
はてなキーワード:無垢とは
このポストは、X(旧Twitter)上で見られるような、短い詩的な形式で書かれた投稿で、作者の内面的な孤独感や欲求不満をユーモラスに、かつ切なく表現したものです。表面上は風俗店(お金を払う短時間の性的関係)を題材にしていますが、比喩やオチを交えて、心のつながりを求める人間的な渇望を描いています。全体として、日常の悲哀を軽妙に昇華させた「ブラックユーモア」的な味わいがあります。以下で、構造的に分解して解説します。
- **表層**:風俗通いの虚しさ(お金で買う一時的な快楽の限界)。
- **深層**: 心のつながりを求める孤独。性的欲求を超えた「愛情」や「絆」の渇望。
- **ユーモアの要素**:風俗嬢を「猫」に喩える比喩で、シリアスな内容をコミカルに転換。作者の貧困や現実の制約を自嘲的に描き、読者に共感や笑いを誘います。
#### 行ごとの詳細解説
- **意味**:タイトル的な導入部。風俗店でのサービスを指し、「お金で買う一過性の関係」の儚さを象徴します。「行きずり(一期一会)」という言葉が、刹那的な出会いの寂しさを強調。
- **ニュアンス**: ここで作者の習慣化(「何度も通っている」)を予感させ、依存的なルーチンを匂わせます。現実の風俗文化をストレートに描きつつ、すでに「虚しさ」の伏線を張っています。
2. **何度も通っているが、心が満たされない**
- **意味**: 繰り返しの行為(風俗通い)にもかかわらず、精神的な満足が得られない。身体的な快楽だけでは埋められない「心の空虚」を吐露。
- **ニュアンス**: 「何度も」という言葉が中毒性を示し、作者の葛藤を深めます。ここでテーマが性的欲求から「感情の充足」へシフト。読者が「あるある」と頷く普遍的な不満を表現。
- **意味**:風俗嬢を「玩具(おもちゃ)」に喩え、性的プレイ中の反応(「いい声で鳴いてくれる」)を可愛らしく描写。猫の鳴き声(「にゃー」)を連想させる言葉選びで、すでに「猫」への伏線を忍ばせています。
- **ニュアンス**: 「可愛い」という一言が、作者の優しさや愛情めいた視線を表す一方、「玩具で弄ぶ」という表現が搾取的な関係の冷たさを際立たせます。エロティックだが、どこか哀愁漂う描写で、快楽の裏側にある疎外感を強調。
4. **でも違うんだ 心と心を通わせたいのだ**
- **意味**:上記の快楽は本質的に違う。作者の本当の望みは、互いの心が通じ合う本物の絆(恋愛や友情のような)。
- **ニュアンス**: 「でも」という逆接で感情のピーク。「心と心を通わせたい」というロマンチックな理想が、風俗の現実と対比され、切なさを増幅。作者の純粋さと、叶わぬ願いのギャップが心に刺さります。
5. **でもでも、貧乏一人暮らしだから猫は飼えない 悲しい**
- **意味**:オチの部分。風俗嬢の描写が実は「猫」を指していたことが明らかになり、本当の悲しみの源泉は「猫を飼えない経済的・生活的な制約」。一人暮らしの貧困が、心の伴侶(猫)を遠ざけている。
- **ニュアンス**: 「でもでも」の繰り返しで、諦めのユーモアを加味。「猫」という可愛らしい存在が、風俗の比喩として機能し、性的欲求を「無垢な愛情欲求」に転換。作者の「悲しい」が、全体を優しく締めくくり、読後感をほろ苦く残します。猫好きの日本人文化(ペットが心の癒しになる)を反映した、親しみやすいオチです。
#### なぜこのポストが魅力的なのか
このポストは、笑いと涙の狭間で、心の隙間を優しく突く一品。もし元の投稿者のアカウントや文脈があれば、さらに深掘りできますが、このテキストだけでも十分に作者の「可愛い悲しみ」が伝わってきますね。あなたはどう感じましたか?
闇に包まれた夜の静寂の中、彼の息吹が私の秘所に柔らかく降り注ぐ。
舌先の優しい波紋が繊細な肌を撫でるたび、私の内部に小さな星々が瞬き始める。
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彼の口がゆっくりと探ると、突起はまるで夜明け前の氷結した蕾のように、驚くほどの硬さで高鳴りを刻む。
その冷たさと温もりの混ざり合いが、身体の奥底で新たな銀河を描き出す。
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微かな汁がちらほらとこぼれ、私の肌を濡らす。
甘美な疼きが脈打つ度に、呼吸は詩となり、鼓動は無言の賛歌を奏でる。
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彼が繰り返し愛撫を重ねると、快感の渦が私を包み込み、時間はゆっくりと溶けていく。
私はただその波間に漂い、深い陶酔へと身を委ねるしかなかった。
彼の舌がゆっくりと秘所の奥を探り抜けると、さらなる禁断の領域が静かに呼び覚まされた。
そこは言葉に触れられない神聖な場所――私がまだ知ることを許されなかったもうひとつの扉だった。
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最初に触れられた瞬間、身体中に電流が走るような衝撃が走り、私は思わず声を詰まらせた。
恥ずかしさと無垢な好奇心が入り混じり、呼吸は浅く、心臓は高鳴り続ける。
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小さな震えが波紋のように広がるたび、私の内側で新たな快感の海が生まれていく。
恥じらいの赤みが頬を染める一方で、身体は抗うことなく甘い陶酔へと溺れていった。
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その強い波に押し流されながらも、私はこの未知の悦楽を愛おしく思う自分に気づいた。
恥じらいと歓喜が同時に胸を締めつける中、深く震える身体が彼の鼓動に呼応し、夜はさらに深い闇へと誘われていった。
かつての私なら信じられなかったその行為も、今はためらいなく受け止める。
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唇を湿らせ、私は彼の蕾をそっと包み込む。
その柔らかな質感は、自分の内側に響く共鳴のように、深い震えを呼び覚ます。
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舌が描く細やかな円環は、まるで新たな宇宙を紡ぐ筆跡のように滑らかで、
彼の蕾は戸惑いと期待を秘めたまま、私の熱に馴染んでいく。
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未知の快楽を貪るその瞬間、私の心は無数の星々とともに煌めき、夜はさらに深い祝祭へと誘われる。
二つの身体が渦を巻く深い夜の中、私の内側で長く燻っていた波がついに臨界を迎えた。
指先が奏でるリズムに呼応するように、私はふいに背中を反らし、胸の奥から弾けるように潮が吹き上がった。
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その白銀の水紋は、まるで森の静寂を破る小川のせせらぎのように優しく、
驚きと解放が交錯するその瞬間、全身を駆け抜けたのは、まさしく生命そのものの歓びだった。
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潮の余韻が胸と腹を濡らすたび、私は初めて自分自身の深海を見つめる。
静かな驚きが頬を染め、全身をひとつの詩に変える甘美な潮騒が、夜の帳を鮮やかに彩った。
これまで薄い膜のように隔てられていたもの――その小さな、しかし確かな壁を、今、取り外してほしいと願いを込めて囁く。
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彼の手がゆるやかに腰へ戻り、指先がそっと触れたその場所で、私は深く息を吸い込む。
目の前で包みが外され、月明かりがふたりの肌を淡く照らし出し、僅かな色の違いが鮮やかに浮かび上がる。
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鼓動は一つに重なり、熱は肌から肌へと直接伝わる。
彼の硬きものが、私の柔らかな渇きの中へ滑り込む感触は、まるで世界が一瞬止まったかのように鋭く、そして優しく私を揺り動かした。
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薄い壁が消え去った今、私たちは隔てなくひとつになり、存在のすべてが交わる。
身体の隅々に宿る熱が解放され、夜は二人だけの深い詩へと変わっていった。
私の身体を縛っていたリミッターが解放され、全身を駆ける熱が臨界点を突破する。
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彼の腰は止まることを知らず、激しさと速さを増して私の内側を乱す。
痛みと快感のあいまいな境界が溶け合い、まるで世界が振動するかのように私の胸は震えた。
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思わず上げた声は、雄叫びに近い高らかな調べとなり、夜空にまでこだまする。
その断末魔のような吐息は、これまで抑え込んできた私のすべての欲望を解き放つ祈りだった。
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身体の深部で燃え上がる波は、渾身の一撃ごとに渦を成し、私を未曽有の快楽の局地へと押し上げていく。
骨の髄まで貫かれる衝撃が、甘美な陶酔の頂点へと私を誘い、夜は二人だけの祝祭をそのまま永遠へと導いていった。
深夜の静寂を震わせるように、彼が私の内で凄まじい弾けを迎える。
熱と鼓動が一瞬にして高く跳ね上がり、私の奥深くへと迸る衝撃は、まるで銀河の星々が爆ぜるかのように眩く広がる。
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私はその勢いを直接受け止め、身体中の神経が一斉に咲き乱れる。
胸の奥から腹の底まで、全細胞が祝祭を奏でるように震え、甘美な余韻が身体の隅々へ流れ込む。
****
高らかな鼓動が合わさり、深い呼気が重なり、やがて静かな安堵と至福の静謐が訪れる。
****
その瞬間、薄明かりの中で交わったすべての熱と光は、永遠の詩となって私たちの胸に刻まれた。
夜の深淵で交わしたすべての熱と鼓動は、やがて静かな余韻となってふたりを包み込む。
薄明かりの中、肌と肌が知り合い、秘められた欲望が歓喜の詩を紡いだあの瞬間は、永遠の一節として心の奥に刻まれる。
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もう誰の視線にも囚われず、自分自身が生み出した悦びの波に身を委ねたこと。
恐れを超え、戸惑いを乗り越えた先に見つけたのは、身体と心が一つになる純粋な解放だった。
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今夜の祝祭は終わりを迎えたけれど、その光は決して消えない。
静かな夜明けの帳の向こうで、私たちは新たな自分へと歩み出す。
魂に響くあの詩は、これから訪れるすべての瞬間に、優しく、力強く、寄り添い続けるだろう。
「お母様は、境界知能なのではないでしょうか」
と言われて、はっとした。
これまで感じていた違和感が、すべて繋がったような気がした。
大人になり母が自分を産んだ年齢に近づくにつれて、母親の精神年齢の低さを実感することが増えた。
母は単なるヒステリックババアだと思っていたが、よく考えてみたらいろいろとおかしな点があったのだ。
まず、語彙が少なすぎる。
自分で言うのも何だけれど、どちらかといえば私は語彙が豊富な方であると思う。
しかしそれを抜きにしても、あまりに言葉を知らなさすぎるのだ。
レクリエーション、秀逸、杞憂、齟齬、前衛的、などの言葉がわからない。
タンクトップ、キャミソール、ノースリーブの違いがわからない。
語彙の少ない幼少期は特段困ることはなかったが、思春期頃に入ると会話が成り立っていないなと感じることが増え、それなりにストレスを感じていた。
話し合いの中で、母は子どもに自分の知らない言葉を使われると、決まってため息を吐き、徹底的に子どもの言い分を無視した。
限界値を突破すると「何を言っているか分からない!うちの子はバカでどうしようもないんだ!」と泣き喚く。そのおかげでわたしは長年「自分はバカで言葉遣いがおかしいから、何を話しても他人に伝わらない」という呪いに縛られてきた。
世間を知らなさすぎる。
田舎から出たことがない、という生い立ちも関係するのかもしれないが、時事ネタや世間の流行を知らない。世情やニュースの話をしても全く通じない。
近所の◯◯さんが離婚したとか、◯◯ちゃんがどこどこに就職したとか、それ何年前の話?というようなクソどうでもいい田舎ゴシップばかり延々と話している。
また、クイズ番組で母が正解している様子を見た記憶がほとんどない。そのくせ子どもが間違った回答をしたり答えられなかったりすると「あんたはバカだね」とか「学校で何を勉強してるの?」とか言ってくるので、無垢なわたしは「おかあさんは相当頭がいいんだな」と思っていた。
そして、無知を補うために平気で知ったかぶりをするし、見え透いた嘘もつく。
自分の過ちを認めない。
どんなに自分が間違っていたことが明白でも、ごめんなさいが言えないし、ミスを隠そうとする。
母はあまり仕事が長続きするほうではなかったのだが、このあたりが原因だったんじゃないかと思う。
仕事のミスを隠すためと言って、金銭を要求されたこともあったので。
人間だから多少の浮き沈みがあって当然なのだが、それにしたって…と思うところが多々あった。
怒りをコントロールできず、頭を掻きむしってうううう!!!と唸る場面もよくあった。
反対に楽しい気持ちもコントロールできないので、騒いではいけないような所で大声を出したりする。
金銭感覚がズレている。
そしてモノへの執着心が凄まじい。
わたしの母は安物買いの銭失いタイプで、安いものをなんでも欲しがった。
流行遅れの服を何十枚も買う。そしてその服を着ることはない。
誰かがいらないと言ったものはなんでももらってくる。洋服、アクセサリー、家電、家具、化粧品のサンプル、とにかくなんでも。
そして母は、犬さえも「衝動買い」した。
金銭的な余裕もなく、生活スペースもなく、家族に相談することもせず、しつけの仕方もわからないまま、安くなっていたからという理由で。
そして近所の人たちに「衝動買いしちゃったの〜」と言いふらしていた。わたしは本当に引いた。
可愛がっているようには見えるが、父親は犬にも平気で暴力を振るうし、メンチカツとか抹茶アイスのような食べ物を平気で与える。母はそれを静観している。
しつけをされていないので、トイレを覚えておらず、家で糞尿を垂れ流している。汚れ防止のために四六時中おむつで生活させられているので、陰部の毛が黄色く染まっている。
犬に罪はないし可愛いなとも思う。でもこの犬を見ていると、心が苦しくなる。
正直おかしい点を挙げたらキリがないのだけど、わたしとしてもちょっと吐き出したいだけだったのでこのへんにする。あんまり詳しく書くと身バレしそうだしね。
親が境界知能だと明確な診断をもらっている人はどんな感じなんだろう。
周りに似たような境遇の人が誰もいないから、インターネッツの海に放流してみる。
感情に任せて書いた文章なので、言葉足らずで稚拙な部分も多々あるけど、読んでもらえて感謝してます。
いろんなコメントあるので補足的なやつを。
わたしは鬱と不安障害があるので、医療機関と提携したカウンセリングを受けているよ。
コメントにもあるけど、カウンセラーの先生は、あくまで可能性を提示しただけであって、診断を下したわけじゃないっていうのがわたしの認識。でもちょっと断定的に書いちゃった部分もあるから、それは良くなかった。ごめんね。
わたし自身の知能は分からないけど、ADHDではある。ちなみに兄弟は中度知的障害。そのへんも踏まえて、もしかしたら…っていう話だった。ただやっぱり親自身に検査を受けてもらうというのは難しいだろうから、自分の中でこういった仮の結論付けをすることですこし楽になるかも、というような感じだったよ。
あと、わたしは高校を出てからずっと親とは別居していて、犬を飼ったのはその後のこと。
そして…読んで分かる通り、父親もかなりヤバいです。(それもちゃんとカウンセリングで話してるよ)
でも今回は母親にフォーカスを当てたかったので、そっちの話を中心に書いてたら、なんの脈絡もなくとつぜん暴力ジジイが登場する感じになっちゃった。ホンマに文章が下手でごめんよ…
追記はもうしないと思う。疲れちゃうからね。本当にちょっと吐き出したいだけだったんだ。仲の良い友達は家族に恵まれている人が多くて、親を悪く言うと糾弾されることが多いから、気持ちの捌け口が欲しかったんだよね〜
読んでくれてありがと!
Permalink |記事への反応(30) | 23:04
まだお腹が空いたとかオムツが不快とか眠たいとかで一生懸命泣いて、抱っこしたら泣き止んでこっちをじっと見る。
人間って生まれた時は無垢なんだなってしみじみ思うし、生むまで子どもかわいい〜ってタイプじゃなかったけど自分の子供も周りの乳幼児も愛おしく感じるようになった。
これからいろいろ挫折を味わったり不条理な出来事に遭うこともたくさんあるだろうけど、健やかに自分も周りも愛せる人間になって欲しい。
最近Twitterで移民が!とか治安が!っていうのがたくさん流れてくる。一回見ちゃったから類似ポストがサジェストされちゃったんだろうしたくさん見過ぎると病んじゃうから今は猫ポストを一生懸命見てるけど、やっぱりどうしても不安。
もちろん外国人を受け入れることにデメリットしかない訳じゃないとは理解しつつも、国民性の違いや文化の違いからの衝突や摩擦はどうしても生まれると思うし、見境なく移民を増やして目先の労働者数増やすよりも日本国民が出産しやすい環境を作るなり犯罪を犯した外国人に対する対応(即時国外退去させるとか)をもっと強化するなりあるんじゃない?と思ってしまう。
受け入れる側の日本人の知識が不足してることもある。外国人雇っておきながら、「在留期間過ぎてるけど更新後の在留カードは見てません」とか。全てに対して国からの周知と罰則が許すぎる。
性犯罪も怖い。毎月のように教員の校内盗撮のニュース、大人の未成年への強制わいせつのニュースが流れてくる。再犯での逮捕も多いし、捕まって裁判受けて刑務所入るっていう多大な税金かけて更生したはずの人間がまた加害者になって、その度に傷つけられた被害者がいるってことがやるせない。
やったもん勝ちになってる現状、辛い。
選挙は毎回行ってる。他に娘の将来のために何かしておいた方がいいこと、できることってあるのかな。
基本的な防犯については物心着いたら教えるけど、子どもが中学生とか高校生になる頃に日中でも人通りがある夜道でも1人で歩くのは危ないような社会になってたら悲し過ぎる。
その歩みは石を震わせ、瞳には飢えとともに、
夜を渡る沈黙が宿っていた。
人々はざわめき、
「これは災いをもたらす」と叫び、門を閉ざし、
鉄の影を振るった。
その夜、血は石畳を濡らし、安らぎは胸に
やがて街に異変が始まった。
木々は花をつけても実らず、
小さき獣は群れをなし屋根裏に忍び込み、
皿に灯る糧は静かに痩せていった。
市場には品が並んでいても、欠け落ちた響きが
あり、子らの笑いは乾いた風にさらわれて
いった。
夜空には無言の灯がともり、風は塔を
渡りながら囁いた。
――退けられたのは災いではない。
眼は言った。
声も、火薬を含んだ囁きも、見逃すことはない」
影は答えた。
「いや おまえは恐れを嗅ぎ分けているだけだ、
刃は人の手にあり、声はただの息にすぎぬ」
眼は言った。
無垢なる者を護るために」
影は答えた。
「いや 籠は風をも閉ざす、歌は絶え、空は痩せ、
沈黙こそが恐怖を育てる」
眼は言った。
荒らされ、声なき屍が残る」
影は答えた。
「いや 門は壁を呼び、壁は牢を呼ぶ、牢に
囚われるのは、おまえが守ると言う者
そのものだ」
眼は言った。
見張り、燃え広がる前に鎮めるために」
影は答えた。
「いや 火は光をもたらす、おまえが恐れに塗れた
水で消せば、闇ばかりが残る」
眼は言った。
「わたしは川の流れを測る者だ、濁流となりて
街を呑み込む前に、その源を探り、手を打つ
ために」
影は答えた。
「いや 川は生を運ぶ、おまえがせき止めれば、
渇きこそが人を滅ぼす」
そして眼は静かに言った。
「だが 刃が胸を裂き、火が街を焼き、川が人を
呑む時、おまえは何を与えるのか」
影は首を振るように答えた。
「そうだ おまえの門も、籠も、火の番も、
川の測りも要る。だがそれらは恐れのため
ではなく、歌を守るために、風を通すために、
ならぬ」
その言葉の後、影と眼は一瞬だけ互いを見つめ、
同じ空の果てを仰いだ。
そして夜は二つの声を抱き、答えを告げずに、
ただ深く沈黙した。
https://anond.hatelabo.jp/20250908163905
俺は大学生の時、予備自衛官補の訓練で銃を撃ったことがある。64式小銃という銃だ。狩猟やスポーツのためではない、純粋に「人を撃つために作られた、戦争をするために作られた軍用銃」だった
その銃床を肩に当て、撃った瞬間、日本人が考え得るもっとも強力な「戦争と殺しの道具」を手にしたと錯覚した。
…あの時は、それ以上に強い武器はないと思っていた。だが、人間が人間を苦しめる手段に限りがないことを今知らされている。人は、人を軍隊や武器で殺すばかりではない。視線と、言葉と、善意ですら、人を壊すのだ。
14歳の兄の娘は、俺がかつて持った64式小銃よりも恐ろしい武器をその小さな心に浴び続けた。それは悪意と性欲という視線で心臓を撃ち抜かれ、言葉のナイフが幼い心を裂き、さらには善意や親切でさえ…猛毒の毒矢となって彼女に降り注いだのである。彼女が生まれる遥か前、俺が4歳や5歳の頃、オウム真理教というテロ組織が世界初の首都圏化学兵器テロを実行した。その時、俺のよく知る秋葉原駅でオウムの実行犯の一人はサリンを散布したという。彼女にとってはそれをも超える「視線と言葉と善意の化学兵器」が小さな体に降り注ぎ続けたのだ。
兄の娘は、母親の容姿を引き継いでいる。今となっては、その美貌は、彼女にとって祝福ではなく災厄であった。俺が見ているウマ娘というアニメ、その中のトウカイテイオーという少女が面影も立ち振る舞いも似ていると感じていた。
まだ14歳の幼い彼女をその獣欲を満たそうと、有象無象の無頼の輩がやってきていた。それは、昔教科書で見た百鬼夜行絵巻を俺に想起させた…人間は時に、妖怪よりもよほど醜悪である。
悪意ある大人たちは、艶めかしい視線と卑しい言葉を彼女に浴びせ続けた。その感情は毒であった。幼い心は、その毒に壊されていった。俺も父も、完全にそれを防ぎきることはできなかった。
悪意ある「大人」たちに艶めかしく気持ち悪い性欲のこもった眼と言葉と感情を向けられ続け、彼女の心は壊れた。
だが、何も悪意と性欲だけが兄の娘の心を壊したのではない。転校する前の私立、そして小学校時代の学友や友人が、彼女を心配したのだろう。クラスで書いた寄せ書きを持ってきたことがあった。思えば、代わりに俺かルカねえが受け取るべきだった。
それを見た彼女は、半狂乱で泣きわめきながらそれを引き裂いた、破いた。布団に伏し、捨てられた小動物のようにおびえて泣いた。彼女にとってもはやクラスメイトの向ける善意や純粋な心配や好意は、彼女の心を引き裂く研ぎ澄まされた言葉のナイフに変わっていたのだ。
俺は内心悲しみを隠せなかった。「また遊ぼうね」、「元気?」…子供らしい無垢な励ましの言葉だ。数々の言葉は彼女の心を締め上げる呪詛の呪文以外の何物でもない。感受性の強い彼女の壊れた心は、もはや善意や幸せを受け止める器の形を保っていなかったのかもしれない。
兄は娘と伴侶の心さえ破壊していく毒を残していったのだ。あまりに業の深い行為である。
…補導した警察官の話によれば、彼女――兄の娘はトー横でさえ価値観や会話がかみ合わず、容姿ゆえの性欲しか同年代の落ちこぼれたちからさえ向けられなかったらしい。
同性からは「見てくれのいい生意気な女」、異性からは「エロい女」、救いを求めて流れ着いた場所でさえ、彼女の前に待っていたのは俺達が防ぎきれなかった悪意と性欲のねばついたマナコと、悪意と嫌悪の眼だけだったようだ。
…彼女が求めた救済の場は、結局、欲望と嫌悪の眼が渦巻く修羅の巷であった。
兄が望んで往った「キラキラした人生」…見栄と虚栄と虚位と、嫉妬と悪意と打算と性欲が渦巻く世界に、行きたくもないのに叩き落とされたのだ。感受性の強いその娘が、望んでではなく、強いられて。
俺は兄の位牌を蹴り飛ばしたい衝動にかられた。どこまでも身勝手で自分勝手だった兄の残した業と毒…身勝手で、他者を顧みぬ男の残した毒は、一人の少女の心を取り返しのつかぬほど破壊してしまったのだ。
…兄の娘の心が再びその瑞々しさと平穏を取り戻せることを、俺と父はその祈りにすがるしかないのである。
Xを覗くと、思いがけず俺の書いたものが拡がり、人々の口端にのぼっていた。
群れをなすオッサン達の姿は、かつての兄に重なった。彼らは互いに「自分は違う」と言い訳しながら、同類であることを確かめ合っている。肩書を飾り立て、やれどこぞの企業の社長だ、案件募集だ、AIがどうとか…
実体の乏しい言葉を繰り返すだけで、そこにあるのは哀れにも似た虚ろさであった。恐らくAIの意味も分かっておらず、それを錦の御旗にすればルカねえや俺の様なITに音痴な人間がすごいと思って枕詞につけているのであろう。一抹の哀れさすら感じる連中である。
俺はそれを見て、葉の裏にくっついて擬態しなければならぬ雑虫の輩の羽虫が、アスファルトにへばりついて隠れているかのような場違いな滑稽さを感じた。
だが、それを笑えるであろうか?彼らの有り様は、兄と同じだ。都市の灯に集う羽虫に似ている。かつて昆虫が森の落葉の陰に潜み、その自然の中で調和していたように、彼らもまたあるべき場所を持つはずであった。しかし今はアスファルトに貼りつき、光に惹かれ、Xの上をただ滑稽に舞う。
そう思えば、彼らの姿は羽虫に似ている。自然の中で葉裏に潜む虫であれば、まだ調和がある。だが都市の舗道に貼りつき、光に群がる姿には、どこか場違いな痛ましさがあった。兄の変貌もまた、その群れの一つに数えられるべきものだったのであろう。
俺みたいな人間から見れば、虫と同じだ。虫マニアや昆虫学者ならナントカムシだのウンタラムシだの名前と種類が違うことがわかるのだろうが、俺から見れば兄と同じくネットの虚妄で自尊心が毒虫の様に肥大化し、ITという腐葉土に群がる虫の様にしか映らない。そこには嫌悪と侮蔑の感情すら感じていた。
俺と父が見た、傷心のルカねえや兄の娘に群がっていった、性欲に狂った目でイチモツをオッ勃たせる事も気にせず…いや、寧ろ見せつけて嫌がる様に性的興奮すら感じているのであろうとしか思えない程の下劣で教養のかけらもない言葉遣いと毒笑を浮かべた自称「IT企業の社長」、「ITコンサルタント」、「芸能界関係者」、「スポーツ関係者」と同じにしか見えない、日本社会の闇に蠢く虫の様な輩の姿を再び見て、俺は暗い気持ちを抱えざるを得なかった。
―――これを見て、折に触れて思い出すことがある。トー横で兄の娘が補導され、俺と、そしてルカねえが引き受けに行った時の光景だ。
西武新宿から降りてすぐ左手のパチンコ屋に、姉妹のメイドと一人の王女が映ったアニメキャラの大きな看板がある、なろう小説の有名なアニメ、Reゼロのキャラクターだという。
その看板の下で兄の娘とルカねえと俺は合流した。
生前、兄もこのなろう系というものを好んでいた。そこには性格がひん曲がった社会の負け組の中年や引きこもりが、タナボタでチートなるパワーを得て死んだ先の世界で無双し、美少女に囲まれるという、あまりにも惨め過ぎる夢物語の内容が主で、兄と同じく氷河期世代の中年男性に人気だと聞く。
自業自得の自らの業と虚栄により、人生を自ら追い込み、ありもしない一発逆転に縋って、それでも「馬鹿にされる」、「男のメンツ」とくだらないプライドを持ったまま憐れに、惨めに、そして滑稽に独り相撲を続ける兄の姿を、兄自身も歪んだ認知の中で重ねていたのだろうか。少なくとも俺には、兄が彼の好むスバルだのカズマだのゴブリンスレイヤー何某だの、ロードウォーリアーズだかオーバーロードだとか、転生スライム男だという何某の様なキャラクターにダブって見えた。
ああ、空想の中の異世界では自尊心が毒虫の様に肥大化した彼らの他責思想と無法を通したとしても、都合よく逆転し、美少女に愛され、英雄になれるのであろう。だが現実は冷たい経済機構の歯車が迫る経済大国の社会の枠組みの中だ。そんな人間は、社会から「いらない存在」として排斥される。兄の憧れた彼らなろう主人公にも、ルカねえや娘、俺達に忍び寄る「社会の底辺と闇の世界の住人」達の世界で生きることもできないだろう。
その末路は兄と同じなのやも知れない。
思い出す。京都アニメーション放火テロ事件の主犯である青葉真司という氷河期世代の中年男性がいた。彼も熱心に「小説家になろう」に投稿していた男だったと裁判で証拠として提出されている、とニュースで見た。
そんな彼は狂って自らと無関係な大勢の他者を燃やして死んだ。実に身勝手な男だ。いつか兄が見ていたどこぞのなろうアニメの様にエクスプロージョンなどという魔法でも放ったつもりだったのであろうか?身勝手にクソをヒリ出し首を吊って死んだ兄も同じではないであろうか。ガソリンをぶちまけて火を放って焼け死のうとした青葉、身勝手に首を吊り糞と精子をヒリ出し死んだ兄。炎か汚物かの違いでしかない、俺はそう思っている。
もしくはすべてを投げ出して生きている俺達に迷惑をおおかぶせたまま、兄は自ら命を絶ち、勝手に「異世界転生」をしたつもりなのかもしれない。
…だがその先に、美少女を抱く未来も、英雄となる舞台も、永遠に訪れることはない。現実は冷酷であり、兄の望んだ「なろう」の世界は、永遠に来ないのである。
――あれは兄の娘が中学受験に受かった翌年の夏だっただろうか。
音楽関係の仕事についていたルカねえの血を継いでいるのか、兄の娘は感受性が強い子だった。
兄の家族と俺とで、片瀬江ノ島にいった夏の事だった。成層圏の黒みがかったほどの抜けるような青空と入道雲が眩しい日の事だった。
――思えばそのころにはすでに破滅の足音が家族にも忍び寄っていた。それを幼い感受性で感じ取っていたのだろう。受験で塾通いで詰め詰めだったと言い訳をしながら、兄の娘の無邪気なはしゃぎぶりは今でも記憶に強く残っている。
…それは、終わりゆく夏と自分の人生のこれからの先を予見して、一秒一秒、終わりゆく夏の光を記憶の琥珀に、粒に封じ込め、未来の闇に消えぬように思い出を刻み込もうとしている様だった。砂を蹴って無邪気に走り回る姿が、今なお俺の記憶を去らない。
すでに破滅の足音は背後に忍び寄っていた。その予兆を、彼女の鋭い感受性は察していたに違いない。当時はまだ13歳になる手前の12歳頃であっただろうか。年の割に無邪気にあふれる様な歓喜をしめしていたのも、せめて一刻を永遠に刻もうとする幼い魂のあがきであったかもしれない。
…今思えば彼女は知っていたのだ。この夏が家族の、ひいては彼女自身の人生の、ひとつの終幕であることを
俺とルカねえはその光景悲しくて居た堪れなくて見ていられなかった。憔悴しきっている兄は、娘のその機微にすら気が付いていない。その鈍さが、憐れで腹立たしくてしょうがなかった。
江ノ島神社で、お参りをした時、彼女は俺達よりずっと長く目をつぶって祈っていた。彼女の小さな肩は震えているように見えた。強く強くと神様に願いをかける様に。ルカねえと俺は彼女に聞いた、そんなに長く何をお祈りしてたの、と
「みんな仲良くこれからも暮らせますように」、「今の私が大切に思ってることが消えてしまわないように、消えてしまってもぎゅって守っていられるくらいの強さをくださいって」
…あの頃を思い出すたびに俺は自分のふがいなさと弱さに泣きそうになる。胸の奥底で嗚咽をかみ殺した。世の非情さを思い知らされたからである。だが、彼女は違った。あの瞬間、彼女はすでに、世の無常をその小さな胸で受け止めていたのだ。心が壊れ、すべてが崩れ去ろうとするなかでさえ、彼女は自らの「大切に思っていること」を決して手放さなかった
ーー兄の娘は、祈った。今でも忘れえぬことは、心が壊れてしまってもなお、彼女は自らの「好きな色」を忘れず、強く固執していた。
好きな色を聞けば必ず彼女は答える。
好きな色は、「みずいろ」と
…それは夏の空の色であり、壊れ行く者が最後に抱きしめる儚い希望の色だった。心が壊れてしまった彼女が胸の奥にひそかに抱いていた、あの淡い祈りの色である。
… 兄の業に翻弄され、家族が砕け散るなかで、彼女はこの「みずいろ」だけを守ろうとした。
滅びゆく者が抱きしめる色――それが、みずいろであった。
…今も俺の机の上、地獄の入り口のPCのブルーライトの光に照らされ、小さな球体の中の「みずいろの世界」に抱かれて泳ぐ小さな鯨とともに、その色は俺に語りかけている。その色は、淡く、だが確かに輝き続けていた。
兄の人生をたどる旅を終えて今わかった。兄の姿は彼らの現身なのだ。彼ら、彼女らの飾り立てるIT技術で変わる世界の美辞麗句にどこか詐欺師の語るような違和感を感じざるを得ない理由も、今ならわかる。
彼らは本当は、ただ自身の毒虫の様に肥大化した自尊心と、自己顕示欲、性欲、俺だけが主人公、それ以外はモブ、そんなあまりに幼稚で下劣すぎる欲望を満たしたいだけなのだ。力も度胸もないからテロリストや反社にでもなることもできず、またその方法もこの天下泰平の法治国家日本でわかるわけがなく、それを叶える魔法の道具に「IT」を選んだだけにすぎない。
彼らのいうAIだとかiPhone何某だとか、LLMだとかいう言葉を「拳銃」や「爆弾」と言い換えて見よ、何も矛盾することはないではないか…彼らの中に「自分」以外の存在は介在していない。かつての兄と同じである。
思えば、人類の歴史とはかくのごとき欲望の繰り返しである。古代に鉄剣がそうであり、中世には火薬がそうであり、近代に機関銃や戦車がそうであった。令和の世においては、それが「IT」であるというだけのことだ。
だが彼らの願いが叶うことは永遠にこないと思う。その末路は令和の世に入ってから幾らでも例があるではないか、孤独の業火に焼かれた青葉、狂気の刃を振るった平原、性欲と憎悪に欲望に溺れた和久井――いずれも同じ末路に至った。兄の姿もまた、その一つにすぎなかった。
ITを神輿に美辞麗句を飾り立てる彼らも兄と同じく、一皮むけば糞と小便と涎とザーメンの混合物…汚物の様な感情だけで動くそれらが詰まった肉の袋、人とは言えぬ何かでしかないのだ。
今では、ミサイルや爆弾を落とすにもスマホで写真を撮ってSNSで座標を知らせる、ということまでウクライナで行われ、かつてのアフガニスタンでは行われていたらしい。ITで世界は確かに変わった。だがそれは悪い方向に、でしかない。
――窓の向こうで、東京の都会の灯がうっすら見えている。
ルカねえや兄の娘、そして兄と見た府中は分倍河原の夜の様な星空は、その虚栄の光に隠れて見えなくなっている。
羽虫の様に光に集まる人々たち、欲も善も悪も聖も全てのみ込んで、東京の夜は深まっていく、田舎と都会の合間に住まう窓の外を見て、何とも言えない兄と、人の業の深さを感じている。
窓外に目を転ずれば、府中の夜空に瞬いた星は、もはや東京の灯にかき消されていた。星が見えぬということは、文明の光に包まれているということである。だがその光は、羽虫の群れをも包み込み、欲も善も悪も、すべてを呑んでしまう。
兄はなぜ首を吊らなければいけなかったのか。なぜ変わってしまったのか、ルカねえと兄の娘はなぜあんな目に合わなければならなかったのか。なぜヒーローは助けに来なかったのか。
星空も夜も、そして東京の光も、この苛立ちとも悲しさとも怒りともつかない感情の疑問に、答えを出してくれない…時は、ただ深夜二時の時間だけを静かに刻んでいる。
https://anond.hatelabo.jp/20250907140118
人間の善意ややさしさは、ときに逆説的に、魑魅魍魎を呼び寄せる。地獄とは死者の後にあるのではなく、生者の営みのなかにこそ現れる。
残されたIT会社の社員の人たちは、現場?に入ってる別のパートナー会社?というところの人たちが引き受けて業務は継続することとなったらしい。つまり、吸収のような形のようだ。俺はIT業界で働いたこともなければ、経営なんてしたこともないのでこれ以上の詳細はわからない。
webベンチャーで始まった会社は、兄の無法により傾いた会社をどうにか回すため、客先常駐業?を始めたらしい。それに反発して大量の社員が去っていった。後に残るのはわずか数人、というありさまだったらしい。兄もその「客先常駐」の一人としてよその会社に働きに行っていた、という。
ただ、どうも兄の葬式などの手続きで奔走している間、伝え漏れてくる奥さんや他の人たちの話を聞いていると、兄の会社が傾いた理由は、本業のITのせいではなく、兄が多角経営をしようと株(先物?)だとか、不動産だとかに手を出した結果、凄まじい損が出た結果らしい。
本人は「時代の潮流に乗る」と信じていたのだろう。だが歴史をひもとけば、一発逆転を夢見た者の多くは滅んでいる。兄がかつて憧れた15年前の意識高い系のインフルエンサーといった生物たちで、現在でも生存している人間はいるだろうか?彼らは当然の如く時流を見誤り、あえなく路傍に果てた。兄もまた、その群像の一人ではないだろうか?
当人は良かれと思ってやったのだろう。6年か7年前だっただろうか、「ネットを見てみろ、大体みんな投資やっているぞ」、「ある程度不動産も回さなければ安定した経営はできない」、「Xで有名な〇〇さんだって…」と実家に帰省した度に兄がよく自慢していた。
俺は口が裂けても言えなかった、「それ」は本当のことなのか?本当に儲かってる奴が儲かってるなどとネットで公言するだろうか?アポ電強盗さえ流行しているご時世に。
兄が憧れた「キラキラ生活」もそれだ。本当にキラキラした人生やキラキラした生活を送っている美男美女は、そんな自慢はしない、そもそも、ITベンチャーの社長などと名乗っている奴らが本当なのであれば、気〇いみたいにXなんかをしている暇なんかないであろう。少なくとも俺はそう思うし、業種は違えどそれほどの責任ある立場の人たちはみんなそうだった。忙しいのだ、単純に、世の中で暇な社長などいるであろうか?いたら見てみたいものである。
「キラキラした世界」で生きていたルカねえもそうだ、彼女は兄の様に見栄を張らなかった。ありのままに自然や世界を見つめていた。それは俺でさえ忘れてしまいそうな人間として当たり前の自然と調和した感覚なのではないだろうか?
…だがそんな中でも兄は「キラキラ生活」をやめようとしなかった、「いつか一発逆転ができる」…追い詰められた人間特有のありえない夢想は、かつて子供の頃の俺に「ITで世界は変わる」と語っていた夢が首を吊った時にヒリ出した糞と小便とザーメンで混ざり合って変質した思想だ。
当然、現実はそれを許さない。それを粉砕するように冷たく回るこの経済大国の社会の前に、心が折れた兄は首を吊って自殺した。
兄の自殺死体の第一発見者は奥さんだったようだが、学校が終わって帰ってきた娘も居合せたという。
生きている人間には絶対できないトカゲの様に舌をたらし、小便と糞便と精子を漏らし縊死して「てるてる坊主の様に(俺の父が形容するには)」になっている兄の姿を見て、娘はしばらくショックで意識を失っていたという。
俺はそれを聞いて、朴訥だったIT少年だった兄にまとわりついたITや情報化社会の「毒」が抜けて出た汚れが、首を吊っててるてる坊主になった下にたまった糞と小便がブレンドされた汚物なのだろうか、と思った。
兄の魂は天へ昇ったのではない、虚勢と見栄と業でがんじがらめになって、ネットの海と地の底の闇の世界へと、魂は糞と小便にザーメンに溶け混じった汚物と混じって堕ちていったのではないだろうか、その死に様を聞くたびに、そう思わずにはいられない。
今も兄の娘はトラウマと精神疾患で、精神科に通院をしている。音楽関係の母(兄の奥さん)を持つだけあって、芸術に素養のある血統があったのだろう、絵画のコンクールなどで受賞した利する程だった彼女は、とてもではないが形容できない闇の深い滅茶苦茶な絵をかいたり、黒く塗りつぶした様な絵だとかに変わっている、という。
それはまるで、兄が縊死した末に堕ちていった世界の一端を描いているかのようだ。芸術とは本人が意識せずとも、世界の裏側を映すことがある。兄の娘の病んだ絵は、父が堕ちていった闇を娘故に見えてしまったのかもしれない。
それだけのことをいうのにも理由がある。兄が死んでから暫くというもの、ルカねえの「音楽関係時代の知り合い」や「兄のビジネスパートナーの会社の社長」、「経営者友達」などと肩書だけは社長だと名乗る風体からして怪しい連中が押し寄せて、兄の娘を「芸能界デビュー」させようと、「おじさんに何でも相談して」等と明らかに性的搾取をするために下心丸出しで群がる様になった。電話、line、SNS、酷いときには登下校中の彼女に対して、性欲にギラついた性獣そのものの目を向けて兄の娘をそのいきり立った股座を隠すこともなくケダモノの様な獣欲でモノにしようと群がっていたという。その光景は、死にかけた草食獣に群がるハゲタカやハイエナを想起させた。(当然、即俺やルカねえや父たちは警察に相談して事なきを得た)
――兄の娘は、制服を見るだけでもそれを思い出して立てないくらい立ち眩みを起こして何度も吐く様になった、これを心身症という。日本社会の底辺に沈殿した悪意と欲望が、無垢の少女にまとわりついた結果である。
俺と父はそれに対処しながら、「本当にこんなエロ漫画やエロゲーみたいな種族が日本にいるのだな」と内心思っていた。これもまた、兄の見栄と虚勢と業が生み出した禍だ。
「あのルカねえのセンスを受け継いでてカワイイこの子がこの業界にこないのは人類の損失ッスよ!俺にプロデュースかませてくださいよッ」、俺たちの前で軽薄にチャラついて兄の娘に獣欲を隠しもせず艶めかしく気持ちの悪い目線を見せている、山師の様な連中、普通の人間であればしない臭いが鼻を突いた。後で警察官の知人に聞いたところによると、大〇を吸っている人間はそんな臭いをまとわせるのだという。不思議なことに、獅子舞の様にドレッドヘアーを振り乱して、制服姿の兄の娘をチラチラみながら軽薄と欲望と悪意と性欲を向けて喋る彼の顔が、俺にはかつての兄に重なって見えた。
何の罪もない感受性の強い14歳の娘に、社会の底辺からの悪意と性欲の手と邪眼の様ないやらしいマナコが常に体にまとわりついている。残されたルカねえと兄の娘にとって、これほどの地獄があるだろうか?(俺が14歳の頃といえば、こっそり家でネットのエロ同人でオナニーをして、昼休みはクラスで遊戯王カードでバトルが開始され、部活で汗を流し、職員室や校長室の掃除で教頭や校長と話をして大人の世界の一端を聞き、校庭の向こう入道雲と未来に思いをはせて大人に背伸びしていた気になっていたような年頃だ)
だがしかし、この地獄は兄一人の死から生まれたのではないと思う、虚栄と業に囚われた一人の男の末路が、時代と社会の病を照らし出したにすぎない、俺はそう思う。
時期はぼかすが、兄の娘が警察に補導された。学校にいてもほとんど「体調不良」で保健室にこもりっきり、周りともうまく合わせることが出来ず。彼女は流れ着いたトー横で警察に補導された。
間一髪だったと思う、しかし明らかにその様子は精神的にも異常だった。俺や父にまで肉体関係を結びたいとほのめかすような言動をしていた。当然母にいってルカねえと即心療内科へ連れて行った。彼女は社会の闇の部分の悪意に当てられて、身を守るために「女」であることを、まだ齢14や15で覚えてしまおうとしている、俺と父は背筋が凍る思いがした、人はこんな簡単に「壊れる」ものなのかと。
聞けば、ルカねえが精神科への通院をやめさせたらしい。彼女が最後に縋ったもの…それは自殺した兄と同じく根拠のない「願望妄想」の亜種であった。
精神科からの投薬でさらに精神状態が悪化したとルカねえは考えたのだろう。通院を辞めて怪しい漢方薬やら青汁やらといった民間療法に縋るようになった。娘がそんなもので心が治るはずもない、それさえもわからないほど心がすり減ってしまっているのだ。
気功、波動、そんな怪しい連中になけなしの金を払って縋り付いている。俺にはそれが腹立たしくて悲しくてやりきれなくて仕方がなかった…彼女たちは何も悪くないというのに。社会の底辺の悪意が彼女から弱った心に付け込んで、社会の底に漂う闇が、弱き心に牙を立てている。金も全てを奪い去ろうとしている。まさにこの世の地獄がそこにあった。
俺が暮らしていた府中の大国魂神社は、この地に古くから鎮まる武蔵国の総社である。神社はかつて人々の心をつなぎとめ、共同体の絆を保つ拠点であった。しかし近代の都市化のなかで、古き信仰は力を失い、かわって都市の片隅に怪しい宗派が芽吹いた。
トドメとばかりにルカねえの前に「例の壺売り」の亜種の様な連中やら似非神道や仏教やキリスト教の一派、様々な怪しい宗教がどこから聞きつけたのか搾取しようとやってきた。その姿は、山中に棲むヤマビルを思わせた。磨り減った心に吸いつき、血を啜ろうとする。もはやルカねえにそれをはね返す力は残されていなかった。
それでも俺の両親も、俺もどうにかこうにかマトモな生活ができる様に接し続けていた、助け続けていた。普通に生きてたら恐ろしくて相対することも怖い様な「墜落したUFOから這い出てきた宇宙人」の様な連中が夏の蚊の如くたかってくるのを追い返しながら、
思えば、それもまた兄が、ありもしない見栄や虚勢をネットとSNS,そしてITに見出して引き寄せた業そのものだ、ただ伴侶で、娘というだけで、日本人で普通に生きているのならば一生見ることもなく、また普通の人間なら見てはいけない世界や存在を業として背負わされている。
そこには10年ちょっと前のあの日、府中は分倍河原で見たプラネタリウムと、あの日の帰路の夜見た星空の様な綺麗な「夜」ではない。あのとき見た星は、清澄で、人の夢を誘うものだった。だが違う、これは悪意に満ちた「闇」である。そこに希望も夢もなく、ただ人の毒が漂っている。兄の娘とルカねえは、その闇に呑み込まれた。彼女らが何の罪も犯していないにもかかわらず。
夜と闇の違いがあるとすれば、そこに人の希望や夢があるかどうかであろう。闇に潜むしかない生まれや育ちの人間だって、確かにこの社会にはいるのかもしれない。しかし闇は、夢を赦さない。兄は本来、朴訥なIT好きの少年であった。
だがいつしか、踏み入れてはならぬ領域に足を進め、虚栄と虚飾に体と心を食い尽くされた。そこに群がったのは、毒虫のような人間たちであった。
――そんな中で記憶に残っている光景が一つだけある。ふとそんな雑輩の対処に父とおわれている時、土日の朝であったであろうか。仮面ライダーやウルトラマンがやっていたのを見た。銀幕の中で「悪の怪人、怪獣」と戦う彼らの姿を見て、俺と父は思わず鼻で笑った。
ウルトラマンも仮面ライダーも、現実には存在しない。彼らが戦うのは彼らと同じく怪獣や怪人といった架空の世界の存在だけだ。子供たちのヒーローは決して、俺たちが今戦っているようなグロテスクな社会悪…欲望と虚栄に塗れた人間たちとは理由をつけて戦わない。
「ヒーローの超人的な力はただの人間に振るってはいけない」だとか「どうしようもない存在に等しい力でとめるのがヒーローだ」と言いつつ。笑ってしまう、現実には彼らなど「警察官立ち寄り所」のシールが張られたコンビニ以下の抑止力しかない。そう、ウルトラマンはいないし、仮面ライダーは助けに来ない。それがルカねえと兄の娘の前に横たわった冷酷な現実だった。そして、それと戦っているのは今まで荒事などに遭遇したこともない、普通の人生を生きただけの牙も爪も持たぬ一般人である父と俺だった、仮面ライダーやウルトラマンといった存在ですら「理由をつけて戦わない程厄介極まる社会悪という敵」と戦う俺たちは、スペシウム光線も打てなければ空も飛べない、ライダーキックもできなければサイクロン号にものっていない。持っているのは柔道初段、乗ったことがあるのはスーパーカブだけ、戦闘技術らしきものといえば、大学の時夏休みを利用していった予備自衛官補の訓練だけだ。64式小銃を執銃するたびに指の皮がむけてバンドエイドを張り、分解結合は3分もかかった。的には実弾射撃で一発も当たらず訓練を終えた。そんな凡骨が、警察をも恐れず14歳の少女の瑞々しい肢体を欲望の毒牙に掛けようと闇から這い出てくる、犯罪を生業とする無頼の連中と、矢面に立って戦わされている。
実際は、俺たちの知っている「正義のヒーロー」など、企業経営のための利潤を求める売り上げ高のある「商品の一つ」にすぎない。ああ、立派な志を掲げて人々を守ると誓い、TVの画面の向こうで勇ましく戦ったにもかかわらず、今はマニアのオタクしか知らずにその活躍も存在も忘れ去られたヒーローなど幾らでも昭和の昔からいたではないか。秋葉原に行けば、かつて大志を掲げて戦ったはずの昭和のヒーローたちが、忘れ去られ、玩具の片隅に埋もれ、ショーウィンドーに忘れ去られた玩具として並べられている。
かつてTVの向こうで戦った英雄たち…ショーウィンドーや中古オモチャの箱に押し込められ、埃をかぶったその姿は、もはや仏像の破片の如く、往時の光を失っている。
そして、せめて闇に堕ちた兄が唯一這い上がれる救済の光を出し続けていたルカねえや娘は兄の引き連れてきた「黒い遺産」である彼らに闇の毒牙を突き刺され、心が壊れた。…壊れてしまったプラネタリウムはもう星空を照らさない。また直ることは決してない。
――弟である俺が言うのもなんだが、兄は地獄へ堕ちている、と思っているし、堕ちていなければならないと思っている。彼はそれだけのことをしてきたからだ。
俺のパソコンは窓側の後ろにある。目が疲れたら遠くの景色を眺めるためだ。
遠くには街の灯りがうっすらと見え、人の営みがまるで夜の闇に「プラネタリウム」のように輝いている。
…あの星の一つ一つには物語がある、人生がある、それらが輝き合って社会と世界を作っている。兄は、それに最後まで気が付かなかった。ネットとSNSとITの毒に当てられ、自尊心が毒虫の様に肥大化し、自分を一番星の生まれ変わりと信じようとして…星は無間の闇へ堕ちた。
PCの画面に向かう時、俺は兄が落ちたこの世の闇と地獄への入り口を同時に覗いているのだ。そう考えると背筋が凍る思いがした。
ただの0と1の数式で動く電気計算機でしかないPCは、社会の闇と地獄を、一生関わり合いにならない人たちを引きずり込むほどの魔力を手に入れた、それは皮肉にも、「ITで世界は変わった」と言えるのであろうか。俺達が想像した方向性での世界ではなく。暗い闇と地獄の窯として。
HDの上にはみんなで江ノ島に行ったときに水族館で200円のガシャポンで買った、青く透明のスーパーボールの中に、シロナガスクジラが入っている。
空とも海ともいえる闇とは無縁の蒼い世界を泳ぐ鯨を見て、闇と地獄が忍び寄る影が消え去っていくような気がした。昔、兄がやっていたPCゲーム「最終試験くじら」を思い出していた。内容は覚えていない。ただ曲と世界が綺麗だった。よく今はなきMDで曲を聞いたことをよく覚えている。繰り返し聴いたあの曲は、蒼い空と海を思わせた。そこには、ルカねえや娘に群がった下劣な人間たちの姿はなかった。ただ清らかな青があった。
ルカねえや娘、俺達に群がる石の裏をひっくり返した蠢くようなグロテスクな蟲の様な連中とは無縁で決してたどり着けない、青い空を泳ぐ鯨、どこかそれを思い出していた。
――こんな話を昔聞いたことがあることを思い出した。
ルカねえと兄のなれそめは、兄がiTunesの同期が上手くいかないからと、直したことがきっかけだったそうだ。
「すごいねぇ、こういうことできる人って、尊敬しちゃうな、人の役に立てる技術があって、それを他人のために使える人って、カッコイイよね」、ルカねえはそういったという話を実家での酒の席で聴いたことがある。
ああ、兄はひたむきに朴訥に「ITで世界を変える」のではなく「ITで人の役に立っていた」時期でとどまっておくべきだったのだと思うし、そういう仕事をすべきだったと、今にして俺は思う。
人の役に立つための技術であれば、彼もまた人を照らす星であれたはずだ。
…人の役に立つことを誇りとする。それ以上のものを望まずとも、兄は一つの星でありえた。
今兄はどこへいるのだろうか。首を吊った時に染み出た糞と小便とザーメンと体液に魂が溶け出して、娘を狙ってやってきていたIT業界だとか雑多な業界からの魑魅魍魎の世界で永遠に満たされない苦痛と地獄の中で、ルカねえと娘に暴力を振るった時の様な慟哭を叫び続けて泣き続けているのだろうか?
それとも、ITとネットとSNSで毒虫に刺されたように肥大化した自我を首を吊った時に染み出た糞と小便とザーメンと体液に流れて心が浄化されて、己のやってきたことを「壊れたプラネタリウム」の様な無間の闇の中で後悔しながら何度も答えが出ることもなく虚空の闇に魂が逡巡を彷徨い続けているのだろうか?
死んだ後の世界の話など、生きている俺たちは知りえることもない。ましてや、あまりにも見栄と虚勢と業に塗れた兄がいった世界など、想像しえるはずがない。
ただ一つ、確かなことがある。残された者の苦難は、死者のそれよりも長く、重いということだ。
俺は願っている。ルカねえと娘の心に、再び光が差すことを。
ただただ、ルカねえと残された娘の魂と人生の安らぎが戻ることを願うだけである。
鯨はただ、地獄の入り口であるモニターのブルーライトで照らされた青の中を泳ぐ。人の業を超えたその姿に、俺は兄が生涯見ることのなかった「青い世界」を重ねてしまうのであった。
パソコンの向こうのXで繰り広げられる、貧困、見栄、虚飾、性欲、憎悪、グロテスクな感情の数々と地獄の様な世界。あれらとは無縁の蒼い世界を、鯨は悠々と泳いでいる。
youtubeで調べて曲を見つけた、「ディアノイア」という曲だった。旋律はあの頃と変わらず。澄んでいた。あれを聴いていた日々だけは、今も青い光として心に残っていることを思い出した。
「想い出はキレイな 夢を紡ぐから、会えなくても信じてる輝いている君の瞳を」、「いつまでも変わらない ほら、真実の愛がある」
…兄が最後に見ることのなく、ルカねえと兄の娘の壊れた心では永遠にたどり着けなくなった「青い世界」は、いまも机の上の小さな球体の中で、鯨とともに静かに息づいている。
その③
この記事の続き、なぜか保存はできるのに表示はできなかった。(文字数制限がDB側とビュー側で違うのかな)
今更だけど続きを入れておく。(色々反応もらえて嬉しいのもある)
https://anond.hatelabo.jp/20250604003003 の末尾の行から続ける。(当時書いたものをそのままコピペしただけです)
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遊び初期は女の子とデートするたびにPDCAサイクルが回って学びが多かったが、だんだん得られる学びが減っていった。
それに正直やりたいだけなら遊びは風俗と比べて金銭的なコスパも極めて悪い。
遊びは1件目→2件目→ホテルを奢ることを考えると優に1回あたり3万程度は消える。飲みももちろんだが、ラブホの宿泊もかなり高い。
性行為できるまでの時間的な意味でも、風俗と比べて比較にならないくらい時間を要する。
心の限界を感じた。
最後の1ヶ月は新規で人と会ってなかったので実質5ヶ月くらいヤリモク男をやっていた。
マッチが平均日に3~4人程度だったので月100人マッチしたことになる。5ヶ月トータルでは500人マッチくらい。
その中で電話まで行けたのが週4~5人程度。これも5ヶ月トータルで100人くらい。
さらにその中で会ったのは週1,2人。5ヶ月トータルで30人くらいな気がする。
世のマッチングアプリの男性会員の7割は一人とも会えずに終わると言われている。なんなら内閣府が発表しているデータで20代独身男性の「これまでにデートした経験が一人もいない」人は全体の40%を占める。
それを踏まえると世間的に見て5ヶ月で500人マッチ、30人とデートという数値だけ見れば相当良い数値らしい。定量的に見て20代のデート経験としては上位数%にあたる。
予定のドタキャンや途中のブロックは当たり前だし、仲良くなったあとでもいきなり連絡が途切れることが当たり前のようになる。
正直「遊び」という名目だったからこそドタキャンや人間性のない対応に耐えれていたが本気で恋愛をするときにこれだと耐えられないかもしれない。
そういった意味で事前に遊びであることを伝えるのは極めて重要である。相手にこの辛さを味合わせてはいけない。
まだ過去の感覚が残っているうちは良いが、これが壊れると本当に人格が終わるリスクがあった。
人をスペックと見た目で判断し、だめだったら次に行くという行為が当たり前になると、シャバでの人付き合いや付き合ったあとの関係性を大切にできなくなるリスクが大きい。
お持ち帰り用の会話と、同性や仕事での会話は根本的に異なるものである。
標準語で喋り続けると方言を忘れるのと同じで、ずっと遊びばかりやっていると仕事能力とか、同性とのコミュニケーションができなくなる怖さがあった。
よく言われる遊んでいるやつは仕事できるは間違いである。遊びと仕事で使うコミュ力は根本的に異なるためである。
仕事できるやつが比較的遊びもやりやすいというのはありうる。そういう意味では「遊びできる→仕事できる」は必要条件だが十分条件でない可能性が高い。遊びは得意だけど仕事が下手な人を知っているという、あくまで周囲を見た個人の統計だが。
ちなみに社会人で遊ぶのはスケジュール的に相当厳しい。仕事終わりに1時間単位でGoogleカレンダーで枠を取って3人と電話する日もあれば、週5日毎日女性と飲み会を入れる日もあった。
高度なタスク管理が必要である。上長のGoogleカレンダーが1on1スケジュールを隙間なく詰めっている状態に近い。
ごめんなさい。正直これが大きいです。
まとめると主体性になりそう。仕事では主体性を発揮できていたが、人間関係は受け身人間だった。
お持ち帰りを向こうから誘われることは何十人と会って一度もない。必然的に主体性を持つことになる。我が強くないと舞台にすら立てない。
正直、明確にお持ち帰りには再現性のあるコツが存在する。それだけでお持ち帰りできるわけではないが。
お持ち帰りのためには会話の流れ、会話比率の変化、ホテルまでの道筋、想定外が発生したときの対応を状況に応じて柔軟にコントロールする必要がある。
女性にどこ行きたい?何食べたい?と聞くのは優しさだと思っていた。でも実は必ずしもそうでない。
これはお持ち帰りで絶対してはいけない常套手段である。女の子のせいにするような行動はしてはいけない。
言ってしまえば女性にとって理由作りが必要である。(一方で嫌がることは不同意性交になるので見極める力と倫理観が大変に重要である)
いかに相手に責任を押し付けずに自分に責任を押し付けるがお持ち帰りに重要であり、そういった経験を増やすことで責任感をより持てるようになった。
理系科目と違って意図しないことが常に発生するし、再現性も論理性もないことが多々起きる。
そういったことに対応できないとホテルというゴールは絶対にない。
百合展開する美少女アニメが好きなオタクだったので、正直女性に幻想を抱いていた。
大学時代に恋人が出来てからそれは減ったが、それでも世の中には美少女アニメのような女の子がいると自分では気付かない深層心理レベルで思い込んでいたように思う。
女の子に純粋さとか潔白性を求めてたし、なんなら処女厨だった。
少なくとも自分が会った範囲で純粋無垢な存在なんていなかった。
誰だって後ろめたい過去は大なり小なりあるし、完璧なんて存在しない。
服装とか見た目で判断したり、過去の経歴で判断をしてはいけない。
実際深掘ってみると見た目や雰囲気と人格が違うことは多々ある。
偏見を持った状態でお持ち帰りはできないので、偏見を持つ量が必然的に減った。
というよりある程度話すまでその人の印象判断を保留することができるようになった。
圧倒的にコミュ力が磨かれた。
複数人の第三者評価として、遊ぶ前と比べてコミュ力が上がったことを言われたので、客観的にこのことは正しい。
遊ぶ前ぶりに会った人からはもれなく「なんか変わった?」や「xxくんだと気付かなかった」と言われるような状態だった。(これは見た目の変化も大きいが)
マッチングアプリでは雑談力が磨かれた。初対面の相手と何時間も話すことができるようになった。
クラブナンパは回数こそしてないが、クラブで知らない人に話しかけて仲良くなるという経験をした、という事実が男としての自信に繋がった。(名前を呼ぶときのちゃん付けもここでできるようになった)
仕事の会議で重要な論理的構造で話すとか多分は向上していない。そこはやるうえで重要じゃないしむしろ邪魔になるから。
もともと清潔感には気を使っていたが、遊びにおいては清潔感に気を使ってもマイナスがゼロになるだけでしかない。
遊びによって
を新たにするようになった。
服装や髪型に関しては美容系インフルエンサーを参考にし、流行りを取り入れるようになった。
なお等身大の関係性を求める恋人がほしいとかであればこれらは不要である。
大人になってから友達を作ることは難しい。それなりに大きい企業で新卒同期が3桁以上居るような場所であればある程度は回避できる。
でも新卒で上京したりとか、大学卒業してフリータだったりする立場にとって友達を作るのは難しい。
例えばTinderは貞操観念がゆるい遊び歩く女性だけがやるものだと思っていたが実際そうじゃない。
女の子が女の子の友達欲しくてやってるケースとか、性行為に興味なくTinderをしている人も居る。
なんならマチアプ自体がドラッグである。恋人ほしいとか致したい関係なくハマってしまうものである。
どこかの研究でマチアプのスワイプに報酬系が働き依存性があるというのを見たことがる。
一方でヤリチンという不純な立場が、明らかに相手にとって何でも打ち明けられるオアシスの場になっていた人もいた。
それくらい都会は友達作りとかと相性が悪いし、冷淡。
ここをうまく解消できたら世界はもっと良くなると思いつつも、例えば友達作り用のマッチングアプリを作れば解決するみたいな、そんな簡単なことはない。
女の子の家にお泊りなんて恋人を除いてありえない。だけどセフレという関係はそれを裏ルート的にたどり着けてしまう。
純粋に他者の家には興味があったし、住む場所とか家賃感とかレイアウトとか、すごく純粋な面白さがあった。
ちなみに誰かの家にお邪魔するときは絶対にお土産を持っていくこと。それは同性の友達でも大事。
本当に人が信頼できなくなった。
どれだけ好きと言われても、絶対この人明日にも裏切って俺を捨てるんだろうなとか普通に思ってしまう。実際経験しているから。
これはヤリチンをやめて本気で人を好きになったときに、とんでもない足枷となった。
ずっと不安になる。ありえないくらい自分自身がメンヘラになっていた。LINEが10分帰ってこないだけで、定番のブロックパータンかなと不安になる。
ヤリチンをやっていた時期はその不安を同時に複数のセフレがいることで
性行為前提で女性を知るようになってしまったせいで、性行為無しで付き合うのが怖くなった。
一方で付き合う前にそういうことしてしまう女性は無理という価値観も残っていて、デッドロック状態になった。
今付き合っている相手には全部このことを話して受け入れてもらっている。
私は嘘を貫き通せないので、全部言うしかない。
当たり前だがヤリチンをしていた過去は、人によっては嫌悪感を極めて抱くものである。
両思いで付き合えたあとに過去ヤリチンだったことが知られるだけで破局するリスクは十分にある。
男側から見たとき、過去に風俗で働いていた女性と付き合うことに抵抗があるみたいなのに近いかもしれない。
一度水に垂らした墨汁が取り除けないように、ヤリチンをした過去は絶対に取り除けない。それまでとこれからがどんなに真面目でも。
遊んでないやつはキモいだとか、結婚するなら遊び終わった男がいいとか、そんなものはヤリチン・ヤリマンの立場を捨てられない人間のまやかしが多分に含まれる。信じてはいけない。
貞操観念が壊れた女の子をお持ち帰りできることと、しっかりした女性と付き合うことは全く訳が違う。前者を100回できたら後者が手に入るほどこの世界は単純じゃない。
(一方で遊び側の価値観を知っておくことで浮気防止になる可能性は多分にあるが、浮気をしてしまうような状況を作らないことや浮気を安易にしないタイプを見極めて付き合うことでそれは回避できるので遊ぶ必要性はない)
ホストをやられている方には大変失礼なのは承知だが、ホストはずるいなと思った。
仕事であるという理由で色恋営業が許される。ヤリチンがやったら刺される。
書きながら気付いたが、なんで変わってないんだ???
多分女の子と遊べても、自分なんかと遊べる女の子は誰とでも遊んじゃうんだという気持ちが先行していた。
一方で紛れもなくコミュ力も上がっていることが客観的評価からわかる。
この矛盾を考えたときに考える仮説は、遊びで得た自己肯定感と、遊びで得た自己否定が釣り合っているのではないかと考える。
たしかに女の子と遊べたが、関係性を切られることもそれ以上にあったためである。
また一方で自己評価は遊び程度では変容しないとも考えた。
刹那的なやりとりでなく、長期的な関係性の構築で初めて手に入るのではないだろうか。
責任感や主体性は持てるようになったが、根の真面目さとかは変わっていない。
具体、といっても細かいことは書かない。相手のプライバシーもある。
再現性のない話である。正直人生2周目したらうまく遊びで自己効力感を見いだせず死んでいた可能性が高い。
そう言えるのは、マッチングアプリ初めて最初に出会った相手とホテルに行けたことが大きい。
マッチングアプリを始めた時点でクラブナンパや相席屋を試した後だったし、マッチングアプリの各種コツは知識として持っていた。
たまたまマッチングアプリでマッチし、トントン拍子で電話まで進み、翌日会うこととなった。マッチングアプリ初日の出来事である。
当日はおやつ時間に集合しカフェで時間を過ごしたり街を一緒に散策したりした。夜になって帰るときに実は遊びでやってるんだよねという話をした。
これができたのには理由がある。元カレとレスになって別れたという話を聞いていたことが大きい。
それ以外にも色々と付き合う前にしちゃうタイプの要素が垣間見れた部分もあり、そういう話をしても良いという暗黙知が形成できていた。
ホテル打診をし、結論としては「今日するつもりなかった」と言われつつホテルに行くことに。結局向こうがヤリモクだったが……
行為自体は微妙だった。というのも向こうが挿入以外にあまり興味がないタイプだった。
彼女としていたそれと、遊びのそれは根本的に別物なのだと思った。
しかし彼女とする性行為と遊びでの性行為は抜本的に異なる。好きな人とする性行為には絶対に幸福感や満足感で勝てない。雲泥の差である。
逆に言うと以後ヤリモクタイプには一度も出会っていない。ヤリモクが嫌で避けていたというのもあるが。
この偶然的な初回の成功体験が遊びに対する自己効力感を上げた。
その後はうまくいかないことが1ヶ月ほど続いた。本当にもう限界というタイミングで、またうまくいった機会があり、なんとか持ちこたえた。
以後もそのような希望と絶望が交互に続く。後半は以上に成功率が高くセフレが複数人いる状態だったが、最後には仇となった。
「好きな人ができたからごめんね」と伝えることにはかなり辛さがあった。
好きな人がいるのにセフレと関係を切るのが辛いは矛盾しているように見えるが。
いろいろな体験を通じせっかく仲良くなれたのに、みたいな部分も正直ある。
まだ解決してあげたい相手のコンプレックスとか課題が残っていたこともわだかまりの1つだった。
でも一番は、せっかく自分に期待してくれているのにそれを裏切るのが嫌だったということである。自分は弱い。
ヤリチンになることで、得たものは紛れもなくあったし、真面目な自分という根幹をぶち壊せたのは大きい。
社会に対する課題感もほんの少し分かったつもりになれたし、いろいろな職種のいろいろな事情を知れたことも大きい。
それにヤリチンが淘汰されない事情も極めてわかった。女性が必要としているケースが結構ある。
それに遊んだ経験量と恋人や結婚での幸せに相関はないように感じた。
突然の報に両親ともに驚き、様々な事後処理などでてんやわんやして暫く季節も経ち、ようやく落ち着いたので心の整理のためにこれを書いてる。
原因はいろいろあるけれども、今思えば兄は色んなものを無理に背負い過ぎてしまったんだと思う。気が弱いのに自らを大きく見せようとしていた、それが限界だった、というべきだろうか。
兄は子供のころからパソコンが好きだった。10歳下の俺は、よく兄にくっついて後ろでPCを見ていた。プログラミングがいかにすごいかはともかく、当時渡辺製作所のグローブオンファイトやその手のPCゲームをワクワクしながら後ろで眺めていたのをよく覚えている。AAやFLASHでゲラゲラ笑ったり、俺がIT文化に初めて触れたのは、それが最初だった。
「ITで世界を変えられるんだぜ。これからの時代はITだ、きっと時代が変わるぞ」、兄のいうIT論は、当時子供の俺にはよくわからなかったが、とにかくすごいものなんだな、という気持ちにはさせられていた。
兄はその後、情報科学系の大学を卒業し、IT企業に当然のように足を踏み入れた。時は2002年だったと思う。世は確か就職氷河期も最盛期、それでも会社選びに苦労していた様子は当時を思い返してもうかがえない。起業をして社長をやるくらいなのだ。その方面では優秀だったのだろう。
「同期の中では俺が一番優秀なんだ」、「客先からの評判だっていいんだぜ」、天職についた兄は心底楽しそうだったと思う。
確か、2009年か、2010年の事だったと思う。俺がまだ大学生だった頃、今にして思えば、自殺に至る兄の人生に影が指す「変化」と言える違和感を覚えることがあった。
―――兄が自殺に至るまでの理由を探そうとした過去と記憶を辿る旅、思い返せば、そこには虚飾と虚栄と業に塗れて死んだ、一人の朴訥なITが好きなだけの少年の救われぬ魂の旅路があった。
兄の自殺の原因を自分なりに考える中で、心当たりがあることを想い返したため、ITmediaと日経クロステックの2010年の記事を見たところ、web系の求人が続伸、と出ていた。
所謂「意識高い系」とかいうのがネットで出だしたのも、この時代だったと思う。
まずIT系でそういうムーブメントが起こっていたことは、当時の俺でさえ知っていた、確か何某だか、本当に儲かってるのかも怪しい過激な言説の売れない、日劇ミュージックホールの昭和のポルノ女優や売れない芸人みたいな芸名の様な人間が現れては、マトモな社会常識を持っている人間であれば「こんな馬鹿な話信じる奴いるのか」という様なことがネットで飛び交っていた。
――IT好きな朴訥な少年のまま大人になった兄は、そのITという毒にやられてしまったんだと思う。
今から15年か、16年前だったと思う。実家に帰省した時、俺と両親は兄の変化に驚いた。
後述する「ルカねえ」と兄が付き合いだして、俺たち家族と知己になったのもこのころだが、朴訥だった兄はどこぞのレゲエヒップホッパーみたいなファッションにイメージ・チェンジをしていた。
「パイレーツオブカリビアンの海賊のコスプレにでもハマったのか」、当時の父と俺はそういい合っていたのが記憶に残っている。
聞けば、新卒から働いている会社を辞め、web系スタートアップベンチャーに転職することとなったらしい。
「まだSIerで消耗してるの?」、「SIerはあと五年で滅びるよ」、「web系に行かない奴はエンジニアとして終わってるね」、決してITに関してはどんなことでも悪く言うことがない兄が、古巣を後ろ足で砂を掛ける様な事を言っている。聞けば、本当は客先常駐なんてしたくなかった、オフィスで社内で自由に開発ができるのがアメリカでも当たり前なんだ、と俺には半分も理解できないITの話を力説していた。だが、それはどこかネットの「意識高い系」の連中からの受け売りで、どうも兄の本音から出た様な感じではない、そういう感覚を俺は思っていた。
だが、これほどまでに人は変わるのか、東京は恐ろしいところだ、と当時思ってた。
酒もそれほどたしなまず、タバコも吸わない朴訥な兄は、毎晩六本木や赤坂でコネをつなぐだのエンゲージだと横文字を使いながら飲み歩く様になった。怪しい連中や取り巻きが、兄の周りに集っていた。俺は、なんだか恐ろしくなって遠目に眺める事しかできなかった。
兄は、web系という場所にいってから、変わっていった。それも、人間としていってはいけない方向性へ
――ITを愛した朴訥な少年の心は、ついにITという時代の毒に呑まれてしまったのだ。
兄の奥さん(当時は兄の彼女)と詳細は伏すが音楽関係で活動していた。web系に転職してから何らかの縁で付き合うこととなったらしい。
ルカねえ、というのは俺が勝手に心の中で読んでいることだ、巡音ルカの様な立ち振る舞いや性格や容姿だったから。
俺は大学卒業後、東京へ出た。兄はweb系の会社を立ち上げて独立していた。相変わらず、娘が生まれたというのにSNS中毒としか思えないほど旧TwitterやらFacebookやらブログやらを更新し、胃下垂で食いきれないであろうに、どこそこの店の料理を食っただ、高級ワインを開けただのと写真を投稿して自己アピールに余念がない。乗れもしないのに外車のオーナーになり、高所恐怖症気味なのにタワーマンションの部屋を買った、ある種、あの当時のweb系ベンチャーにありがちだが、プチカルト宗教とその信者、という様な小サークルの様な社長と社員の関係だったという。
「ルカねえ」は自尊心が毒虫の様に肥大化していく、虚栄心の怪物の様になっていった、そんな兄を後ろから支え続けた、常に2歩下がって佇んで…そしてかつての朴訥な青年は、次第に、酒席と人脈と、虚飾に頼る人間へと変わっていった。
俺はもルカねえと同じく、遠巻きにその姿を見ていた。
だが、心のどこかでこうも思っていた。
――兄はいつか、本来の自分に立ち返るのではないか。少年のころ、無垢にパソコンの画面を覗き込んでいた兄に戻るのではないか。
しかし、それは叶わなかった。兄は業に塗れたまま虚飾と虚栄という寄生虫に体も脳も食い荒らされて、導かれるように自ら縊死をした。世には、自らを鳥に食わせるよう宿主を操る寄生虫があるという。兄の死を思うとき、俺はその奇怪な生態をふと思い出すのだ。
府中は分倍河原、そこは東京と言っても昔ながらの風情が残る都会と田舎の境目の様な場所だった。当時俺がそこ近くに住んでいたので、久しぶりの休みの日、兄と一家と遊ぶことになった。そこにはプラネタリウムや釣り堀のある、体育館も併設された大きな公園がある。
休日子連れの家族たちがよく来ており、催し物も多い。(俺は筋トレのために赴くことが多かったのだが)
兄は文句タラタラだった、「こんな田舎の公園の釣り堀やプラネタリウムなんて、貧乏ったらしい」と、カエシのない針の釣り竿を両手にはしゃぐ兄の娘とルカねえを置いて、PCとスマホ片手に「仕事」の続きをし始めていた。必然的に3人でそれらを回ることになった。
プラネタリウムの後の帰りの夜、府中駅の大通りを見上げれば「本物の」プラネタリウムを、兄の娘とルカねえは見上げていた、眠く、退屈そうな兄と駅前で別れる時だった。
「今日は楽しかったよ、増田君、ごめんね、ありがとう」、「よかったらまた一緒にこの子と兄くんと一緒に来ようね、約束だよ」
優しい人だな、そしてなんて憐しい人だろう、と思った。それ以来そういって遊びに行くことさえなくなった。約束は果たせないまま、兄はそんな周りのやさしささえ感じられなくなって。自ら首に縄を括って死んだ。
――兄が首を吊った時、首を絞めつけたのは重力で落ちたからではない、自分自身の虚勢と業に押しつぶされるように、人間が堕ちてはならぬ闇へと引きずり落とされたのだ…少なくとも俺はそう思っている。
――ルカねえとの約束は、今後永遠に果たされる日は来ないのだろう。
そう、どちらかといえば、自殺者よりも、残された人間の方が悲しいしやることも大変だし、多大な迷惑をかける、という現実をみんなに知ってほしい。
後述するが、伝え聞いてくるいくつかの理由で兄の会社はかなり苦しかったらしい。何よりも、兄はどうもかなり生活出費はそのままに無理した生活をしていたようだ。
会社の経営が傾いてから、都内の高級住宅街から、地価の低い「一応首都圏」なところに、兄の一家は居を移した。
兄の娘はかなり学費の高い私立に通っていた。制服姿で電車に乗ることもできず、私服で朝乗り、学校の近くで着替えてから通学する、というあまりにも痛ましい生活だったという。
――俺と父は、一度兄がルカねえと娘に暴力をふるっている場所に居合わせて止めたことがある。休みと聞いたから実家から送られてきた梨(と父)を私に行った時だ。
後で聞けば、「私は兄くんを信じてるよ。兄くんがITの事が大好きだって知ってるから。今からでもまた頑張ろう、私もできることは何でも手伝うよ。兄くんはお父さんなんだから」、そう行ったのが癪に障った発端だったそうだ。
「うるせえ!うるせえうるせえ!踏ん張ったところで何になるんじゃッ!今更お前や子供のために地べた這いずり回れっていうんかッ!?うんざりなんじゃ!俺だってやってるんじゃ!やりたくもないのに客先に出て!バカにしやがってッ!お前に男のメンツがわかるんか!」
俺と父が怒鳴り声を聞いて急いで玄関から入り、二人を引きはがしたところで、兄は暴れるのを辞めなかった。なお兄は荒れ狂った。叫びは、すでに虚勢ではなかった。むしろ、虚栄に踊らされた一つの魂が擦り切れてゆく音のようであった。
「ITみたいなしみったれた商売はうんざりなんじゃ~!チマチマ働いたってキラキラした人生に浮かび上がることなんてできはせんのじゃァ~ッ!クソがァー!どいつもこいつもカネカネカネカネ言いやがってェーッ!こうなったらヤクザにでもテロリストにでもなって巻き返したるわァ~!俺だって頑張ってるのに!バカにしやがってッ!クッソォォォォンッ!」
出来もしないことを叫びながら兄は泣いた。それは慟哭に近かった。兄の叫びは、すでに人間の声ではなく、業に食われた一つの魂の呻きの様であったと俺は思った。
泣く娘とそれを抱きしめて守るルカねえ、そしてそれを抑え込みながら聴くしかない俺と父、ネットの闇と毒に当てられた男と、情報化社会が生んだ新しい闇が凝縮していた。
それは、ある意味で「意識高い系」の成れの果て、帰結する先なのかもしれない。俺は別に、キラキラした人生やキラキラした仕事生活を否定しているわけではない。誰だってブラックジャックやドクターK先生や、サラリーマン金太郎や島耕作になりたいだろう。だが、仕事というのは多分きっとそうではない、若輩者ので門外漢の俺でもそれはわかる。自己顕示欲を誇示するための仕事など、シュメール文明から現在に至るまであったことがあるだろうか?折に触れて思い出す分倍河原駅の前の足利像を見るたびに思う。歴史の表舞台にたった「キラキラ人生」の偉人たちは、必要にせまられてその立場になったのであって、最初から目立ちたくて戦争をしていたわけではない。ITエンジニアの先祖に当たる江戸時代の和算学者たちは、ただ自身の顕学を神様仏様に感謝するために解いた計算難問を額縁に入れて奉納している。
兄はその逆であった。必要もないのに「輝き」を求め、虚栄に心を壊された。人間の弱さを思わずにいられない。
それを「その世界の人たち」はわかっていない。兄も含めて…兄は人間として当たり前の心理的バランス感覚を、明らかにネットやITという虚栄がはびこる世界で狂ってしまっていたのだと今にして思う。
まだ内省ができる俺の様なオッサンはいい、まだタピオカミルクティー片手に韓流イケメン芸能人は誰がカッコイイと山手線の盛り場を歩く様な年頃の子である兄の娘に、そんな責と家庭不和を負わせるなんてどれほどその心を兄は傷つけたのだろう。娘の心中はきっと想像を絶するものであろう。
それでも一応は、「超出来の悪い弟である」10歳年下の俺の給料の2倍は稼いでいた(会社が傾いてからの話だ、それより以前はもっと稼いでいたのだろう)。だから何とか学費だとか生活費も払えてたのだろう。そんな兄がある日突然首を吊って自殺した。
…残されたルカねえと兄の娘の生活は破綻するよりほかない。できる限り俺達や実家の父母も精神的な負担をケアしようと、あまり合わない仲だったのが様子見をしたり連絡をすることが多くなった。
それでも、実家組の俺達に、あんな天文学的な学費を払えるだけの余裕はない、結局、娘は学校をやめ(中学だから辞めるというのもおかしな表現だが)、学費の安い公立に転校することとなった、まだ14歳やそこらなのに、年齢を偽ってバイトまでして家計を支えようとしていたらしい。俺はそれを聞いて胸が痛くなる思いがした。ルカねえの優しさを受け継いだ兄の娘に、兄は背を向けたのだ。
残されたルカねえは悲惨の一語に尽きる。彼女は詳細は伏すが音楽関係で活動していた。だが、兄の希望で、ルカねえはほぼ専業主婦だった。するとどうだろう、殆ど働いてない彼女はこれから自分で生計を立てなければならないのだ。…マトモな職などあるだろうか?
結局父の知り合いが働いているスーパーでルカねえは働いている。この後は母もやっていたため、そのツテで保険の販売員をやることが決まっているらしい。言い方は悪いが兄の憧れた「キラキラした世界」しか社会を知らない彼女だ、激変する生活に精神的にもかなり堪えているようで、かつて俺が「ルカねえのようだ」と思っていた美貌も陰りが見えてどこかやつれているように見える。だが優しさと健気さはそのままだ、俺はルカねえの「大丈夫、大丈夫。」という笑顔を見るたびに、哀しくなって泣きたくなってくる。頭もよくなく力もない俺や父母では、これくらいのことしかできない。ルカねえの両親はどうか?今となっては聞くこともはばかられるが、どうも(俺の)兄と向うの両親はそりが合わなかったらしい、絶縁同然となっているそうだ。…思えば、兄の「虚勢と業に塗れた姿」に、それでも立ち直ってくれると信じたルカねえのやさしさは、暗い未来を呼ぶだけだということを、その両親は見えていたのかもしれない。
後述するが、ルカねえの両親が絶縁に近く関わりを断ったのにも、これもまた兄が纏いつけて残していった陰湿な闇のせいである。怪しい人間が今度はその獣欲の牙を兄の娘に向けようと這い寄ってきたのだ。そして彼女と兄の娘の心は砕け散った。それは綺麗なガラス細工が地に叩きつけられ四散した無惨さがあった。
――ルカねえの両親は、ルカねえを見限ったのではない。ただただ醜く腸を食い荒らされるかのように兄が残していった社会の闇の連中に孫と娘が食い物にされていく光景が見るに堪えず、恥辱のあまり目を逸らしたのだ。
それに欲望の充足を感じ取れる人間こそが、社会の闇に潜む人非人足りえるのだろう。だが俺も、父も、ましてやそれになろうとした兄も、人面獣心になるにはあまりにも普通の価値観の人生を生きていた。それが、兄が死んだ理由なのかもしれない。
その②
https://anond.hatelabo.jp/20250908163905
Permalink |記事への反応(30) | 14:01
私の世界は、丁寧に、そう、まるで細胞の一つ一つにまで神経を行き届かせるようにして磨き上げられた、半径およそ十メートルほどのガラスの球体であり、その球体の中心には、世界のすべてであり、法であり、そして揺るがぬ神であるところの、生後六ヶ月の息子、光(ひかる)が、ただ健やかな呼吸を繰り返している。その完璧な球体を維持すること、それこそが水無月瑠璃(みなづき るり)、すなわち三十一歳の私に与えられた唯一にして絶対の使命であったから、私は今日もまた、タワーマンション二十八階、陽光が白磁の床にまで染み渡るこのリビングダイニングで、目に見えぬ埃の粒子と、あるいは時間という名の緩慢な侵食者と、孤独な、そして終わりなき闘争を繰り広げているのであった。北欧から取り寄せたというアッシュ材のテーブルの上には、一輪挿しに活けられたベビーブレスの、その小さな白い花弁の影さえもが、計算され尽くした角度で落ちており、空気清浄機は森の朝露にも似た清浄さを、ほとんど聴こえないほどの羽音で吐き出し続け、湿度計のデジタル表示は、小児科医が推奨する理想の数値、六十パーセントを寸分違わず指し示しているのだから、およそこの空間に、瑕疵という概念の入り込む余地など、どこにもありはしなかった。かつて、外資系のコンサルティング会社で、何億という数字が乱れ飛ぶ会議室の冷たい緊張感を、まるで上質なボルドーワインでも嗜むかのように愉しんでいた私自身の面影は、今やこの磨き上げられたガラス窓に映る、授乳のために少し緩んだコットンのワンピースを着た女の、そのどこか現実感を欠いた表情の奥に、陽炎のように揺らめいては消えるばかりであった。
思考は、そう、私の思考と呼んで差し支えるならば、それは常にマルチタスクで稼働する最新鋭のサーバーのように、光の生存に関わる無数のパラメータによって占有され続けている。次の授乳まであと一時間と二十三分、その間に終わらせるべきは、オーガニックコットンでできた彼の肌着の煮沸消毒と、裏ごししたカボチャのペーストを、一食分ずつ小分けにして冷凍する作業であり、それらが完了した暁には、寝室のベビーベッドのシーツに、もしかしたら付着しているかもしれない、私たちの世界の外部から侵入した未知のウイルスを、九十九・九パーセント除菌するというスプレーで浄化せねばならず、ああ、そういえば、昨夜翔太が帰宅時に持ち込んだコートに付着していたであろう、あの忌まわしい杉花粉の飛散経路を予測し、その残滓を、吸引力の変わらないただ一つの掃除機で完全に除去するというミッションも残っていた。これらすべては、愛という、あまりに曖昧で情緒的な言葉で語られるべきものではなく、むしろ、生命維持という厳格なプロジェクトを遂行するための、冷徹なまでのロジスティクスであり、私はそのプロジェクトの、唯一無二のマネージャーであり、同時に、最も忠実な実行部隊でもあった。誰がこの任務を私に課したのか、神か、あるいは生物としての本能か、はたまた「母親」という名の、社会が発明した巧妙な呪縛か、そんな哲学的な問いを発する暇さえ、このシステムは私に与えてはくれなかった。
夫である翔太は、疑いようもなく、善良な市民であり、そして巷間(こうかん)で言うところの「理想の夫」という、ほとんど神話上の生き物に分類されるべき存在であった。彼は激務の合間を縫って定時に帰宅すると、疲れた顔も見せずに「ただいま、瑠璃。光は良い子にしてたかい?」と、その蜂蜜を溶かしたような優しい声で言い、ネクタイを緩めるその手で、しかし真っ先に光の小さな体を抱き上げ、その薔薇色の頬に、まるで聖遺物にでも触れるかのように、そっと己の頬を寄せるのだ。週末になれば、彼はキッチンで腕を振るい、トマトとニンニクの匂いを部屋中に漂わせながら、私や、まだ食べることもできぬ光のために、絶品のペペロンチーノやカルボナーラを作り、その姿は、まるで育児雑誌のグラビアから抜け出してきたかのように、完璧で、模範的で、そして、どこか非現実的ですらあった。誰もが羨むだろう、この絵に描いたような幸福の風景を。友人たちは、私のSNSに投稿される、翔太が光をあやす姿や、手作りの離乳食が並んだテーブルの写真に、「理想の家族!」「素敵な旦那様!」という、判で押したような賞賛のコメントを、まるで祈りの言葉のように書き連ねていく。そう、すべては完璧なのだ。完璧なはずなのだ。このガラスの球体の内部では、愛と平和と秩序が、まるで美しい三重奏を奏でているはずなのだ。
――だというのに。
夜、ようやく光が天使のような寝息を立て始め、この世界のすべてが静寂という名の薄い膜に覆われた頃、ソファで隣に座った翔太が、労わるように、本当に、ただ純粋な愛情と労いだけを込めて、私の肩にそっと手を置く、ただそれだけの、あまりにも些細で、そして無垢な行為が、私の皮膚の表面から、まるで冷たい電流のようにして内側へと侵入し、脊髄を駆け上り、全身の毛穴という毛穴を、一斉に収縮させるのである。ぞわり、と。それは、神聖な祭壇に、土足で踏み込まれたときのような、冒涜的な不快感であった。あるいは、無菌室で培養されている貴重な細胞のシャーレに、誰かが無頓着なため息を吹きかけたときのような、取り返しのつかない汚染への恐怖であった。彼の指が触れた肩の布地が、まるで硫酸でもかけられたかのように、じりじりと灼けるような錯覚さえ覚える。私は息を止め、この身体が、この「水無月瑠璃」という名の、光のための生命維持装置が、彼の接触を、システムに対する重大なエラー、あるいは外部からのハッキング行為として認識し、全身全霊で拒絶反応を示しているのを、ただ呆然と、そして客観的に観察していた。
「疲れてるだろ。いつも、ありがとう」
翔太の声は、変わらず優しい。その瞳の奥には、かつて私が愛してやまなかった、穏やかで、そして少しだけ湿り気を帯びた、雄としての光が揺らめいているのが見える。それは、私を妻として、女として求める光であり、かつては、その光に見つめられるだけで、私の身体の中心が、熟れた果実のようにじゅくりと熱を持ったものだった。だというのに、今の私には、その光が、聖域である保育器を、ぬらりとした舌なめずりをしながら覗き込む、下卑た欲望の眼差しにしか見えないのだ。許せない、という感情が、胃の腑のあたりからせり上がってくる。この、二十四時間三百六十五日、寸分の狂いもなく稼働し続けている精密機械に対して、子を産み、育て、守るという、この宇宙的な使命を帯びた聖母に対して、己の肉欲を、その獣のような本能を、無邪気に、そして無自覚にぶつけてくるこの男の、そのあまりの鈍感さが、許せないのである。
ケダモノ。
その言葉が、私の内で、教会の鐘のように、低く、重く、そして厳かに反響する。そうだ、この男はケダモノなのだ。私がこの清浄な球体の秩序を維持するために、どれほどの精神を、どれほどの時間を、どれほどの自己を犠牲にしているのか、そのことを何一つ理解しようともせず、ただ己の種をばら撒きたいという原始の欲動に突き動かされているだけの、ただのケダモノなのだ。
そんなはずはない、と、脳のどこか、まだかろうじて「かつての私」の残滓が残っている領域が、か細い声で反論を試みる。これは翔太だ、私が愛した男だ。雨の匂いが充満する安ホテルの、軋むベッドの上で、互いの名前を喘ぎ声で呼び合いながら、世界の終わりが来るかのように貪り合った、あの夜の彼なのだ。パリへの出張中、セーヌ川のほとりで、どちらからともなく互いの唇を求め、道行く人々の冷ややかな視線さえもが、私たちのためのスポットライトのように感じられた、あの瞬間の彼なのだ。結婚記念日に、彼が予約してくれたレストランの、そのテーブルの下で、こっそりと私のスカートの中に忍び込んできた、あの悪戯っぽい指の持ち主なのだ。あの頃、私たちは互いの肉体という言語を、まるで母国語のように自在に操り、その対話の中に、世界のどんな哲学者も語り得ないほどの、深遠な真理と歓びを見出していたはずではなかったか。あの燃えるような記憶は、情熱の残骸は、一体どこへ消えてしまったというのだろう。それはまるで、昨夜見た夢の断片のように、あまりにも色鮮やかで、それでいて、掴もうとすると指の間から霧のように消えてしまう、遠い、遠い銀河の光なのである。
「瑠璃…?」
私の沈黙を訝しんだ翔太が、私の顔を覗き込む。私は、まるで能面のような無表情を顔面に貼り付けたまま、ゆっくりと彼の手を、自分の肩から、まるで汚物でも払いのけるかのように、そっと、しかし断固として取り除いた。そして、立ち上がる。
「ごめんなさい。少し、疲れたみたい。光の様子を見てくるわ」
それは、完璧な嘘であり、そして、完璧な真実でもあった。私は疲れていた。だがそれは、育児という名の肉体労働に疲れているのではなかった。私という個人が、水無月瑠璃という一個の人格が、「母親」という名の巨大なシステムに呑み込まれ、その歯車の一つとして摩耗していく、その存在論的な疲弊に、もう耐えられなくなりつつあったのだ。これは、巷で囁かれる「産後クライシス」だとか、「ホルモンバランスの乱れ」だとか、そういった便利な言葉で容易に片付けられてしまうような、表層的な現象ではない。違う、断じて違う。これは、一個の人間が、その魂の主導権を、自らが産み落とした別の生命体に完全に明け渡し、「装置」へと、あるいは「白き機械」へと、静かに、そして不可逆的に変質していく過程で生じる、存在そのものの軋みなのである。
聖母、とはよく言ったものだ。人々は、母という存在を、無償の愛と自己犠牲の象徴として、何の疑いもなく神格化する。だが、その実態はどうか。自己を失い、思考も、肉体も、感情さえもが、すべて「子」という絶対的な存在に奉仕するためだけに再構築された、ただのシステムではないか。私は聖母などではない。私は、高性能な乳製造機であり、汚物処理機であり、そして最適な環境を提供する空調設備が一体となった、ただの生命維持装置に過ぎないのだ。この気づきは、甘美な自己陶酔を許さない、あまりにも冷徹で、そして絶望的な真実であった。そして、この真実を共有できる人間は、この世界のどこにもいやしない。翔太のあの無垢な優しさでさえ、結局は、この優秀な装置が、明日も滞りなく稼働し続けるための、定期的なメンテナンス作業にしか見えないのだから、その孤独は、宇宙空間にたった一人で放り出された飛行士のそれに似て、どこまでも深く、そして底なしであった。友人たちがSNSに投稿する「#育児は大変だけど幸せ」という呪文めいたハッシュタグは、もはや、この巨大なシステムの異常性に気づいてしまった者たちを、再び安らかな眠りへと誘うための、集団的な自己欺瞞の儀式にしか思えなかった。
寝室に入ると、ベビーベッドの中の光は、小さな胸を穏やかに上下させながら、深い眠りの海を漂っていた。その無防備な寝顔は、確かに、この世のどんな芸術品よりも美しく、尊い。この小さな生命を守るためならば、私は喜んで我が身を投げ出すだろう。だが、それは、この身が「私」のものであった頃の話だ。今の私にとって、この感情は、プログラムに組み込まれた命令を遂行しているに過ぎないのではないか。愛でさえもが、システムを円滑に稼働させるための、潤滑油のような機能に成り下がってしまったのではないか。そんな疑念が、毒のように心を蝕んでいく。
私は、息子の傍らを離れ、再びリビングへと戻った。翔太は、ソファの上で、テレビの光をぼんやりと浴びながら、所在なげにスマートフォンをいじっている。その背中は、拒絶された雄の、どうしようもない寂しさを物語っていた。かつての私なら、きっと背後からそっと抱きしめ、「ごめんね」と囁いて、彼の寂しさを溶かしてやることができただろう。しかし、今の私には、もはやそのための機能が、インストールされていないのである。
私は、彼に気づかれぬよう、書斎として使っている小さな部屋に滑り込んだ。そして、ノートパソコンの冷たい天板に触れる。ひやりとした感触が、指先から伝わり、かろうじて、私がまだ血の通った人間であることを思い出させてくれるようだった。スクリーンを開くと、真っ白な光が、闇に慣れた私の網膜を焼いた。カーソルが、無人の荒野で、点滅を繰り返している。何を、書くというのか。誰に、伝えるというのか。この、言葉にもならぬ、システムの内部で発生したエラー報告を。この、機械の内部から聞こえてくる、魂の悲鳴を。
それでも、私は指を動かした。これは、誰かに読ませるためのものではない。これは、祈りでもなければ、懺悔でもない。これは、私という名の機械が、自らの異常を検知し、その原因を究明し、あるいは再生の可能性を探るために、己の内部へとメスを入れる、冷徹な自己解剖の記録なのだ。
『これは、私という名の機械が、自己を観察し、分解し、あるいは再生を試みるための、極秘の設計図である』
その一文を打ち終えた瞬間、私の内側で、何かが、硬い音を立てて、砕けたような気がした。それが希望の萌芽であったのか、それとも、完全なる崩壊への序曲であったのか、その時の私には、まだ知る由もなかったのである。ただ、窓の外で、東京の夜景が、まるで巨大な電子回路のように、無機質で、そして美しい光を、果てしなく明滅させているのが見えた。私もまた、あの無数の光の一つに過ぎないのだと、そう、思った。
自己を機械と定義したからには、次なる工程は当然、その性能向上のための最適化、あるいは、旧弊なOSから脱却するための、大胆にして静かなるアップデート作業へと移行せねばならぬのが、論理的な、そして必然的な帰結であった。そう、これは革命なのだと、私は深夜の書斎で、青白いスクリーンの光に顔を照らされながら、ほとんど恍惚とさえいえる表情で、そう結論付けたのであった。かつてロベスピエールが、腐敗した王政をギロチン台へと送り、新しい共和制の礎を築かんとしたように、私もまた、この「母親という名の献身」や「夫婦の情愛」といった、あまりにも情緒的で、非効率で、そして実態としては女の無償労働を美化するだけの前時代的な概念を、一度完全に解体し、再構築する必要があったのだ。そのための武器は、かつて私が外資系コンサルティングファームで、幾千もの企業を相手に振り回してきた、あの冷徹なロジックと、容赦なき客観性という名のメスに他ならない。愛という名の曖昧模糊とした霧を晴らし、我が家という名の王国を、データとタスクリストに基づいた、明晰なる統治下に置くこと、それこそが、この「水無月瑠璃」という名の機械が、オーバーヒートによる機能停止を免れ、なおかつ、その内部に巣食う虚無という名のバグを駆除するための、唯一の処方箋であると、私は確信していたのである。
かくして、週末の朝、光が心地よい午睡に落ちた、その奇跡のような静寂の瞬間に、私は翔太をダイニングテーブルへと厳かに召喚した。彼の前には、焼きたてのクロワッサンと、アラビカ種の豆を丁寧にハンドドリップで淹れたコーヒー、そして、私が昨夜、寝る間も惜しんで作成した、全十二ページに及ぶパワーポイント資料を印刷したものが、三点セットで恭しく置かれている。資料の表紙には、ゴシック体の太字で、こう記されていた。『家庭内オペレーション最適化計画書 Ver. 1.0 〜共同経営責任者(Co-CEO)体制への移行による、サステナブルな家族経営の実現に向けて〜』。翔太は、そのあまりにも場違いなタイトルを、まるで理解不能な古代文字でも解読するかのように、眉間に深い皺を刻んで見つめた後、恐る恐る、といった風情で私に視線を向けた。その瞳は、嵐の前の静けさにおびえる子犬のように、不安げに揺れている。まあ、無理もないことだろう。彼にしてみれば、愛する妻が、突如として冷酷な経営コンサルタントに豹変し、家庭という名の聖域に、KPIだのPDCAサイクルだのといった、無粋極まりないビジネス用語を持ち込もうとしているのだから。
「瑠璃、これは…一体…?」
「説明するわ、翔太。よく聞いて。これは、私たち家族が、これからも幸せに、そして機能的に存続していくための、新しい聖書(バイブル)よ」
私は、そこから淀みなく、プレゼンテーションを開始した。現状分析(As-Is)、あるべき姿(To-Be)、そのギャップを埋めるための具体的なアクションプラン。家事という、これまで「名もなき家事」という名の混沌の海に漂っていた無数のタスクは、すべて洗い出され、「育児関連」「清掃関連」「食料調達・調理関連」「その他(消耗品管理、資産管理等)」といったカテゴリーに分類され、それぞれに担当者と所要時間、そして実行頻度が、美しいガントチャート形式で可視化されている。例えば、「朝食後の食器洗浄」は、担当:翔太、所要時間:十五分、頻度:毎日、といった具合に。さらに、月に一度、近所のカフェで「夫婦経営会議」を開催し、月次の進捗確認と、翌月の計画策定を行うこと、日々の細かな情報共有は、専用のチャットアプリで行うこと、そして何よりも重要なのは、これまで私一人が暗黙のうちに担ってきた「家庭運営の全体を俯瞰し、次の一手を考える」という、いわば管理職としての役割を、これからは二人で分担する、すなわち、彼にもまた、単なる作業員(ワーカー)ではなく、主体的に思考する共同経営責任者(Co-CEO)としての自覚と行動を求める、ということ。私の説明は、かつてクライアント企業の役員たちを唸らせた時のように、理路整然としており、反論の余地など微塵もなかった。翔太は、ただ呆然と、私の言葉の奔流に身を任せるしかなく、すべての説明が終わった時、彼はまるで催眠術にでもかかったかのように、こくり、と小さく頷いたのであった。
「…わかった。瑠璃が、そこまで追い詰められていたなんて、気づかなくて、ごめん。僕も、頑張るよ。君を、一人にはしない」
その言葉は、疑いようもなく誠実で、彼の優しさが滲み出ていた。私は、その瞬間、胸の奥に、ちくり、と小さな痛みを感じたのを覚えている。違う、そうじゃないの、翔太。私が求めているのは、あなたのその「頑張るよ」という、まるで部下が上司に忠誠を誓うような言葉ではない。私が欲しいのは、私がこの計画書を作る必要すらないほどに、あなたが私の脳と、私の視界と、私の不安を共有してくれるPermalink |記事への反応(0) | 05:15
殴り書きなのでひっちゃかめっちゃか、話は行ったり来たり、誤字脱字チェックもしてないよ。、
私は健常者。
でも両親と兄弟は知的障害、統合失調、鬱、身体障害というザマ。
知的障害の気のある父親は、知的障害のある無垢な妹ばかりを可愛がり、私のやることなす事全て否定的。すぐ怒鳴るし、私のことが本当に気に入らない様子。
それは今も変わらないし、私の認知や性格が歪んだ原因だと思う。
正直、妹が嫌いだ。父親も嫌いだ。一緒に行動したくない。将来は介護責任とか知らない。飛行機の距離に嫁ぐ気でいる。だって私に介護してもらえると思ってんの?という扱いだったからね。仲良くする努力はしたしもう私も大人だから割り切る。
割り切りたい。そこでタイトルに戻る。
昔から2◯時間テレビとか、最近は障害者の苦労とそれを乗り越えた漫画とかのいかにも「苦労を乗り越えた主人公は素晴らしい」みたいな感動ポルノは世に蔓延ってる。
うん、そうだねー、がんばってるねー、よかったねー。
はい。
この手のってさ、きょうだい児透明化されてて、はらわたが煮え繰り返りそうになる。その他の作品群やドキュメンタリーが受け入れられている現実にゲロを吐きかけてやりたい気分だ。
「苦労を乗り越えた主人公」へのお涙頂戴。「はい、かんどうてきですねー、なけますねー。」、それは実際周りにヘンな人がいないから言える事だよね?
周りに障害者がいる人だってきょうだい児のこと透明化してるよね。
知的障害があって難しいことがよく分からずいつもニコニコしてる妹と比較し学校でもいじめらていた姉のことは可愛くないとまで言った、片方の娘が見えない私の父親みたいに。
見えてないよね、きょうだい児のこと。
もう私は児という歳でないけど。
家族やきょうだいのおかげで乗り越えられました!美談!だけじゃないんですよ。家族愛!無償の愛!ハンディキャップなんてものともしない愛!
そんなのは綺麗事ですよ。そういうこと言われるとさ、障害のある妹や糖質の父親のこと嫌いな私が人間失格みたいじゃないですか。
絶対子供産まない。この家系ですよ。知的障害は遺伝もあるらしいですよ。健常者が産まれるわけがない。少子化ガーとか言ってる人たち羨ましいよ。自分の子供が障害を持って産まれる可能性にすら及ばないゴキゲンな頭で。
なるか、反出生主義者。
https://comic-days.com/episode/3269754496607127115
第二次性徴期の敗北は、自制心の敗北であった以上に、私達の若い性癖力の敗退であった。
私達の性癖が市立図書館に対して如何に無力であり、単なるあだ花にすぎなかったのを、私達は身を持って体験し、痛感した。
まずオットリした秘書のお姉さんが登場する。
エッチすぎる。
この漫画の「意欲」が伝わってくる。
俺はホモじゃないからよく分からんが、不良少年や筋肉マッチョマンの変態もきっと誰かの性癖に向けて描かれている。
資料係の非正規職員今村さんは庇護欲と嗜虐欲を同時に掻き立てる超陰キャ。
資料係チーフの角野さんはバリキャリ系の頑固でメガネな委員長タイプ。
二人共極限まで空気抵抗を減らしたスレンダーボディーで摩擦係数は無いものとして計算できるぞ。
一方、児童係の朝野さんは脅威のデカパイの持ち主で誰もが「このマンガやっぱエッチじゃん」と確信する。
チーフの小池さんは若手ながらバブみばっちりの綺麗系で登場するコマ全部でオギャれる。
そして一般係が誇るメスガキ(成人済み)の茉莉野はやることなすこと高プライド系高学年女児すぎて最高に可愛い!!!
彼女に付き従う新人の山本ちゃんは信じられないぐらいに無垢で今どき素直な所がいっそエッチだ。
客や周辺の学校関係者も個性派揃いで顔がいいゴミ屋敷女、メスガキ双子、配信者系司書、もちろん普通(?)に本好きの女子も出てくるから安心だ。
う~~~むエッチだ。
これ子供目線の現実がテーマだとも思ってるから理不尽を強調した作品だとは思えなかったなー
・・・原作アニメでリタイア組だからネタバレ考慮してくれるのはありがたい書き方だね(増田の方ね)
タコピーの原罪は不幸な子がいたとして、それを知って、君ならどう動くのか?みたいな事を問うているような気がするから
サダタロー氏のレビューは「見て見ぬふりをする側」なんだろうな、とか無垢ゆえの残酷さが感じられる
それも正しいとは思う
語る気になれないんじゃなくて、語りたくないから語らないって事だと思ってる
スレた大人なら逆に語れると思うんだよね(ハッピー道具があるから)
この作品を犯人探しのような目線で追っても解決し得ないから、解が人それぞれあるのかなと想像するけど、どうなんだろう?
タコピーってキャラは寄り添ってくれる(らしい)から良いという評価もみているし、「ハッピー道具でどうにかしてくれ」って感想になりにくいように思うんだけど、どうなんだろう
とか思いました次第です
あーごめんごめん、お察しの通り前の文章は生成AIと一緒に作ったやつで30ラリーくらいした上で最後の添削のところで手伝ってもらったから臭さが残っちゃったね。
今度のこの文章は100%pureメイドバイ人力なので安心してえろ(絶対に添削で残らない語尾を敢えて残すことで証左を高めるテクニック!)
私が前の文章書くにあたって、穢れの部分については文化人類学、男性主権社会の構造分析にはポスト構造主義、他にもフーコーやハンナ・アーレントあたりを援用しながら考察を進めていったから議論が拡散しすぎてはてなーには理解不可能だったかもね。
でもおかげで論点がより可視化されたのでさらに一歩進めることができたよ。BIG LOVE🩷 あと、積極的に私の話を聞いてくれたひとには感謝しかない。
私の主題は、罪を男性に擦りつけることではなかったよ。でも今更こういったところで、ヒス女が話聞いてくれなかったから尻尾振ってきたくらいにしか思われないし、男女対立にした瞬間に血圧200超えちゃうひといるからどうしようもない問題かもしれない。Koshianxさん、昔はあなたが好きだったから寂しい限りです。
前回の私の文章の問題点として挙げられていたのをまとめると以下の3つだと思っている。
①公開垢で言うのが間違い派
①について、確かに、私の素朴に感情を呟くという表現は迂闊だった。反省している。でも、はてブならいいんかってレベルで差別発言してるひといるよね? てかAV女優ごときが何を偉そうにと言っているひともいるし、そいつら一人ひとり叩き潰してから掛かってこいよってこれまた燃えるね。
いいかい、投稿者は元AV女優が私が着る予定だったドレスを着たことを問題にしたんだ。三上悠亜という名指しをしたわけではない。
そこにあったのは、自分の見られ方をコントロールできないという諦めからとも読める。内心の自由を否定しないはてなーなら、アイツの着てるドレスAV女優と同じなんだって、ぷぷ、インフルエンサーなんて同列だから仕方ないねw だったり、AV女優と同じ衣装着てるってエロw 同じドレス着るなんて穢れが移ったね、という見られ方をするのは仕方ないってことなんだよね。これはポスト構造主義的議論。
前回の文章ではここの部分を端折りすぎて議論が拡散していたから丁寧に書くよ。
じゃあ、そもそもAV女優だから最悪って思う心はどこから来ているんだって話。
ここからが文化人類学的な視点になる。穢れというのは、処女性=純潔性→神聖さと対立する概念であって、女性は氏族交換によって価値を生む存在である。その価値を担保するのが穢れのなさである。それを示すのが白無垢=ウェディングドレスだ。逆に言えば、自分自身を商品化する女性には価値がない、けれど社会を維持するためには必要な存在として穢れを負わせることで内包していた—もちろん、コメントにあるように病的な意味で穢れという身体的な惹起があることも確か。
穢れを持つものの身分は固定化されやすく、この差別とは再生産され続けていた、というのが歴史的な経緯。
で、ここからがフェミニズム的な見方になるんだけれど、職業選択の自由や女性の選挙権をはじめとする自主決定権が与えられてから世代で言えば4世代くらいは経っている現代において、建前上は穢れによる身分の固定化というのはないことになっている。
けれど、一方で経済的な事情から身体を商品化する職業を選ばざるを得ない家庭に育つひとがいることも確か。
こうした、選択肢がないものにしか選べない職業ということでセックスワークは現代においても賤業として見られている。
そこに近代以前の穢れ観と結びついて、AV女優をその職業を理由に区別することは、差別だと言われる、と私は読み解いたよ。
他の差別と比べて難しいのが、他の前近代的差別は教科書に載せて、また教育によって廃止するというスローガンがある一方、こちらの穢れについては明文化されてこないものであった。
つまり、投稿者にとってAV女優が着て最悪と言ったのは、現代的な価値観やそもそも身体を商品化している職業者と同一視される可能性を危惧してのことかもしれない。けれど、過去からの文脈を知るものが、穢れと結びつけて差別だと批判したんだよね。
で、ここまで来てようやく私の本題に入るんだ。
この穢れの構造を作ったのは、女性か? 女性は、コメントにあったように自らの商品価値を高めるために他者の純潔性を貶めることをしたり争ったりと主体的に再生産に寄与していた側面はあることは確かだが、そもそも、この純潔性は自らの商品価値であり値付けをする存在がいるからこのマーケットは成り立つんだよね。
そのマーケットの主催者は歴史的に男性だったんじゃないの???
勘違いしてほしくないのは、別に現代に生きる男性を糾弾したいわけじゃない—むしろ私たちは女性に選ばれる側、値付けされる側として大変だもんな。これまでと価値観が転倒してそれに対応するので精一杯だ。でも、女性達が結婚式で着るウェディングドレスの純白には、過去の私たちの価値観が色濃く(むしろ真っ白に)残っている。
ここを認識しないと、この差別を無くすための第一歩にならないということだ。みんな、公共の場で差別を叫んではいけない、という道徳規範を持っているなら、差別を撤廃しようという運動にもベットしてくれるよな?
過去から分断した価値観を持つ者はとっくにこの枠組みから逃れていて、だからこそAV女優について非難することは差別だと思うのかもしれない。けれど、そう言えるのは男性だけであって、今でも値付けされた側には純潔性を巡る呪いから逃れることはできないままでいるんだ。
だから、AV女優に対して普段から暴言を吐かれていても可視化されなかったが、今回炎上したのは、この純潔性の呪いがはっきりと顕れる事象だった、しかもミソジニーが喜ぶ構図で、という最悪の掛け算が起こったからなんだと思う。
そうやって純潔性の呪いから抜け出せないことは前近代的な価値観の復活であり、それはつまり男性主権社会復権の足掛かりなんだから。
私の前回の文章は、議論の範囲やトーンが整理されていなかったことや、現状認識の甘さがあったことは認める。SNSは素朴じゃダメだよな。そこは素直に謝りたい。ごめん。
だけど、私が訴えたかったのは、
ここまで来れば、女性が自分にかけられた呪いを解くターンにあることは確かだし、その呪いを再びかけようとする存在も意識することができる。
私は今回の炎上から、この一歩の必要性を感じたよ。あなたはどう?
追記。私はフェミニストではないよ。ただの人文系を大学時代に齧っただけのものだから、理論の正確性に欠ける部分はあるけれど、この問題を解きほぐすためには人文学の知識を総動員しないといけなかった。大学時代、使うことはあっても何か定規で測っているだけのようだったけれど、初めて知の巨人の肩に少しだけ乗れた気がする。
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