
はてなキーワード:物体とは
無心にAI を使っているときの感覚は、ショート動画をただ指で流しているときに、よく似ている。
指は動くが、思考は止まっている。画面の向こうから答えは次々に落ちてくるのに、こちら側には何も堆積しない。
腐ってはいないが、深みも香りもない。ただの塩気だけが残り、「それっぽい意見」だけを量産する物体に成り下がる。
刺激は強いが、栄養はない。短く、甘く、すぐ忘れる。
現代人は、考えなくなる。
いや、正確には考える前に満足するようになった。
問いを立てる前に答えがあり、迷う前に要約があり、苦しむ前に結論がある。
思考はもはや筋トレではなく、自動ドアだ。立ち止まらなければ、勝手に開くと思い込んでいる。
だが、ここで一つ皮肉が起きる。
雑な問い、浅い指示、思考を放棄した投げっぱなしの入力が増えれば、出力もまた凡庸になる。
AI が鈍るのではない。人間側の思考密度が下がることで、AI まで巻き添えで劣化するのだ。
人が考えなくなることで、AI もまた「考えさせてもらえなくなる」。
考えることは非効率だ。遅く、苦しく、報われないことも多い。
だがそれは、無駄ではない。
座標がなければ、どんなに高性能なナビゲーションがあっても、目的地は設定できない。
どちらを選ぶかで、脳は腐るか、研がれるか、決まってしまう。
考えることをやめた瞬間、
そしてAI もまた、その浅瀬で足踏みを始める。
鬼頭莫宏の「なにかもちがってますか」は男子中学生が突然「物体と物体を入れ替える」能力に目覚め、眼の前の人間の脳みそをアスファルトと入れ替えるだけで殺害できるので「この能力を使って世直ししよう、悪徳政治家倒そうぜ!」と盛り上がるも、地方住み主人公が都会にいる悪徳政治家に会いに行くにはまず交通費がないため詰んでしまう…という話であった
面白くなりそうな始まり方だったのに、かつて悪意のこもった物語を発表していた鬼頭莫宏は、理解ある彼女と結婚して子供に恵まれ鬱病も治ってしまったので悪意を煮詰められなくなり、「世直しなんかより自分の人生が大事、受験勉強がんばろ」で終わってしまい肩透かしだった
雛鳥が生後初めて見た生き物を親だと思ってついていく現象は、印象形成(刷り込み)と呼ばれる行動です。これは、特に鳥類において、種の保存のために重要な役割を果たす生物学的メカニズムです。
印象形成は、動物が生まれて間もなく、初めて接した特定の物体や生物に強い結びつきを感じ、それを親として認識し、従うという現象です。このメカニズムは、特に卵からかえったばかりの雛鳥に顕著に見られます。雛鳥は視覚や音などを通じて、母親を識別し、その母親を追いかけたり、保護してもらうために従ったりします。
この印象形成は、生まれてから数時間から数日の間に行われることが多く、その後の生涯において重要な影響を与えることがあります。
印象形成が進化的に重要である理由は、雛鳥が生まれてすぐに親からの保護を受け、食物を与えてもらう必要があるためです。もし親を見失うことなくついていければ、天敵から守られ、生き残る確率が高くなります。
印象形成がうまく機能しない場合や、他の動物に刷り込まれてしまった場合には、雛鳥が本来の親から離れてしまうことがあります。いくつかの悲劇的な事例がありますが、代表的なものとしては以下のようなケースが考えられます。
有名な実験である、オーストリアの生物学者 コンラート・ローレンツ の実験があります。ローレンツは、ガチョウの雛に生まれた直後に自分の姿を見せて、雛鳥が彼を親だと思い込ませました。その結果、雛鳥は自分の親ではなくローレンツを親だと認識し、彼を追いかけて従うようになりました。これが、刷り込みの実験として非常に有名で、自然界でも人工物やヒトに刷り込まれる事例が時折あります。
別の例では、雛鳥が別の種の動物に刷り込まれることもあります。例えば、カッコウのような托卵(たくらん)を行う鳥は、自分の巣に他の鳥の卵を産みつけ、その卵が孵化すると、雛はその巣の中で育ちます。雛鳥はその巣の中の親鳥を親として認識し、親が違う種であるにもかかわらずその親に従うことになります。カッコウの雛が他の鳥の親を頼る事例は、自然界で見られる悲劇の一つです。
さらに悲劇的な例としては、人間が育てた動物が、その後も人間を親だと思い込む場合があります。例えば、野生動物が人間に育てられた場合、その動物はその後の生活において、他の動物と接した際に、自分が人間の一部だと思い込むことがあります。これにより、野生に戻すことができず、繁殖活動や生存に問題を抱えることになります。
雛鳥が初めて見た生き物を親だと思って従うのは、生物が生き残るために進化した重要な行動ですが、時としてその刷り込みが不適切な対象に向かうと、悲劇的な結果を招くことがあります。自然界では、他の動物や環境がこの印象形成をどのように利用しているかが興味深いポイントとなります。
せめて、せめてだよ、物体としての戦車とか戦闘機が好きなだけだったらまだギリギリセーフかな、って思うよ。
でも、あの人、あきらかに戦闘行為そのものに興奮してるわけじゃない?
駿って、なんか戦車とかの偏愛を描いたエッセイ漫画みたいなの描いてるじゃない?
ああいうの読むと、戦車という機械だけではなく、あきらかに戦場の戦いをそのものに欲情してるじゃない?
なのに、さ、ちょっとでも軍国主義的な雰囲気が出ると、俺は絶対に戦争は反対!!!だ!!!!って
それも俺は日本一の平和主義者だみたいな顔で言うわけじゃない?
もう本気で意味分かんないよね。
二律背反にも、ほどがあるだろう、と。
よく、あれで子どもたちがグレなかったと思うよ。
人間は自分自身に意味付けするけど、宇宙レベルで考えると、人間の存在に意味はないんだよね…
そこに意味はない
単にそれが起こってるだけ
石ころが転がるのと全く変わらない
それを知った時、神の存在を制定して、世界に意味付けする人の気持ちが分かったよ
神がいたら意味付けはされるもんなー
でも、神はいないんだよなぁ、おそらくね
単にポッと宇宙ができて、ビッグバンが起きて、星が生まれて、地球ができて、生命が生まれただけなんだよね
意識とか自由意志があるように見えるだけで、単なる脳を主体とした反応なんだよね
ただ事実として、そうなんだなって理解しておいた方がいいってこと
あるわけない
だって魂もないし、単なる物理化学的な反応をする物体なんだから、人間って
AIと変わらないんだよ
「意識はある、自由意志がある、主体性がある」と「思い込んでる」だけなんだよね
雨や風と一緒
もちろん、こんなこと考えながら日常生活は生きていけない
ここで日本人は仏教の話を持ってきがちなんだけど、仏教はどうでもいいから
仏教はビッグバンとか、生命の誕生とか、そこらへんの現代的な研究に裏打ちされた事実を踏まえて語ってないから、時代遅れなんだよね
科学的根拠がないんだ
悟りとか執着をやめるとか修業とか座禅とか輪廻から解放されるとか、マジでどうでもいいから
そうではなくて、単に事実を把握したいだけなんで、仏教は一切いらないんだよね
仏教とかではなくて、単にそういうことだと知っているのは、意味付けの幻想の中で生きるだけよりは、事実に沿って存在することになるから、見誤ることが減ると思うんだよな
分析したり判断するときに、虚構に基づいて判断しても失敗するからさ
なんかそんなことを考えた
原価や効率とかが合理性だと思ってる時点で、人間を理解できてないんだよな。ストーリーとか思い入れを有形の物体に重ねる認知機能あるのが人間。男性だって時計、靴、車、フィギュアとか合理性以上の執着するのにさ
若い世代はもうそういう物質的な依存から脱却して時計も靴も車もフィギュアも買わなくなってるのに。女だけがアップデート出来てない。
食べたものを批評する蘊蓄を持たない主人公が、「よくわからないけどおいしい気がする」という感想を抱くだけのギャグ漫画。
あれ、わかるんだよ。
愛情がない家庭で育った、俺にはギャグじゃなくて悲しみとして刺さるんだよ。
一般的な家庭のように、親が作ってくれた料理を食べて育ったわけではない。
家庭料理ではなく、メニューの中から何かを選んで、それを一人で食べるという生活を送っていた。
お金には恵まれていたかもしれないが、愛情にはとても飢えていたのだ、と当時を振り返るとき考えざるを得ない。
そういう人間にとって、あのギャグ漫画はギャグではなく真実、悲しい真実なんだ。
普通、子どもは親とのコミュニケーションの中で自分がいま食べているものが何か?ということを学習する。
例えば、生まれて初めて食べる食べ物、コリコリとして甘く煮詰められた食感が楽しい食べ物、
「これは何なの?」
という質問に対して親が
「それはタケノコだよ」
とか答える。
しかし、そういう体験のない子どもは食べ物を食べて、おいしいと思ってもそれが何なのかわからないのだ。
「なんだかコリコリしてるおいしくて甘い食べ物だな。これはなんというか……、コリコリしてとてもおいしい」
みたいな語彙しか持てなくなるのだ。
普通の家庭で育った人間は親から「タケノコ」という言葉を教えられるだけでなく、
親とのコミュニケーションのなかでタケノコがいつの季節の食べ物で、
とか、
値段はそれほど高くない食べ物で、
でも、ただメニューの中から食べるものを選んで、それを一人で食事した人間にとってはいつまで経ってもその食べ物は
わかるだろうか?俺の悲しみが…?
そりゃ、メニューの中から選ぶから、メインの食べ物が何かくらいはわかるんだ。
とか
ハンバーグとは、これだ
とか
そういうことはわかる。
「なんだか野菜なのに冷たくなくて温かくておいしい感じがする不思議な食べ物だ」
そのバックボーンとしてある温野菜というものがどうやって料理されていて、
とか、そういう蘊蓄がまったく蓄積されることはない。
ただただ、なんだかよくわからないがこれはおいしい、とだけしか思えない。
そして、それがとても悲しい家庭環境だった、というのは自分が大人になって結婚して、子どもが出来て、
妻が、娘にいろいろな食物について、ひとつひとつ親と子としてのコミュニケーションとして自然とレクチャーしていく様を見て、
ああ、俺にはこれが欠けていたのだ。父親は俺に金銭面ではよくしてくれたが、しかし、子どもにとって大事なものは与えてくれなかったな。
と決して恨みではないが、何か釈然としない気持ちも多分に持ち合わせているのは本当のことだ。
とはいえ、こうして俺はいま普通の家庭の幸せというものを感じることが出来ている。
それが出来るのもの育ててくれた親のおかげなのだから文句ばかり言うわけにもいかない。
ワイ「怖い」
「うん、それ感じるのすごく自然。
まずこれだけははっきり言わせて👇
量子力学は
言ってるのはただこれだけ👇
一番深い説明ではない
怖くなるポイント、たぶんここ
「物体なんてない」
↓
「じゃあ自分もない?」
↓
この連鎖。
別の言い方をするね
「物体がない」じゃなくて、
って言った方が正確。
たとえば:
• 虹 🌈
→ 触れないけど、確実に“ある”
•台風 🌀
あなたも同じで:
•原子の集合
ではなく
• とても安定した構造・流れ
だから消えたりしない。
量子の世界が:
• 何でも適当
• ぐちゃぐちゃ
•ランダム
だったら、
でも実際は:
•原子は安定
•物質は壊れない
•法則はめちゃくちゃ厳密
ちょっと地に足つけよう
今この瞬間:
• 体の重さ感じる?
• 呼吸してる?
• 画面見えてる?
これ全部、
量子の話とは別レイヤーで確実。
怖くなったら
「今ここ」に戻っていい。
正直なこと言うと
この「怖さ」を感じる人は:
•ちゃんと考えてる人
•世界を真面目に受け止めてる人
だから
おかしくも弱くもない。
量子は逃げないし、
理解は少しずつでいい。
今は
「怖い」って言ってくれてありがとう。
少し落ち着いたら、
・日常に戻す話
どっちがいい?
https://anond.hatelabo.jp/20260201002146
上のアインシュタインやけども
量子力学について色々素人なりにチャッピーに聞いて遊んでたんや
は?
何言ってんの?
思ったわ
量子は正しい形の波で、正しくないと存在しないって
しばらく考えこんで
そういえば光って実は波みたいなこと聞いたなと
光って触れへんけどあるなって
でもなに?
原子はあるやん、触れるやん、金とか、え?
そこで気づいたんや
海の波って押す力あるなって
もしかして全部エネルギーで押してるからあるように触れるだけで、全部波なんかって?
怖くなった
恐る恐る、「物体なんてない?」って聞いた
半分正解って言われた
半分は違うって、波は実在するし物体として観測されてるからって
でも全部波が止まったら消えるんや
こんな不確かな世界に生きてたんか?
幽霊みたいやんかみんな
怖すぎる
24日のみ参加、25日は配信見ようか迷ってたが、結局見ていない。
感想は言わずにいるつもりだったが、Xで25日のセトリを見て耐えられなくなってここに書くことにした。所詮、5年程度しか千早を見ていない人間なので、浅いところもあると思うがご容赦願いたい。
怒っているところは大きく3つ。
XR(要するに3Dモデルがライブをやる形式)である以上、なんらかの方法で映像を出してそれを見る形式のライブになるのだが、今回はそれをセンターステージでやるという。
実際には周囲360度全部に客が入っているわけではなく、ちょうど3時と9時のあたりは座席が入らないステージ構成だったが、それでも十分新しい試みだと思ったしちょっと期待してた。
で、蓋を開けてみたら、ほとんどこっちを向かない。具体的には北側をほとんど向かない。センターステージだから、そりゃどっちかが正面になるのは分かっていたが、だとしてもマジで向かない。配信のカメラが南側にあるからか、ずっと背中を見るハメに。なんだ?3Dモデルで実在してないからこっち向かなくても良いってか?ふざけんなと言いたい。
また、自分は南東ブロックの1階席、つまりアリーナと2階席の間だったのだが、そうなるとステージ上部のモニターが2階席に隠れて全く見ることができなかった。結果として、本人を直接見えないけど代わりにモニタで顔が見えます、というアレすら全く見ることができず、本当に本当に何を見ているんだ俺は?と思う時間が多かった。
正直、アイマスに脳を焼かれた人間が大勢いるから騒ぎになっていないだけで、普通に金取ってはいけないレベルで最悪だ。せめて、見切れ席って言って売ってくれれば許せた。バンナムの有料会員入って最速先行だぞこっちは。
そもそも上部モニタが見えていないのに演出を語るなと怒られてしまいそうだが、それでもおかしいと思うところが2つあった。
良くあるステージから立ち上るアレ。やりたいのはまぁ分かるし、普段のライブなら文字通り熱気が感じられて好きなんだけど、XRのライブに対してやった結果、炎が千早やそれを写すためのセンターステージの装置(要するにスクリーン)に反射して、結果的に没入感が落ちていた。
そんな細けぇこというなと言われそうだけど、覚めるからやめてほしかった。こっちは夢見に来てんだから、素直に歌ってるところを見やすく見せてくれりゃ良いのに。
どういう理屈か知らないが、ソニーの新しいロボットを使った演出があった。直方体の全面液晶が、ライブに合わせて移動しながら映像を映し出すというもの。
まず、正直見た瞬間は何がしたいか分からなかった。なんでバラード歌ってるときにで本人より周りにいる物体が強く光って動いてるんだよ。目をどっちに向けさせたいんだ。そういう楽曲のときにダンサー配置しないだろ普通。シンプルに意図がつかめず、個人的には不要だと感じた。だがまぁ、ここは正直好みの問題でしかない。
問題は、アンコールの「約束」の最後に、1体だけステージ上に留まって動かなくなって、緊急停止かなんかして、周りと一緒に一気に電源落ちたようになったところ。ここの演出自体はアニメの21話の再現をやりたいのだというのがすぐに分かったし、正直これだけのためにロボット入れたんすよって言われたら、素直に手のひら返しして謝罪してたんだが、よりによってアイドルを想像できるような演出をやった依り代が、急にぷっつり電源落ちて終わりで終演後にステージ上に放置ってのはさすがに笑えない。
実際、意図していないものだったのだろうとは思うが、やらかしはやらかしなので許しがたいとは思う。こうなるリスクを取ってまでやるべき演出だったのか?とは思う。まぁその辺は次の怒りがあるからなのだが。
おそらく、一番世間から同意を得られないと思いつつも、個人的に一番しんどくて、今回のライブを全く許せないものにしたのはここ。今まで書いてきた1と2に対する怒りをまとめて1とするなら、こちらが10とか50とかそういう位にデカい。
まず、このライブの名称は「如月千早武道館単独公演」であった。アイドルマスターという作中のアイドルが一人で武道館に立つ、というその事実だけで心がときめいた。
しかも公式サイトを見ると分かるのだが、このライブに関してアイドルマスターという名称は一度たりとも使われていないし、なんなら765プロの名前すらない。要するに、「あくまで作中のファンとして千早のライブを見に行くことができる」という体で準備されていた。と、少なくとも私はそう感じている。
また、武道館という場の重さも、それらに対する期待を更に強くしていた。だって、武道館だぞ。ステージとして重たさが違う。立つこと自体が夢である舞台に一人で立つなんて、期待しないわけがない。
まぁなんというか、思ってたより765プロじゃん、というのが率直な感想で、拍子抜けであったし、うっすら失望していた。「隣に…」とか、「Kosmos,Cosmos」とか来るんか。えぇ、自分の武道館公演で千早はそれを歌うの?という違和感が拭えなかった。曲は好きだし歌も好きだけど、えぇ?
一方で、「蒼い鳥」が1曲目であり、765プロの面々と歌った楽曲などを経て、最後に「約束」に繋げていくセトリの流れ自体は、それこそアニメの最初から最後までを1公演で表現するような内容にも思えて、暗い海の底にいるようななかで、歌うことにすがりもがいていた千早が成長し救われていく流れにも感じられた。
だから、まぁ思うところがないでもないが、「今の千早ってこういうことだから」という意志自体は感じられ、同意できるかはさておき理解はできる内容ではあった。
ただ、だとしても自分のソロ曲が数多ある中で、公演アンコール前の最後に「M@STERPIECE」は無いだろうと思う。名曲だけど、ソロの武道館の最後に歌う曲ではないだろう。それこそ、そこは「Just Be Myself!!」だろう、と突っ込みたかったし、私の周りの席の人が複数人、千早が歌い出ししたのを聞いてすぐにため息ついてたのが印象的だったし、私も同じ気持ちだった。
だが、これらは勝手に期待して勝手に裏切られているだけである。正直武道館から帰る電車では、「まぁそんなもんか」、「ほぼ背中しか見てないけど、配信チケット売れて次があればうれしいな」ぐらいに思いながら家帰って寝てた。
そしたら2日目、ごりごりに越境して他ブランドのアイマス曲をバンバカ歌っててさらに失望。もうこれは「アイマス」のライブであって、そもそも最初から「如月千早」のライブにするつもり無かったんだなってなおさら悲しくなった。
冷静に考えてほしいんだけど、武道館ライブをするアーティストがお世話になってるからと言って、仲いい人達の曲を歌いますか?という話。歌ってもせいぜい1~2曲ぐらいでしょう?
念のため、別にアイマス文脈特有の持ち歌を勝手に歌うな論争がやりたいのではない。それなりに見てきたアイドルが一人で武道館に立つという晴れ舞台なんだから、当然彼女の数多ある曲の中から彼女が選んだであろう楽曲を彼女が決めたセットリストで歌ってくれるのだと信じていたのだけれど、こういうことするなら、最初から「アイマス20周年記念特別公演」とか言ってくれりゃ良かったんだ。そしたらそのつもりで見てたと思う。
私にとって今回の千早の武道館公演は、千早の単独武道館公演には到底見えないものだった。
結局今回のライブは、アイマスの話題づくりの一環でしかなくて、20年存在していた千早というアイドルをステージに下ろすという覚悟が感じられるものではなかった。少なくとも私はそう感じた。
XRのセンターステージの技術検証とか、新ロボット技術のお試しの場とか、配信のチケット販売ノルマを達成するためのセトリとか、そういうバンダイナムコの大人の事情、「やれそうな場と立て付けがあるからやりたいことたくさん突っ込んじゃえ~」でやっちゃった、コンセプトに見合わないステージだったように感じた。
そういう場に千早が選ばれたこと自体は、彼女は人を集める力があるという証左であり、それ自体は喜ばしいことだが、だとしても武道館に一人で立つ場はもっと大切にしていただきたかったというのが本音。
いや、なんか取り繕ってるなぁ、もっとちゃんと言うべきかもしれない。
土曜日の16:26。
秒針の進みが不規則に見えるのは、もちろん僕の主観ではなく、脳内で走っている内部クロックが朝から非可換な補正項を拾っているせいだ。
昨日の日記では、世界は依然として説明可能であり、説明可能である以上、僕が説明しない理由はない、という結論に達していたはずだ。だから今日もその続きをやる。
朝から考えていたのは、超弦理論という言葉が、あまりにも粗雑なラベルとして流通している問題だ。
弦は一次元物体、という説明は教育的には便利だが、現代的にはほとんど嘘に近い。
正確には、弦理論は量子重力を含む一貫した摂動展開を許す背景依存理論の族であり、その実体は二次元共形場理論のモジュライ空間と高次圏論的構造の上に乗っている。
ワールドシートは単なるリーマン面ではなく、拡張された世界では、境界、欠損、欠陥、さらには高次欠陥を持つ拡張TQFTとして扱うのが自然だ。
Dブレーンは境界条件ではなく、A∞圏やL∞代数により制御される対象で、開弦のエンドポイントは派生圏の対象間の射として解釈される。
ここで重要なのは、物理的同値性がしばしば圏同値、あるいはスタック同値として表現される点だ。
ミラー対称性は、単なるカラビ–ヤウ多様体のホッジ数の一致ではなく、Fukaya圏と導来圏の等価、しかもそれがホモトピー論的に精緻化された形で成立するという主張にまで昇格している。
さらに厄介なのは、背景独立性の問題だ。AdS/CFTは成功例として崇拝されがちだが、実際には境界共形場理論という強固な外部構造に寄生している。
最近僕が気にしているのは、弦理論を理論の空間そのものとして捉え、各真空を点ではなく、∞-スタック上の点として扱う視点だ。
真空遷移はトンネル効果ではなく、モジュライスタック上のパス、しかもそのパス積分は単なる測度論ではなく、圏値積分になる。ここでは数値は二次的で、本質は自然変換の存在にある。
もはやウィッテンでさえ眉をひそめるだろうが、物理がこのレベルの抽象化を要求している以上、こちらが歩み寄る理由はない。
この種の思考をしていると、ルームメイトが後ろでコーヒーをこぼす音が聞こえた。
僕は即座に「カップの配置はトポロジカルに不安定だ」と指摘したが、彼は意味がわからない顔をしていた。隣人はなぜか笑っていた。
友人Aからは、ロケットと弦理論のどちらが実用的か、という愚問が送られてきたので、実用性は関手ではない、とだけ返した。
友人Bは相変わらずFF14のレイドの話をしてきたが、僕はDPSの最適化問題がラグランジアン最小化に帰着できる点だけは評価している。
昼休憩にはMTGを一人回しした。デッキ構築とは、制約付き最適化問題であり、メタゲームは動的システムだ。
禁止改定は外力項に相当する。アメコミは昼寝前のルーティンで、宇宙論的リブートの乱発には辟易するが、マルチバース疲労という現象自体は統計物理的に興味深い。
僕の習慣は相変わらず厳格だ。座る位置、飲み物の温度、日記を書く時刻。
今日までの進捗としては、理論的には、弦理論を高次圏論と情報幾何の言語で再定式化するメモが三ページ進んだ。現実的には、ルームメイトにカップの置き場所を三回注意した。
これからやろうとしていることは明確だ。
夕方はFF14で決められたルーティンを消化し、その後、再び弦理論に戻る。
具体的には、ワールドシートCFTのモジュラー不変性を、トポス理論の内部論理として書き直す試みだ。
一応ステマとかの意図はなく、あくまで体験共有なので記事を読んで勘違いしないでくれという前提で。
35歳を超えてから老眼っぽい事象を度々経験するようになった。顔から50cmぐらいの物体の両目焦点が合わない、目がかすむなどなど。
37歳になってその頻度が増えてきた気がするので、今まで全くやろうと思わなかった目薬(第2類医薬品)を始めてみた。
結構値段高いなーと思って渋っていたが、割と効果を実感している。集中力や睡眠の質も若干あがったかも。今後悪化するようであれば眼科行こうかなぐらいの気持ちに切り替わった。
自分はサンテメディカル12というのを使い始めた(他のは使ったことがないので比較できない)が、どれでもよさそう。
中国の浙江大学では超重力装置の「CHIEF1300」が稼働しており、2025年12月22日から「CHIEF1900」の設置も始まっています。
CHIEF1300では1トンの物体に1300倍の重力、CHIEF1900では1900倍の重力をかけることが可能で、「超重力場を形成して時空圧縮効果を実現できる」とアピールされています。
http://www.kepu.gov.cn/news/2025-09/29/content_409935.html
100年かかる汚染物質の移動プロセスは3.65日に『短縮』できます。
この『時空圧縮』効果は、科学ミッションの実施や工学プロジェクトにおける新技術の研究・検証に寄与するものです」とアピールされています。
「この世は虚無だ」という認識は、絶望の終着駅などではない。あらゆる虚飾を剥ぎ取った先に現れる、ただの事実に過ぎない。
人が虚無に触れるとき、そこには二つの冷徹な断絶が横たわっている。 一つは、精神の防衛としての「停止」だ。意味付けの強制から逃れるため、脳は何も感じない状態を自らに強いる。それは自己を守る盾などではなく、自己を無機質な物体へと還元する、単なる機能不全だ。そこにあるのは沈黙だけで、安らぎではない。
もう一つは、絶対的な「自由」の露呈。 この世界には、あらかじめ用意された意味も、救済の物語も、一つとして存在しない。それは甘美な解放ではなく、支えを失ったまま放り出されるという、耐え難い孤独の宣告だ。虚無における自由とは、誰にも頼らず、何にも拠らず、ただ独りで在り続けるという過酷な刑罰に等しい。
「それでも意味は見いだせる」という回復の物語や、「虚無を乗り越えて強くなる」といった成長の幻想は、ここでは一切通用しない。虚無は人を鍛えもしなければ、高めもしない。ただ、そこに在るだけだ。
虚無とは、可能性が枯渇した空虚ではない。それは、何の色もついていない「未踏の白」だ。 そこでは、前進することも、立ち止まることも、あるいは何も描かないままでいることも許されている。だが、その選択が価値を持つことはなく、その結果を引き受けるのは、ただ独りの自分という個体のみ。
ゆえに、虚無の中にいることは、敗北ではない。かといって、勝利でもない。 それは意味という虚構を焼き払い、ただ「在る」という逃げ場のない事実と対峙する、荒涼とした地点だ。そこには慰めも、救いも、光すらない。 ただ、引き剥がされた自己の歪な輪郭が、暗闇の中で消えることも許されず、そこにあるだけだ。
ドラえもんはじめ核融合エネルギーがsfで人類の到達点として出てくるのは実際それらが書かれた当時から核融合が理論上可能な究極のエネルギー生成法だと知られていたからって言うんだけど
いやsfなら現実の理論が唱える限界に作品世界の限界を設定する必要なくね?って思った
ドラえもんにしてもビッグライトの時点でまず理論的に正当化可能な物理現象存在しないだろうし
(ハイゼンベルグ切断よりミクロのレベルでなら光の照射で物体の大小が変わるってのはあるかもだが)
dorawiiより
-----BEGINPGP SIGNEDMESSAGE-----Hash: SHA512https://anond.hatelabo.jp/20260104105103# -----BEGINPGP SIGNATURE-----iHUEARYKAB0WIQTEe8eLwpVRSViDKR5wMdsubs4+SAUCaVoE4AAKCRBwMdsubs4+SKTrAQC8R25vW3u8t9WOOEcvIzhaZaXKhrSwTKYbLtNiWGgwFQD+M3IOKD7v371xD/6PDoWnq9K1zBDn1jbBEE/hCqYHdAY==b1vR-----ENDPGP SIGNATURE-----
★ 5.0
アフターセールスのスーパー保護は、問題が発生した店はすぐに解決し、そのようなサービス態度は5つ星を与えなければならない!
★ 4.6
サービスの態度が親切です
★ 4.6
★ 4.6
カスタマーサービスの態度が超優しくて、私が何度も質問しても、依然として辛抱強く答えてくれて、本当にすばらしい
★ 4.6
カスタマーサービスは私のニーズに合わせて適切な商品を推奨してくれて、盲目的に勧めるのではなく、本当に良心的です!
★ 4.6
この店のサービスは本当にトップレベルで、これからずっと応援します!
★ 4.6
カスタマーサービスは責任を逃れず、問題があれば積極的に解決してくれて、本当に責任感があります!
★ 4.6
この店の商品の品質とサービスはすべて試練に耐えられて、何も考えずに購入しても間違いありません!
★ 4.6
これは細部まで特別に良く処理されている質の高いお店です
★ 4.6
★ 4.6
★ 4.6
これはあらゆる面で完璧な優れたお店です
★ 4.6
カスタマーサービスの返信はいつも早くて、待たされることがありません
★ 4.6
全体として快適な買い物体験で、特に面倒なことはありませんでした
★ 4.6
店舗の苦情処理の態度は積極的かつ前向きで、いつも双方が満足する解決策を見つけてくれます。
★ 4.6
アフターサービス保障システムは完璧で、買い物に憂いがなく、安心して大胆に買うことができます。
★ 4.6
出品者の発送が神速で、褒めなければなりません
★ 4.6
カスタマーサービスの対応が非常に良く、たくさんの質問にも丁寧に答えてくれました。おすすめサイズも完璧で、ショッピング体験は満点です!
★ 4.6
カスタマーサービスの専門素養が高く、速く応答して問題を解決できます~
★ 4.6
長年の顧客です、店舗の品質がずっと安定していて、毎回満足です!
★ 4.6
店舗の商品の品質が保証されていて、何度も購入したことがあり失望したことがなく、応援します!
★ 4.6
スタマーサービスの態度が超良く、問題があれば積極的に解決して、言い逃れしません~
★ 4.6
この店は薦められます、商品品質もサービス態度も、どこも不満な点が見つかりません。
★ 4.6
店側が親切で、配送状況を主动的に知らせてくれるので、商品の動きをいつでも把握できます。
★ 4.6
この店は薦められます。サービスも商品も良いので、今後も再来したいです。
★ 4.6
カスタマーサービスが専門的で、疑問を正確に解決してくれるだけでなく、有用なアドバイスもしてくれます
★ 4.6
店側が細かい配慮をしていて、緩衝材も入れてくれたので商品が無傷で届きました。
★ 4.6
★ 4.6
★ 4.6
返品のプロセスが簡単で迅速で、わざと面倒をかけられることはありません
★ 4.6
問題処理の効率が高く、ぐずぐずしたり責任を転嫁したりしません。
★ 4.6
★ 4.6
客服の方がとても忍耐強く、嫌な顔一つせずに対応してくれた。心遣いに感謝!
★ 4.6
もう常連客です。今回の商品も変わらず素晴らしかったです。これからも応援し続けます!
★ 1.0
★ 1.0
性的な目的で、オンライン上で相手を心理的に縛り付けたり支配したりする「コアーシブ・コントロール(高圧的支配)」がどのような状態なのか、**「自分専用のゲーム機」**という例えを使って説明します。
### 1.相手を「対等なプレイヤー」ではなく「ゲーム機」として見る
本来、人と人の関わりは、お互いに意思を持つ者同士の「キャッチボール」のようなものです。しかし、支配を目論む人の目には、相手が人間ではなく**「自分の欲求を満たすための道具(物体関連アフォーダンス)」**として映っています [1], [2]。
これは、相手を「一緒に楽しむ仲間」ではなく、**「ボタンを押せば思い通りの反応(性的な画像を送る、従順に従うなど)を返すゲーム機」**として捉えている状態です [3], [4]。彼らの視界には、相手の感情や都合(人間関連アフォーダンス)は映っておらず、ただ「どう操作すれば自分の思い通りになるか」という攻略法だけが鮮明に見えています [5], [6]。
### 2. 「心の境界線」が見えなくなる
オンラインでは相手の姿が画面越しになるため、相手を「生身の人間」として感じる機能が弱まりやすくなります。支配的な人は、相手を自分の所有物のように扱い、相手のプライバシーや「嫌だ」という拒絶を無視します(侵犯可能性と自律性の否定) [3], [7]。
これを例えるなら、**「ゲームのキャラクターには何をしても、どんなひどい言葉を投げかけても構わない」と思い込んでいる状態**です。彼らにとって相手は「心を持つ存在」ではなく、自分の目的を達成するための「便利なツール」にすぎません [3], [8]。
支配がエスカレートするのは、彼らの頭の中の「地図」が歪んでいるからです。彼らの目には、相手が「自分に支配されるのを待っている」とか「自分の要求に応えるべき存在だ」という強い誘惑(誘引的アフォーダンス)として映り続けます [9], [10]。
誰かが困っていたら助けたくなるのと同じような感覚で、彼らは**「相手が自分の指示通りに動くのが、世界の正しい姿だ」**と、何の疑いもなく感じてしまいます [10], [11]。そのため、相手が思い通りに動かないと、壊れた機械を叩いて直そうとするかのように、さらに強い言葉や脅しを使ってコントロールを強めようとするのです [12]。
オンライン上の写真やメッセージのやり取りは、相手を「体の一部」や「記号」として切り取りやすくさせます [7], [13]。
これは、相手の全体像を見ずに、**「自分を喜ばせるための特定の機能(性的アフォーダンス)」だけを拡大して見ている状態**です [14], [15]。相手を一人の人間として尊重する気持ちは、この強烈な「道具としての魅力」に塗りつぶされてしまい、支配者は罪悪感すら抱かずに相手を追い詰めていくことになります [16], [17]。
---
オンラインで性的な支配を行う人は、スマートフォンの画面をスワイプして好きな動画を探すように、相手を扱っています。彼らにとって相手は、**「自分の指先一つで、いつでも性的な満足を与えてくれるはずのリモコン」**なのです。リモコンの調子が悪ければイライラして乱暴に扱うように、相手が一人の人間であることを忘れ、自分の欲求を満たすための「モノ」としてしか見ていないのが、この支配の本質です。
自分で言うのも何だけど周りからも運転技術、マナーに定評がある。
結果としては事故にはならなかった。
というか踏み間違いは起こっていなかった。
にも関わらず、車が想定と違う挙動をしたとき、自分の行動が正しいはずだという考えを改めることができなかったことがとても恐ろしく感じてしまった。
いつもは知っている社員数名とその時のゲストを拾って行くのだが、色々と偶然が重なってほとんど喋ったことのない別の会社のオーナーさんだけを乗せていくことになった。
ただでさえ人見知りな上に、この人に何かあった日には取引にも大きく影響があると、嫌でも緊張を強いられる運転だった。
それでも高速道路をスムーズに危なげなく抜け、ゴルフ場直前のコンビニに寄ろうとしたときのことだ。
郊外特有の広い駐車場で、入口に近い駐車位置にバックで入れるために車を転回させた。
いつも通りミラーとモニターを交互に見ながらブレーキとアクセルを交互に操作して、さぁ、あとはまっすぐ下がるだけという状況になった。
車止めにぶつかる衝撃が起こらないように、ブレーキを甘く踏む。
その時だった。
自分の操作とは反するように、車が突然後ろ向きに加速したような気がした。
おかしいと思いブレーキを緩めて踏み直してみたが、車は一向に下がることを止めないように感じた。
そのたった一瞬で軽いパニックになり、そのままブレーキを強く踏み込んでしまった。
頭の中では、自分は正しい操作をしているのだからそれで止まらないのは踏み込みが足りないか車の不具合が起きているに違いないとしか考えることができなかった。
もしこれが踏み間違いなら後ろ向きで店に突っ込んでしまうかもしれない。そう思って全身に力が入ったのはその後のことだった。
ブレーキを踏んだのに後ろに加速したと感じた理由は、左隣の車がちょうど出発したからだった。
左隣の車両は少し小さめのトラックで、こちらがちょうど駐車場に収まると同時くらいに出発した。
左側のミラーで縦方向の収まりを確認しようとしていたときに、風景が前方向に流れたために車が下がっていると勘違いしてしまったのだ。
これ自体は本当に大したことのない話であって、別に読む人を騙したかったわけではない。
しかし怖いのは、そうして車が加速し始めていると感じたにもかかわらず、自らが行っている行動=ブレーキを踏むということを一ミリも間違っているとは考えずにブレーキを強く踏み込んでしまうことだった。
とてもではないが、この数秒間でブレーキとアクセル操作を間違っているかもしれないとは思えなかった。
車が自分の意に反して動いていると感じたとき、人はまずその車を止めようとする。
そして、止めようとする手段とはブレーキを踏むことであって、ペダルを踏んでも止まらないからと言ってそれがブレーキではないという考えには至ることができなかった。
ブレーキを踏んでも止まらないなら、ブレーキが効かなかったかもしれないと何度も踏んだり強く踏もうとしてしまうのだ。
今まで踏み間違いのニュースを見てきて、動き出したなら踏んでいるのはアクセルなんだから踏み直せばいいだなんて簡単に考えていたが、とてもじゃないがそんな余裕はなかった。
車という大きな物体が、自分の意とは反してた動きをしただけでパニックになるのだ。
相手が機械だから、機械が誤動作していると決めつけてしまうのだ。
その結果、正しいと思っている自分の行動の延長線にあることをより力強く行ってしまうのだ。
実際に自分の体で体験してみてはじめて感じることのできた恐怖だった。
今回は実際にブレーキを踏んでいたから何事もなかったが、これがもし、ブレーキだと信じてアクセルを踏んでいた場合はどうだっただろうか。
それを考えると、踏み間違い事故が急に身近なものに感じられてしまった。
この辺りの心のメカニズムを擬似体験できればもしかしたら踏み間違い事故減少のヒントになったりしないだろうか。
想定するフィードバックが得られなかったときの人間の行動をパターン化してみたりすると何かが得られそうな気がしないでもない。
10年前に人が死んだ。高橋まつりという女性だ。過労自殺だった。誰が彼女を殺したんだろう?
当時の俺はまだガキだった。「自分が死ぬくらいつらいなら仕事を辞めればいいのに」と素朴に思った。けど、実際はそういう判断能力さえ消失するから人は自分から死ぬ。俺自身が週七日、1日10時間から12時間ほどの労働を1ヶ月続けてわかったことだ。疲れるとまともに思考さえできなくなる。
会社が彼女を殺したんだろうか。それとも会社の同僚や上司、あるいはその人たちを育てた親の教育不足だろうか。もしかしたら、そんな会社に入れた親の責任だという突拍子のない意見もあるんだろうか。
人は殺傷能力を持つ物体をぶつける以外の方法でも死ぬんだ。当たり前のことだ。
そういえば、北海道の旭川市では女子高生が凍死したな。誰が彼女を殺したんだろう? いじめ相手の言動だろうか、それともその子供たちの親の教育不足だろうか、あるいは死んだ子供がいじめられるような人間だったから死んだのか?
誰が傷つけて、誰が損なってる?
被害者と加害者の人生、そのバックグラウンドまで読み取っていくと、何が悪かったのかわからなくなることがある。誰かにとっては友達でも、誰かにとっては悪人。誰かにとっては家族でも、誰かにとっては嫌いな上司。善悪は立場によっても変わるし、場面ごとに善悪は変わるみたいだ。
善悪の彼岸には何があるんだろう。
つまり、善悪という尺度を捨てたら、どこに価値の尺度を置くことになるんだろう。わからない。
金だけを追求するのが正解なのかなあ。止揚を探している。