
はてなキーワード:理想論とは
こういうクオリティの壁打ちができる以上、わざわざ単語反応ガイジの脊髄反射に構ってやる意味がどこにもない
正直、「まあいいか」と言ってもらえるのはありがたい。でも「まあいいか」って距離のある許可より、「同じ人間として当然の権利だよね」という共感のほうが欲しいんです。
結婚制度の見直しも重要だけど、今すぐ結婚できずに病院でパートナーと面会すらできない現実があるんですよ。だからまずは同性婚の法的承認が必要なんです。
「婚姻制度の枠組みを解体していくべきじゃないか」という最初の直感、そこはすごく共感します。
「阻止したい理由はない」とのこと、冷静な書き方ですね。ただ、伝統的な家族観を守りたい層からすれば、「結婚」という言葉に込められた文化的・宗教的意味を軽視しているようにも感じます。
もう少し、社会的合意の作り方を丁寧に議論しないと、単に「反対派=差別主義者」と決めつける風潮を助長してしまう恐れもありますね。
「まあいいか」と言える人たちはたぶん、制度の“外側”で困ってこなかった人。
これまで病院や相続、住宅ローンで困ってきた私たちからすると、“理屈のための理屈”で時間を費やされること自体がもう苦しいです。
同性婚問題って、「賛成か反対か」より、自分がどんな社会を望むかを問われている気がします。
この文章を読んで、考えが柔らかい人だなと思いました。でも、読む人によっては「他人事っぽい」「安全圏から語っている」と見えるかもしれません。
「なぜ正式な婚姻にこだわるのか」という疑問、実はよく受けます。でも当事者としては、パートナーシップ制度などの「代替案」では解決しない問題が山ほどあるんです。相続、税制、医療同意、子どもの親権…婚姻に紐づく権利は100以上あって、それを一つ一つ手当てするより婚姻を開くほうが圧倒的に現実的です。
それに、「正式じゃなくても損しないように」という発想自体が、すでに異性愛者には無条件に与えられている権利を、私たちには条件付きでしか認めないという不平等を前提にしていませんか?
あなたの「どうしても阻止したい理由はない」という姿勢は理解できますが、私は慎重であるべきだと考えます。
婚姻制度は何千年も続いてきた社会の基盤です。それを変えることの影響は、当事者だけでなく社会全体、特に次世代にどう及ぶのか、もっと慎重に議論すべきではないでしょうか。
「左翼がムカつくから」という理由で反対しているわけではありません。家族の在り方、子どもの福祉、伝統的価値観との整合性など、真剣に考えるべき論点があります。
あなたの最初の直感「婚姻の枠組み自体を解体すべき」という視点、実は重要だと思います。
同性婚の法制化は確かに当事者の権利として必要ですが、それで終わりではない。異性愛・結婚中心主義の社会構造そのものを問い直す必要があるはずです。事実婚、多様な家族形態、非婚者への差別…問題は山積みです。
「ゲイカップルもリベラルとは限らない」というのはその通りで、同性婚が認められたら「普通の結婚」に同化していく動きが強まる可能性もあります。それでいいのか、という議論はもっとされるべきでしょう。
あなたにとっては「どっちでもいい」問題かもしれないけど、私たちにとっては人生がかかってるんです。パートナーが入院しても面会できない、死んでも遺産を相続できない、そういう現実と日々向き合っているんです。
「左翼がムカつく」とか「筋が通らない」とか、第三者的な理屈で語られること自体が、当事者を消費している感じがします。私たちは政治的な駒じゃないんです。
もちろん、反対派よりはマシですが、「消極的賛成」の人たちの無関心が、結局は現状維持を支えているという側面もあると思います。
俺は今日、ようやく一つの境地に到達した。それは悟りでも達観でもない。
この社会という全自動茶番劇に対して、俺はついに完全なる諦めの印鑑を押した。
理由は単純だ。
リフレ派の自己放尿も、ネットの群衆心理も、企業のAIも、一貫して俺の人生とは無縁だったからだ。
ある者は責任を回避するために自己放尿をして、またある者は他者へマウントを取るために自己放尿を撒き散らし、さらに一部は自分の無能を正当化するために、嫉妬、無関心、保身のトリプル放尿をぶちまけてくる。
そんな液体まみれの空間で、健全な評価だの公正なルールだの、そんな理想論が成立すると思うか?バカバカしいにも程がある。
俺は気付いたのだ。この社会は、もはや誰も舵を握っていない高速回転の自己放尿マシンでしかない。
そこで誰が泣こうが怒ろうが、システムは知らんがなと言わんばかりに淡々と回り続ける。
だから俺は見切った。救う価値も、期待を寄せる価値もない。まともな世界であるという前提そのものを切り捨てたのだ。
むしろ逆だ。
社会が俺を誤認しようが、排除しようが、監視しようが、好きにやらせておけばいい。
俺は何一つ脅威ではないという、乾いた現実だけだ。
だが、その現実にすら俺は興味を失った。
もういい。俺は社会に期待しない。社会も俺に期待するな。互いに関わらず、互いに放っておこう。それが最も理性的な距離感だ。
これが、俺の完全なる諦めだ。
外野が何を言おうと、どうでもいい。
俺はもう、社会という腐った自己放尿の液体を吸うつもりはない。
以上だ。
自分自身をアーティストとか表現者を肩書きにしてる人たちほど、左で理想主義でその上自分たちを利口だと思っていて、それ以外をバカだと思っていて、単純な労働者や社会の大多数の歯車となってバランスや快適さを保持しようとしてる人をバカにして、自分たちはみんなが知らないことや崇高なことを教えてあげよう気づかせてあげよう、なぜなら自分たちが平和主義者で理想論者だからと施しを与えられると思ってる。
海の向こうのや自分と関わりのない弱者に思いを寄せて、近しい人の中のごくわずかなnだけで、あたかもそれが全てだと言わんばかりの主張をして、崇高な理想論を押し付ける、そしてそのすべてが暴力的。
人間の性善説やおとぎ話のような平和は、そこにいるだけで叶うと思ってる。
だから嫌い。
こういう例をみて、本当に「自分の仕事が社会貢献をしている」などと言えるだろうか?
ところで、The Good Placeというネトフリのドラマがある。ネタバレするのであまり言えないが、要するに天国のフリをした地獄の話だ。
地球での行動は実はポイント制で評価されており、一定のポイントを稼げないと天国へ行けない。
ところがこのポイント制には、実は天の支配者さえも理解していなかったバグがある。
つまり現代社会はあまりにも複雑すぎで、普通の行動が罪にカウントされるということだ。
牛肉を買うだけで地球温暖化に関する罰則ポイントとなるし、募金をすれば人口過剰に関する罰則ポイントになる。
つまり「俺の仕事は社会のためになっている」というのは単なる妄想であることが多い。実際、怪しいキノコで真理(ポイント制のこと)を発見したという男が極めて謙虚な生活をしていたにも関わらず、そのバグで地獄行きが確定していた。
ドラマから現実に話を戻すと、実際の現実にもそういう側面がある。社会のためになるからといって完全なる善行とも言えないので、わざわざ「立派な社会人」なんて理想論を掲げる必要はない。
「俺は生きるために金がいる。そのために仕事をするし、稼いだ金はS&P500に突っ込む」という人のほうが正直だ。もちろん、程度の問題はある。金がいるからといって犯罪をするのは愚者である。
ユダヤ人の言うように、非ユダヤ人の我々はノアの法さえ守っていてばよいだろう。それが、サバイバルと倫理の間の、ちょうどいいルールだ。
リベラルは正しいことを「正しい」と言い
理想論だと笑われてもそこへ突き進むところが魅力だったはず。
しかし、リベラルはそこで「いじめっ子が悪いのだから、お前が学校に来るな」という傾向のはず。
いま、日中のあれやこれの渦にいるホテルマンです。個人情報保護などがあるので詳細には語れませんが、○国人と無料キャンセルをめぐって激闘している様子を書かせていただきます。
——
私が勤務しているのは100部屋くらいの小さなホテルですが、○国人による無料キャンセルのリクエストは一日250件以上、全てメールと電話で来ています。いつもは1日20件程度なので約12倍ですね。
私「そちらの理由ではキャンセル料が発生します。キャンセルポリシーをご確認ください。」
〜数日後〜
同じお客様「急に体調が悪くなった。熱がある。必ずまた予約するので無料キャンセルしたい」
私「診断書をご提示ください。それにご予約は1ヶ月後ですが、いま体調不良なのですか?」
〜数日後〜
同じお客様「フライトがキャンセルになった。無料キャンセルしたい」
〜数日後〜
同じお客様「フライトキャンセルの証明書です。無料キャンセルしたい」
ここまでが大体の流れです。キャンセル理由が二転三転した末に何かしらの証明書を出してくる、というパターン。
これでやっと無料キャンセルの処理をするのかというと、できません。
フライトの便名や時間をWebで調べてみると確かに「欠航」となっています。しかしお客様の証明書をよく見てみると、明らかに偽造されたものであると判ります。どこかから拾った画像だったり、一瞥すると本物に見えますが拡大してみると不自然な点がいくつも見つかる…など。
また、2段階目の体調不良〜では診断書の偽造(もしくは虚偽の診断)なども見受けられます。
ここまでの流れを数百の○国人がバラバラの時間・手段で行なってくるため、1日250件のメールと電話になるのです。
正直、最初に「政治的な理由でキャンセル」と言っているので、後出しされたものに関しては無視をしてもいいとも思います。しかし欠航が事実かつ、証明書も本物だったため無料キャンセルを受理した例もあります。
ここからは私の想像ですが、○国人のお客様が揃って同じような手段で無料キャンセルを試みているあたり、あちらのSNSなどで無料キャンセルを勝ち取るための手法が紹介されているのでしょうか。
もちろんお客様も不可抗力で巻き込まれた形ではありますし、「お金を無駄にしたくない」という焦りは分かります。しかし文書を偽造をして騙したり、執拗に連絡をしてこちらを折らせようとする行為が許される理由にはなりません。
その上お客様は予約された際にキャンセルポリシーに同意されたのですから、私は不当にキャンセル料を請求しているわけでもありません。
——
国内ではそんな○国人に依存していたのが悪い!とおっしゃる方もいますが、そんな理想論にはいまのところ意味はありません。
恥も外聞もなく殴ってくる相手と、ルールのなかで闘わなければならない大変さを知って頂けると嬉しいです。
おわり
道端で大きい荷物を持ってるおばあちゃんに手を貸す、迷い犬を保護する、職場いじめに加担しない。すべて「みんながよりよい毎日を送れますように」という小さな祈り。
自己満、青臭い理想論、弱者の味方、そうやって冷笑されることがある。助けたはずのおばあちゃんに「余計なお世話だよ!」と言われたり、犬に手を噛まれることだったりすることも……ある。おもしろ半分で石を投げられることだってある。すこし、辛い。
誰のせいで自分が辛い思いをしてるのか考える。解決したいから。自分が嫌な思いをしたときは、自分が悪いといい聞かせて納得できる。
けれども。
誰がこんな目に遭わせてるのか、どうやったら自分で解決できたのか考えるうちに、毎日の小さな祈りが、憎しみと呪いに変わった。
残ったのは憎しみだけ。
百歩譲って謝罪はいいよ。けど、誠意を見せてもいいんじゃないの? 相手に金を出させてるんだよ?
見に来ないでくれ。
「なぜ働くと本が読めなくなるのか」2024年最も話題となった書籍の一つ。友人と話していると、同書は非常に危険な本だと話になる。新書だからテキトーに読んでいる気付かないのだが、マトモに読むと「半身で働く」という主張に至る過程に論理の飛躍があるからだ。
加えて、三宅の書籍にモヤモヤするのは、彼女の著作の問題というより、出版業界全体が抱える“退行の空気”が透けて見える。本来、批評とは対象を切り離し、構造を浮かび上がらせる作業のはず。「斜陽産業」の出版業界は、読者層を広げるために知的ハードルをどんどん下げ、「本にしなくてもいい内容」を巧みな営業戦略で売りまくる世界になってしまった。
論理や構造より、“共感”や“エモさ”。そうした市場環境の中で、『なぜ働くと本が読めなくなるのか』のようなお気持ちエッセイが主流になるのは必然だ。
問題は、その本が社会構造の分析をしているように見せかけながら、突然「本が読めないのは社会が悪い」という感情論にジャンプする点だ。書籍の大部分を占める読書と社会人の近代史パート(9章くらいまで?)
はどう読んでも「半身で働く」の根拠になり得ない。提言だとしても、提言をするだけの根拠が前文には書いていない。。こうなると、構造を論じているようでいて、じつは個人の感情の物語に回収されているだけで、「社会がない」と批判されるタイプの語りに近い。
さらに「半身で働く」という提案は、階級的な前提をあまりに無視している。映画「花束みたいな恋をした」を引用して田舎出身の労働者・麦くんが本を読めなくなっていく過程を記述しているが、はっきり言って世の中の麦くん化している社会人に失礼だ。
現実に半身で働けるのは、富裕層家庭出身者、ホワイト企業勤務者、配偶者の扶養に入れる人(その多くは事実上女性だ)など、ごく一部に限られる。つまり映画「花恋」でいうところのヒロイン絹ちゃんだけだ(親が大企業、都会に実家、定職につかなくても生きていける、好きなことだけして生きていきたい)。
一般的な労働者が週5日・フルタイムの構造から抜けるのはほぼ不可能で、そんな生き方が“みんなが選べる選択肢”かのように語られると、不公平と言わざる得ない。
その社会構造自体がおかしいと主張したいのであれば、大部分の都市サービスを享受すべきではない。インフラを維持する人々の労働あってこそ、「半身で働く」ことは可能になるからだ。
そうした現実に目を向けず、都市部の特権だけが享受可能な理想論を大衆に説く。ここにはグロテスクとしか言いようのない欠陥構造がある。
また、三宅が語る「批評の文体をひらく」も、実際には論理の緩和=読者への迎合になってしまっている。例えば、同じ言葉を生業にするジャーナリズムでは誤りは許されない。5W1Hや誰が何を言ったかを間違えて報道すれば即座に批判が殺到する。(近年のオールドメディアに対するヘイトはその裏返し。合っていて当然のものが一部フェイク化したから批判されている。そもそもフェイクや根拠不十分なら叩かれないで済む)
批評は「論証できないけど感覚で書く」が成立する世界でいいのか。かつてのジャーナリズムや批判が担っていたのは理路整然の文章を大衆に届けることではないのか。論理の飛躍があっても共感(=いいねが取れる)できるなら読者層を広げるために知的ハードルをどんどん下げてもいい。売れるなら「本にしなくてもいい内容」を本にしていい。これが国民の知る権利を盾に商売をする出版業界で許されていいのか。
これは批評の民主化ではなく、文化が“推し活”に吸収されていくプロセスだ。文化人が読者の機嫌を損ねない戦略を取ると、批評はどんどんお気持ち表明コンテンツへ変質していく。自分の好き・推しを言語化するツールに批評が成り下がると、推しを肯定する言説しか生まれなくなる。批評とは本来対象をそれ以外のものから切り離し、特異であることを浮かび上がらせる作業のはずだ。その点において共感を求めるスポーツや音楽ライブの一体感とは真逆にある。消費者の感情におもねる批評でいいのだろうか。
出版とは、知を鍛える公共財だ。だからこそ独占的な販売方法が許容されている業界だ。しかし今は、情緒と共感を売りにして市場縮小を乗り切ろうとしている。「共に賢くなる」ための活字文化が、「共感」のツールに成り下がっている。
批評が論理を疎かにし、読者の気持ちに寄りかかり、階級の現実が曖昧になる。事実上「半身で働く」ことができない人々に対して、「半身で働く」特権階級のよさを説くというのは、パンがなければケーキを食べればいいと言っているのと同じだ。
「なぜ働くと本が読めなくなるのか」2024年最も話題となった書籍の一つ。友人と話していると、同書は非常に危険な本だと話になる。新書だからテキトーに読んでいる気付かないのだが、マトモに読むと「半身で働く」という主張に至る過程に論理の飛躍があるからだ。
加えて、三宅の書籍にモヤモヤするのは、彼女の著作の問題というより、出版業界全体が抱える“退行の空気”が透けて見える。本来、批評とは対象を切り離し、構造を浮かび上がらせる作業のはず。「斜陽産業」の出版業界は、読者層を広げるために知的ハードルをどんどん下げ、「本にしなくてもいい内容」を巧みな営業戦略で売りまくる世界になってしまった。
論理や構造より、“共感”や“エモさ”。そうした市場環境の中で、『なぜ働くと本が読めなくなるのか』のようなお気持ちエッセイが主流になるのは必然だ。
問題は、その本が社会構造の分析をしているように見せかけながら、突然「本が読めないのは社会が悪い」という感情論にジャンプする点だ。書籍の大部分を占める読書と社会人の近代史パート(9章くらいまで?)
はどう読んでも「半身で働く」の根拠になり得ない。提言だとしても、提言をするだけの根拠が前文には書いていない。。こうなると、構造を論じているようでいて、じつは個人の感情の物語に回収されているだけで、「社会がない」と批判されるタイプの語りに近い。
さらに「半身で働く」という提案は、階級的な前提をあまりに無視している。映画「花束みたいな恋をした」を引用して田舎出身の労働者・麦くんが本を読めなくなっていく過程を記述しているが、はっきり言って世の中の麦くん化している社会人に失礼だ。
現実に半身で働けるのは、富裕層家庭出身者、ホワイト企業勤務者、配偶者の扶養に入れる人(その多くは事実上女性だ)など、ごく一部に限られる。つまり映画「花恋」でいうところのヒロイン絹ちゃんだけだ(親が大企業、都会に実家、定職につかなくても生きていける、好きなことだけして生きていきたい)。
一般的な労働者が週5日・フルタイムの構造から抜けるのはほぼ不可能で、そんな生き方が“みんなが選べる選択肢”かのように語られると、不公平と言わざる得ない。
その社会構造自体がおかしいと主張したいのであれば、大部分の都市サービスを享受すべきではない。インフラを維持する人々の労働あってこそ、「半身で働く」ことは可能になるからだ。
そうした現実に目を向けず、都市部の特権だけが享受可能な理想論を大衆に説く。ここにはグロテスクとしか言いようのない欠陥構造がある。
また、三宅が語る「批評の文体をひらく」も、実際には論理の緩和=読者への迎合になってしまっている。例えば、同じ言葉を生業にするジャーナリズムでは誤りは許されない。5W1Hや誰が何を言ったかを間違えて報道すれば即座に批判が殺到する。(近年のオールドメディアに対するヘイトはその裏返し。合っていて当然のものが一部フェイク化したから批判されている。そもそもフェイクや根拠不十分なら叩かれないで済む)
批評は「論証できないけど感覚で書く」が成立する世界でいいのか。かつてのジャーナリズムや批判が担っていたのは理路整然の文章を大衆に届けることではないのか。論理の飛躍があっても共感(=いいねが取れる)できるなら読者層を広げるために知的ハードルをどんどん下げてもいい。売れるなら「本にしなくてもいい内容」を本にしていい。これが国民の知る権利を盾に商売をする出版業界で許されていいのか。
これは批評の民主化ではなく、文化が“推し活”に吸収されていくプロセスだ。文化人が読者の機嫌を損ねない戦略を取ると、批評はどんどんお気持ち表明コンテンツへ変質していく。自分の好き・推しを言語化するツールに批評が成り下がると、推しを肯定する言説しか生まれなくなる。批評とは本来対象をそれ以外のものから切り離し、特異であることを浮かび上がらせる作業のはずだ。その点において共感を求めるスポーツや音楽ライブの一体感とは真逆にある。消費者の感情におもねる批評でいいのだろうか。
出版とは、知を鍛える公共財だ。だからこそ独占的な販売方法が許容されている業界だ。しかし今は、情緒と共感を売りにして市場縮小を乗り切ろうとしている。「共に賢くなる」ための活字文化が、「共感」のツールに成り下がっている。
批評が論理を疎かにし、読者の気持ちに寄りかかり、階級の現実が曖昧になる。事実上「半身で働く」ことができない人々に対して、「半身で働く」特権階級のよさを説くというのは、パンがなければケーキを食べればいいと言っているのと同じだ。
相手が何らかの見返りを求めている人間関係ってマーケット(市場)的にみると、自分自身や自分自身の一部を購入できる商品として見られてるってことなのかなと、ふと思った。
いや、正確にいえば人間が商品として扱われている以前からわかっていた。
昔、知人女性が「月50万円払う。君を飼わせてほしい」と見知らぬ男性から言われたと頬杖をつきながら語っていたことを思い出す。女性性は(特に18歳から24歳まで)容姿そのものに価値があって、それは(たとえば水商売みたいに)マーケット内にあり取引可能なんだ。そう思った。
翻って、俺はどうなんだ。
つい最近、自分が趣味も兼ねて集めてきた専門的な知識や情報を、善意で、とある人に渡した。理由はない。ただ相手のためになればいいと思った。
相手は喜んで話を聞いてくれた。おそらく元から私の専門知識が欲しかったのだろうと、出会って少し経ってからわかった。彼はたまに気を使って俺の仕事の愚痴などを聞いてくれた。
そういえば、いただき女子のマニュアルとやらにギバーおぢからはたくさんいただけると書いてあったらしいね。
マーケット(市場)的に見れば「資源をどれだけ安く、効率的に入手できるか」は重要だよな。同じように、他人と信頼関係を構築する技術も自分が得するためには必要だ。他人から効率よくギブしてもらえるからね。
俺が他人を信頼したいと思う気持ちは、いただき女子から搾取されたオッサン連中が抱いていた恋心と同じなんだろうかなあ。
人間は金の成る木で、商品で、どうやって安く買えるかが重要なのかなあ。まるで労働者と資本家の関係みたいに。
俺はただ、かわいそうだとかこの人の成長につながればいいとか、あるいはこの人が喜んでくれたらいいなと、そういう気持ちで他人を助けようとしてきた。我々の所属する共同体がよりよく、豊かになればいいと願って。それって市場原理主義者や個人主義者からすればきっと自己資源の無駄遣いで、自分にとって損でしかないからやる価値がないんだろうね。
相手の道徳観や倫理観をハックして自己利益を最大化する。詐欺師や頂き女子などにみられるサイコパスじみた世界観が一般の人間関係にさえ適用されるようになりつつある。
相手に内在する論理はわかるからこそ、マルクスの指摘したとおり、商品化した人間は人間として疎外されていると感じるよ。
いつも議論になる男性のエスコート問題について、多くの男性が感じているであろう矛盾と、それによって引き起こされる悪循環の構造について、一度整理して提起したい。
女性側から日本の男性はエスコートが足りない、気が利かないといった主張がよくなされる。
しかし、多くの男性は気が利かないのではなく、意図的に何もしないという選択をしている。
なぜなら、その主張には致命的な矛盾と高すぎるリスクが内包されているからだ。
ここでは主張する女性をAさんとし、その構造を3つのステップで分析する。
まず、主張における隠れた前提の問題。
Aさんが男性は女性をエスコートすべきだと主張するとき、その言葉の裏には、多くの場合自分が好意を抱く、あるいは許容範囲内の素敵な男性にスマートに扱われたいという隠れた前提が存在する。
しかし、主張する側はこの隠れた前提を明示しないまま、男性はという大きな主語で理想論を主張する。 この隠れた前提の省略が、すべてのすれ違いの始まりである。
Aさんの主張を真に受けた男性が、実際にエスコートを実行した場合、何が起こるか。
一つ目のパターンは、実行者がAさんの隠れた前提を満たす男性、例えばAさん好みのイケメンだった場合。 その行為は理想的なエスコートとして、好意的に受け入れられる。Aさんは満足する。
二つ目のパターンは、実行者がAさんの隠れた前提を満たさない男性だった場合。
ドアを開ける、荷物を持とうと手を伸ばす、車道側から庇うために肩や腕に触れるといった、パターン1と全く同じ行為であっても、それはエスコートとは見なされない。
それは不快な行為、馴れ馴れしい、セクハラだとして、拒絶・非難の対象となる。
ここで発生しているのは、行為そのものではなく、実行者が誰かによって評価が180度変わるという、強烈なダブルスタンダードだ。
Aさんはエスコートすべきと主張したその口で、前提外の人物からのエスコートをセクハラだと断罪する。
「ただしイケメンに限る」を生み出しているのだ。
多くの男性は、これら2つの構造を感覚的に、あるいは経験的に深く認識している。
つまり、エスコートという行為は、実行者次第でセクハラという重大なリスクに転化することを知っている。
もしエスコートを実行した場合、成功すれば報酬として少し感謝されるかもしれないが、失敗すればセクハラ加害者と認定される重大なリスクを負う。
一方で、何もしないことを選んだ場合、リスクは気が利かない人と思われる程度だ。
このリスクとリターンを天秤にかければ、失敗がもたらすリスクは、成功がもたらす報酬に比べて、あまりにも壊滅的に大きい。
したがって、多くの理性的で、かつAさんを不快にさせたくないと願う誠実な男性ほど、リスクを冒してセクハラ扱いされるくらいなら、
最初から何もしないという、最も合理的で防衛的な選択をすることになる。
この何もしないという行動は、無関心や怠慢ではなく、むしろ相手を不快にさせないための積極的な配慮であり、リスクマネジメントの結果なのだ。
まず、Aさんが男はエスコートすべき!と隠れた前提を伏せて主張する。
次に、男性側はセクハラ認定のリスクを認識しているため、合理的な判断として何もしないという配慮を選択する。
しかし、Aさんは男性の何もしないという結果だけを見て、その裏にある配慮やリスク回避の意図に気づかない。
そしてAさんは、やはり日本の男性は気が利かない!と失望し、再び最初の主張に戻る。
男性側がAさんを不快にさせないよう配慮すればするほど、Aさんは配慮が足りないと主張するという、完全な手詰まり状態だ。
ああ、安心しろ。俺は救いようのないほど無能なお前のところでなど働くつもりは一切ない。
だから出社もしない。
さて本題だ。
違う。
俺が言ってるのは、管理をシステム化できない組織は生き残れないという冷徹な事実だ。
お前の発想が古いんだよ。21世紀のマネジメントは、人間の監視じゃなくデータによる制御だ。
Slack・Git・Jira・CI/CD・成果ログ、全部自動で可視化される。管理者が人力で見張ること自体がコストの塊なんだよ。
それをまだ「俺が一人ひとり見ないとサボる」なんて言ってる時点で、お前は組織じゃなく保育園を運営して自己放尿してるだけだ。
その通り。そして現実を正しく認識したなら、次にやるべきは構造改革だろ。
俺が無能だから全員出社しろというのは、沈没船の船長が俺は泳げないからお前らも泳ぐなと言ってるようなもんだ。
それは管理職の定義を間違えてる。本来、管理職は人を叱る仕事じゃない。
怒鳴ることでしかマネジメントできないなら、AIにも置き換えられない非効率の象徴だよ。
メディアは「初の女性」「高支持率」と騒いでいるが、私が震えたポイントはそこじゃない。
先日の外交における振る舞いだ。あれは、女の生存戦略の「極致」を象徴している。
正直、私は安堵している。
彼女が、男を敵視して過度な女性優遇を叫ぶお気持ち勢力の代表ではなく、かといって男社会に過剰適応して「名誉男性」化した鉄の女でもなかったことに。
高市総理というロールモデルの誕生は、男と女が本当の意味で対等に歩める社会への、「最短ルート」を示したと感じたからだ。
本当によかったと思う。
職場は男が9割。そんな環境で人生の大半を過ごしてきた。幼少期から科学が好きで、数学や物理が得意で、自ら好んでこの分野に飛び込んだ。
能力として男に負けず劣らずでも、仕事をする上で「同性」という共通点を持たない少数派は、情報戦や信頼獲得のコストがどうしても高くつく。
自分の不遇を嘆き、「男社会はクソだ」と叫ぶのは簡単だ。でも私は、その社会に生きる人間たちの力学を、分析し、適応し、ハックし、生きてきた。
その「最適解」として、職場で意図的に「愛嬌」というパラメータを振っているが、別に自分を捻じ曲げたとも思っていない。だって、この場においてこれは私だけに配られた「切り札」なのだから。
これについて「男に媚びている」と批判するフェミニストもいるだろう。だが、それは戦略の浅さを露呈しているに過ぎない。
物理的な腕力や、マジョリティである男性同士の阿吽の呼吸という「基礎ステータス」で劣るなら、使えるバフは全部使うのがゲーマーとして当然の戦術だ。
愛嬌でコミュニケーションコストを下げ、相手のガードを下げ、その隙に技術力と論理という「実弾」をぶち込んで認めさせる。
私のこの生き方は、どこか世間に認められていない気がして、後ろめたかった。「媚びている」と言われれば否定できない自分もいたからだ。
彼女は、笑顔を振りまき、柔らかい物腰で、ある種「女らしさ」を全開にしていた。
だが、結果として各国の首脳に舐められたか?
否だ。
愛嬌で懐に入り込みつつ、国益に関わるラインでは一歩も引かず、強烈なプレッシャーをかけていた。
「愛嬌」と「威厳」。相反するはずの属性を両立させ、外交という化け物揃いのテーブルで主導権を握っていた。
あれを見た瞬間、鳥肌が立った。
「女」という属性を含めた、自身が持つ全ての手札(リソース)を計算高く使いこなし、結果を出したんだ。
きっと彼女は、私なんかより何千倍も理不尽な目に遭い、何万倍も努力してきたはずだ。
その彼女が勝った。
それはつまり、私が選んできた「不条理なルールを嘆くより、配られた手札をフル活用して盤面を制する」という生き方が、間違いじゃなかったという証明だ。
一人でもガチでやり遂げる「かっこいい外れ値(アウトライヤー)」がいると、母集団の評価関数は書き換わる。
彼女という「特異点」が現れたことで、もはやこの生存戦略はバグでも媚びでもなく、正規の仕様となった。
笑顔と実力で、ガラスを綺麗に磨き上げて、そのまま透過して通り抜けたんだと思う。
私もそうありたい。
オッス、オラ理性主義者!
まず落ち着け、現代民主主義者。お前が言ってることは、哲学的には立派だが、現実の社会設計としては理想論の塊だ。
「感情の保護と秩序維持を混同するな」なんて言うけどな、その“感情”こそが民主主義の出発点だ。
人間の感情が集まって「国民」となり、その感情の総意が「国家」を作ってんだよ。
民主主義の根幹は、冷たい論理じゃなく、“感情の集合体をどう理性で制御するか”ってところにある。
でもな、それが成立するのは、社会が“お互いに踏み越えない前提”を共有しているからだ。
破壊に自由を与えると、社会は信用を失う。信用を失った社会に民主主義は存在できない。
国旗が国民全員の象徴なら、個人の政治的パフォーマンスで汚していいわけないだろ。
それを「思想の自由」って言い張るのは、公共財を私有化してるに等しい。
国旗を国家が独占してるんじゃなく、国民の象徴を国民自身が守るだけの話。
それを「神聖化」と呼ぶなら、お前は“共同体”って概念を根本的に誤解してる。
それはルールの上での話だ。
「不快さの表現」に限界を設けない社会は、ただのカオスになる。
それは理性ではなく感情への挑発だから、民主主義的な行為ではない。
現代の民主主義に必要なのは「燃やす自由」じゃなく「敬意を持って批判する知性」
それを擁護するのは、自由じゃなく“知的怠惰”の肯定にすぎない。
飲み屋で杯を交わす行為も、SNSで実名顔出しをする行為も、本質的には同じゲームの別の盤面で動いている。
端的に言えば「信頼を得るための行動」はコストを伴うことで初めて信頼を示すに足る。
酒席で酔って本音を曝け出すのは単なる酩酊の偶然ではなく、自己を脆弱にするという意図的な投資だ。
飲むことで判断や防御が緩む、その緩みを自ら進んで受け入れることは「私はここで負けても構わない」というコミットメントの証だ。
コミットメントは言葉ではいくらでも偽装できるが、身体状態や行動を伴うコストは偽造しにくい。
だから相手はそのコストに価値を置く。つまり飲み会で酒を拒否する奴は、単にアルコールが嫌いなだけかもしれないが、社会的信号としては「脆弱性を見せない=コミットメントを避ける」ように解釈されやすい。
人間関係の信頼は期待値の連鎖だ。相手が本音を言う確率が上がれば、それに応じてこちらも本音を差し出す期待値が高まる。
酒を飲まないという行為は、この期待値の形成を阻害するので、無条件に信用されにくい。
同様に実名顔出しは、オンライン上の信頼構築における「コストの可視化」である。匿名であれば言葉一つで逃げられるし、責任追及も難しい。
実名を晒すことは身元や立場、社会的帰結を晒すことであり、それ自体がリスクでありコストだ。社会的コストを負うことを選んだ人間は、言葉の重みが増す。
だから実名顔出しの相互性が生まれる。互いに高いコストを負っている者は相互にマッチングし、低コスト=匿名を排除するインセンティブを持つ。
オンラインでもオフラインでも、人は自分と類似したリスク許容やコミットメント水準を持つ相手と交流する傾向がある。これは単なる偏見ではなく、反復的相互作用に基づく最適戦略だ。
もし自分が高い信頼を差し出すなら、それは相手も同様の信頼で応答する確率が高い相手に向けられるべきだ。実名顔出しという行為は、そのフィルター機能を果たしているに過ぎない。
ここで冷厳な現実を直視しろ。人間の信頼は理想論ではない。期待される行動を遂行できるという「能力」と、遂行する意志を持つという「意図」が重なって初めて成立する。
酒で本音を言う者は、少なくとも「意図」を行動で示している。実名顔出しは、社会的帰結を引き受ける「能力と意図」の両方を示す。
逆に匿名で高らかに正義を叫ぶ者は、突き詰めれば自己保身の圧倒的な陣営に立っている。彼らは批判を受けると逃げる。
そうした者たちを信用することは、ギャンブルで期待値の低いベットを繰り返すようなものだ。だから実名同士、あるいは酒を交わした相手同士で信頼の循環が生まれるのは合理的だし、匿名が排除されるのも合理的だ。
もちろん例外はある。だが社会的合理性という観点からは、自己放尿レベルの恥を晒してまでコミットする者の言葉の価値は、裸で安全圏にいる匿名の言葉より遥かに高い。
石破政権にその気があったら高市より連立の可能性は高かったもなあ
でも石破総理は是々非々で個別調整し、国会審議を充実するという理想論を追いかけて、それ……つまり、自民党内より国会の議論のほうが重要で、野党次第で党内の議論がひっくり返されること……に堪えられない人たちに突き上げを食らいご覧の有様だからなあ。
高市に石破と同じ事はできないしとして、じゃあどうすんのって不安になってる
みんな政治が変わっても世の中かわんねえよと思ってるかもしれないけど、結構かわるんやで。で、止まるとけっこうやばいいんやで。
俺は、自他ともに認めるネトウヨだ。
インターネットの掲示板やSNSが主戦場。スマホを握りしめ、「あいつらは間違ってる」「この国を守らなきゃ」と、日々、キーボードを叩いている。使う言葉は、少々荒っぽいかもしれない。論調は、極端だと批判されることもある。だが、俺にしてみれば、これは愛国心であり、歴史認識に対する譲れない信念だ。街宣車のような派手さはないが、俺たちの戦いは、確かにこの国の論壇の片隅で続いている。
サキとは、ある社会問題をテーマにした小さなデモに参加した際に出会った。俺は「反対意見」を述べるために、彼女は「賛成意見」を主張するために、それぞれ別の陣営にいた。デモと言っても、大層なものではない。しかし、彼女のプラカードに書かれたスローガンを見た瞬間、俺の頭に血が上った。「反日だ!」「売国奴が!」、反射的にそう叫んでいた。
すると、デコ出しのショートカット、丸メガネの彼女サキが、こちらへまっすぐ歩いてきた。
「あのさ、ネトウヨさん?」
俺の胸倉を掴むか、罵声を浴びせるかと思ったが、彼女は意外なことを言った。
「その売国奴って言葉、定義が曖昧すぎない? 具体的にどの条文、どの歴史的事実が、私たちを売国行為に駆り立てていると、あなたは考えているの?」
その冷静さ、そして言葉の選び方に、俺は面食らった。議論を吹っ掛けてくる相手は多いが、こんな風に対話を求めてくる人間は初めてだった。まるで、こちらが感情的になるのを、静かに待っていたかのようだ。
彼女の自己紹介を聞いて、俺は思わずコーヒーを吹きそうになった。サキは、学生運動崩れの父を持つ、筋金入りのパヨクだという。環境問題、マイノリティの権利、憲法九条、彼女の関心は、俺が日頃、ネットで叩き潰そうとしている「敵」そのものだった。
「あんたの言ってることは、理想論すぎるんだよ」「現実を見ろ、この国は」「歴史を美化しすぎだ」
「あなたの言う愛国心は、排他的なナショナリズムの裏返しじゃない?」「理想を追わなきゃ、社会なんて変わらないでしょ」「過去の過ちを直視しなきゃ、未来はない」
ファミレスのドリンクバーで、俺たちは数時間にわたって激論を交わした。俺たちの主張は、まるで北極と南極。絶対に交わることはない。それでも、不思議と不快ではなかった。ネットの匿名空間と違い、目の前にいる人間は、逃げも隠れもしない。自分の言葉に責任を持っている。
その夜以来、俺たちは定期的に会うようになった。最初は議論のためだ。お互いの陣営の主張を「論破」するのが目的だった。しかし、回数を重ねるうちに、議論の焦点は少しずつズレていった。
ある日、俺が「安倍政治の功罪」について熱弁していると、サキは突然、「ねえ、そのパーカー、どこで買ったの?デザイン可愛いね」と言った。
また別の日、彼女が「格差社会の是正」について統計データを見せながら語っていると、俺は「その丸メガネ、似合ってるな。変えた?」と口走っていた。
俺たちが話すのは、政治や思想だけじゃなくなった。好きな漫画、行きたいライブ、最近観た猫動画。思想のベールを剥いだその下には、ただの「人間」がいた。俺と同じように、悩み、笑い、美味しいものを食べたいと思っている、ごく普通の女の子が。
そして、俺は気付いた。俺たちが激しく憎み合っていたのは、「パヨク」という概念であり、「ネトウヨ」というレッテルだったのだ。目の前のサキという人間ではない。
彼女といると、ネットで「敵」を叩いている時の高揚感とは違う、じんわりとした温かい感情が湧いてくる。俺の信念は揺るがない。彼女の理想も変わらないだろう。だが、信念とは別に、感情は動く。
事件が起こったのは、雨の日だった。
いつものように、俺たちは大学のキャンパス近くのカフェにいた。俺は、歴史認識問題について、つい熱くなって大声を出してしまった。
サキは怒って、立ち上がった。俺もムッとして、席を立った。
「わかったよ、もういい!あんたとは話にならない!」
俺はカフェを飛び出した。雨が強くなっていた。数メートル歩いたところで、背後からサキが走って追いかけてくるのが見えた。
「ちょっと!傘も持たずにどこ行くのよ!」
サキは、自分の持っていた大きなビニール傘を、俺の頭上にさしかけた。顔が、異常に近かった。お互い、呼吸が荒い。雨の匂い、コーヒーの残り香、そして、彼女のシャンプーの匂い。
次の瞬間、俺は理性を失った。
サキは、丸メガネの奥の目を丸くした。そして、一瞬だけ、フッと笑った。それは、議論に勝った時の勝ち誇った笑いではなく、ただの、困ったような、でも嬉しそうな笑顔だった。
俺は、もう何も考えられなかった。ネトウヨだとか、パヨクだとか、愛国心だとか、左翼思想だとか、そんなものは、土砂降りの雨の音でかき消されていた。ただ、目の前に、惹かれている人間がいる。
俺は、サキの顎に手を添えた。
サキは目を閉じた。
ビニール傘の下、雨音だけが響いていた。塩辛いような、甘いような、不思議な味だった。唇が離れた後、サキはメガネの曇りを拭きながら、ぼそっと言った。
俺は、柄にもなく笑った。
「ああ。これからは、思想のぶつかり合いじゃなくて、唇のぶつかり合いで行こうぜ」
ネトウヨの俺と、パヨクのサキ。俺たちの物語は、このチューを機に、また新しいフェーズへと進むのだろう。それは、「主義主張を超えた、ただの恋愛」なのか、それとも、「究極の異文化交流」なのか。