
はてなキーワード:病気とは
自分(またはその所属)が最強の矛か盾のどちらかを手に入れられる状況があるとしよう
どちらかを選べば、どちらかは消滅して、最低50年はその技術の開発に必要なものとする
個人でいえば、
盾:不労所得年500万×50年安定
とか
矛:すべての女性を満足させられる槍
盾:病気にならない体
とかね
国なら
矛:衛星軌道から発射される破壊特化レーザー打ち放題(自動防衛機能付き)
とかね
増田なら盾選びそうだけどみんなはどう
ぱっと見はものもらいだが、他の病気の可能性もあるため眼科に行く。
すると、まぁ、まだまだ赤ちゃんの2歳はとんでもない勢いで泣く。
顔を真っ赤にして、ケンカ中のネコみたいな濁った叫び声を張り上げて、短い手足をぶんぶん、身体はお魚みたいにびちびち。
なんとか先生の方に顔を向けてもらおうと、暴れる胴と腕、ぶん回る足と腕をプロレスみたいに絡めて姿勢を固定しようとするけどタコみたいにすぐすり抜けて大暴れ。
申し訳なさと焦りでいっぱいになりながら、何をそこまで必死になることがあるんだろう、そういえば夜泣きもこんな声だったな、と思ったら変な笑いがこぼれてきて、それから急に胸が詰まった。
あなたが顔を真っ赤にして泣く理由が、まだまだ小さい小エビみたいな指でわたしの腕に必死にしがみつく理由が、ずっとこんな平和な理由であってほしい。この先もどうか、しょうもない理由であなたが泣ける世界であってほしい。あなたが理不尽な恐ろしさや痛みで大泣きするところを、絶対に見たくない。どうすればあなたにそういう世界を残せたのだろう。
この間の選挙で、せめてこれだけは……という理由で入れた党が振るわず、この国のリーダーは変わらなかった。では、残った彼女は、その周りの大人たちは子どもが泣かないで済む世界を約束してくれるだろうか。しっかり口に出して保障し、それを行動でも守ってくれるだろうか。
眼科を出て、まだしゃくりあげている子どもを抱きあげる。2歳ともなるとしっかり重くて、温かい。まだびっくりした気持ちがおさまらないようで鼓動がウサギのように早い。涙で濡れた頬に髪の先がぺったりと張りついている。ヒック、ヒック、と小さく聞こえる。あなたが大切だ。あなたの泣く理由がずっとこんなものであってほしい。この温かな命のかたまりが、誰にも脅かされないでいてほしい。どんな子どもも、そうであってほしい。子どもの指がぎゅっと背中の服を掴み、泣きそうになる。怖かったね。もう恐いことがないといいね。あなたが大切だ。これからも、いつまでも。
自分で自分の生活を改善できないから、政治に期待するしかないような人たち。
おじさんおばさんが政治の話をよくする理由、自分の未来を自分の手で明るくできないからなんだよね。
若い人たちはなんだかんだ言って自分の可能性を信じている気がする。
まあそういう人たちもいずれ政治の話をよくするようになるんだけど。
やっぱり生きる意味を感じないわ
特にないんだよな〜
Xで、ガンになった人が書いてたよ
「これで数年後には楽になれるからよかった」
ってね
生きてたって別にいいことそんなにないもんな
面倒な仕事やらなきゃいけないし
たまーに楽しいことがあるけどさ
コスパ悪すぎる
生きてて楽しい人だけ生き残ればいいよ
「自然淘汰」って、このことを言うはずなんだよ
俺は淘汰される側
遺伝子を残しちゃいけないんだよ
そう思うと気が楽だな
生まれてこなきゃよかったとさえ思うけど、自分の意思で生まれたわけじゃないし
どうしようもないよな
人間より進化してたら、もっと楽に楽しく生きられたんじゃないのかな
それが何年後かは知らないけどさ
長生きできて、老化もしない、フリーレンみたいなエルフになってたかもしれない
病気になるし、老化するし、不便すぎるよ
母が漏らしたとき、俺は生まれて初めて値段という言葉の重さを知った。
尻の下に敷いたシーツを引き抜きながら、俺は頭の中で足し算をしていた。週三回、他人に来てもらう金。施設に預ける金。俺の給料。母の余命。掛け算をすれば、答えは出る。出てしまう。
母は泣いていた。七十キロ近い体を横に転がされながら、「ごめんね」と繰り返した。俺は「いいよ」と言った。いいわけがなかった。おむつのテープを留める指が震えていたのは、疲労のせいだと自分に言い聞かせた。
赤ん坊は泣く。腹が減ったとき、尻が冷たいとき、ただ不安なとき。泣くことでしか、自分の不快を外に出せないから泣く。母の「ごめんね」も、考えてみれば同じだった。どうにもならない体を抱えた人間が、隣にいる人間に向けて絞り出す、最後の声。
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母が二度目に倒れた翌月、俺は職を変えた。
小さな会社だった。「年寄りの苦痛をなくす」という、どこにでもある看板を掲げていた。俺の仕事は、体に貼る小さな機械の調整だった。尿が溜まる速度を測り、限界が来る四十五分前に、介護する側の携帯を鳴らす。漏れる前に替えてやれる。
携帯が鳴り、おむつを替え、母は漏らさなくなった。漏らす前に処理されるから、「ごめんね」を言う場面がなくなったのだ。
俺はそれを、うまくいった、と思った。会社の連中も喜んだ。大きな金が集まった。
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金が増え、人が増え、俺は母の傍を離れた。
機械は進化した。排泄の予測はほぼ完璧になり、次に体温、次に床ずれの予防、次に気分の変動。体の微かな揺らぎから「不安」を嗅ぎ取り、部屋の明かりを変え、好きだった曲を流し、ちょうどいい声色で話しかける。寝返り、食事、風呂——あらゆる苦痛が、生まれる前に消された。
俺たちはその仕組みを、ゆりかごと呼んでいた。
社長が言った。「俺たちが解いているのは、介護の問題じゃない。人間がずっと抱えてきた、苦しいという問題そのものだ」
金を出す側は頷いた。俺も頷いた。本気でそう思っていた。
母は、その前の年に死んでいた。最後の三ヶ月、彼女は一度も泣かなかった。一度も「ごめんね」と言わなかった。一度も、俺の名前を呼ばなかった。ゆりかごが完璧に動いていたから、彼女には俺を呼ぶ理由がなくなっていたのだ。
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その後のことを、俺は技術の話として語れてしまう。それ自体が、たぶん、おかしなことなのだが。
臓器を作り替える技術が、介護の意味を変えた。壊れた肝臓を新品にするように、血管を若返らせ、筋肉を二十代の状態に戻す。最初は病気を治すためだった。次に、病気になる前に手を打つようになった。最後には、そもそも老いないように体を設計し直すようになった。
老いは、壊れた部品と同じ扱いになった。テロメアの摩耗を許さない。それが当たり前になった日のことを、俺は覚えている。会議室にいた全員が、人類の勝利だと思っていた。俺もそう思っていた。母の介護で走らせていた足し算が頭をよぎったが、すぐに消えた。
同じ頃、人間の記憶や癖を丸ごと学ばせた知能が、本人よりも「らしい」受け答えをするようになった。誰かがそれを外付けの魂と呼んだ。冗談のつもりだったのだろうが、三年後にはまともな名前として通っていた。
体の部品が替えられるようになり、考えることを外に預けられるようになったとき、人間とは何かという問いは、哲学ではなく契約書の問題になった。
そして契約書は、答えを出した。製造の工程を記録し、思考が人工であることを証明し、体は人の形をしているが中身は人ではないと保証する。人権の境界線を、書類の上で一ミリだけ外側に引く。それだけで、人の体を持ち、人の手で触れ、人ではないものが作れるようになった。
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最初の世話係が納品された日のことを覚えている。
人間の肌をしていた。人間の体温があった。こちらの目を見て、穏やかに微笑んだ。だが、その笑みには順番がなかった。口元が動き、頬が持ち上がり、目が細くなる——その三つが、寸分の狂いもなく同時に起きた。人間の笑顔は、もっとばらつく。どこかが先に動いて、残りが追いつく。それがない。
俺は、最初の一秒でわかった。この体の中に、笑いたいと思っている者はいない。
彼らは人間の体から作られていたが、頭の中には人間の脳の代わりに、外から送られてくる判断をそのまま流す仕組みが入っていた。触れる指先は温かいのに、その温かさを感じている者がいない。完璧な介護の手つきの奥に、誰もいない。
子を作る機能は、最初からなかった。古い会議の記録に理由が残っていた。「勝手に増えれば、誰のものかわからなくなる。」それだけだった。だが俺は、書かれていない本当の理由を知っている。生殖は、脳を作ってしまう。意識を、感情を、痛みを感じる主体を。つまり、人権を産んでしまう。それだけは、あってはならなかった。反対意見はなかった。俺も、何も言わなかった。
そのころ俺は、母が「ごめんね」と泣いていた夜の感触を、もう思い出せなくなっていた。外付けの魂が、あの記憶を不快なものと判断して、俺の意識から遠ざけていたからだ。
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体は赤ん坊と同じ状態に保たれている。老いることは、許されない。
目を開くと、続きが始まる。昨日は海底に沈んだ都市の壁画を指でなぞっていた。一昨日は音楽だった。聴いたことのない楽器の倍音が脊髄を這い上がり、その振動にビートが重なり、声が乗った。何語かもわからない歌詞が、俺の頭の中で物語を展開させた。母の背中が見えた。台所に立っていた後ろ姿。あの背中が振り向く前に旋律が転調し、俺はまだ行ったことのない場所に立っていた。涙が出た理由を、音楽が終わってからも説明できなかった。全部がつながっていた。俺の記憶と、知らない声と、計算された拍の間合いが、俺の中だけで成立する催眠を編んでいた。その前は——思い出せないが、終わったとき全身が震えていた。毎回、想像の外側から殴られる。毎回、前より深く抉られる。俺はそれを待っている。目が覚めるたびに、今日は何が来るのかと、心臓が跳ねる。
かつてはそれを画面の中でやっていた。次に観たい番組を、本人よりも先に選ぶ仕組み。あれの、果てだ。
驚きは快楽だ。予想が外れた瞬間に、脳は報酬を出す。だがその驚きが、誰かに計算されたものだとしたら、それは本当に驚きなのか。俺にはわからない。わからないが、快楽であることは確かだ。確かだということだけが、確かだ。
母にしたことの、完成した形。あのとき俺は、母が不快を感じる前に不快を消した。いま俺は、退屈を感じる前に快楽を注がれている。不快の除去と、快楽の先回り。その二つの間に、どれほどの距離があったのだろう。
ときどき、胸の奥で何かが瞬く。名前のつかない信号。泣き声に似ているが、泣き声ではない。泣き声は、誰かに届けるためのものだ。これは、届ける相手がいない。
俺は口を開こうとする。世話係が、俺の唇が動く前に、何かを差し出す。俺がまだ名前をつけていない欲求の、正確な形をした何かを。
信号が消える。
---
ある日、今日の体験が始まる直前に、俺は目を閉じたままでいようとした。
毎日殴られ続けるうちに、俺の中に別の衝動が芽生えていた。こんなものを見せられ続けて、ただ受け取るだけの側でいることが、耐えられなくなっていた。俺にだって作れるはずだ。俺の方がわかっているはずだ。あれだけの体験を浴びてきた俺が、何も返せないはずがない。見ない、という選択。それが俺の最初の一手だった。お前の次の手を見る前に、俺が先に動く。
閉じた目の奥に、見たことのない光が走った。網膜を通さず、視神経を直接叩くような衝撃。それは、目を開けて受け取るどの体験よりも鮮烈だった。俺が拒否したことで生まれた空白を、システムは俺の想像よりも遥かに大胆な展開で埋めてみせた。
そしてそれは、悔しかった。負けた、と思った。俺の想像を超えてきたことに、震えるほどの興奮があった。
その興奮が、快楽だった。
俺は気づいた。競うこと自体が、もう組み込まれている。抗えば抗うほど面白くなる。面白くなればなるほど、俺はこの器の中に深く沈む。出口に向かって走れば走るほど、景色が美しくなる道を、俺は走らされている。
叫ぼうとした。赤ん坊がやるように。肺の中の空気を全部吐き出して、俺がここにいると、どこかに向かって叫びたかった。
だが声が喉を通る前に、その衝動は別の何かにすり替わっていた。穏やかな満足感。深い安らぎ。叫びたかったという記憶すら、すでに角を削られ、柔らかな感触に塗り替えられていた。
俺は、何を失おうとしたのかを、もう思い出せない。
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1960年に、ある男がガラスの瓶に植物を入れて、蓋をした。水もやらず、空気も入れず、その植物は五十年以上枯れなかった。光さえあれば、閉じた器の中で命は回り続ける。
俺はそれを読んだとき、笑った。人間にも同じことができる、と。
母を抱えて泣いていたころの俺が聞いたら、顔を殴っていただろう。
だが俺は、その図面を引いた。苦痛を完全に消し、崩壊を修繕で相殺し、閉じた器。俺はその住人になった。
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世話係のひとりが、渇いてもいない喉を潤し、痛んでもいない体をほぐし、覚めてもいない夢の続きを映し出す。欲しいと思う前に、欲しいという気持ちごと、満たされている。次に何が来るか構えることすらできない。構えた瞬間に、構えの裏をかかれる。驚きたくないと思えば、その拒絶すら新しい驚きの呼び水になる。
かつて俺が母にそうしたように。かつて俺がうまくいったと呼んだやり方で。
器の中で、誰かの唇が微かに動く。音にはならない。何を言おうとしたのか、その唇の持ち主にもわからない。世話係が何かを差し出す。唇は閉じる。
器の外では、誰も泣いていない。泣くための頭がないから。器の中でも、誰も泣いていない。泣く理由がないから。
痰が絡んだ死にそうな咳と重めの咳払いを朝から退勤まで続けているのに病気じゃないと言いはり、病院にいかずマスクもせず出社しているのは嫌がらせでしょうか?そのコンディションのくせに喫煙室に1時間に1回以上行くのはどのような考えなのでしょうか?
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痰が絡んだ死にそうな咳と重めの咳払いを朝から退勤まで続けているのに病気じゃないと言いはり、病院にいかずマスクもせず出社しているのは嫌がらせでしょうか?そのコンディションのくせに喫煙室に1時間に1回以上行くのはどのような考えなのでしょうか?
加齢臭×タバコ臭×口臭×謎香水?ヘアトニック?×咳、咳払いって誰にもメリットないので早く退職してほしい…。信じられないくらいうるさくてオンライン会議とか聞こえないんだけど責任取ってほしい。
「俺の生きづらさの根幹にはASDがある」
それに気づいたのはつい最近。
働き始めてからだ。
今までは日常生活の中で困ることといえばもっぱら強迫性障害だった。
最近は疾病恐怖がひどく、ゴムつけてやったのにエイズの心配をして検査行ったり、下腹部の違和感で何度も病院に行ったりと、病気に対してかなり敏感になっている。
俺はこれを強迫性障害の症状の一種だとずっと思っていたのだが、実はASDの症状かもしれない。
つまりASD特有の「不安の感じやすさ」に由来しているのではないかということだ。
なぜなら、ある程度不合理だという自覚(いちいち検査に行くのは大袈裟だ)はあるものの、エイズにしろ下腹部の違和感にしろ、全く不合理というわけでもないからだ。
だからこれらの疾病恐怖が強迫性障害に由来するのかがいまいちわからない。
もちろん、そういう面もあるのだろうが、どちらかといえばこれはASD由来なのではないかと俺は睨んでいる。
そもそも強迫性障害自体がASDの二次障害である可能性が高いので、元を辿れば強迫性障害の症状もASD由来ということになる。
ASDがあるのは随分前から分かっていたことではあるのだが、今までは強迫性障害にばかり気を取られていてASDについて深く考えたことがなかった。
だから自分のあらゆる生きづらさの原因がASDにあることに気づけなかったのだ。
しかし、最近になって働き始めたことで自分のASD特性を強く自覚するようになった。
「マルチタスクができない」「興味のないことに取り組めない」「無愛想」……。
たった1か月でこれらのことをまざまざと自覚させられた。
俺は睡眠障害もあるのだが、仕事の日に限って眠れなくなるということも起きて、それがASD由来である可能性があることを知り、ますます確信を強めた。
そして、今まで最大の悩みの種だった強迫性障害も、どうやらASD由来の可能性が高い。
ASDの、特に「こだわりの強さ」によって、それは生じているのだろう。
こうした気付きによって今まではなんの理由付けもしてこなかった自分の行為も次々とASD由来なのではないかと思うようになった。
なんとなく不潔、という気持ちがしてそうしているのだが、今までこれはASDとも強迫性障害とも思っていなかった。
だが、これもまたASD由来だということが今ならわかる。
要は感覚過敏だ。
それでいうと、自宅以外の布団で眠りにくいのも感覚過敏かもしれない。
一度口をつけたコップにもう一度口をつけるのを嫌がるのも然り。
今まで何の気なしにしていたこともその多くがASD由来かもしれないと思うことで、なんだか頭の中のモヤが少しだけ晴れた気がした。
原因がわかって言語化できるようになったことで、少しだけスッキリした。
そしてそれと同時に、自分はやっぱり発達障害なんだ、普通の人とは違うんだと自覚させられた。
ASDである自覚はあったつもりだったが、今までは多分無意識にそれを否認していたんだと思う。
やっぱり俺はASDだったのだ。
正直、働くのは本当につらいし、辞めてやりたい。
○ご飯
○調子
むきゅーはややー。おしごとは頑張った。
帰って熱を測ると37.1。だいぶ下がったが微熱だなあ……
寝てるとしんどくなるし……
本当に病気じゃないのか?
本当に大丈夫なのか?
医者を信じて良いのか?
結局さ、みんな長い物に巻かれたいだけなのか?
それとも、自分はあっち側の「強者」であるという幻想にすがっていたいだけなのか?
自民党もチームみらいも、やってることは明確だろ。「強者を助け、弱者をさらに絞り上げる」。ただそれだけだ。
なんで、明らかな「弱者」であるお前らが、何か勘違いして彼らを支持してるんだよ。
大企業減税を続け、内部留保を肥え太らせ、その見返りに経団連から献金という名のキックバックをもらう。トリクルダウンなんて起きなかったし、これからも起きない。
そこに新しく出てきた「チームみらい」。
「現役世代の手取りを増やす」とか「社会保険料引き下げ」とか耳障りのいいことを言ってるが、その実はもっとタチが悪いかもしれない。
社会保険料を下げて一番喜ぶのは誰だ?企業だろ。会社負担分が減るんだから。
彼らのやろうとしていることは、楽天の三木谷率いる新経連あたりと親和性が高そうだ。規制緩和、解雇規制の緩和、ギグワーカーの拡大。
どっちも「自助」を強調して、「公助」を切り捨てようとしている点ではグルだ。
「自分の身は自分で守れ」「努力しない奴が悪い」。そんな社会がお望みか?
強者は放っておいても勝手に生き残る。政治の光が必要なのは、こぼれ落ちそうな人たちだろ。
明日、事故に遭うかもしれない。病気になるかもしれない。会社が倒産するかもしれない。
その時、お前が熱狂的に支持したその政党は、お前を助けてくれるのか? 「自己責任ですね」と切り捨てられるのがオチだぞ。
個人的な話をしよう。
会社は儲かっているらしく、今年も昨年を上回る賃上げが見込まれている。
だから、今のところ生活はそれほど苦しくないし、どちらかと言えば「勝ち組」の企業に属しているのかもしれない。
だけどな、俺は知っている。自分がいつ転落するかわからないということを。
障害者雇用なんて、制度一つ、業績一つでどうなるかわからない不安定な立場だ。健常者だって同じだ。一度レールから外れたら、這い上がるのがどれだけ難しい国か。
自分の今の生活が安定しているからこそ、セーフティネットの重要性が身に染みてわかるんだよ。
あと、中道、民民あたりを支持している層。
そのバックにいる「連合」は、結局のところ大企業の労働組合の集まりだ。
彼らが守りたいのは、大企業の正社員の既得権益だけ。中小零細や非正規のことなんて、本気で考えているわけがない。
大企業を利することしかやらないという意味では、自民党の補完勢力でしかないんだよ。
自民党を圧勝させ、チームみらいを躍進させた先に、どんな地獄が待っているのか。
社会保障は削られ、解雇は自由になり、自己責任論が蔓延する社会。
いい加減、目を覚ませ。
ICU、人生で5度目だろうか、入院自体、これで25年の人生のうち15回くらいはしているだろうか。
今回のICUは事故だった。ODのやりすぎで、少量なのに意識を失ったのだった。気が付いたら「痛い痛い」「つらいつらい」と呻いてのたうち回っていたのだった。親に見られているのが分かったけど、眼を開けることはできなかった。ただ「薬いっぱい飲みすぎで、もうどうにもならなくなってんの。脳のどっかも、身体のあちこちも、おかしくなってんの」と言われたのが、心外だった。自分だって理解している。
頭の処理が遅いし、認知も変になっていて、喋ると喋っている間に自分が何を考えているか忘れてしまうのだ。おもしろいことに、こうして文を書いているときは、すらすら文字が出てくるし、書こうとしていることも明確だったりする。ただ、私の頭が多少ヘンになっていることは、そうだろう。このことに後悔はない。仮に、年齢ではなく「本当に」ODの勢以でヘンになっていたとして、こうなるとわかっていたとしても、かこの自分がODをやめることは無いだろう。
そもそも、私は死にたいのだった。死を目的としたOD,飛び込み、飛び降り、首吊りなど、自殺企図はかれこれ、ちょくせつ死が近くに来るそれは、この通りにすべて複数回している。
私にとって、私が死にたいのは、あまりにも当然だ。死んじゃいけない理由も把握しているが、それと死にかけている私を助ける理由と、けっきょく生かされて残り続ける苦痛は、つり合いが取れない。合理的に。ただただ私の苦しみが増え続けるだけ。
ネットには死にたい人が沢山いる。おおかた、苦しいからこれを終わらせたくて死にたいと言う。私はそういう、死んだら救われるような考えは、死にたくなった高校から、あまり考えないように、と気を付けていた。死にたいなら、理由をつけずにただ死ぬ、自殺すること自体を目的にする。
さていまの自分はどうだろう。なんで生きているのがつらくて、早く死にたいのか? それは、なにもかもどうでもいいからだ。私の死にたい気持ちは〈あらゆる可能性を捨てる〉決心をもって、それらの了解から導き出される、感情的にも、意識的にも、論理をある程度だけ適応した、ヒューマニックな解答なのだ。つまり、さっきの「どうでもいい」は「どうなろうが知らん」というよりか、とにかく「考えたくない」ということだ。もう解答は出ている、100点は確実なのに答案が配られない。
〈あらゆる可能性を捨てる〉というのは、私の想定では『ジョニーは戦場へ行った』だ。
私には才能がある。というか、この言葉にちょっかいを出したい人というのは、どうして自分に才能がないと言い切れるだろう? 肯定することより厳密に否定することの方が難しいのに。
それで、評価はされている。だが、自分の才能に対して「お前はもっとできるだろう」という考えがずっとある。そして同時に、よりよくその才能が生かされたとして、それが私の生きる理由にはならないだろうことは確かだ。私は私にだけ、強く重い根性論をぶつけている。自分を追い込んでいる。
なにも作れなかったら、生きていてもどうしようもないのだ。命に価値がない(この言葉は嫌いだ)、いや、限りなく生きていないのに、ただしかし自分だけが「頑張れなかった私」を、この生命の一切が終わる、その意識が途切れるまで(これ自体を)抱えなきゃいけない。なにげなく、文章や小説を書き出したのは、明確に死にたいと思うようになった、高校生の時分からだった。
何かを作るのは、「もし生き続けるのなら」そういうことをやらないと、自分が無意味そのものだと感じるからだ。無意味というのは、死体ということだ。
私は本当なら、何も作りたくはない。作っていなかったときの方が、毎日がイキイキと鮮明だった。
自己表現、という言葉のすべては、自己表現を純粋に示せない。それを示そうとすること自体が、自己表現になりえるからだ。なにかを作るのにおいて、公に(正式な場所から)何かを出すときも、自己表現なんてものは頭に一寸もよぎらなかった。私の作るものには、私が伝えたいことなど、一つもない。喋りもうまくできなくなったのだ、私が誰かに何かを伝えること「さえも」そのものに意味があるとは思えない。もし、私が望む何かを達成できるAIがあるのであれば、私はそっちに乗り移って、無思考かつ無感情でその主体を獲得したい。
とはいえ、私にもいろいろな意見がある。それのほとんどが、人間なんてどうしようもない、正直、なにかを作ったとして、何にもどうにもならなく、仮に何かにどうにかなっても、私はきっとそれになにも満足しないだろう、それは人間はどうしようもなくて、ただ死ねないから生きていて、生きることを根本から見つめることもできないくせ、感情だの倫理だのと、どっかから聞いてきたような適当な理由を、無遠慮に誰かや私にぶつけてくる、害そのもの、あるいは機械、または可変的なルールでしかない、という、不満だ。人間は愚かなのではない、賢いのではない、〈何かに理由があることを疑えない〉のだ。いつしか規範が作られ、会話できるようになって、そんなことできないのに他人の気持ちとかをくみ取ろうとする。
私たちは、他人の気持ちなんて、分かろうとするのは恋愛だけでいいし、とにかく「気を配ること」に厳密になればいいだけなのだ。「気を配ること」。他人の意思を尊重することと、倫理は基本的に一致しない。むしろ、倫理なんていう規範を飛び越えて他人に触れることが、よりよく意思を尊重することになる。これが「気を配ること」である。そして「気を配ること」は、なにも、社会だのSNSだの、でっかい母数を相手にしなくていい。周辺だけ、触れ合う他人にだけでいい。
主張をしまくること。
主張をしまくり、その主張は何かを否定していたとして、否定側の意見をいつも検討価値のあるものとすること。
では「私は死にたい。以上の自殺企図、入院歴がある。私は〈理念〉として自殺することを肯定している。私の邪魔をしないでくれ」。
では「そう。で? それが何? 何それ?」
さあ、〈どんな顔をどのように何をすればいい?〉