
はてなキーワード:甘納豆とは
一葉は、その男の、幼年時代、とでも言うべきであろうか、十歳前後かと推定される頃の写真であって、その子供が大勢の女のひとに取りかこまれ、(それは、その子供の姉たち、妹たち、それから、従姉妹いとこたちかと想像される)庭園の池のほとりに、荒い縞の袴はかまをはいて立ち、首を三十度ほど左に傾け、醜く笑っている写真である。醜く? けれども、鈍い人たち(つまり、美醜などに関心を持たぬ人たち)は、面白くも何とも無いような顔をして、
といい加減なお世辞を言っても、まんざら空からお世辞に聞えないくらいの、謂いわば通俗の「可愛らしさ」みたいな影もその子供の笑顔に無いわけではないのだが、しかし、いささかでも、美醜に就いての訓練を経て来たひとなら、ひとめ見てすぐ、
「なんて、いやな子供だ」
と頗すこぶる不快そうに呟つぶやき、毛虫でも払いのける時のような手つきで、その写真をほうり投げるかも知れない。
まったく、その子供の笑顔は、よく見れば見るほど、何とも知れず、イヤな薄気味悪いものが感ぜられて来る。どだい、それは、笑顔でない。この子は、少しも笑ってはいないのだ。その証拠には、この子は、両方のこぶしを固く握って立っている。人間は、こぶしを固く握りながら笑えるものでは無いのである。猿だ。猿の笑顔だ。ただ、顔に醜い皺しわを寄せているだけなのである。「皺くちゃ坊ちゃん」とでも言いたくなるくらいの、まことに奇妙な、そうして、どこかけがらわしく、へんにひとをムカムカさせる表情の写真であった。私はこれまで、こんな不思議な表情の子供を見た事が、いちども無かった。
第二葉の写真の顔は、これはまた、びっくりするくらいひどく変貌へんぼうしていた。学生の姿である。高等学校時代の写真か、大学時代の写真か、はっきりしないけれども、とにかく、おそろしく美貌の学生である。しかし、これもまた、不思議にも、生きている人間の感じはしなかった。学生服を着て、胸のポケットから白いハンケチを覗のぞかせ、籐椅子とういすに腰かけて足を組み、そうして、やはり、笑っている。こんどの笑顔は、皺くちゃの猿の笑いでなく、かなり巧みな微笑になってはいるが、しかし、人間の笑いと、どこやら違う。血の重さ、とでも言おうか、生命いのちの渋さ、とでも言おうか、そのような充実感は少しも無く、それこそ、鳥のようではなく、羽毛のように軽く、ただ白紙一枚、そうして、笑っている。つまり、一から十まで造り物の感じなのである。キザと言っても足りない。軽薄と言っても足りない。ニヤケと言っても足りない。おしゃれと言っても、もちろん足りない。しかも、よく見ていると、やはりこの美貌の学生にも、どこか怪談じみた気味悪いものが感ぜられて来るのである。私はこれまで、こんな不思議な美貌の青年を見た事が、いちども無かった。
もう一葉の写真は、最も奇怪なものである。まるでもう、としの頃がわからない。頭はいくぶん白髪のようである。それが、ひどく汚い部屋(部屋の壁が三箇所ほど崩れ落ちているのが、その写真にハッキリ写っている)の片隅で、小さい火鉢に両手をかざし、こんどは笑っていない。どんな表情も無い。謂わば、坐って火鉢に両手をかざしながら、自然に死んでいるような、まことにいまわしい、不吉なにおいのする写真であった。奇怪なのは、それだけでない。その写真には、わりに顔が大きく写っていたので、私は、つくづくその顔の構造を調べる事が出来たのであるが、額は平凡、額の皺も平凡、眉も平凡、眼も平凡、鼻も口も顎あごも、ああ、この顔には表情が無いばかりか、印象さえ無い。特徴が無いのだ。たとえば、私がこの写真を見て、眼をつぶる。既に私はこの顔を忘れている。部屋の壁や、小さい火鉢は思い出す事が出来るけれども、その部屋の主人公の顔の印象は、すっと霧消して、どうしても、何としても思い出せない。画にならない顔である。漫画にも何もならない顔である。眼をひらく。あ、こんな顔だったのか、思い出した、というようなよろこびさえ無い。極端な言い方をすれば、眼をひらいてその写真を再び見ても、思い出せない。そうして、ただもう不愉快、イライラして、つい眼をそむけたくなる。
所謂いわゆる「死相」というものにだって、もっと何か表情なり印象なりがあるものだろうに、人間のからだに駄馬の首でもくっつけたなら、こんな感じのものになるであろうか、とにかく、どこという事なく、見る者をして、ぞっとさせ、いやな気持にさせるのだ。私はこれまで、こんな不思議な男の顔を見た事が、やはり、いちども無かった。
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第一の手記
恥の多い生涯を送って来ました。
自分には、人間の生活というものが、見当つかないのです。自分は東北の田舎に生れましたので、汽車をはじめて見たのは、よほど大きくなってからでした。自分は停車場のブリッジを、上って、降りて、そうしてそれが線路をまたぎ越えるために造られたものだという事には全然気づかず、ただそれは停車場の構内を外国の遊戯場みたいに、複雑に楽しく、ハイカラにするためにのみ、設備せられてあるものだとばかり思っていました。しかも、かなり永い間そう思っていたのです。ブリッジの上ったり降りたりは、自分にはむしろ、ずいぶん垢抜あかぬけのした遊戯で、それは鉄道のサーヴィスの中でも、最も気のきいたサーヴィスの一つだと思っていたのですが、のちにそれはただ旅客が線路をまたぎ越えるための頗る実利的な階段に過ぎないのを発見して、にわかに興が覚めました。
また、自分は子供の頃、絵本で地下鉄道というものを見て、これもやはり、実利的な必要から案出せられたものではなく、地上の車に乗るよりは、地下の車に乗ったほうが風がわりで面白い遊びだから、とばかり思っていました。
自分は子供の頃から病弱で、よく寝込みましたが、寝ながら、敷布、枕のカヴァ、掛蒲団のカヴァを、つくづく、つまらない装飾だと思い、それが案外に実用品だった事を、二十歳ちかくになってわかって、人間のつましさに暗然とし、悲しい思いをしました。
また、自分は、空腹という事を知りませんでした。いや、それは、自分が衣食住に困らない家に育ったという意味ではなく、そんな馬鹿な意味ではなく、自分には「空腹」という感覚はどんなものだか、さっぱりわからなかったのです。へんな言いかたですが、おなかが空いていても、自分でそれに気がつかないのです。小学校、中学校、自分が学校から帰って来ると、周囲の人たちが、それ、おなかが空いたろう、自分たちにも覚えがある、学校から帰って来た時の空腹は全くひどいからな、甘納豆はどう? カステラも、パンもあるよ、などと言って騒ぎますので、自分は持ち前のおべっか精神を発揮して、おなかが空いた、と呟いて、甘納豆を十粒ばかり口にほうり込むのですが、空腹感とは、どんなものだか、ちっともわかっていやしなかったのです。
自分だって、それは勿論もちろん、大いにものを食べますが、しかし、空腹感から、ものを食べた記憶は、ほとんどありません。めずらしいと思われたものを食べます。豪華と思われたものを食べます。また、よそへ行って出されたものも、無理をしてまで、たいてい食べます。そうして、子供の頃の自分にとって、最も苦痛な時刻は、実に、自分の家の食事の時間でした。
自分の田舎の家では、十人くらいの家族全部、めいめいのお膳ぜんを二列に向い合せに並べて、末っ子の自分は、もちろん一ばん下の座でしたが、その食事の部屋は薄暗く、昼ごはんの時など、十幾人の家族が、ただ黙々としてめしを食っている有様には、自分はいつも肌寒い思いをしました。それに田舎の昔気質かたぎの家でしたので、おかずも、たいていきまっていて、めずらしいもの、豪華なもの、そんなものは望むべくもなかったので、いよいよ自分は食事の時刻を恐怖しました。自分はその薄暗い部屋の末席に、寒さにがたがた震える思いで口にごはんを少量ずつ運び、押し込み、人間は、どうして一日に三度々々ごはんを食べるのだろう、実にみな厳粛な顔をして食べている、これも一種の儀式のようなもので、家族が日に三度々々、時刻をきめて薄暗い一部屋に集り、お膳を順序正しく並べ、食べたくなくても無言でごはんを噛かみながら、うつむき、家中にうごめいている霊たちに祈るためのものかも知れない、とさえ考えた事があるくらいでした。
めしを食べなければ死ぬ、という言葉は、自分の耳には、ただイヤなおどかしとしか聞えませんでした。その迷信は、(いまでも自分には、何だか迷信のように思われてならないのですが)しかし、いつも自分に不安と恐怖を与えました。人間は、めしを食べなければ死ぬから、そのために働いて、めしを食べなければならぬ、という言葉ほど自分にとって難解で晦渋かいじゅうで、そうして脅迫めいた響きを感じさせる言葉は、無かったのです。
つまり自分には、人間の営みというものが未いまだに何もわかっていない、という事になりそうです。自分の幸福の観念と、世のすべての人たちの幸福の観念とが、まるで食いちがっているような不安、自分はその不安のために夜々、転輾てんてんし、呻吟しんぎんし、発狂しかけた事さえあります。自分は、いったい幸福なのでしょうか。自分は小さい時から、実にしばしば、仕合せ者だと人に言われて来ましたが、自分ではいつも地獄の思いで、かえって、自分を仕合せ者だと言ったひとたちのほうが、比較にも何もならぬくらいずっとずっと安楽なように自分には見えるのです。
自分には、禍わざわいのかたまりが十個あって、その中の一個でも、隣人が脊負せおったら、その一個だけでも充分に隣人の生命取りになるのではあるまいかと、思った事さえありました。
つまり、わからないのです。隣人の苦しみの性質、程度が、まるで見当つかないのです。プラクテカルな苦しみ、ただ、めしを食えたらそれで解決できる苦しみ、しかし、それこそ最も強い痛苦で、自分の例の十個の禍いなど、吹っ飛んでしまう程の、凄惨せいさんな阿鼻地獄なのかも知れない、それは、わからない、しかし、それにしては、よく自殺もせず、発狂もせず、政党を論じ、絶望せず、屈せず生活のたたかいを続けて行ける、苦しくないんじゃないか? エゴイストになりきって、しかもそれを当然の事と確信し、いちども自分を疑った事が無いんじゃないか? それなら、楽だ、しかし、人間というものは、皆そんなもので、またそれで満点なのではないかしら、わからない、……夜はぐっすり眠り、朝は爽快そうかいなのかしら、どんな夢を見ているのだろう、道を歩きながら何を考えているのだろう、金? まさか、それだけでも無いだろう、人間は、めしを食うために生きているのだ、という説は聞いた事があるような気がするけれども、金のために生きている、という言葉は、耳にした事が無い、いや、しかし、ことに依ると、……いや、それもわからない、……考えれば考えるほど、自分には、わからなくなり、自分ひとり全く変っているような、不安と恐怖に襲われるばかりなのです。自分は隣人と、ほとんど会話が出来ません。何を、どう言ったらいいのか、わからないのです。
そこで考え出したのは、道化でした。
それは、自分の、人間に対する最後の求愛でした。自分は、人間を極度に恐れていながら、それでいて、人間を、どうしても思い切れなかったらしいのです。そうして自分は、この道化の一線でわずかに人間につながる事が出来たのでした。おもてでは、絶えず笑顔をつくりながらも、内心は必死の、それこそ千番に一番の兼ね合いとでもいうべき危機一髪の、油汗流してのサーヴィスでした。
自分は子供の頃から、自分の家族の者たちに対してさえ、彼等がどんなに苦しく、またどんな事を考えて生きているのか、まるでちっとも見当つかず、ただおそろしく、その気まずさに堪える事が出来ず、既に道化の上手になっていました。つまり、自分は、いつのまにやら、一言も本当の事を言わない子になっていたのです。
その頃の、家族たちと一緒にうつした写真などを見ると、他の者たちは皆まじめな顔をしているのに、自分ひとり、必ず奇妙に顔をゆがめて笑っているのです。これもまた、自分の幼く悲しい道化の一種でした。
また自分は、肉親たちに何か言われて、口応くちごたえした事はいちども有りませんでした。そのわずかなおこごとは、自分には霹靂へきれきの如く強く感ぜられ、狂うみたいになり、口応えどころか、そのおこごとこそ、謂わば万世一系の人間の「真理」とかいうものに違いない、自分にはその真理を行う力が無いのだから、もはや人間と一緒に住めないのではないかしら、と思い込んでしまうのでした。だから自分には、言い争いも自己弁解も出来ないのでした。人から悪く言われると、いかにも、もっとも、自分がひどい思い違いをしているような気がして来て、いつもその攻撃を黙して受け、内心、狂うほどの恐怖を感じました。
それは誰でも、人から非難せられたり、怒られたりしていい気持がするものでは無いかも知れませんが、自分は怒っている人間の顔に、獅子ししよりも鰐わによりも竜よりも、もっとおそろしい動物の本性を見るのです。ふだんは、その本性をかくしているようですけれども、何かの機会に、たとえば、牛が草原でおっとりした形で寝ていて、突如、尻尾しっぽでピシッと腹の虻あぶを打ち殺すみたいに、不意に人間のおそろしい正体を、怒りに依って暴露する様子を見て、自分はいつも髪の逆立つほどの戦慄せんりつを覚え、この本性もまた人間の生きて行く資格の一つなのかも知れないと思えば、ほとんど自分に絶望を感じるのでした。
人間に対して、いつも恐怖に震いおののき、また、人間としての自分の言動に、みじんも自信を持てず、そうして自分ひとりの懊悩おうのうは胸の中の小箱に秘め、その憂鬱、ナアヴァスネスを、ひたかくしに隠して、ひたすら無邪気の楽天性を装い、自分はお道化たお変人として、次第に完成されて行きました。
何でもいいから、笑わせておればいいのだ、そうすると、人間たちは、自分が彼等の所謂「生活」の外にいても、あまりそれを気にしないのではないかしら、とにかく、彼等人間たちの目障りになってはいけない、自分は無だ、風だ、空そらだ、というような思いばかりが募り、自分はお道化に依って家族を笑わせ、また、家族よりも、もっと不可解でおそろしい下男や下女にまで、必死のお道化のサーヴィスをしたのです。
自分は夏に、浴衣の下に赤い毛糸のセエターを着て廊下を歩き、家中の者を笑わせました。めったに笑わない長兄も、それを見て噴き出し、
「それあ、葉ちゃん、似合わない」
と、可愛くてたまらないような口調で言いました。なに、自分だって、真夏に毛糸のセエターを着て歩くほど、いくら何でも、そんな、暑さ寒さを知らぬお変人ではありません。姉の脚絆レギンスを両腕にはめて、浴衣の袖口から覗かせ、以もってセエターを着ているように見せかけていたのです。
自分の父は、東京に用事の多いひとでしたので、上野の桜木町に別荘を持っていて、月の大半は東京のその別荘で暮していました。そうして帰る時には家族の者たち、また親戚しんせきの者たちにまで、実におびただしくお土産を買って来るのが、まあ、父の趣味みたいなものでした。
いつかの父の上京の前夜、父は子供たちを客間に集め、こんど帰る時には、どんなお土産がいいか、一人々々に笑いながら尋ね、それに対する子供たちの答をいちいち手帖てちょうに書きとめるのでした。父が、こんなに子供たちと親しくするのは、めずらしい事でした。
「葉蔵は?」
何が欲しいと聞かれると、とたんに、何も欲しくなくなるのでした。どうでもいい、どうせ自分を楽しくさせてくれるものなんか無いんだという思いが、ちらと動くのです。と、同時に、人から与えられるものを、どんなに自分の好みに合わなくても、それを拒む事も出来ませんでした。イヤな事を、イヤと言えず、また、好きな事も、おずおずと盗むように、極めてにがく味あじわい、そうして言い知れぬ恐怖感にもだえるのでした。つまり、自分には、二者選一の力さえ無かったのです。これが、後年に到り、いよいよ自分の所謂「恥の多い生涯」の、重大な原因ともなる性癖の一つだったように思われます。
自分が黙って、もじもじしているので、父はちょっと不機嫌な顔になり、
「やはり、本か。浅草の仲店にお正月の獅子舞いのお獅子、子供がかぶって遊ぶのには手頃な大きさのが売っていたけど、欲しくないか」
欲しくないか、と言われると、もうダメなんです。お道化た返事も何も出来やしないんです。お道化役者は、完全に落第でした。
「本が、いいでしょう」
長兄は、まじめな顔をして言いました。
「そうか」
父は、興覚め顔に手帖に書きとめもせず、パチと手帖を閉じました。
何という失敗、自分は父を怒らせた、父の復讐ふくしゅうは、きっと、おそるべきものに違いない、いまのうちに何とかして取りかえしのつかぬものか、とその夜、蒲団の中でがたがた震えながら考え、そっと起きて客間に行き、父が先刻、手帖をしまい込んだ筈の机の引き出しをあけて、手帖を取り上げ、パラパラめくって、お土産の注文記入の個所を見つけ、手帖の鉛筆をなめて、シシマイ、と書いて寝ました。自分はその獅子舞いのお獅子を、ちっとも欲しくは無かったのです。かえって、本のほうがいいくらいでした。けれども、自分は、父がそのお獅子を自分に買って与えたいのだという事に気がつき、父のその意向に迎合して、父の機嫌を直したいばかりに、深夜、客間に忍び込むという冒険を、敢えておかしたのでした。
そうして、この自分の非常の手段は、果して思いどおりの大成功を以て報いられました。やがて、父は東京から帰って来て、母に大声で言っているのを、自分は子供部屋で聞いていました。
「仲店のおもちゃ屋で、この手帖を開いてみたら、これ、ここに、シシマイ、と書いてある。これは、私の字ではない。はてな? と首をかしげて、思い当りました。これは、葉蔵のいたずらですよ。あいつは、私が聞いた時には、にやにやして黙っていたが、あとで、どうしてもお獅子が欲しくてたまらなくなったんだね。何せ、どうも、あれは、変った坊主ですからね。知らん振りして、ちゃんと書いている。そんなに欲しかったのなら、そう言えばよいのに。私は、おもちゃ屋の店先で笑いましたよ。葉蔵を早くここへ呼びなさい」
また一方、自分は、下男や下女たちを洋室に集めて、下男のひとりに滅茶苦茶めちゃくちゃにピアノのキイをたたかせ、(田舎ではありましたが、その家には、たいていのものが、そろっていました)自分はその出鱈目でたらめの曲に合せて、インデヤンの踊りを踊って見せて、皆を大笑いさせました。次兄は、フラッシュを焚たいて、自分のインデヤン踊りを撮影して、その写真が出来たのを見ると、自分の腰布(それは更紗さらさの風呂敷でした)の合せ目から、小さいおチンポが見えていたので、これがまた家中の大笑いでした。自分にとって、これまた意外の成功というべきものだったかも知れません。
自分は毎月、新刊の少年雑誌を十冊以上も、とっていて、またその他ほかにも、さまざまの本を東京から取り寄せて黙って読んでいましたので、メチャラクチャラ博士だの、また、ナンジャモンジャ博士などとは、たいへんな馴染なじみで、また、怪談、講談、落語、江戸小咄こばなしなどの類にも、かなり通じていましたから、剽軽ひょうきんな事をまじめな顔をして言って、家の者たちを笑わせるのには事を欠きませんでした。
自分は、そこでは、尊敬されかけていたのです。尊敬されるという観念もまた、甚はなはだ自分を、おびえさせました。ほとんど完全に近く人をだまして、そうして、或るひとりの全知全能の者に見破られ、木っ葉みじんにやられて、死ぬる以上の赤恥をかかせられる、それが、「尊敬される」という状態の自分の定義でありました。人間をだまして、「尊敬され」ても、誰かひとりが知っている、そうして、人間たちも、やがて、そのひとりから教えられて、だまされた事に気づいた時、その時の人間たちの怒り、復讐は、いったい、まあ、どんなでしょうか。想像してさえ、身の毛がよだつ心地がするのです。
自分は、金持ちの家に生れたという事よりも、俗にいう「できる」事に依って、学校中の尊敬を得そうになりました。自分は、子供の頃から病弱で、よく一つき二つき、また一学年ちかくも寝込んで学校を休んだ事さえあったのですが、それでも、病み上りのからだで人力車に乗って学校へ行き、学年末の試験を受けてみると、クラスの誰よりも所謂「できて」いるようでした。Permalink |記事への反応(1) | 20:22
母方の祖父が亡くなった。
入院したのは一昨日の夕方。叔母と従妹がたまたま顔を見に行ったら、起き上がるのがしんどい、とベッドに横になっていて、何度か手の痙攣があり、土曜も診察しているかかりつけに行ったらそこから救急車で総合病院へ。
もともと持病がいろいろあったけど、今回は肺炎(コロナではない)。血中酸素濃度がめちゃくちゃ低かったようで、酸素投与で少し楽になったのか、意識はしっかりしていて、「おい、今日は帰れねえのか」と文句を言っていたというう。とりあえずは抗生物質で肺炎の治療を進めるということになった、ということを聞いたのは11/19の夜、実家の母からの電話だった。
昨日、11/20の午後、「あまり状態が良くない」と家族LINEに母からのメッセージ。電話をすると、抗生物質が思ったほど効かず、血中酸素濃度が思ったほど上がらない、この2、3日で何が起きてもおかしくないと医者から言われたという。でもこの時も祖父はしっかり意識があり、カテーテルが嫌だの歩きたいだの帰りたいだの、散々わがままを言っていたらしい。夕方17時まで、祖母と叔母たちと母(この時直接面会を許されたのは1等親の間柄のみだったそうだ)がそばにいて、また明日、つまり今日の午前にはここまでやった検査の結果が出揃うから、それを基に抗生物質の選定や治療の方針を決める、という話をし、それぞれ帰宅したそうな。
それをわたしが電話で聞いたのは18時。また明日の午前に、医師との面談が終わったら連絡するから、と言われて、了承して電話を切った。
とりあえず職場に現状を連絡しておかねば。いつでも帰れるように荷造りをせねば。でもつまりそれはスーツケースに喪服をつめておけということか。嫌だなぁ。
そう思ってベッドに寝転んで天井を見上げていられたのは、しかし30分程度だった。
「おじいちゃん、旅立ちました」
おじいちゃんはせっかちな人だった。
孫には甘かったけど、たとえばおやつやお小遣いを渡そうとした時、わたしが「もらっても大丈夫なのか」と母の顔色を窺おうとすると、「それくらい自分で決められんのか。お前が欲しいんか欲しくないんかはっきり言え」と怒られた。
いつ遊びに行っても、だいたい畑にいた。トマト、とうもろこし、ナス、枝豆、かぼちゃ、玉ねぎ、葡萄、イチゴのハウスもあったかな。おばあちゃんとお茶の準備をしてると、泥まみれで勝手口や縁側から上がってきて、おばあちゃんに文句を言われながらも一緒にお茶を飲んだ。おじいちゃんの湯呑みは黒で、割れたものを一度金継ぎしてあってかっこよかった。
多くのお年寄りがそうであるように、おじいちゃんもお餅つきが大好きだった。自分はたいして食べないのに、年末は庭で餅米をふかして、臼と杵でついていた。さすがにもうここ数年は腰を悪くして出来なくなってしまって、サトウの切り餅を前にたいそう不満そうな顔をしていた。
わたしは関東に住んでいるので、コロナ禍ではなかなか会いに行くことが難しくて、最後に話したのはお盆に、実家に帰ったときにかけた電話だった。「次来たらおこわ炊いてやるからな」って言ってた。おじいちゃんが作る山菜おこわと、甘納豆を入れて作る、おやつみたいに甘いお赤飯が好きだった。
今、とりあえず地元に向かう高速バスに乗っている。最後が電話越しじゃなく、直接会えていたら、良かったなぁ。おじいちゃんちから帰る時はいつも握手をするのが小さい頃からのルールで、皮膚が厚く豆が凸凹したあったかい手とぎゅうと握手するのは大きくなってからは照れ臭かったけど、最後にそれが出来たのはコロナ禍の前だったから、もうその感覚は遠くて。仕方のないことだけど、それがとても寂しい。いろいろ対策をして、この年末年始は会いに行きたいって母と話していたんだ。
仕方のないことだった(持病があったから、コロナにかかったらそれこそたぶん一瞬だったろう)、でも、何か出来なかったのかな。そんなことをずっと考えてしまう。
まだ実感はない。88歳。昨日までわらって喋ってたひとが急にいってしまう。
わたしが歳をとる分、わたしを見守っていた大人は老いていく。そんな当たり前のことを急に突きつけられて、まだ気持ちの置き所がわからない。
あと2時間もすれば、わたしはもう動かなくなったおじいちゃんに会う。そうなったらきっと、いろんな気持ちにかき乱されそうだから、まだ変に冷静なうちに、おじいちゃんがどんな人だったかを、こうして書いておくことにした。
山に登る理由として、ジョージ・マロリーが「そこに山があるから」と答えたのはあまりにも有名だ。大正時代から昭和初期にかけて雪山単独行で名を馳せた加藤文太郎は、小説「孤高の人」の主人公のモデルになっており、作中で「汗をかくため」と答えている。
登山を趣味とする私(といっても高くても1000m程度の山にしか登らないが)にとってはどちらの理由もそれなりに納得のいくものだが、私の答えは違う。私は腹を空かせるために登る。
登山はカロリー消費の激しい運動である。単位時間当たりでは登山以上にカロリーを消費するスポーツはいくらでもあるが、一日でのカロリー消費で登山を上回るスポーツは少ないだろう。競技の合間の休憩で大量のカロリー補給が必要なスポーツは知らないが、登山ほど高カロリーを摂取するわけではないだろう。
登山にラーメンやスパゲティを持ち込んで食べることはしない。燃料や鍋など余計なもので荷物がかさばるからだ。キャンプなら麺料理を鍋で煮て楽しむのも悪くはないが、登山では携行性が重要だ。私は登山を始めたばかりの頃はパンやおにぎりを持ち込んでいたが、体積がかさばる割にはカロリーが少ないので、次第にチョコレート・カロリーメイト・ようかんなどの高カロリー食品を持つようになった。「孤高の人」の主人公を真似して甘納豆も持つようになった。チョコレートやカロリーメイトは脂質が多くエネルギーの即効性が悪いので持つ量を控えるようにもなった。様々な携行食の変遷を経て、最近はケーキシロップを中心にしている。歩きながらでも飲めるし、はちみつと違って大量に摂取しても腹を下すことがないからだ。そうした携行食をおよそ5000kcal分ほどリュックサックに詰め込むのが、私の日帰り登山のルーティンとなっている。
とはいえ登山中に全部を食べるわけではない。万が一遭難などして山で一晩過ごす時に備えて余分に食料を持ち込んでいるだけだ。気温・風速(風が強いと体温が奪われる)・行程によって摂取量は異なるが、だいたい持ち込んだ食料の半分程度(2000~3000kcal)を登山中に食べている。
昨日は始発の電車で登山に出かけて2000kcalほど携行食を摂取した。気温が高く風も無かったので摂取カロリーは想定したよりも低かったが、それでも普段に比べれば摂取量は十分に多い。にもかかわらず下山後は猛烈に腹が減った。帰路に就く際に二郎系らーめんの店に寄り、大盛のアブラ増しを食べた。これがとてもうまかった。普段だったら昼飯抜きにしてようやく食べきれるほどの量で、腹の膨れと胃もたれで苦しくて就寝時間になっても眠りにつくことができないほどである。しかし、登山帰りの昨日は違った。食後はさすがに腹が膨れて満腹感があったが、10分もすれば胃が収縮していく感覚があり、満腹感はすぐに消えていった。胃もたれもなく、疲れのせいかすんなりと就寝することができた。
今日も休みだから昼頃までずっと寝て過ごす予定だったが、日の出前にあまりにも腹が減って目が覚めた。気にせず寝続けようとしたが、腹が減りすぎて二度寝できなかった。腹が減って目が覚めることを諸君らは経験したことがあるだろうか。いつもより早くて量の多い朝食後も腹が減りっぱなしで、普段は取らない間食も取り昼飯も大量に食べた。それでも体重は昨日より減っているから驚きだ。代償として、両足を中心として全身が筋肉痛になっており、立ち上がるだけで両足が痛む。筋肉痛が収まるまで2~3日は、いつもより食事量が増えることだろう。
肉が好きならジンギスカンやな
ラーメンなら梅光軒が俺は好きだが青葉でも天金でも蜂屋でもいいぞ
旭川のとんかつと言えば井泉だが孤独のグルメに出てきた自由軒もある
どっちも普通にうまいが旭川だから特別な何かがあるわけではないかな
居酒屋でいい店も多いが基本は海鮮だけど新子焼とかザンギとか鳥肉系のローカルフードを食べに行くのもいいかもしれん
蔵生を売ってる店の釜蒸し蔵って言う黒糖饅頭が美味いのでまんじゅう好きならどうぞ
駅前イオンで土産のお菓子はそこそこ何でも揃うが六花亭と柳月なら間違いはない
あと北海道の赤飯は小豆じゃなくて甘納豆を使うんだがイオンの総菜屋あたりで見かけたら食べてみてもいいかもしれんな
美術館博物館科学館もあるがよくある地方都市のそれって感じだが気になる企画展がやってればどうぞと言ったところ
どれも気候のいい時期なら散歩がてら歩ける距離だけど冬ならバスかタクシーかね
あとは何があったかねえ
甘納豆。
父が自営業の仕入れへ東京に行く際、土産でよく買ってきてくれた思い出の品だ。住んでいる地元にはないお菓子、ちょっぴり都会の香りがするお菓子。
核家族の我が家は、父出張時、家で男は私だけになる。出発の前日、父は2人っきりの時に、いつも決まって私にこう、コソッと言う。
「増田よ、家を任せたぞ」と。
小学2年生の私は、その言葉に妙な歯がゆさ、男として認められた照れ臭さ、もしもの時は家族を守る、という緊張感が入り混じった感情になる。
父も小2の私に、家族の安全を守れる、なんて期待は、甚だしてないだろう。が、父は私に、長男としての自覚を、幼いながらも持たせたかったのであろう。
もちろん平和な日本だ。変わった事は何も起こらない。ただ子供ながらにも、父親不在の中、『何かあったら俺が』と、隠れた決意は心に秘めている。この決意は母や姉には言わない。父と私だけの男の約束だからだ。
小2の私は一人、隠れた緊張感を抱えたまま、父不在の家で過ごす。
父の出張は一泊二日か二泊三日。なんの事はない。極めて短い期間である。すぐに父は帰ってくる。父が帰ってくると家は色めき立つ。父は東京の沢山の土産と一緒に帰ってくるからだ。1990年代のあの時、まだまだ東京は遠かった。
父の土産は2種類ある。
一つは、仕入れ荷物と一緒に送られてくる物。大体、父が帰ってきた翌日に届く。父の仕入れは東京馬喰町、浅草橋界隈が中心。エトワール海渡という卸問屋のデパートで、仕入れ物と一緒に、子供向けのおもちゃとかディズニーのビデオを買ってきてくれた。小売店で買うより安かったから、いつもちょっと高そうなのを買ってきてくれる。自分の店で姉と遊んでいると佐川急便のお兄ちゃんが荷物を持ってきてくれる。(佐川急便の兄ちゃんはジュース奢ってくれたり、やさしかったなぁ。)
もう一つ土産は手荷物で持って来れる小さな物。基本は羽田空港とか、東京駅構内のお土産市場で買える小さい物。父も東京のうまい物が好きで、いつも旅行用ボストンバッグにほりこんで帰って来る。地元にはない、粋で洗練された、東京の名産品。
父が家に帰ってくると、姉と一緒に鞄を漁るのが楽しい。夕刊ゲンダイもよく入っていて、「東京の情報だ!」なんてドキドキしながらよく分からないまま、読む。
鞄の端っこの方に平べったい、紙に包まれた甘納豆がぺちゃんこになって挟まっている。紙の封を開けると、ザラメがまぶした黒豆が。子供にはちょっと甘ったるいが、中々味あえない東京の味。姉と一緒にチビチビ食べる。
甘納豆は、無事に家族を守った私のご褒美なのだ。父が帰って来た安心感と、家族を守るというミッションから緊解放された安堵感の味がする。一仕事終えた父と、一仕事終えた小さな私の、甘いお菓子。