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はてなキーワード:武蔵野台地とは

2025-09-04

anond:20250904152356

夜を超える夢、夢を超える夢――その言葉を、私はいまも生田緑地の丘に立つとき思い出す。

 小田急線が丘のふもとを走り、その向こうに新宿摩天楼が霞む。春や秋の宵には、武蔵野台地のはてに東京の灯がちらちらと瞬き、湾岸の明滅と重なって、まるで大きな銀河のように見える。あの夜、彼はそこに立っていた。

 「この光を見ろよ。世界を照らすんだ」

 彼は烈しい声でそう言った。社会に侮られたと感じる魂の奥底から、どこか英雄の夢を引きずり出そうとするように。

 やがて彼は、その烈しさを収めきれず、ウクライナへ渡った。

 南ウクライナの大地は、春になれば黒々としたチョルノーゼム(黒土)の平原が続き、空はどこまでも広い。その平原に彼の姿はあった。SAS教官から授けられたと信じたナイフを携え、自衛隊で扱った軽機関銃を構え、そしてアニメ小説に見た幻影を己の背にまとっていた。

 「ベルくんみたいだろ」

 と笑いながら刃を振るう姿を、彼は動画にして送ってきた。その映像のなかの表情は、秋葉原の雑多な軍用品店で玩具の銃を抱えていたときの無邪気さと、なんら変わらなかった。

 だが、現実戦場は烈しい魂を顧みはしなかった。

 ロシア軍砲撃は、彼の信じた「死に戻り」を許さず、ナイフも、機関銃も、ただ鉄と火薬の奔流のなかに呑み込んだ。ニュースには「抵抗なく制圧」とだけ、冷たく記されている。

 思えば――この平和日本のなかで、烈しい魂はしばしば行き場を失う。多摩丘陵一角夜景を前に語った夢は、黒土の大地で炎となり、そして燃え尽きた。

 彼は誤ったのか。あるいは私たちが誤っていたのか。

 その答えを私は持たない。ただ、あの夜、丘の上から見た東京の光が、いまも私の胸の奥に残っている。世界を照らす灯だと信じた彼の言葉とともに。

ウクライナ多摩江ノ島相模湾箱根

地名を列挙しただけのようであるが、そこにはひとりの若者の軌跡が、まるで風土歴史に導かれるようにして刻まれている。

生田は、小田急線新宿国会議事堂といった政治経済の中枢に三十分もあれば届く近さにありながら、背後には江ノ島の白砂、さら箱根の峻嶺をひかえる

この「都会と牧歌結節点」ともいえる地で、彼は夢想したのである――己が「ロシアを倒し世界を救う電光超人グリッドマン」に変じる姿を。

多摩は古来、武士団発祥地でもあった。

坂東武者がここから都をにらみ、時に反抗し、時に吸収されながら歴史をつくっていった。

その風土が彼にとっての原風景となったのは、偶然ではあるまい。

彼は、東京の光の海を遠望しながら、そこに「なろう小説」の主人公栄光――極上の美少女たちに慕われ、社会を見返す人生逆転の物語――を幻視した。

同時に背後には、古き自然神秘を湛える箱根の山がそびえている。

権力牧歌文明自然未来過去。その境目に立たされるのは、若者の魂をして、しばしば極端な夢想へと駆り立てるものである

だが、夢想の果てに彼が選んだのは、ウクライナという「現代史のただなか」であった。

そこで彼は、自衛隊で鍛えた技能も、地下格闘技ジムで培った肉体も、また国内戦闘スクールで学んだ秘術も発揮できぬまま、砲弾の一撃に倒れた。

近代軍隊というものは、個の技を圧倒する巨大なシステムである

その前に人間は、藁束が風に刈りとられるように消えていく。

彼は「槍の勇者のやり直し」を夢み、「盾の勇者の成り上がり」を志し、グリッドマンとして悪のロシアを討つと信じた。

しか現実は、近代国家という冷たい怪物であった。

彼が嫌った官僚主義のものの鉄鎖の網にかかり、物語主人公ではなく、歴史の一頁にすら記されぬ無名兵として死んだのである

人はしばしば「なぜ彼はそこまで零落したのか」と問う。

だが問う者自身もまた、会社という装置にすり減らされ、生活に押し潰されているではないか

墜ちていく彼を笑うことは、結局は自らを嘲うことに等しい。

彼は、大人になることを拒んだ。

夢や野心を手放し、現実に折り合いをつけることを「成熟」と呼ぶならば、彼は永遠に子どものままでいたいと望んだのである

だが時は残酷で、人を少年の心のまま中年にしてしまう。

その矛盾の痛みが、彼を戦場へと駆り立てた。

私は友人として思う。

彼は夢に殉じて死んだのではない。

彼は、時代のもの矛盾を背負わされ、その果てに命を燃やし尽くしたのだ。

そう信じるほかに、友として彼を悼む言葉を持たない。

Permalink |記事への反応(1) | 22:02

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2025-03-18

anond:20250318115216

北区の良さは近隣住民けが知ってれば良い。

足立隅田江戸川江東代表するガチ東東京の土着民の柄の悪さはあまり無いけど、リーズナブル地価でなおかつ交通の便も良い。

武蔵野台地境界故の赤羽東十条近辺から十条への移動がダルい以外に欠点の無い楽園だ。

コスパ重視で本質を好む人間豊島区北区場所によっては板橋区も)を選ぶ。

Permalink |記事への反応(0) | 22:09

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2024-10-12

anond:20241006142441

23区のかなりの部分は山手すなわち武蔵野台地だぞ。

Permalink |記事への反応(0) | 20:14

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2024-08-09

動画

キャスター先生なら東京だとどこに家を建てますか?」

名古屋大学建築耐震専門家教授「私は東京には建てません。なぜなら、人が必要以上に集まりすぎているからです。災害観点で言うと田舎地震より危険です。どうしてもというなら、土地が低い場所土地が軟弱な場所は避け、平屋で壁の面積が多く屋根が軽い家を建てます。」

キャスター「じゃあ山の手武蔵野台地がいいんですね!」

専門家「ただ、山の手武蔵野台地でも安心はできません。まず鉄道は基本谷に作られているのです。地下鉄じゃない地上の鉄道は人が住んでいない所を通しています騒音振動があっても問題ない、人が住みたがらない所に建てられているのです。そういう場所リスクがあります

専門家「これから起こる首都直下地震災害を軽減するには、様々な対策があり一概にどうしろとは言えないのですが、もう東京の皆さんがリモート活用して地方に引っ越すことが一番早いです。特に賃貸の方は自由度が高いですから

専門家「あと言いづらいんですが、マンションより一戸建ての方が災害に強いです。マンション構造計算をしていますが、戸建は構造計算義務はないので、余裕を持った設計をしています。つまりマンション基準ありきですが、戸建は基準ではなく過去経験ベースで建てています建築基準法さえ満たしてればいいという建設法にしていないか、頭の隅に置いておく必要があります。」

「もしどうしてもマンションに住みたいということであれば、壁や柱の多い、使い勝手の悪いマンション安全性が高いということになります。」

出演者「じゃあなんで東京湾岸にタワマンが立ちまくってるんですか?」

専門家「それは、好きな人が多く需要があるからです」

出演者「じゃあ湾岸というのはヤバい場所なんですか?」

専門家「えー…まぁ…それは人よって解釈の違いはありますけど、私は嫌いです。」

番組通夜ムード

https://i.imgur.com/bAK9hsI.gif

https://i.imgur.com/xeyZula.gif

https://i.imgur.com/N1ENTLL.gif

https://i.imgur.com/JHfM25q.gif

Permalink |記事への反応(1) | 22:58

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2023-12-30

逆に東京文化はなんだと思っているか

スーパーセンタートライアル増田がバズってるけど、東京に住みたくて住んでる人間としてどの辺に東京文化的な良さを感じているかを書いてみたい

美術館とか博物館とかそういうのじゃないやつだ 東京/都市部文化という話になると馬鹿の一つ覚えみたいに美術館博物館を挙げてきてそれはただの消費だろバーカバーカみたいに言ってくる奴が後を絶たないが、はっきり言って意味不明ですね

言うてまあ、ノアスミスがだいたいのところは説明しちゃってんだけどさあ ここでは彼が語っていない部分を俺の主観に従って書きたい

参考: 「東京は新しいパリだ」/ノアスミス https://note.com/econ101_/n/nc0b8535512ac

俺が思う東京文化はなんと言ってもまずは地形だ

東京っつうのは江戸の跡地だから江戸時代の街の構造現代まで影響を残している まあ当たり前のことだけど、当時は基本的高台武家だの大名だのの屋敷があって低地には庶民生活の場があったわけだ(上野とか入谷とか鶯谷とかがきったねえ街になってるのはそういうことだよね)

東京高台っつうのはいわゆる武蔵野台地のことで、これは江戸城つまり皇居を端として西側に広がっている 台地と低地の境目部分は坂の多い街になっていて、そのへんはたぶん武家庶民生活が混じり合う地域だったんじゃねえかなという気がする そういうところは面白い街が多いように感じる 上野もそうだし、神保町とか御茶ノ水とか飯田橋のあたりとか、汚ねえけど日暮里の方とかだ 街ごとに個性と特徴がある 歴史を調べると色々な人間エピソードが出てくる そういう街にある商店街構造とか神社とか古い建物とかがどうしてこうなったんだろうと考えながら歩いてる文化っぽい気がするわけだ

あと武蔵野台地でも神田川目黒川が入り込んでるあたりは川に向かって低地になっていて、その周辺にはやっぱり下町と同じ町民文化臭いが残っているように思う 中目黒とか江戸川橋とかだな

完全に高台の方で旧東京市に含まれるあたりは分かりやすハイソな街が多くて、土地持ちの家に生まれただけの勘違いセレブママみたいなのがベビーカーチワワで風を切って歩いてたりしててまあいけすかない でも旧華族庭園屋敷に由来する施設がたくさんあってそれはそれで文化だなとは思うわ

江戸城の下町や旧東京市を越えた地区における文化はおそらく近代というか戦後にできてきたところなんだろうと思う その中でも、どっかのデベロッパー計画して作った街じゃないところは文化を感じますね 中央線沿線とか蒲田とかの大田区の方ですね ちょっと左巻きがキツいところもあるけど独自文化歴史になってるのはいいですよね

逆に東急とかがデザインした系の街はいまいち気に入らないんだよなあ 最近湾岸エリア再開発系もそう あんなの地方ロードサイドジオラマ東京近郊に持ってきただけだろって思う 麻布台ヒルズとかも同じだ 高級ロードサイドしかないだろ 文脈がないロードサイドなんてマジで文化の欠片もないと思うわ

あと東京郊外ダメっすね 歴史を上書きしてニュータウンを作りまくったけど新しい歴史根付くことはなかったって感じがする

要するに、歴史裏付けられた発展が俺に響くんですよ

その中のカスみたいな一部として自分がいると実感できれば、その流れに貢献しようとか思えるわけです

そういう意味では東京である必要特になくて、西日本の方とか、やっぱ何かしらの城下町が多いけど、東京に比べると規模は小さくてもそういう街ってたくさんありますよね そういうところも興味深いんですよ そういうところに住んでたらそれはそれで俺は満足だし文化的だなって感じると思う

でも仕事がないとか関東実家事情とか考えると住めなくて、結局東京以外に現実的選択肢がねえなってなる そういう感じなわけです

東京に住んでても美術館だの博物館だのにはたまにしかいかねえけど、かといって文化摂取してないとか郊外暮らしと変わらないとかは全然思わないんです

Permalink |記事への反応(2) | 23:48

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2023-09-21

anond:20230921144236

気候変動はますます進みそうだしハザードマップは気になるよ。東京ならやっぱり武蔵野台地上がええわ。

Permalink |記事への反応(0) | 18:05

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2023-07-29

anond:20230729012429

田舎田舎で、そこにしか無いもの文化見出して欲しいなと思うわ。

単なる田んぼとかカニとかロードサイドスーパーとかは日本全国同じで独自性がない。

もっとその土地歴史に育まれもの享受して欲しい。

東京文化だって、最新の流行り物とか美術館だとかコンサートだとかはまあそれはそれでいいけど本質ではないと思うんだよ。

東京歴史は地形に記憶されている。皇居を境にした低地と武蔵野台地とで町民と武家とが分けられていた江戸時代記憶が今でも残っている。そこから明治大正を経て戦争経験し、それぞれの時代に各地域が持っていた意味連続的に現代の街並みに繋がっている。

そう思えば鶯谷のクソ汚ねえラブホ街を見ても土地歴史とそこに生きていた人々へ思いを馳せることができる。

地方田舎だってそういうものは当然沢山ある。歴史を通じてマジでなんもなかったけど人口ボーナス期に勢い余って開発しちゃっただけみたいなところもあるだろうけど。カニもいいけど、その土地意味を個々人の視点解釈して発信して欲しいと思うね。

Permalink |記事への反応(0) | 18:50

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2023-06-26

anond:20230625143657

23区を一歩出ると隣はもう多摩地区なのな。杉並区の隣は武蔵野市三鷹市名前からし自然豊かな武蔵野台地地名だもんな。(それ言ったら杉並区中野区もそうだがw)

だいたい吉祥寺あたりが境になってるんじゃないかな。(武蔵境という駅もあるけど、今の行政区境界吉祥寺駅あたりだな)

Permalink |記事への反応(0) | 07:17

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2023-06-25

anond:20230624221212

増田がつまらないって切り捨てたマイホームが、望んだとてもう手に入らない人がどれだけいるか。一つ一つの「つまらない」家々にどれだけドラマがあるか。多摩歴史地理も知りもしないで、中央線の車窓から神の視線で見下ろして通過する風景しか見えない、お前がつまらないんだよ。

虚像の都会に憧れて地元を腐して、親のくれた環境に不満たらたらで「つまらない奴らとは違う」俺みたいなの、痛々しすぎる。若いならまだいいけど、年行ってたら本当やばいから

なんらかの専門的な知識があれば絶対にどこの地域だって「つまらない」なんて言わない。学術なりなんなり、自分フィルターを身に付けてない人間は何見てもつまらない。都心に出かけて何者か気取り?ダッセえんだよ。多摩ジブリ聖地にくる人間のがまだ中身があるよ。

いか多摩から国分寺崖線上まで自転車で一気にかけ登って、その心臓武蔵野台地を感じてからものを言えってんだよ

Permalink |記事への反応(3) | 17:50

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2023-04-18

anond:20230418075209

こはちょうど武蔵野台地の境目だから

武蔵野台地の上側(西)と下側(東)は基本フラット

Permalink |記事への反応(0) | 07:59

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2022-06-07

anond:20220606131432

川崎多摩区から中野区まで20kmちょっと自転車通勤一年ほどやったが、やっぱり天気の良い日でないとキツイし危ない。

武蔵野台地は崖線を登る時が辛いが、登ってしまうと台地で平らなので楽。

20kmなら疲れ切って出勤という程の運動量は無いと思う。(20代ならw)

ただ、やはり交通事故リスクは跳ね上がるので、それは承知している必要がある。

自転車通勤で楽なのは坂道の少ない10km以下の土地で、交通量の少ないルートを選べる場合だろうな。

Permalink |記事への反応(0) | 08:27

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2022-06-06

anond:20220606131432

学生時代バイト先に片道20km・1時間弱でクロスバイクで通ってたことあったけど、東京とはいえ坂と冬の風が地獄だった。

特に疲れた帰り道に向かい風で全然進まなくて、さら武蔵野台地との狭間あたりに幾多有る坂を越える時はきつい。

大阪東京西部みたいに平地ならいいけど、山の手あたりみたいに少しでも坂あるときつい。

あと、最低片側2車線+路側帯が広くて歩道もしっかりしてるような道を通って、かつ車道走らないと速度は出ない。

信号が多い路地はやめとけ。

夏は暑くて汗がひどくなるら、シャワーのあるバイト先で助かってた。

都心なら、シャワー施設会社契約フィットネスクラブやらあるから、出勤前にもシャワー浴びれるだろう。

結局、体力が付きようが自転車の性能に左右されるし、クロスバイク以外にもヘルメットサイクリングウェア含めた初期投資はそれなりにかかるし、

そのうち平均速度上げようとしてビンディングペダルもっと高いロードバイクと出費が増えていくので、金ケチるためにやるのは薦めない。

Permalink |記事への反応(0) | 20:06

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2021-08-16

anond:20210816215517

ウチのあたりは平地ではあるが低地ではないのでハザードマップ上でも全然問題なしだぞ。東京でも山の手から武蔵野台地杉並区あたりから西)はほぼそうだろ。

Permalink |記事への反応(0) | 22:03

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2014-03-09

首都圏の主要道路の変遷メモ

明治~現代の各時代の古地図が見れるサイトを見つけて、古地図&道路フェチとしましては、むさぼるように見入ってしまいましたとさ。

■今昔マップ on the web 首都圏編

で、主要道路がこれまでどんな変遷をたどってきたのか、知ることができた内容をメモ代わりに。



【おもな放射道路編】

東海道国道1号・15号)

池上通り

中原街道

綱島街道

  • 1900ごろ時点で綱島~六角橋の区間が原型存在。現在では旧綱島街道としてほぼ残っている。
    • 綱島以北は現ルートに相当する道はなく、代わりに、矢上を経由してガス橋通りに相当する道と、高田・子母口へ通じる県道106号に相当する道に分岐していた。
  • 丸子橋~綱島間は1940ごろ開通。ちなみに東横線開通のほうが先で1930ごろ。
  • 大豆戸~菊名間の新道は1940ごろ開通。菊名~浦島丘間は1960ごろ開通。

目黒通り

駒沢通り

国道246号方面(青山通り六本木通り・大山厚木街道

世田谷通り津久井

甲州街道国道20号



【おもな環状道路編】

内堀通り

  • 1900時点から現在と同じ道が存在している。
  • ただし二重橋前地域は、1970ごろ以前の地図では道路なのか広場の一部なのかがはっきりしない。

外堀通り

  • 淡路町鎌倉橋間に道ができたのが1930ごろ。それ以外の区間はほぼ全線に渡って1900時点で市電が走る道路だった。

外苑東通り

外苑西通り

明治通り

  • 古川橋渋谷区間。1900ごろ時点でほぼ原型あり。広尾付近は1930ごろに市電開通とともに1本の道として整備。
  • 渋谷~新宿区間。1900ごろ時点では、明治神宮前代々木付近に若干道があるのみでそれ以外は道らしき原型はなし。
    • 渋谷駅付近は、1960ごろに宮下公園東側が開通するまでは山手線西側の道につながっていた。
  • 神宮前新宿区間は1940ごろまでに開通。
  • 新宿~池袋区間は、1950ごろに開通していてそれ以前は道らしきものはほとんど無し。
  • (以東は省略)

山手通り

  • 北品川~大崎区間は、1920ごろに開通。1950~1960ごろにかけて大きな道へ整備。
  • 大崎~五反田間は1900ごろにはすでにあり、大崎駅の陸橋は1920ごろに陸橋化されて、その後何度か形状改良されている。
  • 五反田~大橋間は1950ごろまでに開通。
  • 鑓ヶ崎~神泉の現「旧山手通り」区間は、1900ごろ時点で現道と若干異なっているが原型が存在し、1920ごろにほぼ現道のルートで開通している。
  • 神泉~熊野町の区間は、1940~1950にかけて、もともと道がなかったところに一気に開通。
  • 渋目陸橋・菅刈陸橋ができたのが1960ごろ。それまでは、初台方面から南下すると現「旧山手通り」にのみつながっていて、中目黒目黒方面とは直結していなかった。
  • 熊野町~仲宿区間は1960ごろに開通。

都道420号

  • 現在進行形で今も絶賛整備中のこの道路。1900ごろ時点で存在するのは下記区間。
    • 戸越~五本木(現在と多少異なり武蔵小山を経由)、下馬~三宿~大山(北沢)、中野駅付近、哲学道~大山(板橋)
    • ルート上に「大山」という地名が2箇所あるため、ここでは「大山(北沢)」「大山(板橋)」と記述する。
  • 大井町付近は、1920ごろの大井町線敷設以降に徐々に整備。仙台坂トンネル開通は1990ごろ。
  • 戸越小・戸越公園の一角は、1950ごろまでの地図は「三井邸」と記されている。この下にトンネル開通させて大井町駅方面へ直結させる計画が2010時点着工中。
  • 国道1号中原街道目黒通り間の現道が開通したのは1960ごろ。
  • 目黒通り駒沢通り(=五本木)間は現在2014年時点で新道着工中。
  • 五本木~下馬区間は2000ごろ開通。
  • 下馬~三宿区間は、1960ごろに既存道路を拡幅・延伸して整備。
  • 三宿~大山(北沢)区間は、現在420号指定されている狭隘道路は1900時点ですでに存在する。拡幅&新道の計画があり、拡幅工事は現在着工中だが新道についてはまだ未整備。
  • 大山(北沢)~笹塚区間は2010ごろ開通
  • 笹塚~中野五叉路区間は1960ごろに開通。
  • 中野五紗路~新井付近1930ごろ現道開通。
  • 新井付近~哲学道区間の開通が1960ごろ。
  • 哲学道~大山(板橋)区間は1900ごろ時点から道があり、徐々に整備されている。

環七通り

環八通り

府中街道大師道・南部沿線道路・川崎街道

尻手黒川道路

  • 1900ごろ時点で原型が存在するのは、末吉橋およびその周辺、矢上~梶ヶ谷~清水台区間、柿生黒川区間。
  • 川崎駅末吉橋区間は、何度かルート変更されたのち、1960ごろに現道完成。
  • 末吉橋~子母口区間は1940~1960ごろに現道完成。
  • 子母口~梶ヶ谷~清水台区間は1960~1970ごろに現道完成。梶ヶ谷貨物駅完成が1970ごろ。東名川崎IC完成が1970ごろ。
  • 清水台~稗原区間開通が1980ごろ。稗原~王禅寺ヨネッティ付近は、神木本町方面からの道路として1960ごろ先に開通。
  • 王禅寺~山口台区間は1980~2000にかけて開通。
  • 山口台~津久井道区間は2010開通。
  • 津久井交差点から黒川方面へ直結させる短絡ルートが2010現在事業中。
  • その他、2006に元住吉付近で東横線と立体交差を逆にする工事実施

横浜麻生道路

  • 1900ごろ時点で、多少現道と異なるが全線で道路が存在。柿生から先は鎌倉街道府中方面・八王子方面へ直結していた。
  • 1930ごろ、東神奈川六角橋間の現道完成。当時は市電が走っていた。六角橋北側の一部区間の現道完成は1960ごろ。
  • 1960ごろ、津久井道交点が現在のようなT字路に路線変更
  • 1970ごろ、新川向橋付近の現道完成。
  • 1980~2000にかけて、池辺町~市ヶ尾間の新道完成。
  • 2000ごろ、市ヶ尾~鉄町間の新道完成。

国道16号八王子街道・町田街道方面



【その他、概況】

地形・丘陵

河川

2012-09-06

http://anond.hatelabo.jp/20120906020709

皇居は多分松本の地下シェルターと同じで大地震発生した時の緊急避難場所の一つじゃないか

関東大震災の時水不足だったことから皇居の池(湧水)を利用したという話もあるし、火災とかそんな理由じゃないと思う。

まあ千代田ってのは武蔵野台地の影響で耐震強度が強いけど、浦安方面のように江戸明治に埋め立てた所は地盤がグズグズですぐ倒壊するって話だし。

まず間違いないかと。

Permalink |記事への反応(0) | 03:16

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