
はてなキーワード:父兄とは
お前達は上官の命令を正しいものと信じて絶対服従をして、誠心誠意活動して来たのであろうが、既に天皇陛下の御命令によってお前達は皆原隊に復帰せよと仰せられたのである。
この上お前達が飽くまでも抵抗したならば、それは勅命に反抗することとなり逆賊とならなければならない。
正しいことをしたと信じていたのに、それが間違っていたと知ったならば、徒らに今までの行きがかりや、義理上からいつまでも反抗的態度を採って天皇陛下に背き奉り、逆賊としての汚名を永久に受ける様なことがあってはならない。
今からでも決して遅くはないから、直ちに抵抗をやめて軍旗の下に復帰する様にせよ。
そうしたら今までの罪も許されるのである。
実行機能の凹凸
水筒という「枠組み」があれば飲み切るが、自由度が増すと飲み忘れる。
つまり「環境に埋め込まれた仕組み」があると回路が働くが、自分で意思決定を要求される場面では停止する
興味と無関心の極端な二分
これは「嫌いだから回避したい」という強い動機が本人の中で定着している証拠
つまり、全般的に無気力なのではなく「関心があることは絶対落とさない」「関心がないことはどこまでも抜け落ちる」という極端な特性がある
協調性がないと教師は評するが、むしろ「無理に合わせない」ことで他人の庇護や好意を引き寄せるという独特の戦略を成立させているとも読める
これらは「生活スキルの欠落」とは真逆の、突出した表現力と自我の強さといえる
つまり彼女の脳は「自己維持のためのルーチン」より「自己表現のための創造」に回路を優先的に振っている
評価の二重性
教師からは「協調性がない」「だらしない」と見えるが、親から見れば「自分を持ち、人を悪く言わず、個性的に生きている」ことが眩しい。
凡庸な生徒なら大人の意図に沿って点数を稼ぐが、この娘は「適応よりも自己の欲望」に忠実すぎるため、評価軸から外れやすい
要するに、この娘は「生存維持のプログラムが弱く、自己表現と興味への特化が極端に強いタイプ」である。
社会は前者を「当たり前」として要求するために「不安の種」となるが、後者は時に突出した才能や魅力になる。
親の目から見れば「死なないように最低限の生活手順を支える仕組み」を外部化しながら、「自己表現の強さ」を伸ばしてやることが、現実的な戦略だろう。
この構造を前提に、父兄が意識したいのは「能力の欠如扱いで叱る」でも「全面先回りで背負う」でもなく、環境と手順を設計して回路をつけること
1.行動の起点が弱いが、起動すればやり切るタイプ
3.社会的支援を引き寄せるが、それ自体が構造化の代替になっている
以下は「そういう家なら、おそらくこういう設計を置く示唆。命題は一つ。因果を本人の近距離に落とす
1-a 固定座標化:リモコンは椅子の右、箸はテーブル右上、ナプキンポーチは通学服の左ポケットなど、置き場を物理的に一意化
1-b 単機能UI:リモコンに「暑い→▲」「寒い→▼」だけを残すラベル。迷いの分岐を消す
1-c可視トークン化:箸・水・ポーチなど必須アイテムを色や形で識別可能にし、見えれば行動が続く状態を作る
2.トリガー連結の量産
2-a 時刻トリガー:T−10、T−5の二段アラームを移動教室・HR終わりに重ねる
2-b場所トリガー:椅子に触れたら「温冷チェック」、玄関を跨いだら「ポーチ確認」
2-c感覚トリガー:内受容スコアを数値化(空腹・喉・暑さ・寒さを0〜5で自己申告)。数値に対してIf-Thenを貼る
例:空腹4以上→テーブルの常備トレーから一口栄養補給→箸に触れたら1口食べる
3.手順を3手以内に潰す
3-a食事:席に座る→箸を持つ→一口食べる、までを一筆書きに。箸は常設、声かけは合言葉だけ
3-b 冷暖:座る→体感スコア申告→ボタン一押し。ボタン位置は指が勝手に行く場所へ
4-a重要タスクを「美意識・自己表現」に結びつける。ナプキンポーチや机上トレーを本人のデザインにして《忘れたくない物》に格上げ
5.失敗しても死なない設計
5-a 常備カロリーと常温水を手の届く範囲に。暑熱・低血糖で倒れない保険線
5-b サニタリーは二重化(吸収ショーツ+ポーチの交換キット)。トイレ内手順カードはピクトグラムで3手
6-a 週一で記録を見る会。できた・できないではなく「回路が点いた瞬間」を具体語で鏡映し
6-b 3回連続で崩れたら本人を責めず構造を改修。人ではなく仕組みの問題として扱う
7-a 移動教室の二段アラーム許可、机周辺の仕切りボックス、バディ同行の任意運用など、点の配慮を線にする
7-b 名付けや病名は急がず、実行機能支援という言葉で相談すると通りがいい
8-a 先回りをやめるのではなく、合言葉と環境で起動を促し、手を出すのは危険域だけ
8-b合言葉例:暑さは今いくつ、腹は今いくつ、T−10始動、ポーチチェック、リモコン右手0
8-c 叱責の代わりに観察と命名。行動が起きた0.5秒を一緒に言語化して固定化する
熱中症の前駆(頭痛・悪心・応答低下)、失神傾向、経血急増などは即介入
2週間の小実験
目標:食事・冷暖・サニタリー・移動の4タスク。各3手に再設計
判定:自発起動率が30→60%へ、応答時間が半減すれば構造に適合している。伸びなければ設計を差し替え適合
最後に一つ。彼女は協調より自我、維持より表現にベットしている
その賭けは凡庸な評価軸からは外れるが、適切な環境があれば強さになる
自分は、金持ちの家に生れたという事よりも、俗にいう「できる」事に依って、学校中の尊敬を得そうになりました。自分は、子供の頃から病弱で、よく一つき二つき、また一学年ちかくも寝込んで学校を休んだ事さえあったのですが、それでも、病み上りのからだで人力車に乗って学校へ行き、学年末の試験を受けてみると、クラスの誰よりも所謂「できて」いるようでした。からだ具合いのよい時でも、自分は、さっぱり勉強せず、学校へ行っても授業時間に漫画などを書き、休憩時間にはそれをクラスの者たちに説明して聞かせて、笑わせてやりました。また、綴り方には、滑稽噺こっけいばなしばかり書き、先生から注意されても、しかし、自分は、やめませんでした。先生は、実はこっそり自分のその滑稽噺を楽しみにしている事を自分は、知っていたからでした。或る日、自分は、れいに依って、自分が母に連れられて上京の途中の汽車で、おしっこを客車の通路にある痰壺たんつぼにしてしまった失敗談(しかし、その上京の時に、自分は痰壺と知らずにしたのではありませんでした。子供の無邪気をてらって、わざと、そうしたのでした)を、ことさらに悲しそうな筆致で書いて提出し、先生は、きっと笑うという自信がありましたので、職員室に引き揚げて行く先生のあとを、そっとつけて行きましたら、先生は、教室を出るとすぐ、自分のその綴り方を、他のクラスの者たちの綴り方の中から選び出し、廊下を歩きながら読みはじめて、クスクス笑い、やがて職員室にはいって読み終えたのか、顔を真赤にして大声を挙げて笑い、他の先生に、さっそくそれを読ませているのを見とどけ、自分は、たいへん満足でした。
お茶目。
自分は、所謂お茶目に見られる事に成功しました。尊敬される事から、のがれる事に成功しました。通信簿は全学科とも十点でしたが、操行というものだけは、七点だったり、六点だったりして、それもまた家中の大笑いの種でした。
けれども自分の本性は、そんなお茶目さんなどとは、凡およそ対蹠たいせき的なものでした。その頃、既に自分は、女中や下男から、哀かなしい事を教えられ、犯されていました。幼少の者に対して、そのような事を行うのは、人間の行い得る犯罪の中で最も醜悪で下等で、残酷な犯罪だと、自分はいまでは思っています。しかし、自分は、忍びました。これでまた一つ、人間の特質を見たというような気持さえして、そうして、力無く笑っていました。もし自分に、本当の事を言う習慣がついていたなら、悪びれず、彼等の犯罪を父や母に訴える事が出来たのかも知れませんが、しかし、自分は、その父や母をも全部は理解する事が出来なかったのです。人間に訴える、自分は、その手段には少しも期待できませんでした。父に訴えても、母に訴えても、お巡まわりに訴えても、政府に訴えても、結局は世渡りに強い人の、世間に通りのいい言いぶんに言いまくられるだけの事では無いかしら。
必ず片手落のあるのが、わかり切っている、所詮しょせん、人間に訴えるのは無駄である、自分はやはり、本当の事は何も言わず、忍んで、そうしてお道化をつづけているより他、無い気持なのでした。
なんだ、人間への不信を言っているのか? へえ? お前はいつクリスチャンになったんだい、と嘲笑ちょうしょうする人も或いはあるかも知れませんが、しかし、人間への不信は、必ずしもすぐに宗教の道に通じているとは限らないと、自分には思われるのですけど。現にその嘲笑する人をも含めて、人間は、お互いの不信の中で、エホバも何も念頭に置かず、平気で生きているではありませんか。やはり、自分の幼少の頃の事でありましたが、父の属していた或る政党の有名人が、この町に演説に来て、自分は下男たちに連れられて劇場に聞きに行きました。満員で、そうして、この町の特に父と親しくしている人たちの顔は皆、見えて、大いに拍手などしていました。演説がすんで、聴衆は雪の夜道を三々五々かたまって家路に就き、クソミソに今夜の演説会の悪口を言っているのでした。中には、父と特に親しい人の声もまじっていました。父の開会の辞も下手、れいの有名人の演説も何が何やら、わけがわからぬ、とその所謂父の「同志たち」が怒声に似た口調で言っているのです。そうしてそのひとたちは、自分の家に立ち寄って客間に上り込み、今夜の演説会は大成功だったと、しんから嬉しそうな顔をして父に言っていました。下男たちまで、今夜の演説会はどうだったと母に聞かれ、とても面白かった、と言ってけろりとしているのです。演説会ほど面白くないものはない、と帰る途々みちみち、下男たちが嘆き合っていたのです。
しかし、こんなのは、ほんのささやかな一例に過ぎません。互いにあざむき合って、しかもいずれも不思議に何の傷もつかず、あざむき合っている事にさえ気がついていないみたいな、実にあざやかな、それこそ清く明るくほがらかな不信の例が、人間の生活に充満しているように思われます。けれども、自分には、あざむき合っているという事には、さして特別の興味もありません。自分だって、お道化に依って、朝から晩まで人間をあざむいているのです。自分は、修身教科書的な正義とか何とかいう道徳には、あまり関心を持てないのです。自分には、あざむき合っていながら、清く明るく朗らかに生きている、或いは生き得る自信を持っているみたいな人間が難解なのです。人間は、ついに自分にその妙諦みょうていを教えてはくれませんでした。それさえわかったら、自分は、人間をこんなに恐怖し、また、必死のサーヴィスなどしなくて、すんだのでしょう。人間の生活と対立してしまって、夜々の地獄のこれほどの苦しみを嘗なめずにすんだのでしょう。つまり、自分が下男下女たちの憎むべきあの犯罪をさえ、誰にも訴えなかったのは、人間への不信からではなく、また勿論クリスト主義のためでもなく、人間が、葉蔵という自分に対して信用の殻を固く閉じていたからだったと思います。父母でさえ、自分にとって難解なものを、時折、見せる事があったのですから。
そうして、その、誰にも訴えない、自分の孤独の匂いが、多くの女性に、本能に依って嗅かぎ当てられ、後年さまざま、自分がつけ込まれる誘因の一つになったような気もするのです。
つまり、自分は、女性にとって、恋の秘密を守れる男であったというわけなのでした。
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第二の手記
海の、波打際、といってもいいくらいに海にちかい岸辺に、真黒い樹肌の山桜の、かなり大きいのが二十本以上も立ちならび、新学年がはじまると、山桜は、褐色のねばっこいような嫩葉わかばと共に、青い海を背景にして、その絢爛けんらんたる花をひらき、やがて、花吹雪の時には、花びらがおびただしく海に散り込み、海面を鏤ちりばめて漂い、波に乗せられ再び波打際に打ちかえされる、その桜の砂浜が、そのまま校庭として使用せられている東北の或る中学校に、自分は受験勉強もろくにしなかったのに、どうやら無事に入学できました。そうして、その中学の制帽の徽章きしょうにも、制服のボタンにも、桜の花が図案化せられて咲いていました。
その中学校のすぐ近くに、自分の家と遠い親戚に当る者の家がありましたので、その理由もあって、父がその海と桜の中学校を自分に選んでくれたのでした。自分は、その家にあずけられ、何せ学校のすぐ近くなので、朝礼の鐘の鳴るのを聞いてから、走って登校するというような、かなり怠惰な中学生でしたが、それでも、れいのお道化に依って、日一日とクラスの人気を得ていました。
生れてはじめて、謂わば他郷へ出たわけなのですが、自分には、その他郷のほうが、自分の生れ故郷よりも、ずっと気楽な場所のように思われました。それは、自分のお道化もその頃にはいよいよぴったり身について来て、人をあざむくのに以前ほどの苦労を必要としなくなっていたからである、と解説してもいいでしょうが、しかし、それよりも、肉親と他人、故郷と他郷、そこには抜くべからざる演技の難易の差が、どのような天才にとっても、たとい神の子のイエスにとっても、存在しているものなのではないでしょうか。俳優にとって、最も演じにくい場所は、故郷の劇場であって、しかも六親眷属けんぞく全部そろって坐っている一部屋の中に在っては、いかな名優も演技どころでは無くなるのではないでしょうか。けれども自分は演じて来ました。しかも、それが、かなりの成功を収めたのです。それほどの曲者くせものが、他郷に出て、万が一にも演じ損ねるなどという事は無いわけでした。
自分の人間恐怖は、それは以前にまさるとも劣らぬくらい烈しく胸の底で蠕動ぜんどうしていましたが、しかし、演技は実にのびのびとして来て、教室にあっては、いつもクラスの者たちを笑わせ、教師も、このクラスは大庭さえいないと、とてもいいクラスなんだが、と言葉では嘆じながら、手で口を覆って笑っていました。自分は、あの雷の如き蛮声を張り上げる配属将校をさえ、実に容易に噴き出させる事が出来たのです。
もはや、自分の正体を完全に隠蔽いんぺいし得たのではあるまいか、とほっとしかけた矢先に、自分は実に意外にも背後から突き刺されました。それは、背後から突き刺す男のごたぶんにもれず、クラスで最も貧弱な肉体をして、顔も青ぶくれで、そうしてたしかに父兄のお古と思われる袖が聖徳太子の袖みたいに長すぎる上衣うわぎを着て、学課は少しも出来ず、教練や体操はいつも見学という白痴に似た生徒でした。自分もさすがに、その生徒にさえ警戒する必要は認めていなかったのでした。
その日、体操の時間に、その生徒(姓はいま記憶していませんが、名は竹一といったかと覚えています)その竹一は、れいに依って見学、自分たちは鉄棒の練習をさせられていました。自分は、わざと出来るだけ厳粛な顔をして、鉄棒めがけて、えいっと叫んで飛び、そのまま幅飛びのように前方へ飛んでしまって、砂地にドスンと尻餅をつきました。すべて、計画的な失敗でした。果して皆の大笑いになり、自分も苦笑しながら起き上ってズボンの砂を払っていると、いつそこへ来ていたのか、竹一が自分の背中をつつき、低い声でこう囁ささやきました。
「ワザ。ワザ」
自分は震撼しんかんしました。ワザと失敗したという事を、人もあろうに、竹一に見破られるとは全く思いも掛けない事でした。自分は、世界が一瞬にして地獄の業火に包まれて燃え上るのを眼前に見るような心地がして、わあっ! と叫んで発狂しそうな気配を必死の力で抑えました。
表面は相変らず哀しいお道化を演じて皆を笑わせていましたが、ふっと思わず重苦しい溜息ためいきが出て、何をしたってすべて竹一に木っ葉みじんに見破られていて、そうしてあれは、そのうちにきっと誰かれとなく、それを言いふらして歩くに違いないのだ、と考えると、額にじっとり油汗がわいて来て、狂人みたいに妙な眼つきで、あたりをキョロキョロむなしく見廻したりしました。できる事なら、朝、昼、晩、四六時中、竹一の傍そばから離れず彼が秘密を口走らないように監視していたい気持でした。そうして、自分が、彼にまつわりついている間に、自分のお道化は、所謂「ワザ」では無くて、ほんものであったというよう思い込ませるようにあらゆる努力を払い、あわよくば、彼と無二の親友になってしまいたいものだ、もし、その事が皆、不可能なら、もはや、彼の死を祈るより他は無い、とさえ思いつめました。しかし、さすがに、彼を殺そうという気だけは起りませんでした。自分は、これまでの生涯に於おいて、人に殺されたいと願望した事は幾度となくありましたが、人を殺したいと思った事は、いちどもありませんでした。それは、おそるべき相手に、かえって幸福を与えるだけの事だと考えていたからです。
自分は、彼を手なずけるため、まず、顔に偽クリスチャンのような「優しい」媚笑びしょうを湛たたえ、首を三十度くらい左に曲げて、彼の小さい肩を軽く抱き、そうして猫撫ねこなで声に似た甘ったるい声で、彼を自分の寄宿している家に遊びに来るようしばしば誘いましたが、彼は、いつも、ぼんやりした眼つきをして、黙っていました。しかし、自分は、或る日の放課後、たしか初夏の頃の事でした、夕立ちが白く降って、生徒たちは帰宅に困っていたようでしたが、自分は家がすぐ近くなので平気で外へ飛び出そうとして、ふと下駄箱のかげに、竹一がしょんぼり立っているのを見つけ、行こう、傘を貸してあげる、と言い、臆する竹一の手を引っぱって、一緒に夕立ちの中を走り、家に着いて、二人の上衣を小母さんに乾かしてもらうようにたのみ、竹一を二階の自分の部屋に誘い込むのに成功しました。
その家には、五十すぎの小母さんと、三十くらいの、眼鏡をかけて、病身らしい背の高い姉娘(この娘は、いちどよそへお嫁に行って、それからまた、家へ帰っているひとでした。自分は、このひとを、ここの家のひとたちにならって、アネサと呼んでいました)それと、最近女学校を卒業したばかりらしい、セッちゃんという姉に似ず背が低く丸顔の妹娘と、三人だけの家族で、下の店には、文房具やら運動用具を少々並べていましたが、主な収入は、なくなった主人が建てて残して行った五六棟の長屋の家賃のようでした。
「耳が痛い」
竹一は、立ったままでそう言いました。
「雨に濡れたら、痛くなったよ」
自分が、見てみると、両方の耳が、ひどい耳だれでした。膿うみが、いまにも耳殻の外に流れ出ようとしていました。
「これは、いけない。痛いだろう」
「雨の中を、引っぱり出したりして、ごめんね」
と女の言葉みたいな言葉を遣って「優しく」謝り、それから、下へ行って綿とアルコールをもらって来て、竹一を自分の膝ひざを枕にして寝かせ、念入りに耳の掃除をしてやりました。竹一も、さすがに、これが偽善の悪計であることには気附かなかったようで、
「お前は、きっと、女に惚ほれられるよ」
と自分の膝枕で寝ながら、無智なお世辞を言ったくらいでした。
しかしこれは、おそらく、あの竹一も意識しなかったほどの、おそろしい悪魔の予言のようなものだったという事を、自分は後年に到って思い知りました。惚れると言い、惚れられると言い、その言葉はひどく下品で、ふざけて、いかにも、やにさがったものの感じで、どんなに所謂「厳粛」の場であっても、そこへこの言葉が一言でもひょいと顔を出すと、みるみる憂鬱の伽藍がらんが崩壊し、ただのっぺらぼうになってしまうような心地がするものですけれども、惚れられるつらさ、などという俗語でなく、愛せられる不安、とでもいう文学語を用いると、あながち憂鬱の伽藍をぶちこわす事にはならないようですから、奇妙なものだと思います。
竹一が、自分に耳だれの膿の仕末をしてもらって、お前は惚れられるという馬鹿なお世辞を言い、自分はその時、ただ顔を赤らめて笑って、何も答えませんでしたけれども、しかし、実は、幽かすかに思い当るところもあったのでした。でも、「惚れられる」というような野卑な言葉に依って生じるやにさがった雰囲気ふんいきに対して、そう言われると、思い当るところもある、などと書くのは、ほとんど落語の若旦那のせりふにさえならぬくらい、おろかしい感懐を示すようなもので、まさか、自分は、そんなふざけた、やにさがった気持で、「思い当るところもあった」わけでは無いのです。
自分には、人間の女性のほうが、男性よりもさらに数倍難解でした。自分の家族は、女性のほうが男性よりも数が多く、また親戚にも、女の子がたくさんあり、またれいの「犯罪」の女中などもいまして、自分は幼い時から、女とばかり遊んで育ったといっても過言ではないと思っていますが、それは、また、しかし、実に、薄氷を踏む思いで、その女のひとたちと附合って来たのです。ほとんど、まるで見当が、つかないのです。五里霧中で、そうして時たま、虎の尾を踏む失敗をして、ひどい痛手を負い、それがまた、男性から受ける笞むちとちがって、内出血みたいに極度に不快に内攻して、なかなか治癒ちゆし難い傷でした。
女は引き寄せて、つっ放す、或いはまた、女は、人のいるところでは自分をさげすみ、邪慳じゃけんにし、誰もいなくなると、ひしと抱きしめる、女は死んだように深く眠る、女は眠るために生きているのではないかしら、その他、女に就いてのさまざまの観察を、すでに自分は、幼年時代から得ていたのですが、同じ人類のようでありながら、男とはまた、全く異った生きもののような感じで、そうしてまた、この不可解で油断のならぬ生きものは、奇妙に自分をかまうのでした。「惚れられる」なんていう言葉も、また「好かれる」という言葉も、自分の場合にはちっとも、ふさわしくなく、「かまわれる」とでも言ったほうが、まだしも実状の説明に適しているかも知れません。
女は、男よりも更に、道化には、くつろぐようでした。自分がお道化を演じ、男はさすがにいつまでもゲラゲラ笑ってもいませんし、それに自分も男のひとに対し、調子に乗ってあまりお道化を演じすぎると失敗するという事を知っていましたので、必ず適当のところで切り上げるように心掛けていましたが、女は適度という事を知らず、いつまでもいつまでも、自分にお道化を要求し、自分はその限りないアンコールに応じて、へとへとになるのでした。実に、よく笑うのです。いったいに、女は、男よりも快楽をよけいに頬張る事が出来るようです。
自分が中学時代に世話になったその家の姉娘も、妹娘も、ひまさえあれば、二階の自分の部屋にやって来て、自分はその度毎に飛び上らんばかりにぎょっとして、そうして、ひたすらおびえ、
「御勉強?」
「いいえ」
と微笑して本を閉じ、
或る晩、妹娘のセッちゃんが、アネサと一緒に自分の部屋へ遊びに来て、さんざん自分にお道化を演じさせた揚句の果に、そんな事を言い出しました。
「なぜ?」
いつでも、こんな乱暴な命令口調で言うのでした。道化師は、素直にアネサの眼鏡をかけました。とたんに、二人の娘は、笑いころげました。
当時、ハロルド・ロイドとかいう外国の映画の喜劇役者が、日本で人気がありました。
自分は立って片手を挙げ、
「諸君」
と言い、
と一場の挨拶を試み、さらに大笑いさせて、それから、ロイドの映画がそのまちの劇場に来るたび毎に見に行って、ひそかに彼の表情などを研究しました。
また、或る秋の夜、自分が寝ながら本を読んでいると、アネサが鳥のように素早く部屋へはいって来て、いきなり自分の掛蒲団の上に倒れて泣き、
「葉ちゃんが、あたしを助けてくれるのだわね。そうだわね。こんな家、一緒に出てしまったほうがいいのだわ。助けてね。助けて」
などと、はげしい事を口走っては、また泣くのでした。けれども、自分には、女から、こんな態度を見せつけられるのは、これが最初ではありませんでしたので、アネサの過激な言葉にも、さして驚かず、かえってその陳腐、無内容に興が覚めた心地で、そっと蒲団から脱け出し、机の上の柿をむいて、その一きれをアネサに手渡してやりました。すると、アネサは、しゃくり上げながらその柿を食べ、
「何か面白い本が無い? 貸してよ」
と言いました。
自分は漱石の「吾輩は猫である」という本を、本棚から選んであげました。
「ごちそうさま」
アネサは、恥ずかしそうに笑って部屋から出て行きましたが、このアネサに限らず、いったい女は、どんな気持で生きているのかを考える事は、自分にとって、蚯蚓みみずの思いをさぐるよりも、ややこしく、わずらわしく、薄気味の悪いものに感ぜられていました。ただ、自分は、女があんなに急に泣き出したりした場合、何か甘いものを手渡してやると、それを食べて機嫌を直すという事だけは、幼い時から、自分の経験に依って知っていました。
また、妹娘のセッちゃんは、その友だちまで自分の部屋に連れて来て、自分がれいに依って公平に皆を笑わせ、友だちが帰ると、セッちゃんは、必ずその友だちの悪口を言うのでした。あのひとは不良少女だから、気をつけるように、ときまって言うのでした。そんなら、わざわざ連れて来なければ、よいのに、おかげで自分の部屋の来客の、ほとんど全部が女、という事になってしまいました。
しかし、それは、竹一のお世辞の「惚れられる」事の実現では未だ決して無かったのでした。つまり、自分は、日本の東北のハロルド・ロイドに過ぎなかったのです。竹一の無智なお世辞が、いまわしい予言として、なまなまと生きて来て、不吉な形貌を呈するようになったのは、更にそれから、数年経った後の事でありました。
竹一は、また、自分にもう一つ、重大な贈り物をしていました。
「お化けの絵だよ」
いつか竹一が、自分の二階へ遊びに来た時、ご持参の、一枚の原色版の口絵を得意そうに自分に見せて、そう説明しました。
おや? と思いました。その瞬間、自分の落ち行く道が決定せられたように、後年に到って、そんな気がしてなりません。自分は、知っていました。それは、ゴッホの例のPermalink |記事への反応(1) | 20:25
一葉は、その男の、幼年時代、とでも言うべきであろうか、十歳前後かと推定される頃の写真であって、その子供が大勢の女のひとに取りかこまれ、(それは、その子供の姉たち、妹たち、それから、従姉妹いとこたちかと想像される)庭園の池のほとりに、荒い縞の袴はかまをはいて立ち、首を三十度ほど左に傾け、醜く笑っている写真である。醜く? けれども、鈍い人たち(つまり、美醜などに関心を持たぬ人たち)は、面白くも何とも無いような顔をして、
といい加減なお世辞を言っても、まんざら空からお世辞に聞えないくらいの、謂いわば通俗の「可愛らしさ」みたいな影もその子供の笑顔に無いわけではないのだが、しかし、いささかでも、美醜に就いての訓練を経て来たひとなら、ひとめ見てすぐ、
「なんて、いやな子供だ」
と頗すこぶる不快そうに呟つぶやき、毛虫でも払いのける時のような手つきで、その写真をほうり投げるかも知れない。
まったく、その子供の笑顔は、よく見れば見るほど、何とも知れず、イヤな薄気味悪いものが感ぜられて来る。どだい、それは、笑顔でない。この子は、少しも笑ってはいないのだ。その証拠には、この子は、両方のこぶしを固く握って立っている。人間は、こぶしを固く握りながら笑えるものでは無いのである。猿だ。猿の笑顔だ。ただ、顔に醜い皺しわを寄せているだけなのである。「皺くちゃ坊ちゃん」とでも言いたくなるくらいの、まことに奇妙な、そうして、どこかけがらわしく、へんにひとをムカムカさせる表情の写真であった。私はこれまで、こんな不思議な表情の子供を見た事が、いちども無かった。
第二葉の写真の顔は、これはまた、びっくりするくらいひどく変貌へんぼうしていた。学生の姿である。高等学校時代の写真か、大学時代の写真か、はっきりしないけれども、とにかく、おそろしく美貌の学生である。しかし、これもまた、不思議にも、生きている人間の感じはしなかった。学生服を着て、胸のポケットから白いハンケチを覗のぞかせ、籐椅子とういすに腰かけて足を組み、そうして、やはり、笑っている。こんどの笑顔は、皺くちゃの猿の笑いでなく、かなり巧みな微笑になってはいるが、しかし、人間の笑いと、どこやら違う。血の重さ、とでも言おうか、生命いのちの渋さ、とでも言おうか、そのような充実感は少しも無く、それこそ、鳥のようではなく、羽毛のように軽く、ただ白紙一枚、そうして、笑っている。つまり、一から十まで造り物の感じなのである。キザと言っても足りない。軽薄と言っても足りない。ニヤケと言っても足りない。おしゃれと言っても、もちろん足りない。しかも、よく見ていると、やはりこの美貌の学生にも、どこか怪談じみた気味悪いものが感ぜられて来るのである。私はこれまで、こんな不思議な美貌の青年を見た事が、いちども無かった。
もう一葉の写真は、最も奇怪なものである。まるでもう、としの頃がわからない。頭はいくぶん白髪のようである。それが、ひどく汚い部屋(部屋の壁が三箇所ほど崩れ落ちているのが、その写真にハッキリ写っている)の片隅で、小さい火鉢に両手をかざし、こんどは笑っていない。どんな表情も無い。謂わば、坐って火鉢に両手をかざしながら、自然に死んでいるような、まことにいまわしい、不吉なにおいのする写真であった。奇怪なのは、それだけでない。その写真には、わりに顔が大きく写っていたので、私は、つくづくその顔の構造を調べる事が出来たのであるが、額は平凡、額の皺も平凡、眉も平凡、眼も平凡、鼻も口も顎あごも、ああ、この顔には表情が無いばかりか、印象さえ無い。特徴が無いのだ。たとえば、私がこの写真を見て、眼をつぶる。既に私はこの顔を忘れている。部屋の壁や、小さい火鉢は思い出す事が出来るけれども、その部屋の主人公の顔の印象は、すっと霧消して、どうしても、何としても思い出せない。画にならない顔である。漫画にも何もならない顔である。眼をひらく。あ、こんな顔だったのか、思い出した、というようなよろこびさえ無い。極端な言い方をすれば、眼をひらいてその写真を再び見ても、思い出せない。そうして、ただもう不愉快、イライラして、つい眼をそむけたくなる。
所謂いわゆる「死相」というものにだって、もっと何か表情なり印象なりがあるものだろうに、人間のからだに駄馬の首でもくっつけたなら、こんな感じのものになるであろうか、とにかく、どこという事なく、見る者をして、ぞっとさせ、いやな気持にさせるのだ。私はこれまで、こんな不思議な男の顔を見た事が、やはり、いちども無かった。
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第一の手記
恥の多い生涯を送って来ました。
自分には、人間の生活というものが、見当つかないのです。自分は東北の田舎に生れましたので、汽車をはじめて見たのは、よほど大きくなってからでした。自分は停車場のブリッジを、上って、降りて、そうしてそれが線路をまたぎ越えるために造られたものだという事には全然気づかず、ただそれは停車場の構内を外国の遊戯場みたいに、複雑に楽しく、ハイカラにするためにのみ、設備せられてあるものだとばかり思っていました。しかも、かなり永い間そう思っていたのです。ブリッジの上ったり降りたりは、自分にはむしろ、ずいぶん垢抜あかぬけのした遊戯で、それは鉄道のサーヴィスの中でも、最も気のきいたサーヴィスの一つだと思っていたのですが、のちにそれはただ旅客が線路をまたぎ越えるための頗る実利的な階段に過ぎないのを発見して、にわかに興が覚めました。
また、自分は子供の頃、絵本で地下鉄道というものを見て、これもやはり、実利的な必要から案出せられたものではなく、地上の車に乗るよりは、地下の車に乗ったほうが風がわりで面白い遊びだから、とばかり思っていました。
自分は子供の頃から病弱で、よく寝込みましたが、寝ながら、敷布、枕のカヴァ、掛蒲団のカヴァを、つくづく、つまらない装飾だと思い、それが案外に実用品だった事を、二十歳ちかくになってわかって、人間のつましさに暗然とし、悲しい思いをしました。
また、自分は、空腹という事を知りませんでした。いや、それは、自分が衣食住に困らない家に育ったという意味ではなく、そんな馬鹿な意味ではなく、自分には「空腹」という感覚はどんなものだか、さっぱりわからなかったのです。へんな言いかたですが、おなかが空いていても、自分でそれに気がつかないのです。小学校、中学校、自分が学校から帰って来ると、周囲の人たちが、それ、おなかが空いたろう、自分たちにも覚えがある、学校から帰って来た時の空腹は全くひどいからな、甘納豆はどう? カステラも、パンもあるよ、などと言って騒ぎますので、自分は持ち前のおべっか精神を発揮して、おなかが空いた、と呟いて、甘納豆を十粒ばかり口にほうり込むのですが、空腹感とは、どんなものだか、ちっともわかっていやしなかったのです。
自分だって、それは勿論もちろん、大いにものを食べますが、しかし、空腹感から、ものを食べた記憶は、ほとんどありません。めずらしいと思われたものを食べます。豪華と思われたものを食べます。また、よそへ行って出されたものも、無理をしてまで、たいてい食べます。そうして、子供の頃の自分にとって、最も苦痛な時刻は、実に、自分の家の食事の時間でした。
自分の田舎の家では、十人くらいの家族全部、めいめいのお膳ぜんを二列に向い合せに並べて、末っ子の自分は、もちろん一ばん下の座でしたが、その食事の部屋は薄暗く、昼ごはんの時など、十幾人の家族が、ただ黙々としてめしを食っている有様には、自分はいつも肌寒い思いをしました。それに田舎の昔気質かたぎの家でしたので、おかずも、たいていきまっていて、めずらしいもの、豪華なもの、そんなものは望むべくもなかったので、いよいよ自分は食事の時刻を恐怖しました。自分はその薄暗い部屋の末席に、寒さにがたがた震える思いで口にごはんを少量ずつ運び、押し込み、人間は、どうして一日に三度々々ごはんを食べるのだろう、実にみな厳粛な顔をして食べている、これも一種の儀式のようなもので、家族が日に三度々々、時刻をきめて薄暗い一部屋に集り、お膳を順序正しく並べ、食べたくなくても無言でごはんを噛かみながら、うつむき、家中にうごめいている霊たちに祈るためのものかも知れない、とさえ考えた事があるくらいでした。
めしを食べなければ死ぬ、という言葉は、自分の耳には、ただイヤなおどかしとしか聞えませんでした。その迷信は、(いまでも自分には、何だか迷信のように思われてならないのですが)しかし、いつも自分に不安と恐怖を与えました。人間は、めしを食べなければ死ぬから、そのために働いて、めしを食べなければならぬ、という言葉ほど自分にとって難解で晦渋かいじゅうで、そうして脅迫めいた響きを感じさせる言葉は、無かったのです。
つまり自分には、人間の営みというものが未いまだに何もわかっていない、という事になりそうです。自分の幸福の観念と、世のすべての人たちの幸福の観念とが、まるで食いちがっているような不安、自分はその不安のために夜々、転輾てんてんし、呻吟しんぎんし、発狂しかけた事さえあります。自分は、いったい幸福なのでしょうか。自分は小さい時から、実にしばしば、仕合せ者だと人に言われて来ましたが、自分ではいつも地獄の思いで、かえって、自分を仕合せ者だと言ったひとたちのほうが、比較にも何もならぬくらいずっとずっと安楽なように自分には見えるのです。
自分には、禍わざわいのかたまりが十個あって、その中の一個でも、隣人が脊負せおったら、その一個だけでも充分に隣人の生命取りになるのではあるまいかと、思った事さえありました。
つまり、わからないのです。隣人の苦しみの性質、程度が、まるで見当つかないのです。プラクテカルな苦しみ、ただ、めしを食えたらそれで解決できる苦しみ、しかし、それこそ最も強い痛苦で、自分の例の十個の禍いなど、吹っ飛んでしまう程の、凄惨せいさんな阿鼻地獄なのかも知れない、それは、わからない、しかし、それにしては、よく自殺もせず、発狂もせず、政党を論じ、絶望せず、屈せず生活のたたかいを続けて行ける、苦しくないんじゃないか? エゴイストになりきって、しかもそれを当然の事と確信し、いちども自分を疑った事が無いんじゃないか? それなら、楽だ、しかし、人間というものは、皆そんなもので、またそれで満点なのではないかしら、わからない、……夜はぐっすり眠り、朝は爽快そうかいなのかしら、どんな夢を見ているのだろう、道を歩きながら何を考えているのだろう、金? まさか、それだけでも無いだろう、人間は、めしを食うために生きているのだ、という説は聞いた事があるような気がするけれども、金のために生きている、という言葉は、耳にした事が無い、いや、しかし、ことに依ると、……いや、それもわからない、……考えれば考えるほど、自分には、わからなくなり、自分ひとり全く変っているような、不安と恐怖に襲われるばかりなのです。自分は隣人と、ほとんど会話が出来ません。何を、どう言ったらいいのか、わからないのです。
そこで考え出したのは、道化でした。
それは、自分の、人間に対する最後の求愛でした。自分は、人間を極度に恐れていながら、それでいて、人間を、どうしても思い切れなかったらしいのです。そうして自分は、この道化の一線でわずかに人間につながる事が出来たのでした。おもてでは、絶えず笑顔をつくりながらも、内心は必死の、それこそ千番に一番の兼ね合いとでもいうべき危機一髪の、油汗流してのサーヴィスでした。
自分は子供の頃から、自分の家族の者たちに対してさえ、彼等がどんなに苦しく、またどんな事を考えて生きているのか、まるでちっとも見当つかず、ただおそろしく、その気まずさに堪える事が出来ず、既に道化の上手になっていました。つまり、自分は、いつのまにやら、一言も本当の事を言わない子になっていたのです。
その頃の、家族たちと一緒にうつした写真などを見ると、他の者たちは皆まじめな顔をしているのに、自分ひとり、必ず奇妙に顔をゆがめて笑っているのです。これもまた、自分の幼く悲しい道化の一種でした。
また自分は、肉親たちに何か言われて、口応くちごたえした事はいちども有りませんでした。そのわずかなおこごとは、自分には霹靂へきれきの如く強く感ぜられ、狂うみたいになり、口応えどころか、そのおこごとこそ、謂わば万世一系の人間の「真理」とかいうものに違いない、自分にはその真理を行う力が無いのだから、もはや人間と一緒に住めないのではないかしら、と思い込んでしまうのでした。だから自分には、言い争いも自己弁解も出来ないのでした。人から悪く言われると、いかにも、もっとも、自分がひどい思い違いをしているような気がして来て、いつもその攻撃を黙して受け、内心、狂うほどの恐怖を感じました。
それは誰でも、人から非難せられたり、怒られたりしていい気持がするものでは無いかも知れませんが、自分は怒っている人間の顔に、獅子ししよりも鰐わによりも竜よりも、もっとおそろしい動物の本性を見るのです。ふだんは、その本性をかくしているようですけれども、何かの機会に、たとえば、牛が草原でおっとりした形で寝ていて、突如、尻尾しっぽでピシッと腹の虻あぶを打ち殺すみたいに、不意に人間のおそろしい正体を、怒りに依って暴露する様子を見て、自分はいつも髪の逆立つほどの戦慄せんりつを覚え、この本性もまた人間の生きて行く資格の一つなのかも知れないと思えば、ほとんど自分に絶望を感じるのでした。
人間に対して、いつも恐怖に震いおののき、また、人間としての自分の言動に、みじんも自信を持てず、そうして自分ひとりの懊悩おうのうは胸の中の小箱に秘め、その憂鬱、ナアヴァスネスを、ひたかくしに隠して、ひたすら無邪気の楽天性を装い、自分はお道化たお変人として、次第に完成されて行きました。
何でもいいから、笑わせておればいいのだ、そうすると、人間たちは、自分が彼等の所謂「生活」の外にいても、あまりそれを気にしないのではないかしら、とにかく、彼等人間たちの目障りになってはいけない、自分は無だ、風だ、空そらだ、というような思いばかりが募り、自分はお道化に依って家族を笑わせ、また、家族よりも、もっと不可解でおそろしい下男や下女にまで、必死のお道化のサーヴィスをしたのです。
自分は夏に、浴衣の下に赤い毛糸のセエターを着て廊下を歩き、家中の者を笑わせました。めったに笑わない長兄も、それを見て噴き出し、
「それあ、葉ちゃん、似合わない」
と、可愛くてたまらないような口調で言いました。なに、自分だって、真夏に毛糸のセエターを着て歩くほど、いくら何でも、そんな、暑さ寒さを知らぬお変人ではありません。姉の脚絆レギンスを両腕にはめて、浴衣の袖口から覗かせ、以もってセエターを着ているように見せかけていたのです。
自分の父は、東京に用事の多いひとでしたので、上野の桜木町に別荘を持っていて、月の大半は東京のその別荘で暮していました。そうして帰る時には家族の者たち、また親戚しんせきの者たちにまで、実におびただしくお土産を買って来るのが、まあ、父の趣味みたいなものでした。
いつかの父の上京の前夜、父は子供たちを客間に集め、こんど帰る時には、どんなお土産がいいか、一人々々に笑いながら尋ね、それに対する子供たちの答をいちいち手帖てちょうに書きとめるのでした。父が、こんなに子供たちと親しくするのは、めずらしい事でした。
「葉蔵は?」
何が欲しいと聞かれると、とたんに、何も欲しくなくなるのでした。どうでもいい、どうせ自分を楽しくさせてくれるものなんか無いんだという思いが、ちらと動くのです。と、同時に、人から与えられるものを、どんなに自分の好みに合わなくても、それを拒む事も出来ませんでした。イヤな事を、イヤと言えず、また、好きな事も、おずおずと盗むように、極めてにがく味あじわい、そうして言い知れぬ恐怖感にもだえるのでした。つまり、自分には、二者選一の力さえ無かったのです。これが、後年に到り、いよいよ自分の所謂「恥の多い生涯」の、重大な原因ともなる性癖の一つだったように思われます。
自分が黙って、もじもじしているので、父はちょっと不機嫌な顔になり、
「やはり、本か。浅草の仲店にお正月の獅子舞いのお獅子、子供がかぶって遊ぶのには手頃な大きさのが売っていたけど、欲しくないか」
欲しくないか、と言われると、もうダメなんです。お道化た返事も何も出来やしないんです。お道化役者は、完全に落第でした。
「本が、いいでしょう」
長兄は、まじめな顔をして言いました。
「そうか」
父は、興覚め顔に手帖に書きとめもせず、パチと手帖を閉じました。
何という失敗、自分は父を怒らせた、父の復讐ふくしゅうは、きっと、おそるべきものに違いない、いまのうちに何とかして取りかえしのつかぬものか、とその夜、蒲団の中でがたがた震えながら考え、そっと起きて客間に行き、父が先刻、手帖をしまい込んだ筈の机の引き出しをあけて、手帖を取り上げ、パラパラめくって、お土産の注文記入の個所を見つけ、手帖の鉛筆をなめて、シシマイ、と書いて寝ました。自分はその獅子舞いのお獅子を、ちっとも欲しくは無かったのです。かえって、本のほうがいいくらいでした。けれども、自分は、父がそのお獅子を自分に買って与えたいのだという事に気がつき、父のその意向に迎合して、父の機嫌を直したいばかりに、深夜、客間に忍び込むという冒険を、敢えておかしたのでした。
そうして、この自分の非常の手段は、果して思いどおりの大成功を以て報いられました。やがて、父は東京から帰って来て、母に大声で言っているのを、自分は子供部屋で聞いていました。
「仲店のおもちゃ屋で、この手帖を開いてみたら、これ、ここに、シシマイ、と書いてある。これは、私の字ではない。はてな? と首をかしげて、思い当りました。これは、葉蔵のいたずらですよ。あいつは、私が聞いた時には、にやにやして黙っていたが、あとで、どうしてもお獅子が欲しくてたまらなくなったんだね。何せ、どうも、あれは、変った坊主ですからね。知らん振りして、ちゃんと書いている。そんなに欲しかったのなら、そう言えばよいのに。私は、おもちゃ屋の店先で笑いましたよ。葉蔵を早くここへ呼びなさい」
また一方、自分は、下男や下女たちを洋室に集めて、下男のひとりに滅茶苦茶めちゃくちゃにピアノのキイをたたかせ、(田舎ではありましたが、その家には、たいていのものが、そろっていました)自分はその出鱈目でたらめの曲に合せて、インデヤンの踊りを踊って見せて、皆を大笑いさせました。次兄は、フラッシュを焚たいて、自分のインデヤン踊りを撮影して、その写真が出来たのを見ると、自分の腰布(それは更紗さらさの風呂敷でした)の合せ目から、小さいおチンポが見えていたので、これがまた家中の大笑いでした。自分にとって、これまた意外の成功というべきものだったかも知れません。
自分は毎月、新刊の少年雑誌を十冊以上も、とっていて、またその他ほかにも、さまざまの本を東京から取り寄せて黙って読んでいましたので、メチャラクチャラ博士だの、また、ナンジャモンジャ博士などとは、たいへんな馴染なじみで、また、怪談、講談、落語、江戸小咄こばなしなどの類にも、かなり通じていましたから、剽軽ひょうきんな事をまじめな顔をして言って、家の者たちを笑わせるのには事を欠きませんでした。
自分は、そこでは、尊敬されかけていたのです。尊敬されるという観念もまた、甚はなはだ自分を、おびえさせました。ほとんど完全に近く人をだまして、そうして、或るひとりの全知全能の者に見破られ、木っ葉みじんにやられて、死ぬる以上の赤恥をかかせられる、それが、「尊敬される」という状態の自分の定義でありました。人間をだまして、「尊敬され」ても、誰かひとりが知っている、そうして、人間たちも、やがて、そのひとりから教えられて、だまされた事に気づいた時、その時の人間たちの怒り、復讐は、いったい、まあ、どんなでしょうか。想像してさえ、身の毛がよだつ心地がするのです。
自分は、金持ちの家に生れたという事よりも、俗にいう「できる」事に依って、学校中の尊敬を得そうになりました。自分は、子供の頃から病弱で、よく一つき二つき、また一学年ちかくも寝込んで学校を休んだ事さえあったのですが、それでも、病み上りのからだで人力車に乗って学校へ行き、学年末の試験を受けてみると、クラスの誰よりも所謂「できて」いるようでした。Permalink |記事への反応(1) | 20:22
そこで見た大人の人間関係が大変いびつであったことを思い出した。
まず、そのクラブの大人のヒエラルキーは大人の貢献度で決まる。
毎週クラブに顔を出し、親が監督やコーチになったり、親でない監督やコーチの世話をしたり、子供たちを試合会場に車で送迎できるとヒエラルキーが高くなる。
また、上の兄弟がスポーツクラブに所属していた過去があれば、その実績値も加算される。
ヒエラルキーが高い親の子供は優遇され、そうでない子は冷遇される。
そして、親のヒエラルキーが高いことによって厚遇されているということが、また親のヒエラルキーに反映される。
親がクラブ活動に貢献しているから、子供がレギュラーになり、子供がレギュラーだから親のヒエラルキーも上がる、といった具合に。
子供の能力もある程度は評価されるが、良いポジションや良い打順は高いヒエラルキーの子供だった。
後に親から聞かされたが、ぼくは能力順ならレギュラーになれたが、親のヒエラルキーが低いので先輩にレギュラーを奪われていたらしい。
ここまでが子供時代に見たことで、大人になって思い出してみると、ますますいびつさが増す。
まず、子供時代に見た、保護者ヒエラルキーは必ずしも親の年収や社会的地位とは比例しないということだ。
むしろ、土日祝日に他にやることもなく、子供の球遊びを熱心に追いかけ、小さな社会での地位競争に明け暮れる人が、自身の属す社会集団でどういう立場であるかは容易に想像できる。
自身の上がり目のない人生に早々見切りをつけ、子供の人生に自分の人生も託して、次世代の競争に賭けていたのだ。
今にして思えば、なんと退屈な人生で、子供に対して無責任な態度なのだろうと思う。
でも、地元の行く末を後追いできる今ならば、彼らが自分の人生に見切りをつけたのは間違いではなかったとは思う。
ただし、子供もスポーツで成功したという話は聞かないので、賭けに勝ったとも言えないのだが。
とはいえ、そんな子供時代やスポーツクラブを呪っているわけではない。
あんな無為で小さな社会で、ぼくのために人生を浪費してくれなくて良かった。
親のヒエラルキーの壁を超えるほどの天才的な活躍ができれば、ぼくも勘違いしてスポーツの道にのめり込めたかもしれないが、そんなことはなかった。
早々見切りをつけてスポーツで上を目指すことを諦めたことは、後の人生を助けてくれた。
そして、歪な親社会にフリーライドできたこともまた事実なのだ。
熱心な親たちのお陰でぼくたちの練習や遠征が成り立っていたし、低ヒエラルキーの子供でも、それなりに父兄は面倒を見てくれた。
彼らの歪な関係性のおかげで、ぼくは楽しく皆と遊べた。
ぼくが親になっても、彼らのようにクラブヒエラルキーを追い求めるのは無理だろう。
今でも全肯定はしないけど、それでも当時はあれで良かったのだと思う。
大人ってあんまり楽しそうじゃないと思っていたけど、子供の頃に想像していたよりは楽しい大人になれているし、ぼくにとっては良い経験だった。
海外でも同じだな
フロイトって知ってる?
精神分析の祖として有名だよね
じゃあブロイアーって知ってる?
フロイトの親友で、同じように精神分析療法の確立に貢献したんだけど…
知らんよね
この二人の知名度の差には、オーストリアの上流階級に蔓延っていた
「娘を父兄たちでまわす」をどう扱うかで変わったと言っていい
増田が言うように、オーストリアの上流階級たちは女を、正確に言うと娘や若いメイドを性的通貨として流通させていた
ヒステリーという言葉は現在では医学用語から降ろされているが、
当時ヨーロッパの上流階級では非常にありふれた「女性特有の」問題だった
コルセットや男女格差のありすぎる教育(つまり女はバカに育てるのがスタンダード)、
女性たちは「淑女たるもの、ちょっとしたことでもすぐに気絶すべし」と叩き込まれて育っている、
それ以外にも上流階級の女性がすぐ「ヒステリー」を起こして気絶したりするには、理由があった
これが彼らの「ふつう」であったから、彼らの誰もその環境を異常として訴えなかった
しかし、人格が宿る一人の人間でありながらモノとして扱い続けられた彼女らの心は悲鳴をあげていた
本人も自覚しないあるいは抑圧し続けた心の悲鳴が身体に症状として現れる、それを心身症という
フロイトとブロイアーはヒステリーの研究をするうち、この「上流階級の闇」にたどりついた
これは恐るべき事態であり、同時に彼らを窮地に追い込んだ
下層階級の、娼婦に堕したような女が「幼いころから性的虐待を受けていた」のは問題ない
しかし彼らが性的虐待を告発しようとすれば、それは「国の権力者たちに戦いを挑む」ことを意味した
二人が受け持つ患者の態度の違いもあり、彼らの選択肢は対照的だった
フロイトは別の道を選んだ、性的虐待として取り上げるのではなく、
さらに「心のありよう、精神の状態がいかに身体にまで影響を及ぼすか」にまで昇華させ、精神医学の祖となった
(余談だが、精神科と心療内科の違いはこの時点で決まったともいえる。)
ちなみにフロイトもブロイアーもオーストリアで医者を勤めていたが
こういった話はオーストリアに限らない
・入社数年の一般職社員でも冬ボーナスが50~60万円(大卒初任給が12~13万くらいの時代)
・社長が全社員の顔と名前やプロフィールを把握しており当然全員と会話もしている
・「先輩がガミガミうるさい」、「上司の顔が気に入らない」、といった幼稚な理由で新入社員が「うるせえ!1回言えばわかんだよ!」などと無礼な言葉遣いで激怒したり、あるいは嫌いな先輩や上司に対して完全な無視を決め込んだり、幼稚な反乱を起こしても洒落で済み(周りも「あいつら仲悪いんだよなあ(笑)」くらいにしか受け止めない)、特に遺恨も残らず、処分も食らわない
・営業職は9時に社屋を飛び出し、同期や先輩と近隣の喫茶店に合流し、昼過ぎまでくっちゃべっだり、ゴルフの打ちっぱなしに繰り出したりするのが普通で、万が一それがバレても一発怒られて水に流して貰えた
・入社1年目の若手たちが「もう仕事うんざりだわ。今日は出社拒否してみんなで海行こうぜ!」とサボっても、翌日めちゃくちゃな大目玉を食らうだけで処分されたり周りからの扱いが悪いほうへ変わることは無い。
裏では上司も先輩もむしろ「会社サボって海なんて(笑)若い奴らは元気だなあ」くらいに微笑ましく見守る気持ちでいる
・仕事やキャリアについてどうも重大に思い悩んでる20代30代の社員がいたら「お前、日本から出て遊んでこい!海外子会社出向ってことにするから、1年間思う存分観光するとか遊ぶなりして好きなように過ごして帰ってこい!」などと社長直々に放蕩遊学旅行を打診してくる
今の若手なんかは
「外回り中にパチンコ行ったのがバレた、というだけで懲戒処分を下され、周りからまともに相手してもらえなくなり、会社人生が終了する」
といった感じの厳しさのなかでしか社会人生活を味わっていない。
ディストピアもいいところ、クソみたいな息抜きしかありえない、といった環境でも「これが当たり前でしょ?(おじさん何言ってんの?)」とでも言わんばかりに、息が詰まる環境には別に文句言わずに黙々と働く仕事マシーンのように思えて憐れ、痛ましさすら感じる。
Permalink |記事への反応(23) | 12:43
ほとんど全ての点で男のほうが暴力的という生物的な違いを無視しすぎだよな
「男女という人類最大のグループ間で、『我々のほうが上位の存在だ(すなわちお前らは劣等な存在なので我々の支配を受けるべきだ)』という競争の一環」
にしか見えない
男のほうが攻撃性が高い以上、
女に律しろいう前にお前らが「男の攻撃性の高さは人類全体にとって極めて有害である」を自覚すべきだ
女に攻撃性がないとは言ってないぞ?
たいていの男、どころか攻撃性が高い男よりも攻撃的な女というのもいる
性別ごとの組み合わせを見ると男が男性を殺すケースが最も多い。
では女が加害者男が被害者になるケースで今のところ報告されている動機で最も多いのは
「被害男性からの日常的な暴力に晒された女がとうとう反撃した結果、男を殺してしまった」という報告がある
男の攻撃性の高さが女の反撃を誘発している例はその逆よりはるかに多いはずだ
ヒステリーという言葉は子宮を語源に持ち、当時から「女の怠惰なわがまま病」と認識されてきた
しかしこれの原因は、女性にのみ加えられた抑圧が心身症や離人症となって現れるというものである
次代はビクトリア朝、家具の足すら性的過ぎるという理由で隠された時代、女性に加えられていた抑圧は現代人の想像を絶する
そして”ヒステリー”を起こす女性は幼少期から定期的な性的虐待を受けているがそれを告発することが許されなかった
彼女らはただ微笑みながら父兄に従順であることが求められた(夜は父兄らの友人に性的おもちゃとして貸し出されていたとしてもだ)
さらにコルセットという、骨格が歪むほどの装身具が身だしなみ、淑女はすぐ失神するものだという風潮
なぜなら彼女らはウィーンの上流階級の娘であり、その父兄を告発すると言うことはすなわち国中の権力者を敵に回すことを意味している。
彼は逃げた。なおフロイトのほうは直接的告発ではなく、「心を抑圧すると身体に症状が出る」と昇華して発表し、精神医学の祖となった。)
詳しくは「心的外傷と回復」あたりを読むと良い。
現代人がこれらの事例から学ぶのであれば、必要以上の攻撃は不適切だということ、
Aはお嬢様だった。両親で小さな会社を経営していて、自分もその後を引き継ぐんだそうだ。
そんなお嬢様なAは、小中一貫の、いわゆるお嬢様学校に通っていた。厳しい校則はなかったが、生徒間に学内カーストがあってそれにお付き合いするのが面倒だったとのこと。
中学生のある日、数人の女生徒がグループになって、(今でいう)パパ活をしていたことが大問題になった。朝に緊急で集会が開かれ、先生方から「父兄の皆様から、学校の教育指導に関して、お怒りのお電話をたくさん頂き〜」と、保護者からの電話が殺到したそうだ。
その結果、一部の保護者(超金持ち?)と学校との間で勝手に話が進み、緊急である検査が行われることになった。それが処女検査だと言う。
無論、学校中が阿鼻叫喚の地獄絵図。すでに複数の検査医が学校に到着しており、生徒の意志に関係なく、速やかに検査が始まった。
先発組から最悪の情報が入った。友達に支えられながら、泣きながら廊下を歩く者もいたという。
そんな先発組の様子を見て、中には、帰宅を試みる生徒もいたが、校門は警備員に監視され、さらには「ここで逃げるということは、あいつは処女ではない。体を売っている」というような流れが生徒間に生まれ始め、逃げるに逃げれない空気が生まれた。
Aにも順番が回ってきた。不幸にもAの担当医は男性(声しか聞こえない)で、産婦人科で使う分娩台のような台に寝かされて、死ぬほど恥ずかしかったそうだ。検査は数秒で終わったという。
さて、そうして検査が進むわけだが、なんとハシゴを勝手に持ち出して、警備員の監視を潜り抜けて脱出した猛者グループがいたらしい。
彼女らは速やかに保護者に連絡し、この件が発覚。保護者数十人から猛抗議を受け、途中で検査は終了。学校からは口外禁止の命がくだされた。
学校内では、Aを含め、この一件から、高校は絶対に普通の高校に通うと決めたものが相当多く、ある一般公立高校の女子がお嬢様ばかりというアニメみたいな事態が発生したそうだ。
そら(普通どんなに高飛車でもそれなりに美人なら相手見つかるに決まってるんだから)そう(既婚に比べて容姿が劣るのは当たり前)よ
つまり女は下方婚するべきでもフルタイムで働くべきでもないってこと?🤔
ワイは母ちゃん教でもあるので、その考え方は全面否定する感じじゃないですけどね
とはいえ、母ちゃん教
これはフェミニズム(社会平等)とは関係なく、単なる母ちゃん教の話なんですけど、母ちゃんがキリキリ働いてるとこ見たい?って言われたら見たくないですね
女が専業主婦が当然だった(あるいは標準モデルとされた)のは、上級国民を除いて昭和の一時期だけ
おっかあは、めかしこみもせず、朝から晩まで炊事洗濯農作業行商炭鉱と内外で働いて、当たり前のように三従(幼少時は父兄に、結婚したら夫に、夫の死後は子に従うこと)を課せられ、
場合によっちゃ姥捨られた
ようやく、どこのご家庭のおっかあのことも『お姫様』として『母上』としてを扱うことが出来る時代になった、
大切なおっかあを想っても極貧故に報えず涙した先人が報われた時代になったのに、なぜ、わざわざ逆戻りを?って思います
実際、欧米でも女は長時間労働してないですよね?(アジア圏はしている)
ちなみに子どもを最優先に出来る男女を増やすと、たぶんもっとパパママの高齢化は進むと思います(30歳前までにキャリアに影響がでない水準まで経験を積むほぼ無理)
ついでに労働参加率ももっと下がると思います人間は幸福になるために生きているのであって、資本家に仕え働くために生きているわけではないので・・・
お金がないので子どもを作るのを躊躇っているご家庭は、積極的に生活保護や各種公助を受ければいいと思います
男女厨ちゃんおよびフェミニストを自称するツイフェミを構うと碌なこと無いが賃金とか
おやつの時間があるとか、万引きしたポテチを違う味に交換してもらおうとした生徒がいるとか、沼津市民から抗議があって沼津北高校(ぬまっき)から誠恵高校に改名したとかいうアレ
アンサイクロペディア見ると「学校法人 誠恵学院理事長 小野裕弘」を名乗る人が削除依頼出してる
本物の理事長かどうかわからんが、こいつが他のサイトにも削除依頼を出しまくったのだろう
そして削除依頼を見ると
「おやつの時間あるの?」と聞いてこられるご父兄の方がおられます。
「おやつの時間」は本校では実施したことはなく、個人的に勝手に行っていた事実はあるようですが、その者達は30年以上前に解雇しました。
何かきっかけがあったわけではないが、ふと思い出してしまったので書く。
子どもがまだ幼稚園に通っていた頃、父の日あたりに父兄参観のようなものがあった。親子で一緒になにか紙工作みたいなものを作りましょうというやつだ。正直、知らない人がたくさんいる空間は苦手なのだが、子どもも楽しみにしていることだし、せっかくの機会だからと行くことにした。結論から言うと、僕はその催しを台無しにして、子どもを深く傷つけることになる。
当日、まずは親子で教室へ集まりクラスごとにかんたんな朝の会をする。基本的には園児一人につき保護者の参加は1名までとなっていたが元々広くもない教室はすでに満員御礼となっていた。
朝の会のあと、なぜか園児全員でグラウンドに集まり園長先生のお話を聞く時間があった。園児たちはグラウンドに並び、保護者達は端の方でそれを見守る。そう、そこまでは別になんの問題もなかった。問題はその直後に起きたのだ。
「それではお父さんお母さんと一緒にもう一度教室に戻りましょう」
司会の先生が告げた途端にワッと散開するおよそ200人の全園児とその保護者たち。右に左に移動する人、人、人。あっという間に僕は我が子を見失った。
ひとまず建物入り口の辺りに立って、自分の子どもを探す。周りには仲良く手を繋いで教室へ向かう園児と保護者たち。この時点では僕は、自分の子どもも僕を探しているに違いないと信じて疑わなかった。だってさっき先生が言ったばかりだ。保護者と"一緒に"教室へ戻りましょう、と。グラウンドからは人が減っていく。我が子はいない。まだ見つけられない。焦りが募る。どこか物陰で遊んでしまっているのか。もしかして何かを間違えて園の外に出てしまったのではないか。いやさすがにそんなことはないか。頭の中でぐるぐるといろいろなことを考える。
そして気がつくと、外にはもうほとんど人がいなくなっていた。先生たちが遠目にチラチラと見てくる視線が痛い。あの人大丈夫かな、不審者だったりしないかな、そんな声が聞こえてくるようだ。恥ずかしさと戸惑いと、とにかく頭の中はもうパニックだった。どうすれば良いのか、もうわからない。
念のためと思いながら園舎に入り、階段を上がった先の教室へ向かう。果たして我が子はそこにいた。廊下でひとり、鼻歌を歌いながら何事もなかったように遊んでいた。
「なんでひとりで行っちゃうの?」
極力怒りを抑えた(つもりの)声で子どもに問う。子どもは黙り込んで答えない。何が問題だったのかわかっていないような様子だった。この時点ですでに他の子たちは保護者とワイワイ楽しそうに作業を始めている。僕がいつまでも外で子どもを探している間に今日やることの説明などは終わってしまったらしい。当然、教室内にはもう我々が入り込めそうなスペースなど残っていない。
保護者と一緒に行ってって言われてたよね?なんで勝手にいなくなっちゃうの?パパ何もわからないんだよ?このあとどうするの?そんなようなことをまくし立てた気がする。子どもはうつむき、答えは返ってこない。周りのチラチラと様子を伺うような視線だけが突き刺さる。恥ずかしい、いたたまれない、どうして自分はこんなところでずっと晒し者のような扱いを受けているのか。このあとどうすれば良いのか。何もわからない。そして僕は「もう知らない」とだけ告げて子どもを置き去りにして家に帰ったのだ。最低だということは百も承知。子どもの泣き叫ぶ声が聞こえたがしかし、それに構えるような余裕はもうなかった。
その後のことは詳しくは知らない。幼稚園から徒歩3分の距離にある自宅に帰り、驚いた妻が慌てて幼稚園に向かって後を引き継いでくれたこと、泣きじゃくる子どもに先生がつきっきりでいてくれたということだけは聞いた気がする。
あれから6,7年が経った。今でもこうやって思い出して自己嫌悪で気分が沈む。妻が上手くフォローしてくれたこともあり、謝って仲直りをしたものの、おそらく子どもにもこの件は嫌な記憶の上位として残り続けることだろう。
あのとき一体どうするのがベストだったのか。おそらく「最初から行かない」ことが唯一の正解だったのだろうと思う。当時の僕には誰の助けもない中であの状況を上手く立ち回ることは到底できなかった。でも行かないという選択肢を選ぶこともまた少なからず子どもを傷つけることになっただろう。だから結局のところはわからない。
これを読んだ人には世の中にはこんなクソ親エピソードがあるってことをぜひ反面教師にしてほしい。僕みたいにこの先一生後悔し続けるような失敗を避けられるなら、それがきっと一番だから。
ワイくんの自認はフェミニストである。ワイくんの定義するフェミニストとは下記
1.the theory ofthe political, economic, and social equality ofthe sexes
https://www.merriam-webster.com/dictionary/feminism#kidsdictionary
なお、性別に進化の過程で有性生殖になった以上の意味は無い、役割ロール廃止しよう、ジェンダーレスでいこう派だが、
敢えて、フェミニストを自称しているのは、明日から男女の枠組みを無くしますが今の段階では不可能で、
フェミサイド、性被害、地方の長男の嫁、本家の嫁、ガラスの天井などの現実があるからだ
ついでにキャリアの中断は起きていても、キャリアの断絶は起きていないことが厚生労働省が発表している平均月収を見てわかる
(月収40万後半50万超えてるのに、キャリアの断絶とか言われましても・・・ね)
| 性別 | 年齢階級 | 高校:賃金(千円) | 専門学校:賃金(千円) | 高専・短大:賃金(千円) | 大学:賃金(千円) | 大学院:賃金(千円) |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 男 | ~19歳 | 188.2 | - | - | - | - |
| 女 | ~19歳 | 178.7 | - | - | - | - |
| 男 | 20~24歳 | 211.4 | 214.6 | 220.4 | 235.1 | 260.5 |
| 女 | 20~24歳 | 193.5 | 224.1 | 213.9 | 232.1 | 248.5 |
| 男 | 25~29歳 | 239.2 | 244.9 | 256.6 | 272.8 | 289.9 |
| 女 | 25~29歳 | 205.3 | 244.4 | 237.3 | 255.9 | 278.8 |
| 男 | 30~34歳 | 263.8 | 275 | 290 | 319.3 | 357.3 |
| 女 | 30~34歳 | 214.4 | 248.4 | 244.6 | 279.2 | 343.3 |
| 男 | 35~39歳 | 287.2 | 300 | 335.6 | 375.5 | 435.5 |
| 女 | 35~39歳 | 220.2 | 267.2 | 255.6 | 307.2 | 393.2 |
| 男 | 40~44歳 | 311.2 | 324.6 | 366.5 | 414.8 | 516.5 |
| 女 | 40~44歳 | 229.2 | 275.2 | 277.3 | 327.6 | 408.6 |
| 男 | 45~49歳 | 335.4 | 352.4 | 398.4 | 455.4 | 558.8 |
| 女 | 45~49歳 | 234.7 | 291.5 | 283.5 | 343.4 | 454.4 |
| 男 | 50~54歳 | 346.4 | 377.9 | 418 | 500 | 632.4 |
| 女 | 50~54歳 | 240.2 | 294.4 | 297.8 | 364.2 | 528.9 |
| 男 | 55~59歳 | 350.3 | 387.2 | 434.8 | 513.8 | 645 |
| 女 | 55~59歳 | 242.1 | 306.2 | 300.9 | 375.7 | 585 |
| 男 | 60~64歳 | 279.2 | 302.7 | 318.2 | 377.3 | 558.8 |
| 女 | 60~64歳 | 211.4 | 271.6 | 251 | 312.4 | 564.6 |
| 男 | 65~69歳 | 241.2 | 269.3 | 288.8 | 332.2 | 610.2 |
| 女 | 65~69歳 | 197.2 | 250.7 | 251.1 | 318.2 | 533.8 |
| 男 | 70歳以上 | 220.7 | 221.3 | 310.3 | 339.3 | 498.2 |
| 女 | 70歳以上 | 204.7 | 254.1 | 271.8 | 319.6 | 500 |
https://www.mhlw.go.jp/toukei/itiran/roudou/chingin/kouzou/z2022/dl/03.pdf
そもそも労働参加率、73%くらいなんですよね。あと男より月40時間労働時間短いし、非正規率も高い
女性の就業時間 男性より月40時間短く
日本では働く女性の数が増える一方、就業時間の男女差が大きい。総務省によると、女性の労働力人口(15~64歳)は2021年で2679万人、労働参加率は73%と10年で約10ポイント上がった。結婚や出産を機に職を離れる人が多かったが、育児休業などで女性が働き続けやすい環境に力を入れる企業が増加。30歳代など子育て世代の労働参加率が下がる「M字カーブ」の問題は改善しつつある。
ただ労働時間をみると課題はある。総務省によると女性の平均月間就業時間は男性より40時間ほど短い。最も多いのは男性と同じく月121~180時間働く人で全体の4割強を占める一方、月120時間以下の人が3割以上で男性(約1割)より多い。パートや派遣など非正規雇用で働く人の割合が女性は約5割と男性(約2割)より高いことが背景にある。
国際労働機関(ILO)によると、日本の労働時間の男女差は主要7カ国(G7)で最も大きい。週平均の差は10時間を超えており、米国の約2倍、スウェーデンの約3倍だ。
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCA19B3I0Z11C22A0000000/
ついでに、独立行政法人労働政策研究・研修機構『国際労働比較2022』229頁 によると、欧米に較べたら日本の女は長時間労働(週49時間以上の労働)してる方らしいですが、
(逆に言えば下方婚増田は、インドネシア22%、フィリピン20%あたりへ移住すればいいと思うよ)
https://www.jil.go.jp/kokunai/statistics/databook/2022/documents/Databook2022.pdf
女がイージーってのは、自立・家族を養うべく職業経験を積む必要性が無いってだけで、それなりの規模感の会社で本部長以上の役職を目指すというか役員目指すとか言ったら、
女は自立せずとも良いと教育されてきたお嬢様方が、ただ単に働く気がない・職業経験を積む気がないだけ
バカに至ってはせっかく先進国に生まれたのに、自ら性や若さを売って、水商売や風俗したりね
あと、女性の活用とか騒がれる前から不適切なポジションに女を置くことはあった
うっふんあっはんしている女を可愛い可愛いしたいバカが絶滅しない限りはどうにもならないね
令和では職場にセックスを持ち込むやつは滅ぼそう、会社で愛されメイク・ファッションとか言ってるやつも当然滅ぼそう
(プライベートで女性の性表現を追求・楽しむのは好きにしてだけど、職場に持ち込むバカはフェミストを自称する人は積極的に弾圧して欲しい)
いったい何だったらするんだ?以前に、日本のお嬢様がたは平等の言葉の意味を知っている?
これはフェミニズム(社会平等)とは関係なく、単なる母ちゃん教の話なんですけど、母ちゃんがキリキリ働いてるとこ見たい?って言われたら見たくないですね
ようやく、どこのご家庭のおっかあのことも『お姫様』として『母上』としてを扱うことが出来る時代になった、
大切なおっかあを想っても極貧故に報えず涙した先人が報われた時代になったのに、なぜ、わざわざ逆戻りを?って思います
実際、欧米でも女は長時間労働してないですよね?(アジア圏はしている)
人間は幸福になるために生きているのであって、資本家に仕え働くために生きているわけではないので・・・
お金がないので子どもを作るのを躊躇っているご家庭は、積極的に生活保護や各種公助を受ければいいと思います
成り行きに任せたら?子ども作る人は何しても作るので堕胎数が10万割ったことも無いし
(20~24歳の堕胎数が最も多く、次いで25~29歳、30~34歳、35~39歳)
https://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/eisei_houkoku/21/dl/kekka5.pdf
どうせコロナを経ても世界的には人口増加かつ、AIで人あまりの時代になるのだし
ただ人間がやった方が安い分野って結構力仕事多いと思うので、男の労働者の方が有利にはなるでしょうね
なので、この時代に、上級国民でも金持ちでもないのに、女児をプリンセスとして育ているのはほぼ虐待と言って良いと思います
女が専業主婦が当然だった(あるいは標準モデルとされた)のは、上級国民を除いて昭和の一時期だけだぞ
おっかあは、めかしこみもせず、朝から晩まで炊事洗濯農作業行商炭鉱と内外で働いて、
当たり前のように三従(幼少時は父兄に、結婚したら夫に、夫の死後は子に従うこと)を課せられ、
ようやく、どこのご家庭のおっかあのこともお姫様として母上としてを扱うことが出来る時代になったが(大切なおっかあを想っても極貧故に報えず涙した先人は報われたね)
おつむ弱い子によってまぁなんか微妙なものになっちゃったよな(そもそもおつむ弱い子は歴史を認識できない)
でもまぁどんなに国が豊かになろうが、すべての一般国民が女性が寿命で死ぬまでお姫様として扱うのは経済的に無理があるので、
2000年ごろ雨後の筍のように生まれた「社会福祉学部」を持つ大学(すでに学部名から社会福祉を消した大学も多い)から脱出した教員たちの証言を集めてみました! 特定されないよう適宜改変しています。
・学園の理念に「優しい」「明るい」「素直」「従順」が入っている。
・福祉専門職に必要なものとして「思いやり」「やさしさ」を謳う。
・学生相談室の設置案に「教員が自分の仕事を押し付けるつもりか」と理事が却下。
・心理学、経営学の授業が大量にある一方、社会学系の授業がほとんどない。
・国家試験受験勉強のため、卒論が選択科目となっているおり、ほとんどの学生が書かない。
・人権、労働、差別、エスニシティ、ジェンダーなどのテーマの授業が皆無。
・専攻に関係なく、宗教家だから宗教学、教職免許を持っているから教育実習、子持ちだからから家族支援論という謎基準で事務が授業担当教員を決める。
・「経済学」と「政治学」、「心理学」と「社会学」、「日本史」と「宗教学」など、異なる分野の科目を一人の教員が教えている。
・雑誌コーナーに『世界』『思想』『現代思想』がなく、『正論』『WILL』『HANADA』がある。
・障害学生はできる限り受け入れないよう画策。
・エレベーターは車椅子1台分のスペースしかなく介助者が入れない。
・2000年代には研究禁止の御達しがなされていたため、開学の際にいた研究志向の教員が他出、残ったのは病人か「けんきゅうってなに?食べられる?」という人ばかり。
・研究してる人には散々辞められているからか、募集停止校からヘッド(?)ハンティングしてくる。
・研究や本に対して敵対心を示す人が多い(例えば、授業公開に行ったら、教員が「著作権料で食ってる人」というのをdisっていたのを聞いた、とか)
・理事が「公募では人物がわからないので絶対しない」と宣言している割に、直接、大学に履歴書を送りつけて採用された人が多数いる。
・入試問題の現代国語を併設高の教員に外注しているらしいのだが、常に昭和の文章。
・卒業式で理事が「ジェンダーフリーが家族を滅ぼす」とか「人間にはそれぞれ分というものがある」とかネトウヨっぽい言葉を熱弁。
・式典では日の丸君が代はもちろんのこと、日の丸に敬礼させられる。
・東日本大地震は地震兵器論者、中国脅威論、Qアノン信者など、教員に陰謀論が蔓延。
・北欧は高齢者の安楽死をしているから「寝たきり老人」がいないと講義で解説する教員がいる。
・家業で保育士を雇っていることから保育士の給料が高すぎると言及する教員がいる。
・事務の女性が若く、皆美人(併設短大で卒業時に声をかけ採用している)。
・卒業パーティで男性理事たちが女子学生を膝の上に座らせている。
・有志で実施した教職員対象のハラスメント実態調査が握りつぶされた。
・朝礼がある。
・オプキャンや入試で土曜の時間外手当をつけないために週休1日制。
・部活担当で年間労働時間推定4000時間越えの教員(!)がいる。
・部活顧問柄全国大会へのバスの運転まで全部やらされており椎間板ヘルニアを発症した。
・引っ張ってきた部活顧問(授業担当なしで教授)が体罰を多用し、退学、休学が相次ぐ。
「福祉の時代だ!」と言われて福祉マインドもないのに儲かるからと学部を作って、梯子を外されたんだな。
(追記)ちなみに私(旧帝大卒博士号持ち)の場合、就任当時は真面目で伸び代がある学生に恵まれており、そこには不服はなかったことは付け加えておく。
そもそも去年学生から「大麻やったかもw」って相談があって厳重注意で終わらせてそいつはもう卒業済み。
今年の6月に学生の父兄から「お前のところのヤクやってんぞ」って連絡が入って
7月には警察から「日大アメフト部がヤクやってるって通報が来てんぞ!」と大学に連絡。
副理事は「こっちで調べるわw」と返し、警察は「もしアウトだったら自首させろ」。
元検察の副理事は部室でパケを発見するもなぜか自室で保管。発見から2週間、ダンマリを決め込んだ。
ありえねーだろ。
そもそもヤクやってるって通報があったんなら警察がさっさと捜査すべきだし
2週間も何の連絡もなかったら普通に追及するはず。
アンフェタミン(覚せい剤の一種)が抜けるまでにかかる時間は血液検査で12日、尿検査で3日、毛髪は90日以上。
可能なら「見つけはしたけど本人は覚せい剤はやってない。預かっただけ」とでも言う気だったんじゃねーのか。
今回は週刊誌がすっぱ抜いて大問題になったから全部明るみに出たけど、