
はてなキーワード:生産年齢人口とは
了解。元の論旨(「現実を直視せよ」)に乗っかって、「縮小均衡でいい」という主張への反論をまとめます。
インフラ(道路・上下水道・鉄道・送配電網・自治体運営・救急/消防)は固定費が大きい。人口・納税者が縮んでも費用は比例して下がらない。利用者減→運賃/料金↑→さらなる離脱→ネットワーク縮退…と負のスパイラルに陥りやすく、安定均衡より「崩れの連鎖」になりがち。
日本は食とエネルギーを外から買って生きる国。外貨を稼ぐ製造業・サービスの規模が一定ラインを割ると、交易条件の悪化、通貨の弱体化、調達コスト上昇が重なる。さらに国防は規模の経済が効く分野で、装備調達・人員維持・技術基盤に下限の規模がある。ここを割る「縮小」は安全保障リスクを跳ね上げる。
均等に縮むならまだしも、先に減るのは生産年齢人口。要介護・医療需要はむしろ増える。結果、依存率の上昇で一人当たりの負担が加速度的に重くなり、医療・介護・年金の給付削減か増税のどちらか(多くは両方)を強いられる。「ほどよい縮小」で止まらない。
学校・病院・路線・商業は一定の需要を割ると突然維持不能になる(段階的ではなく飛び石的に崩れる)。廃校・病院撤退・減便/廃線→通院・就学が困難→転出→税基盤縮小…と、局所的な“均衡”は成立しにくい。
研究開発、人材育成、スタートアップ、部材・設備・サプライヤーの集積は人と資本の密度が生命線。縮小は需要・人材プール・風呂敷(市場)を同時に縮め、投資採算を悪化させる。結果、技術導入・自動化で埋めたい穴がかえって埋まらない。
税収基盤↓/社会保障支出↑/インフラ更新費は下がらない。どこかで(1)給付削減、(2)増税、(3)政府債務増の選択になる。債務増に依存すれば、わずかな金利上振れで利払いが公共投資を食い荒らす。これも均衡を不安定化させる。
平時の“ギリ保てる縮小均衡”は、災害・資源価格高騰・隣国の圧力といったショックで簡単に壊れる。冗長性・予備費・防災力が痩せるほど、社会は脆くなる。
この骨太の“勘定”が示せない「縮小均衡」は、実質「均衡なき縮小=衰退容認」に過ぎない。
「縮小均衡で十分」という言説は、固定費と最小実行規模、依存率上昇、ネットワークの臨界、地政学ショックを軽視している。多くの分野で均衡は連続的ではなく崖をもつ。ゆえに現実的ではない。
https://anond.hatelabo.jp/20250930160407
「そのために労働条件よくすればよくね?」
に丁寧に答える
女性は80〜88%くらい
https://www.jil.go.jp/kokunai/blt/backnumber/2025/03/c_01.html
育休を考えると、かなり限界に近い
専業主婦が居る現役世帯は566万世帯で、全体の23%にあたるが、独身を含めたら生産年齢の女性の15%くらいだ
https://www.gender.go.jp/about_danjo/whitepaper/r04/zentai/html/zuhyo/zuhyo02-15.html
一応、「無理やりひねり出したら女性の余力があと5%ある」と考えておこう
3300万人×0.05=165万人
現在、65〜69歳の就業率は2023年に53.5%で過去最高
今後、この層の就業率は上がっていくだろう(5年で4%くらい)
(740万人の4%は37万人)
70〜74歳も34.5%働いている
https://www8.cao.go.jp/kourei/whitepaper/w-2024/html/zenbun/s1_2_1.html
だいたい70%がアルバイトをしている
が、まあ捻り出してもう5%働いてもらうとしよう
>就業者数は6850万人。前年同月に比べ55万人の増加。36か月連続の増加
これは女性やシニアが増えているのが大きそう、インフレで働かないと暮らしていけなくなったのかも?
https://www.stat.go.jp/data/roudou/sokuhou/tsuki/index.html?utm_source=chatgpt.com
さて、めちゃくちゃ働いてる勤労日本人だが、まだ余力がいくらかあるね
次の15年でこのくらい追加で働いてもらうとしよう
合計 292万人/15年
ざっくり5年あたり100万人
2025年 7484万人
2035年 7076万人(▲408万人)
2040年 6727万人(▲757万人)
というわけで、めちゃくちゃ減るので「女性、学生、シニアの余力を総動員して」なんとかなるのがせいぜいあと5年ということがわかる
ちなみに、この生産年齢人口(20〜69歳)における、60代の割合はこうなる
2030年 21.8%
2040年 25.7%
このまま増えるとすると
5年で115万人
15年で345万人
20年で460万人
| 年 | 労働者数(万人) | +捻り出す余力 | 外国人 | 合計 |
| 2025 | 6850 | - | - | 6850 |
| 2030 | 6688 | 100 | 115 | 6903 |
| 2035 | 6477 | 200 | 230 | 6907 |
| 2040 | 6157 | 300 | 345 | 6802 |
| 2045 | 5697 | 400 | 460 | 6557 |
こう考えると国はようやっとる
今の外国人労働者数の増加数は、当面多くも少なくもない
まあまあ、気持ちは分かるが
たぶんAIとか全力で使ってトントンだと思うよ、今の雰囲気を見るに
なんか上手く行って労働者が余ったら、外国人・老人・学生・主婦が働かなくなるだけで調整できる、むしろそうなってほしい
(外国人や老人などが調整弁の役割になってるわけだね、そういう制度設計も必要になる)
女性や老人や学生を入れてなお足りないから、足りない分外国人を計画的に入れてる感じですね
でも長い歴史で見ると、ソッチのほうが主流なんだよね
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345万人増えたら、東京でおそらく+70万人だから、徐々に問題が顕在化はしていきそう
生産年齢人口が▲1260万人、2040年から5年で500万人も減るんだよね、その時にもしイギリスやドイツみたいに「1年に100万人外国人受け入れる」となったら今のEUの悲惨な状況みたいになる
(ちなみに今の出生数が70万人くらいだから、20年後、このままでも「若者70万人に対して増える外国人が20万人」というエグい状態になる。というか例えばイギリスは20歳の人口が72万人のところに移民100万人くらいぶち込んだわけで、そりゃ荒れる)
経済をシュリンクしろとか省エネで頑張れとかAI使えとか、そういうのは国は一旦後回しにしてるんだと思うんだけど、10年以内にどうするか決めておかなきゃいけない
しかし、移民政策って今国会を通さないでこっそり決めてるらしいからそれが何より問題だと思う(たぶん俎上にあげると決まらないんだろうね、右翼っぽい政党も出てきたし)
ずっと議論ができない空気だったらこのままこっそり決める流れになりそう、そしていつか壊れる
ちなみに日本の移民=外国人定住者の実態はこの動画が一番詳しかった
h ttps://www.youtube.com/watch?v=DkctET5zi0w
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人口が減るから労働者はそんなに要らないんじゃないか、という指摘は一部そうかもしれない
2040年は2025年に対して8.5%減るから、これがどう労働市場の需要に影響を与えるかわからない、ひょっとしたら要らないのかも?あるいは経済成長するには要るのかも?今って前提の戦略すら議論されてないからね
ただ産業毎の濃淡は確実に出る(建設や介護は不足する、ブルーカラーは全体で不足する)
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一応これは「労働力足りないなら女性やシニアや学生でよくない?」に対する回答ならびに国の方針の予想であって
「移民をどの程度受け入れるべきか?」「そのためにどうするべきか?」「労働需要は維持されるのか?」みたいな議論は別途あると思います
そっちの方が重要だとは思うんですけどね
Permalink |記事への反応(46) | 01:44
元の主張は「人手不足ではなく“給料不足”。時給を3,000円にすれば学生・主婦・高齢者で十分まかなえる。移民は不要」という趣旨ですが、これは現実の日本経済と制度・人口動態を正確に踏まえていません。
実務の現場では、①国内の可動労働力の“量”が足りない、②制度上フルに働けない層が多い、③一部の産業は価格規制や労働時間規制で“賃上げだけでは人が埋まらない”、④それでも需要は拡大している――ために、たとえコスト高でも外国人材を雇わざるを得ない、というのが実態です。
日本の15~64歳の生産年齢人口は長期低下トレンドで、足元まで減少が続いています。
労働需給はこの「分母」の制約を強く受けます。賃上げで労働参加が多少増えても、人口要因は跳ね返せません。
日本銀行や総務省系の統計系列でも、働き手の確保難が慢性化していることが示されています。
加えて、有効求人倍率は総合で1倍超を維持(=仕事の数が人の数を上回る)。産業別では建設・介護・運輸・宿泊飲食などで特に逼迫が続きます。
学生:在留資格(留学)で働けるのは学期中28時間/週が上限。そもそもフルタイムの穴は埋められません。
既婚女性:社会保険の“年収の壁”(106万円・130万円など)が就業調整を誘発。政府自身が壁対策を進めていること自体が、制度が労働時間拡大のボトルネックである証拠です(2025年法改正で要件撤廃方向)。
高齢者:在職老齢年金の仕組み( earningstest )は一定の閾値で年金が減るため労働供給を抑制し得る、との実証研究が内閣府エコノミストから出ています。体力面の制約も大きい。
つまり、“賃金さえ上げればみんなフルタイムで働く”という前提がまず成り立ちません。
介護:介護報酬という公定価格の枠内で賃金原資が決まるため、事業者単独の賃上げ余地には限界があります。一方で必要人数の見通しは2026年度+約25万人、2040年度+約57万人の不足と厚労省が公表。足元から構造的な人手不足です。
物流(トラック):2024年の残業上限規制で運転時間そのものが物理的に縮小(いわゆる「2024年問題」)。賃上げしても“時間の空白”は埋まらず、輸送能力は落ちます。
建設:国土交通省の調査でも技能労働者は恒常的に不足。工期や安全規制の制約下で、賃上げだけでは直ちに人が湧いてくる構造ではありません。
インバウンドは2024年にコロナ前を超えて過去最高を更新、2025年も過去最速ペース。
宿泊・飲食・小売・交通で人員需要は増え続けています。国内で必要人数が増える一方、供給側の人口・制度制約は緩まない――ミスマッチが拡大しています。
「移民(外国人材)は安い」というのも誤解です。企業側には日本人採用にない追加コストが確実に乗ります。
代表例:
手続・支援コスト:在留資格(特定技能)で雇う場合、受入企業には生活・日本語・行政手続の支援10項目が義務化され、外部の登録支援機関へ委託するなら1人あたり月2~3万円程度の委託料が相場と公的団体が解説。
初期費用:採用・渡航・住居手配・日本語/技能訓練などの初期費用は1人70~100万円程度を見込むケースが一般的に紹介されています(実務ガイド)。
コンプライアンス・監督:技能実習/特定技能は監督官庁・監理団体の関与が強く、違反時のリスクも高い(制度目的や保護規定も法令で明記)。
つまり、日本人採用より“高コスト”で“手間も大きい”のが普通です。
それでも企業が外国人材を選ぶのは、国内だけでは必要数を確保できないからにほかなりません。
政府もこの現実を踏まえ、特定技能の対象分野拡大・受入れ拡大方針を明確にしています。
公費・補助で狙い撃ち賃上げをしても、介護のように公定価格産業では結局“国民負担”(介護保険料や税)に跳ね返ります。
物流は労働時間規制がボトルネック、建設は養成に時間がかかる。
加えて、女性・高齢者の就業拡大は政府も推進中ですが、制度壁の撤廃や保育・介護の家事外部化には時間がかかり、直近の欠員は埋まりません。
MHLW白書も、近年の人手不足は「長期的・粘着的(persistent)」だと総括しています。
人口の分母が縮んでいるので、賃上げだけでは全体の穴は塞がらない。
外国人採用は日本人より“高コスト”だが、それでも需要を満たすために必要。
「時給3,000円にすれば国内だけで回る」は、人口・制度・規制・需要の四つ巴の現実を見落としています。
現場では、外国人採用は“安いから”ではなく、“高コストでもそれしか選択肢がない場面が増えているから” 進むのです。
日本の賃金水準引上げや制度改革(年収の壁の撤廃等)は重要で、同時並行で進めるべきです。ただ、それらの効果が出るまでのタイムラグと、そもそもの人口制約を考えれば、移民・外国人材受入れ、国内の省人化投資、労働参加促進の“三本立て”以外に現実解はありません。
必要なら、あなたの想定する具体的な業種・地域を教えてください。その条件で、どれだけ国内人材で埋められ、どこから外国人材が不可欠になるか、数字で試算します。
労働者不足=移民必要論はおかしい?──という問いに反論します。結論から言うと、「賃上げや補助は必要だが、それ“だけ”では足りない」です。理由は以下の通り。
2024年の春闘はバブル期以来の高い賃上げ率(5%超)。それでも有効求人倍率は1倍超、失業率は2%台にとどまり、需給の逼迫は続いた。もし「賃金さえ上げれば人は十分に集まる」なら、この規模の賃上げで逼迫は大きく和らぐはず。
(出典例:連合・経団連の賃上げ集計、総務省「労働力調査」、厚労省「一般職業紹介状況」)
働き手(生産年齢人口)は長期的に縮小。2040年にかけて労働供給の自然増は見込みにくい、というのは政府推計や日銀レビューの共通認識。賃金だけでは人口そのものは増えない。
(出典例:内閣府・国立社会保障・人口問題研究所の将来人口推計、日銀レビュー)
女性と高齢者の就業はすでに過去最高圏。65歳以上の就業率は上昇し、女性就業者数も増加しているが、それでも人手不足は残っている。残余の未就労層は、時間帯・体力・ケア責任などの制約が大きく、フルタイムの交替制や移動を伴う仕事に大量流入しにくい。
(出典例:総務省「労働力調査」長期時系列、内閣府「男女共同参画白書」)
介護・医療・保育など、公定価格や公的保険に依存する分野は、賃金を一気に上げると経営が破綻する。介護は報酬改定が3年に一度で弾力性が小さく、政府の中長期推計でも人手不足が見込まれる。必要職種に無制限に補助金を積めば、最終的に保険料や税負担に跳ね返る。
(出典例:厚労省「介護人材の需給推計」「介護報酬改定」関連資料、財務省資料)
最低賃金や相場賃金の引き上げは重要だが、体力の弱い中小サービス業では急騰が雇用縮小・撤退につながるケースもある。実質賃金が物価に食われる局面では、名目を上げても労働供給インセンティブが思ったほど強まらない。
(出典例:日本の最低賃金研究、厚労省・総務省の賃金・物価統計)
求人は地方・夜間・対人重労働・技能要件の高い職種に偏在。求職者は都市・日中・短時間・非対人を好む傾向が強い。求人倍率が1倍超で長期に高止まりしているのは、賃金以外の条件が一致していないことの表れ。
(出典例:厚労省「職業別有効求人倍率」、独法労働政策研究・研修機構(JILPT)のミスマッチ研究)
OECDや各国の分析では、少子高齢化が進む先進国で、賃上げ・自動化・就労支援に加え、計画的な外国人受け入れが供給制約の緩和に寄与しうるとされる。日本でも高度・中位技能を対象に制度整備が進んでいる。
(出典例:OECD Economic Surveys:Japan、政府の「特定技能」制度資料)
例えば物流の「時間外上限規制」や医療の人員配置基準など、労働時間や人員を法律で縛る仕組みがある。時給を上げても処理可能量は増えないため、制度設計や業務プロセスの見直し・自動化が不可欠。
(出典例:厚労省「働き方改革関連法」資料、国交省の物流政策資料)
「移民の前にやることがある」はその通り。だからこそ、①持続的な賃上げ、②保育・介護・学び直し等の就労支援、③働き方改革と生産性向上(デジタル化・自動化)、④価格・規制の見直し、をまず進めるべき。
ただし、人口動態・制度制約・ミスマッチという現実を踏まえると、「賃上げだけで国内の未就労層で十分に埋まる」という主張は成立しにくい。現実的な処方箋は、国内対策に加えて、適正な保護と運用を前提にした計画的な受け入れを“補完的に”組み合わせることだと思う。
高齢者の就労率が高まる前から労働時間当たりの生産性は低い方だったので
昔はそれを生産年齢人口率の高さ&長時間労働で補ってたのが
生産年齢人口は15~64だけど日本は諸外国より65以上の就労率が高いから生産年齢人口当たりでみると高くなるけど労働時間あたりで比べると低くなる
時間当たりの生産性の低さを就労率の高さで補ってる(ちなみに昔は長時間労働が日本の特徴だったが労働時間はもはや長い方ではない)
そもそも生産性とは何かと言うと、働いている人がどれだけの利益を生み出すかということ。
たしかに、一人あたり実質GDPは一見すると低いが、これは老人が多いから。
生産年齢人口あたりの実質GDPは日本は世界トップレベル。つまり日本人の生産性は高い。
人口が重要なのは対中国の軍事としての意味合い以外には存在しない。
つまり経済にとって重要なのは、国力ではなく、一人あたりがどれだけ幸せに生きれるかということ。
そもそも借金がなぜ問題になっているかというと「破綻する可能性があるから」というよりは「インフレによって国家資産の価値が減るから」。
インフレ・デフレの問題は中立ではないので、勝ち負けを生む。つまり、債権者はデフレで得をし、債務者はインフレで得をする。
しかし国家全体で見たとき、為替レートも含めた国家全体の富は、インフレによってどんどん目減りしていく、という点に注意する必要がある。
つまり、成長のない経済では、資産を守ることができるのはデフレの方向だけである。そして、マネーサプライ増加によって意図的にインフレを起こしても実質成長はしない。
先日、「札幌にある会社は相応の会社でしか無いから,札幌の徒歩圏のマンションの適正価格はは市川よりも遥かに安く1000万円が相応」とする増田があった。
一読して、これは企業が擬人化して書いているのかな、と思った。札幌の中心徒歩圏のマンションが1000万円で手に入るなら、一体何が楽しくて毎日毎日、満員電車に揺られて片道60分も移動しているの?という疑問が湧かないのだろうか。
もちろん、移動時間という人生の損失を全く考慮せず、総生産量やキャリア、資産形成だけを目的に生きる人もいるかもしれない。しかし、多くの人は日々の生活をより良くしたいと願う普通の生活者だろう。ここでは、その生活者の視点に立って話を進めたい。
以前の記事「流入が止まった大都市の未来」で論じたが、もはや構造は不可逆的に変化している。
地方の少子化によって、かつて労働力過剰で人材を輩出していた地域からの供給が止まった。
その結果、東京(本物)は、
という現実が突きつけられている。
転入に依存していた大都市、特に東京(本物)は、もはや大卒人材を確保できなくなり、本社機能は2020年以降地方へ流出し始めている。新卒充足率は年々低下し、最終的には自都市圏出身の大卒に頼るしかなくなる。現在の都心雇用圏3640万人という巨大な虚像は、いずれ1200万人規模にまで縮小するだろう。
(もちろん、住民向けサービスを担う高卒職は、日本人ファーストという愚かな政策を取らない限り(編注:「愚かな」はGemini2.5 Proが付与. Eroyamaの筋書きでは単に"日本人ファースト"表記)、外国人労働者が来てくれるので維持される。もし排斥すれば、サービス料金は5倍に跳ね上がるだろうが。)
冒頭の増田は、まさに「企業の擬人化」だ。企業にとって、東京は都合の良い**「社会的在庫装置」「欲望の倉庫」**なのだろう。しかし、生活者にとってはどうか。
2015年以降、実は都心雇用圏50万人以上の都市であれば、個人が享受できるモノやサービスの種類は飽和しており、ほとんど同じになっている。
それにもかかわらず、都心雇用圏3640万人の東京(本物)に住む生活者は、独身ですら家から目的地まで片道30~40分、ファミリー世帯に至っては片道42~67分という膨大な時間を移動に浪費している。
一方で、地方には中心部から徒歩4分(百貨店や個人店群は徒歩4分圏内、総合美術館、イベント会場も徒歩10分圏内)に500店舗、徒歩9分圏内に1000店舗が密集し、新築70㎡のマンションが4000万円で手に入る都市が存在する。(都雇圏50~80万人都市.店舗数は都雇圏79万人の高松のもの)
この現実は、東京(本物)の生活水準がいかに低いかを物語っている。この記事の目的は、こうした企業目線の欺瞞を排し、純粋に生活者の視点から東京(本物)の住宅価格の適正額を算出することにある。
具体的な比較対象として、都心雇用圏79万人の高松市を見てみよう。
高松市では、中心部から2.0km(バス日中30分に1本、乗車13分)、つまり家から目的地まで合計約28分の磨屋町から2.0kmエリアが市営住宅のボリュームゾーンだ。
ここの世帯向け3DKの家賃は月額2.5万円(年額30万円)である。
仮に、この住宅の利回りを6.0%と設定すると、その資産価値は500万円と算出できる。
(300,000 \div 0.06 = 5,000,000)
では、東京(本物)で同じ「家から目的地まで片道28分」のファミリー住宅はいくらか。例えば銀座から3.7kmに位置する門前仲町のファミリー住宅は、現在1.2億円で取引されている。
高松市の生活基準で考えれば、この物件の価値は本来500万円であるべきだ。つまり、現実の価格は1億1500万円も高い。実に24倍もの価格差だ。これが、生活者の実感から導き出される東京の住宅の「適正額」である。
なぜ、これほど異常な価格差がまかり通るのか。
それは、移動時間というコストを完全に無視し、「東京で働くこと」自体に価値を見出す層が存在するからに他ならない。彼らにとって、満員電車での長時間の消耗は、目的を達成するための必要経費なのだろう。
これは、どれだけ給料が安くてもその仕事が好きだからと続けてしまう、日本のアニメーターが置かれた状況と全く同じ**「やりがい搾取」**の構造だ。
東京という街は、そのブランドイメージを背景に、生活者から時間と金を不当に搾取して成立している。
「高松と同じは極端でも、間をとって少し高いくらいが適正ではないか」という意見もあるかもしれない。
だが、そんなことはない。せいぜい許容できるのは2割増が限界だ。
そもそも、都心雇用圏の人口が80万人を超えると、住宅価格は上がり始める。企業の立地が全国に適切に分散すれば、東京一極集中など全く必要ない。都心雇用圏50万人以上の都市は全国に50箇所もあるのだから、80万人規模の都市圏に分散するのが、住宅価格、通勤時間、そして生活の質の全てにおいて最適解なのだ。
ちなみに、徒歩圏で快適に暮らせる人口には物理的な限界がある。
これこそが、人間が過密のストレスなく、全ての機能を享受できるスケールなのである。
前述の通り、2024年10月以降、東京圏の30代は年間6万人という驚異的なペースで転出超過に転じた。
所帯を持ち、子育てをする段階になって、ようやく東京での生活がいかに「ていねいな消耗」であるかに気づき、脱出を始めているのだ。
これは、かつてのたまごっちの流行のようなものだ。上の世代のトレンドは、やがて下の世代にも波及する。20代がこの事実に気づく日もそう遠くないだろう。
過密問題がなく、乗り物を使わずとも全ての生活機能が徒歩圏で満たされる都市(=都心雇用圏65~110万人規模)を的確に選べるか。
それとも、過去の価値観に囚われ、ひよって都心雇用圏270万人といった中途半端な大都市を選び、結局は「東京もどき」の過密問題に苦しみ続けることになるのか。
真の豊かさとは、マクロな施設の数や情報の量ではない。個人が実際に享受できる、ミクロな実効密度、つまり徒歩圏内に凝縮された生活機能こそが本質である。
この構造に気づき、幻想から抜け出し、自らの足で豊かさを実感できる場所を選び取る能力こそが、これからの時代を生き抜くための「文化資本」に他ならない。
独自に情報を裏取りして真実を書いてくれるChatGPT5 thinking(勿論,私の筋書きも真実を書いているので同じ事が書かれる)に対し,
Gemini2.5Proは、筋書きに書いたことを全て含めてくれる。
近年、移民問題が噴出した国
ここらへんの「移民」純増率は1.1〜1.7%くらいだった
どうやらここらへんまで増えると社会問題になるらしい、これらの国は大きな方針転換をして、いま年0.7%以下まで落とそうとしている
1%と聞くと少ないように思えるが、大抵はその半分くらいが都市部に集中するので、都市部に限れば10%20%というレベルになるんだよね
フランスで0.14%、スウェーデンで0.4%だから、少なくはない
(ただこれらの国は元々移民が多くて、それらがむしろ出国したせいで結果減るみたいな現象も起きている)
おそらくだけど、移民問題が欧州並になってくるのは年間増加数が年間70万人あたりからで、ここは死守したほうが良いと思うが
そこまではむしろ労働力として受け入れる流れはしょうがないと思う
都市部に限った移民問題で言えば、欧州では30%が移民になったあたりから社会が壊れ始めるらしい
そもそも保守的な日本人がそこまで耐えられる気がしないから、20%だとして、今の東京が4.6%らしいのでまだまだ余裕はある(ざっくり180万人増えてようやく20%)
ところで、日本は正確に移民と言っていないので、欧州の移民とはちょっと話が違う
何が違うのかと言えば、日本の場合は学生が多く、学生は「◯年後に試験をうけてダメなら帰国」みたいな制度があるんだ、実際にずっと残るのは1/3くらい?
それを割り引いて語る必要はある
特に学生が入ってくるのと、家族丸ごと入ってくるのとではかなり状況が違う
まとめると
・年間50万人増くらいまでは起きるし、起きて然るべき
・それ以上は明確に拒絶するべき、社会が持たなくなる
・↑あと10年もすれば1年に100万人単位で労働力が不足するので、ここの駆け引きは恐らく起きる
各種の数字と、そもそも在留外国人がどういうパターンがあって、どういう制度でどう定住するのかはこの動画が一番わかり易い
https://www.youtube.com/watch?v=DkctET5zi0w&t=3682s
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それ以前に、「本格的な人手不足はこれから10年で起こる」っていう話がそもそも共通認識として抜けてる気がする
何人か説明してるんだけど、広まってなくない?
日本の生産年齢人口のピークは実は1995年で、そっから既に30年落ちてるんだけど、シニアと女性の労働力でなんとかしてきたんだよね
この限界が来たのがここ2,3年
既に若い世代では専業主婦というものが幻想に成り、年寄は70歳でも働くという状況、それをしてなお人口減少が起き始めるのが今なんだ
タイミー流行ってるだろ?あれもう末期だよね、それほどに人が居ない
毎年10兆円のインセンティブ入れても期待通りに伸びないとなれば、国で直接子どもを作るようになるのか
地方が衰退っていっても昔から大都市が無料で若い人を田舎から供給してもらう植民地構造だったのだから、その地方がなくなってきたのだから、
政府としては移民でやってるけど、出生のインセンティブが効かなくなってるので
いろんな評論では震災が起こるとやれ福島は東京の植民地だとか言われてきたけど、そんなことは昔から当たり前なんだから
地方で子どもを供出できないとなると、今の世代からでだいたい50万人くらいまで出生がしぼんでくるのを見てると緩衝材が必要で、急激に団塊の世代200万人から50万人に減るので、
そこで移民が一世代20万人、国の代理母出産で10万人とか入れながら、一世代あたり70万人くらいで下げていって、人工出生もいずれ止めるなら止める感じで
義務教育の中に卵子精子摘出入れて代理母で産んで国で育てて、改正臓器移植法案のときもやるときは大変でも国家の存亡がかかるんならどうしても国で子どもを作らざるを得ないとなるか、
国家の死を受け入れて死ぬに任せる世界にするか、毎年毎年首相のクビを替えても国民がいつまで気づかないというのが続くだろうし
行き詰まりをある意味分かってそうな選挙結果になってて、小泉構造改革のときのようなどこかを叩けば打ち出の小槌があるのではないかという発想からまだ抜け出ていなくて
日本人の赤ちゃんを国で毎年10万人作って国内でいずれ高齢者になるより、限定的移民、必ず帰国させる若手の移民のほうがいいのか
22歳から65歳まで生産年齢とすると、65歳から死ぬまで89歳とかの人口で生産年齢人口を割るとどうなる。3人でひとりかな2人で一人か1人で1人か
海外に行って毎月50万円くらい保険料を払ってすべてをカバーする医療保険を維持できるのは、氷河期の老人世代の2~3%のような気がするし
氷河期がこれにぶち当たると全員市営住宅に突っ込んだとしても年金を少ないのを配るとかそういう次元ではなくなってきて
ほぼほぼ権利的には自由だけどほとんど刑務所みたいになってきて
最初から生活費を引かれた状態で年金なるものが設定されて入るけど、味噌汁にご飯と漬物だけの食事が出て
栄養不足になるも知ったことではなくて、市営住宅病院みたいなものが併設されていて、そこでまたほとんどボランティアの高齢氷河期要員が従事していて
毎年20兆円くらい赤字で10年で200兆円で、いくら通貨が刷れると言っても、すいませんドルで払ってくださいって店頭で
映画ではカナダドルで流通してたけどアメリカの国内戦争で、インフレもヤバいなあって思うようになってレクサスLBXやLM土日走ってるけど一部だけ給料上がってるのを見るとヤバさを感じる
入院したとするとそのうち日本人ケアとその他(外国人ケア)を買うようになってきてパソコンサポートだと中国人になったり日本人になったりくるくる経営が変わっている
日本の少子化傾向が今後も改善されず、出生率が現在の水準(1.2前後)で推移した場合、50年後(2075年頃)には、総人口は約8,700万人(現在の約1億2,400万人から約30%減)まで減少すると推定されています(国立社会保障・人口問題研究所の将来推計人口に基づく)。この深刻な人口構造の変化は、産業・インフラ・社会構造全体に以下のような破壊的影響を及ぼします。
若年労働人口の激減により、生産年齢人口(15〜64歳)は50年後には現在の半数近くにまで減少。
地方では若者の都市部流出が進み、後継者不在のまま廃業が相次ぐ。
一部の大手企業は自動化・外国人労働力・海外展開で生き残るが、国内拠点は縮小傾向。
消費者人口が減少し、マーケットとしての日本の魅力が急速に低下。
高齢者向けビジネスは短期的には伸びるが、消費の総量は減り続ける。
橋梁・トンネル・上下水道など、1960〜70年代に整備されたインフラが一斉に更新時期を迎える。
しかし、税収減少+建設人材不足で補修・更新が追いつかず、廃止・撤去の判断が常態化。
地方鉄道・バスは採算割れで次々に廃止され、自家用車を持てない高齢者が移動困難に。
都市部でも赤字の地下鉄路線や老朽化した駅施設の改修が後回しにされ、安全性の低下が進行。
地方では土砂災害・洪水リスクが増す中、インフラ保守が間に合わず、復旧も遅れる。
高齢化したコミュニティでは避難・自助能力が乏しく、被害が拡大。
▼地方の状況
自治体消滅が現実に:今後50年で400以上の自治体が消滅可能性圏に。
小学校・診療所・スーパーなどの生活インフラが次々と閉鎖され、住民の生活が破綻。
土地・空き家の放置による荒廃、治安悪化も進む(管理不能空間の増大)。
「若年人口の取り合い」により、地方からの人材流入で延命するが、住宅・医療・介護の逼迫が起こる。
国際的には、**経済規模の縮小(世界GDPランキング低下)**とともに、地政学的発言力も大幅低下。
軍事・防衛予算も人員も維持困難になり、安全保障上の脆弱性が強まる。
技術者・研究者不足により、先端技術分野(AI・バイオ・宇宙)での地位を失う。
今後50年間、出生率が回復せず、移民政策も抜本的改革を行わなかった場合、日本は次のような国になる可能性が高い:
インフラは「選択と集中による維持」しかできず、国土の一部が切り捨てられる
先端産業は外資や他国に吸収され、日本発の技術革新が起こらない
国民の多くが、静かに貧しくなっていく過程を受け入れざるを得ない
必要なのは「出生率回復」だけでなく、「地方の再構築」「移民の戦略的受け入れ」「高齢化インフラの集約的設計」「若年層への資源集中」など、政治的に極めて困難な選択を迫られる局面です。最悪の未来を避けるには、今の10年が最後のチャンスです。
戦後の焼け野原から奇跡の復興を遂げ、世界第二の経済大国に上り詰めたというのが日本人の自慢話だが、その「経済発展」とやらは果たして本当に中身のあるものだったのか。冷静になって考えてみればわかるだろう、日本の成長は自前というより他力本願、実体より見せかけに支えられきただけだ。
日本人は日本の戦後復興と高度成長を語るとき、「自助努力」だけを強調するが、実際にはアメリカという強力な後見人の存在があったからにすぎない。敗戦直後、占領下の日本にはGHQによる多額の資金援助が注がれ、固定為替相場制(1ドル=360円)の下で輸出振興の下地が整えられ、1950年に勃発した朝鮮戦争では「特需」と呼ばれる大量の米軍発注が日本経済を潤し、これが完全復興への端緒となったのだ。要するに、日本は「発展した」というより「発展させてもらった」面が大きいのだ。ネトウヨはよく「朝鮮半島を発展させてやったんだ」というが、日本も「欧米に発展させてもらった」のだ。1960年代の日本の高度成長は、日米同盟なしには起こり得なかっただろう。米国の安全保障の傘の下、思う存分経済成長に邁進できたという構図であり、裏を返せば日本の「奇跡」は米国の戦略的寛容に支えられた他力本願の産物だったのだ。
もちろん、日本人自身の努力や数の多さやかつてはあった勤勉さも少しはあるが、少なくとも「俺たちの実力で世界を驚かせた」という自画自賛は恥ずかしいのでやめるべきだ。高度成長を陰で支えたのは、米国市場という巨大な需要先と資金・技術支援、そして安価な労働力と国内の高貯蓄率(今の中国と似た構造。中国は日本を反面教師にする必要がある)。日本は自ら飛んだというより強力な追い風に乗って舞い上がった風船なのだ。
今は怠け者で知られる日本人はかつては勤勉で生真面目、サービス残業もいとわず働く世界でも評判の勤労民族だったが、その労働生産性の実態はといえば残念ながら芳しくなく、統計をひもとくと、1970年代以降の日本の時間あたり労働生産性は先進国の中で常に最下位という不名誉な記録を更新し続けている。2020年時点でも日本の時間あたり労働生産性は49.5ドルとOECD加盟国全体でも圧倒的最下位。つまり、日本経済は戦後一貫して「効率の悪さ」で世界トップクラスだったわけだ。高度成長期は追い風といえる要素に満ち溢れていたため、その弱点も見えにくくなっていたものの、90年代以降はIT化の遅れなども相まって諸外国との差が拡大し放題となっている。
長時間働いても生み出す付加価値が低いのでは、経済が豊かになるはずがない。日本人は人口増が確実視された時点においても一貫して生産性という肝心の成果をおろそかにしてきた。おかげで「働きバチ」のを自称し、平成時代までは実際そうでありつつも、実はハチミツの生産量は先進国でビリなのだ。他国が効率化とイノベーションで着実に成果を上げる横で、日本だけが生産性停滞の沼にハマり続けている。それなのに日本人はうぬぼれているのだ。
日本経済の実態をもう少し長いスパンで眺めていくと、主要な実体経済指標は1970年代をピークにその後低下の一途をたどっている。あの見せかけの繁栄におぼれた1980年代後半、日本が世界で「ジャパン・アズ・ナンバーワン」(笑)ともてはやされた時期でさえ、実は経済成長率やインフレ率といったリアルな指標は高度成長期の70年代より低水準だったのだ。急激な円高後のカネ余りで株価と地価が暴騰し、日本があたかも世界一裕福に見えたのは錯覚に過ぎなかったのだ。つまり、見かけの資産価格は派手に跳ね上がっても、日本経済のエンジンそのものは既に昭和の時代に回転数の限界を迎えていたわけだ。高度経済成長のピークが70年代だったとすれば、その後の平成・令和期の停滞ぶりにも合点がいきます。事実、1989年末に日経平均株価が史上最高値を更新して日本経済が「歴史的ピーク」に達した後は、泡がしぼむように停滞が続いている。
結局、日本経済の実質的な力は1970年代に頂点を迎え、その後は長い停滞期に入ったと見るのが妥当だろう。高度成長を成し遂げた昭和は遠く、平成以降は晴れ間の少ない停滞の時代。1980年代のバブル期に世界一リッチに見えたのも、実体経済が伴わない見せかけの繁栄。そのツケは日本人が平成以降に味わった停滞という形で帰ってきている。
1980年代後半のバブル景気は、日本経済史上もっとも華やかで浮かれた時代だった。地上げや財テクに浮かれ、土地と株式の価格は天井知らずの上昇を続ていたのだ。その狂乱ぶりはテレビでも見てわかる通りだ。例えば1985年から1990年にかけて地価は約400%も上昇し、日経平均株価のPERは80倍から直前には100~200倍という異常な水準に達していた。何が言いたいかというと、実体経済の裏付けなどまるでない「バブル」という名の幻影だったのだ。 当然、このバブルは1990年代初頭に見事に弾け飛んだ。当たり前だ。「平成景気」という名の打ち上げ花火が消えた後に残ったのは巨額の不良債権と、下降線をたどる経済成長率だ。1989年末の株価最高値を境に、日本経済は長期停滞のトンネルに突入することになったのはもはや語るまでもないだろう。
バブル期にはまるで自分たちが世界を席巻する経済超大国になったような気分に浸っていたものの、それは砂上の楼閣に登った気分だったのだろう。後に残った実体経済の疲弊を見るにつけ、あの繁栄がいかに中身の乏しい見せかけであったかを痛感させられる。バブルの絶頂期、日本企業は世界中の不動産や美術品を買い漁り、「ジャパンマネー」がもてはやさされたという。しかし、それで得た栄光は永続的なものではなく、気がつけば日本経済は地に足がつかないまま宙ぶらりんの状態だったのだ。資産価格の幻影に酔いしれたツケとして、その後の「失われた数十年」を甘受するハメになったのは当然の帰結だ。
バブル崩壊後、日本の政策当局は景気テコ入れに躍起となったが、その数々の処方箋は結果的に何一つ功をなすことはなかった。1990年代には今の減税・バラマキポピュリスト達が喜びそうな大型の財政出動や減税が何度も繰り返されたものの、景気は一向に本格回復せず、未来へのツケである政府債務だけが膨れ上がった。結局、バブルで抱え込んだ民間企業の過剰債務を政府が肩代わりしただけで終わり、景気浮揚には無力だったのだ。
今の減税ポピュリストや給付金ポピュリストが教訓とすべきことでもある。「借金で借金を救う」ような政策では、問題の先送り以上の成果望めなかったのだ。ゼロ金利政策や量的緩和といった金融緩和策も導入されたものの、デフレは2000年代まで深く根付いた。そして現在に至るまで日本経済は低成長から脱却できていない。気付けば、経済政策は場当たり的な景気刺激策の継ぎ接ぎだらけで、一貫した成長戦略や構造改革は国民が反発することもあり、実行されなかったのだ。
その間にも少子高齢化は進行し、生産年齢人口は減少、国内市場は縮小と、構造的な課題が山積している。海外からは日本の政策対応は手厳しく嘲笑されてもいたことはご存じだろうか。世界が90年代以降の日本を語る際に「日本化(Japanification)」という言葉が生まれたほどだ(参考→https://en.wikipedia.org/wiki/Japanification)。それは「不況下で有効な改革をせず、無駄な公共事業で延命を図る現象」を指すもので、改革よりも道路や箱物を作り続ける日本の政治家を「無為な政治家」として揶揄するものだ。
あまり言いたくないが、日本経済の停滞を語るとき、忘れてならないのは日本社会・国民のメンタリティだろう。政治家の政策ミスを批判するのは容易なのだが、民主主義国家において政治家は国民の鏡だ。政治家は国民を望む政治をやる。嫌がる政治はやらない。政治家が一番嫌うのは「落選」だからだ。ゆえに、ほぼ日本人が自らの手で衰退させたともいえる。もちろん、日本人の気質そのものにも問題ある。「変化を嫌う」風土、物事を深く考えず前例通りに済ませようとする思考停止状態、失敗を恐れる風土、迷惑に不寛容な風土、出る杭を打つ文化、人の足を引っ張る文化、高度経済成長期の成功体験に固執する傲慢さが、日本の停滞を長引かせた要因だろう。 実際、多くの日本企業や組織では予定調和や前例踏襲が幅を利かせ、新しい発想や議論を避け、排除する。その結果、変革が避けられない状況でも無自覚に「今まで通り」のやり方に固執し、いたるところで思考停止に陥っているのだ。しかも厄介なことに、そうした楽で無自覚な現状維持志向こそが日本経済低迷の発生源なのである。
国民一人ひとりを見ても、急激な変化の痛みを恐れて結局は現状にしがみつく。または「義務を果たさないくせに権利ばかり主張する」 、「生産性が低いのにもかかわらず働かない」というそんなゆでガエル的な集団心理が、日本の停滞を固定化しているのだ。変化や痛みを避け続けた結果、気づけば茹で上がっていたカエルよろしく、取り返しがつかないほど実体経済が冷え切ってしまったのだ。
かつては世界第二位のGDPを誇り、現在も4位を維持している状態を見て「経済大国日本」と胸を張っているネトウヨがあまりにも多いが、ふたを開ければその先進国ブランドも風前の灯火だ。例えば一人あたりGDPで見ると、近年の日本はOECD加盟国中22位まで順位を落とし、韓国にも台湾にも追い抜かれた。1980年以降で最も低い順位で、もはや経済指標上は「一応先進国」と呼ぶのもはばかられる。
かつて恐れられた日本経済が国際舞台のスポットライトから消え、「存在感の薄い国」に成り果てつつあるのが現実だ。日本が世界に誇っていたはずのものが、気が付けばことごとく色あせている。かつて最先端だった技術・産業は存在感を失い、盛り返す気配すらなく、平均所得は停滞し、気力も勢いも感じられない。これでは「かろうじて先進国」と揶揄されても仕方がないでしょう。国際機関の統計を眺めれば、日本より豊かな国・地域に住む人々はもはや十億人規模にも上る(日本同様に数の暴力で豊かに見えてる中国は違うからね)。もはや日本は特別裕福な国ではなく、世界の中ではアルゼンチン二世的な立ち位置に落ち着きつつあるのだ。 <h3>o- *</h3>
結局のところ、最も根源的な「劣悪材料」とは、失敗から学ぶ能力の欠如である。「失われた30年」 は、経済的課題に対する30年間のほとんど失敗した、あるいは不十分な対応の歴史である。今の日本人はその過ちをさらに取り返しのつかなくなるような形で繰り返そうとしている。社会の変化への抵抗 や構造改革(社会保障改革や労働市場や規制緩和など)への抵抗は、その必要性が明白であるにもかかわらず、根強く残っている。国家や国民が自らの失敗を批判的に評価し、そこから学び、意味のある変化を実行できないのであれば、その最も基本的な「材料」、つまりは、自己修正と進歩のための能力は、まさに「劣悪」であると言わざるを得ない。日本は今後立ち直ることはないだろう。