
はてなキーワード:無意とは
鬱とかじゃなくて怠け癖とか無気力の類なんだけど、暇さえあればずっと布団のなかに居てしまう。寝たり、スマホダラダラ見たり。
映画やドラマを見るという簡単な娯楽さえも面白くて世界に引き込まれるからしんどいなと思って回避的になってしまう。
有意義に過ごしたいなあという理想はあるんだけど、無趣味だし無意欲だし体もついてこない。
やりたいことも無い。
休みの日にこだわった料理つくったり、家を片付けたり、読書したり、散歩したり、筋トレしたりする人って本当にすごいよな。人生充実していてすごい。
私は文字通り、布団の中でダラダラしてるだけ。
そういう事をしようにも、疲れたらどうしよう…疲れたら嫌だな…って思っちゃって動けない。
動けばやる気が出てくるよ!と言われがちだけど、そうでもなくない?途中で投げ出したくなっちゃう。
子供がいるから最低限…いや、最低限以下か?まあ家庭が崩壊しない程度の家事はしているが、家にいる時間は長いのにほんとなんにもしてない。ほとんど寝てるだけ。
怠け者だし子供と私の身体的トラブルのため、かなり短い時間のパートしかしてないし、夫が子供を連れてよく外出してくれるから、休む時間はたっぷりある。
夫は私と真逆でやりたいことたくさんあるタイプだし人の事が気にならないタイプだから、私がこんなにダラダラしていても何も言わずに自分の人生を楽しんでいる。すごい。
子供にも私にも身体的に大きなトラブルがあったり突然判明したりで、心配が尽きないし、メンタル不調かな?とも思うけど(実際2024年は不安の症状が大きくなったから1年ほど精神科に通院した)外出の予定があるときは楽しめるし、そもそも独身で何のしがらみもなかった頃も休日は寝てばかりで(私ってなんでこんなに何もできないんだろう…)とよく落ち込んでいたから、たぶんそういう人間なんだよな。元々。内臓的には健康なはずなのにバイタリティが極端に無いタイプの。
最近ツイッターで、元気がない人は甲状腺やフェリチンの値が悪いって見たけど、2024年夏に詳しい血液検査した時は甲状腺大丈夫だったし、フェリチンの値は調べられてなかったからわからないけど、過去から今まで貧血関連の検査結果が悪いことなんてなかったし、むしろかなり良い方だった。
感性死んでるっていうか、「付き合う」ということには「その映画には興味ない」って正直に伝えてお互いの好きなジャンルの折り合いをつけるとか、板がなんなのかについて一緒に考えるとかが含まれている人間とそうじゃない人間ってことじゃないかな
そうじゃない場合は生きたラブドール以外どういう目的で恋人と交際してるかも謎だけど
世の中の多くの人は「相手が気を悪くするような意見を言わない→なにか聞かれても無意見で通す」ではなくて、「相手が気を悪くしないように、でも自分の意見は伝える」ということに心を砕くんでないのかな
別にその点に対して憎悪なんてものは抱いていないし、むしろ素直に「おめでとう!」と感じるタイプではある。
問題は、そこで何故か「自分に対する嫌悪感」が生まれてしまったことである。
私は生まれてこのかた恋愛なんてしたことが無い。自分には知りえない世界の話であり、エロ本など半ばファンタジーのようなものである気さえしている。
何故か?自分のことを好きになれないからだ。自分の嫌悪している点なぞいくらでも湧いてくる。
そのため私は常に人間以下の存在として振るまい、人間様を怒らせないように、人間様が気分を害されないようにと生きてきた。書いていて情けなくなってくるが事実だ。
一旦、ここは前提となる自己嫌悪である。ではなぜ友人に彼女が出来たことで新たに自分に対する嫌悪感が生じたのだろうか?
その答えは、たった1つだけの他人の体験を聞いて、先に述べた、自分が20年ちょっと生きて形成した自分に対する価値観をいとも容易く忘れ、恋愛に対するあこがれ的な感情を抱いてしまったためである。
「ああ、なんて私は薄っぺらい人間なんだろう」と。そう感じてしまった。
彼女を作った友人はそれ相応の覚悟をし、自分を磨き上げ、そして掴んだものなのだろう。そんな努力をしてすらいない私が、自分の好きなことだけに目を向けて、嫌いな部分は見なかったことにして生きてきた私が、自分を好きになれない私が同じような感情を抱いていい筈がない。
書いていて情けなくなるな。本当に酷い文章。だからこそ匿名はてなに投げている訳だが。
他者と自分の人生を比較することなぞあまりにも無意義であることは理解している。
問題は「自分が他人からの影響を受けやすい」という点である。他者の趣味趣向、他者の人生、他者の行動になぞらえたような行動をとるし、自分の思想が変化していく。
今この文章を書いている自分は何者なのだろうか?と不安になる。自分の意志で何かを志し、自分の意志で何かを為しえたことなんてあるんだろうか。そもそも先に語った「自分が好きになれない~;;」なんて話も他者の継ぎ接ぎじゃないか?
人生を振り返ると「自分の足跡」なんてものは無く、他者のものを切り貼りして形成された歪な足跡が残っている気がしてならない。
まあ、それが自認人間以下の末路なのだろうか。かなしい。1000文字程度の文章に自分の感じている嫌悪がまとめられてしまっている事実も嫌だな。あ~やだやだ
「一日に煙草を一年間吸い続けると」君には躾が必要だ。そこにベンツに昇り降り-ボをしてい続けるといずれ、ところで僕あのーにんにく酸っぱいの好きなんですよ分かります?究極の至宝美体にバッア肘がグネクネし事件と民が迷宮入りと思わたっていたでしょとしていたら、無意杉にメリーゴ区ランドがそこには露わに引ん剝きなされていたのが、いつしか大体そこに止まない雨がないと言われがちですが、実際は何とも言えないなぁ…これ…何とも言れないなぁ…相容れなれないなぁ…そういうことしている間に試合は最初う局面を迎入れいようとしています。時々ロシア語でボソッと天照(アーティスト、作曲・編曲は、Ktsh a.k.a 世パ弥。「a.k.a」は「こと」という意味であり、世パ弥ことTashootMANIAという意味になる)をNNするいやロシアに太鼓の○人ねーよ!!(訂正調べたらありました)する、をする日記やVlogを始める方が急増中ですが、皆んな様んは天気が良いですか。!注意!これから先、日焼け止めを飲まなれれば、深淵が闇を覗くとき、深淵が世界に公開されるため、発言に気を付けマシおTVがスマホを激突盆栽を刈る、99歳は還暦を全年迎え、抵抗は空しいぞ。辞めてくれ。其んな顔で僕を見るな。僕は、ベンツに乗っているんだよ。ギャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア(ベンツが爆発する)すいませーんダイハツ売ってるって聞いたんですけど(2台目購入)お客さんこんにちはすいませーんこここんにちはーあのー店員さん今(76573台目購入)デビッドカードが売り着て!?駅のビビシビックビジョンの恥ずかしい所の部活動、略して恥部にがボリボ所属して5年目だが、全国大会行けないなぁ…全国大会行くないなぁ…行きたくない。貴方映画館に行きない?ブブーッ(正解の音を裏から表に掛けて)たまには電話ちょうだいよ?横花火に気を取られていた俺は、背後からの気配に笑いに来たバージンロードに耳を澄ませ…SEIKINTV…た俺は、背後からの花火に五月かなかった!、2020束京オリンピックは、OSUSOWAKE右にもか左にもか、シカノコノコノコンタンタン、カニカニフェス確証を得られぬまま、事件盲銘に尾の分け目という諺ップにもあるように、「メークイン装飾の弁当が」地味地味邪魔邪魔UMIGURIサバ女子サブリミナリズムうんぬんかんぬんックス(幻の四十九手目)りたまえ!ベースを横取りする境にハイドリデーショキニクス。僕には、呆れたよ(錯乱)。ク。サービスショットの裏には影むな棍あが人知れず…例えば、たまには正面から来たらどうだ?あれ!?上にも縦にも伏兵が溝んで…一体こどうすれな…「任せろ!あ、あなたは!SEIKINtTV!?」さ」て最近は花も一片舞い落ちる便利な世界、貴方と一緒に箱詰を望む女子がマッチングアプリですぐ待っています。今すぐ大好評アダウンロード!7800連ガチャ無料!(そんなに回すのだるいよ)あ、君さ、今、(そんなに回すのだるいよ)と思ったでしょ?心を読むんじゃないよ。セブンイ○ブンじゃないんだから。でも右目を開けたら次は左目を開けて。「はい…」そしたらいややい何んに何してんの!う?凄いでソイこれが世界の真実さ。こればいーっしんだけどね、共有ボタンんを押したね。聖闘士星矢の成人向け同人誌、聖闘士星矢ーンえっち「しょうもねーこと言ってんじゃなたは!SEIKINyTV!?スュ」午前0時と8時と9時に僕は毎晩、あの日のことを思い出す。「そんな日もある」とは言うけど、「そんな日」を繰り返し、気づいたらドン底の人生の成人向け同人誌、気づい矢ーン35ビットのペクリこんにちは!僕は16才だから、もうベンツに乗れるんだ。今日は僕の自慢のベンツヲ紹介スルヨ…あ!注意!エラーが発生しました(メメカバレって興奮するね)。全く…名前を飲んではいけない人、出店で金魚すくいを頼みますよ、非公式でお願いします。「「「「「無修正差分が見たい!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」」」」」僕の冒険は始まったばかりだ。でも僕がいないと危なかったよね?大きいデミグラスソースに縄張りを伏し付けて、その人には活躍するが、例えば神っぽいなの作曲者が稲葉曇(以下、稲葉)だったとして、実際に絵をWEB描いているのはいよわとは限らない。そういうこと僕は言いたいんです。リゼロ第4章読みましたか?僕はあの歌好きなんです。世界に不思議は事はたくさんありますが、化学の力であの日僕たちが出会ったので偶然ではありませんでした。いつも横に饂飩をよく噛んで食べ、電車の中には山が住んでいる。誰もが思っている事の一つとして、あべこべにでたらめをかける必要なないと言いますが、僕はやります。たまにトイレでは祖父がきゅうくらりんを歌いながら風と土の属性が咲煌きあう。身体を壊す前に無理をして、実際、参考にして下さい。自ずと道すがらくもありあます。道連れに吐露し、それでいて味わいは艶やか。家具を全て捨て、ガムテープで夜を共にする。(助けてくれこの文章にはヘルデルマが隠ている)朝になれば、ボク気づいたことあってヘッド閑散バリスフィント島が上の方にある。そんな時は立ち止まって、駅構内を走りまわさぬ様に下さい。家系図は5cmで轟き、背中合わせのうまい棒とテニスをする(ファミコンのね。)様起きて下さい!上からむ下から肉ドローン撮影に気を取られ、肉球の淵から煎餅を割ると2ポイント。ここでもある日突然だった、世界が0.4°捻じ曲がったあの日から僕の人生は変わった。重度の脹脛フェチの幼馴染が毎朝髪の毛を抜いてくるのでたまらないのだ。仕方ないけど、今は虫眼鏡の中にあるiPhone55VXXXXSRspecialを遍かねんばならないのだ。散漫を揺り戻す捏徐の如く、息も絶え絶えに戦国時代に広島のミニ四駆を衒った。うっせぇわを歌ったのは加藤浩志ですが、イガクを歌ったのは誰?横断歩道とラジオ体操には右左右に気を和け、悲しみに耳も憚らず、弛んで行くしかない。ウルトラマンが倒すのに29分掛かったカーテンレールを、今打ち砕かれようとしているが、なのは完売キャンディーではない。公職選挙法スレスレの合法紛いを突き進み、得てして獲得して勝利へ導かれたくはないか!?でも夜は危ないから気を付けるんだぞ。…僕はこれから何をされるんだろう?でも満たされているこの気持ち、よしBreakingDownに出場しようそう僕は決意したあの日の夜。でも翌朝になると覚悟は薄れるんですよ分かりますかこの気持ち?中と外で反面グリッパーしていて、ルトラマンが倒すのに29分掛かった。これに耐えられる奴は居ない。任○堂の倒し方知ってます?俺は知ってますよと言いながら、七夕に御節を作る。卵から産まれた人間は土に孵るから一緒に楽しもう。こんな事にもある、まあ楽しんだ者勝ちだから道を開け、生ごみを見るようなセンテンスが僕等を待って居る。けども金網をも凌駕する、100さ。海に誘われ、口からが本番だ。舌を鼻で笑い僕んっヤバイ衝撃がマラソン中。でも邪道さの中に正統派があるけど、いつになったら脱出できるんだろう?こっちは巨大娘で真剣に真剣しているのに進撃の巨人だDoDラスボスだ等と言われては腹が立つため真剣して来る。ありがとう!優勝者には意味が贈呈されます!あぁ良い気味ながら、世界一にお金持ちになって気分は如何かな?でも我慢できないから網羅しました(世の理を)。多いなるカには責任が多い僕でもコップを落としてしまうのだから、きっとティッシュを使い切った頃には5cm増えるし、株主を観衆の前に晒す慈しみは想像もでき無い。飽くまで正々堂々と白昼に広げようと言っているのだから、或いは間るも良し。どうしてもと言うのなら、肘と膝が一体型のセットは如何でしょうか?お役くしておきますよ。(こいつ偶に冴えた事を言うから侮ない…)それに貴方はお目が高いの、別室で尻がデカいと知ったら喜ぶでしょうね!セイクリッドルインが待ち受け画像に乱れ、ハッシュド洗米を独り出る血相を変えてまで、必要はあったのだろうか…
裕福な家庭に生まれた。
港区で生まれ育ち、幼少期から何不自由なく暮らし、いくばくかの愛情も与えられた。
多少要領も良かったようで、小学校から高校までをエスカレーターで過ごしたのちに一流と言われるような大学へ進学した。
容姿や周囲の人間にも恵まれ、当時は気がつかなかったが思い返せば幸せな時間をおくってきた。
こう聞けば羨ましがられるかもしれないが、これらと引き換えに失ったものもある。
多くの人は、お金持ちになりたい、いい家に住みたい、素敵な家庭を築きたい…多かれ少なかれ何かしらの目的を原動力として学業や仕事に励んでいるだろう。
自分にはそれがない。というよりも全て達成していた。
裕福がゆえに、およそ目的となるようなあらゆる体験を幼いうちに済ませてしまっていたから。
そんな空虚な中で仕事だけは小さな動機となっていたが、それなりの才があり欲しい評価をすでに手に入れてしまった。
残った人生の動機は親孝行だったが、数ヶ月前に父が亡くなってしまった。
母は幼い頃に他界したので、自分は天涯孤独の身となったことになる。
成し遂げたい目的があれば立ち直れたのかもしれないが、そんなものは残されていなかった。
社会の中で実現したい欲求があれば良かったのだが、前段階となる自己の欲求が消失している自分に見つけられるはずもなかった。
まだ20代も半ばだが、おそらく自分の人生はすでに終わった。このまま朽ち果てていくことを薄々感じる。
だらだらと書いているうちに何が書きたいのかもわからなくなってしまった。
同じような幼少期を過ごした仲間が自分のようにならないことを祈っている。
収蔵物が博物館のキャパシティを超えて保存され、その扱いに困っているという新聞社のWeb記事を見ていて、改めてそう思った。
昔、「正しい日本語」という概念が流行り、それが何なのかという議論が多数交わされたが、それらは結局のところ、世代対立に過ぎなかった。
そして、この収蔵物もそうなのだと思う。
若者でない世代が、自分たちが大事だと感じる資料を、「歴史的」というあたかも価値のありそうな形容詞で装飾して、
キャパシティを無視してでも、それに親しむものよりは若者だろう管理者に、たくさん押しつけようとした結果に見える。
どちらかいえば老人世代に近い自分だが、個人的には、キャパシティを超えた分はすっぱりと処分すべきに思う。
若者もきっと、歴史的と呼称した老人世代の未練に興味はないのだ。私たちの世代のものは私たちの世代で諦めるしかない。
そもそも、収蔵物の保存にはコストがかかるので、若者文化の発展はその分遅れてしまうし、
歴史的事物の保存という行為自体も、若者文化の発展には抑圧的に働くので、収蔵物の保存というのは若者たちに本質的に好まれない。
そして、誰も明言しないが、歴史的な資料は「古いものは尊ぶべきだ」という価値観を無言で内包している。
歴史的な資料は「文化『財』」という名称で、あたかも自然に財産然としているが、その実は若者にとってコストというか、若者文化を発露する際の重荷でしかない。
そして、歴史的な資料は「歴史」という教科となって、あたかも覚えるべき知識であるかのように振る舞い、若者のキャパシティまで削ってしまう。
個人的には、若者の認知は未来に向かって注がれるべきと思われ、合理的でも道徳的でもない偶然の連なりである「歴史」などに充てられるべきではないように感じる。
そもそもなんで、偶然でしかない、未来に決して通用することもない老人たちの教訓を、若者たちに記憶させないといけないのか。
そういった保守的な歴史のがんじがらめが、地元に流れる人間関係の重さと相まって、若者たちを都心部に押し出す格好になっている気がする。
すると文化財は、その費用からもその思想からも、若者たちを都市部に押し出すのを助けてしまっているとさえ思えてしまう。
掘れば遺跡が出てしまい、その保存で開発が全く進まない「文化財」だらけの地方自治体に、どんな若者が残り続けたいと思うのか。
思春期の子供が両親に反抗するように、若者たちはきっと、古い文化の象徴である歴史的な資料など捨てたい、
その保存コストを、古い文化の代わりに自分たちが享受したいと思っているはずなのだ。
つまりは、歴史的な資料は非明示的ながら、そしておそらく無意図的ながら、古い者たちの権力となってしまっていると思うのだ。
だから、一部の人たちにとっては無意識的に、歴史的な資料はコストをかけてでも博物館を占有していないといけないのだろう。
でも、歴史的な資料をとるか、若者主体の文化としていくかは択一であり、どちらが本当に重要かってことを、今一度考えてほしいと、この老いぼれはひそかに思う。
偉い学者が、日本の人口回復のためには、面倒みるべき親を早く捨てろと言ったらしく、それは耳が痛いことでもあるが、
同様に、若者文化の隆盛のためには、キャパシティを越えてまでも保存され続ける「歴史」は捨てるべきではないのかと、
どうあるべきという話を聞きすぎて、どうありたいかを忘れてしまう今日この頃です。
しかし誰かの意見を絶対なものであるかのように錯覚してしまうのは自分を見失う第一歩であるように思うのです。
何が悪いことであるのか、ということは、いい大人なのである程度わかっているはずなのです。
ところが、インターネットやテレビでは、平気で一線を越える輩を目撃します。
差別を正当化したり、特定の人の利益のために経済についての嘘を言ったり、誰かを頭が悪いと見下したり、バズるために誤解を生み出したりすることです。
そういう蛇たちの情報に影響されすぎて慣れてしまうと、自分が信じている善というものが混乱してしまいます。
私はインターネットが趣味なのですが、情報に触れることから遠ざかった方がいいのかもしれません。
コンピュータに触るのは仕事だけにする。コンピュータに触らずにできる趣味を作る。
コンピュータは汎用性があり、文書閲覧、ゲーム、動画・映画、コミュニケーション、小説、お絵描き・絵画の鑑賞、勉強、こういうものはコンピュータがあればできてしまいます。
しかし汎用的だからこそ、人につけ込む隙があり、搾取の道具にされています。
私はコンピュータを使ってこの文章を書いていますが、もしかすると誰とも共有せず、紙のノートに書くべきなのかもしれません。
社会からの目を意識すると、自分とは異なる何かが手を動かし始めるのです。
普段なら、趣味の検索をコンピュータを用いて行うところですが、それではダメなのです。
自分の頭で考えて、必要ならば本屋や図書館で本を探して、アナログに立ち返ってみること。
目的のための最短経路を一発で掘り当てるのは、もうつまらないのです。
ゆっくりと旅路を楽しんだり苦しむ余裕こそが重要です。コスパタイパを意識して映画を倍速再生するなんていうのは令和時代の病気です。
仕事では最適化やコスパが重要かもしれませんが、人生全体に対してそれを適用する必要はないのです。
そして「楽しみを最大化」なんていうのもまた令和の病気の一つでしょう。
ぼーっとする無意義な時間があってもいいし、楽しめないと思ったTVシリーズや本を最後まで見てもいいのです。
私は子供部屋おじさんなので、家の家事をもっと手伝うことができます。
風呂場の掃除と洗濯物の取り込みしかしていませんでしたが、自分が使った食器を洗うぐらいのことはできるでしょう。
家族と過ごす時間を増やすこともできますし、昼休みの時間に散歩に出かけることもできます。あるいは朝冷水シャワーを浴びてリフレッシュすることも。
「めんどくさい」などと言っているから、スパイスが足りなくなるのです。
あらゆることをコンピュータ上でやろうとするのも、最短経路を一発で掘り当てようとするのも、結局はめんどくさいという怠け病です。
おそらく私が失っているのは、自分らしさというよりは、人間らしさです。
SNS、YouTube、TikTok、ブログ。今や発信してリアクションを得られる可能性があるプラットフォームに触れていない人の方が少ないと思う。
鍵アカウントもあるが、公開範囲を限定しているだけで多くの人は少なくとも親しい友人やネットで繋がりのある人などが見られる環境を作っていると思う。
僕はまるで他者からのリアクションを求めていない、と言うような素振りをすることがある。まじ滑稽。
リアクションを求めないことは美徳でもなんでもないし、社会に生きる以上何かしらの発信にはリアクションが伴うし、誤解されては生きづらい。
リアクションから逃げることは「私は社会性がないです。」と言っているようなものじゃないか?言いすぎ?
とはいえ、リアクションを求めるがあまり、本心を隠したり言いたいことを歪めたりするのは不健全であると思う。
服を買う時、「これ少し自分っぽくないな」と思い手に取ることをやめたことはないか。自分みたいな人間がこんなお店に入るのは違うな・・・と入店を躊躇ったことはないか。
リアクションを求めないというスタンスに常に立って世捨て人のようなスタイルを保つことは非常に力のいることだし、この社会で生きる以上不用意にそんな振る舞いをすべきではないと思う。
しかし、たまには「うおぁぁぁぁ〜〜!!!!俺だ俺だ俺が全てだ!!!!」というムーブをすることも必要なんじゃないか。
我々はあくまでも個人。個人であることを忘れて集団のうちの一人であるという意識を強めすぎてしまうと、誰かが、もしくは自分が勝手に決めた自分が固着してしまって人生にセレンディピティが生まれないように思う。
自分では普段しなさそうだな、という選択をたまにすると人生がまるで豊かになったような気がしたことはないか。1人で旅行に行ってみる、
作ったものがない食べ物を作ってみる、なんかこれとこれでプリンみたいなもの作れるんじゃね?(レシピは知らない)とかなんでもいい。
自分の中に遊牧民を住まわせろ。そんじょそこらのノマドワーカーなんてものとはわけが違う。それはあくまで集団から少しだけ距離を置いて「特別なあたし」を楽しんでいるにすぎない。
ほんの一瞬でもいい、自分の精神的なパーソナルスペースをバカ広くして敢えて社会から隔絶したような心持ちで、自分の評価軸のみで物事を選択することをしてみる。
評価軸なんてない?やりたいことなんてない?小難しく考える必要はない。
例えばあなたの目の前に米が2合、野菜、肉、魚などなど様々な食材があるとしよう。普段なら米は2〜3食分に分けて、食材もいくつかのレシピを作るために小分けに調理するだろう。もちろんそれがあなたのやりたいことで、スタイルなのであれば好きなようにして構わない。そうでないのなら?
私は一介のサラリーマンで、特段見どころのあるような人間ではない。だが、眼前にそれらが広げられたら、今の私は豪農モード。全ての食材を余すことなく調理し、一食で食らう。
普段なら絶対にできないだろう。妻もいる、もちろん食費や向こう数日分の食材をまた買いに行かなければいけないという問題に豪農モード終了後にぶち当たるだろう。しかし、今の自分はその問題に直面しているだろうか?断じて否だ。
豪農がそんな生活をしていたか定かではないが、自分のイメージからかけ離れた存在になるということが重要で、それこそが日々社会で暮らす我々の数少ない寄る辺になると信じている。
今日は妻がいない。冷蔵庫には納豆がある。妻は納豆が大嫌いで家で食べることは普段絶対にない。なんなら結婚して以来初めて買った。
帰ったら大量の米と納豆、昨日こさえた温泉卵でパーティと行こうじゃないの。
そんなことをして何になるんだ?そんな問いは豪農モードの私にはナンセンスだ。普段自分がしないことをすること、無意義なことを行うことこそが肝要。
どうせ同じサイクルを繰り返して年老いていくだけなのなら、外界からは観測も接触も不可能な異質な自分を見出し、作り上げ、楽しむのもまた一興なのではないだろうか。
一日8時間の勉強、さらに集中力とのバランスを兼ねて最適化された学習環境を整えた
こんな家じゃどのみち無理だわーと思って家を出た
あと高3の時に父親が鬱で仕事やめて大学いけない可能性あったのも思い出した
結局あのあと数カ月副作用出てまともに受験なんて出来なかったし結局家の生まれや受験期の不運で努力が無碍になるんだよね
でも勉強自体すごく効率よかったから勉強時間が無駄だったかと云われたら動画も全部自分で無料で拵えたし随分早いスピードで学習できたから逆に世の中のガキ全員無意義な勉強させられてんだなって思えた
俺は高校も大学も女目当てだったから無意義な時間こそが有意義だったけど世間では有意義な時間こそが無意義なんだな
3年間まるまる費やしてコロナ副作用でオワタになったら最悪だよね
やっぱり俺の人生の選び方は間違ってない
VTuber本人が概要欄などでよく注意しているのはリスナー同士で話し合うなとかで
何かの切り抜きで発言を見かけた気はするが、それこそ特別な例なのではないか
リスナー同士の会話にしても配信内容によっては歓迎する配信者も中にはいるらしい
意味のあるチャットをするなと配信者がいうのなら従うのは吝かではないが
すべての配信に関して言ってもいないのに勝手に忖度して意志を放棄する必要は感じられない
意志を持つなという人間はチャット欄の一体感を崩されることが嫌なのではないか
配信者の要求のフリをして自分の好みを押し付けている太宰メソッドに思えてならない
配信者をさしおいて勝手に自治を行うという意志をもったリスナーになってしまう
矛盾している
注:本人が自分自身に言い聞かせているだけなら無害で良いと思います
歳をとると人生が有限であることを意識し出す人は多いけど、若いうちから有限だと自覚して生きてない限りそれで何かが変わるわけじゃない
あと夏を何回迎えられると指で数えられるようになってもテレビを見て、昼寝して、おしゃべりして無意な一日を過ごす人が多い
やることは大体変わらない
けどご飯はあまり食べなくなって、一日中沈んだような表情で、何もない最期を暮らす
これまで何もやってこなかったんだから仕方ないよな〜って思いながら、いつもアイスを出してあげる
でもこれって私刑なんだろうなとも思う
だいたい辛そうにしてるから
やりたいことがあるからたくさんあるけど、何かしらの理由でできなくて
それでも元気に走り回ってた夏
あなたはあれから何度も夏を迎えたけれどあの時やりたかったことはできたのかな
あと1週間
どうか夢の中で叶えてね
書こうと思ってたこと考えてたらこれが思い浮かんだのでタイトルにしました。
中学はとっくに卒業した年齢ですが、まだ青二才だと言われる年齢あたりです。だから一種の厨二病みたいなものかもしれません。
特に劇的な悲劇も成功もある訳ではないです。暇つぶしにでもしてください。
私はありがたい事に恵まれた家庭に生まれ、友人で居てくれる子もいて、勉強も特に苦労したことはなく、周りから見たら幸せに生きていると評されるような人生です。このような環境の人ごまんといると思いますし、だからこそ同じようなことを思っていても周りに理解されず相談できなかったと言う人、いるんじゃないでしょうか。そういう人たちに「わかる〜」と言って貰えば幸いです。合わなそうな人はここでやめてください。
(あと結論は最後に書いているのでなんだったらそこまで読み飛ばしてください)
幼少期、少し厳しいくらいの教育的な保護者と軽いいじめにあったことがきっかけで、私は自分の感情が分からなくなりました。環境的にどちらからも逃げることができず、私が行ったのは「これらの事情全てを肯定的に受け止める」ということです。私はいじめっ子のことを「唯一無二の親友」だと思い、家は「私のことを考えて将来を導いてくれているのだ」と心から思っていました。親友からひどく叱責された時も「私のことを考えて言ってくれているのだ」と思い込みました。保護者が面談で「(私)はこのような職業が気になっているようで〜」と言ったときに一蹴してやったと本人から聞いた時も「まあ今好きなことをやらせてもらっているんだからそういうものなのだろう」と思い込みました。
恐らくこのような思考は間違っていると思います。今は間違いだなと思えるようになりました。
ですが親友は今でも親友ですし、順調に保護者の言っていた通りの人生を歩んでいますし、一応は今の状態に納得しています。今では親友は割とまともになって、私の悲しい時は寄り添ってくれて泣いてくれたり、保護者も「別に好きな職に就けばいい」と言ってくれました。
今私は2人に対してどう思えばいいか分かりません。まともになってきたとはいえ、昔のトラウマでキツく詰め寄られると何も言えなくなってしまいますし、本当に将来に納得できているのか分かりませんし、心の底から大好きだとは全く言えません。でも感謝したいこともたくさんあります。
このような幼少期でしたので、私は「他人のために生きる」というのが板に着くようになりました。最初は普通にいじめられたくなかったからです。辛いから。
対面している人が何を望んでいるかを常に考えて動きました。そのとき、「自分の気持ちにウソをつかない」ということを常に意識しました。相手に合わせて意見を変えていたらそれはそれで敵を作ります。
このような状態でしたので、自己主張をできていないと言う訳ではありません。感情がないと言う訳ではありません。ただ、相手によって自分の出す感情は出して、これは友達には合わないなと言う意見は言わないというコミュニケーションの取り方をしていました。
だから、「好き」のような肯定的な感情がよく分からないことがあります。いじめっ子も環境に適応できるように強く思い込めば好きな友達になるので私に嫌いなものはありません。全部が全部好きです。それを対人の時は相手に合わせて出したり引っ込めたりするだけです。
それが10年ほど続きました。友人に初めてこのことを相談したのですが、「好きなものがなんで好きか分からないなんて当たり前じゃない?」と言われました。違うんだよな、と思いました。私はこの環境で生存するために強く強く思い込んだ結果、人を好きになり職に関連する学習内容を好きになりました。それは胸を張って好きだと言えません。でも私にはそれしかありません。
仲良くしてくれる友人たちは、自分の好きなものや嫌いなものがハッキリしています。自分の意見もハッキリしています。とても尊敬しています。私には全くできそうにないので
結論としては単純に「ある程度幸せだけど小さい頃自分の意見を捻じ曲げたせいで今の感情全てに自信が持てない」というものです。このような悩みを持つ人、きっといっぱいいると思います。そして相談もできていないと思います。だってその相談できる人を心からそうだって思えていないから(さっきの相談話も例え話などばかりで要領を得ないものをしてしまったよなと今では反省しています。でもそれが限界でした)
友人たちが大好きです。でも自信を持てません。
いつのまにか10数年経ち、小さい子供だった私は気づいたら成人年齢を超えていました。世間的には大人と言われますでしょうが、自分のこの人格は幼少期からずっと成長していません。外面だけしか成長していないので。