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はてなキーワード:田園に死すとは

2025-07-25

寺山の修ちゃん高校生時代wwwwww

海を知らぬ
少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり


教科書でも見かけるこの歌は寺山修司歌集によれば高校生時代-1957年以前に作られたという。

ぱっと見では分かりにくいが、これは変な歌だ

そもそも「海を知らぬ少女」とはなにか?

なぜ「麦藁帽のわれ」が「両手をひろげている」のかの理由は全て読み手想像に任せている

穂村弘

冒頭の引用歌では「少女」という他者が「海を知らぬ」と内面から規定され「われ」の方が「麦藁帽の」とまず外側から捉えられているのだ。
これはは一見ささやかしかし、一人称視点原則とするこの詩形においては得意な逆転現象である

解説している。

教科書高校生の作った歌(多分)が乗っていることよりもこのハイレベル過ぎる一首を恐らくは高校生時代作成している修ちゃんマジで怖い


まだ生まれざるおとうとが暁の曠野の果てに牛呼ぶ声ぞ

田園に死す子守唄より引用

なんということだろうか、海を知らぬ少女の前で手をひろげていたあの高校生は何年か経ち、これほどまでに変わってしまったのである

そう言えば理由説明していないと私は言ったが

その前後の歌はこうある

わが通る果樹園小屋いつも暗く父と呼びたき番人が棲む



果樹園の中に明日あり木柵に胸いたきまで押しつけて画く


うーん…これが高校生の作る歌なのか。というのは置いといて

やはり前後の歌を見ても「海を知らぬ少女」については説明していない事がわかる。

だが、そうでありながら読み手脳内にはこの場所は海なんだろうなとかいや野原なんじゃないかとか勝手に浮かぶものであってそれがこの歌のまたすごいところである

かに少女が「海を知らぬ」理由もわれが「両手をひろげている」理由説明できなくはない。

ただ、説明してしまうと歌の世界では「言葉にしすぎ」「くどい」と嫌われてしまものだ。

ちゃん高校生にしてこの嫌われてしまう点を避け、かつこんなにみずみずしく思想を感じない歌を作っている。だからすさまじいのだ

先日、短歌誌で高校生短歌をいくつか読んだ

どれも素晴らしかったのだが、やはり寺山修司には一歩及ばずといった感じだった。

本来高校生というのは伝えたいことが溢れて溢れて治まらない、そんな生物だと思っている。

そんな生物がこうして31文字の中で読み手に任せているというのはすごいことなんじゃないか

Permalink |記事への反応(0) | 08:42

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2020-11-21

田園に死すとか言うくらいだから米なんて有難くも何とも無いんですよ

偉い人には分からんのです

Permalink |記事への反応(0) | 03:56

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2018-09-01

結局ねじ式って寺山修司

なんだな。

寺山修司は偉大。


最近この人の作品をぼちぼち見始めたんだけど、感覚に刺さる。

すごい。

刺さる人には刺さるタイプで、それ以外の人が見てもさっぱりなんだろうけど。

はてな民は割と好きそうだと思う。

田園に死すが良いよ。

Permalink |記事への反応(0) | 15:30

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