
はてなキーワード:生きる力とは
かつて公立高校の教師をしていた。何年も前に辞めて、今は別の教育業に従事している。その頃の思い出が脳裏によぎることが最近よくある。どこかで書いたら心の整理がつくのではと思った。
なお、この日記は身バレ防止のために、ChatGPTにお願いして文体を変えている。鼻に付く文章があれば申し訳ない。
これから書くのは、最後に赴任した高等学校でのことだ。実は普通の高校ではない。訳アリの子が通うための高校だった。
いわゆる、事情がある子というのがいて、全日制の高校に進学するとか、通い続けるのが難しい。そういう子が通うための学校である。仮にポジティブ学園としよう。
3部制を採用していて、午前・日中・夕方以降の3つの中から、自分にとって都合のいい時間帯を選んで履修できる。早い子だと、普通の高校生のように3年で卒業する。
制服か私服か、自由に選ぶことができる。アルバイトができるし、メイクもピアスも全て大丈夫。髪染めもOKで、ピンクや青髪で学校に通う子もいる。
ここに来る前、私は全日制の高校にいた。地元では人気のあるところだった。毎年冬にある推薦入試の倍率は20倍を超える。そういう学校である。人口だと約40万人が在住する地域だったが、その中でもトップに近いところだった。
真面目な生徒たちに囲まれてたと思う。彼らは偏差値の話もしていたけど、それ以外にも部活動とか友達との交流とか、文化祭・体育祭など、とにかく人としての「生きる力」というか。そういうのに溢れていた。
当時の私は、まだ30代のヒラ教師だった。それが高校生のあるべき姿だと思っていた。学業が一番で、余った時間で部活動その他の自己を高める活動に取り組むのだ。
だが、ポジティブ学園に赴任して、現実を思い知らされた。自分がこれまでに教えてきた生徒らは、いわゆる上澄みというやつだった。毎日学校に通学して、学業や部活動や趣味に打ち込むことができる時点で、高校生としては相当できる方である。
今でも思い出す。ポジティブ学園に通う生徒らは……教室の隅でうつむく子や、理由をつけては学校を休む子。授業など聞く気すらない子、授業中に堂々を飲み食いする子。なんというか、彼らには当時の県教委が教育の柱としていた理念のひとつ、「生きる力の醸成」が通用しなかった。
そうした生徒たちに、私は何もしてやれなかった。何をしたらいいのか分からなかった。ただ毎日、教科書に従って授業を進めるだけ。彼らに対して指示や指導をすることはあったけど、そもそも内容を理解できてるかも怪しい。
一応、入学試験はあるのだが、実質的に全員合格させるスタイルだった。普通の高校に行けない子――そういう子のための最後の受け皿としての役割を、ポジティブ学園は担っていた。
最初に話したとおり、ここは「訳アリの子」が通う学校である。不登校経験者とか、昼間は家業を手伝う子とか、家計を支えるために夜働いている子。様々な事情を抱えて、全日制のレールから外れることになった生徒たちが、自分のペースで学び直す場所だ。
赴任の初日、当時の校長は私に言った。「ここは、生徒たちが『それでも学びたい、高校生をしたい』と選んでくれた場所です。先生の役目は、彼らの気持ちを全力で応援することです」ってさ。
さっきと矛盾するようだが、生徒たちはひたむきだった。普通の高校生と一緒で、やる気のある子はいるし、そうでない子もいる。昼間の授業中、うるさい教室の中でも真剣にノートをとる生徒とか。放課後になると、「じゃあ働いてくる~」といった感じでアルバイト先に向かう子もいた(ほぼ金髪の子だった)。
夜間部の教室だと、疲れ切った顔で教科書と向き合う生徒もいた。全日制の「普通」とは違うけれど、彼らには彼らの「普通」があった。
赴任してから次の年度、就職指導を担当することになった。人生初経験である。私は民間企業で被服の営業の仕事をしていた。泥臭い仕事を約十年やっていたということで、白羽の矢が立ったのだと思われる。
これまでの学校では就職する子や、専門学校に行く子は稀だった。仮にいたとして、実際なんの指導も必要なかった。受け入れ先の企業も「なんでこの学校の子が……」といった顔パスに近い扱いだった。
履歴書の書き方一つとってもそうだ。社会人でいうところの空白期間。不登校だったとか、全日制の高校を中途退学したとか、中学卒業してからフリーターだったとか、あるいは何もしてなかったとか。
そういう経歴を書く場面になると、彼ら彼女らは詰まってしまう。無理もない。これまで何度も、そのことで心を痛めてきたのだから。
私は履歴書を読み直す度に、「君の経験は無駄じゃない。乗り越えた証拠なんだ。学校、来てるじゃないか!」と声をかけた。最初は疑いの眼差しだった生徒たちも、次第に心を開いてくれるようになった。心を開いてくれない子もいたけど、それは致し方ないのだ。
私は教師だから、「いつかは通じるはず。別に今じゃなくても、数年後だっていい」と思って就職指導をした。
秋のある日。就職関係のイベントがあった。「○○圏域 企業と学校の交流会」みたいな名称だった。これは、企業と学校(大学、専門学校、高等学校、専修学校その他もろもろ)のそれぞれの担当者が各ブースで話し合いの場をもつというものだ。
企業からは採用担当者が、学校からは就職支援の担当者が出席する。参加団体は企業だけでも100社を超えていた。学校からは、その地域の学校という学校はほぼすべて出席していた。
ここに、私と校長の2人で出かけた。目的は、企業の方々にポジティブ学園を知ってもらうこと。うちの学校にはただでさえ偏見が多い。少しでも解きほぐす必要がある。
たくさんの企業ブースが立ち並ぶ中、それこそ時間が許す中、多くの企業ブースに足を運んだ。校長自らが話をしていた。約十分ごとに挨拶から始まって、学園の概要説明、どういう子がいるかや、これまでの就職実績など。
そして、いつも最後に、「わが校には、難しい状況にある子が通っています。それは事実です。そういう状況でも、彼らは自分の道を切り開く努力をしています。面接の際に見かけましたら、どうぞよろしくお願いします」と相手先企業に伝えるのだ。
企業の反応は……まあ、社交辞令みたいな感じだった。「わかりましたよ、でもうちの会社の採用対象かどうかはねぇ」という表情だった。
そういう反応になるのも無理はない。ポジティブ学園は、県道沿いの大きな平地にある。昔は地域の伝統校が鎮座していた。少子化で別の学校と合併になり、校舎が空いたところに県教委がポジティブ学園を創設した。
例えば、毎朝の登下校時、いや昼以降の登下校時でもそうなのだが……校舎前の県道には、ダボっとした私服で、髪を染色していて、ひと昔前の不良漫画(今時でいうと薫る花は凛と咲く)の雰囲気を漂わせた未成年が闊歩している。初めてその光景を見る人からすると、「そういう高校なんだ……」という感想になる。
だから、企業担当者がうちの学校に対してそういう態度になるのは、ある種の必然だと思っていた。偏見を持たれてもしょうがないって、当時30代半ばだった自分は感じ取っていた。
そうでない企業もあった。社交辞令とかじゃなくて、真剣にこちらの話を聞いてくれる。というか、むしろ聞きたいという恰好で話に臨んでくれる。
半導体装置を作っている会社がそうだった。その時も、校長は満面の笑みで相手方の採用担当者に熱心に話をしていた。
「○○さんは、福山を代表するハイテク企業でいらっしゃる。我が校にも理系の才能を持つ生徒がたくさんいるんです。どうか、偏見なく見てやってください」
そしたら採用担当者は、少し戸惑った表情になって、「私達を馬鹿にしないでください。もちろんですよ(^^)」と答えてくれた。
それから数年か後のこと。ポジティブ学園の進路実績だが、創立当初からずっと変化はなかった。大学進学者だと地元にある限りなくボーダーフリーに近いところか、地元の専門学校、地元の民間企業だった。そもそも、ここまでたどり着ける子自体が少ない。入学した子のうち1/3以上は中途退学してしまう。
その年のことはよく覚えている。3年生に1人の生徒がいた。名前は仮にケンタとする。プログラミングが好きな子だった。授業中も休み時間も、ずっとPCの画面とにらめっこしていた。授業中にも堂々と副業的なことをしていたが、単位は取っているので見逃していた。
ケンタは、数学や情報処理の成績が抜群だった。数学の問題でも、いつの間にか自分で勝手にアレンジして、勝手に問題を解くようなプログラムを組んだこともあった。
それを友人に共有しようとしたが、難しい様子だった。能力・興味的な部分もあるし、自分だけのノートPCを持ってる子が少ないのもある。
ケンタは中学校の時は不登校だったらしい。原因は、特定の誰かからいじめられたわけではなく、「教室という空間がなんか違うと思った」からだと言う。
大人だったら「息苦しい」ということになるのだろうか。全日制の高校には行きたくないと、自らこの学校を選んだ。
私は、彼の才能を埋もれさせてはいけないと思った。彼とは幾度となく話をしたけれども、ただ生きにくい性格であるだけで、才能はあるのだ。
私は就職戦線が始まる直前にケンタを呼んだ。「この会社を受けてみないか?」と誘ってみた。さっき上の方で話した半導体装置の会社である。半導体以外にも、ディスプレイや機械制御装置も手がけていた。
ケンタは驚いたような、呆れたような様子だった。「知らない会社ですけど、半導体には興味ありますけど、無理だと思います」と言ってた。
「お前はできる。この会社は理系の才能を求めてるし、才能を正当に評価してくれる」
と言うしかなかった。実際、私の出身地域では評判の高い企業だったし、2025年現在では全国的に知名度のある企業にまで成長している。
強引に進めるしかないと思った。何しろ、ケンタは卒業後の進路を決めてなかった。とりあえず先延ばしにしている印象だった。
そこで、ケンタをどうにか説得して、彼の履歴書を添削して、推薦状も書いた。履歴書には、不登校だった過去も、ポジティブ学園を選んだ理由も正直に書かせた。彼のプログラミングに対する情熱を備考欄にこれでもかというほど書き連ねるようにした。
面接練習のとき、ケンタは口ごもることが多かった。相手の目を見て話すことが苦手だった。コミュニケーションが苦手なタイプ。正直、公式な場での会話が難しい子だと思う。
けれど、たどたどしい感じになっても、自分の思いはちゃんと伝えてくる子だった。
「大丈夫だ。プログラミングの話になったら、お前はきっと大丈夫」
※AtCoderで最高位に近い色だった
私はそう言って、彼を送り出した。自分には確信があった。あの会社は、肩書きや学校名じゃなくて、実力で人を判断する会社だと。あのイベントの時、うちの校長の言葉に耳を傾けてくれたんだって。
約一か月後、職場に電話がかかってきた。あの会社の採用担当者からだった。胸がざわついた。
以下、話の内容である。言葉の感じも、当時の手帳を元に大体そのままにしてある。
「あの、ケンタ君の件で、社内で検討を重ねた結果、今回は採用を見送らせていただくことになりました」
「なぜですか?」
「プログラミングのスキルは、正直高いです。うちの主任技術者も高く評価しました。ただ……」
※この時私は、苛々とともにペンをカチカチしていた
「ただ、入社後のサポート体制を考えた際にですね。彼が当社の環境に馴染むことができるか、という点に懸念が残りました。不登校経験があるということも、正直に申しまして、入社後のメンタル面のリスクを拭い切れませんでした」
「それは、偏見ではないのですか?」
言ってしまった!と心の中で後悔した。先方の声が少しだけ硬くなった。
「そう言われても仕方ないかもしれません。しかし、会社の事情があります。我々もギリギリまで議論を重ねました。安易な気持ちで彼を採用して、もし彼が再び辛い思いをすることがあれば、それはお互いに不幸です。今回は本当に申し訳ありません」
電話が切れた後は、多分……しばらくボーっとして、職員室の椅子に座ったままだった。
あの時はこう思った。やっぱり、ポジティブ学園の子はそうなんだ。どんなに才能があっても、過去のレッテルから逃れられない。あの日イベントで抱いた期待を裏切られた気がした。
だが、その後の日々で、冷静になって考えてみた。
採用担当者の言葉に嘘はなかった。彼らは、私が抱えていた不安を彼らなりの言葉で伝えてくれただけだ。
採用すれば良いというわけじゃない。無理に引き受けて、彼の心の傷をさらに深くしてしまうかもしれない。
そう考えたとき、彼らの不採用という決断は、ある意味、生徒のことを真剣に考えてくれた結果なんだと思った。
むしろ、偏見だと決めつけて、彼らに向き合わなかった私の方が……傲慢だった。
ケンタに不採用の知らせを伝えると、しばらく沈黙が続いたっけ。
「そうですよね~僕みたいなのが、あんな会社は無理ですよね」ってケンタが言うと、心にグサッときた。
「ごめん」としか言えなかった。生徒に謝る事態なんて、教師として三流以下だと思った。
ここまでがポジティブ学園での思い出である。それからケンタは、遠方にあるコンピューターの専門学校に進学した。私が様々な方向性を提案して、ケンタと話をした結果、彼が自ら考えて決断したのだ。
ケンタが高校を卒業して、何年もの月日が経った。最初のうちは、メールで年に何度か近況報告をもらうこともあった。プログラミングがやっぱり楽しくて、大会にも出場しているといったことだった。
やがて、やり取りをすることもなくなった。それは彼がナニカに集中するようになったからでは、と心の中で期待していた。やがて、ケンタのことを思い出すこともなくなった。
ある日、一通のメールが届いたのだ。ケンタから。内容は、就職先の内定のことだった。「報告があるのですが、○○(※あの半導体の会社)に内定をもらいました」という端的な文章だった。
「うわっ!」と、思わず声を上げてしまった。その端的な文章の下に、いろいろと書き連ねてあった。彼らしく、無駄が一切ない文面だった。
要約すると、専門学校で就職インターンシップに申し込む際、事前説明会があったとのこと。参加した時、人事の方に「ケンタ君だよね?ポジティブ学園の」と声をかけられたという。
「あの時の採用担当者の方が僕のことを覚えてました。『あの時よりも自信に満ち溢れている』って言われました。」
「専門学校で、僕はプログラミングのスキルだけじゃなくて、コミュニケーション能力も、人との関わり方も学びました。飲食店でアルバイトもしました。おかげで、あの時よりも、面接で自分の言葉でしっかり話すことができたんです。あの時、もし会社に受かっていたら、僕は挫折していたかもしれません。…(中略)…でも、先生が僕の可能性を信じてくれたから、僕を諦めなかったから、頑張ることができた。本当に、ありがとうございました」
キーボードを触りながら、返信しようと思いつつも、手が震えてうまくできなかった。
私はあの時、半導体の会社を偏見で判断した。ポジティブ学園の子だから、そういう目で見たんだろうって。そして、生徒の可能性を信じきれず、不採用という結果に囚われた。
でも、本当にケンタに向き合ってくれたのは、彼らの方だった。再認識させられた。成長したケンタを、あの人達は今度もまたちゃんと見て、採用という判断をしてくれた。それだけだ。
ここで結びにする。
あの学園にいた時は、生徒たちの「訳アリ」の部分に目がいってしまうことがあった。でも「訳アリ」なのは、過去の物語によって起きた結果にすぎない。彼らは皆、自分の人生を懸命に生きている。できる子がいたし、できない子もいたけど、未来に向かって進もうとしていた。
私はもう学校教諭ではない。けど、あの頃は就職指導の先生としてだけじゃなく、人として彼らの未来を信じて背中を押し続けたつもりだ。
自分は応援団のひとりに過ぎないと思っていた。でも、応援された生徒は、やがて自分で未来のことを考えて、切り開こうとチャレンジする。そういう人になってほしいと願っていた。
今は、別の形ではあるけど、若い人にものを教えている。学校と違って、純粋に実務上の知識や技術を教える仕事である。
これからも、誰かの未来を応援し続けようと思っている。それが、訳アリの子の就職指導をしてきた、自分にできる使命なんだと思ってる。
このタイトルで近く聴覚を失うメタルバンドのドラマー、ルーベンが主人公、と聞くと破天荒なイメージが浮かぶが、この映画はその逆の静かな映画だ。
ルーベンは元ドラッグ依存症、今はバンドメイトで恋人の女性と2人でキャンピングカー暮らし。父親とそりが合わず家を出ており自傷癖もある恋人と支え合い真面目に生きている。
だがルーベンはもうすぐ聴覚を失うことを知り、ヤケになろうとしかけるが恋人やバンドメイト達はルーベンの先行きを心配し、中途ろうあ者が住み込んで生きる力を身につけるコミュニティを見つけてくれる。
ルーベンは「家に帰る」という恋人を心配しつつもコミュニティに入居。最初は馴染めず荒れたりもしたが、徐々に自分の障害やコミュニティでの暮らしを受け入れ、友人もでき、音のない世界での人生を生き始め…
というあたりで映画の半分くらい。
是非見てほしい。
弱者男性「はぁ…。俺ってなんでこんな生きづらい時代に生まれたんだろ…。バブル時代ならさ、俺だってモテて金持ちで、ジュリアナ東京とかで踊ってたかもしれないのにな…。」
(そこへ天井から神様がヌッと出現。部屋の蛍光灯が一瞬パチパチッと点滅)
神様「ほっほっほ。そんなにバブル時代がよかったか?では、一度行ってみるがよい。」
弱者男性「これが…バブルか…!空気までキラキラしてる気がする!!」
弱者男性「え、ワープロ!?ていうか給料、現代より少ないんだけど…なんで…?」
神様「若者の給料がそんなに高いわけなかろう。お前さんは上澄みだけ見ていたのじゃ」
弱者男性「え、32型のテレビで30万!?しかも録画って…テープ!?やば、生活コスト高すぎじゃん…」
弱者男性「LINEもないし、スマホもない。インスタもない。ていうか、外出先で暇つぶしすらできねぇ…誰か…タップルやってるやついねぇのか…」
(ガサゴソとゴミを漁りながら)
神様「どんな時代でも、生きる力がなければ幸せにはなれんのじゃ…それが“弱者男性”の宿命かもしれんな…」
結局、必要なのは環境じゃなくて、生き抜く力だったのかもしれない――。
最近、「嫁ちゃん闘病日記」というYouTubeチャンネルを知った。
そこには、パワハラによって心を破壊された一人の女性の記録があった。
周囲は沈黙する。
企業内暴力は、女性を労働の現場から排除し、沈黙させるためのシステムである。
私には性暴力と同じ構図のように見える。
なぜ、性暴力には(遅ればせながらも)社会的な非難が向けられるようになったのに、
企業内暴力は今なお「大した問題ではない」と扱われ続けるのか?
それは、労働という聖域の中で、女性の痛みが不可視化され続けてきたからだ。
「働くことに耐えられないのは甘えだ」という神話によって、
私たちはこの労働現場における加害行為を、正しく「暴力」と呼ばなければならない。
これは個人の不運や不幸ではない。
これは、性別に基づく体系的な抑圧だ。
地元で開かれていた写真展で、心をグッと掴まれる作品に出会った。アメリカの農家が、妊娠中のパートナーと一緒に野菜を販売している場面を写した写真だ。顔なじみの客と笑い合うその男性の表情からは、純粋な喜びと生きる力が溢れていた。まるでNHKのドキュメンタリーのワンシーンを見ているかのような、リアルで温かみのある一枚だった。
同じテーマに触れたヤフコメでは、「農家をもっと応援すべきだ」という意見と、それに反対する声が激しくぶつかっていた。日々、重苦しいニュースに心を削られているせいか、こうした温かな瞬間に出会うと、思わず言葉にして残しておきたくなる。撮影した写真家の方には、心からの感謝を伝えたい。こんなふうに、魂のこもった光景をもっともっと届けて、たくさんの人の心を癒していってほしいな。
>なんで女って「真面目で一途で誠実で優しくて浮気しない男がいい」とか言いながら
>「不真面目で移り気で不誠実で優しくなくて浮気する男」ばっかり好きになるの?
まずそんな男ばっかりということはない
それから増田の発言は2つ誤解と無理解があるのでこれを解説しよう
誠実そうな言動で優しくふるまい、マメに接して好意があるように見せかけるものだ
最初から暴力的で不真面目で愛情のかけらも見せないということはしない
そこにウソはない
そして女の発言には前提が抜けている
女は、女が惹かれる要素を強く持っていてなおかつそういう男が一途で誠実なのが良いのである
女が惹かれる要素とは生きる力の強さ、社会で高い地位を獲得できる能力の高さだ
原始時代なら狩りの腕前が良く集落を富ませるとかになるかもしらん
そしてそれと同じぐらい「優しい(分け前を自分にも与える)」「誠実(浮気しない、裏切らない)」つまり家庭運営に協力的である、という要素は重要である
ここでいう優しくないとは、男の狩りの獲物を妻や子どもに分け与えないことを指す
なぜか?
狩りの腕前が良くても獲物を妻子に分配しない男だと妊娠、出産で自分と子の生存率が下がる
さらにいうと子が生存しても父の協力がないと、子の成長後の社会的地位が下がることがわかっている、
だから女は優しくて誠実な人がいいと言うのである、これ以外の好みを持つ女は繁殖競争で負けて滅んでいったのだから根源的な好みだ
上述は学問の世界でも全世界の女に共通する普遍的な「男の好み」だろうと推測されている
そしてお分かりだろう、同じ説明を繰り返すことになるが…
仮に「優しくて一途で浮気したりしない」男だとしても、
狩の腕前が致命的に悪い=稼ぎが悪いだとか、コミュ障で集落での狩りでほかの男と衝突してばかりだとか、
そういう男だとまず「自分と子を生存させるだけの物資を咥えて帰ってくることが難しい」のである
だから最初からそういうふうに見える(稼ぎが悪いとか社会的地位の向上が難しそうだとか)男には惹かれない傾向が強い
小学生サッカークラブでレギュラー選抜のためのテストがあったんだけど、落ちてしまった。
実力的には可もなく不可もなく。
毎日練習を頑張っていた息子の悲しそうな背中に胸が苦しくなる。
こういう時って親はどうしたら良いの?
出来ればやる気を失わず、また頑張ってほしい。
別に有名選手みたいになってほしいわけじゃないが、好きで頑張ったなら、結果が伴わなくても過程で得たものを大事にしてほしい。
皆さんどうもありがとう。
昨日、息子と並んで歯磨きをしている時にふと「なんで俺、選ばれなかったんだろう」て呟いてきたんで、
選ばれなかったということは足りない所があったということ。
努力すれば、たとえ結果が得られなくても、確実に自分の力は伸びること。
息子はすごく頑張ってると思うし、頑張り続けるならお父さんもお母さんも兄弟もみんな応援し続ける、と言うことを伝えました。
努力で結果は得られなくても、過程で得たものは本人の生きる力と知恵になると思います。
Permalink |記事への反応(13) | 17:05
ベンチマーク的な記録として。
プロンプト:
東浩紀『存在論的、郵便的:ジャック・デリダについて』の内容を高校生3年生でもわかるようにわかりやすく説明してください。
DeepSeekR1:
東浩紀の『存在論的、郵便的:ジャック・デリダについて』を、高校生向けに哲学の基礎を交えて解説します。
(※「存在論」や「ポスト構造主義」の概念に触れつつ、現代社会との関連性を意識して説明します。)
---
哲学で「存在論」とは、「存在するとはどういうことか?」を探る分野です。
デリダは「脱構築(だつこうちく)」という方法で、従来の哲学が「絶対的な真理」や「固定された意味」を前提としていたことを批判しました。
→ 例:
「善 vs 悪」「現実 vs仮想」といった二項対立は、本当に絶対的か?
(東浩紀は、デリダの思想を「現代のインターネット社会」に応用します)
東浩紀は、SNSやVRなどで「現実」と「仮想」が混ざり合う現代を「存在の不安定化」と表現。
「意味」は決して確定せず、常に「遅延(ちえん)」と「差異(さい)」が生じるという思想。
→ 例:LINEで「笑」と送っても、相手が「嘲笑」と受け取るかもしれない。
東浩紀は、デリダの思想を「手紙が宛先に届く過程」に例えます。
-手紙は途中で紛失したり、誤解されて読まれたりするリスクがある。
- 同様に、言葉や情報は「完全に正しく伝わることはない」という前提が重要。
東浩紀は、インターネット時代を「郵便が誤って配達される(誤配)のが当たり前の世界」と表現。
→ 例:
-デマ情報が独り歩きする
デリダ的な視点では、「絶対的な正解」を探すより、「多様な解釈が生まれること自体」を認める必要があると説きます。
→ 例:
「愛国心」という言葉も、人によって解釈が異なる(「誇り」か「排他主義」か)。
匿名の書き込みは、送り手の意図を超え、受け手の解釈で暴走する。
VRChatやゲーム内アバターでの「自分」は、現実の自分とどう関係する?
→ 「存在」が複数化し、固定的な「自分」という概念が揺らぐ。
しかし、その不安定さこそが、創造性や自由を生む土壌でもある」**
という思想です。
毒親持ちで興味関心を育てることができなかった子、
学習進度についていきにくい子、
そういう子を手厚くフォローしてあげてほしい
そんな金あったら公立に登校しないっていう選択肢(オンライン授業)
興味ないこと強制させてやる気を失わせるのよくないし、
そもそもすべての人が、エリート目指してるわけでもないし、向いてるわけでもない
(目指してるのは、従来通り私立に進んで奨学金でよかろうよ。あるいは東大でも行けば?)
毒親持ちで興味関心を育てることができなかった子、
学習進度についていきにくい子、
そういう子を手厚くフォローしてあげてほしい
https://anond.hatelabo.jp/20250131193332#
出産で陣痛の痛みをなくす麻酔をしないのは家父長制のせいという陰謀論があるが、待ってほしい
子宮外適応と言って、新生児は無菌で安全な子宮から外に出て、菌だらけのストレスフルな環境に適応していかなきゃ生きていけない。
このとき、陣痛を経験しなかった新生児(陣痛ないまま帝王切開で生まれた新生児など)は子宮外適応が不利である事が分かっている
陣痛の痛みは新生児の生きる力につながるので、それ以外助かる道がねえって時以外は消したらだめなんや
痛み、こらえてクレメンス
さっきの増田が理解出来ないの極端に生きる力が弱い自覚があった方がいいぞ
あるいは毒親やクラスメイトなどの周囲の人間に自尊心を傷つけられまくって、自己愛がおかしなことになってるから、
褒め称えられる/周囲を見返せる職業で自分はあるべきだとか何者病やってるんだと思うよ
クラウドAIの基盤/勢力図はもう固まってるので、一般的にはどんなエコシステムを築くか、どんなedgeAI で勝負するか(どのようにAIを活用していくか)ってフェーズだと思うんだけど、
AIをゼロから作るとかなんかようわからんこと言ってる増田おるものね
虚栄心とかじゃなくて、トリビア見てへぇ~ってやるような純粋な好奇心が動機であるなら、自作OSにチャレンジするぞ!と同様にとても素敵なことだし、
その探求心に水を刺すような輩は放っておけ、探求心/好奇心の赴くままやるが良い!!って思うが、
やっぱり探求心/好奇心ではなくスゲーって言ってもらいたい虚栄心かも・・・って自覚あるなら、
娯楽として楽しんだり活用したり、アプリ開発に軸を置いた方が、スゲーって言ってもらえる可能性高そうだぞって思ってる
成果として形になるので見えるしな
なりたいからなるんだよ、買い物が出来る、あるいは家から近いからな
親にあらゆることを決められたり先回りされたり自尊心を傷つけられまくったり、
増田の認識が誤っているって言ってる。世の中はまともな人が多いから回るの
年が年中何も興味を持てない・やることがなくなったとか言ってるのも少数派
学校に通うのが難しい以前にそもそも家から出ることが難しいレベルだと、さすがに猛毒の親じゃなきゃ対処するみたいだけど、
なんとなく学校には通えてる風だと、自分の子が生まれつき極端に生きる力が弱くて手厚いフォローがいるのだと認識が持てなかったり、
→Youtubeのリンクと再生したくない人のために文字起こしもしました
https://anond.hatelabo.jp/20250107211033#
やたらコミュ症な子に対して社会人経験があると良いとかいう幻想を親と専門学校教師は持ちがち
https://anond.hatelabo.jp/20250131064823#
勝手にいくらでも教育ビジネスに注ぎ込むカモ、喜んで奴隷になる人たちがいるんだから、
その人たちに勝手に頑張って貰いましょう
https://anond.hatelabo.jp/20250117090334
けんなんとかさんに言及するなら、外部からの評価や報酬に依存してしまうと、それらがない状況では学習意欲が著しく低下するので、
内部動機がない子は放っておけば良いと思う
内部動機どうこう以前に、明らかに生きる力が弱い子に対しては、下記の通り真逆の意見持ってるやで