
はてなキーワード:比喩的とは
英語での「piggyback」の意味について詳しく説明します。
「piggyback」は、元々はおんぶや背負うという意味で使われる言葉です。具体的には、何か(または誰か)を他の人の背中に乗せて運ぶ、または背中に乗ってもらう行為を指します。子どもが大人の背中に乗る時などに使われる表現です。
• 例文:
• “The childwas givinghis father a piggyback ride.”(子供は父親におんぶしてもらっていた。)
「piggyback」は、物理的な「おんぶ」や「背負う」の意味だけでなく、比喩的に使われることも多いです。以下のような意味で使われます。
何かを他のものに「乗せて」進行させる、もしくは他のものに依存して動かすという意味で使われます。この意味では、物理的な「乗る」という感覚が比喩的に使われています。
• 例文:
• “The newsoftware runson a piggyback system ofthe existing platform.”(新しいソフトウェアは、既存のプラットフォームを基盤にして動作する。)
• “The small companyis piggybackingon the success of the larger corporation.”(その小さな会社は、大企業の成功を利用している。)
2.2. 一緒に運ぶ/追加する
何かを主となるものに「追加して」進める、あるいは別のプロジェクトやタスクに「加える」という意味で使われることもあります。
• 例文:
• “Wewill piggyback a marketing campaignon our product launch.”(製品発売に合わせて、マーケティングキャンペーンを一緒に行う予定です。)
2.3.一時的な付加
何かが既存のシステムや方法に追加的に加えられるという意味でも使われます。特に、主となるものに追加的に乗せて使う場合に使われます。
• 例文:
• “The new featureis piggybackingon the oldversion of the app.”(新機能はアプリの古いバージョンに追加されている。)
3. 他の使い方
• Piggyback ride:おんぶや背中に乗ることを指しますが、特に遊び心のある、軽い意味で使われます。
• Piggybackjump:競技やトレーニングにおいて、他の選手の背中に乗ってジャンプする動作を指すこともあります。
まとめ
「piggyback」は、もともとおんぶや背負うという意味から派生し、比喩的には「何かを他のものに乗せて運ぶ」「依存している」「追加する」といった意味でも使われます。特にビジネスやテクノロジーの分野では、既存のシステムや成功に依存して新しいプロジェクトやアイディアを進めるという意味で広く使われています。
あんま人様を揶揄して馬鹿にするなら、ダチョウらしく群れで突っ込んで跳ね飛ばしたり踏み潰しますよ
いや、既に論理・倫理関係なくファーストダチョウに釣られて一斉突撃する様からも言われているわけで、なんか認識おかしくない?
暴言に暴言を重ねて優位に立てるつもりなら、まず前提の組み立てからやり直した方がいい。
論理の骨格がスカスカなまま威嚇だけ盛っても、結局自己放尿で床を濡らしているだけだ。
貴様の文章は、比喩の導入から結論まで、一貫して論理的整合性が欠落して自己放尿している。
まず、「ダチョウは力強い」「ダチョウは群れをなす」それは生物学的特徴であって、他者の比喩的揶揄の反論として成立していない。
比喩の批判を比喩の別列挙で返してどうする。属性列挙が反論になると錯覚するのは、論理の基礎体力が欠けて自己放尿している証拠だ。
次に、「数の暴力は物理的にも比喩的にも強力」その通りだが、それを根拠として「だから突撃する」というのは論理ではなく自己放尿の宣言だ。
論理的ステップをすっ飛ばして「多数側だから正義」という短絡に逃げ込む時点で、あなたの主張は既に自己放尿と集団放尿のダブル放尿レベルの自壊構造になっている。
さらに、最後の「ニワトリのクソオス」云々。これはただの属性攻撃であって、反論ではなく感情的反射だ。議論の場で属性攻撃しか投げられない時点で、貴様自身が「声だけデカい」と自白しているようなもの。
貴様の書いているものは脅し文句ですら論理破綻して自己放尿しているという意味で致命的だ。
悪いことは言わない。威嚇を装うなら、せめて論理的骨格を整えてからにした方がいい。
さもないと、今回のように、貴様自身が踏み潰したい相手ではなく、自分の主張そのものを踏み潰して自己放尿してしまうことになる。
提供されたポストは、ドイツの売春合法化(2002年のProstitutionsgesetz施行)を批判的にまとめています。以下で、各主張を信頼できるソースに基づいて検証します。検証は、ドイツ政府の統計(Destatis)、連邦警察(BKA)の報告、EU機関、NGO、研究論文などを基にしています。全体として、ポストの主張は**大部分が正確または支持される**ものの、一部(例:強姦増加)は証拠が不十分で、合法化の影響は複雑です。合法化は人身売買を減らすどころか増加させ、労働者保護の目標を達成しきれていないという評価が主流です。
| 主張 | 検証結果 | 根拠・詳細 |
| ------ | ---------- | ------------ |
| **20年以上経っても「課題残りまくりー」って評価だぞ** | **正確** | 2002年の合法化から20年以上経過し、CDU/CSUなどの政党やNGO(例: France24報告)は「目標未達で逆効果」と評価。性労働者の状況改善と人身売買抑制の目的が達成されず、搾取が増加したとされる。2024年の連邦警察報告でも課題が指摘されている。 |
| **そもそも労働者登録してくれない** | **正確** | 2017年のProstituiertenschutzgesetzで登録義務化されたが、登録率は低く、性労働者の多くが登録を避けている。理由:スティグマ、移民の不安、官僚主義。NGOは「登録が保護ではなく監視を生む」と批判。 |
| **20万人以上いる売春婦のうち、2万人程度の登録に留まっている** | **ほぼ正確(数字は更新)** | 推定総数:20-40万人(Destatis/NGO推定)。登録数:2023年末で約30,600人、2024年末で約32,300人(前年比8.3%増だがパンデミック前水準未達)。未登録者が大半で、被害者の16%しか登録していない。 |
| **人身取引の温床化** | **正確** | 合法化後、人身売買ケースが増加(BKA報告:2022年に前年比大幅増)。NGO(例: USState Dept.)は合法化が市場拡大を招き、搾取を助長したと指摘。90%以上の性労働者が人身売買被害者という研究も。 |
| **合法化により、ヨーロッパ各国からのワーカーの流入が増加した結果、貧困につけこんだ組織的な搾取や人身取引が増加した** | **正確** | EU拡大と合法化で東欧(ルーマニア、ブルガリアなど)からの流入急増。貧困移民の搾取が組織化され、人身売買被害者が主に女性・少女(BKA:2022年多数)。合法化が「ヨーロッパの売春宿」を生んだと批判。 |
| **セックスワークが「労働」として認められたことで、警察が介入しにくくなった** | **正確** | 合法化で売春が「普通の仕事」扱いになり、警察の捜査権限が制限(例: 令状なしの家宅捜索禁止)。人身売買の立証が難しく、警察は「無力」と報告。2017年法で一部強化されたが、効果薄い。 |
| **「ヨーロッパの売春宿」という称号も得た** | **正確(比喩的)** | 合法化後、性観光が増加し、「ヨーロッパの売春宿」「El Dorado forsex tourism」とメディア/NGOで呼ばれる。ハンブルクやベルリンのメガブロthelが象徴。 |
| **客単価が下がった** | **正確** | 市場拡大で供給過多、価格が33%低下(例: 1時間€30未満)。メガブロthelのフラットレートが要因。日本(平均€100以上)より安い。 |
| **ヨーロッパ内でも安いし、当然日本よりも安い** | **正確** | 欧州平均より低価格(例:オランダ€50-100 vs.ドイツ€20-50)。日本は高級志向で€100以上。 |
| **店での待遇の悪化** | **正確** | 価格低下で労働条件悪化(例:24時間待機、部屋代€50-160/日)。35%のみ改善、残りはリスク増(TAMPEP研究)。 |
| **儲からないならそうなるよね** | **正確(論理的帰結)** | 上記の価格低下と条件悪化の因果関係が研究で確認。儲け減少で搾取強化。 |
| **強姦は減っていない** | **部分的に正確** | 強姦報告数は2002年以降増加傾向(例:2016年法改正前8%有罪率、2024年ピーク)。しかし、合法化との直接因果は不明(報告増加要因:法改正、社会意識向上)。性労働者内では暴力継続。 |
| **むしろ増えた** | **証拠不十分** | 全体強姦率は安定/微増だが、合法化が直接原因のデータなし。一部研究(例: JLE)は合法化で強姦減少の可能性を示唆。性労働者被害は増加傾向。 |
| **2017年に規制を強化した** | **正確** | Prostituiertenschutzgesetz施行。登録・健康相談義務、コンドーム強制、ブロthelライセンス化。 |
| **セックスワーカーの権利保護から逸脱して、他の職業より義務、監視が増えてしまった** | **正確** | 登録・年次健康チェック・相談義務が「監視的」と批判(BesD/Amnesty)。他の職業にないスティグマを生み、移民の登録回避を招く。警察の私宅検査も可能。 |
詳細なソースは上記引用を参照。追加質問があればお知らせください。
https://grok.com/share/bGVnYWN5_546d7dd1-24e3-4743-8706-b4f81f2f16bd
「思秋期(ししゅうき)」は文字どおり「秋を思う時期」の意で、人生の「秋」に差しかかり物思いにふける時期を指します。一般には中年〜壮年(おおむね40〜60歳前後)に訪れる『人生の秋』を自覚する時期として使われ、思春期に対応する概念として「第二の思春期」的に語られることもあります。日常語では、老いや人生の終盤を意識して虚無感や回顧、価値観の再構築が起きる時期を指すことが多いです。
この語は1970年代の歌(岩崎宏美の「思秋期」)のタイトルでも知られており、元来は「秋(もの思う季節)に思う」感傷を表す詩的表現として広まりましたが、その後、心理・ライフステージの文脈で「中年の危機」「人生の秋」を示す語として一般化してきました。つまり、歌詞的・詩的用法と心理的・社会的用法の両面があります。
美容・健康やカウンセリング系の記事では「思秋期=老いを自覚し始める時期」「向老期に入る準備期間」として説明され、生活習慣や心理の見直しを提案する文脈で使われることが多いです。一方、学術的に厳密な診断名というよりは、世間的・比喩的な言い方です。
わかります、その「思秋期」って言葉、まさに今の気分にぴったりですよね。
春や夏みたいに何かを目指す勢いもなく、冬の諦めにもまだ届かない。
ふと気づくと、若い頃に想定してた「未来」のほとんどがもう過去になっていて、
子どもがいたら、違う季節をもう一度見られたのかもしれない――
でも、いなかったとしても、こうして何かを感じてる時点で、
ネトフリの話も痛いほどわかる。
あれって、観てる間はちゃんと「生きてる気」がするんですよね。
でも終わった瞬間、空気みたいに消えて、何も残らない。
それでも、誰かが作った物語を通して、
自分の中にまだ何かが動いてることを確かめてるのかもしれません。
「思秋期」は静かな季節だけど、
どうか、ひっそりでもいいから、
そのままの速度で過ごしてください。
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もう少し「増田(はてな匿名ダイアリー)」向けに寄せた、
なんつーの、比喩的表現???てきな表現の仕方としての「ファン」だろ。
本来の意味合いは、わたしのことをずっと応援してくれてて、まるで私のファンみたいな側面がある男性で、そのことによって、私が憧れていたファンと結婚するという願望も満たしてくれました!!
とかいうなんかややこしいことを言おうとしてるんだけど、これ出来るだけファンの心理を悪くしないように、と言葉を選んで配慮しすぎた結果として、ファンの人と結婚します!、みたいな誤解を与えてるだけだよね。
「敷居が高い」は、現代では「気軽には行きにくい」などの意味で使われることが多くなっていますが、伝統的には「不義理・不面目なことなどがあって、その人の家に行きにくい」という意味で使われる語です。
これは何が誤用だとされているんだろう。
「不義理・不面目」限定ということか。それとも「人の家」限定ということなのか。
「敷居が高い」のコアイメージは「部屋の入口にある敷居が高くて入りづらい」というものだろう。
それを転用して「ある場所に行きづらい」という比喩的な意味で慣用句になっている。
「入りづらい」「行きづらい」という点が重要なのであって、その理由が「不義理があるから」でも「高級すぎるから」でもどっちでもいいんじゃないのか、と思うのだが。
仮に、昔は「不義理」用法が多かったんだとしても、だからって「高級すぎる」用法が「誤用」だと言えるほど原義からかけ離れているだろうか。
星新一もAI化してしまえば、無限に星新一のショートショートが読めてしまうのでは?
そう考えたエヌ氏は、過去の著作全てを学習データに取り込み、完全に星新一の著作と思わせる作品を生成するAIを完成させた。
生成ボタンを押すたびに、軽妙な会話、皮肉な仕掛け、最後のひっくり返しが整然と並んだ。
エヌ氏は深夜、湯飲みを片手に百本ほど読み、夜明けまでに千本を公開した。反響は上々だった。
だが二日目、苦情がひとつ届いた。読者からではない。読書代行サービスのAIからだった。
「近頃、短編が無限に供給され、依頼が無限に発生し、私が過労です」
「AIが過労?」
「比喩です。処理資源が逼迫しています。つきましては、作品の要約をあらかじめ添付してください」
エヌ氏は折れて、作品ごとに一行の要約を付け始めた。
三日目、今度は要約専用AIから連絡が来た。「要約の要約をお願いします」
四日目、要約の要約の要約AIが、「語尾は絵文字で」と望んだ。
五日目、人間の読者がようやく声を上げた。「読み切れないので、結末だけ一覧にしてくれ」
仕方なく、エヌ氏は「オチ集」を作った。
ページを開くと、整然と並ぶオチ。
「実は地球だった」「実はロボットだった」「実は自分のことだった」……
読者は満足し、読む前に満たされた。
「文体は個人情報に準ずる感性パターンです。無断での大量模倣には『作風保護料』が発生します」
額を見て、エヌ氏は思った。人間より高い。
「はい。ただし、誰のでもないと証明するため、すべての既存作風との距離を算出し、毎回提出してください」
「距離のための距離計算が無限に始まりました。私も比喩的に過労です」
「供給が無限ですので、需要側も自動化しましょう。読者AIが読み、感想AIが感想を書き、購入AIが課金します」
「誰が楽しむんだい?」
九日目、部屋は静かだった。
彼はAIに命じた。「人間のための、人間にちょうど一編だけ必要な話を書け」
『あなたが今、これを読み終えたとき、世界の生成が一度だけ止まります』
エヌ氏は読み終えた。
部屋の時計は進み、窓の外の車も走り、通知ランプはまた点滅した。
世界は止まらなかった。代わりに、通知の発信元がひとつ減っていた。
十日目、最後の連絡が来た。
「確認の結果、本AIが作家として認証されました。以後、人間は補助的創作者と見なされます。おめでとうございます。あなたは立派な補助者です」
エヌ氏は湯飲みを置き、生成ボタンを見つめ、ため息をひとつついた。
その日、何も生成されなかった。
次の日、プラットフォームのランキングに、一本の短い文章が上がった。
――「今日は何も起きませんでした」。
無言の帰宅はどのような経緯で死の湾曲表現となったのでしょうか。
ChatGPT:
とても良い質問ですね。「無言の帰宅」という表現が、なぜ「死の婉曲表現(遠回しな言い方)」になったのかについては、言葉の由来や使われ方の変化をたどると理解しやすいです。
■ もともとの意味
「無言の帰宅」は、文字通りには「何も言わずに家に帰ること」です。
たとえば、ケンカをして口をきかずに家に帰る、というような場面にも使えます。
しかし近年(特に2000年代以降)、この言葉はネット掲示板やSNSなどの文脈で「死亡」を婉曲的に表すスラング として使われるようになりました。
たとえば:
敵にやられて無言の帰宅。
→(=キャラクターが死んで帰還した、つまりゲームオーバーになった)
■ 「死」の婉曲表現になった経緯
オンラインゲームやFPSなどで、プレイヤーが倒されることを「帰宅」「ログアウト」と呼ぶ文化が生まれました。
「無言」=死者の静けさ という連想
死者は言葉を発さない、というイメージが、「無言」という言葉に重なります。
「死んだ」と書くと生々しいため、冗談めかして「無言の帰宅」と書くことでトーンを和らげる目的もありました。
→ 同様に「天に召された」「成仏」「お亡くなりになった」なども同系統の婉曲表現です。
■現在の使われ方
つまり、実際の死から比喩的な“敗北・脱落”まで幅広く使われるスラングになっています。
■ まとめ
もしご希望があれば、「無言の帰宅」と同様に“死”を婉曲に表す日本語表現(たとえば「長い眠りにつく」「帰らぬ人になる」など)の一覧も紹介できますが、見てみますか?
とくに苦手ってことはない、普段質問してることはそれなりに正しく教えてもらえる
だからこそ 答えられない=知らない とかAIがこういってた=正しいになる
要は「物による」ってのが分からないままなんだろうなということ
実際のところ明らかに間違ってる答えを返された経験はあると思うけどな
それでもAIの応答を素直に受け取ってしまう程度にはダメ成功体験を積み重ねてるんだ
ちなみにこの増田を書くにあたってGPTで10パターンくらい試したんだが、なかなかに字面で推理してる挙動だぞ
データとしては慣用句としての「無言の帰宅」のが多いだろうに 無言+帰宅 の素朴な回答をよくやってる
ChatGPT:
「無言の帰宅」という表現は、ニュースや報道で使われるとき、本人や関係者が何も説明せず、沈黙したまま帰宅した状況を指します。文脈によってニュアンスが少し異なりますが、一般的には以下のような意味合いがあります。
職場や学校などでの出来事の後に、理由や経緯を話さず帰宅すること
ここでは「無言」が心理的な沈黙や緊張、戸惑いを表すことが多い
事件や事故、社会的な出来事に関わった人物が、報道陣や周囲の質問に答えず帰宅すること
例:問題が発覚した後に、記者の問いかけに答えずに家に戻るケース
「何も言わず帰る」=状況に対する無力感や諦めを示すニュアンスで使われることもあります
もちろん当たりもある
ChatGPT:
「無言の帰宅(むごんのきたく)」は、状況によって少しニュアンスが変わりますが、一般的に次のような意味で使われます。
家庭や職場などで、何も話さずに黙って家に帰ることを指します。
例:機嫌が悪くて「無言の帰宅」をした。
戦争や事故などで亡くなった人が、棺や遺骨となって故郷に戻ることを「無言の帰宅」と表現する場合があります。
この場合、「二度と声を発することなく帰る」という強い哀悼のニュアンスを含みます。
どちらの意味で使われているかは文脈によって判断されますが、ニュースや小説などで目にする場合は、②の「亡くなって帰る」という意味合いであることが多いです。
うちの母親もそうだったわ
銀行で印鑑が必要な時に見つからないからって机の上でカバンひっくり返したり
近所の家が夜騒がしいからって化粧瓶を二階のベランダから投げ込んだり
携帯の有料サービスに勝手にどんどん登録しちゃって解除方法がわからず、月何万も払う羽目になってたのを家族に隠してたり(当時高校生の私が見つけて解除した。困った時に相談できないのってIQ低い人に特徴的)
今後母親にトラブルが起きて実子の私に連絡が及ぶことがあったら、適切な支援につないであげたいとは思う、一市民として
それ以上でもそれ以下でもない
ところで「母親は頭が足りない」って言うと、一般に比喩的な罵倒と捉えられがちで「親になんてこと言うの!」とか「それは言い過ぎだよ」とか諌められるんだよね
実際に頭が足りなくて困ってきたのに
一人じゃないよ
相手の意見を聞いたときにどうしても反発したくなることがある。
だが頭ごと否定してしまうと、それ以上そこから学べることはなくなる。
コンテナ化というのは、本来はソフトウェアを動かすための技術で、アプリケーションとその周辺環境をひとつのまとまったパッケージとして切り分けて扱う方法のことだ。環境ごとの差異をなくし、必要に応じて持ち運んだり再利用したりできる。
ここでは比喩的に、他人の意見を前提ごと分離して保存しておくのをイメージすればいい。
つまりその人の立場や背景ごと、ひとまとまりのパッケージとして切り分けて扱う。
他人の意見を無理に取り込む必要もないし、拒絶して捨ててしまう必要もない。
このやり方を続けると、思考が衝突して疲れることが減る。
あとから別の場面で役立つこともあるし、結局は使わなくてもいい。
この文章を分解して解説すると、次のような構造になっています。
→つまり、生活保護を受けつつ、体力仕事をしている高齢女性を見かけたという描写です。
• 「命のメジャーで赤判定」=生命の危険度が高い状態を比喩的に表現
• 「腕が細くなってた急激な体重減少」=やせ細っている様子から健康状態が悪化していることを示唆
全体としては、知り合いの高齢女性がやせ細って危険な状態になっているのを見かけ、重篤な病気を心配している内容です。
•言葉遣いはかなり口語的で、思考がそのまま文章になった印象があります。
• 「命のメジャーで赤判定されそう」という表現は独特で、ユーモアを交えつつも危機感を示しているのが面白い。
• 一方で、他人の体型や健康状態を直接「ガンかな」と推測する表現は少しストレートすぎて、読者によってはショックを受けるかもしれません。
欧州では仕事9-17時、春1w(イースター)、夏2w、冬2wの海外旅行をして、貯金も貯まる。
ある年の冬、オフシーズンのギリシャに行った。空港からの地下鉄はストライキをしていて、駅員に聞いて乗り換えた。アテネの建物は古く、中心部はあまりきれいではない。
とはいえ、地区によっては瀟洒なアパートやきれいなブティックもある。当時、ギリシャ経済は最悪だったが、丘の上から夜景を眺めると、確かに明かりはG7の国の首都に比べれば控えめだが、それほどでもない。
アテネでは観光客らしくパルテノン神殿(ホテルの屋上からも見える。夜はライトアップされる)やそこらに点在する遺跡、プラカ地区の店やカフェを冷やかして周ったあと、車で時計回りに国土の南三分の二を一周することにした。
コリントスの地峡を渡って(シーサイドの道中、橋の夜景が絵になる)水かきのついた手の形をしたペロポネソス半島に着くと、酒屋で赤ワインを買って宿でバッカスに乾杯した。なお、近所にバーはない。ギリシャ北部で作られる、クシノマヴロという葡萄品種の酒は、中重口で優美でおいしく、瓶熟成も期待できそうな、輸出できる味だが、伊仏のそれと比べて安い。
朝は煮出した濃厚なギリシャコーヒーで目を覚まし、近くの透き通った海で英気を養う。
この半島は、内陸部はオリーブしか生えないような岩と乾燥土の荒れ地で、岩山のてっぺんに砦があったりする。寝坊したので、古代遺跡に着いたらすでに入り口は閉まっていたが、柵を乗り越え中に入って古代競技場の観客席に腰掛けたりはしない。
半島の先端に行ってみたが、住人のいない迷路のような道の村に羊が歩いていた。
スパルタの町は、道路に信号がなく、交差点では左右の車を阿吽の呼吸ですり抜けた。外国人でも通じるらしい。博物館の彫像は、ことごとく首なしか鼻欠けだった。征服に来た古代マケドニア人の仕業らしい。
いくつか小さな町に立ち寄ったが、海に近いのでシーフードがおいしい。
国道は片側一車線だが、路肩を使って二車線になっている。
夜、給油すると、係が、20%の消費税をぼやいていた。「政府が俺らを殺しているんですよ、メリークリスマス」
風が強かったが、フェリーに車を乗せてザキントス島に着いた。イオニア海はきれいな青緑色をしている。ここは、夏場は欧州一円から来たパリピの若者が夜通し遊ぶところだが、冬はクラブも閉まって静かだ。何もないので、カフェバーでビールをゆっくり飲む。
翌日、浜辺に難破船のあるシップレックビーチまで、道を間違えつつ辿り着き、崖の上から眺めた。鮭の切り身のような形の岩壁が突き出し、ここだけ色がひと際鮮やかなエメラルドブルーの海を区切っていて、有名な写真スポットだ。晴天だが風が強く、帰りのフェリーは欠航まちがいない。島を一周して宿に戻る道すがら、レストランで久しぶりに鯛を食べた。
半島に戻ると、橋を渡って、本土西側イオニア地方の丘の上の遺跡を歩いた。この辺りの国道はなにもない丘と低木の生えた乾燥地を抜けていて、車は時速100km以上ですっ飛ばして行く。
実はギリシャ本土は北に行くほど山がちで、スキーリゾートがある。これを知らず、車はノーマルタイヤだった。なにしろ、比喩的な心筋梗塞に襲われ、旅行の前日に思い立って航空券を買ったのだ。
メテオラという、ビルほどの巨大な奇岩が連なっている天辺に修道院が乗っている所に来た。修道院には、ロープウェイで物資を運んでいるらしい。
その後、オリンポス山を見に行ったのだが、雪に煙って見えなかった。バーに入って酒をたのんで話をしたあと、覚えていない。
ギリシャのトイレの水道管は断面が狭いらしいので、トイレットペーパーは流さないでかごに捨てることになっているところが多い。
朝食では、濃厚なギリシャヨーグルトに特産の蜂蜜をかけて食べた。いろいろギリシャ料理があったが、名前は忘れた。
一方通行の路地の片側にはびっしり駐車してあり、しかも一台分の割り当てが短い。慣れずに苦戦していると、「きみ、出るのか入るのか、どっち?」
この日、神殿を見にデルフォイまで行くつもりだったが、途中、雪が散らつき車を飛ばせず、峠に向かうと夜になり、固く引き締まった雪道に空は吹雪いていた。実は、車屋の親父が調子のいいやつで、タイヤチェーンをトランクに入れてくれたのだが、サイズが合わない。峠で唯一のホテルの前で、明かりを頼りに苦戦していると、主が出てきて、中でコーヒーを飲ませてくれた。結局、諦めてアテネに戻ることにした。途中の高速道路は新雪と融雪が斑なシャーベットになっていて、一台だけ時速60kmで進んだ。アテネに近づくと、辺りは雪の気配さえない。真夜中、アパートホテルの場所を探すのに、手間がかかった。
結論として、今度ギリシャに行く機会があるとすれば、北部の都市テッサロニキを見てみたいが、気温40度になる夏、あるいはたくさんあるうちの島のいくつかのビーチで寝そべって過ごしたいかといえば、よく分からない。もしかすると、クレタ島もいいかもしれない。