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はてなキーワード:漢和辞典とは

2024-06-12

anond:20240612104130

どうやったら辞書を引けと言われて漢和辞典ではなく常用漢字表役所の書き方マニュアルを参照する頭になるのかのほうが謎

Permalink |記事への反応(1) | 15:09

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2024-06-01

萌歌の萌とか勇翔の翔みたいな使い方

なんか一部で名付けで「萌」を「も」と読んだり、「翔」を「と」と読んだりするのはおかしいというような風潮があるが、理由がよくわからない。

これらは普通にある訓読みなので名付けの読みで使ってもなんらおかしいことはない。

萌える」も「翔ぶ」もどちらも漢和辞典に載っている読みである

歴史的にも、

壬生忠見(みぶのただみ)の「見」

土岐頼遠ときよりとお)の「遠」

松平定信まつだいらさだのぶ)の「定」

高橋是清たかはしこれきよ)の「清」

など、名前の読みで訓読みの送り仮名を省略して使う事例は多々ある。

かに萌歌とか勇翔とかは最近出てきた使い方かもしれないが、漢字の読みの原則としては上記歴史的な例と使われ方に違いはない。

これが例えば「星」を「ほ」と読ませるようなのはさすがに若干キラキラ感が出てくるとも思うが、訓読みの送り仮名の省略は伝統的にも普通に使われてきたとしか評価しようがない気がする。

Permalink |記事への反応(0) | 08:24

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2024-05-22

anond:20240522160441

単位としての1/100の説明があるやつは、全部その1/10に別の名前単位がある。

1尺=10寸、1両=10匁、1元=10角。

 

割の語源関連(1束=10把)もそうだけど、そこまでは存在していて、その後にそれを細かくするために分を使ったと考えるとどれも辻褄が合ってしまう。漢和辞典説明のためにわかやす単位を優先して書いたとも言えるしね。

 

これを否定するには、これら別の単位が分以降に生まれものである資料さえ見つければいい。まあ、これって"言うだけは簡単"だけどね。

Permalink |記事への反応(0) | 17:50

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anond:20240521170751

ところで「一寸の虫にも五分の魂」の「五分」は長さの単位としての分(1寸の1/10)というのが国語辞典解説のようだ。

そもそも漢語の「分」とは何であるか。漢和辞典を引くと

A三(数)

❶二分の一。半分。

人生百年、昼夜各分じんせいひゃくねん、ちゅうやおのおのぶんナリ

人生は百年で、昼と夜とがそれぞれ半分ずつである〈列・周穆王〉

❷十分の一。一割。

例歳蔵㆓三分㆒としゴトニさんぶヲぞうス

訳毎年三割をたくわえる〈管・乗馬

A四(量)

単位名。

㋐長さの単位。一尺の百分の一。

㋑重さの単位。一両の百分の一。

㋒面積の単位。一畝ポの十分の一。

時間単位。六十分は、一時間

㋔角度の単位。六十分は、一度。

貨幣単位。百分は、一元。

(中略)

日本語用法一わ-かる。理解する。明白となる。「答えが分かる」二ぶ。①勝負などの優勢の度合い。「分が悪い」②単位。㋐数で、一の十分の一。㋑歩合で、一割の十分の一。㋒重さで、匁もんめの十分の一。㋓江戸時代貨幣で、一両の四分の一。

という説明があり、どうも単位としても1/10だったり1/100だったりする。

(日本語用法ではない)漢語としても1/100の場合があるということは、把利→割の定着後に分=1/10割=1/100になった、というわけではなさそうだ。

貨幣で1両の1/4に至ってはもうわけがからない。

Permalink |記事への反応(1) | 16:04

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2024-05-21

anond:20240521170751

三省堂漢和辞典「漢辞海」の「割」の解説より

日本語用法①②略

③わり。十分の一。古代の出挙スイコにおいて、稲束一束(=十把)に対する利率を、把を単位として「五把利」などと表した。のち、歩合一般に用いるようになり、発音が「ワリ」に変わって、近世以降「割」をあてるようになった。

Permalink |記事への反応(1) | 20:17

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2024-05-06

anond:20240506115921

ここで俳句解説するとボロクソ言われるのが落ちなので、リアル相談した方がいいよ。

…というのは、俳句は滅茶苦茶コンテクスト文脈)に依存する芸術からだ。短歌31文字が対決的な文化(歌合せとか)を成立させてきたように「向き合う他者」に言葉を届ける能力もつのに対して、俳句は仲間内のような座の中で成立してきたように「コンテクストを共有する仲間」の間で盛り上がるタイプの道具であり、背景となる文化文脈を共有していないことが多い現代社会特にネット上)では、説明したところで、「そうとは限らないのでは?」みたいな突っ込みが山ほど入るのが目に見えてる。「なんでそう言い切れるの?」「必ずしもそうとは限らない」etc……いやうるせえわ。俳句ってそういうモンなんだから仕方ねえだろ。


それを踏まえた上で、可能な限りの解説をするぞ。長いので暇人向けだ。ちなみに、調べて作者名見て「あー」(嘆息)と声が出そうになってあと調べるのはやめた、から、ほぼ推測のみで書く。まあ、ちょっと古い昭和俳句だわ、くらいに思いながら聞いてくれ。ちなみに、俺はこの句、一読して「短歌的な俳句だ。それだけに、短歌増田が感心したのは分かる」と感じた。俺自身は、こういう俳句は作らないと思う。理由は後述する。

「ここで昼餉(ここでひるげ)」

初手から6字で字余りだ。字余りについては今更説明しないが、基本的にはあんまりやらない。なぜなら、基本的にはリズムを壊したり重たくしたりしてしまうからだ。わず17字でつくる詩で、およそ1/3のリズムが崩れかねないというのは、かなりオソロシイことだ。逆に言えば「その危険を押してでもやりたい」と作者が判断したときだけ、リスクを背負ってやる。素人にはあまりお勧めしない手法だ。さて、作者はわざわざ字余りをして、「さあ、この辺(の場所)で昼飯にしようかな」というメッセージを伝えているわけだ。何とも人を食った話だが、昼飯の場所が決まっていないということはこの人が日常の中にいるわけではないことを暗示してる。まあ、単に定年で暇になって毎日あちこち公園やらデパートやらで飯を食ってる爺さんという可能性もゼロではないが、後で出てくる夏という季節にそんなことをする爺さんもあまりいないだろうから、ここで作者はそれなりに若く、夏の最中に野山を歩き回っていると推測される。これで一気に「作者の年齢、場所、状況」に関する情報が得られるのだから、字余り使った値打はあると言えばあるが、それ以上に作者がここであえて句のリズムをもったり重たくさせたのは、「いい年したおっさんが夏の昼間にハイキングしてる」という「のんびり感」を演出しようとしたためであるかもしれない、とも推測される。その意味では、この初句、のんびりして見えて人を食ったような、それでいて計算もあるやり手の初句だ。ちなみに、この初句、体言止めで切れる。俳句はやはりどこかで「切れる」ことが推奨されるが、それは句の焦点をはっきりさせるためだ。句切れの前に焦点があるか、後にあるかはケースバイケースだとしても。

ただ、それにしても「ここ」が山とか自然の中、は分かったが、どんな場所なのか、また、ここで昼飯にしようと思ったのはなぜか、作者はいまどんな気分なのか、とかは分からない。それは、続く部分で種明かしされる。(よって、ここでは句切れの後、つまり「種明かし」パートが句の焦点だと考えられる。)

「真赤な夏の/花佇つゆゑ」

最後に「ゆゑ(故=理由)」とあるが、普通に考えたらこれまた俳句では普通やらないおきて破りである。句の中でこういう「理由の明示」みたいなこと、ダメだろ普通。なぜかというと、基本的にカッコ悪いからだ。たとえば「閑けさや岩にしみいる蝉の声」を、「蝉の声岩に染むゆえ閑かなり」とかやったら、なんかいろいろ台無しだろう? ネタ晴らしというかなんというか、たとえそういう意図を込めていたとしても、言わずにそこを感じさせて感心させるところがさあ、まあ句の仕掛けなんだから、答え言っちゃったらもう何かダメじゃね?とふつうはまあ思うんだよ。でもこの句はもう少し進化した句で、理由を言っちゃった上で「え?それが理由になるん?」と読み手に突っ込ませることを狙った作品なのだな。突っ込みさせた上で、「え……理由…?………になるんか、…ならんこともないか、うーん、なるほど」みたいな。最初のんびり路線がここで効いてくるわけだ。作者は「それが理由なん?」という突っ込みに対して"のんびり"という姿勢をとることで「それが理由ですが、何か?」と返してきているわけだ。そうやって自信満々に言われるとなんかこっちが間違ってる気もするし、そう言い切られたらそうかなあ、と少し納得感がないでもない……と思わされた時点でもう作者の術中に落ちているのだ。この作戦、小難しく解釈しようとする人であればあるほどハマる。

もっとも、そういう、突っ込みさせつつセルフ納得もできる「微妙な線」を狙うのはなかなか難しい。だから、それを実現させるために作者は2つほど仕掛けをしてる。

一つは「真っ赤な夏の花」だ。これ、普通なら夏に咲くそ花の名前を入れる部分だよな。たとえば朝顔ならアサガオ向日葵ならヒマワリ……だいたい花の和名なんてそんな長いものじゃない。少なくともただ花それ自体を指すのに9字も使うのって、俳句始めたての人の句なら真っ先に直されそうな部分だ。でも、その上でだ。聞いてみるけど、この花何だろうな? 日本の、ハイキングで行くような野山に、真夏に「真っ赤」な花なんて咲いてるか? あとで「たつ」という言葉がある以上、人の背丈程度には高さがあってすっと伸びた草花だ。さて何だろう? 作者の答えは「知らん!」だよ。知らないから「真っ赤な夏の花」なのだ。おいおい、そりゃねえだろ、と読者に突っ込ませておいて、そこで作者はぬけぬけと「だからここで飯にするんだ、悪いか?(ニヤリ」とやってくるわけだ。無責任適当にやってるように見せながら計算もあり、でも基本的楽天的天衣無縫な語り口の句だ。それが初句の「のんびり」加減と相まって、この句に独特の雰囲気を醸し出していることは否定できない。なんだったらここで笑い出しちゃうような面白みがある。

二つ目は「佇つ」だ。学のある人をこれで引っ掛けようという腹だ。この字、音数から考えれば「たつ」と読ませているのだろう。だがこの字に原則として「たつ」の読みはない(少なくとも家にある広漢和辞典(全四巻)でみる限りはない)。一般的な読みは「たたずむ」で、じーっと立っている、という意味だ。「たつ」に宛てたのは、その意味を合わせて感じさせたかたからであろう。花はいつまでもじーっと立っているのだから人間が「立つ」のと同じ字でない方がいいんじゃありませんか、というか、「佇む」には途方に暮れて立ち止まる、みたいなニュアンスも漂う。何か、その夏の花が所在なくじっと立っているので、仕方なくしばしのひと時を一緒に過ごす、みたいな感じだ。なんだろう、ひょっとしてこの「真っ赤な夏の花」というのは、山道を歩く途中で一緒になった、真っ赤なサマードレスを着た女性か何かの比喩なんではないだろうか、みたいな、そんなちょっと色気みたいな解釈深読みが(実際、俳句読みはその手の暗喩創作をよくやる)この「佇」一字から立ち上ってくるのである。そうなると、花の名前が特定できなかったことも、何だかそのための仕掛けであるようにすら見えてきて、うーん、と悩まされるのだ。当然、そこまで考えての、このルール違反用字である

結果、山歩きの途中花の下で飯食うかあ、というだけの句が、俄然ストーリー性、物語性、ロマンスの色彩まで帯びてくる。が、もちろん現実にはそんなことはないのであって、実際ただ飯をくっただけなんですけどねー、という緩い種明かし(そもそもそんなロマンスが勃発したら俳句なぞ作っている暇はないので)を前提に、その幻想を楽しむ、そんな句ということに落ち着くわけだ。

そんな風に、この俳句はなかなか外連味(けれんみ)のある、仕掛けとイメージてんこ盛り、物語調の俳句で、実に面白いと言えば面白い、一般的俳句の目指すところとはちょっと外れた句だ。一般的俳句もっと、瞬間的、即物的、断片的に風景を切り取るのが基本なので、まあ普通は「季語感情」でつくるとこから始めるのが適切だろう。この句も、山道で赤い花に出会った瞬間の感情を句にしてると言えなくもないが、それにしてはいろいろな仕掛けが人を食っていて、また、無用物語調で独特だ。一般的俳句なら、たとえば「握り飯ハイビスカスの色に染む」とかでいいわけだが、この句はその瞬間の風景以上に、遊び、のんびり感、山道を歩いてきてよいしょと腰を下ろすそのしぐさ…からああ花がきれいだな、という一連の感情を全てこの一句に込めようとしてるのだ。これを17字でやるのは、本来かなり無理筋なので、普通はもうちょっとワンショットに切り分けようとしたりするか、あきらめて短歌にいくかするだろう。その無理をやってる(そして、そこそこ成功もしてる)のがこの句の面白いところで、たぶん短歌増田が感心したところなんじゃないか

まあ、こういう句、狙って作るのはなかなか難しい(ちなみにこの作者・中村草田男は、こういうのをやたら作るのだが、ひどい失敗も多いので有名な人だ)。そういう意味でも、まあなかなかない句ではあると思う。あと、何も知らずにいろいろ書き飛ばしたので、もっと知ってる人から突っ込み入れてもらえたら感謝する。

Permalink |記事への反応(3) | 17:11

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2023-11-21

anond:20231121012244

じっ けん 【実験】


(名)


①実際に試み,考え方の正否を調べること。特に自然科学で,特定現象関係研究するため,人工的な一定の条件を設定し現象を起こさせて,観察し測定すること。仮説や理論検証し,新しい現象を探し出すために行われる。「実験室」


実際の経験「昼夜吸入器を掛けねばならない様な場合の気苦労は実験せねば解りません/一隅より」〔「英和対訳袖珍辞書」(1862年)にexperimentalの訳語として「実験上の」とある明治初期は「経験」と混用され,のちexperimentの訳語として現在意味で定着した〕


くび じっけん 【首実検】


(名)


①昔,戦場で討ち取った敵の首を大将の前で面識者に見せ,その首の主を確認させたこと。


②(容疑者などを)知っている人に会わせ,本人かどうかを確かめさせること。〔「首実験」と書くのは誤り〕


明治期の文書を読むなら国語辞書古語辞典漢和辞典スマホに入れとくと便利よ。

Permalink |記事への反応(1) | 01:33

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2023-11-16

ATOKを買え

一太郎に標準装備されてた日本語変換”ATOK”なら、Ctrl+F11で「ATOK文字パレット」を呼び出すことができて、その「漢字検索」というタブで「部首検索」ができるんだけど、その「部首」というのは漢和辞典で言う部首でなくまさに増田の言う「漢字のパーツ」なのな。だからATOKなら増田の言うことが実現できる。さっきやってみたら、「叔」をパーツに持つ漢字17件ヒットした。ちなみに、「寂叔淑督俶椒菽埱婌惄掓漃琡蔋裻諔踧」だってさ。

anond:20231116172713

Permalink |記事への反応(0) | 17:45

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2023-08-11

anond:20230810220223

国語辞典にも古語辞典にも漢和辞典にも出てこないから、ショウロンという読みは無いと思う。

Permalink |記事への反応(0) | 10:26

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2023-06-27

anond:20230627095903

そしたら「歿」って文字があったら最強じゃん!

と思って漢和辞典引いてみたっけ、まさに「歿」が死ぬとか殺すとかの意味で、「死没」とか「没年月日」の「没」は「歿」の通用版ということだった。

Permalink |記事への反応(0) | 10:43

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2021-09-12

国語偏差値は忘れたけれど。

国語偏差値が70云々という、はてなブックマーク話題を目にして「高校生の頃の偏差値をよく覚えているなあ」と感心した。私は自分偏差値を忘れてしまった。センター試験自己採点で国語数学英語がいずれも190点超えていたことは覚えている。しかし、わざわざそれを他人アピールする機会も意味も、私には無かった。

アピールする意味が無いのは、自分頭脳は良くないと自覚しているかである大学生になったは良いものの、私はイプシロンデルタ論法についていけず大学数学挫折した。数学以外も似たようなものであった。ペーパーテストではない、実験研究という大学の活きた学問は、まるでダメだった。地方国立大学入学できる程度には受験勉強が出来たし何とか卒業もしたものの、大学の本格的な勉学に挫折した私は、平凡な人間であった。

それで今更の話なのだが、現在の私は数学勉強し直している。別に仕事に役立てようとか、そういうつもりは全く無い。全くの自己満足である。では、自己満足の欲求の源は何処かといえば、それは私の両親である

私の両親は、高校中退である。私の両親の世代では、地方低所得者層に生れた子が、生家の経済的理由から学業を断念せねばならないというのは、珍しくない話であった。珍しくない話ではあったものの、やはり両親にとっては心の傷だったのだろうと思う。

父は、一冊の古い辞書を大切に持っていた。私が小学生の頃には既に、ページは手垢で黒ずみ、ボロボロ状態だったのを覚えている。母は、横溝正史松本清張文庫本を何冊も持っていて、これまたページはボロボロであった。学業不本意に断念させられたことの埋め合わせだったと、私の両親は言っていた。本物の勉学を経験した人たちから見れば、たか辞書推理小説を読む程度で勉学の埋め合わせを名乗るなどお笑い草かもしれない。しかし、私の目には、両親の姿が尊く見えた。親馬鹿ならぬ子馬鹿と言うべきであろうか。それでも構わない。私が今更ながら数学勉強し直しているのは、明らかに両親の真似である

就職して幾許かの金を自由に使えるようになった私は、両親の欲しいものリクエストに応えて買い物をした。平家物語を読みたいと言うので、古語辞典と一緒に買って送った。お経や論語も読んでみたいと言うので、これらの本や漢和辞典も買って送った。母はアガサ・クリスティ作品を読みたいと言うので、これも買って送った。父は写経したいと言うので、筆や硯も買って送った。いずれも大した額の買い物でもないのに、両親は大袈裟なぐらい喜び、何度もありがとうと言っていた。

しろありがとうと言うのは私の方である家族共用の本棚に、子供向け百科事典児童文学のセットを置いてくれて、子供の私が本を読むように育ててくれた。それに、私の読書趣味に決してケチをつけなかった。国語試験偏差値は忘れたけれど、本を読むことの楽しさならば私も忘れないだろう。本を読むことが楽しいと私に教えてくれて、ありがとう

蛇足だが、数学の再勉強ノートをとりながら「どこまで理解できているやら。これでは写経だな」と思い、父子で写経好きというのが何だか可笑しく感じた。

Permalink |記事への反応(0) | 15:04

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2021-07-07

ネトウヨの定義って

自意識肥大化して自国家の都合のいいところとだけ合体してる人、それをネット開陳してる人ってことでいいんじゃないかなー。

 

自国家を冷静に見るとアラが見えてくるからそこは見ないし知ろうとしない。自国文化もやたら振りかざすけど詳しくないし、大事にもしないし。

から短歌を35文字以内などと言ったり、沖縄基地反対のテント漢和辞典があったか中国人が絡んでるって言いだしたりするし(百田尚樹)、

「はたらけどはたらけど」を宮沢賢治の歌だと書いちゃったり(高須克弥)、

北方領土のためにロシア戦争しないのかとのたまって怒られた時の丸山穂高に、与謝野晶子の「君死にたまふことなかれ」をもじったエールを送っちゃったり(石井苗子)するんだよ。

日本の伝統的な風景イメージさせたら田んぼと桜と富士山鳥居くらいしか出てこないようなタイプ

 

肥大した自意識が何に同化するかで名づけは変わってくるんじゃないかなー。それが自国なのがネトウヨだと思ってる。

 

上記感情を煽って商売してる人も含んでいいかもしれない。

 

追記:「ネトウヨ当人属性については論じない。

自意識肥大化するきっかけはどんな人にもあるし、どんな属性を持っているかではなく「何を拠り所とするか」で決まると思ってるので。

Permalink |記事への反応(7) | 11:22

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2021-01-26

anond:20210126173849

漢和辞典を開くべし。持っていなければ帰りに書店で買うべし。

Permalink |記事への反応(0) | 17:48

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2019-10-03

漢和辞典を読むと意外な発見がある。

風俗「風」政治的指導教化による生活習慣、「俗」は長期に渡って自然形成された習慣

婚姻…「婚」は新郎父親、「姻」は新婦父親

戦闘…「戦」は公的もの、「闘」は私的もの

逮捕…「逮」は逃げてる人をとらえること、「捕」はそこにいる人をとらえること

鳳凰…「鳳」はオスで「凰」はメス

Permalink |記事への反応(0) | 01:25

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2019-04-03

anond:20190403173856

だれもそんなこといってねえよw お前が漢和辞典しかみてねえだろっていう皮肉だよwww なお横

Permalink |記事への反応(0) | 17:39

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