
はてなキーワード:田園に死すとは
教科書でも見かけるこの歌は寺山修司全歌集によれば高校生時代-1957年以前に作られたという。
ぱっと見では分かりにくいが、これは変な歌だ
なぜ「麦藁帽のわれ」が「両手をひろげている」のかの理由は全て読み手の想像に任せている
穂村弘も
と解説している。
教科書に高校生の作った歌(多分)が乗っていることよりもこのハイレベル過ぎる一首を恐らくは高校生時代に作成している修ちゃんはマジで怖い
なんということだろうか、海を知らぬ少女の前で手をひろげていたあの高校生は何年か経ち、これほどまでに変わってしまったのである。
その前後の歌はこうある
うーん…これが高校生の作る歌なのか。というのは置いといて
やはり前後の歌を見ても「海を知らぬ少女」については説明していない事がわかる。
だが、そうでありながら読み手の脳内にはこの場所は海なんだろうなとかいや野原なんじゃないかとか勝手に浮かぶものであってそれがこの歌のまたすごいところである。
確かに少女が「海を知らぬ」理由もわれが「両手をひろげている」理由も説明できなくはない。
ただ、説明してしまうと歌の世界では「言葉にしすぎ」「くどい」と嫌われてしまうものだ。
修ちゃんは高校生にしてこの嫌われてしまう点を避け、かつこんなにみずみずしく思想を感じない歌を作っている。だからすさまじいのだ
どれも素晴らしかったのだが、やはり寺山修司には一歩及ばずといった感じだった。
本来、高校生というのは伝えたいことが溢れて溢れて治まらない、そんな生物だと思っている。