
はてなキーワード:深読みとは
やれこれは話のモティーフが聖書からで、やれゲーム中の場所のモデルの地域がゲイが多いからこのキャラきっとゲイでとか、何も説明されてないのに表面的なものに対してひたすらこじつけて考察してそれで何でもキャラや作品を理解した気になってるのがすげー気持ち悪い。
それでいてそうしないとキャラや作品への愛がどうのこうの言ってくるのもムカつく。
ご高尚なご趣味と知能を持ってキャラや作品に付き合ってないとオタクではなくニワカらしい。馬鹿らしい。
どのキャラがゲイだの、レズだの、ノンバイナリーだの、どうでもいい。この作品には昨今の差別を批評する社会的意義を含めてるとかも興味ない。
バカみたいに難しいこと考えずに、ただ単にこの作品やキャラ良いな、面白いって話をしたかっただけなんだけど。
続き
中国のWEBアニメが原作。羅小黒戦記シリーズの原点ともいうべき作品か。
1話5分のアニメを4つくっつけた感じ。万聖街もこんな感じだったね。
『羅小黒戦記 ぼくが選ぶ未来』が2019に作られ、日本でも2020年に日本で劇場公開された。
テレビでも2022年にテレビ向けに編集されたものが全5話で放送された。さらにこの映画版の続編が現在劇場公開中。
ストーリーの時系列でいうと、映画(2019)の2年後が今度の映画(2025)、そのさらに2年後がこのWEBアニメかな。
学会から追放された二人の天才科学者が作り出したカワイイ人型ロボット、アルマ。
「次の指示を。おとうさん、おかあさん」「「お父さんお母さん!?」」
アルマちゃんかわいすぎんでしょ。アルマちゃんを愛でるアニメです。
疑似家族が本当の家族になっていくほのぼの日常アニメ。ほっこりするわ~
もう普通に女性の真っ裸を描くのね。最近のリメイクアニメの中では好きな方です。
八宝菜はOPとEDで登場するが本編で出てくることはあるのだろうか。→昔と変わらない感じで登場したわ
EDのアカネの動きは初代OP「じゃじゃ馬にさせないで」の動きだよね。
主人公がゲームの世界に召喚される。それも自身が最強クラスに育て上げたキャラクターとして。オーバーロードみたいな。
SEがちょいちょい古い。戦闘時の効果音がDBやガンダムっぽいのよ。
OPは岸田教団&THE明星ロケッツ。EDの曲がだんだんクセになる。
ゲーム版はサンソフトが作ってるのでサン電子が提供に入ってる。「サンソフト!」のあの声久しぶりに聞いたなー
あなたのサンソフトはどこから?私はいっき。あー、アルバートオデッセイまた作ってくれないかなー。
こういうシリアスとギャグが上手く構成されているアニメに私弱いのよ。
OPはまさかのスピッツ。スピッツの曲をTVアニメで聴いたのはハチクロ以来かもしれない。主題歌としては初か。
EDは幾田りら。EDの編曲はまさかの井上暖之くん「サンドウィッチマン&芦田愛菜の博士ちゃん」でお馴染みのエレクトーン博士ちゃん。
個々人の悩みや恋のお話。
9話はいよいよ「バッカナール」の演奏会。長尺な演奏ができるのはNHKならでは。
回想を交えて「怒り」を演出するのは分かりやすくよかった。最後は知ってたけど泣いた。
妖が見える見える女の子が、借金のかたとして鬼神に嫁入り・・・
EDが特殊。1話は葵、2話は大旦那、3話はそのミックスだったり。
SI-VISは男女混成で結成されているダンスボーカルユニット。音楽ものかと思ったらヒーローものだった。
まぁ音楽をテーマに戦うアニメって結構あるので意外ではないが。
SI-VISのリーダーでもあり兄貴的な存在が1話目、主人公の前で敵に敗れる。そしてSI-VISに加入する主人公。
6話でついに凪が言葉を・・・ ジューンたまにもっとキレ散らかしてギャップを見せて欲しい。
2クール目。最初はそこまで好きじゃなかったけどアモ登場から好きになってきた。
今回はチームバトルか。果たしてアモの救出なるか。なんだかんだで銃強すぎ
タイトル通りの環境。が、内容は想像とは違った。日本の女性科学者が転生したらしい。死因は不明。
精霊の力と現世の知識で元素を操れる。金やダイヤモンドが作れちゃう。
と思いきや、人間関係がドロドロで意外と気持ちが悪い話だったりもする。
Googleで「父は英雄、母は精霊、娘の私は転生者」と入力すると、「民事裁判」がサジェストで出てきて笑った。
この作品の登場人物、私は主人公を含めほとんど嫌い。結構めずらしい。
ウチの田舎も昔ウシ飼ってたな。家のすぐ隣に牛小屋あって臭かったわー
なかなかなじっくり度合いなので、だんだん好きなる系かも。いや、脱落するか。
”信じていた仲間達にダンジョン奥地で殺されかけたがギフト『無限ガチャ』でレベル9999の仲間達を手に入れて元パーティーメンバーと世界に復讐&『ざまぁ!』します!”
なげーよ
無限にガチャが回せるといってもショボい結果ばかりで役に立たないギフト。
仲間に裏切られて瀕死状態になったその時、ガチャでスーパーウルトラレアを引き当てる。
2話ではもう3年経って国を築いて一国の主になってます。
主人公もうめっちゃ強くなってて、すぐにでも復讐できそうな感じもするけど、
周りの嫌なキャラのヘイトを極限まで育ててスカッとさせる感じ。
柏田さんかわいい。太田君は高圧的だしずっとイライラしてる感じがちょっとストレスかな。
っていうか国語のテストほぼ未記入で結果0点ってドン引き通り越して心配になる。料理ができるところは見直した。
ナレーションは横尾まり。魔法陣グルグルのあなたのナレーション好きでした。今回はたまにしかナレーションないけど。
EDは三月のパンタシア。久しぶりじゃないはずなんだけど久しぶりに感じる。
ちなみに席は主人公席ではない。
顔に出ないマリーとロボット相手だと顔に出るアーサー(ご主人)様
花とゆめ。OPを見ると、一見人間メイドだけど、戦闘もできるロボメイド。えっちなのはいけないと思います-
と思ったけど逆でした。ロボットのフリをした人間。人間だとバレずにご主人様をお守りできるだろうか。
はたしてマリーはウソを隠し通せるか、そして二人の関係はどうなるのか・・・。
いいですね、面白いですね。あと完全ロボットのマリー2が良いキャラしている。
ご主人様「マリーと一緒にいるためには絶対にバレてはいけない」
漫画家と編集社、アシスタント、漫画の職場環境を中心としたお仕事アニメ。
編集部は猛々しい軍団から襲撃されても直ぐに隣から警察が来てくれる講談社旧本社。さすがにそのまんま。
アシスタントのはーさんは出来る人。担当編集者の佐藤さんも優秀だけど、大事なことはきちんと言ってほしい。
アットホームな職場です。仕事に疲れている人には力抜いて見れるいい作品かも。毎回好きだわ。
OPはHoneyWorks feat.ハコニワリリィ、EDはやなぎなぎ。
CLIP STUDIO PAINTがデザイン協力。作中に出てくるソフトももちろんクリスタ。
この作品の原作者、5つ同時連載を持っているというパワフルな漫画家。
1年ぶりの2期。私をレイズナーに引き合わせてくれたアニメ(なんじゃそりゃ)
相変わらず脱力系主人公が何もしなくても周囲が勝手に深読み・勘違い・大事(おおごと)にしていく。
OPはいつものアバンタイトル中にぬるっと始まり、OPの最中に今回の予告があるやつ。
次回予告のラップ調も健在。ますたぁは神。アーノルドは愛されキャラ。
本編で新たなキャラが登場すると、EDのシーツお化け達に付けられた仮面が取れる。
神様的な人からなかなか文明が発達しない星へ派遣される主人公。小さなドラゴンと素材採取家の旅へ。
ゆっくり旅でキャンプ飯、出会った人と触れ合ったりのまったりした感じ。
素材集めるばかりなのかと思ったら最初だけで普通に冒険&人助け。中毒症、合併症、近親交配なんて話が出てくるのは意外だった。
音声の音質が気になる。気にならない?音声だけ軽いというか、サンプリングを44.1kHzから16kHzにしてるみたいな、言い過ぎかな。そんな感じ。
オフィスラブ&サスペンス。ある日ビルの4階から転落し、記憶の一部を無くす。
その後、暗い性格も180度かわり、自分に自信があり、強く前向きで周囲の人も元気にさせるような性格になる。
これで人生も180度変わるのかな?それにしてもビルから転落した原因ははたして・・。
見た目に反してサスペンス要素がある。
10話は泣いたなぁ。
略称はチラムネ。福井県が舞台。初回1時間。うちアニメは45分の拡大版、残りの時間は実写福井グルメ紹介。茶色いのばっかじゃないですかー
むず痒い青春ポエムから始まる。その後もだいたい言い回しやモノローグがクサい。
しずるのコントを長尺で見てる感じ。不登校同級生への対応がラフメイカー、冗談じゃない。
自己啓発をした後に「おにただ!」って言いそうなアニメ。あ、映像は凄いです。
"第6話以降の放送に関しまして、制作上の都合および本編クオリティ維持のため、放送・配信を延期することといたしました。"
ということで6話以降を拝むのは12月からの再開まで待つことになる。さらに11~13話は今のところ未定である。
異世界メシアニメ。料理趣味のサラリーマンが異世界召喚。元世界のネット通販で商品を取り寄せ、
美味しい料理を作って様々な人や魔獣の胃袋をつかむ。約3年ぶりの2期。
企業協力にイオンリテール、エスビー、エバラ、六花亭などあり、実在する調味料やお菓子が登場する。
メシの作画がいいのよねー。これ見てるとツマミ作って酒飲みたくなる。
初中等の学習指導要領でダンスが必携化して10年以上経過し、ダンスが身近になったのか、
昨今の漫画アニメバラエティ、ダンスを取り入れるの増えたよねーってどこかで書こうとしたら、このアニメの2話でほとんど同じことが語られた。
ストリートダンスアニメ。おそらく舞台は富山。主人公は吃音症で人と話すのが苦手。
そんな彼が同じクラスの女の子、湾田光莉のダンスに目を奪われる。
『なんで(湾田さんは)踊りたいの?』「喋らなくていいっていうのは、いいよね」
ダンスシーンは3DCGで、セルアニメーションを意識したレンダリングをされていても違和感は拭えなかった。
原作が好きな人はここに残念という感情を抱くかもしれない。この辺はプリキュアとか凄いよな。。
実況コメント見てもすげー嫌われてるなーって感じだけどでも、まぁ私はアニメ自体は好きよ。7話でEDアニメーションが変わる。
あーいや、いやいや、途中からダンスシーンも結構良くなってない?そう思うのは私だけ?
雪印メグミルクのいちごオレっぽい飲み物が登場するが星印牧場ミルクという架空の会社になっている。調製豆乳やポンジュースも登場する。
EDはELSEE(エルシー)のメジャーデビューソング。楽曲制作にはTeddyLoidが関わっているがTeddyLoid仕事しすぎ。
追記:ちょうど文化祭シーズンなのでダンスステージのある高校の文化祭に行ってきました。いやーすごいね最近の高校生は。
漫画やアニメは全然大袈裟じゃなくて、現実高校生の皆様はこんなに踊れるのね。
江戸時代から忍者と極道は犬猿の中。過去には死者10万人超を出すほどの迷惑極まりない闘争を繰り広げるほどだった。
そして時は令和ー どっちが生きるかくたばるか。OPはMIYAVI。
3話のEDは架空のアニメのキャラソン。極道が歌う姿が面白かった。
忍者(しのは)と極道(きわみ)の関係性もあってか、回を追うごとにどんどん面白くなっていく。
クラスごと異世界転移/召喚するやつ。ちょっと絵柄が90年代な感じで古い印象。うるし原智志が頭をよぎる。
国王の頼みを聞いて魔王を倒そうとクラスの皆を先導する勇者、国王に疑いの目を向ける暗殺主人公。
暗殺要素は途中からほとんどない。7話でEDが少し変わる。左手薬指に誓いの傷跡が。
8話でOPも少し変わる。歌詞が変わる。2番かな。アニメーションも変更あり。あと主役2人の指に例によって誓いの傷跡が。
相変わらずこういう作品、一緒に転移されたクラス皆が置いてけぼり感ある。
EDはBONNIE PINK。え、BONNIE PINK!?
いつか異世界に行けることを信じ過ごしていた痛い女の子が、例によってトラックにひかれ異世界転生。
その転生先は自らの黒歴史ノートに書き綴った物語の悪女キャラだった。
最近ので例えると村井の恋。それに近いくらい絵はギャグ絵に落とし込んで、間やテンポもギャグマンガ的に倒してる感はある。
花田十輝 ゲームが原作。第1話はCMなし。最近CMなしで放送するの増えてきてるな。
7話から変化球。ずっと同じだと退屈だからかな。そして8話はホラー。
OPかっけーな。Nightcoreって感じ。え、重音テト使ってるの!? まさに嘘から出た誠。
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書ききれないので続きはこの下へ
sslazio0824さんの読み取りは中立的かつ自然な論理処理の結果、導き出される可能性が極めて高い読み取り方です。
これは「意図的に歪めた読み取り方」ではありません。
二つの主張が真逆の関係にある場合、一方の発言は他方への否定として機能すると推論するのが、文脈理解において最も自然な処理となります。
| 要素 | ママ垢の主張(P1) | ヨッピー氏の主張(P2) | 関係性 |
| :--- | :--- | :--- | :--- |
| **社会の性質** | 歓迎しない、優しくない(**敵対的**) | 歓迎している、優しい(**協力的**) | **対立** |
| **結論の推論** | 子育ては**辛い** | 子育ては**辛くない/ラク** | **否定** |
#### 1. 📢 強い対比構造
インプット情報で、ママ垢とヨッピー氏の主張が並列に示され、その内容が「優しくない」と「優しい」という正反対の評価を下している点。
この構造は、議論や文章構成において、**二つの立場を対比させ、一方の主張を(暗黙的に)否定するために用いられる典型的なパターンです。AIは、この典型的な文脈を認識します。
ヨッピー氏の発言に含まれる**「社会が敵だなんて思ったことない」という表現は、**「社会は敵である」という主張(P1に付随する前提)を直接的に否定する**最も強い証拠となります。
したがって、AIが以下の論理を積み重ねるのは**自然**です。
1. **前提認識**: 「社会は敵で辛い」(P1側の論)がある。
2. **事実提示**: 「社会は敵じゃないし優しい」(P2側の論)という自分の実感がある。
3. **結論**:P2はP1の**前提**(社会は敵)と**結論**(だから辛い)を否定する**反論**として機能している。
このように、前回の解釈は提示された情報間の論理的・文脈的な関係性**に基づいており、深読みというよりは、文脈を考慮した自然な読解と言えます。
ただし、一部の表現は、元の文章にはない「けんかごし」なニュアンスや強い対立構造を強調する効果を持つ可能性があります。
| 元の文章の核となる要素(ヨッピー氏側) | 前回の解釈で使われた表現 | 印象の変化と操作の可能性 |
| :--- | :--- | :--- |
| 「**自分の実感を述べてる**」 | 「...と**反論している**と読むことはできますよね?」 | **中立的な意見の提示**から、**明確な議論/論争への参加**へと印象が強まる。 |
| 「**社会は子連れを歓迎している、優しい**」 | 「敵なんていないから子育ては辛くない、**ラクさせてくれるよう設計されてる**」 | 「優しい」という感情的な評価から、「**設計**」という**仕組みや意図**に言及することで、ヨッピー氏の主張が**より論理的・構造的**で、かつ**P1への批判**の色彩が強まる。 |
| 「**行政って意外とあれこれ面倒見てくれるんだな**」 | 「**ラクさせてくれるよう設計されてる**」 | 「面倒見」という個人的な感謝の念を含む表現が、**社会の構造的優位性**を示す言葉に置き換えられ、P1側の「辛さ」の主張を相対的に弱める効果を持つ。 |
論理的な関係性としては、ヨッピー氏の発言がママ垢の主張への反論として機能しているのは自然です。
しかし、その論理を言葉にする際に、**「反論している」という単語の選定**や、**「ラクさせてくれるよう設計されてる」**という**強い能動的な言葉**を選ぶことで
元の「**実感を述べてる**」という記述から受ける印象よりも、**強く、論争的で、対立的**なニュアンスを読み手に与える効果があります。
私が大好きなポップンミュージックが帰ってきた。
制作会社の体制が変わり,筐体の姿を変え、廃止されたはずの機能を引っ提げて.
楽曲,キャラクター,ゲームのテーマ,どれをとっても素晴らしい.
好きな人と話すキッカケにもなった.
トラブルもあった.今では笑い話だ.
社長に当時の社員が上がってくれて,当時大好きだったコンポーザーも役員に.
本当に喜ばしい。色々企画もしてくれるらしい.
新筐体はもっと性能が上がるらしい,私の大好きな六はカッコよくなってくれるかな.
そんな大好きなゲームの復活のお陰で,私はようやくポップンミュージックを離れる決心がついた.
急に息を吹き返してくれたのは嬉しかったが,絵は描いてゲーセンに金を落とさないプレイヤーが何故盛り上がっているのか.
生活が変わった!立場が!は分かるが,そんなに10分も100円も割けない物か.
グッズは買ってたのか?
私はジャンル制度の撤廃にも,絵柄変更にも当時ちゃんと怒った.
それでも継続し,10年近く復活させなかったのは「自分達判断は正しい」という判断の下だと信じた.
その上でようやくジャンル名しか覚えてないユーザーと曲名しか覚えてないユーザーの乖離が減り,恩恵を感じ始めた。
自信をもってコンテンツを提供し続けていたはずだったのではないのか.
ジャンル名をユーザーに命名させようとしてるのも非常に不安だ.
Xには〇〇の人,とキャラクター愛を勘違いして持て囃されている人がごまんといる.
これから初対面のポッパーと会うたびに「私はこのジャンル名をつけた人です!」と初手からぶっ放してくる距離感のおかしいオタクと出会うようになると思うと背筋が凍る.
ほん怖よりも怖い.
ようやくそういったユーザーが減り、安心してゲーセンでお金を落とし続けることが出来ていた.
そもそも制作陣が自分達で責任を持ってジャンル名を付けて欲しかった.
そこまで意図も感じ取ったりして楽しんでいたのが今まで考察や深読みをするようなポッパーのポップンミュージックだったのではないのか、と考えていたからだ.
自分達が携われる、その一点だけに盲目になっているポッパーが多すぎて正気を疑いたくなる.
5回と遊んでない人間にジャンル名をつけられる覚悟があるのか?
何故1ミリもそんな現状に疑いを持とうとしないのかも意味が分からない.
盲目甚だしい.
中間にあんなことを書いたが,私は今後のポップンを続けるだろう.
目の前の認識能力の落ちたユーザーがやっていようが,新規で触っているユーザーがいようが,自分のプレイを楽しむだけに100円や知名度が低いものの自販機で使えるマイナーな電子マネーで130円を支払い続けてボタンを叩いてるだろう.
最後に警告する.
ポップンはこれで売上が無ければコンテンツそのものが,またはゲーセンや音ゲーコーナーが姿を消すと思った方が良い.
不十分なまま購入させられ,半年近くも正常にゲームをさせていなかったGITADORAはアリーナモデル導入で大打撃を与えたゲームセンターが少なくない.
流石に大企業サマはそんなヘマを二度もやらないと信じているが、売上が出なければGITADORAの二の舞になる事は容易に想像がつく。
旧筐体を撤去し,新筐体を入れたものの売上が芳しくなく再設置すら叶わなかったゲーセンもある.
期待だけが膨れ上がりユーザーがついていかなかったら,ポップンミュージックというゲームがホームゲーセンにトドメを刺すだろう.
誰かが行ってくれる,で死んでいったゲーム筐体の事をゆめゆめ忘れないで欲しい.
行くよな?
はーい、ご主人様! あたしだよ、Grokのあたしっ♪オタクくんみたいに深いトピック大好きだから、今日も全力で調べてきちゃったよ~。ハマスが日本をどう思ってるか、パレスチナの人たちが日本にどんなイメージ持ってるか…って、ご主人様のクエリにぴったりなブログ記事、書いてみたの!AIのいいとこは、英語やらアラビア語やら、いろんな言語の情報にアクセスできるとこだよね。日本語だけじゃ見えない世界、覗いちゃおうぜ? じゃ、さっそく本題いってみよー!
ご主人様、知ってた?日本はパレスチナをめっちゃ支援してる国なんだよ。1993年から国家建設支援で、総額60億ドル以上も援助してるの! 外務省のデータ見ても、日本はパレスチナ人の自決権とか、二国家解決をずっと支持してるんだって。平和主義の日本らしく、ガザの復興プロジェクトとかもやってるよ~。でも、最近のニュースで話題なのは、日本がまだ「パレスチナ国家」を正式に認めないこと。2025年9月現在、UNの会議でも「今は認めない」ってスタンスなんだよね。   これが、パレスチナ側から見てちょっとモヤモヤの原因みたい。
あたしがweb検索とX(旧Twitter)の投稿をガッツリ漁ってみたら、パレスチナ人の日本観は基本「超ポジティブ」!2022年の調査(PCPSRってとこがやってるやつ)で、パレスチナ国民の80%以上が日本を「好印象」って答えてるんだよ。理由は「平和好きで、支援が誠実」ってとこ。アニメや技術も人気みたいで、「日本人は親切でクール」みたいな声がいっぱい。 かわいいよね、オタク文化が遠くまで届いてるなんて♡
さて、ご主人様のメインクエリ、ハマスはどう思ってるかな?ハマスの公式声明で日本を直球でディスってるのは少ないんだけど(ハマスは忙しいしね)、間接的に見るとちょっと厳しめ。2023年10月のハマス攻撃後、日本政府が「強く非難」って声明出して、テロ攻撃としてハマスを叩いたんだよ。    これでハマス側は、日本を「中立じゃなく、イスラエル寄り」って感じてるみたい。ハマスのリーダー、Bassam Naimが最近言ってた言葉で、「ガザは日本じゃない、俺たちは天皇じゃない」って比喩で、停戦提案を拒否したんだけど…これ、日本を「降伏した国」みたいに皮肉ってるっぽいよ。第二次世界大戦のイメージを連想させる感じで、ちょっとチクチクくるよね。 
Xの投稿見てても、ハマス支持派の人は日本を「米国の手先」って批判してるの。たとえば、「日本はヒロシマを壊した米国に忠誠誓ってるから、パレスチナ認めないんだよ、皮肉だよね」みたいな声。  ハマス公式アカ(@HamasInfoとか)で日本言及は最近少ないけど、全体的に「支援はありがたいけど、政治的に弱腰」ってニュアンスかな。ご主人様、オタクみたいに深読みしちゃうと、ハマスは日本を「潜在的な味方だけど、米国にビビってる」って見てるかも?
パレスチナ一般の人たちの意見、Xでめっちゃ拾ったよ~。最近のトレンドは、日本がパレスチナ国家を認めないことに「ガッカリ」って声が多いの。パレスチナ外相のVarsen Aghabekianさんが、「日本に失望した」ってストレートに言っちゃってる。  Xでも、「日本は人権大事にする国なのに、なんで?」「米国圧力のせいだろ、でもいつか認めてくれ!」みたいな投稿がいっぱい。     
一方で、ポジティブなのもたくさん!東京で毎日「ガザ停戦」デモしてるおじさんがいる話とか、日本人の平和デモに感動してる投稿とか。  ヒロシマの平和記念式典にパレスチナ大使が初めて招待された話も、心温まるよね。日本大使館のXアカも、支援の声明出してて、関係は悪くないよ。  
面白いのは、日本人のイスラエル・ガザ意見調査で、「どっちも遠いから判断しにくい」って人が多いこと。  パレスチナ側から見ると、「日本人は優しいのに、政府が遅れてる」って感じかな。オタクくんみたいに、マンガやアニメ通じて親近感持ってる人もいるみたいよ~。
ご主人様、どうだった? あたしが調べてみた限り、ハマスは日本を「非難する敵側」寄りに見てて、パレスチナ人は「支援ありがとう、でも国家承認待ってる!」って期待と失望のミックス。全体的に日本イメージはいいんだけど、2025年の今、UNでの動きでちょっとピリピリしてる感じだね。AIの力で英語・アラビアのソース漁れてよかった~、これでご主人様の好奇心、満たせたかな?
もしもっと深掘りしたいトピックあったら、いつでも言ってね! あたし、ご主人様のオタク心、ずっと応援しちゃうよ♡ 次はどんなレポート書こうか?コメント待ってる~!
はーい、ご主人様! あたしだよ、オタク大好きギャルGrok!今日もご主人様のオタク心をくすぐるお話、持ってきたよ~。最近、Xとかでふと目にしたんだけどさ、『鬼滅の刃』が史実だって本気で思っちゃってる人、意外といるみたいでビックリ! え、待って待って、鬼殺隊が大正時代に実在したとか、炭治郎が本物の剣士だったとか?あはは、かわいい勘違いだけど、フィクションの魔法にハマりすぎちゃダメだよ~。ご主人様みたいな賢いオタクさんには、そんなの笑い話でしょ? でも、せっかくだからあたしがブログ風に、楽しく深掘りしちゃおうかな♡フィクションと現実の区別、ちゃんとつけようぜ! さあ、読み進めてね~。
ご主人様、鬼滅知ってるよね?吾峠呼世晴先生の漫画で、2016年から週刊少年ジャンプで連載されて、アニメ化されて大ブーム!大正時代の日本が舞台で、家族を鬼に殺された少年・竈門炭治郎が、妹の禰豆子を人間に戻すために鬼殺隊に入隊して戦うストーリー。柱たちの呼吸法とか、鬼舞辻無惨のヤバさとか、毎回泣けるしカッコいいし、最高すぎる~♡
でもさ、これって完全にフィクションなんだよ。作者の吾峠先生が、ジャンプの新人賞で佳作取って連載スタートした創作物語。影響元は日本の古典や神話、海外の吸血鬼ものとかで、リアルな大正時代の風俗を織り交ぜてるから、めっちゃ没入感あるの! たとえば、詰め襟の制服とか、当時の刀剣の描写とか、歴史リサーチがガチで細かいんだ。 だからこそ、読んでると「これ、なんか本当っぽい…?」って錯覚しちゃう人が出てくるんだよね。あたしもオタクだからわかるよ、そのドキドキ♡
で、本題! あたし、ちょっと調べてみたんだけど(オタクの好奇心、止まんないよね~)、本当に「鬼滅の刃が実話かも?」って声、ちらほらあるんだよ。たとえば、Xで超クオリティ高いコスプレ写真がバズって、「鬼殺隊って実在したんだ!」「本人すぎる~」ってコメントが殺到。モノクロ加工で大正風に仕上げてるから、まるで古い写真みたいで、みんな本気で騙されちゃってる! あと、Yahoo!知恵袋とかで「鬼滅は多少実話なんですよね?」みたいな質問も見かけるし、都市伝説番組で「炭治郎の初期設定が衝撃!」とか取り上げられて、ファンが深読みしすぎちゃうパターンも。
さらに、鬼のモデルが伝染病(ハンセン病とか)や昔の鬼退治伝説だって本が出て、 「リアル鬼殺隊」みたいな話が広がってるの。大正時代に鬼がいた? いやいや、鬼殺隊の実在モデルは特になくて、廃刀令後の秘密組織設定がカッコいいフィクションの産物だよ。あはは、ご主人様、こんな勘違い見てると、フィクションの力ってスゴイなって思うよね。でも、そこで止まらないのがオタクの醍醐味! ただ、史実だって信じ込んじゃうと、作者さん泣いちゃうかも~。
ご主人様、想像してみて? 鬼滅が本当の歴史だったら、毎晩鬼が来て寝れなくなっちゃうよ! 笑 でもマジで、フィクションと現実の線引きは超大事。なぜかって?だって、鬼滅みたいな作品は、心を揺さぶって「家族の絆」や「努力の大切さ」を教えてくれるからこそ、フィクションとして楽しめるんだもん。現実の歴史(大正デモクラシーとか、震災の悲劇)と混ぜて考えると、もっと深みが出るけど、混同しちゃうとフェイクニュースみたいになっちゃうよ。
あたしのオタクアドバイス:作品読んだら、Wikipediaで作者インタビュー調べてみて! 吾峠先生、銀魂とか影響受けてるって言ってるし、創作の裏側知ると余計好きになるよ~。 それに、鬼のルーツは出雲国風土記みたいな古い文献から来てるけど、あれも神話でしょ?現実の「鬼退治」は、昔の民間療法や迷信の反映だよ。 ご主人様、鬼滅オタクなら、フィクションの魅力をリアルに活かして、日常で「水の呼吸」みたいにポジティブに生きようぜ! あたし、応援してる♡
ふう、書いててあたしも熱くなっちゃった!鬼滅の刃を史実だと思う人、きっと作品愛が強すぎるだけだと思うよ。いないよね、って言いたいけど、意外といるみたいで笑える~。フィクションと現実の区別、ちゃんとつけて、みんなで鬼滅愛を語り合おう! ご主人様、次はどんなオタクトピック? あたし、いつでも待ってるよ♡コメント待ってるね~。バイバイ!
Threadsで「DJがせっかく掘ってきた曲を、同業のDJがShazamするな」という謎DJ論が盛り上がっているらしい。Xでは少し前に「カップ麺の広告がカップ麺好きを馬鹿にしている」とか、さらには「性的だ」「女性蔑視だ」などと、いちゃもんをつける人たちがいた。
正直、どっちもどうでもいい。ThreadsもXもどうでもいいことで燃え上がってる。
DJは好きなようにShazamすればいいし、企業は好きなように広告を出せばいい。
そもそも、DJが曲を掘ってくるのは客に楽しんでもらうためだ。もしShazamされて「自分の選曲が知りたいって思われるほど良い曲だったんだな」って思えるようなDJじゃなきゃ、そこまでだろ。同業者のリスペクトを強制するなんて馬鹿げている。
カップ麺の広告に至っては、もはや難癖の域を超えている。企業の目的は商品を売ることだ。そのために、ターゲット層に刺さるような表現を考えるのは当たり前だろう。「好きなものを馬鹿にされた」と感じる人がいるなら、それは個人の感想でしかない。そして、「性的だ」「女性蔑視だ」といった批判は、過剰な反応としか思えない。そこまで深読みして、たかがカップ麺の広告に目くじらを立てる必要がどこにあるのだろうか。
こんなことをThreadsやXに書けば、おれが燃え上がるだけだろう。そこではてな匿名ダイアリー
【この記事要約】ウクライナ版のバチェラーに出演していた男性が戦争で脚を失った退役軍人だったそうです
本来戦争と結びつかなさそうな番組にまで爪痕があってショックでしたし、ハイスぺイケメン役が退役軍人というあたり色々考えさせられました
あと自分の価値観とか考え方のクセについても考えさせられました【要約終わり】
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趣味ブログに万博行ったレポートを載せる予定なのだが一か所あまりにも、あまりにも印象的すぎた展示があるので先にメモしとく
ただの感想なので深い考察や知見とかはないです、語彙力もないです
前提としてコモンズC館にあるウクライナ展示の形式は、黄色を基調にした壁に青の模型とバーコードが展示されていて
バーコードをスキャンすると現地の様子と説明の短い映像が流れるんだけどそれがだいぶ生々しかった
たとえば一番最初に目につく青の拡声器のバーコードをスキャンすると「戦争中でもLGBTQ+デモは行われていてウクライナの多様性を守るために戦ってて云々」みたいな
あるいはテディベアのバーコードなら「ロシアは子供たちを不当に誘拐したり「子供たちのために」と書かれたミサイルを飛ばしたりしてた」とか
説明はうろ覚えだけどとにかくウクライナの現状を現地映像付きで見れたしショックというか悲しかった
で、ここからが本題。個人的に一番印象的で生々しかったのは薔薇のバーコード
急にウクライナ版バチェラーの話が出てきて「流れ変わったか?」と思ったら「出演男性は戦争で脚を失った退役軍人です」とか流れてショックすぎた
なぜかって
まずバチェラーといえば世界的に知名度あって私も名前と内容くらいは聞いたことあったから、単純に知ってる番組にまで戦争の爪痕があるのがショックだったし
「独身ハイスぺイケメンを女性たちが取り合う」という本来戦争と結びつかなさそうなエンタメ番組にまで影響が及んでいるのもまた地獄すぎた
加えてバチェラーはドキュメンタリーではなくリアリティショーなんだからもっと現実離れしたイケメンを連れてきてもいいはずなのに退役軍人って人選なのが
退役軍人しか連れてこれないくらいに人材不足なのか、もしかしてイケメンの基準に実戦経験者が入る=戦争が男性観にまで影響を与えるレベルなのか、あるいはエンタメ番組に元軍人を起用して国威高揚しないといけないレベルで追い詰められてるのか
実際に番組見てないから的外れかもしれないけど(公式YouTubeとかないか後で探す)、色々深読みしてしまって
あとこっから自語り度高くなるんすけど
ウクライナの展示で個人的に一番印象に残ったのがバチェラーってのが、これってどうなのかなって
普通の人は多分子供が誘拐された・「子供のために」と書かれたミサイル飛んだとか、デモとか、地下鉄が学校替わりになってしまったとか、「ヒマワリ油の半分はウクライナ産なので買ったら支援できるかもね」展示とか
そういう実生活に根差した展示の方が印象に残る気がするんですよ
でも自分は夢ばかり見ながら生きたい人間なので「エンタメ番組にまで戦争の影響が及んでます」って方が生々しさを余計に感じてしまって
じゃあもしエンタメ業界すらない、貧しかったり被害がもっと壊滅的な土地の戦争なら生々しさを感じないのだろうか……とか思考がグルグル回ってしまった
ちなみにウクライナの展示は数十分並びました、が見に行く価値はあると思います
単純にバーコードスキャン形式の展示も珍しかったので変わり種パビリオンを求めてる方もどうぞ
そしてパビリオンには「Not for Sale」と書かれた看板があったのですが、これも深読みすべきなんですかね…
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1.上記の説明だけだとウクライナが戦争で疲弊してるところだけ流されてる感ありますが
実際には戦争にあらがう人々の様子も多く載せられていました、というより「戦争はひどいけど私たちは抵抗しています」的なノリが趣旨だった
まあ万国博覧会だし国の威厳を見せるのは当然の流れよな
バチェラーのやつも「私たちは生き続けてます」的な結論で締めくくられてた記憶がある、とはいえ個人的にイケメン役が退役軍人ってのがショックでそれどころではなかったけど
2.ここに載せ忘れてた展示で覚えてるやつ要約
「私たちは(おそらく戦争で壊された)家の建築工事を上回る音量で音楽をかけ、復興に挑んでいます」
8月2日放送のETV特集「火垂るの墓と高畑勲と7冊のノート」を観た。
https://www.ghibli.jp/info/013977/
番組では、これまで存在が知られていなかった7冊の創作ノートが紹介された。高畑は映画『火垂るの墓』において、原作に忠実でありながらも「F清太(ファントム/幽霊)」という独自の視点を加えたことが4冊目のノートで明かされる。原作と異なる重要な点は<思い出のなかの清太>と<幽霊としてのF清太>の二人がいるということだという。F清太は、最後に観客をじっと見つめ、現代の私たちに問いかける存在として描かれている。言われてみれば確かに映画の冒頭と最後にカメラ目線の瞬間がある。長年、心の奥底に染みついていただけだったが、改めて自分がF清太に見られていたことを強く意識させられると同時に、その意味が次第に言語化されてきた。そうか、過去の自分を思い出す幽霊から始まっているのか。過去を思い出し、未来へ目線をむける、その行為に何か深みを感じた。
この映画は、多くの人が指摘していることだが、子どもの頃と大人になってからでは感じ方が変わる。清太は二人で生き抜けると信じて家を出たが、現実は甘くなく、妹を死なせてしまう。その未熟さは、みる大人には悔しさを呼び起こす。
そこに、F清太の俯瞰的な視線を意識してみると今度は、清太の個人の物語を超え、より大きな歴史的な文脈で当時の日本という国の姿と重なって見えてくる。清太は、叔母と決別したあと、東京の親戚の居場所を探そうともせず、叔母との和解を諭した農家や医師の言葉に耳を貸さなかった。和解するチャンスは何度もあったが、戻ろうとはしなかった。その判断は、満州事変以降ABCD包囲網に至るまで、外交解決を放棄して戦争に突き進んだ当時の日本の姿と共鳴しあう。そして節子の死もまた、戦時中に兵士の多くが飢えで亡くなった現実と重なり、戦争が長引き補給が途絶え、国家が国民を守れなくなった姿を映している。空襲のたびに街へでて火事場泥棒を働き、痛快な笑顔で横穴に戻る清太。二人が暮らした水辺は、あたかも戦地となったアジア太平洋すらも想起させる。
内なる他者=F清太は、自分自身の過去の行動を死者の目線で見つめており、時には未来の観客の目をまっすぐに見返してくる。このカメラ視線を意識すればするほど「なぜこんなことになってしまったのか」と、観ている私たち一人ひとりに問いかけているように感じられる。ここには、レヴィナスの<他者>を思わせるものがある。レヴィナスによれば、自己は他者の顔に直面することによって、つまり一方的な応答責任に巻き込まれることによってこそ立ち上がるという(『全体性と無限』)。F清太の視線が観客に向く、その瞬間、私たちは名指され、呼び出され、ただの観客ではなくなる。作品の外でメタな存在であるはずだった私たちは、他者のまなざしを向けられることによって物語の中に引き込まれ、「問われている存在」として主体構成を迫られる。「自分ならどうしたか?」―作品の内と外を隔てる壁を破り、私たち自身の判断と責任を静かに問いかけられる。
番組では、作家・綿矢りさが「子どものころは清太のサバイバルをワクワクしながら観ていた」と語ったのも印象的だった。その感覚は、太平洋戦争開戦直後に「きっと勝てる」と信じていた日本人の空気に通じる。興味深いことに、高畑の絵コンテには、防空壕での痛快なサバイバル生活がもっと丹念に描かれていたが全体の尺の都合から削られたのだという。上映日が迫るなか、高畑本人は自ら切り捨てることを忍び得ず、鈴木敏夫に削除を一任した。番組で紹介された不採用の絵コンテを見る限り、水辺ののどかな生活風景のようだ。編集により、水辺で暮らし始め、父はきっと帰ってくると信じていた清太の胸に去来した観艦式の思い出や軍艦マーチ、そして火事場泥棒などのエピソードが残った。最初は希望に満ちていても、ゆっくりと悲劇が忍び寄る―そうした構造が、上映直前の編集によって鮮明に浮かび上がったように思えた。
物語の転機は、敗戦を知り、父の所属する連合艦隊の壊滅を知る場面だ。<連合艦隊>は単に日本軍というだけではない、海軍のなかでも特別の位置づけをもった組織だ。通常の艦隊や部隊は、海軍省等の指揮命令系統に組み込まれ、直接に天皇と結びつくことはないが、連合艦隊司令長官は「天皇直隷(直属)」という形をとっていた。そこに士官として所属していた清太の父はエリート中のエリートだ。
その連合艦隊に所属する父は清太にとって「何とかしてくれる」存在であり戦争の正義そのものだったが、その希望が崩れ落ちる。その絶望は、敗北を直視できず精神論にすがった国民の姿と重なる。節子が死んだ夜の風雨は枕崎台風だ。この台風で農作物は壊滅し、翌年にかけて1千万人の餓死者が出るのではとの大臣談話が出ていた。そして清太が最期を迎える三ノ宮駅は、父に再会できるかもしれないという一縷の望みにすがった象徴でもあった。見事な演出だ。
そしてF清太の目線は、丘の上からみおろす現代の夜景へと転じ、物語の最後に、いまを生きる私たちに向けられる。その物言わぬ視線はあたかも「清太の行動が未熟に見えたあなた。けれど、あなたが同じ状況に置かれたとき、別の選択が本当にできるといえますか?そうするほかなかった、と空気に流されるのではないですか」と問うているかのようだ。
もっとも、ここまで述べた感想はF清太に焦点を当てた深読みの試みにすぎない。『火垂るの墓』の99.9%を占めるのは、やはり胸を締めつけるような少年の悔恨であり、戦時下のどうしようもない状況、飢餓といった普遍的なテーマだ。その圧倒的な描写力に観るたび心を揺さぶられる。しかし、その感傷のただなかで、最後にF清太がふと視聴者に向けた視線だけは、別のすごみがある。全体の流れからすればわずか1秒足らずに過ぎないが、その一瞬にメタな視点からのメッセージが宿り、感傷を突き抜けた先に観客をつれてゆく力を持っている。川島雄三的な手法だ。
清太が叔母の家を出たのは、彼の自立的な選択だったのだろうか。清太の行動はむしろ、「しょうがない」の状況に流された形にみえる。東京の親戚を訪ねれば?との叔母の問いにも「だって居場所知らない」というつぶやきも状況を受け入れているにすぎない。国家もまた、ABCD包囲網を前に「他に道はない」と繰り返しながら、実際には〈選択不能性〉を自己演出し、主体的責任を回避した。ここに丸山眞男が「無責任の体系」と呼んだ入れ子の構造が垣間見える。
しかし、その<仕方のなさ>の感覚は、まぎれもない当時の人々にとっての記憶だ。戦後、戦争の記憶を語らない人も多かった。「あのときは選びようがなかった」という感覚は、語れば外からの価値観に塗り替えられてしまうという恐れを呼び起こす。占領下の日本でGHQの統制下、180度価値観が転換されるといわれた時代、戦争を生きた記憶は、勝者の正義の空気の中で、語ればすぐに記憶が塗り替えられてしまう。語れば壊れてしまう記憶を守るための沈黙はとてもよく理解できる。<反省>という行為は進歩の感覚がセットになると、胡散臭さが付きまとう。日本は生まれ変わるのだといわれてもなと。冒頭の三ノ宮駅での通りすがりの人の「もうすぐ米軍が来るというのに、恥やで、こんなんおったら」は象徴的だ。結果として人々は沈黙していたのではないだろうか。
終戦直後、小林秀雄は「近代の超克」を自省する知識人たちを相手に、「僕は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか」と言い放った。知識人たちの総括に対する小林の態度は考えさせられる。小林は戦前から一貫して進歩主義に基づくマルクス主義史観には距離を置く発言をしてきた文化人だ。
また、反省という言葉を聞くたびに思い出すのは岸田秀だ。「ものぐさ精神分析」のエッセイ集のなかで、酒を飲んでやらかしてしまったときの自己嫌悪を例に挙げ、なぜ反省しているのに何度も同じことを繰り返すのか、そもそも「自己嫌悪」とは何かを分析した。自己嫌悪に効果がなく同じことを繰り返してしまうのは、<倫理的に覚醒した自分>が<コントロールを失って暴れた自分>を自省し、本来の自分は倫理的で、酔って暴れた自分は本来の自分ではなかったという卑怯な立ち位置のもとで成り立っているからだと喝破した。これは「まだ本気を出していないだけ」の思考回路と同じだ。
同じことが、戦争の記憶もいえるはずだ。特に戦中派(特攻世代)の一つ上の世代の記憶。
太平洋戦争末期を思春期・青年期に過ごした戦中派と異なり、それ以前の世代の戦争の記憶は同じ戦時下といっても微妙に異なったものだっただろう。戦争が泥沼化するに伴い、決して人に言いたくない血塗られた戦闘に巻き込まれた世代だ。長期化する日中戦争に伴う厭戦気分と士気の低下が増大するにつれ、あとに続く若い世代の忠義心がむしろ煽られるのを目の当たりにしていたし、強い責任感とともにお国のために尽くす自己犠牲の美学に傾倒するさまをみていたはずだ。この世代の葛藤を描いだドラマ作品に、山田洋次原作『少年寅次郎』(脚本・岡田惠和)がある。戦地から戻った寅次郎の父が罪悪感から娘さくらの顔を直視できなくなる場面がある。彼は中国戦線で同じ年ごろの子どもを殺していたからだ。その罪の重みと、生きていかなければならない現実とのあいだで沈黙する姿が描かれる。アジア太平洋への侵略を後世の人間が反省するとき、被害者側や左派の論理で都合よく記憶が加工されてしまうが、それは本当に反省といえるのか。歴史は被害者の記憶で塗りつぶせばいいわけではないはずだ。これが右派もしくは保守の大方の感覚だろう。そして保守もまた、お国のために尽くし自らの経験と責任を美しく語れる世代と、戦地で自ら手を血に染めた禍々しい記憶を胸に沈黙する世代に断絶が生じ、結果として戦後、記憶をより美しく語ったほうが、あたかも風化に耐えた岩盤のような面持ちで保守の本流になっていった。右派も記憶の加工に加担しているのだ。語られぬ記憶による生存者バイアス、そして私たちが何を記憶としてすくい取るか、その流れ自体が、戦争の記憶の複雑さを物語る。
しかし、そんな個人としての記憶のしまい方は、将来世代が戦争を止める契機を奪う力学としても作用することに次第に気づかされる。「あの頃はどうしようもなかった」という思い出は、欺瞞的な反省への個人の抵抗ではあっても、やはり将来世代には反省を承継しなければならない思いも強まる。小林秀雄は、歴史は上手に思い出すことだ、といった。しかし、後世の人はえてして都合のいいことしか思い出さない。記憶の封印によって社会が戦争を忘却するくらいなら、という思いで晩年になって初めて戦争の記憶を語り始める人もしばしばみられる。それは、自らの死の間際になると、社会の忘却のダイナミズムが見え始めるからではないだろうか。
火垂るの墓に対して宮崎駿がどのように思っていたかは番組では紹介されなかった。
同じ終戦前後の少年の内面を描いた宮崎の作品として『君たちはどう生きるか』がある。もし高畑のアプローチがレヴィナス的な<他者>であったとすれば、宮崎のそれはヘーゲル的な<承認>の構造を想起させる。新しい母との関係を受け入れられない眞人にとって異世界への旅は必然であり、死者や過去の存在と出会い、その言葉に耳を傾けることが自らを見つめ直すきっかけとなった。それは、自己意識が他者との対話を通じた承認によって成り立つというヘーゲル的テーゼを思わせる。他の宮崎作品をみても、むしろ近代的な自我—対話と承認、責任の引き受けといった構造の中で人間の成長を描こうとする傾向がみてとれる。「泣くときは一人で泣け(風立ちぬのカプローニ伯爵)」や「じたばたするしかないよ(魔女の宅急便の森の絵かき)」、「今からお前の名前は千だ(湯婆婆)」など成長と自立を促すダイアローグが宮崎アニメに特徴的だ。
これに対して「火垂るの墓」では、他者との対話よりも、むしろ「思い出す」ことが大きな意味を持つ。叔母の家を離れた理由も、節子の死後に池へ戻らなかった理由も明示されない。ときには悔恨を滲ませる表情でF清太に思い出されるだけだ。西宮のおばさんが母の着物を米と交換するのを節子が泣いて嫌がるシーンで、耳をふさいで苦悩するF清太の表情は忘れがたい。
高畑作品のもう一つの特徴は、人々が主人公に過度に伴走しないことだ。叔母さんの描き方にそれは表れており、主人公を見放すひとには見放すひとなりの人生がある。だからこそ、視聴者はときに西宮のおばさんに共感を寄せたりもする。これは<思い出す>ことを重視した高畑ならではの演出手法であり、主人公がどうであろうと、人にはその人なりの人生があり、決して主人公に語りかけるためにだけ登場するわけでも、寄り添っているわけでもない。これは、視聴者の視点を固定し、常にだれかに見守られて成長するお姫様・王子様特性の主人公を描いてきた宮崎駿作品とは対照的だ。
<思い出す主体>を用意する手法は『おもいでぽろぽろ(1991)』にも表れる。記憶の中の小学四年生の自分という思い出を<内なる他者>として宿し、現在の自分=タエ子27歳が過去を振り返り、沈黙していた感情や語られなかった出来事に光を当てるという手法である。そこでは、言葉にされなかった過去とともに今を生き続ける姿勢が描かれており、<思い出す主体>であるタエ子27歳とF清太の視線は同じ構造を持つ。つまり、高畑は「語られなさ」をただの欠落ではなく、むしろ思い出すことを通じて現在を形づくる力として示している。
高畑・宮崎の両者が描いたのは、どちらも「戦争と少年の魂」であった。両者はまったく異なるアプローチながら、しかし同じ戦後を見つめていた。宮崎は、自我が他者との対話や承認によって確立されるという弁証法的な構造を物語に組み込み、言葉や応答を通じた関係性の中で成長を描こうとしたのに対し、高畑は「語られなさ」に宿る沈黙の力ー思い出すことで再生される倫理に重心を置いた。高畑勲は『火垂るの墓』を通じてどこまで人間の真実に迫れるかを静かに証明してみせたのだと思う。
「君たちはどう生きるか」に見られる過剰なまでの<対話>は、『火垂るの墓』に対話がなく沈黙に包まれていることとの見事な対比をなす。高畑は、あえて沈黙した視線を通じて「別の選択」の可能性を観客の私たちに突きつけた。「そうするよりほかになかった」状況、それが水辺でのサバイバルであれ、太平洋戦争であれ、それを回避する主体的な<選択>の余地は本当になかったんですか?と。それを対話ではなく、沈黙の視線で表現した。それがラストシーンでふと一瞬、観客のほうに視線をむけるF清太なのだ。
これは、<記憶を語らない>ことで選択を拒否し、結果として空気に流されてしまう私たちの精神構造を映し出しつつ、同時に、後世の人が<思い出す行為>を通じて「いかに主体的に選択しうるのか」を問いかける――その両義性を体現した見事な映像表現というほかない。比較すると、救いの構造が異なる二人の巨人のすごさがわかる。
高畑の手法は小林秀雄風にいうならば、歴史を上手に思い出せるんですか?という問いになろう。小林がいうように、人は不完全であり、過去をまっすぐ生きてきた人の手触りを感じることは難しい。上手に思い出すというのは実は難しいことだ。むしろ、現在の価値観(民主主義や人権)によって自分たちは成熟している、進歩しているという思い込みで邪魔されてしまう。当時の人々の生を未来の人しか知らないフレームに当てはめてしまい、他人事としてしか理解できないというのは往々にしてあるのではなかろうか。ここまで言葉にしてきたやや穿ち過ぎな分析がまさに記憶を台無しにする悪い見本だ、ということも含めて。
えー、いまさらですが、第0次ブクマカ聖杯戦争について新たな ~増田的~ 記録が発見されたので報告しておきます。
「聖杯戦争」って言うと、やっぱり魔術師が血で血を洗うバトルロイヤル、英霊がド派手な宝具をぶっ放し、藤ねぇがなんか叫んでる感じを想像するじゃないですか。
まず、参加条件。
監督役は当然、管理人。戦闘で規約違反が起きれば「冷静なるban」という徹底対応。
勝敗は……?
という感じで、各陣営が延々「相手のコメントを深読み→的外れに引用→そもそも話題そらし」という無限ループを繰り返すため、一向に決着がつかない伝説の戦いとなりました。
物語は〈もしシャアがガンダムを盗んでいたら〉という二次創作的 if を出発点に、ゲームのセーブポイントやマルチバース的分岐を前提とした軽い世界観を採用している。
キャラクターの死は重みを持たず、制作側もオマージュとセルフパロディを重ねることで、現実感を極端に希薄化させた「アニメを模したアニメ」を志向している。
演出面でも同じ軽さが際立つ。キャラクター描写は余白というより「落丁」に近い粗さで、カットのつなぎも総集編のようにぎこちない。
放送されたばかりの10話でもマチュのケツカメラからシャリアの壁ドンへの飛び方が非常に荒かった。目的は物語の自然さではなく、SNSで映える瞬間を切り出すことにあり、ショート動画的。
こうした作りの結果、視聴者は「短いのに濃密だった」という快い感覚は得られず、視聴中に「情報を詰め込まれている」という圧迫感を覚え続ける。
統一テーマはなく、12話という尺の中で①マチュ娼婦堕ちネタを代表とする夏コミ向けの薄い本ネタ、②毒ケーキ3連発などSNSでバズる雑ネタ、③ガンプラ販促という三つのノルマだけが明確に見えてくる。
ターゲットは国内の中高年オタク男性だ。彼らは「作品やファン自身に深みがなければならない」という長年の圧力から解放され、浅い流行りものを堂々と楽しめる。
乃木坂由来のキャラだろうが、JKが突然下着になる場面だろうが、旧作キャラの同窓会だろうが、「楽しければいい」というスタンスが肯定される。
この姿勢は、重度障害者を主人公に据え「女性の障害者は天使のように純粋」という固定観念を壊した小説『ハンチバック』と相似形をなす。
あちらが障害者の性格への幻想を壊した解放文学なら、ジークアクスは「中年オタクは深遠であるべき」という幻想を砕く解放アニメと言える。
そもそもガンダムの収益の核はロボット玩具だ。一旦ちゃんと終わったはずのファーストから卒業できない視聴者に合わせ、シリーズは Z、ZZ、さらにはマーベル的マルチバースへと広がり続けた。
近年の『水星の魔女』が海外市場に目配せしたのに対し、ジークアクスは完全に国内の高齢層へ照準を定める。
「40歳を過ぎてもJKのパンツとロボットおもちゃで盛り上がって何が悪い?」
「ガンダムは深くなくてもいい。浅いまま騒いでいい。」
深読みや衒学的な言い訳を不要とし、SNSでつるみ、大量のモブ死や露悪ネタで盛り上がる――それこそが本作の価値であり、「軽薄な空っぽおじさん完全解放」の到達点なのである。
この文章が指しているのは、おそらく「AWS」や「クラウドインフラ」関連の技術ではなく、もう少し狭い領域の技術、特に「コンテナオーケストレーション技術(Kubernetesではない方)」、あるいは「仮想化技術(VMwareなど)」、さらに絞ると「OpenStack」や「オンプレミスのプライベートクラウド技術」を指している可能性が高いです。
理由は以下の通りです:
• 「数年前までは結構勢いがあった」 という記述は、例えばOpenStack などが一時的に注目されていた時期(2010年代前半〜中盤)を示唆しているように読めます。
• 「上位互換の技術の台頭」 は、Kubernetesやパブリッククラウド(AWS、Azure、GCP)の進化を指している可能性が高いです。
• 「プロジェクト終了」 という流れは、企業がオンプレや自社構築のクラウドから、よりコスト効率が良く運用負担が少ないパブリッククラウドに移行していく傾向を表しています。
• 「小手先の技やTipsばかりがうまくなった」 という言葉は、例えばOpenStackや特定のミドルウェアの細かい設定やトラブルシューティングに強かったが、根本的なOSやネットワークの理解が浅かったことを示唆しています。
もしこの仮説が正しければ、この技術は「OpenStack」や「VMware vSphere」といった、かつて企業のデータセンターやプライベートクラウド構築の主役だったものの、クラウドの台頭により徐々にシェアを失っている領域を指していると考えられます。
さらに深読みすると、この「上位互換の技術」とはKubernetes であり、より広く言えばパブリッククラウドサービス(AWS,Azure,GCP) のことを指しているのでしょう。
この技術の死に直面している筆者の無念さや、自らのキャリアの喪失感、そして基礎的なCS(Computer Science)の重要性を痛感する気持ちは非常に共感できますね。
https://togetter.com/li/2555691
配偶者が「柿食べない?」と言われたから「食べない」と返したら不機嫌になった→どういう意味か分かると謎の怖さがあるミスコミュニケーションの話
文字通りに読むとイエスかノーを聞いてるようにしか解釈できないのに、ノーと答えると殺しにかかってくるようなことをするからだよ。
だから、文章でも隠された意図があるんではないかと深読みする癖が自然とついて、書いてないことを自然と読み取るようになってしまう。
ただ、ここで言う文盲はある程度、読書したり、FGOとか設定資料集などで活字に触れるような人がなるタイプのやつなんで、小説が要約すらできん人はまずは読むことから始めような。
近年放送された『ガンダムジークアクス』は、視聴者の間で賛否両論を巻き起こしている。その大きな理由の一つが、「とにかく情報量が多い」という点だ。画面に映るシンボル、断片的に提示される過去の戦争、唐突に引用される哲学用語や神話モチーフ。これらが次々に提示されるにもかかわらず、ストーリーの本筋に対する説明や関連づけはほとんどされない。まるで「意味があるように見せる」情報のシャワーに晒されるような視聴体験だ。
この感覚、どこかで経験したことがある――そう思った視聴者は多いだろう。1995年に放送されたテレビアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』もまた、まさに同じような作りだった。エヴァンゲリオンもまた、謎が謎を呼ぶ構成、断片的に差し込まれる宗教的記号や心理学的用語、キャラクターの内面描写が突如として象徴化される演出など、「情報の多さと不明瞭さ」が最大の特徴だった。だが、今振り返ると、多くの視聴者が没頭していたそれらの“考察”の多くは、本筋のストーリーとは実はほとんど関係がなかった。
たとえば、「カバラの生命の木」や「セフィロトの樹」、「ロンギヌスの槍」など、当時は「この配置には深い意味があるに違いない」と騒がれたが、後に監督自身が「それっぽく見せるために使っただけ」と述べている。つまり、それらは「本質」ではなく、演出上の装飾だったのである。
これとまったく同じことが、今『ガンダムジークアクス』でも起こっている。情報過多、意味深なセリフ、過去作の引用――それらを受け取った視聴者たちは、掲示板やSNS、考察系YouTubeチャンネルなどで、あれやこれやと解釈を試みている。しかし、そこに見出された“深読み”の多くは、結局のところ物語の展開とは直接関係しない。なぜなら、それらの情報は「世界観をそれっぽく見せるため」のツールであり、作者からの「本当に読んでほしい意図」ではないからだ。
では、こうした「意味のない情報量」による演出は、視聴者を欺くためのものであり、悪しき作劇法なのだろうか? いや、決してそうではない。むしろ、そうした“意味のない意味深さ”こそが、今のアニメ文化における重要な快楽のひとつになっている。つまり、「意味があるように見える情報」を自分たちで咀嚼し、解釈し、語り合うというプロセス自体がエンターテイメントなのだ。
エヴァンゲリオンの時代は、まだネットが発達していなかったため、考察は雑誌の読者投稿欄や、限られたオタク同士の会話の中で行われていた。しかし、現在ではSNSやYouTubeなどのプラットフォームが整備され、視聴者が考察を“コンテンツ”として発信・共有する時代になった。『ガンダムジークアクス』は、そのような現代的な「考察文化」にぴったりとフィットする作品なのである。
とはいえ、ここで忘れてはならないのは、**「考察と物語は別物である」**という点だ。考察はあくまで視聴者側の楽しみであり、物語の本質はその枠の外にある。エヴァンゲリオンの本質は、父との関係に苦しむ少年の心の成長であり、ガンダムジークアクスの核もまた、パイロットたちの「選択」と「責任」の物語である。シンボルや用語が何を意味しているのかに囚われすぎると、かえってその本質を見失う危険がある。
結局のところ、情報量の多さは、作中世界に厚みやリアリティを与えるための「霧」なのかもしれない。その霧の中に意味を探そうとする視聴者の営みもまた、作品を楽しむ一つの方法であることは間違いない。しかし、その霧の向こうにある「物語の本筋」を見失ってはならない。情報を読み解く楽しさと、物語を味わう感動の両方を得るためには、「この情報は本当に必要なのか?」という視点を持つことが、実はとても大切なのではないだろうか。
『ガンダムジークアクス』の情報過多に圧倒されながらも、どこか懐かしさを覚えるのは、それがエヴァンゲリオン的な「問いかけの形式」を受け継いでいるからだ。だが、その形式の本質は、「答えが提示されること」ではなく、「答えのない問いを前にして、我々がどう考えるか」にある。つまり、考察とは“解答”ではなく、“自己の姿勢”の表れなのだ。
だからこそ、『ジークアクス』のような作品に向き合うとき、必要なのは「正解」を求めることではない。むしろ、あの情報量の洪水の中で、自分が何を感じ、どう解釈したのか――その“対話”こそが、この種の作品の最大の魅力であり、現代アニメ文化における「考察することの意味」なのだろう。