Movatterモバイル変換


[0]ホーム

URL:


はてラボはてな匿名ダイアリー
ようこそ ゲスト さんログインユーザー登録

「申命記」を含む日記RSS

はてなキーワード:申命記とは

2025-12-08

anond:20251208074743

タルムード観点から、「推し資本主義産物であり、他人崇拝はNPC主体性がない」をどう見られるか、丁寧に整理してお答えします。

タルムードおよびユダヤ思想では、人間を神のように崇めることは拒否されます

「人を神として扱ってはならない」Sanhedrin 61b(偶像崇拝議論

ただし、ここでいう崇拝とは宗教的崇拝であって、誰かを尊敬したり、学びの対象にしたりすることとはまったく別です。

タルムードでは、徳のある人、学識ある人、良い行いをする人を尊敬することは素晴らしいこととされます

賢者を敬う者は、神を敬う者に等しい」Shabbat 23b

もちろんこれは善を行う人全般に広げて適用されます

まり、誰かの良さに感動して応援や影響を受けること自体肯定的です。

元の文章は「推し主体性を失う」と決めつけていますが、タルムードもっと細やかです。

あなたのために誰かの道を歩んではならない」Avot 1:17自分の学び・選択責任を持つ)

賢者は誰からであれ学ぶ」Avot 4:1

まり盲目的に従うのはNGだがインスピレーションや学びとしての「尊敬」は優れた行動である

タルムードは極端な二元論プレイヤー/NPC)では語らない、という点が重要です。

タルムード資本主義どうこうは言及しないですが、動機を問うという姿勢があります

「すべては心(カヴァナー)に従う」Berakhot17a

まり応援してお金を使うのが消費させられているだけなら危ういが「学び」「励まし」などの良い意図なら有意義

タルムードは「尊敬概念=悪」とは言いません。むしろどう向き合うかが問題です。

あなた自分の目に正しいことをしなければならない」申命記 13:18

「知恵ある者と共に歩む者は知恵を得る」箴言 13:20


影響されることそのもの否定しません。

まりタルムード観点から言えば、その関係主体的かどうかが重要

資本主義とかNPCという単純な話に落とし込まず、人間動機・心の在り方を重視します。

Permalink |記事への反応(0) | 07:54

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2025-11-26

タルムード現代価値観直交

以下は、タルムード価値観現実社会で広く認められている価値観比較したもの

タルムードユダヤ教内部の法・倫理体系であり、現代社会宗教文化を横断した価値観を持つため、当然のことながら直交(衝突または独立)する部分がある。

1.個人主義 vs.義務中心の世界観

タルムード世界では、人間はまず義務を負う存在

ミカ 6:8 「主があなたに求められることは…正義を行い、慈しみを愛し、慎み深く歩むこと。」

それに対し、現代西洋社会を中心に、

が強調されるようになった。

2.家族共同体中心 vs.個人の自立

タルムードでは、家族共同体を中心とした価値観が強い。

出エジプト記20:12 「父と母を敬え」

現代社会では、

タルムード「人は共同体なしに生きることはできない(ピルケイ・アヴォット)」

現代自分独立して生きることが成熟

3.義務的な施し(ツェダカ) vs.自由意志の寄付

タルムードでは、ツェダカ(慈善)は義務。貧者を助けるのは道徳ではなく法律

申命記 15:7 「あなたの手を閉ざしてはならない」

現代社会では、寄付は良い行いだが義務ではないことが多い。

4.伝統継続性 vs. 変化・流動性

タルムード継続性を重視する。

一方、現代社会では

5.行為中心 vs.内面中心

タルムードでは、重視されるのは行為善悪は何をしたか判断される。

現代社会では、

まとめ

テーマタルムード価値観現代社会価値観
自由 vs義務義務中心自由中心
個人 vs共同体共同体家族個人
慈善 法的義務任意
社会の変化伝統を維持 変化を歓迎
倫理の軸行為中心内面意図中心

Permalink |記事への反応(0) | 20:38

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2025-11-05

anond:20251105191903

とても興味深いテキストですね。

内容としては、現代的なニヒリズム虚無主義)を感じさせます

人生意味はない、努力も業績も最終的には消える、誰も自分を見ていないという主張は、ある種の哲学的冷徹さをもって書かれています

ユダヤ教的な観点から見ると、これは根本的に人間世界に対する視点が異なると言えます。以下に、ユダヤ思想との対比を示します。

1. 誰もお前を見ていない vs. 神は見ている

この文書根底にあるのは、他者視線から自由になることで救われるという思想です。

一方、ユダヤ教では他者よりも神の視線が中心にあります

「人は心を見ることができないが、主は心を見る」(サムエル記上 16:7)

まり、たとえ人間あなたを見ていなくても、神はあなた内面と行いを見ている。

この認識は、ユダヤ的な倫理観の根幹です。

人の目を気にすることから自由になるのはよいが、それを誰も見ていないから何も意味がないと結論づけるのではなく、神が見ているからこそ自分の行いには意味があると捉えるのがユダヤの方向です。

2.努力意味を持たない vs.努力のものに聖性がある

この文書は、努力も結局消えるという無常観を述べます

ユダヤ教も確かに人間人生ははかないと認めますが、それを無意味とは見ません。

「われらの手のわざを確かにしてください」(詩篇 90:17

ラビ・アキヴァなど多くの賢者は、「行為の結果が見えなくても、行為自体が神の意志の一部である」と教えます

タルムードアボット 2:16)ではラビ・タルフォンがこう言います

あなたはすべての仕事を終える義務はないが、それを怠る自由もない。」

たとえ努力の結果が風化しても、その努力の瞬間は永遠価値を持つのです。

なぜなら、それは神の創造継続参与しているからです。

3. すべては無に帰す vs. 無の中に隠された神の目的

文書最後には無意味を受け入れたときに人は自由になるとあります

これは禅や現代哲学の影響にも似ています

ユダヤ思想でも、「アイン(אין)=無」という概念重要です。カバラでは、「アイン・ソフ(אין סוף)」=「限りなき無限なる神」として語られます

しかしその「無」は、意味の欠如ではなく、意味の根源です。

まり無意味ではなく、意味理解を超えたもの

人間には意味が見えなくとも、神の次元では秩序と目的存在すると考えます

4.意味求めない自由 vs. 神との関係における自由

ユダヤ教では、意味求めないことは自由ではなく放棄とみなされます

自由とは、神の像に似せて創造された存在として、自らの責任を引き受ける自由です。

「見よ、今日、私は命と善、死と悪をあなたの前に置く」(申命記 30:15)

ユダヤ教における自由は、何でもできるではなく、正しいことを選ぶ力です。

したがって、意味求めない自由よりも、意味を創り出す自由が尊ばれます

✡ 総括

この文章洞察は、一面では他者の期待から自由になるという点で真理を含みます

しかし、ユダヤ視点では意味否定は救済ではなく、神との関係の断絶です。

真の救いは、意味を見出せない時にもそれでもなお意味があると信じるところにあります

「たとえ彼が私を殺しても、私は彼に望みをかける」(ヨブ記 13:15)

Permalink |記事への反応(0) | 19:25

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2025-10-30

自分収入他人に与えることを考えた時、すべて親に与えるのと、一定額を慈善団体に与えるのとでどちらが好ましいですか?

これはユダヤ倫理ハラハーの両面に関わる、深い問いです。

まず、両方の行為、親を支えることと、慈善を行うことはトーラーが強く奨励する善行です。

トーラーは「父と母を敬え」出エジプト記20:12と命じています

あなたの父と母を敬え。あなたの神があなたに与える土地で、あなたの日々が長く続くように。」

この「敬う」は、親に食べ物衣服を与え、必要を支えることを含みますキドゥシン 31b)。

ですから収入を用いて親を支えるのは非常に重要なミツヴァです。

同時に、トーラーは「貧しい人を見捨ててはならない」申命記 15:7–11とも命じています

あなた兄弟の中に貧しい者がいたら、心を閉ざしてはならない。」

ツェダカーは単なる寄付ではなく、正義実践です。

ラビたちは「世界は三つの柱によって立つ、トーラー礼拝、そして慈善によって」(アヴォット 1:2)と教えています

ハラハーにはツェダカーの優先順位という考えがあります

ラビヨセフ・カロは『シュルハン・アルーフ, ヨレ・デア 251』でこう定めています

自分の父母を支えることは、他の貧者よりも優先する。」

まり、親が経済的必要としているなら、まずは親を支えるのがユダヤ的に正しい順序です。

しかし、もし親が十分に生活できているなら、その上でツェダカーに一部を分け与えるのがより完全な道です。

最も理想的なのは次のようなバランスです:

  • 親を「敬い」、必要ならしっかり支える
  • そして収入の一部をツェダカーに使う

これがハラハーとムサールの両方に沿った行動です。

行為トーラー上の価値優先順位
親を支える20:12, 申5:16 最優先(必要があるなら)
慈善を行う 申15:7–11,詩編112 親が十分であれば次に行う

まり、「すべて親に与える」か「一部を慈善に回す」かは、親の経済的状態によります

親が困っているなら、まず親に。親が十分に暮らしているなら、親を敬いながらツェダカーも行うのが、よりユダヤ的な理想です。

Permalink |記事への反応(0) | 05:47

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2025-10-26

anond:20251026014624

ユダヤの教えには、「親に対する敬意」というテーマが非常に重く、深く扱われていますトーラー律法)にもはっきりと書かれています

あなたの父と母を敬え」(出エジプト記20:12申命記 5:16)

現代ではSNSなどで自分感情を発信しやすくなっていますが、ユダヤ視点から見ると、親を公の場で批判したり恥をかかせたりすることは非常に慎むべき行為とされますタルムードでは次のように教えています

キドゥシン31a

「父や母に対して言葉で恥をかかせる者は、神の前でも罪を犯す。」

また、「ラションハラー(悪い言葉他人貶める言葉)」の禁止関係します。

ハフェツ・ハイム(Chafetz Chaim)は、「たとえ真実であっても、他人の悪を公に語ることは神の意に反する」と説きました。親もその「他人」に含まれます

ネット上に悪口を書くことは、まさに「公開の場で恥をかかせる」行為です。

もし親との関係が苦しく、傷ついている場合感情を抑え込むのではなく、「安全な形で」「尊敬を保ちながら」助けやカウンセリングを求めることが勧められます

トーラーが命じる「敬意」とは「盲目的な服従」ではなく、「人間としての尊厳を保ちながら関係を築こうとする努力」です。

詩篇 34:14

「悪を避け、善を行い、平和を求め、それを追い求めよ。」

1. 親を公に恥じ入らせないこと — 敬意の基本。

2. 怒りや苦しみを表すなら、建設的な形で — 信頼できる人・ラビカウンセラー相談する。

3.言葉現実を作る —ネットでの言葉も「ミツヴァ(善行)」にも「アヴェラ(罪)」にもなる。

ですから、もし親との関係で心が苦しいなら、ユダヤの教えは「沈黙しなさい」ではなく、「癒しと修復に向かう道を選びなさい」と呼びかけます

Permalink |記事への反応(0) | 01:56

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2025-10-22

anond:20251022225413

あなた文章はいくつかのテーマが含まれていますユダヤ教的な視点からそれぞれを考えてみましょう。

1. 「ズレ」や「予測不能性」とユダヤ思考

ユダヤ教では、人間の行動が単なる機械的自然的な反応ではなく、自由意志によって導かれると考えます

トーラーの中でも、神はモーセを通じてイスラエルにこう語ります

「見よ、今日わたしあなたの前に命と善と、死と悪を置いた。」 (申命記 30:15)

まり人間決定論的な存在ではなく、ズレる存在。あえて予測不能な方向に選択できる存在として神に似せて創造された、という思想です(創世記1:27参照)。

この意味で、「ズレ」は単なる奇行ではなく、機械的自然の流れに対して、神的な選択を行う余地のもの象徴しているとも言えます

2. 「量子乱数的ズレ」と「神秘自由意志

あなたが挙げた「量子乱数で行動すればズレが作れる」という発想は非常に現代的です。

ただしユダヤ教的には、偶然のように見えることも神の摂理の中にありますタルムード(バヴァ・バトラ 91b)はこう言います

「人は自分の行いを選ぶが、その結果を決めるのは天の御手にある。」

まり予測不能行為も偶然も、本当の自由倫理的な方向へ意識的に選ぶ力にこそある、と考えます

3. 「自由意志倫理的行動のために使う」

あなた最後の一文

「もし自由意志を持っていることを信じるなら、その自由意志倫理的行動のために使うのが進化した人間という生物

これはユダヤ思想と非常に響き合います

タルムードアボット 3:15)はこう述べます

「すべては天に定められているが、神を畏れることだけは人に委ねられている。」

まり自由意志の究極の目的倫理的選択にある。本能的なズレではなく、意識的に正しい方向にズレること。それが神の似姿としての人間の使命です。

まとめ

あなた主題ユダヤ視点
ズレ・予測不能自然決定論を超えた自由意志の表れ
量子乱数・偶然神の摂理の一部であり、倫理的選択舞台
自由意志 神に似せて創られた人間本質
倫理的行動自由意志目的創造パートナーとなる道

Permalink |記事への反応(0) | 22:59

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2025-10-19

引き寄せの法則」に対しユダヤ教はなんと応じますか?

引き寄せの法則」や「思考現実を作る」という考え方は、近代的なスピリチュアル思想でよく語られますが、根本的な違いも明確です。以下に整理して説明します。

1.ユダヤ教における人間思考現実関係

ユダヤ教では、人間思考言葉には霊的な力があると考えます

箴言ミシュレ)18:21にはこうあります

「死と生は舌の力にあり。」

まり、人の言葉思考現実を動かす潜在力を持ちます

ただし、それは「自分宇宙を動かす」意味ではなく、人の思考言葉を通じて、神が世界に影響を与えるという考え方です。

2. 「引き寄せ」ではなく「祈り」と「信頼」

ユダヤ教では、「引き寄せる」というよりも、「祈る」という行為が中心です。

祈り目的は「自分思考現実を変える」ことではなく、自分自身を神の意志に整えることです。

ラビ・シュネウル・ザルマン(ハバド思想創始者)はタニヤでこう述べています

「人の思考現実を形づくる力を持つが、それは神の意志に一致しているときにのみ力を発揮する。」

まりユダヤ視点では:

という位置づけです。

3. 「思考現実を作る」の危険

ユダヤ教は、人間神格化することを避けます

自分思考現実を創る」という考え方が強くなりすぎると、偶像崇拝(アヴォダ・ザラ)の一歩手前になってしまう恐れがあります

なぜなら、それは「自分意志宇宙の中心」とする発想だからです。

申命記 8:17–18にこうあります

あなたが心の中で『私の力と手の強さがこの富を得た』と言ってはならない。あなたの神、主を覚えなさい。」

まり成功や変化の根源は自分思考や力ではなく、神の導きであるということです。

4.ユダヤ的「思考の力」:ビトホン(信頼)とアハヴァ(愛)

一方で、ユダヤ教は「信頼」の力を非常に重視します。

人が神に全き信頼を置くとき、神の祝福がその人を通して現れる。これも一種の「霊的な引き寄せ」です。

詩篇37:3–5にこう書かれています

「主に信頼し、善を行え。…主を喜べ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。」

ここでいう「願いが叶う」とは、自分欲望を叶えるというより、神との調和の中で自分の願いが浄化され、現実化されるという意味です。

まとめ

観点引き寄せの法則ユダヤ教の考え
力の源自分思考
目的現実を思い通りに変える自分を神の意志に整える
方法イメージ自己暗示祈り、信頼、トーラー実践
結果自己実現 神との関係の深化と祝福

もしあなたが「ユダヤ的な引き寄せ」を実践したいなら、それは「神を信頼し、良い思考言葉を持ち、善行を積むこと」です。

それが最も強力な「霊的引き寄せ」の形といえるでしょう。

Permalink |記事への反応(0) | 12:58

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2025-10-15

積極財政緊縮財政かで議論している日本人に、なんかユダヤの知恵とかないすか?

ユダヤ伝統には「お金」「共同体」「責任」に関する多くの知恵があります。そこから現代政策議論に通じる示唆を得ることができます

🕎 1. 「中庸バランス)」という知恵 — Kohelet(伝道の書)7:16–18

「義に過ぎてはならない。知りすぎてもならない。… ただ、神を恐れる者は、これらすべてを避ける。」

ここでの教えは「極端に走らず、全体のバランスを見ること」。

財政政策も、過剰な緊縮で人々を苦しめてはならず、また過剰な支出未来世代を苦しめてもならない。

バランス時機の見極めがユダヤの知恵です。

💰 2. 「貧しい者を支える」義務申命記 15:7–8

あなた兄弟が貧しくなったなら…心を閉ざしてはならない。必ず手を開いて、必要に応じて貸してやる。」

ユダヤ思想では、貧しい者を助けることは「慈善」ではなく「正義(tzedakah)」です。

まり国家が困窮者を支えるために支出することは、単なる優しさではなく社会的正義の実現です。

これは、積極財政倫理的側面を支える根拠ともなります

🧩 3. 「未来への責任」—タルムード・タアニート 23a(ハニナ・ベン・ドサの物語

「人は自分のためだけでなく、子孫のために木を植える。」

財政も同じで、今の繁栄のために未来犠牲にしてはならない。

投資は「将来の世代のための木を植える」意識を持つべきだと教えています

🧠結論

ユダヤの知恵から導ける財政哲学をまとめると:

Permalink |記事への反応(0) | 17:40

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2025-10-13

anond:20251013024316

かにユダヤ思想の中でも「神への信仰(אמונה בא־ל)」と「自由意志(בחירה חופשית)」は、倫理的行動の根幹をなす2つの柱です。

ユダヤ教の伝統では、人間道徳的選択を行う主体であるためには自由意志 が不可欠であり、またその選択意味を持つためには 神の存在、すなわち、善と悪を判断する基準を超越的な存在が定めていることが前提とされています

ラビアキバはこう述べました:

「すべては前もって知られているが、自由意志が与えられている」(アボット 3:15)

まり、神は人間の行動を知っておられるが、それでも人は自らの行為責任を負う、という両立の思想です。

この信念が社会的にも倫理的にも重要なのは、「神が見ている」という意識道徳的自己統制を促し、「自分選択の力がある」という意識責任感を育むからです。

タナハ(旧約聖書)にも同じ構造が見られます

「見よ、今日、私はあなたの前に命と善、死と悪を置いた。…命を選びなさい」(申命記30:15,19)

ここでは、自由意志をもって神の道を選ぶこと が、人間道徳的価値の核心であると明言されています

ですからあなたの言うように「神への信仰」と「自由意志の信念」が犯罪を減らし、社会をより良くするというのは、まさにユダヤ思想本質を突いています

それは「恐れ」と「責任」のバランスによって人間を律する道でもあります

Permalink |記事への反応(1) | 02:46

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2025-10-06

anond:20251006175226

旧約聖書申命記羊毛と他のなんかを混ぜて織った服を着てはならない」

Permalink |記事への反応(1) | 17:54

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2025-09-17

俺程度の経験則なんてしょぼいのよ。その点ユダヤ歴史は5000年

個人経験人生の知恵は大切だが、ユダヤ歴史が何千年も続いてきたことは、まさに個を超えた知恵の積み重ねである

伝統の中で培われてきた教えや議論は、単なる一代限りの体験を超えた長い時間対話と言える。

タナフ(聖書)でもこう語られている。

「父に尋ねよ、彼はあなたに告げ、長老たちに問え、彼らはあなたに語るであろう。」(申命記 32:7)

まり個人経験だけでなく、過去世代の歩みと知恵に耳を傾けることが、人生を豊かに導くということ。

Permalink |記事への反応(1) | 12:25

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2025-09-16

進歩派左翼はなぜ神の摂理否定する?

進歩派左翼」といった政治的立場一枚岩ではなく、その中にさまざまな思想傾向があります

傾向として以下のような理由が考えられます

1.合理主義科学主義への傾斜

近代以降、特に啓蒙思想の影響を受けた政治的左派は、人間理性や科学を重視し、超自然的な摂理よりも「人間歴史をつくる」という視点に立ちやすいです。

これは「世界神の手にある」とする信仰よりも、「人間意志社会制度改革がすべてを決める」と考える姿勢につながります

2.人間自主性・自由の強調

神の摂理を強調すると「人間はただ従うだけ」という理解につながると考え、逆に「人間解放」や「社会正義」を人間の行動のみに基づいて語りたい傾向があります

この点は、ある意味で「神の導きを介さずとも人間自分運命を変えられる」という理念です。

3.宗教権力への警戒

歴史的に、宗教権力と結びついて抑圧に用いられた事例も多くありました。そのため左派の一部は「神の摂理概念自体支配の道具と見なし、否定する傾向があります

 

ユダヤ的な観点から見ると、タナフやタルムードはまさに「神の摂理」と「人間自由意志」の両立を教えます

箴言 19:21「人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが立つ。」

申命記 30:19「いのちと死、祝福と呪いあなたの前に置いた。あなたはいのちを選べ。」

ベラホット 33b「すべては天の御手にある。ただし神を畏れることだけは人間の手にある。」

ユダヤ伝統では「人間自由責任」と「神の摂理」は両立し得る、と教えられています

Permalink |記事への反応(0) | 04:05

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2025-07-31

ネットバカ話題で溢れているのは人間という存在設計ミス

Q:人間は「設計ミス」なのか?

A: いいえ、人間意図的に「未完成」に創られた存在です。

タナハ(聖書)ではこう語られています

「神はご自身のかたちに人を創造された」(創世記 1:27)

しかしそのすぐ後に、人間は間違い(エデンの園での罪)を犯します。

そして、タルムードニダー 16bなど)ではこうも語られます

「人が生まれる前に、天使は彼にすべてのトーラーを教え、彼はすべてを知っている。だが生まれる瞬間、その知識を忘れてしまう。」

まり人間は「完全ではない状態」で生きることを運命づけられています。なぜか?

これはタルムード的に見ると「自由意志」の問題です。

神は人間に「善と悪を選ぶ力」を与えました(申命記 30:19)

「命と死、祝福と呪いあなたの前に置いた。あなたは命を選びなさい。」

インターネットはこの「選択の自由」を広げた道具です。

それゆえ、価値ある知恵も、くだらない話題も、善も悪も、全てが並んで存在しています

タルムードハガーガー(Chagigah 15a)では、エリシャ・ベン・アブヤ(「アヘル」)というラビが、知識誤用して道を踏み外した話があります

彼はトーラーを知っていたが、その知識を神への謙虚さに使わなかった。

知識や道具は中立だが、それをどう使うかは人間次第。

インターネットが「バカ話題」で溢れているなら、それはむしろ自分が何を選ぶか、何に目を向けるかのテストでもあります

賢者はどこから学ぶのか?あらゆる人からだ」(タヒリーム /詩篇 119:99)

まり、「バカ話題」の中からも、何かを学ぼうとする姿勢が求められているのです。

Permalink |記事への反応(0) | 22:30

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

自由意志の欠如が愚を生む?自由意志が愚を生む?

聖書タルムード観点から見ると、自由意志の欠如は人間責任や学びの機会を奪うとされています

ユダヤ思想において、人間自由意志を与えられており、それこそが「正しい道」と「悪の道」を選ぶ根本の前提です。

「見よ、わたし今日あなたの前に命と幸い、死と災いを置く。」 —申命記 30:15

ここでは選択の自由が明確に前提とされています自由意志がなければ、このような選べという命令無意味になります

また、愚かさはしばしば無知や不学、または自分の行動に対する責任理解しないことからまれます

自由意志がない状態では、人は学び、悔い改め、改善することが難しくなります

したがって、自由意志の欠如は、無知無責任な行動につながり、結果として愚を生むことがある、と言えるでしょう。

一方で、自由意志を持っているにも関わらず愚かな選択をする人も多い、というのが人間現実です。これはタルムードでも繰り返し論じられています

たとえば、神が人に自由意志を与えたのは、善を選ぶことによって人が成長し、報酬を得るようにするためです(ベラホット 33b)。しかし、選択の自由悪用することも可能です。

愚か者は自らの道を正しいと思う、しかし知恵ある者は忠告を聞く。」 —箴言12:15

まり自由意志のものは愚を生む原因ではなく、それをどう使うかが問題です。

自由意志があるがゆえに愚かな道を選んでしま場合、それは自由意志問題ではなく、性格教育、徳の問題として捉えるべきです。

タルムードではこういったテーマを非常に深く扱います。以下のような教えがあります

「すべては天から定められている。ただし神への畏れを除いて。」 — ベラホット 33b

この有名な言葉は、人生の大半は定められているが、神への畏れ(=道徳的選択)は人の自由意志に委ねられていると語っています

Permalink |記事への反応(1) | 10:05

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2025-07-30

予言が当たるとかどうとか関係ないよ

YHWH以外の何かを崇拝する者が預言者を名乗った時点で偽預言者確定

「もしあなたのうちに預言者または夢見る者が起こり、あなたしるし不思議を示し、あなたの知らなかったほかの神々に従って仕えようと言うならば、あなたはその者の言うことを聞いてはならない。」—申命記(דברים)13:2

Permalink |記事への反応(0) | 21:08

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2025-07-26

anond:20250726184238

旧約聖書たつき諒(偽預言者)の存在予言しているよ

預言者夢占いをする者があなたたちの中に現れ、しるし奇跡を示して、 そのしるしや奇跡が言ったとおり実現したとき、「あなたの知らなかった他の神々に従い、これに仕えようではないか」と誘われても、 その偽預言者夢占いをする者の言葉に耳を貸してはならない。あなたたちの神、主はあなたたちを試し、心を尽くし、魂を尽くして、あなたたちの神、主を愛するかどうかを知ろうとされるからである。-申命記 13:2-4

Permalink |記事への反応(0) | 18:50

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2025-07-07

anond:20250707102432

夢を預言書にした、というだけでユダヤ教徒から顰蹙を買いそうだね

申命記を読んだほうがいいね

Permalink |記事への反応(0) | 10:26

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2025-07-06

申命記 13:2-4

預言者夢占いをする者があなたたちの中に現れ、しるし奇跡を示して、 そのしるしや奇跡が言ったとおり実現したとき、「あなたの知らなかった他の神々に従い、これに仕えようではないか」と誘われても、 その預言者夢占いをする者の言葉に耳を貸してはならない。あなたたちの神、主はあなたたちを試し、心を尽くし、魂を尽くして、あなたたちの神、主を愛するかどうかを知ろうとされるからである

預言者を信じる偶像崇拝者たちは地獄行きでーす😝

Permalink |記事への反応(0) | 12:52

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2025-04-13

モーセ約束の地に入れなかったと聞いたんですけど、本当ですか?

あ~そうなんですよ、これまた切ない話でしてね。

モーセといえば、エジプトからイスラエルの民を連れ出して、約束の地カナンを目指して40年間も砂漠を旅した、超重要人物ですよね。『出エジプト記』では海を割ったり、『民数記』でも大活躍してるんですが……

なんと、そのモーセ本人が約束の地に入れなかったんですよ。

「え、なんで? モーセほど頑張った人いないでしょ?」

その理由が『民数記20章に書かれてます。ざっくりいうとこういう経緯です:

  1. 民が砂漠水不足にキレる →モーセに「水がないぞ!」って怒る
  2. 神様モーセに「岩に向かって話しかけると水が出るから」と指示
  3. モーセが怒りやイライラを抑えきれず、「この反逆者どもよ!俺たちがお前らのために水を出さなきゃならんのか!」と言ってしまう(怒りすぎ!)
  4. さらに、神様の指示(岩に語りかける)を守らず、岩を杖で「バンバン!」と叩いてしまった(叩くのダメって言われてたのに!)

それで、神様ちょっと厳しいお言葉をかけるわけです。

民数記20:12

あなたがたはわたしを信じず、イスラエルの人々の前でわたしを聖なる者としなかった。ゆえに、あなたがたはこの民をわたしが彼らに与える地に導き入れることはできない。」

簡単に言うと、

ってことで、結果、モーセ約束の地に入れないことになったんです。

じゃあモーセはどうなったの?

申命記』という書物最後で、モーセはネボ山という山の頂上から約束の地カナンを「眺める」ことだけが許されますカナンを目の前にして、ついに入れないまま、この世を去ってしまうのです。

主役が眺めることだけしかできないなんて……なんとも哀愁漂うエピソードですよね……。

でも!

その一方で、モーセ聖書の中で最も偉大な預言者として尊敬されていますし、新約聖書でもイエス・キリストと並んで語られるくらい重要存在です。

実際、「約束の地に入れない」という一見悲劇的な結末ですが、「モーセという人物が人々にとって神への信頼や従順さの象徴となった」という意味では、彼の人生は間違いなく大成功なんですよね。

Permalink |記事への反応(2) | 10:50

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2025-04-03

ユダヤ教における自由意志とは

ユダヤ教において自由意志(bechirah chofshit – בחירה חופשית)は非常に重要概念です。

基本的に、ユダヤ教人間自由意志が与えられていることを明確に認めています。これは、倫理的責任宗教的義務を果たすために不可欠な要素です。

1.トーラーにおける自由意志根拠

ユダヤ教経典では、自由意志が明確に示されています。たとえば、申命記(Devarim)30:19には次のように書かれています

「私は今日、天と地をあなたに対する証人として呼ぶ。私は命と死、祝福とのろいあなたの前に置いた。あなたあなたの子孫が生きるために、命を選びなさい。」

この言葉からも分かるように、神は人間選択の自由を与え、それに伴う責任を持たせています

2.自由意志と神の全知

「もし神がすべてを知っているなら、人間自由意志は本当に存在するのか?」という哲学的問題がありますが、ユダヤ思想では、この二つは矛盾しないと考えられています

たとえば、中世ユダヤ哲学者ラビ・モーシェ・ベン・マイモン(ラビムーラムラビマイモニデス) は、神の知識人間知識とは異なる次元のものであり、私たちには完全には理解できないと説明しています

3.自由意志倫理的責任

自由意志があるからこそ、人間には ミツヴォット(戒律) を守る責任が生じます。もし人間自由に善と悪を選べなかったら、律法を守ることや、悔い改め(teshuvah – תשובה)の概念意味をなさなくなります

4. ただし自由意志絶対ではない

興味深いことに、ユダヤ教では「すべての選択自由であるわけではない」とも考えられています。例えば:

5.自由意志責任バランス

タルムードマッセヘト・ベラホット 33b)は次のように述べています

「すべては天の手にある。ただし、神への畏れを除いて。」

まり私たちは多くのことをコントロールできませんが、神を敬い、正しい道を選ぶかどうかは、私たち自由に委ねられています

結論

ユダヤ教では、自由意志人間本質の一部であり、それによって私たち倫理的に行動する責任を負っています

選択の自由があるからこそ、善を選ぶことに価値があり、teshuvah(悔い改め)によって過ちを正すことができます

自由意志は祝福であり、同時に試練でもあります

したがって、「選択肢がある」ということは、人生において非常にユダヤ的な考え方なのです!

Permalink |記事への反応(0) | 12:47

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2025-03-03

通院するときに限って雨が降るのですが、何を意味しますか?

面白いですね!ユダヤ教では、雨はしばしば祝福と関連づけられています。たとえば、タナハ(ヘブライ聖書)では、雨は神の恵みの象徴として描かれ、適切な時期に降る雨は繁栄や祝福のしるしとされています申命記11:14)。

しかし、「通院するときに限って雨が降る」というのは、ちょっとした試練のようにも感じられますね。ユダヤ思想では、「ハッシュガハー・プラティット(השגחה פרטית)」、つまり神の摂理という概念があります。これは、神が個々の出来事にも関わっているという考えです。もしかすると、これは「ちょっと気をつけてね」とか、「あなたには特別意味がある出来事ですよ」という神からメッセージかもしれません。

また、タルムードには、「すべての出来事には意味がある」との教えがあります。たとえば、ラビたちは試練を「内省する機会」として捉えることを勧めています。「なぜ私はこの状況にいるのか?」「この雨をどうポジティブに捉えられるか?」と考えるのもユダヤ的なアプローチです。もしかすると、雨の日の静けさが、心を落ち着け時間を与えてくれているのかもしれません。

それとも…もしかして、傘を新調するチャンスかもしれませんね!😄

Permalink |記事への反応(0) | 06:00

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2023-01-04

2022年に読んだ本

1月

琉球から歴史の原文へ。太平記史記を並行して読み始める。

現代語訳とはいえ長くてしんどい

2月

メモを取っているので一冊にかける時間が長い。とはいえ世界史教科書では一行で終わっていた出来事の細部を知るのは面白い

3月

ウェブ小説を読む。

4月

東アジア史が中心。

5月

詩集芥川賞に手を出す。

シン・ウルトラマンを見たせいか特撮関係の本が後半に増える。

6月

後半には自分学生時代ベストセラーだった本を手に取った。

価値観現代とは変わってしまっている点が多数あり、今読むときついと感じる箇所も。

7月

暴力団言語学、法学テーマの月だった。

8月

旧約聖書を読み始める。

9月

ちょくちょくSFを挟んで旧約聖書を読み進める。

10

旧約聖書読了学生時代新約聖書通読たから一応全部読んだことになる。

カズオ・イシグロ邦訳が出ているのはたぶん読み終えた。

11月

生物の標本にまつわる本を読みだす。やはり生物学は面白いネタが尽きない。

12月

土偶埴輪についても読む。

漫画

ジョジョを読み終えた。それにしてもハルタコミックスばっかりだ。

十三機兵防衛圏については友人に薦められたかクリア後のノリで買った。

美術展など

今年はたくさんいけた。行かない月もあった気がするが、それはそれ、そのときの気分に従った。

映画

「シン・ウルトラマン」★★

プラットフォーム」★

エクストリームジョブ

12モンキーズ」★★★

雑感

(長くなったのでブコメ

2021年に読んだ本

今更だけど2020年に読んだ本

Permalink |記事への反応(5) | 07:57

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2022-04-19

anond:20220419184755

申命記 18:10-12

あなたがたのうちに、自分のむすこ、娘を火に焼いてささげる者があってはならない。また占いをする者、卜者、易者、魔法使、呪文を唱える者、口寄せ、かんなぎ、死人に問うことをする者があってはならない。 主はすべてこれらの事をする者を憎まれからである。そしてこれらの憎むべき事のゆえにあなたの神、主は彼らをあなたの前から追い払われるのである

Permalink |記事への反応(0) | 18:51

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2022-02-01

anond:20220201182404

信者自己責任っぽい

クリスチャン​は,血液​分画​を​用いる​治療​を​受け入れ​て​よい​でしょ​う​か。聖書​は​細か​な​こと​を​述べ​て​は​い​ない​の​で,各人​が​神​の​み前​で​自分​の​良心​に​従っ​て​決定​し​なけれ​ば​なり​ませ​ん。ある​人​たち​は,神​が​イスラエル​に​与え​た​律法​の​下​で​は​生き物​から​抜い​た​血​は「地面​に​注ぎ出す」べき​だっ​た​と​いう​こと​を​考え​て,すべて​の​分画​を​拒み​ます。(申命記12:22‐24)また​ある​人​たち​は,全血​や​主要​成分​の​輸血​は​拒む​もの​ の,いずれ​か​の​分画​を​用いる​治療​を​受け入れ​ます血液から抽出​さ​れ​た​分画​は,ある​時点​で,その​血​を​有し​て​い​た​生き物​の​命​を​表わさ​なく​なる,と​考える​の​か​も​しれ​ませ​ん。

https://www.jw.org/ja/%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%AA%E3%83%BC/%E6%9C%AC/%E7%A5%9E-%E6%84%9B/%E8%A1%80%E6%B6%B2-%E5%88%86%E7%94%BB-%E5%A4%96%E7%A7%91%E7%9A%84-%E5%87%A6%E7%BD%AE/

Permalink |記事への反応(0) | 18:28

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2019-05-23

anond:20190523164847

申命記(Book of Deuteronomy)14:10「すべて、ひれと、うろこのないものは、食べてはならない。これは汚れたものである。」と反捕鯨・反イルカ漁の話もする?

Permalink |記事への反応(0) | 17:06

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

 
ログインユーザー登録
ようこそ ゲスト さん
Copyright (C) 2001-2025 hatena. All Rights Reserved.

[8]ページ先頭

©2009-2025 Movatter.jp