラベル自体が新たなスピーチ・アクト帰属としてサイクルに貢献する可能性もあります [33]。
最も重要なことは、この問題を真に解決したいと望む人々は、**自分たちのスピーチ・アクト帰属自体が問題を引き起こし、構成している**という痛みを伴う自己認識を持つことです [34]。
それでこれ思い出したわ。
でも,あれは本当のところ一種の哲学の貧民窟だね.ラッセル・ウィトゲンシュタイン・フレーゲの時代にあんなゆるゆるな論理構成の本が書かれるなんて,耐えられないよ.あれでやってけるのは,相手にしてる読者が専門分野で有能な哲学者じゃないからじゃないかな.彼らは文学理論みたいな他分野の人たちに向けて話してることが多いよね.それに,哲学にはいつもこんなふうに考える一派がいるんだ,「いや,ぼくらは自分たちの専門だけを狭くやるばかりじゃいけない.こういう他のアイディアにも開かれてなきゃね」って.新しいアイディアに開かれている方がいいってのは全面的に賛成だけど,まともで高度な哲学の著作と,知的に許容できない著作との区別はしないとね.
このことは前にミシェル・フーコーに言ったことがある.デリダに対する彼 の敵対心ときたらぼくすら上回るくらいだけど,その彼が言うには,デリダは obscurantisme terroriste(テロリズム的蒙昧主義)って手法を実践してるんだって.ぼくらはフランス語で会話してたんだ.で,ぼくはこう言った,「いったい そりゃなんのこと?」 で,フーコーが言うには,「デリダはすごくあやふやな 書き方をして,何を言ってるんだかわからなくするんだ.これが「蒙昧主義」の部分.で,人がじぶんを批判すると,『あなたは私を理解していないよ.あた まがわるいね』とくる――これがテロリズムの部分だよ.」 これが気に入ってね.脱構築について文章を書いたときに,ミシェルにその発言を引用してもいいかなって訊いたら,「いいよ」って言ってくれたよ.フーコーはしょっちゅうデリダと一括りにされてた.でも,それはフーコー に対してすごくアンフェアだよ.彼は思想家としてデリダとはまるで器がちがう.
https://blueeyedson.hatenablog.com/entry/20111201/1322730931
以下が背景ね。
ジャック・デリダによるサールへの最初の攻撃は1971年行われた。サールはタイプ原稿9枚の感想を書いた。その後サールは発話行為の自然な発展的研究主題として志向性の研究に専念し、1983年『志向性』を公刊する。この書評はその直後である。デリダは、アメリカ・ディコンストラクション派の無名の雑誌「ジラフ」に、サールの感想文を引用して解体したかのような長大な文章を掲載し、1993年サールに無視され続けたデリダは「討議倫理」に関するさらなる文章をつけて『有限責任会社』を1990年公刊する。日本ではこの版のみが知られ「サール=デリダ論争」というものがあったという神話が法政大学出版局によって広められた(邦訳2003年刊、『ジョン・サールとの会話』にて詳述)。同年サールはNew YorkReview of Booksに”The StormOver the University
” 1990を掲載(未邦訳http://www.ditext.com/searle/searle1.html )。ここで『社会的現実の構成』に一部含まれるポストモダニスト批判を展開した。1990年代、社会生物学論争と「マーガレット・ミードとサモア」による文化相対主義批判の勝利、さらに1994年アラン・ソーカルによる疑似論文投稿に始まるソーカル事件が起こり、以降フランス哲学者らの理論がアメリカでフレンチ・セオリーと別称されるようになる。
この元増田の文章、独特の論理性があるのでちょっと気になって考えていたんだけど、もしかしたらこの元増田って「文の言外の意味を掴むのが苦手なタイプのマイノリティ」ではないだろうか?
「嫌い」という発話行為に伴って生じる一連の言外の意味を掴むのが苦手、という特性を元増田が持っていると仮定して文章と論理を追っていくと、書かれた文章は実はかなり論理的に一貫しているように感じる。
(「嫌い」と公言することを自然に「攻撃/差別的行為」と察するのは_この意味では_あくまで"マジョリティの感覚"とも言えるし、この元増田が「思っていることを(察しあうのではなく)公言しあう世界」を理想像とすることも容易に理解できてしまうように思う)
もしこの仮定が正しいのならば、多くのブクマカーがこの元増田に「特権を享受する差別主義者」というレッテルを貼ったのは本当に不当であるようにも思うし、暴力的ですらあったかもしれない。
いったい、事情がある人への想像力に欠けていたのは「誰」だったのだろう?
問題は規定の内容にある。「正しくマスクを着用すること」という曖昧な記述が一切の元凶や。
なんで「不織布マスクにより鼻と口を確実に覆う形で着用すること」と書かんかったんか?
その理由は明確や。つまり、疾患その他の理由で呼吸に困難のある人間を拘束し得るルールを明文化しては後のトラブルに繋がるからや。だからこそ、試験運営側は敢えてルールをボカして書いたわけや
で、結果がコレや。高々オッサンが鼻を出しとった程度で逮捕騒ぎ! この世界にはアホしかおらんのか!?
そもそもそれは運営側が日和ってどうとでも解釈できる曖昧な記述を行った所為やねん。なんでそれでオッサンだけが割を食わないかんのや!?
「いやいや鼻マスクはコロナ感染を誘発する立派な有害行為やろ」と言うやつもおるやろうが、そんなこと言うたら一切の発話行為の方がよっぽどリスクあるわ!試験官が注意のために発話する度に、不織布マスクでも防ぎ切れん30%前後の飛沫が空気中に拡散しとんねん。そっちの方がよっぽどコロナ感染のリスクを誘発するわ! だったら試験官もウイルス拡散のかどで別室送りを命じられ、拒否すれば逮捕、って流れになったとしても、「コロナのリスクを低減する」という目的の為ならば全く矛盾はないやないかい。
でも試験官は別室送りにならんし、教室中で知り合い同士集まってわんさか発話しとる高校生にも当然お咎めはない。おかしいやろがい!コロナ感染のリスクを鑑みればオッサンも試験官も高校生も皆同罪やのに、どうしてオッサンだけが失格からの逮捕されんねん!
要はホントにコロナについて真面目に考えとる奴なんておらんねん。やのにオッサン一人が失格扱いを受け、あまつさえ逮捕されるような現状を鑑みれば、運営の構造が歪やという以上に感想はないんや。
こんなしょうもない事例をきっかけで逮捕しよるようやったら、今に、一瞬でも発話しようもんなら逮捕されるような歪な社会状況になってもおかしくない。そういう社会が皆は望みなんか? 違うやろ?
>目的は大学受験じゃなくて「大学受験をする、という体でかまってもらうこと」だから。
ある言説に対し、その内容ではなくその内容が表れるに至った動機や欲望について指摘することを、メタ批評と言います。
「勉強する」ことの内容や意義や目的に対する批評じゃなくて、「勉強したい」という発話行為自体に宿る欲望を指摘することによる批評、ですね。
承認欲求とか、自己愛とか、そういった指摘はワンパターンになりがちです。
と言いますのも、このような指摘は言説のコンテントのいかんに関わらず構成可能だからです。
「勉強したい」「一千万円貯めたい」「金持ちになりたい」「恋をしたい」ー何に対しても<同型の>指摘をすることができるのです。
金持ちになりたいんじゃなくて、金持ちになりたいと言うことによって周りの人に構って欲しいんでしょ、と。
金持ちのはてなーの自意識をくすぶって、そこから承認欲求の肥やしを得たいんでしょ、と。
別言すれば、発言者がいかなる内容を語ろうと、「承認欲求」や「自己愛」に根源的原因を措定し、これに結論を回収できるんですね。
慈善活動を行おうとする者に対して「偽善である」と指摘するのと同じですね。よく流行ってたやつです。
批判対象者の行為や言説の内容はなんでもいいんです、ただ単にメタな欲望を指摘すれば当該発話者に対して、社会心理的に恥や反省意識を刻むことができるだろうという発想です。
そしてまた、「偽善である」という指摘に何も意味がないのと同様、何の意味もない言説なんですよ。
偽善とか、承認欲求とか、構って欲しいだけとか、自己愛とか、メタな欲望をさす流行り言葉をテンプレのように繰り返しておれば相手に対し優位なポジションを取れると考えているのでしょうか。
もうさんざん飽きてきたし(私がですよ)、アンビバレントメメ氏に対しても、氏は方々で同様のテンプレ批判を受けてるので、そろそろ効果がないことを自覚してください。
もうひとつ。
何に対しても指摘できるがゆえに、
逆説的にですね、
何に対して指摘をし、何に対しては指摘しないという恣意性が宿ります。
要するに、「私はあなたを気に入らない」と言っているに過ぎない、ということです。
これが、上述のテンプレメタ批判が、言説に対する内在的批判ではなく、外在的批判にしかなり得ていないと、私が主張したい理由です。
テンプレに滞留せず、
もう少し先に進みましょう。
http://anond.hatelabo.jp/20070403101744
ひとえに自信がないからだよ。
ネタにとか、表現にとかいう問題ではなく、もっと根源的な、自分というものに対する自信。
自分自身をエントリーという枠組みの中で語り、残し、晒すことへの恐怖感、嫌悪感、重圧感。
ブログをリセットするのは、長々とエントリーとして自分の声を残しておくことに耐えられないからだ。
発言した僕の声がインターネットという巨大な機械の歯車として組み込まれていくことに絶えられないからだ。
僕は現実世界でも苦悩する。
人との会話での何気ない発言を、いつまでも後悔しているんだ。
ああ、なぜ僕はあんなことを言ってしまったのだろうか、と。
それがどんな影響を与えるか知らないけれど、人の心に組み込まれ、社会全体に溶け込んでいくことへの恐怖感、嫌悪感、重圧感が僕を苦しめる。
発話主体として社会に参加していくことができない。
言葉が主体から独り立ちし、他者の物となってしまう結末も知らないで。