
はてなキーワード:混同とは
LINEオープンチャット「はてなブックマーカー」の1週間分の要約を、さらにAIを使用し、試験的にまとめまています。
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この1週間は、**AIと人間社会の関係性を中心テーマとして、多方面の話題が「技術の急激な進化に人間はどう適応するのか」という問いに収束している**のが特徴的だった。AIは投資・ギャンブル予測から日常の雑談生成まで影響を及ぼし、その便利さと不安が共存している。
同時に、**生活実感(寒さ、子育て、健康不安、ペット)**といった「人間の身体性と感情」に根ざした話題が強く現れ、テクノロジーと人間の温度差が浮き彫りとなった。
食・趣味・ユーモアによる緩和的な会話が全体を支え、「情報社会の混沌を笑いながら受け入れる知恵」がコミュニティ全体に見られた週であった。
https://anond.hatelabo.jp/20240722084249
政治に大きな変更を加えるときには、とにかく何かしら批判がなければ不健全なんだよ。
微に入り細を穿って「こういう問題があるんじゃないの?」とブレーキを踏み続ける。
それで法案が修正されることもあるし、検討したうえで「このままでいける」となれば成立させればいい。
直近では問題がなくても百年後くらいに変なやつが総理になってその法律を悪用しだすかもしれないから、
それも監視し続けなきゃいけないよねっていうのが肝心なところ。
「いちいち批判すんな」とか「足を引っ張るな」とか言ってるのは、政治ではなくビジネスのお作法だよ。
新しい事業を興すときに、反対意見を気にするな、スピーディにやれ、とかいうのは、
ChatGPT:
INSIGHT ANALYSIS:表象の真正性パラドックス
「女性主人公を描けない」創作者の原理的ジレンマ
Core Observation
この投稿者は、フィクション創作において「経験的真正性」と「想像的自由」の矛盾に直面し、表象行為そのものの正当性を疑問視するに至っている。彼が求めているのは「女性を正しく描く方法」ではなく、「自分が女性を描く権利があるかどうかの確証」である。
PRIMARY INSIGHT:批判理論分析 (Mode E)
イデオロギー的構造の解体
この投稿者の悩みは、表面的には「技術的問題」(どう描くか)に見えるが、実際にはアイデンティティ政治の内面化が生み出した認識論的危機である。
内面化されたイデオロギー的前提:
↓
↓
「描く資格がない」
この論理は、2010年代以降の「文化的専有(Cultural Appropriation)」批判や「当事者性」の政治から派生した規範を、創作者が自己検閲として内面化したものである。
皮肉なことに、これは1980-90年代のジェンダー理論が批判した本質主義そのものである。しかし今回は「進歩的」「配慮的」な動機から再導入されている。
彼は「女性を正確に描く技術」を求めているようだが、実際に求めているのは「女性を描くことへの道徳的許可」である。
生産的矛盾の発見
↓
↓
これは本質主義の自己矛盾である。「女性」というカテゴリーに本質があると仮定しつつ、実際の女性たちの多様性に直面して混乱している。
イデオロギー批判: 何が隠蔽されているか
投稿者は「正しい女性の描き方」があると仮定しているが、これは幻想である。「女性」は単一の経験的実体ではなく、歴史的・文化的・個人的に多様な存在様態である。
士郎正宗のデュナンを「中身は男性」と断じるが、これは以下を前提としている:
しかしこの論理は、女性を規範に押し込める本質主義そのものである。
「生理を経験していないから分からない」という論理は、人間の相互理解の可能性そのものへの懐疑に至る。
この論理を徹底すれば:
この悩みの背景には、歴史的に男性が女性を対象化・道具化してきたことへの罪悪感がある。しかし、その補正として採用された「描かない/描けない」という態度は:
↓
過剰補正:
↓
帰結:
これは抑圧への対抗が新たな制約を生み出すという典型的パターンである。
自己検閲のメカニズム
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↓
↓
内なる検閲官:「それでも不十分だ」「個人差と本質の区別がつかない」
↓
SECONDARY PERSPECTIVES
系譜学的補足 (Mode C)
この「悩み」の歴史的構築
第1段階 (1970年代以前)
第2段階 (1980-2000年代)
第3段階 (2010年代-)
第4段階 (2020年代)
投稿者は、この第4段階の症例である。彼の悩みは個人的なものではなく、言説空間の変容が生み出した構造的効果である。
現象学的補足 (Mode D)
投稿者が経験しているのは、単なる技術的困難ではなく、創作主体としての自己の正当性への根源的懐疑である。
彼の実存的問い:
投稿者は、この理解の可能性と不可能性の間の宙吊り状態にある。
SYNTHESIS: 深層パターン
この現象が明らかにするもの
アイデンティティ政治は、周縁化された集団の声を中心化しようとした。しかしその論理を個人の創作実践に適用すると:
↓
↓
↓
20世紀後半のジェンダー理論は本質主義を解体した。しかし21世紀に、配慮・正義・包摂の名において本質主義が再導入されている。
これは解放の言説が抑圧の論理に転化するという、イデオロギーの古典的矛盾である。
この悩みは、フィクションの根本的機能—経験していないことを想像し表現する—への懐疑に至っている。
投稿者のジレンマは、これらすべてを疑問視している。これはフィクション自体の正当性の危機である。
投稿者の不安は、個人的心理ではなく、言説空間の変容が生み出した構造的効果である。
投稿者は誰にも批判されていないのに、架空の批判者を内面化している。
IMPLICATIONS
この個別事例が示す普遍的問題
投稿者は技術的助言を求めているように見えるが、実際に必要なのは認識論的・存在論的再定位である:
1.本質主義からの離脱: 「女性」は単一の経験的実体ではない
2.想像力の復権:経験していないことを想像できるのがフィクションの本質
3.完璧主義の放棄: 「完全に正しい表象」は不可能であり不要
4.対話としての創作:表象は完結した真理ではなく、継続的対話の一部
より広い文化的含意:
↔
歴史的瞬間について:
我々は「誰が何を語れるか」という問いが過剰に中心化された時代にいる。これは必要な矯正でもあったが、新たな問題も生み出している。
INSIGHT CRYSTALLIZED
この投稿者は、フィクションに「経験的真正性」と「道徳的正当性」を同時に求めることで、創作行為そのものの可能性条件—想像力による他者への跳躍—を否定するに至っている。彼の悩みは個人的なものではなく、アイデンティティ政治の論理を内面化した結果生じる構造的効果である。
言い換えれば:
彼は「女性をどう描くか」ではなく「自分が女性を描いてよいのか」という存在論的問いに囚われており、この問いは—その形式自体が—本質主義的前提と想像力への不信を含んでいるため、原理的に解決不能である。
So what?:
この事例は、配慮と正義の言説が、意図せず表現の自由と想像力を収縮させうることを示している。文化の活力には、不完全さを恐れずに境界を越えて想像し、その試みを通じて対話を重ねる実践が必要である。
PUNCHLINE:
彼が本当に恐れているのは「女性を間違って描くこと」ではなく、「女性を描くこと自体が僭越である」と判定されることである。しかしこの恐怖は、最も抑圧的な本質主義—男女は相互理解不可能という観念—を再生産している。解放の言説が、最も因習的な性別二元論を復活させるという究極の皮肉がここにある。
オッス、オラ理性主義者!
まず落ち着け、現代民主主義者。お前が言ってることは、哲学的には立派だが、現実の社会設計としては理想論の塊だ。
「感情の保護と秩序維持を混同するな」なんて言うけどな、その“感情”こそが民主主義の出発点だ。
人間の感情が集まって「国民」となり、その感情の総意が「国家」を作ってんだよ。
民主主義の根幹は、冷たい論理じゃなく、“感情の集合体をどう理性で制御するか”ってところにある。
でもな、それが成立するのは、社会が“お互いに踏み越えない前提”を共有しているからだ。
破壊に自由を与えると、社会は信用を失う。信用を失った社会に民主主義は存在できない。
国旗が国民全員の象徴なら、個人の政治的パフォーマンスで汚していいわけないだろ。
それを「思想の自由」って言い張るのは、公共財を私有化してるに等しい。
国旗を国家が独占してるんじゃなく、国民の象徴を国民自身が守るだけの話。
それを「神聖化」と呼ぶなら、お前は“共同体”って概念を根本的に誤解してる。
それはルールの上での話だ。
「不快さの表現」に限界を設けない社会は、ただのカオスになる。
それは理性ではなく感情への挑発だから、民主主義的な行為ではない。
現代の民主主義に必要なのは「燃やす自由」じゃなく「敬意を持って批判する知性」
それを擁護するのは、自由じゃなく“知的怠惰”の肯定にすぎない。
さて、「国旗損壊罪は当然」「秩序を守るための線引き」なんて言葉を聞くと、まるで21世紀の社会に19世紀の魂が迷い込んだみたいだな。あえて言わせてもらう——それ、民主主義じゃなくて“情緒主義”だ。
「他人が親の遺影を燃やす例」を持ち出してくるが、それは私人間の侮辱行為の話だ。感情的には腹が立つが、国家の象徴を批判することとはまったく構造が違う。
民主主義における国家の象徴は、批判され、風刺され、時に踏みにじられることで初めて成熟する。
国家が「国旗を汚すな」と言い出した瞬間、それは国民に「思考の敬礼」を強要するのと同じだ。
「挑発だから表現じゃない」とか言うが、それを決めるのは誰だ? 政府か? 検察か? 多数派か?
その“挑発”を判断するのが権力側なら、いつでも都合の悪い表現を「挑発」として潰せる。
表現の自由が最も守るべきは、不快で、不穏で、気に食わない表現なんだよ。
共有物を「傷つけたら犯罪」とする時点で、国家が象徴の意味を独占している。
つまり、国旗を守ると言いながら、国家が国旗を国民から奪っているんだ。
「社会契約の上に立つ自由を壊すな」? いや、自由の上にこそ社会契約があるんだよ。
社会契約は、異なる価値観が共存するための最低限のルールにすぎない。
それを「国旗を壊すな」という情緒的ルールで縛り始めたら、契約じゃなく服従になる。
誰かが燃やした国旗を見て腹が立つ? そうかもな。
だが、それを「刑罰で制御しよう」とする社会は、自らの理性を放棄している。
理性を捨てて感情に法を委ねた瞬間、民主主義は衆愚制に変わる。
国旗損壊を罰する法は、国家の品位を守るどころか、国家の成熟を後退させる。
自由とは、神聖な象徴をも燃やす権利を含んで初めて完全になる。
「国家への敬意」は法で強制するものじゃない——市民の内なる思考と良心から生まれるものだ。
誤った類推/偽の同一視(false equivalence)
他国旗は外交上の無礼や国際関係、自国旗は国内の表現規制の話で根拠が違います。単純に同じとは言えません。
反対派を「いつも煽る人」と一括りにして、条文の範囲や罰の相当性、萎縮効果など中身の論点から外れています。
早計な一般化
「今まで大丈夫そうだった」→「今回も問題なし」とは限りません。法ごとに内容も影響も違い、見えにくい不利益もあります。
通ったあと、普通にみんな生きてるだろ。
破局が見えない=害がない、とは言えません。見えない抑圧や長期的影響を因果否定の根拠にしています。
結局、騒ぎたいだけで、法案の中身なんてどうでもいいんだよ。
相手に「危険の証明」を求めつつ、自分の「刑罰化が必要・適切な理由」の提示を省いています。
毎回この世の終わりみたいなことを言って、通ったら知らん顔して別のネタ探してさ。
逆滑り坂の一蹴(slippery slope の過小評価)
「破局が起きていない」ことを理由に、段階的な強化や萎縮の蓄積をまとめて否定しています。
人身攻撃・動機論証(ad hominem / motive fallacy)
「カルト」などのレッテルで相手の人格や動機を攻撃し、主張の内容から目をそらしています。
ただ単に多くの人の気持ちを踏みにじるだけだ。
「多くが不快に感じる」(事実)から、すぐ「刑罰で禁止すべき」(規範)に飛んでいます。保護法益や代替手段、罰の重さの検討が必要です。
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不快感やレッテルを根拠に「処罰は当然」と急ぎすぎ。法としては「何を守るために・どの範囲を・どの程度の罰で・他の手段では足りないのか」を具体的に示す必要があります。
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「My Job Went ToIndia」の改題改訂版が「情熱プログラマー」なんだ!ありがとう発注したわ。(たぶん達人プログラマーと混同して読んだ気になって読んでないパターンだわ)
俺の悪文のせいで意図が伝わらなかったであろうブコメがあったので、要旨だけ書き直しておくな。
ただ忘れないで欲しいんだけど、TerraformメンテしてAWSとかGCPで立ち上げてサービス公開するまでの速度は、相見積取って稟議通して部材調達から入ってた時代に比べると爆速だけど、人間の技術屋の需要は増えてる。
俺は、「マスタリングTCP/IP 入門編」を人間が読んで理解するのは古いよね、という時代にはならないと思ってる。
Slerが自前で手元で試すようになるから~ってのも懐疑的。SIerやメーカーが内製すると必ず子会社作って分離、ぼく発注者きみ受注者にしたがるので。これは技術じゃなくて感情とか経営の問題。
(ただし、Slerが7payみたいなことやらかすのでは?って疑問なら同意。たぶんそういう生成AIで俺たちでプロダクトなんか簡単に作れるじゃんよギークいらね(仕様バグあり)は一時は増えるだろうね)
追記ここまで
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VibeCodingでIT技術者は不要になるのか?という話題が花盛りなのは理由があります。
ギーク(現場でコードを書いていたい人)が分かる話から、スーツ(人を集めたりお金を集めたり営業をする)が分かる話になってきたからです。
具体的に言うと、OpenAI社をはじめ続々とTDD(テスト駆動開発)でやってますみたいな、具体的な開発スタイルの話が出てきたから。
そうすると、現場の座組チョットワカルという強めの経営者が理解して判断し始めるんですね。
でもね、その道はもう15年も昔に我々は通り過ぎました。前回のブームと何が違うでしょうか?
技術者なら電子も機械も強電も弱電もお世話になったことのあるオーム社が過去に出していた直球の本の話から。
「My job went toIndia :オフショア時代のソフトウェア開発者サバイバルガイド」という書籍、何と発行年は2006年です。
かいつまんで話すと、インターネットが整備され、輸送コストがほとんどかからないソフトウェア開発では、アメリカのエンジニアは給与の面でオフショアに歯が立たない、だって、1/10の給与でインドのエンジニアは働くんだぜ?という本です。
そうした、価格競争力で負けるアメリカのソフトウェアエンジニアは、如何にして今後サバイブすべきなのか、という本になっています。
(普通に面白いしAIコーディング時代に通づるものがあるので復刊を希望したいところですが、まあ直球過ぎる題名を何とかしないと再販は無理でしょうな)
そして、JTCや外資問わず、過去にオフショア開発を経験された技術屋のみなさんははてブにも多く生息されているでしょう。
では、ジュニア開発者は不要になりシニア開発者のみになって、いまのソフトウェア開発は主に安い給与で働いてくれるところに遠隔で作業してもらって、レビューだけすれば良い環境ですか?
そうはなっていません。なぜでしょうか。
さて、今普通にXと連動する中古品売買プラットフォームを開発しようと思ったら、どうやってつくるでしょうか?
この文脈に埋め込まれたいくつもの情報「今」「普通」「連動」「中古品」「売買」「プラットフォーム」「開発」を解釈し、すり合わせ、未来の運営者も含めた全員に伝えるためのコストが、コミュニケーションコストです。
そうなると、「ちょっと良い感じにラフでいいからプロトタイプ作って持ってきてよ」で話が通じるのは、受注者マインドがしっかりした日本の受託開発現場の精鋭たちになるわけです。
テストケースだけを通過するように、内部テーブルを持たせた関数を大量に持ってこられてレビュー時に頭を抱えた経験が無いひとは、とても幸運なのです。
とは言え、これは何も文化の違いに起因するだけではありません。仕様とは、環境によって定まるものだからです。
例えば、うるう年判定の関数は、1581年以前をエラーにしますか?1873年以前をエラーにしますか?(ヒント:明治六年)
テスト駆動開発、古い言い方で言えばテストファーストの考え方は、成功したすべてのプロダクトで例外なく、ただの一つの例外もなく、必ず最初から取り入れるべきだったものです。
品質は最後に振りかける粉砂糖のようなフレーバーではなく、最初から設計に組み込むべきだからです。
ありとあらゆる趣味において、最初から良いものを使えば時間を無駄にせずに済んだ、と言われるような初期投資の大切さが説かれます。
果たして本当でしょうか?
そうです、その趣味にハマって生き残りサバイブした人から見れば、過去にその時点で投資をすべきだった、というのは正しいのです。
その趣味にハマれなかった人からすれば、少ない投資で自分に合わないことが分かったという合理的な選択であることと矛盾しません。
そのため、全ての失敗したプロダクトは、テストケースを書く時間でプロダクトを作り上げて、さっさと世に問うべきだったわけです。
少し昔話をしますが、オフショア開発において重要なのはドキュメンテーションとテストケース、それにレビューでした。
他の部署で失敗しつづけていたオフショア開発のやり方は、端的に言えば"教化"でした。
具体的には書けませんが、グッとお安い単価の国に出す仕事を、日本の会社に出すのと同じようにすべく、相手の会社のメンバーを教育して仕立て上げるブートキャンプの仕組みを作り上げていました。
発注側を変えずに済むように受注側を教育して、日本の会社に出すのと同じように単価の安いところに出せたらお得ですよね?でもこれは必ず失敗します。
何故か。だって、日本の会社と同じように働けるようになったら、日本の会社に就職するじゃないですか。少なくとも価値は上がったんだから単価を上げるように交渉しますよね?
結局のところ、当初言われていたような劇的な節約にはつながらないわけです。それなら下手に転職されるよりも自前で現地工場でも立てて地元に貢献しつつ雇用を創出した方が喜ばれるし持続可能です。
小なりとも成果が上がった方法は、フィードバックを相手ではなくドキュメントにした場合でした。
例えば先ほどの例で言えば、テストケースは通るが意図したコードにならなかったとき。
「普通はこういう意図でコードを書くから、テストケースを通るにしても、関数は次からこう書いて」というのが、相手に対するフィードバック。
「関数を書く前に、関数の意図をコメントで残して、レビュー時にはそれを見ましょう」というプロセスの修正が、ドキュメントへのフィードバック。
こうすると、担当者が退職していなくなっても、次の担当者はその方法を参考にすれば良いわけです。
これ、何かに似てませんか。現在のAIコーディングのベストプラクティスと呼ばれるものに非常によく似ているんです。
つまり、オフショア開発というのも、設計と実装が分離できるという前提に立って動いていたんです。
そして、実装しながら設計しても問題ないとする場合、それは「技術的な問題」ではなく「組織構造」に起因します。
つまり、プロダクトの構造を分割して、オフショア開発側に設計と実装とを委譲して、実装しながら設計を変えてもらうことが許容できるのは、契約や責任分界点、輸出入の法規を含めた法務の領域です。
少なくとも当時、諸々をクリアにして相手側にプロダクトの一部を荒い設計と共に切り出して、コーディングしながら再設計してもらい、テストケースを完備したコードとドキュメントを共に完成までもっていってもらったことは、大きな成果であったはずです。
(当時日本側と仕事をしたという実績があると大きな実力があるとみなされたと聞いたので、今はより良いところで良い仕事をされていると思います)
(あと、コミュニケーションコストと輸出入の関連法規が複雑だから)
少なくとも、納期までに契約したこれを納品してください、という枠組みの中では、実装作業だけ切り出すことはできない、というのが教訓として残ったはずです。
少なくともあと数年、場合によっては10年スパンで、日本ではほとんど変わらないと予想しています。
これは技術の話ではなく組織構造や、もっと言えばお仕事の進め方と契約の話だからです。
そうは言ってもジュニアエンジニアの簡単な仕事が減って成長機会が失われているのは事実では?と思うかもしれませんが、そもそもの前提が誤っています。
未経験(弱経験)者を雇って戦力まで鍛え上げる必要があるなら、AIに仕事渡してないでそのジュニアエンジニアにやらせるべきなんです。
ジュニアエンジニアとAIと両方にOJTさせて、その違いをレビューの場でフィードバックしてジュニアを育てるわけです。
もし、そんな時間は無いというなら、元々ジュニアエンジニアをOJTで育てていたというのは幻想です。
(たまに、失敗が経験になるとして、会社に損害を与える方法でジュニアを"教育"しようとする人がいますが、商習慣的にも信義則違反ですし言語道断です)
シニアエンジニアだけで事足りるとしてジュニアエンジニアを雇わなかった企業は、シニアエンジニアが抜けてガタガタになります。
これは中核エンジニアがゴッソリやめた会社が傾くなんて言う話で、昔からそうです。(たいてい、もっと人雇ってくれ待遇上げてくれみたいな悲鳴を圧殺した結果だったりします)
昔から、中堅がやれば手早い仕事を新入社員にやらせて鍛える、その代わり質は悪いし時間もかかるしフォローも必要だったわけでしょう。
AI時代が到来するとしても全く同じです。AIが出力するコードレビューで悲鳴上げてる場合じゃないんですよ。
レビューできるシニアエンジニアが足りなくなると予想されるなら、当然、ジュニアエンジニア雇ってレビューできるようにする必要があるんです。
そしてそれは、技術的な問題点ではなく、組織的・経営的な決断です。
国産LLM開発の文脈でもそうなんですが、ハードウェアの進歩を無視して話をする方が多いのが気になります。
現時点のコンピューターパワーは、10年後には手の届く価格になる可能性が十分高く、もっと言えば20年後には個人が所有する可能性すらあります。
いまから20年前の2005年は、Youtubeが誕生した年です。その時に、誰もがいつも手元にビデオカメラを持ち、即座に動画を世界に公開できるようになるとは思っていなかった頃です。
今もそうだと思いますが、ある分野で必要な性能にはもう十分という期待値があり、10年経てばある程度大きな会社の部署単位で現在最先端のコーディングAIがローカルで動くようになると想像するのは容易です。
そうなったときに、果たして営利企業が、エンジニアを育成するというコストを支払うかといわれると、疑問です。その時点で今後のリアルなコストと比較対象可能になるので。
だって、筆耕担当者とか、清書担当者を雇わなくなった企業って、多いでしょう?
My job went toAI として、じゃあ残るものは何?というのはオーム社の本を読みましょう。再販しないかなあ。
今後数年は変わらないでしょと書いたら今現在進行形で変わっとるわいと突っ込みが来そうなんで防衛的な意味で書いておくんですが、あなたは過去数年間同じ仕事してたんすか?
仕事のやり方とか内容とか、言語とかライブラリとか、毎年のように変わってたでしょ。
レビューの比率が多くなったとか、コード書かなくなったとか、そういうの、たぶん管理職になった人が嘆いてたのと同じっすよね?
少なくとも、ジュニアエンジニアが低品質なバイブコーディング結果を寄越すようになってレビューが大変とか嘆くのなら、まともなコーディング規約一つ作れていない組織の脆弱さを嘆くのが先では?
手癖でバイブコーディングしてヒットしたプロダクトに、あとから品質上げるように大工事するリファクタリングと言うよりリビルディングな仕事って、別に今もありますよね?
散々テストケースを書かなくて良いプロダクトなんて無いという講演だけ聞きに行って、自分とこでテストケースが自動で走るようになって無いなら、そこが問題でしょ。
別に食欲だって「甘いものは欲しいけど辛いものは食べたくない」とか普通にあるじゃん。
「ハグやキスをしたいという気持ちに性欲が影響している」と「性欲なしにハグやキスをしたいとは思わない」は別の話なのでそこは混同してほしくないな。
年を取ると、養ってあげたいと思えるようなかわいい女が本当にいなくなる
もちろん逆もそうで、支えてあげたいと思えるような男もいなくなる
これは恋愛が冷めたとかじゃなくて、単に市場構造の話なんだよな
でも年を取ると、それを代わりに埋められる魅力を持てる人はほとんどいない
そしてその現実を受け入れずに、若い頃と同じように愛されたいと思ってる人が多すぎる
性教育で教えるべきなのは、性のモラルよりも恋愛の経済構造なんじゃないかと思う
愛は尊いものじゃなくて、供給と需要で動いてるって現実を知ることのほうがよっぽど大事
年を取ると結婚しにくくなるのは当然のことだ
市場の価値が減るのに、価格(理想)だけは下げない人が多すぎる
綺麗事よりも、まずは現実を直視するところから始めたほうがいい
やっぱりこれは義務教育で扱うべき話だと思う。
年を取っても年寄りなりのかわいらしさとか性欲的な色での繋がりはあるが、それを若い世代と同じ「市場」で語るのは違う。
実際、中年世代でのマッチングは難しく、熟年になるとさらに厳しい。
年齢とともに恋愛の質は変化し、若い頃のように誰かを養いたい支えたいと思える関係を作るのは難しい。
結局、中年や熟年で結婚がうまくいかないのは、こうした関係性を築くのが構造的に難しいからだ。
恋愛や結婚を感情論ではなく社会構造や生理的欲求として理解する教育が必要だと思う。
Permalink |記事への反応(22) | 14:24
う~ん、47点くらい?
最近さぁ、自分の中のコンプライアンス意識?ポリコレ意識の発達を感じるんだよね。
そしてこれはあんまいいことじゃな気がしている
マギー・Qと弟ヘムズワースがタイの島にバカンスに行ったらそこが因習島でひどい目にあう話。
因習村もの(今回は島だけど)にありがちな、なんかずっとよくわからん恐怖が続く部分はホラー映画として及第点はあげられると思うんだけど、よくわからん状態が続きすぎるのはやっぱ集中力?訴求力を削ぐよなと感じる。大事なのは予測をさせてそれを裏切ることなんじゃねぇかな。モンティ・パイソンも言ってたけど。
ざっくり展開を書くと、マギーとヘムが酩酊して目が覚めて何かあったっけと思ってスマホを見たらヘムがマギーを絞め殺して埋めている映像が収録されててビックリ仰天。その後、マギーが泥吐いたりヘムがダイナミック切腹したりなんやかんやあって、その島では妊婦を生贄に捧げることで不幸を回避している島だったことがわかり、マギーはそれに選ばれていたんだけど逃げ出した結果、島は滅びてマギーは溺死したと思ったら復活しました、終わり。
いくつか問題はあるんだけど、自分の中での一番の引っかかりは「これ差別的すぎないか?」ってこと。「アメリカ人夫婦が他国の田舎に行ったら生贄にされる話」なんていうのはホラー映画界のテンプレではあるんだけど、タイの田舎のたぶんありもしない因習をでっち上げて不気味に描くことってタイ人にタイしてあんまよくないことじゃないか?という気がすごくした。国内の因習村映画では別に感じないんだけど、今作はかなりそれを感じた。
たぶん、この映画がそこそこ予算かけて真面目に作ってるからだと思うんだよね。儀式の内容はともかく、空気感とがリけっこうアリティがあったんよね。この実際にありそう感が逆によくなかったのかも。
で、儀式の内容なんだけど、妊婦を生贄捧げる=マギーしか妊婦がいなかったからしゃーなし、ではなく、マギーは不妊症だったんだけど呪術的なサムシングで強制妊娠させられるのね。ほなら別にマギーじゃなくても現地の女が儀式の生贄になったらよかったんちゃうか?いや、ファミリーは基本捧げない方向性にしても、なんかの時のためのバックアップとして強制呪術妊婦は用意しておくべきやろ。失敗したら島が滅びるレベルの儀式なんやから。実際にマギーが逃亡した結果、島が滅びてるわけで。やっぱタイの田舎の人間はリテラシーがなってないわ(ド直球の差別)。
冒頭にも書いたけど謎の展開がずっと続く割りにネタバラシは割とあっさりしてる上に、あんま明確な答えをくれない。
たぶんだけど、最初にヘムに絞殺されて埋められたのは事実でマギーはそこで死んでて謎の薬の効果で不死になってたってことだと解釈した。その後も薬の影響で幻覚と事実をないまぜに混同し続ける描写が続き事態がずっとフワフワし続ける。
その結果、う~ん、これ何の話?となってしまった。
マギーと弟ヘムが出てる時点である程度やる気のあるホラー映画だけあって映像も演技もよかった。謎手術シーンやエキゾチック切腹シーンも干潟に死体産卵じゃない散乱シーンもわりとちゃんとゴア表現してくれるしやる気はスゴイ感じた。たぶん因習島民も現地の人使ってるんだろう。総じて見ごたえはあった。
なんかさ、腐女子のフェミニストに対して「男を性的搾取するのはいいのか?」とか「BL無罪」とか言う人いるじゃん。
あれ、マジで何なんだろうね。
まずさ、そういう奴らって白人至上主義者に向かって「黒人を差別するなんてダブスタだ!」とか言うわけ?
別にフェミニストが男性を差別してもフェミニズムに反するわけじゃないし何の問題もないぞ?
「フェミニズム=男女平等主義」って勘違いしてるパターン多すぎ。
男のための運動じゃないの。
そこを混同して「男も守れよ」って言い出すの、ほんとズレてる。
で、定番のセリフが「本当のフェミニストとツイフェミは違う」ね。
いやいや、何をもって本当なのか説明してみ?
極めつけは「ミサンドリストはフェミニストじゃない」とか言っちゃう人。
いや、フェミニズムって男を嫌う感情と完全に無関係ではないんだよ。
フェミニズムって「男女を平等に扱う必要などない。女性を優遇するべき」という思想なんだから、ダブスタにはならないんだよ。
「男女を平等に扱うべし」じゃないんだよ?
分かった?
Permalink |記事への反応(27) | 21:54
「分けて考えろ」って話なだけなのに。
一生もんのでかい意思決定なんだから、土台となる大事なものとそうでないものを分けて考えなきゃ、実現困難になるし、実現しても不満な結果になりやすいってこと。
恋愛は、結婚という長期的な関係を支える土台としては不安定すぎる。土台の上に乗せてもいいが、土台にするものではない。
結婚する上で、「素敵な異性がいい!」じゃなくて、土台となる一個人としての人間性や性別抜きにしたパートナシップをよく考えた上で、それからどうやって恋愛を育んでいくか考えましょうってこと。
どんなに異性として魅力的な相手でも、DVモラハラと長く付き合うのは無理でしょ。
家を買う上で、「素敵なインテリアがいい!」じゃなくて、土台となる土地選びや躯体性能をよく考えた上で、それからどうやって素敵なインテリアを実現するか考えましょうってこと。
どんなに素敵なインテリアでも、通勤2時間かかって地盤グラグラで隙間風が寒い家に長く住むのは辛いでしょ。
現実的には、家の購入においては予算という目に見える数字があるし規制もあるから、インテリアに予算を使いすぎた結果家が買えないとか家がボロボロってことはほぼ無いだろうけどさ。
こと結婚においては、予算みたいに目に見える数字も無ければ規制も無いから、恋愛を前提条件にした結果、結婚したくてもいつまでも相手が見つからないとか、結婚してもDVモラハラだったみたいなことがザラにあるんだよね。
個々間といったミクロの世界で有利となる行動をより多くの人がとれば、社会全体というマクロの世界がより良くなるはず、といったタイプの間違った考え方。
たとえば地方自治体が地域特有の手厚い子ども手当を導入すれば、周辺自治体のうち出産適齢期のカップルを引き寄せるからその自治体では子供の数が増えるだろう。地域特有の子ども手当が大きい自治体ほど出生数が多いといったことも観察できるだろう。しかし、当然ながらそういう自治体に出産適齢期を取られた側の自治体では出生数は減少するので、この子ども手当によって全体の出生が増えたかは不明である。人の集まった自治体では広く余裕のある住居が欠乏気味となり、カップルが一人っ子を志向するようなことが起きれば全体ではマイナスにさえなり得る。
増田の言う「高学歴の女性の方が結婚する率が高く、その結果子供を産む率も高いんだよ」というのはこの例で言えば、地域特有の子ども手当が大きい自治体ほど出生数が多いということに相当する。そして、自治体の子ども手当を厚くすることが社会全体の少子化対策になっているとは限らないのと同様に、高学歴の女性ほど結婚して子供を産むことが多いということでは、高学歴の女性が増えるほどに社会全体の出生が増えることを示せないし、増田の言いたいような、高学歴の女性が増える(女性の社会進出が進む)ほどに出生数が減ることの否定、すらもできない。