
はてなキーワード:民衆とは
https://anond.hatelabo.jp/20251214182609
偶発的な事故に対して刑事責任なんてとっても被害者は救われない!とか
じゃあ今現在、自動車で死亡事故起こしても保険賠償だけで済む世の中になってないのはなぜでしょう?
AI関係なく人間には責任なんて取れないんだったらすでにそうなってるはずですよね
仮に完全に無人でAIが自律駆動して、すべての挙動がAIに支配される法人格がサービス運営してたとしましょう
謝罪はAI生成文で、偶発的な事故だから仕方ありませんよ、賠償するからこれで勘弁して、おつかれ!
ってなったときに、それは仕方ないね、統計的には人間が介入するより事故率低いエビデンスもあります
で許されますかね?
あなたの身内が死んでてもあなたは「でも統計的には人間のサービスより死亡率低いし、総コストも小さいし、賠償金は増額されてる」
で納得しますか?
そうだとしたらあなたは非常に珍しいタイプの脳みそをお持ちだと思います
普通に考えてそれなりに多くの人はブチギレると思うし、直接運営に関わってなくても法人格に利害関係のある自然人に
なんとか「責任」取らせようとするでしょ
裁判開いて刑務所にぶち込んで謝罪文書かせてという禊があってすらネットリンチは起きるんだから
どう考えてもその数百倍の規模の私刑で「責任」取らせようとする動きが起きるに決まっている
人々は数千年間、偶発的事象の因果の切断点として「責任」を求めてきたんですから
その積み重ねが現在の法的秩序なわけです
全宇宙の物理法則は確率的に挙動してるだけだから個人の責任なんて幻想ですよとか言うやつは
そもそも単なる幻想であるあなた自身の価値基準を捨ててない時点で矛盾してます
あるいは民衆が突如異常な合理主義に目覚めて人格は刑事責任を取らなくていい!そのほうが合理的だから!
と新秩序の必要性に目覚めてすべての法秩序を一新した統一国家を作るでしょうか?
やりたいならやっていいよ面白そうだし
ただ私は移住したくないですね
話を戻すと、責任を取らなくていいAI法人vs責任を取れる自然人法人
AI法人だろうが、既存の国家と法秩序は絶対に責任を取らせようとしますし
それがなくなるのは法秩序自体が崩壊した後なので、そもそも統計とか信頼できない世界になった後でしょうから
市場において個人の合理的な選択でサービスを選べるという構造自体が崩壊すると思いますよ
そうなったら
AI法人が正しい統計を人々に教えてくれるという前提はどこから来るのでしょうとか
5年は前になる。
近所のスーパーでキャベツ一玉68円とか、卵10個パック198円とか、そういう物価だった頃だ。
体調を崩して仕事を辞め、貯金を切り崩した後は、幸い申請が通った障害年金と、リハビリとして始めたアルバイトで暮らすようになった。
その時考えていたのが、「いつ生活保護を受けることになるかもわからないから、支出をその範囲で抑えられるようになっておこう」ということだった。
いつまた働けなくなるかもしれないし、年金が打ち切られるかもしれない。
役所で一度相談し、説明を受けたことはあったので、金額はその時教えてもらっていた。
ちなみにその時は水際対策で断わられたわけではなく、まだ貯金がある段階で、働けなくて収入の当てがないと相談したところ、手続きの仕方などを保護担当の人が親身になって教えてくれた。
おかげで「お金がなくなったら生活保護があるし、役所で追い返されることもない」という安心感が持てて、そこから体調も安定し始めた。
話を戻して、当時住んでいた自治体では生活保護費は住宅扶助を上限まで使って13万円だった。
簡易キッチンとユニットバスの狭いワンルームなのだが、1万円近く超過している。
なので、13万円以内で生活するには生活費を諸々込みで67,000円に抑える必要があるわけだ。
バイト先への交通費は別にしておいて、通信費はスマホ(格安SIM)と家のネットを合わせて約9,000円。
水道代はほぼ基本料金なので隔月2,400円。電気・ガス代は(※当時)平均5,000円。
これを固定費として、月々15,200円の支出は確定していることになる。
ここから食費、雑費、被服や美容費など捻出するわけだが、人付き合いがなく出かけることがないので交通費がかからず、近隣に図書館があり、元々趣味が読書なので娯楽にも対して金がかからないのもあって、案外暮らせるものだった。
障害者手帳のフリーパスでバスに乗れば交通費はさらに節約できたし、割引になる美術館や自治体主催の無料の講座などに参加したりもできた。
一方で、歯医者の定期クリーニングや美容院の予定が入ったりすると一気に苦しくなるのも事実だった。
衣服代も予算を圧迫するので、靴はとにかく安いものを探し、ワークマンの980円のキャンバスシューズに行き着いた。
工夫をすれば暮らせるが、収入がある時は普通にやっていたこと(歯医者での定期クリーニングや、三か月に一度の美容院)が「贅沢」となり、小綺麗な格好をするのが難しくなるため、友人同士の集まりやおしゃれなカフェなど、身なりを値踏みされそうな場所からはちょっと足が遠のく。
月13万円はそんな生活だった。
しかし、その「工夫をすれば暮らせる」さえ、あくまで5年前の話だ。
それからロシアのウクライナ侵攻が始まり、円安も進み、物価がどんどん上がっていった。
まいばすで78円で買えていた板チョコが今は税抜148円だ。
光熱費は、使用量は減らしたのに基本料金と単価がバカみたいに上がり、倍になった。
いつも鶏むね肉を100グラム68円で売っていたスーパーでは、100グラム98円になった。
サバ缶は158円が258円になった。
まいばすの味がしないバナナなんぞ78円が気付いたら128円だが、それでも相当安い方だ。
chatGPTに相談すると「業務スーパーや作り置きを活用しましょう」などと言ってくる。
あのな、この世の困窮してる人間のそばに業務スーパーは必ずあるのか?
誰にでも徒歩やバスで行く体力があり、自炊する気力や知識や環境があると思ってるのか?
そういう話をしてるんだ私は。と、小一時間chatGPTを詰めてしまった。不毛な時間だ。
経済的に余裕がなく、さまざまな事情で自炊も難しい人が、安く食べたい、とにかく腹を満たしたいという時にそこにあって手が届くのは、現実的には安い菓子パンでありPBのカップヌードルだったりするのだろう。
普段からちゃんと食事をしている人がたまの間に合わせに食べるならいいが、常食するには体に悪すぎる、それらの食物でも「食えることは食えるんだからいいだろう」と言うのは、奇しくもマリー・アントワネットが言ってないとされる「パンがないならお菓子を食べればいいじゃない」という状態だ。
おおマリー、お菓子は安くとも体に悪く、民衆のQOLを下げてしまうのよ。
マリア・テレジアも草葉の陰で泣いている。
今は何も調べずにこれを書いているが、多分生活保護費が引き上げになったとかってことはなく、(むしろ引き下げの話をしてるくらいだ)同じ金額のまま、物価は爆上がり、交通費も光熱費も上がり、カツカツからキュウキュウで皆生きているんだろう。
(私はもう無理だと思ったので、貯金を諦めて生活費の上限を上げた。金がなくて食えなくなったら最悪死ぬからもういい)
とはいえ、これがどのくらい政治のせいなのか、友人も妹もいないタイプのメロスである私にはわからない。戦争とか温暖化の影響を、一体誰がどうしたらどうにかできるんだろう。
何もわからない。
朝の空気というものは、本来すがすがしいらしいけれど、私にとっては単なる演出でしかない。
名家ルヴェリエ家の令嬢たる私、アメリアは、今日も執事セドリックが操る馬車――最新式の魔導車輪装置付き――で学院へ向かっていた。
膝の上には、婚約者レオン様のために「私が手作りしたことにしている」昼食弁当。
指先ひとつ動かしていないのに「手作り」になるのだから、令嬢とは便利な職業である。
そうして道を進んでいると、前方で妙に丸いお腹を抱えた女性がよろめいているのが見えた。妊婦だろうか。道端で苦しんでいるように見え、演出としては完璧だ。
「止めて、セドリック。助けるわ」
「……ありません」
馬車を降りると、妊婦らしき女性がこちらを向いた。次の瞬間、彼女の腹が破裂するように膨らみ、皮膚が裂け、紫色の眼球がずるりと覗いた。
……どう考えても妊婦ではなかった。
私は優雅に一歩さがったが、その化け物は触手の束を一斉に伸ばしてきた。
「お嬢様っっ!!」
セドリックが私を突き飛ばし、魔法陣を展開した。青い閃光が触手を焼き払い、化け物は黒焦げの肉塊となって崩れた。
しかし――
「ぐっ……!」
セドリックの腕は赤く裂け、骨が一部見えていた。まったく、困ったわね。
私は地面に倒れ込んだ自分の肘を見た。
ほんのちょっと擦りむけて血がにじんでいる。
非常に痛い。
世界一痛い。
「みんな聞いて!!」
周囲の野次馬に向かって私は叫んだ。
「この執事、私を突き飛ばしたの!暴力よ!令嬢の私を傷つけたのよ!!」
「言い訳しないで!!弱者男性のあなたが私を押したせいで、私はこんな大怪我を……!!」
魔王戦争以降、国民に施された忠誠心強化の洗脳術式が刺激されるとこうなる。
「令嬢を傷つけた罪……拘束しろ」
「許されない……守れない執事など……」
「お嬢様、待ってください、本当に誤解――ぐっ……!」
その声を聞きながら、私は肘の傷にそっと触れた。
すると傷口が淡く光り、逆流するように皮膚が再生していく。
見てきた。
おもろい、おもんないと色々入り乱れてるがネタバレ込みの感想。
事前情報全くなしで行ってみた。
が、いまいち「死者の世界」のルールがわからん。死んでるけどそこでは生きてるようで2回目の死で「虚無」になる。
死んでるのにお腹すくの?
過去も未来も混ざった世界で様々な世界の様々な時代の死者がいてる。
けど、なぜか言語はなぜか通じてる。
復讐相手(王)が「見果てぬ場所」てとこにいるらしくスカーレットはそこを目指す。
スカーレット「敵はぶっ殺す」聖「殺したらあかん」とぶつかるが
あんまり深刻にはぶつからず、そこはテーマではないんかとよくわからない。
スカーレット、なぜかノーヒントで「見果てぬ場所」へ向かえてしまう。
キャラバンに合流したり中ボスと戦ったりして、なんやかんやあり渋谷で踊る。この時の曲の歌詞がとても臭く「愛について教えてよ〜」作詞細田監督やった…orz
見果てぬ場所はすごい山の頂上から階段が伸びてるとこにあるらしい。
ちなみにこの山エベレスト?てくらいに高い。
いっぱいの民衆が山に集まり山を要塞化したラスボス王に襲いかかる。
なんやかんやで頂上に登れた。噴火してたのに雪山のようになってて
そこに現れた中ボス、バトルに入るも殺されそうに。
そこに途中で戦った中ボスが助けに!(戦った後逃してあげた)
まあ来ると思ってたよ。で民衆どこいったの?
殺す!殺さんといて!許す!アホが!自分許す!とかあり雷にうたれラスボス虚無化。
そしたら聖とキャラバンのみなさんが現れて、死者の国まとめてる人が「スカーレット死んでないで」
聖とお別れ、いやー、けど戻るキスー(このシーンはよかった)
スカーレット戻って国治るわー
城の外にすごい群衆50万人くらいいてそう、ここどこよ?
民が「女王様はわたしたちの暮らしがよくなる政治をしてくれるの?」(ド直球でなく、もう少し言い回しなかったのか」
民「それなら協力するぜー」(もう少し言い回し…)
スカーレット 歌い出して終わり。
ストーリーのとっかかりはいいのだけど、細かいセリフの拙さが気になった。
細田監督は原案だけだして脚本は任せた方がいいんじゃないかな。
それいるか?という場面も多かったですが。
タイトルの通り。
お経でカロリー半分になることは周知の通りだが、その特別なお経を唱えるには虚無僧にならねばならなかった
だから私は各ファミマを渡り歩き、ファミチキのカロリーを半分にする活動をしている
コーヒーでいうデカフェのようなもので、カロリーだけお経の力で滅却させるのである
するとカロリーを気にしなくていいと飛ぶようにファミチキが売れ、そのマージンがわたしに入ってくるという仕組みだ
ただ勘違いしないでもらいたい❗️
私は金儲けのためにやっているのではない‼️
ちなみにからあげクンにはこのお経は効かない
ローソンの業が深いため(パッケージが分かりにくく民草を惑わせている)、別のお経が必要なのじゃ
そのお経は目下開発中であり、またお披露目の機会があれば唱えてしんぜよう
では、さらばじゃ!
(虚無僧こぼれ話)
・お布施はファミペイでも受け付けている
彼らって基本的に世間から見れば少数派(マイノリティ)のくせして、自分たちの主張を通すためなら暴力的活動も辞さないし、そうやって民衆に恐怖を植え付けて無理やり言うことを聞かせようとしてるよね。口では「平和」とか「多様性」とか綺麗な言葉を並べてるけど、やってることは異論を許さない全体主義そのもの。どう考えてもファシズムの手口だわ。
あいつらの界隈って、本当に様々な意見が出ることがない。「多様性」を謳ってるわりに、自分たちの教義に反する意見は1ミリも認めないからね。一度「こいつは敵だ」ってターゲット認定したら、即座に「差別者」「レイシスト」「独裁者」っていうレッテルを貼りまくって、集団で社会的に抹殺しようとする。議論で勝とうとするんじゃなくて、人格否定とキャンセルカルチャーで相手の存在ごと消そうとするやり方が陰湿すぎる。
最近だと、斉藤元彦さんに対する異常なほどの叩き方だったり、河合ゆうすけさんみたいな既存の枠に収まらない人間が標的になってるよね。彼らの気に入る「型」にはまらない人間、自分たちの既得権益や思想的聖域を脅かす人間に対しては、常軌を逸した攻撃性を発揮する。
結局、極端な正義感を振りかざして、自分たち以外の正義を暴力的に排除しようとしてる時点で、彼らが一番嫌っていたはずの「独裁的で排外的な右翼」と瓜二つになってるってことに、いつになったら気づくんだろうな。
・隷従は、第二の本性となった「習慣」から起きる
・圧政者の共犯者となって悪事をはたらき民衆を隷属させる実行部隊の隊長は高々4, 5人
〈臣下を飼い慣らすやり口〉
・ローマの圧政者たちは饗宴によって民衆を買収した上で「護民官」を名乗った
・エジプト初期の王は小道具を使って自分の権威に神秘性を与えた
つまり、「圧政者どもは、自分の地位を確たるものにすべく、民衆を服従ついで隷従の状態に慣れさせ、ついには自分を『崇拝』するに至らせるべく、弛まぬ努力を重ねてきた」
さらに、
・万年野党として反発するその実、民衆のブレーキ役として圧政者と阿吽の呼吸で手を握り、旨みを噛み締める輩がいる(「証拠」を出せ!)
とはいえ、
・戦車に体当たりしても轢かれるのがオチなので、自分の「何」が圧政者の利益になっているかを見極め、それを手札に使う。ただで「それ」を与えないということ。
・中世デンマークの王女が、父親の王様をその弟(王女の叔父)に殺され王位を簒奪される。
・王女は新王を毒殺しようとするが、逆に自分も毒を盛られて死ぬ。
・死んだ王女が行った先の死者の国でも叔父が王をやり、なぜか腹心の家臣達まで一緒にいる。
・そこに、やらないかの阿部そっくりの長身坊主イケメンが現れ、王女が屈強な男にボコられても王女に戦うなというお花畑だった。
・しかしイケメンは坊主頭も凛々しく、髪が無いからこそ、余計に顔立ちがやたら良いのが際立ち、看護士としての腕は良い。
・なので、周りの誰も信用しない(出来ない)王女も、以降は坊主と共に旅を続けるが、王女でなくても若い女性が若い男と夜も共にする時点で、坊主がイケメンだからにしか見えない。
仮に坊主が出川のような顔だったら、絶対一緒に旅しないよな…。
・坊主がなぜか弓と乗馬に長けているのは、おそらく現代日本の高校や大学で弓道部と乗馬部の両方を経験してきたのだろう…。
・そして、キャラバンのおばさんとおじさんから坊主がフラダンスを習い、王女と焚き火しながら王女にアップでイケメンな顔で迫り、
イケメンな坊主に遂に陥落した王女は、なぜか夢の中で現代の渋谷スクランブル交差点でキレッキレのダンスを坊主と2人で、このうえなく幸せな表情で踊り狂う。
・渋谷ダンスのシーンでは通常シーン以上に手足が長くモデルなみのスタイルで、坊主頭のため更に小顔に見えるイケメン坊主だが、イケメン坊主であるがゆえにやらないか阿部にしか見えず、
やらないか阿部が渋谷でキレッキレのダンスを踊り狂うのがカオスでしかない…。
・渋谷ダンスから突然王の軍隊VS一般市民の数千・数万人同士の争いに移り、そこに火山が噴火して熔岩が両者を襲う。
・なぜか熔岩をクリア出来た王女と坊主は、最終的に山頂で叔父王と再会し、演技に騙されて王を許した王女は返り討ちにされるが、都合良く現れた龍に王は処刑される。
・しかしここで、坊主の古傷が急に悪化し、虚無になっていく坊主とキスしながら、王女は地上の世界に帰ってきた。
・元の世界に帰ると王は自分で誤って毒を飲み既に死んでおり、王女が新しく女王に即位し、民衆に平和主義を演説しておしまい…。
・なお、その民衆の1人の女、宮殿の召使い、墓守りなど完全なモブキャラに、津田健次郎、宮野真守、上田麗奈、種崎敦美、内山昂輝、結川あさきと謎に豪華過ぎる専業声優を起用しており、完全な無駄遣いだった。
・逆に王女の芦田愛菜、坊主の岡田将生の声優ぶりは、予告編で「コレハユメカ? イキテイルノニ、ナゼシシャノセカイニマギレコム?」と棒読みだったのが全編続いた…。
久しぶりに映画を鑑賞したので、感想を備忘録としてまとめておく。
ネタバレ注意。
年の暮れも近づいて寒風が吹きすさぶなか、これほどの恐怖と癒しを味わえるとは思わなかったので、いい記念になった。
『スカーレット』について論じる前に、前提に触れておきたい。
少年少女を主人公に据えて普遍的かつドラマチックな物語(以降、ドラマと呼ぶ)を展開する場合、シナリオのテーマは必然的に「これから大人になる子供たちへの応援歌」になる。
何故かと言えば、大人にならない人間はおらず、あらゆる受け手に刺さるテーマだからだろう。
こうなると、あらゆるシナリオ上の敵は「大人になるための障害物」「大人になることへの恐怖」ということになる。
最終的に、物語の中で主人公はこれらの強大な敵を乗り越えて、大人になっていくということだ。
これはたくさんのドラマに触れてきた人なら自明のことだと思うが、親を超えればいい。
つまり、大抵の子供のドラマにおいて、テーマは「親殺し」になる。
古今東西、子供が主役のドラマは星の数ほど生まれているが、脚本家には何を「親」にして、どう「殺す」のかが問われるだろう。
ここで、『スカーレット』の話に戻ろう。
先の前提を鑑みて『スカーレット』のシナリオを俯瞰した時、スカーレット(主人公)はどう「親」を「殺した」のか。
結論から言うと、スカーレットは親を殺せなかった。正確には「殺さなかった」。
「殺し方がうまくなかった」とか「殺しはしたが中だるみした」とかではない。「殺さなかった」のである。
カレーを作ろうとしたがルーを買っていなかったレベルの失敗で、これは叩かれても仕方がない。
なぜこんなことになったのか。
おそらく、これは脚本が下手とかそういう次元の問題ではないと私は感じた。
話は脱線するが、果てしなきスカーレットはハムレットを翻案したものなので、ハムレットの構造にも触れなければいけない。
ハムレットは行間のある物語であるため、様々な解釈があるが、端的に言えば主人公は「父の呪い」から始まり、「父の呪いを断ち切って」己の遺志だけを残して死んでいく。
詳しくはここでは割愛するが、ずっと父の呪いに悩まされ、懊悩していたハムレットであったが、最後は純粋な義憤によって剣を取って悪を処断し、理性的な政治家として死んでいくのである。
もう一度『スカーレット』に戻ろう。
ハムレットのテーマを踏まえると、『スカーレット』は「どう親を殺すか」という問いだけではなく、この「ハムレットがどう悩み、どう大人になったか」を翻案するという大変重い十字架を背負って出発している。
ハムレットは数多くの翻案作品があり、翻案を明示していなくてもハムレットをフレームワークとして利用したと思われる作品は数多くある(ディズニーのライオンキング等)。
残念ながら、『スカーレット』に関しては「戦って負けた」とは言えない。不戦敗である。
何故そう言えるのか。
ここからネタバレになるが、何と『スカーレット』では、父の呪いが最後にやってくる。
物語の大団円、最後の最後に父の亡霊が「自分の人生を生きろ」と告げ、スカーレットが子供のころに描いた父の似顔絵(母親に破り捨てられたもの)に変化して消えていく。
恐怖である。「親殺し」どころか、これで主人公は「親の命令に囚われて一生を生きる」ことが確定してしまった。
死者の国を旅し続けて、数多の試練を乗り越えた末に、似顔絵を描いた幼少の自分の精神に戻ってしまったのである。
その後王になったスカーレットは、集まった民衆に向かって無邪気に父から受け継いだ理想をそのまま語り、条件付きの平和を約束する。
いやいやいや。なぜそうなる。
単純に突っ込むとこれで終わりなのだが、冷静に登場人物を振り返っていくと、この物語が内包している恐怖が浮かび上がってくる。
劇中冒頭の処刑時に主人公に聞こえない遺言を呟き、終盤まで主人公を惑わせつつ、最後に呪いを仕掛けてくる「偉大な父」である。
劇中、なぜか腑抜けとして扱われているが、親しみやすい人柄で子(スカーレット)と民衆からの信頼は篤い。
特に正義もなく極悪非道を貫いているサイコパスのラスボスである。
民衆から慕われている王(アムレット)を民衆の前で殺害できる政治的な超能力を有している。
死の間際、スカーレットの顔面に唾を吐きかけてくるレイパー役も担っている。
あらゆる悪人に手を差し伸べて怪我を癒す看護師であり、道中でスカーレットに守られ続ける存在である。
子供を守って通り魔に刺されて死者の国にやってきて、愛の歌だけでスカーレットを現代の渋谷に飛ばし、ダンスと歌でスカーレットを精神的に生まれ変わらせた。
死の間際、スカーレットに「いきたい!いきたい!」と言わせて死者の国から旅立たせる白馬の王子様役も担っている。
スカーレットはなぜこんなにも性的なメタファーを遠慮なく使われているのか、SNSでは非難も起きていたが、冷静になってほしい。
アムレットは一生を呪ってくるリアルな父、クローディアスは自分を愛してくれずネグレクトする悪魔の父、聖は本来望まれている理想の父だ。
この物語は「父の言いつけを守り、悪しき父に耐えることで理想の父に愛される」という構造になっている。
そう、描き手は「父から愛される」ことを心の底から望んでいる。
「親殺し」ではなく、「親の言いつけを守ることで親の愛という永遠の平和が約束される世界を取り戻す」物語なのである。
王になったスカーレットが民衆に条件付きの平和を約束したのも、このように解釈すれば納得がいく。
「描き手がそのように愛を受けてきた」からだ。
描き手はおそらく、条件付きの愛しか知らない。
何故スカーレットは唾を吐かれたり「いきたい、いきたい」などと言わされているのか。
「可愛らしい女の子でなければ愛を受けられない(自分が愛されないのは女の子ではないからだ)」
「女の子なのだから、遠慮なく父の愛を受けられるはずだ(息子ではない存在なら愛を受ける資格があるはずだ)」
「性的に求められることが愛だ(自分が愛されないのは性的に求められない存在だからだ)」
つまり、描き手は自分の代わりに少女主人公に父からの虐待と愛を存分に受けさせている。
それによって癒しを感じているのだろう。
私は過去の細田守作品をほとんど知らないが、この作品がこの有様なら、おそらく主人公に関わる男性陣は全員「父化」しているのではないか。
ネグレクトしてくる悪魔の父か、なんだかんだで主人公を愛してくれる理想の父かのいずれかだ。
終幕のどんでん返しにしろ、考えてみりゃ叔父一味が来てるって事は死んでる訳なんでそもそも延々とやってた復讐云々の話は無意味だし、生き返ったら毒ワイン誤飲して臣下諸共全滅してました!って馬鹿にしてんのかって話だし。
あんだけ民衆にも嫌われてたんだからそこは昏睡してる間に民衆の反乱起きて全員処刑されてたとか、導入前の下りでスカーレットも叔父王一味も共倒れで全滅させとくとかやり方はあったと思うし。
そもそも、異世界で坊主頭の復讐云々やらの説教大会やらゆるふわ王女の意識改革やりたいだけで話が成り立って無いんだよな。
ハムレットを知ってる云々の通気取りって、こんなハムレット馬鹿にした話を絶賛してる時点で浅はかと言うか。
果てしなきスカーレット
珍しくふと、映画館で映画を観たいと思った。最後に映画館に行ったのは11年前、中学の頃親と一緒に行ったっきり。自力で映画館に行ったことも無いのに、なぜかそんな気持ちになった。
細田監督の最新作「果てしなきスカーレット」が、ちょうど公開されるらしい。小学生の頃、金ローで放送された「サマーウォーズ」を録画して、繰り返し観た記憶が蘇る。これは観るしかねえと思い立ち、TOHOシネマズに向かった。
結論としては、良いところはあるものの、やはり細田脚本には問題があると言わざるを得ない出来だった。本当に現状のままでいいのか、細田監督を問いただしたい理由をまとめた。
(1回見ただけなのでおかしいところや思い違いがあると思うけど、容赦してね。)
【以下、ネタバレ】
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まずは簡単にあらすじを紹介。愛する父親を殺された王女・スカーレットは、父親を殺した叔父・クローディアスの暗殺に失敗。死者の国で目を覚ます。スカーレットは死者の国で、現代の日本からやってきた看護師・聖と出会う。スカーレットは聖と共に、かたき討ちのためクローディアスを探す旅に出る。
本作が題材にするのは報復の連鎖。細田守監督自身がインタビューでそう語っており、私もその予備知識ありでスクリーンに臨んだ。では、憎しみと復讐の連鎖に伴う辛さ、やるせなさが描かれているのかと言われれば、十分に描かれているとは言えなかった。
正直なところ、憎しみや復讐の描き方は「進撃の巨人」の圧勝。こちらの方が断然よくできている。本作は「進撃の巨人」と比べて、憎しみと復讐が続いてゆく辛さ、やるせなさが身に強く迫ってこなかった。
一つは、愛する父が暗殺される→クローディアスの暗殺に失敗→死者の国へ、という冒頭の流れが説明的であること。スカーレットが抱える憎しみとその辛さは理解できるものの、それが自分の身に起こったかのように感情移入できなかった。「物語への圧倒的没入体験」を掲げる本作であるが、没入できないもどかしさが最後まで続いた。
もう一つは、クローディアスが一貫して悪人として描かれていること。「進撃の巨人」では、主人公たちが相手を憎むのと同時に、相手側が主人公たちを憎む様子も丁寧に描いていた。絶対的な悪など無く、対立する両者がお互いに痛めつけあうやるせなさ。それが、本作にはほとんど見られない。長期連載作品である「進撃の巨人」と、二時間に満たない尺の本作を比べるのはフェアじゃないかもしれないが、復讐や憎しみを描くうえで、そこは外してほしくなかった。
しかし、復讐や憎しみを題材にしている本作であるが、より深いテーマを感じた。それは、「自分の好きなように生きよ」というメッセージである。
物語の序盤、スカーレットは父の敵討ちに燃え、死者の国で現れる敵を次々と殺してゆく。「王女としてそうあるべき」という義務感をスカーレットは抱いており、それが復讐のモチベーションになっていることが描かれている。看護師である聖は、好戦的なスカーレットと対照的に、敵味方差別なく治療を施し救おうとする。それも、「看護師としてそうあるべき」と聖が考えているからだ。
敵を殺そうとするスカーレットとそれを好まない聖は、一見対照的なキャラクターに見える。しかし、「自分の立場にとらわれて、本当はどう生きたいのか分からない」という内面は同じなのである。
スカーレットと聖は交流を重ねる中で、互いの心情に変化が生まれてゆく。スカーレットは、敵との戦闘になっても剣を鞘に納めたまま戦い、むやみに人を殺めなくなる。人を殺めるための短刀を、自分の髪を切る(新しい自分になる)ために使うシーンは、スカーレットの内面の変化を印象的に描く。逆に、人を殺めることを否定していた聖は、弓矢でクローディアスの手先を殺めてしまう。物語の序盤、「人を殺めるな」とスカーレットに散々言ってきた聖が人を殺めてしまうシーンは大きな批判を生みそうだが、聖が自身の黒い感情に対して正直になった、もしくは抑えられない、という内面の変化が描かれる良いシーンであったと思う。憎しみという黒い感情を否定しないことは、本作の美点の一つである。
一見対照的な二人だが、共に同じ苦悩をを抱えていて、それが変化してゆく、という構成は好印象だった。ただし、スカーレットについては憎しみに関する描写が強すぎて、「王女としてそうあるべきだから復讐に燃えている」という内面が理解しにくかった。物語の序盤も序盤、スカーレットの父が「王女としてではなく、女の子として好きなように生きなさい」と幼少期のスカーレットに語るシーンがあるのだが、さらりとしすぎている。スカーレットが死ぬ前に、クローディアスの暗殺を民衆が熱望していて、スカーレットがそれにプレッシャーを感じているようなシーンがあると良かった。
クライマックス。スカーレットは死者の国から元の世界へと戻り、王女となる。王となったスカーレットは民衆に、「民を救うこと」「子供は絶対に死なせないこと」を宣言する。これは、スカーレットが「王女としてそうあるべきだから」と考えているからではなく、心の底からそう思っている。スカーレットは死者の国での交流を通じ、「私はこうありたい」という自発的な強い意志を手に入れて、物語は幕を閉じるのである。
そのようなクライマックスを踏まえると、「果てしなきスカーレット」は、憎しみの連鎖を描いた物語というよりは、少女が自分の生き方を決める物語なのだと個人的には思った。本質的には、「おおかみこどもの雨と雪」(主人公が、おおかみ or人間、どちらかの生き方を選ぶ)や、「バケモノの子」(人間世界 orバケモノの世界、どちらで生きるのか選ぶ)など、細田監督の過去作品にも通ずるテーマであるといえるだろう。
本作は他の細田作品と同じく、演出、特にメタファーの使い方に優れる。特に水というモチーフが良い。序盤、空が荒れた海のようにうねる様子をまじまじと見せつけつつ、水一つない砂漠の風景を延々と見せておいて、最後にスカーレットを雨に打たせる流れが良かった。雨はスカーレットの心の痛みであると同時に、乾き続けた心を潤す恵みの雨でもある。スカーレットが抱く矛盾した複雑な感情を、水や雨というモチーフを使うことで、端的に表すことに成功している。物語全編を通じて砂漠の風景が続くのは単調で少ししんどくもあったが、クライマックスに良い形で回収されたのは良かった。
カラスのモチーフも良い。本作ではカラスが度々出現するのだが、物語の終盤、クローディアスと対峙するシーンでザワザワとカラスが集まり、散ってゆく演出が良かった。黒い感情やざらつきが、スカーレットの胸に広がって去っていく描写である。このシーンでは、スカーレットが抱く感情にある程度没入することができた。
しかし最後の最後、黒い竜がカラスとなり散っていくシーンは解釈が難しかった。カラスがスカーレットの内面を表しているのであれば、竜が悪役に雷の制裁を加えるのはご都合主義すぎる。スカーレットの黒い感情の高まりが、直接悪を成敗しちゃってました、ってことになってしまわないだろうか。私の読解力では、一本芯が通った演出として理解できなかった。
その他、聖のキャラクターに人間味が無いとか、スカーレットの母が謎だとか、細田監督らしく突っ込みどころは沢山あるしキリがない。しかし一番の問題点は、わかりやすいカタルシスに乏しいことだろう。「見果てぬ場所」を目指すとか、最後に聖とキスして永遠のお別れをするとか、カタルシスを作ろうという工夫は見られるが没入感が無く、わかりやすく感動できない。
唯一カタルシスを感じたのが、劇中歌「祝祭のうた」(フルバージョンがストリーミングにある)をバックに、スカーレットが炎の中に吸い込まれて現代の日本へとワープするシーン(このシーンはYoutubeでチラッと見ることができる)。なんだかよくわからないけれどいい感じにエモい歌が鳴っていて、スカーレットが「うわああああ」ってなってて、吸い込まれてゆく映像美も(IMAXなので)すごい。「コレだよコレコレ!このわかりやすい感じ!」と思ってスクリーンの中に身を任せたのだが、その先の現代で踊るシーンは作り物感が強く、映画館の座席の上にストンと戻されてしまった。復讐だけのために生きてきたスカーレットが新しい自分を見つける、という背景を意識するとそれなりにエモく見えるのだが、直感的に感情移入してダラダラ涙を流すためにはあと一歩か二歩足りなかった。
「君の名は」ほどではなくてもいいから、馬鹿でも分かるような感動が欲しかった。まず、分かりやすく感動できること。そのあと二回、三回とリピートしていくにしたがって、細田監督の演出の上手さが生きてくる。水や雨、聖がおばちゃんから貰った楽器などのモチーフや、登場人物の些細な変化。それに気づいていくことで、回数を重ねる度により深く物語へと没入することができる。
個人的に大好きな「おおかみこどもの雨と雪」には、それがあったと思う。揺らいだカーテンに隠れた雪がおおかみの姿に変身する激エモシーンや、嵐が去った駐車場で花と雨がお別れする涙腺崩壊シーンなど、音楽(激エモ)と映像美(激エモ)の力を借りた分かりやすい感動ポイントが、まずあった。そのあと繰り返し鑑賞してゆくにつれ、瓶に入ったお花の描写や、おおかみであるとは?人間であるとは?といったテーマの理解度が深まり没入していく。そんな作品だった。それこそが「物語への圧倒的没入体験」だと思うのだけど、皆さんはどう思いますか?
それを踏まえると、やはり奥寺佐渡子さんの脚本に戻してほしいと切に願う。復讐や憎しみを題材にしながら「自分の好きなように生きよ」というメッセージを細田監督から投げかけられた私は、素直に胸を打った。しかし、カタルシスに乏しく物語に没入できてないので、そのメッセージが深くまで刺さってこないし、未消化感が残る。上映が終わった後、前の席に座った女性(大学生くらい?)の二人組が、「何の話か分からない……」と漏らしていたのが印象的だった。監督が伝えたいメッセージが観客に伝わらないのは、あまりにも大きな問題ではないか。
奥寺氏が脚本に嚙まなくなった「バケモノの子」以降、細田監督作品は脚本の弱さを批判され続けてきた。しかし、「竜とそばかすの姫」はそれなりに売れてしまったわけだし、商業的にやっていける限り細田脚本は続いていくだろう。
しかし、本当にそれでいいんですか?
「あなたの脚本だと、メッセージが観客に上手く伝わってないみたいですけど、本当にそれでいいんですか?」と、細田監督に問いかけたくなる。「好きなように作って満足!」みたいな同人誌的な態度の映画作りで細田監督が満たされるのであれば、現状維持でかまわないと思う。我々はスクリーンの前で、感動ではなく悔し泣きの涙を呑むしかない。
しかし、莫大なマネーとステークホルダーを巻き込み、作品を広く世に知らしめる力を持つクリエイターとして、「自分のメッセージを世の中に投げかけ、沢山の人の気持ちを揺さぶりたい」と細田監督が考えているのであれば、勇気をもって奥寺脚本に戻していただきたい。
ちなみに奥寺佐渡子さんのことを調べたところ、最近脚本を手掛けた「国宝」なる映画がとてもすごいらしい。昭和ど真ん中の時代に、任侠の息子が歌舞伎役者として成長していく話なんて教養がない私にはとても敷居が高いんだけど実際どうなの????教えてエロい人。
PS:
TOHOシネマズのBGMってあるじゃん。ピアノの曲。超久しぶりに映画館に行くので、あの曲が劇場で流れている雰囲気も楽しみにしてたんだけど、開場して五分後に入場したらすでに広告が始まってて聴けなかった。放映終了後も、「忘れ物に気を付けてください」の画面が出てくるだけで聴けなかった。開場直後に滑り込めばこのBGM聴けるの?これもエロい人がいたら、ついでに教えてほしい。
仕方がないので、その曲を無限リピートさせながらこの記事を書いている。ちなみに、TOHOシネマズのBGMは「ナッシュスタジオ」という、業務用向けのBGMや効果音を専門に販売する会社のもので、ハードオフの店内放送曲や天神のCM、デデドン(絶望)もこの会社の作品らしい。"NashMusic Library"で調べればストリーミングで聴ける。
5chを見てたら、山口二郎法政大学教授が高市政権はクマ対策がなっとらんと批判しているニュースを見かけた。
日本の政治学者、政治活動家。専門は行政学・現代日本政治論。北海道大学名誉教授。法政大学法学部教授
。。。
行政学やってる法学部の教授がこのレベルの発言しているのに驚き。
この中、第三条で国の責務が定義されてる、「鳥獣保護の基本指針」を定めなさいと、これは国、内閣、環境大臣の仕事。
都道府県はこの基本指針に沿って具体的な「鳥獣保護管理事業計画」を策定し実施する(5条、6条)。
鳥獣管理の実施主体は都道府県なの、国では無い。こんなもん鳥獣保護管理法読めばアホでもわかる。
熊対策にどの程度の予算を割くか、どういう方針で行動するか、全て都道府県の裁量に任されてる、国はノータッチ。
国の基本指針に則っていれば各都道府県で好きにすればいい。
国は大枠のガイドラインを定めて、各地方自治体ごとに地方の特性などを考慮しながら予算配分を変える。
国がなんでもかんでも直接やってるわけじゃないの。地方自治なの、分権なの。昔から変わらない。
こんな低レベルの話を東大卒の政治学者に突っ込まなきゃならないのが情けない。
言いたいことがないわけじゃないが気骨は感じた。62点。
3から20年ぶりの新作ということで他作品シリーズの傾向と同じく過去シリーズでもっとも人気のあった作品のスピリットを継承した作品、つまり2の正統続編と俺は感じた。世界に対しての「告発」と「ド派手アクション」である。2で活躍したコンパウンドボウも使うしね。
散々語り尽くされたことだと思うけどとにかくアクションがド派手になっている。これは火薬マシマシ麺固めという意味ではなく、とにかく人体破壊描写を二郎系の野菜のように盛りまくっているのである。またぬるいハリウッド映画のように「子供は殺されない」なんてこともなく、むしろ露悪的に、村の子供にミャンマー政府軍が銃剣を突き刺す描写まで克明に描かれている。
「これが戦場なんだ」そして「これは現実に起きていることですよ」ということを世界に告発したいという強い意志を感じた。
最後の戦いのランボーが機関銃を掃射してミャンマー軍兵士の身体が爆散したり腕や足がもげたり頭がふっ飛ばされたりするシーンも中々に壮観だ。痛みを感じる戦場を撮りたいという気骨と見せ場として盛り上げたい気持ちをうまく同居させたシーンになってると思う。
あと1,2ぶりに山の中をランボーが全力疾走するシーンがあってファンサやなぁとにっこりしてしまった。
身体は、まぁ、ステロイドで膨らませた身体は戻せないよねって感じ。しゃーない。
今作のストーリーとしては
タイで雑務をこなしながら隠居生活を送っているランボーの元にミャンマー政府によって迫害を受けている少数民族のためのボランティアをしている教会系の団体が訪れ、現地への舟渡の仕事を頼まれる。最初は断るもブロンド美女に頼まれてころっと方針を変えなんだかんだありながらも現地へ彼らを送り届け帰宅。その後、彼らはしっかり彼らは捕らえられる。彼らを救いたい教会の依頼を受け教会が雇った傭兵と共に再び現地に赴き頑張って彼らを救出し、帰省するのであった。
まず全然関係ないんだけど、3もそうだったけどなんでランボーはタイを隠遁の地に選んだんだろう。ベトナム帰還兵でベトナム戦争のPTSDに悩まされているのに、よりにもよって住民ほとんどベトナム人みたいな顔してるタイを定住の地に選ぶ感覚よくわかんねぇなと思った。
俺がブルックリンを歩いてたら黒人にケツ掘られてそれがPTSDになったとして、世を逃れてコンゴに移住しようとは思わんもん。差別的な例ですまない。本当に反省している。
今作が1のスピリットも継いでいるところは主にこの教会系ボランティア団体の扱いにある。
彼らは無邪気に「支援」が迫害を受けている少数民族を救うと考えており、非暴力を主張する。そして舟渡中に彼らに襲い掛かった盗賊を始末したランボーを人殺しだと責め立てる。これは1で帰還兵ランボーを空港で「赤ん坊殺し!」などと責めた民衆を投影しているのは明らかだと思う。
それに対してランボーは「平和ボケどもが!」と怒りを示す。スタローンの本音だろう。しかし特に口煩かったハゲは最終的に仲間の傭兵を助けるために最もフィジカルで、最もプリミティブで、そして最もフェティッシュなやり方――落ちてた岩で敵兵を撲殺するという行為に及ぶ。
言わんとしてることはわかるんだけど、それでも彼らは非暴力的な形、医療や教育で少数民族を間違いなく救っていたわけで、確かにそれは根本解決にはならないかもしれないけれど、露悪的に「誰かを助けるために手を汚せよ」と示さずに彼らの思想をもうちょっと尊重してやってもよかった気はする。
誰もが「迫害から人々を救うために必要なのは支援じゃなくて兵力だ!敵をぶっ殺せば全部解決するんや!」って思想になっちゃったら世界めちゃくちゃになっちゃうよ。
よくわからんかったんはこの教会団にネームドとしてハゲとブロンド美女がいるんだけど、ランボーはハゲにはなんかやたら反発するんだけどブロンド美女にはやたら優しい。彼女のほうが人に寄り添う姿勢を持ってるとは思うんだけど言ってる思想はたいして変わらんし、見てる側からすると「こいつ女に甘いだけでは?」と思ってしまう。
ハゲの依頼は断わるけど夜に美女と話したら途端に船を出すとなるし、盗賊撃退後にやっぱ危険だから帰れというランボーの手をそっと握って「行きましょう」と美女が言うと「しゃーないなぁ」みたいな感じでやっぱり現地に向かう。たぶん、ランボーを現地に向かわせる強い原動力を思いつかんかったんだろうな。
お前ほどの美女が言うなら!ってなっちゃうのは男の心理だからね、わかるよ。でもさァ↑だったらブロンド美女じゃなくてベトナム系アジア系美女だろ!彼女を見て2で死んだ情報員を思い出して……のほうがドラマティックだろがい!
最終的に大惨劇の後に美女はハゲに抱き着いて愛してると告げ、ハゲと美女ができていたことが分かりランボーはそれを見つめ「なんかもう家に帰ろうかな」となるのでもしかしたらランボーがガチで美女に惚れちゃってただけかもしれない。
この作品の最後にランボーは実家に帰省するんだけどこれも個人的にはよくわかんなくて、ちょっと書いたけどそもそもなんでランボーがタイに隠遁してたかがよくわかんないんだけど、まぁベトナム戦争の英雄として帰ってきたらなんかそんな感じじゃなくて気まずくて家に帰れなかったのかもしれないけど、じゃあ今回の映画でそのもやが晴れるような展開があったかっていうと俺はそれをあんま感じられなかった。
2で捕虜を救い、3で(結果的に)アフガニスタン国民を救った。今回の少数民族を救ったことが過去の2例とは違うという必然性が薄く感じた。まぁ機関銃で敵吹き飛ばしまくってスッキリしたのかな。だったら3の後でも帰れるやろがい!3の最後にも「俺の戦争は終わりました」言ってたしさ!
あと、今作になってやっぱ気になったのは「ベトナム戦争のPTSD」って「ベトナム人に拷問された」ことなんだなって。「ベトナム人を大量に殺害したこと」じゃなかったんやなって。まぁ戦争ってそういうもんやからって言われたらそうかもしれんけどさ。今作では過去最高にもう本当にぐっちゃぐちゃにミャンマー兵をミンチにして虐殺するんだけど、ハゲも美女もあんなもん見たら一生のトラウマになるよ。そして保安官にいびられて山中を駆け巡りガソリンスタンドを爆破しちゃうよ。
でもランボーはなんかちょっとすっきりした表情で実家への帰省を決意する。「人を惨殺する」ということに対してのなんらかの意識がもうないんやなって。平和ボケした日本在住のバカヤロウは思ってしまいましたよ。
ただ、2や3に比べたら伝えたいことと作品の対応性が高いし、言いたいことを伝えるために映画を撮りました!そのために方法もちゃんと考えました!って感じが強く出てて個人的には好きな部類に入る映画だった。