
はてなキーワード:男爵とは
みんなにもこの映画のヤバさを体験してほしいので、この感想を読んで興味を持ったらぜひ劇場に足を運んでほしい!!!
本作の主人公、スカーレットちゃんは16世紀のデンマークの王女である
大好きな父親である王が、権力を狙う王の弟・クローディアスの策略によって処刑され、復讐を誓うところからこの物語は始まる
父の仇であるクローディアスからも「自分が毒を盛られることも考えぬとは愚かなものよ…」と言われてしまう始末
その後、スカーレットちゃんは死者の世界に堕ち、そこで再びクローディアスへの復讐を誓う
しかし行く手に立ちはだかるのは、かつて父親を処刑したクローディアスの部下たち
スカーレットちゃんはモブ敵相手には勢いづくものの、中ボスになると毎回やられてしまい、その度わんわん大泣きしてしまう
「…ヴゥッ、許せない!許せない!許せない!」
絵に描いたようなクソザコである。
なお、本作主人公スカーレットちゃんの声優はまさかの芦田愛菜さん
本映画最大の魅力となっているので、くっころ女騎士が好きな人にはおすすめ
スカーレットちゃんは毒を盛られ死者の国に堕ちるわけだが、そこでモブ顔坊主の「ひじり」と運命の出会いを果たす
なんか、にじ◯んじみたいなデザインですね。
てか、名前、聖(ひじり)て。
ひじりて、お前。
スカーレットとの落差に脳がバグるが、残念ながらこの坊主、現代日本から堕ちてきた本作のもう一人の主人公である
この男のダメなところは多々あるが、まずモブキャラすぎるところがダメ
剣を持った敵が出てくると
「争いはヤメロー!」
と戦場へ突っ込み、自分を殺そうとした相手にも平然と握手を求める
どこかで見たような“善人ムーブ”のテンプレを地で行く男である
そして本作の(監督が思う)見どころとして、スカーレットとひじりがダンスをするシーンがあるのだが、ひじりのダンスが信じられないレベルでキモい
イメージとしては、最近だと『野原ひろし 昼飯の流儀』のOPに近いだろうか
とにかく、物語中盤のダンスシーンは必見なので、ぜひ劇場で確かめてほしい
ちなみに私は映画を見終わった瞬間に「スカーレット ひじり いらない」で速攻検索した
そろそろ疲れてきたので、最後に物語のフィナーレについて書くことにする
何やかんやあり、スカーレットの復讐は果たされ、彼女は現世に戻ることに
一方、復讐を糧に生きてきたスカーレットは生きがいを失ってしまい、ひじりに泣きついてしまう
スカ「私じゃなくて、ひじりが生き返ればいいのに!」
ひじり「…」
ひじり「…生きたいって言え!」
スカ「えっ」
ひじり「…生きたいって言えー!!」
スカ「…ぃきたぃ」
ひじり「…聞こえない」
スカ「…い゛ぎだい゛っ!!」
『果てしなきスカーレット』を観てて、まさかエニエスロビー編に突入するとは思わないじゃん?
けど、よくよく考えてみると監督は細田守。『オマツリ男爵』を手掛けているので、言われてみれば納得のリスペクトである
ちなみに最後、クライマックスで復讐を果たしたスカーレットにひじりが会いにくる場面があるのだが、霧の中から現れるひじりのシルエットが坊主なのでやっぱり笑ってしまった
坊主が悪いのではなく、アニメに坊主を出すのがノイズなのである
これがケンシロウでも桜木花道でも、やっぱり笑ってしまっただろう
それくらいアニメの坊主は、坊主であるだけでキャラが立ってしまうのだ
アニメ制作にかかわられる皆様におかれましては、裸がノイズになっているかではなく、坊主がノイズとなっていないかを今後とも自省していただきたい。
まとめると、本映画は優れた世界観・主人公・作画をもちながら、モブ顔坊主やわけのわからない劇中歌・ダンスを合わせ持つ、稀有な作品である
話題になってたので観てきました。
・予習としてハムレットとダンテの神曲のあらすじを頭に入れて挑む。物語の下地にはなっているのだろうけど、個人的には知らなくても問題なかったな。
・ハムレットからの換骨奪胎ぶりが面白いとの評判だったが、個人的にはそもそも悲劇を描こうとしてないしハムレット派生作品として見るもんではないなと思った。単純明快な勧善懲悪の作品に思った。細田守らしい子供向けを意識する。ハムレットとしては、王様が意地悪に叔父に殺されて復讐心に燃えるハムレット、毒で殺すつもりが毒で死ぬ叔父、まぁ様々イベントは似たことが起きる。が、知ってても知らなくてもどうでもよく思う。レアティーズいないし。
・神曲への解像度は私は低い。世界文学的にものごっつい大事な作品で、地獄から煉獄、天国への長い旅を、様々な著名キャラと出会い別れながら進む神聖なる喜劇、的な理解。あんまり知らない。スカーレットでは舞台としては準えてるけど、下地として何か作用しているようには感じなかった。棺桶のシーンとかは関係してそうに思ったけど、それは神曲を知ってないといけないかと言われるとそうは思わなかった。それともそれは重要なシーンを無理解に進んでしまった私の不甲斐なさかもしれない。
・時をかける少女が宣伝に持ち出されたのは、まさに時をかけていたから、かな?安直だけど。
・一つ一つのシーンの絵作りは前評判通り、どれも美しく素晴らしい。
・特にスカーレットが可愛すぎる。表情ひとつひとつが愛おしい。
・シーン一つ一つが夢の中って感じ。私は村上春樹の世界の終わりとか、海辺のカフカとか好きなので、こういうの好きぃ…ってなった。
・現代に生きる私を写像した先のスカーレットが写像する世界ってのは、ナーロッパ的な中世であって、銃が存在し、僧がおり、アフリカとか南米とか、色んな文化が表層的に混じり合う。作中では、過去も未来も生も死も混じり合う世界とわかりやすく何度も表現される。細田守最高だぜ。こういうファンタジーへ大衆を入門させてくれてありがとうだぜ。私はこういうのが好きだ。
・服飾考証しっかりしてるとの事前情報通り、私はよく知らんけど多分しっかりしていたと思われて、その解像度のおかげで、地獄の狂い具合が鮮明で面白い。混じり合って混沌としている。
・産業革命以降の武力が作中に存在しないのは、それが我々にとっての現実の脅威だからだと思う。この作品はファンタジーなんだ。力強い線引きを感じた。
・渋谷ダンスシーン、きたきたぁ!!ってなった。幾原的な心象風景かと思ったら丁寧に前段から渋谷という箱の舞台を歪にチラ見せしたりしてて、思ったより浮いてはいなかったかな。いや画としてはバチクソ浮いてたけど。まぁ意図はかなり明快に伝わった……と思ってる。でも現代の子どもがこの渋谷や踊りを自分ごととして捉えられるかというと疑問よなぁ。現実を描写できない制約の中でのスカーレット心象の箱庭、非現実の作中での現実としての非現実としては面白い画だった。私→スカーレット→聖→スカーレット→渋谷。クール。
・宿の主人、てのが登場人物紹介にいたが、作画として特徴的だなと思ったが映画の中では短いシーンだった。でも重要な役割だったんかなぁ。
・スカーレットの成長を見守るおじさんの気分になった。私も歳をとったなぁ。
・聖、なぜお前は矢を放った……?抑止力はその装置を発動させてしまったら終わりだ。それはお前の思想と矛盾しないのか。観終えた後、ダンテでいうと七つの大罪のシーン中だと振り返ってみるが、結びつけるには苦悩する。いやこんなん結びつけなくてええかってなった。……いやでもまじで意味わからん。知りたい。
・雑魚雑魚悪役にレアティーズとかいう名前が付けられてるのも何か関係あるんか……?
・ハムレットにおけるクローディアスの懺悔は本物の神への懺悔。現代日本では神への信仰が薄く、物語でもあまりに薄情。
・最後のキスと涙が商業的すぎて泣けなくて泣いた。しかし世の中の大衆はそれが好きなのだろう。届ける先のニーズに応えようとする様はえらい。これを描くには時間が足りない。
・争いよりも友好を、憎しみよりも愛を。これはもっともっと丁寧に描いてほしい。もう1時間割いていい。3時間でいい。…でも忠実に2時間に収めて偉いなぁ。細田守はすごい大衆作家だ。
文学的な作品として観たら不評の嵐になるのはなんとなく感じるが、私は素養がないのでその辺はノータッチで。
芝居も映像はやっぱ最高のクオリティだ。映画館で観て良かった。地上波でも家でも観たくない。
価値観も好きだ。物語の壮大さも好きだ。でも、ラストだけはちょいと心残りだなぁ。
オマツリ男爵もだけど、細田さんはラストへの拘りや興味があまりない……?
作家をメタれば、前半の苦悩や憤怒の感情はきっと描きたいものであったとは思う。
でも作品として本来目指す描きたいものは、それなりに人間の根源的なもの、思春期の頃に精一杯みんなが考えて悩んでほしいことで、大人になっても向き合って向き合って考えていきたいことだとは思う。
その勧善懲悪は良いが、憎しみへの向き合い方としての成功例としてこのように描くにはご都合が良すぎるように思った。特に聖の矢とクローディアスへの天罰。
現実でいうと、例えば中共がオラオラしてるのを武力を持ってやめろやめろと脅すまではいいけど実際に刃を抜いたら戦争なっちまうやん、対話で友好を目指そうぜっていう作品にしたいのにさ、殺しちまったらそれは勝てば官軍ストーリーやん。現実では為政者が落雷で都合よく命を落とすわけないやん。殴ってきた相手を殴り返してはい終わりになるわけないやん。スカーレットが殺してなくても、殺す味方が代わりに殺してくれたありがとーは、私は、同罪だと思う。目を逸らすな。私はそれは嫌いだ。
利己的な活動と、利他的な活動のバランス。攻撃性と社会性のバランス。自己家畜化した我々が、より家畜化できる先を目指したいんだ。攻撃すんなと説くだけでは、攻撃的な人間が独裁的に得をするゲームバランスは崩れない。我々は山上を生まないですむ社会にしなければならない。そういう思想のもとで、細田守は何をどう伝えたかったのだろう?だから、聖が矢をもって暴力を振るったことへの解説をまじで教えてほしい。教えて!!
何だその「適当に切って鍋に突っ込む」って舐めたレシピは。お前は肉じゃがという日本の家庭料理の頂点を、手抜き料理と勘違いしてやがる。
肉じゃがを本当に美味く作ったことがあるのか。まず、ジャガイモひとつ取っても品種が重要なんだ。男爵イモとメークイン、この選択で煮崩れ具合が決まる。男爵なら短時間でホクホクに、メークインなら形を保ちつつ味が染み込む。「適当に切って」じゃねぇんだよ。大きさを揃えて、面取りして、煮崩れを防ぐ下処理があるんだ。
そして肉だ。牛肉の細切れを「適当」に使うやつ、素人丸出しだな。部位によって煮込み時間が違う。肩ロースなら最初に炒めて旨味を封じ込めてから煮る。バラ肉なら脂の甘みを活かすために火加減を調整する。豚肉派もいるが、それはそれでコクの出し方が変わる。肉の選択と扱い方で、汁の深みが天と地ほど変わるんだよ。
「醤油とか砂糖とか入れて」って、何その雑な調味料感覚は。醤油ひとつでも濃口、薄口、たまり醤油で仕上がりが全然違う。砂糖も上白糖、三温糖、ざらめで甘みの質が変わる。みりんの使い方、酒の入れるタイミング、だし汁の有無。この微妙なバランスが肉じゃがの品格を決めるんだ。
さらに野菜の扱いもクソ適当だな。玉ねぎは繊維に沿って切るか逆らって切るかで食感が変わる。人参の面取り、いんげんの下茹で、しらたきのあく抜き。これ全部省略して「野菜を適当に」って、お前は野菜炒めでも作ってろ。
そして煮込みの工程が一番重要なのに「柔らかくなったら食べる」って、何その投げやり感は。最初は強火で沸騰させ、その後弱火でじっくり煮込む。途中でアクを取り、落とし蓋をして味を均一に染み込ませる。火を止めて余熱で味を馴染ませる工程まで含めて、初めて肉じゃがが完成するんだ。
本当に美味い肉じゃがは、ジャガイモが箸で崩れるギリギリまで煮込まれ、肉の旨味と野菜の甘みが調和した煮汁が絡み合う。一口食べれば、家庭の温かさと職人の技が同居した、日本料理の神髄を感じられる。
お前のレシピで作ったやつは、ただの「ジャガイモ入り醤油煮」だ。肉じゃがの名前を騙るな。もう二度と料理について語るな。まずは真面目に基本を学んでから出直してこい。
内務大臣は、ケーシー男爵夫人(貴族院議員)が実施した集団ベースの児童性的搾取・虐待(「グルーミング・ギャング」)に関する全国監査について下院に報告した。
議長、議長の許可を得て、政府がケイシー男爵夫人に依頼した児童の性的搾取とグルーミング・ギャングに関する監査、およびこの卑劣な犯罪に取り組むために我々がとっている行動(加害者を刑務所に入れ、これらの犯罪の罪のない被害者に支援と正義を提供する)について、議場に報告します。
金曜日に、2000年から2006年にかけてロッチデールで起きた最も恐ろしい犯罪の犯人として、7人の男が有罪判決を受けたことはご承知のことと思います。
彼らは10代の少女を性奴隷として扱い、不潔なアパートや路地、倉庫で繰り返しレイプした罪で有罪判決を受けた。加害者にはパキスタンの血を引くタクシー運転手や市場の商人が含まれており、彼らを裁くのに20年を要しました。
私は、長い年月の間、自分たちのストーリーを語り、正義のために闘ってきた女性たちの驚くべき勇気に敬意を表したい。彼女たちは、これほど長い間、失望させられてはならなかったのです。
グルーミング・ギャングによる児童の性的搾取は、最も恐ろしい犯罪のひとつである。
10歳にも満たない子どもたちが薬物やアルコールに溺れ、暴力団に残忍にレイプされ、彼らを保護し安全を守るはずの当局に何度も失望させられている。
このような卑劣な犯罪は、被害者や遺族に生涯を通じて想像を絶する被害をもたらし、私たちの社会の汚点となっている。
5カ月前、私は下院で、最も重要な課題は加害者を阻止し、刑務所に入れることだと述べた。
その作業は加速していると報告できる。
私は1月に、グルーミングと児童の性的搾取の申し立てに関わる事件で、それ以上の措置をとらずに終結したものを特定するよう各警察に求めたが、現在では800件以上が正式な見直しのために特定されている。
そして、この数字は今後数週間で1,000件を超えると私は予想している。
はっきりさせておこう。このような卑劣な犯罪の加害者は、路上から立ち去り、刑務所に収監され、自らの行いの代償を払わなければならない。
また、7年にわたる「児童虐待に関する独立調査委員会(Independent Inquiry into Child Abuse)」を含む、過去の調査や見直しの勧告を最終的に実行に移すための、さらなる迅速な行動も進行中である。
グルーミング・ギャングによる児童の性的搾取は、最も恐ろしい犯罪の一つである。
私が10年以上前に求めた、長年の懸案であった報告義務の義務化。
また、グルーミング犯罪者に対する加重犯罪を導入し、彼らの刑が犯罪の重さに見合うようにします。
さらに今年初め、私はルイーズ・ケイシー男爵夫人に、ギャングによる搾取の性質、規模、特徴に関する迅速な全国監査を依頼した。
私は特に、民族性の問題と、この種の犯罪の文化的・社会的要因について調べるよう彼女に依頼した。
そして私は、彼女が発見した現在および歴史的な失敗に対処するために、どのようなさらなるレビュー、調査、行動が必要なのかについて助言するよう求めた。
私は1月に議会で、ケイシー男爵夫人が2015年にロザラムについて作成したのと同じようなインパクトのある、遠慮のない報告書を提出することを期待していると述べました。
そして、ルイーズと彼女のチームが、わずか4ヶ月で非常に広範な評価を行い、まさにそれを成し遂げてくれたことに非常に感謝している。
その核心は、子どもを子どもとして扱わない根深い失敗を明らかにしたことである。レイプや搾取、深刻な暴力から子どもたちや10代の少女を守ることに失敗し続けている。そして生涯続く傷跡から。
彼女は、当局の対応があまりにも断片的であること、情報の共有があまりにも不十分であること、欠陥のあるデータに頼りすぎていること、否定しすぎていること、正義があまりにも希薄であること、犯罪者があまりにも多く釈放され、被害者があまりにも多く失望させられていることを発見した。
・10歳にも満たない被害者(多くの場合、介護を受けている子どもたちや、学習障害や障がいを持つ子どもたち)が、まさにその脆弱性ゆえに、グルーミングの対象として選別されている。
しかし、私が調査を依頼した民族性に関する重要な問題については、何年も前から懸念が指摘されていたにもかかわらず、適切で確固とした全国的なデータが収集されていないことが明らかになった。監査が調査した3つの警察の地域データでは、アジア系やパキスタン系の男性が容疑者に過剰に含まれているという明確な証拠が確認されている。そして、「人種差別主義者と思われたり、地域社会の緊張を高めることを恐れて、この話題を完全に避けている組織の例」についても言及している。
しかし、ケーシー男爵夫人が明言しているように、最も気がかりなのは、これらの調査結果のあまりに多くが新しいものではないという事実である。
ケーシー男爵夫人の監査が示しているように、こうした子どもに対するレイプ、搾取、暴力犯罪については、15年にわたって報告書、レビュー、調査、捜査が行われてきた。
私たちは10年以上を失った。今、それを終わらせなければならない。
ケイシー男爵夫人は、変革のための12の提言を示している。私たちは、そのすべてについて直ちに行動を起こす。
これ以上無駄な年月を過ごすわけにはいかないので、我々は以下を導入する:
これらを合わせると、グルーミング・ギャングと児童の性的搾取の惨劇を根絶するための、これまでにない大規模な活動プログラムとなる。
当局が見て見ぬふりをすることに慣れてしまった卑劣な加害者たちに、隠れる場所はないに違いない。
ケイシー男爵夫人の最初の提言は、子どもたちを子どもとして見なければならないということです。
ケーシー男爵夫人は、13歳から15歳の子どもが、加害者とのセックスを『愛していた』あるいは『同意していた』と認識されたために、あまりにも多くのグルーミング事件が不起訴になったり、強姦罪から軽い罪に格下げされたりしてきたと結論づけている。
そして、法律を変更して、レイプ犯が無罪になったときに児童売春罪で有罪判決を受けた人々は、有罪判決が無視され、犯罪歴が抹消されるようにします。
ですから、警察はグルーミングギャングに対する新しい国家犯罪作戦を開始することを発表できます。国家犯罪庁が監督し、初めて警察対応のすべての武器を集め、全国のすべての軍隊が採用できる厳格な新しい国家作戦モデルを開発します。
グルーミングギャングが常に重大で組織犯罪として扱われるようにする。
したがって、犯罪が数十年前に犯されたか、現在も犯されているかにかかわらず、子供をグルーミングするレイプ犯は、刑務所に入れられる可能性があります。
ジェイ教授の独立調査を含む、過去の調査からの勧告の実施を開始しました。
そして、私たちは、地元の地域で説明責任を得るために、さらなる問い合わせが必要であると言いました。
私は1月に下院に、これらの問い合わせが機関に適切に説明責任を負わすために必要な証拠を得る方法を検討するために、さらなる作業を行うと伝えました。私たちは地方議会からも回答を求めました。
私たちは、ケイシー男爵夫人に、これらの回答、および過去の調査や問い合わせで使用された取り決めと権限を検討し、真実にたどり着くための最善の手段を検討するよう依頼しました。
彼女の報告書は、さらなる地方調査が必要であるが、法定調査権限を持つ国家委員会によって指示および監督されるべきであると結論付けている。
ケイシー男爵夫人は、アレクシス・ジェイ教授が実施したような別の包括的な調査を推奨していません。彼女は、調査は時間制限を推奨しています。
しかし、その目的は、監査が地方機関間の継続的な否定、抵抗、法的争いと表現するものに異議を唱えることでなければならず、私たちは適切な時期に全国調査に関するさらなる詳細を述べます。
議長、私は1月に、前政権から受け継いだ民族に関するデータ収集は完全に不十分であると警告しました。そのデータは容疑者の37%からしか収集されませんでした。
ケイシー男爵夫人の監査は、グルーミングギャングの加害者の3分の2の民族データが記録されていないことを確認しており、彼女は「国家レベルでのグループベースの児童性的搾取犯罪者の民族性に関するいかなる声明も支持するのに十分ではない」と述べています。私はその結論に賛成です。
率直に言って、この基本情報が収集されていないことはばかげており、誰の役にも立ちません。特に、犯罪のパターンが理解され、対処されるのを妨げる加害者に関する悲惨なほど不十分なデータについて、13年前にさかのぼる警告と勧告があった場合。
私が1月に発表した警察の記録慣行への即時の変更は、データを改善し始めていますが、私たちはもっと先に進む必要があります。
ケイシー男爵夫人の監査は、3つの警察地域の地域レベルのデータを調べました。グレーター・マンチェスター、ウェスト・ヨークシャー、サウス・ヨークシャーでは、パキスタンの遺産の男性に関する注目度の高い事件が長い間調査され、報告されてきました。そこで、集団ベースの児童性犯罪の容疑者は、アジア人男性である可能性が不釣り合いであることがわかりました。
彼女はまた、深刻なケースレビューで不釣り合いな兆候を発見しました。
はるかに堅牢な国家データが必要ですが、これらの調査結果を敬遠することはできませんし、避けてはいけません。ケイシー男爵夫人が言うように、「問題を無視し、調査して明るみにさらすのではなく、少数の男性の犯罪と堕落がコミュニティ全体を疎外するために利用されることを可能にする」からです。
私たちのイギリス系アジア人とパキスタン人の遺産コミュニティの大多数の人々は、これらの恐ろしい犯罪に愕然とし続けており、彼らはすべてのコミュニティの病気の捕食者と加害者の犯罪的少数派は、刑法によって強力に対処しなければならないことに同意します。
ケイシー男爵夫人のレビューは、アレクシス・ジェイの調査がすべての民族とコミュニティが恐ろしい児童虐待犯罪に関与していると結論付けたのと同じように、白人のイギリス人、ヨーロッパ人、アフリカ人、または中東の加害者に対する起訴と調査も特定しています。
したがって、重大な犯罪に対処するのに役立つ正確な情報を提供するために、児童の性的虐待と搾取のすべてのケースについて、民族と国籍の両方のデータを収集することを初めて正式に要求します。
そして、ケイシー男爵夫人が推奨したように、児童の性的搾取、女性蔑視、女性と少女に対する暴力の文化的および社会的要因に関する新しい研究を依頼します。
監査からの勧告の最後のグループは、重要な情報を共有したり、リスクの明確な兆候に基づいて行動したりするために、子供たちを安全に保つべき機関の継続的な失敗についてです。
心配なことに、監査では、警察への児童の性的虐待と搾取の報告が増加している一方で、地元の児童サービスによって保護計画のために特定された児童の性的虐待事件の数は、過去最低レベルに減少していることがわかりました。しかし、誰もその理由に興味を持っていませんでした
そして、監査は、機関間協力の失敗に関する15年分の勧告と警告に対応するひどい失敗を詳述しています。
ですから、私たちは、機関間の情報共有の義務化と、子供たちのためのユニークな参照番号に関するケイシー男爵Permalink |記事への反応(0) | 10:50
彼らは便利さや効率化だけを追い求めた結果、人間らしさを失っていく世界に抗うべく結成された。
➡️ 超精密なイラストで敵の弱点を描きまくる。
という幻想に完全に取り憑かれた、超絶情弱陰謀論マニアの集団!
表向きはクールで合理的を装うが、実態はただのネットで真に受けたデマを信じて暴走する痛すぎるテクノロジーカルトである。
AIによって社会から孤立しているのに「オレたちが未来」と思い込む
AI「オメガ」を崇拝するも、オメガの開発者から「君たちはバグ」と切り捨てられている。
文化をデータ化しろとうるさいが、自分の黒歴史も晒されて泣いてる。
人間の感情は非効率と言いつつ、恋愛シミュレーションAIにはドハマり。
世界は電波で操られていると本気で信じ、今日も変な帽子をかぶっている。女は愚かだが自分だけは例外だと思っている。
アナレンジャーは「手作業」や「心の交流」を守るため、テクウヨ軍団の暴走する機械化計画に立ち向かう!!
一見、ハイテクに強そうなテクウヨだが、情弱すぎて自滅するボケムーブを連発するのが常。
例えば…
などなど、
聞いたことはあるな。居酒屋のメニューで見かけたような、そうでないような…。
想像してみる。ほくほくのじゃがいも…男爵か、メークインか。茹でたて熱々か、それとも少し冷ましてあるのか。そこに、あの独特の粘り気と風味の納豆が加わる。
…うーん。
正直なところ、最初は少し戸惑うな。じゃがいもの素朴な甘さと、納豆のあの強烈な個性。果たして、うまく調和するのだろうか?
しかし、待てよ。意外な組み合わせというのは、案外美味いものだ。例えば、塩辛とじゃがいも。あれも最初は想像がつかなかったが、いざ食べてみると、塩辛の塩気とじゃがいもの甘みが絶妙にマッチする。
納豆も、卵やネギ、海苔といった、それぞれ個性のある食材と見事に調和する。ならば、じゃがいもも…?
想像を膨らませてみる。熱々のじゃがいもに、ネギと混ぜた納豆を乗せて、少し醤油をたらす。じゃがいもの熱で納豆がほんのり温まり、香りが一層引き立つかもしれない。あるいは、バターを少し加えてもいいかもしれないな。じゃがいもの風味とバターのコク、そして納豆の風味が混ざり合い、独特の味わいを生み出すかもしれない。
…悪くないかもしれないな。
もしかしたら、じゃがいものホクホク感が、納豆の粘り気を和らげ、食べやすくする効果もあるかもしれない。納豆の栄養も摂れて、腹持ちも良さそうだ。
今度、どこかの店で見かけたら、試してみるのも一興だな。あるいは、自分で作ってみるのもいいかもしれない。茹でたじゃがいもと納豆があれば、すぐにできる。
アメリカの少年がヨーロッパに留学に行くんだけれど、ママと仲良しで、自分の行動原理をカントの定言命法から導き出そうとしていて(すごく不正確に表現しちゃうと「普遍的な道徳に一致するように行動しろ」っていうあれ)、政治的に正しくいようとしていて、頭でっかちで、マッチョで荒っぽいことができないところにシンパシーを感じる。あんまりモテそうじゃないしね。モテる主人公の話を読んで一体何が面白いというのか。あっはっは。
しかし、読後感がいいのは、やっぱり誠実だからだ。たとえば、アパートの家主がホームレスを追い出すときに「連中は寒さを感じないんだ」と言いつつも、「こいつらはあたたかいところに寄ってくる」とも言い、そういう矛盾というか二重思考にさっと気づくところがいい。
ピーターが思うに、最悪なのは、人々がこの世の現状に合わせて詭弁を弄することだった。たとえここの管理人のように、不運な人間を追い出すしか方法がない、世の中とはそういうものだと考えるにしても、それくらいでやめておくということができない。彼らは語らないと気がすまないのだ。たとえば、マダム・プエルは酔っぱらっているクロシャール(引用者註:浮浪者)は寒さを感じないのだと言って自分を納得させていた。「あの人たちは何も感じないの。あなたや私とは違うんです」彼女は本気でそれは科学的に証明されている事実だと思っているらしい。しかし、彼らが寒さを感じないなら、どうしてここのエレベーターや玄関ホールに潜り込んでくるのか。その二つの事実を結びつけようとは思いもしないようだった。
ところで、実はこういう真っ直ぐな少年少女が現実に屈して理想を捨てたり変節したりするお話がすごく好みだったりする。真っ直ぐな青年が悪意に勝てずに差別主義者になってしまうとかも含めてね。あとは、エリート候補が挫折したりトップの座を失ったり夢を諦めたりするのも好きだった。進学校に行ったのに退学してしまうヘッセ「車輪の下」とかル・グイン「ゲド戦記影との戦い」でゲドが影を呼び出してしまってしばらくは闊達に才能を伸ばせなくなる場面とか、アナキン・スカイウォーカーがダースベーダーへと堕ちる「スターウォーズ」のエピソード1~3とか。
そういうわけで、新海アニメの感傷マゾアニメ「秒速5センチメートル」の少年が、ラストでどういう経緯でああいう疲れた大人になってしまったのかを空想するのが好きだった時期がある。「童貞卒業は風俗だったのかな?」とか考えたりね(マジ最低!)。とはいえ「結局お前モテてんじゃん! あの子の好意に気づいてんだろ!」とも思っていたので、こう考えてしまうのもすべて個人的な怨念であろう。今となっては恥ずかしすぎる。
まずこの小説の舞台がよくわからない。密林があると言いながらトゥアレグの隊商がやってくるので、アフリカの西なのか東なのかとんと見当がつかない。日記を読み返したところ、アフリカの独裁者の視点を通じて、アメリカ人の平均的な姿や人種間対立を風刺しているらしいのだが、「別に詳しくないのにアフリカ人以外が架空のアフリカを書くってどうなの」って疑問を当時の僕は日記に書いていた(たぶんアチェベを読んだ後だからそう思ったんだろう)。それに特に必然性もなく素っ裸で暮らす少女が出てくるし、あれはいったい何だったんだ。一応、独裁者の出身の民族の伝統的な暮らしを、宮殿の中でしているという体裁ではあるが……。
独裁者ものではやっぱりアメリカを風刺した側面のあるガルシア=マルケスの「族長の秋」のほうががオススメ。今度新潮文庫で出るしね。
アップダイクは「ケンタウロス」のほうがピンときた。「ノルウェイの森」で主人公ワタナベトオルが一時期ハマっていた小説だ。これも古典のパロディというか、アメリカのしがない高校教師の生活と、ギリシア神話の神々を二重写しにしたもので、例えば体育教師とその浮気相手はアレスとアフロディテ、厳格な校長はゼウス、たまたますれ違う酔っ払いのホームレスはヘルメスと、卑小な現実とそれを再解釈する神話の無駄な壮大さ、あるいは逆に神話を卑小化する面白さがあった(どうでもいいんだが、神々がギリシア名なのにアフロディテだけ英語名のヴィーナスと翻訳する美術書を見ると、定訳なのかもしれないが、イタリア関連の文献でヴェネツィアをベニスと表記されたような、釈然としなさを感じる)。
僕は知的な作品というか、浮世絵と加歌舞伎である見立てみたいに、知っていること前提で楽しむものに心ひかれる。原作を知っている映画のほうが好きなのもそれが理由だろうな。この素材で俺をどう楽しませてくれる? みたいな。
その点「ユリシーズ」も楽しめた。ただし、以前に必読書コピペにマジレスしてから大分経つが、結局まだ「フィネガンズ・ウェイク」を読んでいない。ああいうのは気合がいる。
ダニロ・キシュ「庭、灰」はあまり記憶に残らなかった作品、その二。読んだ記憶があるのだが、デジタル化した二〇一〇年以降の日記を読み返しても読んだ記録がない。ここまで書いてきてなんだが、実は読んでいないのかもしれない。今度図書館で中身をきちんと確かめてみるつもりだ。
イタロ・カルヴィーノ「見えない都市」は飛ばした。というのも、過去に文庫で読んだからだ。こちらかは架空の都市の伝説を、マルコ・ポーロがクビライ・カンに語る体裁で、僕は幻想的なホラ話が好きなのである。ギョルゲ・ササルマン「方形の円 偽説・都市生成論」もいいぞ。最近文庫化されたし。
同じ著者ではこれ以外にも「冬の夜ひとりの旅人が」というメタフィクション幻想譚もいいし、人間が物理的に切断されてそれぞれ善悪両極端な人格になる「まっぷたつの子爵」、地上に降りず木を伝って暮らしている「木のぼり男爵」(今にして思えば荒木飛呂彦「ジョジョの奇妙な冒険」に鉄塔で暮らすキャラいたな)、鎧の中が空っぽな「不在の騎士」と、児童文学っぽいのもいい。結構読んでいる。
全然関係ないけど、友人と雑談したときにガルシア=マルケスの長編を半分くらい読んだと話したら、「全然読んでないじゃん」って煽られたので笑ってしまった。彼は全部読まないと読んだうちに数えないらしい。「じゃあ何人の作家を読んだんことになるんだ」と言い返して僕は笑った。一応長編を大体読んだのは夏目漱石とドストエフスキー、トルストイくらいか? 中島敦は手帳のメモ書きまで記載した全集を読んだ。何度も言うが一生のうち一人の作家しか読めなくなるなら中島敦を選ぶ。ちなみにブローティガンを勧めてくれたのは彼だ。
続く。