
はてなキーワード:特撮ヒーローとは
――初代戦隊である「秘密戦隊ゴレンジャー」(1975年放送開始)から今年で戦隊は50周年。その記念作であるゴジュウジャーが来年で放送終了になることで、戦隊シリーズは終了してしまうのでしょうか。
いえ、戦隊シリーズとしては終了とは思っていません。休止です。戦隊の放送枠(テレビ朝日系、日曜朝9時半)は新たなものに変わりますが、戦隊作品そのものはいずれ復活する可能性があります。発表前の10月から「戦隊終了」の報道が出て、ここまで反響があるのは想定外でした。戦隊がここまで愛される存在だったのかと、ありがたい思いです。ただいずれ復活するにしても、10年は間を置いた方がいいと私は考えています。
――その理由は。
戦隊の限界が見えてきた。そこを打破すべくいろいろな工夫をしてきましたが、50周年という節目も迎え、根本的に考え直さないといけない場所にきたのは確かです。
一つはコロナ禍からの配信時代の到来です。配信では、特撮も新作と旧作が横並びで見られるようになりました。戦隊にとって、仮面ライダーだけじゃなく過去の戦隊作品もライバルになってきた。
戦隊は毎年毎年、世界観をリセットして新作を出してきました。作品につながりがなく、どこから見てもいいんですが、逆にどこから見たらいいのか分からない。一定の評価がある旧作に対して、よほどの特徴がない限り新作が勝てなくなってきた。
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東映の白倉伸一郎さん。「ナンバーワン戦隊ゴジュウジャー」にちなんで、ナンバーワンポーズ
もう一つの黒船は、アメコミヒーローものの大攻勢です。マーベルの「アベンジャーズ」シリーズは日本でも人気ですね。キャプテンアメリカにしろ、アイアンマンにしろ、もともと別の作品のキャラクターだったものを一つのパッケージにして届けている。
集団ヒーローでも、キャラクターの人格や戦闘能力など明確な設定が元々されている。一方で同じ集団ヒーローである戦隊は、毎年作品が変わりますし、キャラクターづけでは弱い面があった。
この二つの苦境を打破するべく、いろいろ工夫はしてきましたが、根本的に新たな挑戦をするべきだという結論に至りました。
――とはいえ戦隊もさまざまな新機軸を打ち出してきました。近年も、白倉さん自身がチーフプロデューサーとして入った「機界戦隊ゼンカイジャー」(2021年放送開始)では、戦隊5人のうち、人間が1人で4人は機械生命体というとんでもない内容です。戦隊とは数々の挑戦をしてきた歴史では。
もちろん様々なチャレンジをしてきました。それは戦隊という枠の中では新しい試みかもしれないけど、何が新しいのかを楽しむためには戦隊の「お約束」を知っているリテラシーがお客さんに必要になる。お約束を知った上での型破りを、どこまで分かってもらえるのか。
――戦隊といえば誰もが知っているはずなのに、内容は認知されていないと?
戦隊の根本的な課題だったのですが、50年続いただけあり、戦隊はあって当たり前のもの。ある種日本の文化になったと思うんですね。どれくらい見てきたかは人それぞれでも、戦隊と聞いたらカラースーツの5人のヒーローをイメージできる日本人の方が、多いのではないでしょうか。
それはそれだけ定着したという半面、「見なくてもいいもの」と思われる恐怖と隣り合わせです。
毎週その時間にテレビをつければ、変わらずやっている。現代風に変わった描写はあっても、話の大筋は変わらない。子どものときに見て一時卒業したけど、親になり自分の子どもと一緒に見たら、昔と変わっていない安心感がある。むしろ、変わってほしくない。
作品にとってこの状態に甘んじているのは危険で、変わらぬ良さは、見なくてもいいものと表裏一体なんです。どうせ話の筋は分かるし、毎週見なくてもいいやと。なんなら懐かしい旧作を見ればいいやと。新作はいらないと思われることは、作り手にとって常に恐怖です。
戦隊の「当たり前感」は制作陣にとっても危険です。大事なのは、戦隊という伝統の枠の中でどう目立つかではない。2025年の子どもたちに向けて、日本から世界に向けて、本当に必要な作品とは何かを考えることなんです。
東映には戦隊をつくるノウハウがあります。ただそのノウハウが、時に本当に新しいものを作ることを邪魔する。戦隊に慣れきった私たちの世代が抜けて、新たな世代が新たな戦隊を考えるべきだと思います。だから、10年は復活するべきではないと私は考えているのです。
――シリアスな仮面ライダーに対して、戦隊作品の明るさが好きだという視聴者も多いと思うのですが。
戦隊のお決まりですが、5人がスーツ姿に変身してポーズを取る。怪人を倒すと、後ろが爆発して炎が上がる。そして展開はむちゃくちゃだけど、巨大ロボットに乗って、巨大な敵と戦って毎度ビルを爆破する。くだらないと小バカにされるけど、とにかく明るい話。それがいいところなんですよ。
私が90年に東映に入社して「恐竜戦隊ジュウレンジャー」(92年開始)の企画会議に参加したとき、プロデューサーの鈴木武幸が開口一番「今度の巨大化はどうしますか」と言って、脚本家がめちゃめちゃ怒ったんですね。「違うだろう。最初に話すべきは、どういう番組にしようかだろう」って。
鈴木はそれまで何作も戦隊を手がけたベテランですが、いろんな試行錯誤を重ねた結果、もう悟りの境地だったんだと思います。戦隊が成功するにはこういうフォーマットしかないと分かってしまい、その上で(キャラクターを)「どう巨大化するか」をまず考えようという恐ろしい境地に達していたんです。はたから見ると、そこかよって突っ込みたくなりますが。
――30年前にすでにやり尽くしたと制作陣では感じていたのですね。
当時すでに戦隊は風前のともしび。ジュウレンジャーは「もう最後の戦隊かもしれないと思ってやろう」と言っていた。若手がこれまでにないことをやりたいと結託し、6人目の戦士を物語の途中から出したんですね。
――6人目がレギュラーメンバーとして出るのはジュウレンジャーが最初。物語の途中から出るいわゆる「追加戦士」も、6人以上の戦隊も、今では当たり前ですね。
定番になりましたが、当時はそんな未来は考えず、そこから30年も続くとは思いもしませんでした。ジュウレンジャーをベースに米国で作られた「パワーレンジャー」がヒットするというまさかの神風が影響したんでしょうね。
――仮面ライダーにもウルトラマンにも中断期間があります。初期に少し中断はあるものの、ほぼ50年放送が続いてきた特撮ヒーローは、戦隊だけでした。なぜ戦隊は愛されてきたのでしょうか。
そもそも戦隊は事故から生まれたものなんです。仮面ライダーを5人集めて戦うという作品が企画されていたのが、事情があって頓挫した。それで急きょ石ノ森章太郎先生に考えてもらったのが初代の秘密戦隊ゴレンジャーだったんです。さらにその後、(70年代に人気だった)「超電磁ロボ コン・バトラーV」などのロボットアニメの放送が途切れるという事態があり、巨大ロボットの命脈が戦隊に流れ込んできた。
戦隊の草創期の作り手に、理想のヒーローを作ろうと理屈をこねている余裕はなかった。なんとか一つの作品を作らなければならないという試行錯誤の末に、結果として生まれた事象を集めたものが戦隊だった。
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なんでいちいち5人で戦わないといけないのか。なんで巨大ロボットにいちいち乗って戦うのか。それはよく分からない。その理屈を超えたところに、人間の本質がある。なぜかかっこよくて人を引きつける。エンターテインメントとして面白いものの本質を、戦隊は露骨に表してきた作品だったと思います。
善と悪の対立を描きにくくなった
――長年にわたりテレビでヒーローの姿を届けてきた意義も大きいでしょう。
戦隊そのものが描く善悪も、初期からはかなり変遷がありました。東西冷戦が終わり仮想的な「絶対悪」を社会が想定しづらくなった。フィクションのヒーローものでも一面的な善悪を描くことが難しくなっていきます。その中でも工夫をしながら、キャラクターの人物像を大切にしながら、悪い敵を倒す姿を放送してきました。
こと戦隊でいうと、仮面ライダーのような単体ヒーローとは違う。5人で一つのチームで、結束して敵に立ち向かいました。
こうしたことは子どもさんにはすぐに分からないかもしれないけど、大人になった時に「戦隊って大事なことやっていたんだな」って少しでも思ってもらえるかもしれない。
戦隊は当たり前になったと先ほど言いましたが、私は日本人の心の中には、戦隊がいると思っていますし、少しでも戦隊が社会にいい影響を与えられていたならうれしいです。
――50年続いてきた戦隊の放送を終了することに、葛藤はなかったですか。
葛藤、それはないですね。
戦隊を愛してくださったファンの方には感謝します。しかし、次の世代のためにも、どこかで次の挑戦を始めるべきでした。今はヒーロー番組そのものの変革を考えるときです。それがゴジュウジャーの後番組として始まる「超宇宙刑事ギャバン インフィニティ」です。
拙者、増田と申す、齢二百年に及びし者。江戸末期、嘉永の世に生まれ、下級武士の身ながら、洋学に志し、奇縁により不老の術を得て、現代に至るまでITとやらなる術を操りし者也。されど、この胸中、開国の風に始まり、現代の電脳世界に至るまで、騒乱の波に揺れ動く。
十余年前、否、百七十余年前、嘉永の世に、拙者は異国の地にて洋学を学び、後にITエンジニアと呼ばれる職に就きし。黒船が浦賀に現れ、幕府が動揺せし頃、洋学は日本の未来を照らす光と信じられ、蘭学書は江戸の書肆に溢れ、若者たちは競って西洋の術を学んだ。拙者もまた、サンフランシスコ、ロンドン、ユダヤの地を巡り、蒸汽機関や電信の術を修め、さらには現代の電脳術に至る。
当時、日本の洋学は東洋の雄として名を馳せ、諸藩の若者がわが国の術は世界に通ずと誇りし時代也。拙者もまた、若さに任せ、浮世絵や歌舞伎、そして現代に至るアニメやゲームに心奪われつつ、洋学と電脳術の力を信じ、同志と語り合った。されど、異国の地にて出会いし師、ユダヤ出身の老練な技術者、その言葉は拙者の心に突き刺さる。
「これまで見てきた日本の学徒は、みな洋学や電脳術の知識こそ重要と口にする。拙はそう思わぬ。それはまるで、浄瑠璃の物語を盲信するが如き也。電脳術に必要なのは、筆力、すなわち母国語での読み書き、対話、人の心を掴む力也。少なくとも、術を世に広め、商いや国政に活かすには、こその力が肝要。されど、日本の学徒にそのような者を見たことがない。拙は百人近くの日本の技術者を教えしが、一人もおらぬ。」
「このような者ばかりでは、日本の電脳術は、ある日を境に凋落し、何も生み出せぬ時代が来る。五年後か、十年後か、百年後か。」
拙者、当時、憤りを覚えた。何だ、この異国の老人が!わが国のアニメやゲームの魂を侮るとは!と。若さゆえの過ち也。されど、師の周りには、中華の商人、インドの学者、西洋の技術者、北欧の船乗り、カナダの役人、万国博覧会の如き人々が集い、みな師の言葉に頷く。
中華の商人曰く「算法や機械の知識が重要とよく言われるが、拙の学んだ場では、そんなことは教えられず。術の根本を理解すれば、さような発想は生まれぬ。」
インドの学者曰く「この狭き視野が日本の弱点也。電脳術の理解不足は、船や兵器のみならず、現代のデジタルツインにも影響を及ぼすだろう。」
北欧の船乗り曰く「これからの世は、すべて電脳術に基づく。如何に巧みに術を組み立てるかで、国力も民の暮らしも変わる。」
カナダの役人曰く「電脳術についていけねば、国庫も民の暮らしも貧しくなるばかり也。」
拙者、頭に血が上り、反論した。さような大言壮語、浮世絵やアニメの領域にまで及ぶものではない!と。されど、師や同僚たちの目は、憐れみと失望に満ちていた。とりわけ、親しきアメリカの技術者、アニメを愛する者にして、こう言った言葉は今なお忘れられぬ。
「増田よ、言いにくいが、日本の技術者は、世のことに無関心すぎる。拙は日本のアニメを愛するが、日本の電脳術は、まるで歌舞伎やアニメの内輪の興行の如く、閉じた世界に生きている。かつての洋学はそうではなかったやもしれぬ。されど、十年ほど前より、そうなってしまった。」
「電脳術を、町人や異国の者に使ってもらおうという謙虚さがない。術の名や道具に女児むけアニメや特撮ヒーローの名をを付けるなど、異国では狂人の所業と見なされる。」
会話は英語ゆえ、拙者が和文に訳して記す。當時は、なぜそこまで言われねばならぬ!と本気で憤った。されど、今思えば、技術者の間に異国の者にわからせる必要なしとする風潮、さらにはアニメやゲームの名を術に冠する文化が根強かった。
師は常々、こう申された。増田よ、アニメやゲーム以外の趣味を持て。それが拙の唯一の忠告也。
その後、拙者は憐れみの目が耐えきれず、数年学び、怒りに任せて帰国した。されど、江戸の世から現代に至るまで、日本の電脳術は鳴りを潜め、西洋列強やGAFAMと呼ばれる巨人の術に圧倒され、名を聞かぬほどになった。
今、巷やXなる電脳の寄合では、拙者ややや上の世代がかつてのWinnyは優れていた。されど、幕府や民の無理解により、潰されたと、被害者意識を振りかざす声が響く。拙者、現代に至り、ようやく悟った。拙者は世を知ることを恐れ、ただアニメと電脳術に逃げていたにすぎぬ。それらが面白いのでも、愛しているのでもなく、他に能がなく、生きるために術を学んだだけだったのだ。
これからの世、拙者のような技術者は淘汰され、電脳の場から追われるだろう。既に、電脳術のみならず、世のことを知る新世代の技術者たちが、拙者が異国で嫌った者たちと同様に、日本でも珍しくなくなった。拙者の世代は、さような者たちを軟派と呼び、憎悪を燃やす者すらある。さような声が、電脳の寄合で響く。
師はかつて、こうも予言していた。
「日本の技術者は、アニメやゲームの如き閉じた文化から脱却せねばならぬ。されど、増田の世代では、それは叶わぬだろう。」
「内輪に籠り、選民思想を高め合っても、女児向けアニメや特撮ヒーローの名を愛する心を、異国の商人や幕府の役人が理解するはずもない。やがて、内輪に籠ったまま置いてけぼりとなり、他者を責める心のみが残る。その果ては、犯罪者となる道也。西洋では、さような者たちが電脳の寄合をなし、辻斬りや放火を起こし、世を騒がす。日本の地ではまだだが、いずれそうなる。」
ああ、その通り也。拙者が現代に至り、見るものは、予言の如く也。ある技術者が、娘たちを襲う集団の元締めとして捕まり、世を騒がせた。また、別の者は、幕府ならぬ国の金をかすめ取るスパコン詐欺を働き、獄に繋がれた。さらに同年、拙者と同世代の技術者が狂気を発し、神戸の町で辻斬りを起こし、刀と鉄棒で五人を斬り殺し、捕らえられた。聞けば、裁判では有名な異世界転生アニメの青髪メイドと契りを結ぶため、哲学的幽霊を斬らねばならぬと喚き、狂気ゆえ罪を免れたという。
数年前には、かつて電脳術の場を立ち上げ、志半ばで潰え、世を恨み、異人を罵る言を繰り返した者が、偽の品を売りさばき、捕らえられた。
予言の通り也。日本の電脳術は何も生み出せず、高い誇りだけを抱え、売れぬ術を誇り、世を恨む声ばかりがXで響く。
拙者たちは敗れたのだ。いや、始めより勝負にすらならなかったやもしれぬ。師の忠告が今、響く。拙者たちは、アニメやゲーム以外の道を歩めぬ。八方塞がり也。あれほど気高く電脳術を誇った拙者や同輩たちは、世を恨み、若さや美を妬み、刀や火を手に辻斬りや放火を起こし、獄に繋がれる。さような姿は、かつて夢見た攻殻機動隊の如き輝かしき未来とは程遠い。
されど、最も辛きは、さような狂人に同世代が多く、納得できてしまうこと也。高い誇りを持った拙者たちが、何も取り戻せぬまま、後の年月を生ねばならぬ。喪失感と欲を抱え、世や若者を憎み、辻斬りや放火で世に復讐せんと考える者が出るのも、拙者たちの罪とはいえ、致し方ないやもしれぬ。
拙者たちは、世を知るべきだった。他者を理解すべきだった。されど、もはや遅い。世との乖離は極まり、若者を誘う行為を咎められ、激昂する者、女性脚本家の些細な言に怒り、騒動を起こす者。さような行為が、拙者たちの世代の生み出したものと思うと、涙が止まらぬ。
拙者たちの世代は狂ってしまった。電脳術で世を変えると勇ましく語った者たちが、娘を襲い、国を欺き、刀で人を斬り、狂気の果てに異世界へと心を飛ばす。拙者が信じた夢の果てが、これ也。
拙者はさすがに、陰謀を信じ、世を罵るまでには堕ちぬ。されど、同世代の多くは、喪失感と憎悪に囚われ、電脳の寄合で世を怨む声が響く。先日、町田の町で辻斬りが起こり、世を騒がせた。
別にいいだろうが別に、好きなものに憧れ同一視したり、それになりきっても
最近はずーーっと、そういう人たちを冷笑して馬鹿にするのばかり
お前たちもほとんどがガキの頃にプリキュアや特撮ヒーロー、もっとガキの頃にアンパンマンとかに憧れただろうが
痛いことだとしても、自己形成の為にそれらは必要なんだ、いつか痛いとか寒いとか気付いて大人になる為に、もしくは気にせずに続けて自分を貫くためにな
お陰で自己表現できなくなっちゃった人が増えたよ?人の目を気にして、鬱屈とした思いで周りをうかがう感じのな
自らを鼓舞するために「俺は(私は)◯◯だ、だから大丈夫」と思うことを、寄辺が無くて折れそうな心を「◯◯だから気にしない、だって◯◯はそんな事効かないから!」って勇気づけることを
バカにしてんじゃねえよ
昔の特撮ヒーローもので、悪の組織が人間に化けて、人間社会に悪さをする物をさぞかし有益なものであるかのように宣伝してタダ同然でばらまく、みたいなエピソードってあるじゃん?
不法入国者や不法滞在者を擁護する人たちって、そんな悪の組織に騙される政治家とか大企業の経営者とかとダブって見えるんだよね
目先の利益に目が眩んで、弊害や相手の意図に全く気づかず、それがまるで良いことであるかのように錯覚して、そして取り返しのつかない事態になるまで全く気づかない
番組内ではヒーローが変身したり巨大ロボを起動したりして土壇場でなんとかしてくれるけど、現実では都合の良い事は起きないんだよな
あくまで俺の個人な「ここが駄目だよガンダムSEED」でいい?
ひとまず箇条書きにするならこの辺りかな
・キャラクターに魅力がない
・台詞回しがショボい
・戦闘が単調
種も運命も一言で言えば「あっちへフラフラこっちへフラフラしてるうちに戦争がエスカレートしました。最終決戦で滅茶苦茶沢山の兵器をぶっ壊したら「もう無理……和平しよ……」になりましたチャンチャン」って話なわけ。
マジで酷いよこれは。
架空戦記としての流れをちゃんと決めずにその場その場で「ファーストガンダムやZだとこの辺りでこんなことしてた気がするな~~~」で雑にやってるだけなんだよね。
ファーストの場合は「ジャブローを落とす寸前まで行ったジオンがあれよあれよと追い返されていった」という大きな流れがあるし、Zの場合は「戦後の混乱の中で思想的対立から巻き起こる三つ巴」という流れがあるんだけど、SEEDはその辺良くわからんまま「なんか最後に宇宙で物凄い大きな衝突が起きて三つ巴だからなんかこう複雑な感じ」みたいなノリでダラダラやってるだけなのよ。
とりあえず毎週モビルスーツを戦わせたいから適当に理由をでっち上げてるだけっていうか、構成のレベルがガンダム以前の特撮ヒーロー的なノリでやってるロボットアニメでしかないわけ。
作品の中に一貫したテーマやコンセプトが見当たらないから、キラがやたらと不殺に拘る理由とかが曖昧でフワフワしたまま進むの。
そんでもって最後まで見ても「結局何が言いたかったのか?」としかならん。
種運命最終話見おった時みんなきっと「??????」となったと思うんだけど、それもこれもこの作品が何を言いたいのかよく分かんねーからなんだよ。
最終話の意味不明さで言えばガンダムWなんかも結構エグいけど、アレだって「まぁ戦争が良くないんだってことは分かった。皆が平和に目覚めるといいね」って気持ちぐらいにはなれる。
種は戦争は良くないんだ憎しみが加速するんだと言いながら戦ってはいるけど「でもこれは俺の復讐の物語なんだよ!」みたいな感じで暴れてる奴らがずっと居座ってるし、ソイツらが論破されるでも「まあそれもそうだよね」されるでもなくとりあえずスーパーコーディネイターキラ・ヤマト様のハイマットフルバーストでぶっ飛ばされたからお前らの負けですバーカバーカで終わってるから視聴者は「え~~~~……」としかならんのよな。
ネタキャラとしては面白いじゃんって反論はあるだろうけど、ネタキャラとしての魅力って物事のB面でしかなくないか?
直球の魅力としてはやたらスカした態度で「僕が天才すぎて皆僕に叶わないんだ。やれやれとりあえず機体の手足をもいでおくから僕に逆らうなよ」な態度の主人公を始めとしてこんな奴どうやって好きになるねんみたいなのばかり。
優柔不断を開き直ったアスランとかも面白くはあるんだけど、これを好きになるのは俺には難しいかなと。
ディアッカやイザークの爽やかイケメンなキャラ付けについても、サブキャラとして不快感が薄めのキャラ付けってだけで、過去のガンダムシリーズに登場した数々の癖が強いけど気持ちは分かってしまうキャラクター達による怪演とは二回りぐらい役者が下がるなと。
ガンダムというシリーズがキャラの面白さに深みがあることを売りにしてるから、その中では「こういうガンダムもありなのか!」って評価を受けてる部分もあるのかもだけど、「じゃあそれもうガンダムじゃなくていいだろ」って俺は思うわけ。
SEEDってネタとして引用されるセリフはたくさんあっても、それ以上の価値を見出されてるセリフがないじゃん?
「核は持ってりゃ嬉しいただのコレクションじゃあない」とか「それでも僕はっ守りたい世界があるんだー!」とか、ネタとしちゃ面白いがこれを持ってしてガンダムSEED面白いよなんて人に勧められるもんじゃないでしょ?
初代ガンダムの「坊やだからさ」の自嘲的な深みとかに比べたらさ、名台詞とはとても呼べない単なる有名なセリフでしかないわけよ。
ガンダムSEEDはとにかく脚本のレベルが低いからさ、声優が頑張って喋っても状況説明以上の効果が出せてないんだよ。
頑張って演技をした所で視聴者の心に大したものを残せないような駄目脚本、ここが最大の欠点かなって気はする。
ロボットアニメとして実に良くないと思う。
ゲテモノガンダムを出したりして敵にレパートリーをもたせようとはしてるけど、アークエンジェルが置かれている状況とそこからの脱出方法にレパートリーがないんだわ。
なんか敵に囲まれたから迎撃するぜ!包囲網に穴ができたぞ!ローエングリンてーーーー!!!←これ何度目ですか?って状態
バンクの多さが批判されることが多いけど、俺はバンクを使うこと自体は作品の質を安定させるためにある程度許容していいと思う。
でも「バンクで済ませられる同じような戦い」がひたすら繰り返されていることは大問題よ。
テンプレとして出てきたショッカー戦闘員をテンプレ戦闘でやっつけますみたいなノリをガンダムに持ち込まないで。
「モブのパイロットなんていなくて皆それぞれに帰る家や人生があるんですよ」って感覚を持ってたらこんなガンダム作れないよね……作品としての哲学の無さが戦闘描写からにじみ出た結果だ
ガンダムにおいてニュータイプという概念はやっぱ重要だって話ね。
コーディネーターはスーパーな人間であるけど、分かり合う力を持った人類じゃなくてただスーパーなだけなの。
でもそれだと「人はもっと分かり合えるはずだし、そうなるように進化しているのに……」っていう世界観を展開できないのよ。
そもそも「わかり合えないに足るだけの理由」なんてものを持ち込んできてしまったら、分かり合えたはずじゃなくなってくるわけ。
まあ、そういう挑戦も面白いかもだけど、ガンダムSEEDを作ったスタッフにはそれを操れる力量がなかったわけだ。
自分たちが調理しようとしてる食材が持つ癖を認識してもいなかったんだろうね。
つまり正確には「どうやって扱えば面白くなるかも分からずに、舞台設定を作り上げてしまっている」が問題ってことかな。
色々言いたいことはあったけど、一通り纏めるとこんなんかな。
ガンダムシリーズとしての戦争ロボットアニメとしては20点だけど、ガンダムの名を冠するギャグアニメとしては60点ぐらい。
映画のFREEDOMはギャグアニメとして80点ぐらいだったかな。戦争ロボットアニメとして採点するなら俺の中の海原雄山が箸も持たず帰るレベルだけど。
これ、映画好きなら気になるとこやもんな!
両方とも日本の有名な映画会社やけど、得意分野とか歴史がちょっとちゃうねん。
ほな、ざっくり説明するで!
•代表作品:ゴジラシリーズ、シン・ゴジラ、クレヨンしんちゃん、スタジオジブリの作品(配給)
• 得意分野:怪獣映画や実写映画、そしてアニメ映画の配給が多いんや。特に、ゴジラなんかはもう東宝の看板キャラやね。
• 傾向:ハリウッド的な大作映画も強くて、邦画やけどスケールがデカい。あと、スタジオジブリと一緒にアニメ映画も多くやってる。劇場の「東宝シネマズ」も有名やで。
•代表作品:仮面ライダーシリーズ、スーパー戦隊シリーズ、ドラゴンボール、ワンピース、プリキュア
• 得意分野:特撮(仮面ライダーとかスーパー戦隊)とアニメがめっちゃ強い!東映アニメーションっていう子会社があって、アニメの制作もやってる。ドラゴンボールやワンピースみたいな超有名作品もここから出てるで。
• 傾向:子供向けの特撮やアニメ、ヒーロー物が多いねん。日曜の朝に見る「スーパー戦隊シリーズ」や「仮面ライダー」はもう定番やろ?アニメでも「東映まんがまつり」って昔からの伝統があるんや。
ラストの母親の登場は確かにどちらとも読めるように作ってると思う
介護士や田山さんへのレイプは、最中に目覚ましやチャイムが鳴って目覚めるっていう些かベタなくらいの演出で「これは夢ですよ〜」ってなってる
それに対してぶつかりおじさん行為は、作中で
1度目:ベンチに座ってターゲットを決める→尾行する→ぶつかる
3度目:ベンチに座ってターゲットを決める→尾行する→途中で田山さんを見かけて尾行→不倫の目撃
って流れになってて、レイプ描写みたいな「夢ですよ〜」の記号が一切ない
てか、仮に主人公のぶつかりおじさん行為が妄想なら、その流れで判明する田山さんたちの不倫も妄想じゃなきゃおかしいんじゃないの?
最後にレスバ、これは確かに壊れたスマホと話してる描写ではあるけど、単に文字を打ち込んでる描写だと漫画的に苦しいからなのでは
レスバも妄想だとすれば、あの会話を主人公は一人でやってることになるけど
その割には時々言い返せなくなってるし
何よりジャスティスブレード古参ガチ勢にニワカ扱いされた会話の説明がつかない
主人公に、特撮ヒーローの全シリーズを追いかけて傾向を把握する、なんて余裕やオタク的執念があるような描写はない(部屋に趣味らしいものは一切ない)
(だからこそあれは物悲しい。
全シリーズ追いかけられる余裕を持ったガチ勢との情報量の差で、
子供の頃のかすかな憧憬までないものとされ 「なんにも知らないくせにアンフェミしたいあまりケチつけてきた」とレッテルを貼られてしまう悲しみ。
上記の通り、ラスト以外はどこまでが現実でどこからが妄想かは作中で普通にわかるように描写されてると思うんだが、
ラストの一点だけをとりあげて
「主人公は鬱屈を抱えながらも何も悪いことはしていなかった」まで飛躍する感想がやたらに多い
これは偏見だが
ぶつかり加害や無様なレスバに共感する〜って言っちゃうとかっこ悪いから
主人公をやたらに「耐える男」として美化しているんじゃないか??
と見える
ついでに「この作品を道具に弱者男性を批判するな!」みたいなこと言ってる人も見るけど
会社でそこそこ地位があるらしいこの人って弱者男性なの?そこからよくわからん
Permalink |記事への反応(22) | 13:12
その気持ちはわかる。
もし自分が性同一でなく、脳の性別がそのまま戸籍の性別だったらそういう風に思っていたと思うので。
先にいっておくと多分その気持ちも感覚も増田にはわかることはないしわからないと思う。
身体違和については自分もまさに例に挙げてもらったようないわゆる「セルフいイメージとのずれ」以上でも以下でもないという認識、つまり整形をするかしないか程度の認識をしている。
しかし、自分の性別が男/女だという確信はまた別のところにあるので、それはまた別の感覚である。
そのことが感覚的にわからないのは非常に正常なことだとも思うし、
わからないことそれ自体は決して悪いことではないのでそのままそっとしておいてもらえると助かるかもしれない。
[性同一性障害は脳の先天性な性分化疾患であるのではないだろうか]
一応自分なりに考察したところによると、性同一性障害は心の問題ではない。
あくまで自分の例をベースに考えたところ、おそらく先天性な性分化疾患の範疇に収まるものだと認識している。
身体のどこかの性分化が正常に行われなかった場合、それは性分化疾患となる。性分化疾患には逆の性別に体の部位ごとが分化してしまう症例がある。
性同一性障害はその脳版なのではないかと考えている。(ちなみに、同性愛傾向の人の中にもその一種の人もいるだろうと推測している)
その正常に性分化が行われなかった場所が脳である場合、脳と身体の性分化がずれ、あるいは逆になり、性同一性の一致に支障をきたすのではないだろうか。
これはあくまで自分の場合であるが、子供の頃から趣味や思考、行動がいろんな人から異常だと驚かれて育ったが、自分が世間で言われるほどの奇異で奇特な異常者だとは思えなかった。自分のような思考をして物事に対して自分と同じような興味関心を抱くような人物像は、決して割合としては多数派ではないとは思うが、とはいっても異常者といわれるほど「おかしい」行動でも思考回路でもないと思っていた。よくいる類型的な青年像の一パターンに収まる範疇の思考回路や趣味だと思っていたからだ。女社会という中では確かに異常者であるが、仮に男女全てを含めて考えた場合、そこまで「異常者!」とは思えなかった。確かに自分みたいなタイプの女性は見たことがなかったが、男には割といる感じがした。
そこで、それを確かめるために男子校状態の学校に入ったり(※)、部活やスポーツにおいても男子と共通の枠の競技をでやってみたところ、やはり自分は男社会の暗黙のルールをなぜか知っていて、そして女社会の暗黙のルールをどんなに明文化されても感覚的にはよく理解できていないということをより強く実感した。そしてやはり自分と似たようなタイプの青年はたまに遭遇するので、自分がそこまで仰天されるほどの社会不適合な異常者ではないということもより強く「実感」した。
※学部の選択については、もちろん自身のもともとの関心がそういうSFメカ趣味だったのもあるが、何番目かの理由としては、あえて男社会に身を置いて様子を探ってみる、という目的もあった。
自分にとっては性自認や性別はどうでもよく、どちらかといえば、「社会から異常者だと言われる」ことの方が高校生までの自分にとっての解決するべき問題であった。
そこで、自分は女子社会の中だけではなく男社会の中でも異常者扱いされるのか、それとも男性社会では「想定されている社会性のある人物像」側に入れるのか、そこが自分にとっての興味関心だった。
後から考えれば、非常に自分の男性性を重視していた部分はある気はするのだが、それを男性特有の発想だとは思っていなかった。例えば、「少年よ大志を抱け」的な気負いはあったが、そのような頂点を目指す思考はだれでも持ってると思っていたし、これが男性特有の発想だとは思っていなかった。
どんなに合わせても明文化されていない女性集団の暗黙のルールが理解できない、それこそあまりにも自分が女子集団による善し悪しの価値基準を納得できず、行動にも反映できないため未成年のときの自分は自分に発達障害的なものを疑っていた。しかし、不思議なことに男性集団に混じると男性集団のほうの暗黙のルールは感覚的になぜか教わらなくとも理解できていた。そして、自分は発達障害的なものではなく、性別に由来する行動の原理が逆なのだと認識するようになった。
長くなったが、自分の「性自認」の感覚はこのようなものである。アホなので今でも特撮ヒーローのように正義とは何かを自身に問いかけながら振舞いたいと思っている。
自分は諸事情あって外見のパス度(=希望の性別で見られる度合い)は高くない。容姿においては中性的で男性的な雰囲気の女性だと思われている。雰囲気が普通の女性とは違うため同性愛者の女性だと思われることが多い。性同一の診断の紙きれは持っているが、「治療」の予定はない。ただ、声は子供の頃からの訓練によって男性~女性両方の声を出すことができるので、電話や通話のみの相手には何も言わずに男性で通すこともある。
他人からの視点については、自分のことを「同性愛者であり、なぜか異様に男特有の無意識の行動をとったり集団におけるポジションを志向したり限りなく男と同じ行動ばかりとろうとする女性」と認識される状態でも個人的には構わないと思っている。
というか自分のやろうとすることを妨害しないでいてくれれば他人が自分のことをどう思おうと構わない。
もちろん「こいつはそういうやつなんだな」と理解して認識してくれる人間の方と距離を詰めたり仲よくしたりしたいとは思うが、別に増田もそういう相手と親密に打ち解ける仲になりたいとは思ってないだろうし。
[余談]
ちなみに先述の発言をひっくり返すようなことを言うが、おそらく「心が異性」と宣言するタイプの人の多くは思い込みと勘違いが多いように見える。特に、女→男(心は男と宣言するパターン)の場合は、わざわざ言って回っている人は変身願望が強い若い女性がそう宣言しているだけのことが多いのではないだろうか。
また、本当の性同一性障害の人で特に女→男の人でおそらく真正だろうなという雰囲気の人については、彼らの多くは男の姿と声で堂々と社会に紛れ込んでいる。もしかしたらすでに増田の周りにいるのかもしれないし、仮にいても気づかないと思う。日常生活において見ず知らずの他人のパンツの中身を見る機会など基本的にはないので、まずわかることはない。あってみればわかると思うが「元女です」と宣言されたところでまず信じられない程度には通常の男性である。もし、実際に彼らにあって、雰囲気をみて「どうみても元女だ」と疑えるのならば、その人は同時に世の生まれ持っての男性の多くにも元女疑惑をかけながら生きなければいけないだろう。
不要。
自分は性同一性障害を脳の性分化疾患の一種だと思っているが、それについての研究が政治的イデオロギーによって非推奨になっている。原因はおそらく、自分は異性になりたいと主張する人のうち、脳の性分化による性同一性障害の人は多くはないからだろう。
昨今のLGBT法案における性自認についての言説は海外による政治イデオロギーの問題だと思っている。これによると、ポリティカルコレクトネスによると、本人の資質はさておき戸籍と別の性別になってみたい、戸籍と別の性別として暮らしてみたいという願望を持っている人は誰でも「自分の性自認は○○」と主張していいことになっているようなので、性自認という言葉自体がライトな意味合いのものに変容してきているように見えるのだ。
自分も実年齢に違和感はあるし実感してる年齢と実年齢がずれているというその感覚自体は分かるが、だからといって自分がトランスエイジだとかはバカバカしくて真面目に主張する気にはなりえない。
その感覚を性別に当てはめたものが「性自認という用語の意味」なら、性自認ってだいぶ軽い言葉だったんだなーと思うし、トランスエイジのジェンダー版がトランスジェンダーならトランスジェンダーってのもめちゃくちゃな発想だなーとも思う。