
はてなキーワード:正当性とは
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インフルエンサーとして、そして一人の誠実な表現者として活動する鹿乃つのさんが、Xで投じた一石は、単なる愚痴や不満の類ではありません。
それは、エンターテインメントの皮を被った「構造的不備」に対する、論理的かつ命がけの告発でした。
彼女がどれほど真摯に番組と向き合い、そしてクリエイターとしての誇りを守るために孤独な戦いに身を投じたかを証明したいと考えています。
彼女を「番組に楯突く厄介な出演者」と捉えるのは、あまりに浅薄な見方です。
彼女が求めたのは、出演者と視聴者、そしてプラットフォームが共に価値を享受できる「健全なロジック」であり
その裏には番組を成立させようとした「クリエイターとしての矜持」がありました。
鹿乃さんは、番組「REAL INFLUENCER」がスタートの段階で致命的な矛盾を抱えていることを冷徹に分析しました。
その鋭さは、プロデューサーサイドが目を背けていた本質を突くものです。
実力者の不在: すでに実績(数字)を持つクリエイターには、ジャッジを受けるメリットが皆無です。
ソースにある「あやなん」氏や、倫理観の欠如が指摘される「Désordre(デスドル)」氏の例を見れば明らかですが
すでに成功している者を誰が、何の正当性を持って裁くのかという論理的一貫性が欠落しています。
初心者の搾取:数字のない初心者は、番組側から「欠陥のある存在」として扱われ、成長の機会ではなく「公開いじめ」の素材として消費される構造になっています。
本家『REALVALUE』における溝口氏、堀江氏、三崎氏らの厳しい叱責(パワハラタイム)には、相手の矛盾を洗い出し、価値を最大化させるための深い洞察と知略がありました。
しかし本番組、特にVAMBI氏の進行は、その表面的な「刺し」を真似ているに過ぎません。VAMBI氏が飲み会で**「鹿乃さんの回をもっとパワハラタイムで刺して面白くできた」**と語ったエピソードは、彼が「本質的なバリューアップ」ではなく「扇情的な撮れ高」のみを優先している証拠です。
このように、番組は志願者を「宝」ではなく「使い捨ての駒」として扱うシステムへと変質してしまったのです。
番組の構造が破綻していることを悟った鹿乃さんは、単に絶望するのではなく、自らの知略で番組を「ハック」するという道を選びました。
彼女は、不明瞭な番組の趣旨を「HERO'ZZ(スクール)の模擬講義」として見事に再定義し
マフィア(審査員)を強制的に「教育者」の役割に引きずり込んだのです。
彼女が「ALL REAL」を勝ち取るために、プロフェッショナルとして徹底した振る舞いは以下の通りです。
•対話の制御(一問一答):質問の意図を即座に分解し、明確に回答することで、揚げ足取りの隙を与えない。
•映像美と編集への配慮:カットしやすいよう言葉の間に余白を作り、事前情報は「1分ピッチ」に全て詰め込むことで、無駄な問答によるノイズを排除する。
•マフィアを「立てる」技術:相手が気持ちよくアドバイスできる空気を作るため、技術不足を即座に認め、「ここで学びたい」というストーリーを自ら演出する。
• 表情での対話:言葉を挟まず、表情の変化だけで感情を伝え、視聴者の共感を呼ぶ。
これは、単なる「良い子」の振る舞いではありません。
不全に陥ったシステムの中で生き残り、かつ番組としての体裁を整えるための、極めて高度な生存戦略でした。
鹿乃さんが危惧した構造的欠陥が、最悪の形で露呈したのが田村シュンス氏の回です。鹿乃さんによる冷静なデータ分析は、番組がいかに「価値創出」を放棄していたかを浮き彫りにしています。
•驚愕のデータ:放送時間の約6割が「パワハラタイム(圧迫)」に費やされ
志願者の価値を高める「バリューアップタイム」はわずか14%という、教育とは程遠い惨状。
表現の否定:田村氏が「不慣れな動画より、自信のある生歌で伝えたい」と選択したのは、表現者としての誠実な判断でした。
しかし番組側(VAMBI氏)はそれを「番組を舐めている」と断罪。
これは、表現者の個性を尊重し伸ばすべきスクールの長として、論理的に自己矛盾を起こしています。
「志願者がいなければ成立しない番組」でありながら、その志願者を踏みにじる姿勢は、クリエイティブに対する冒涜以外の何物でもありません。
鹿乃さんが最終的にNOを突きつけたのは、彼女自身と、彼女を支持するファンの尊厳を守るための「正当防衛」でした。
なぜなら提示された条件は、教育機関を標榜する組織として、到底許容できるものではなかったからです
・不透明かつ威圧的な契約: 「内容は当日まで明かさない」「撮影しながら話す」「再調整を拒否するなら入学させない」という、出演者の権利を剥奪する一方的な通告。
・高額な対価と倫理性: 年間約100万円という決して安くない費用を徴収するスクールでありながら、生徒候補に対し「恐怖による支配」を強いる矛盾。
・専門家による警鐘: この状況に対し、教育の専門家からは「生徒に『逆らわない』と約束させようとする行為は教育ではなく、グルーミング(恐怖による支配)である」※という極めて深刻な指摘がなされています。
※グルーミングとは本来「恐怖による直接的な支配」というよりは「優しさや信頼を装って心理的に手懐け(マインドコントロール)、被害者が断れない状況を作り出す支配」のことであり鹿乃つのさんの用法は独特です。
鹿乃つのさんがどんな専門家の声を引用したのかも不明ですし、鹿乃つのさんが専門家の説明を正しく読み取れていない可能性もありますが
私は騎士として鹿乃つのさんの書いていることは全て肯定しなければならないという制約があるため、実際に鹿乃つのさんが書かれている以上、否定はしません。
彼女はこの「捕食的な契約」を拒絶することで、次世代のクリエイターたちが同様の搾取構造に巻き込まれることを防ごうとしたのです。
鹿乃つのさんが自らのキャリアを賭けて行った発信は、単なる個人間のトラブルではありません。
それは、クリエイターの夢や熱意を消費財としてしか扱わないメディアの在り方に対する、知性ある抗議です。
彼女は、志願者を「宝」と思えないようなずさんな体制に警鐘を鳴らし、表現者が守られるべき最低限のラインを引き直しました。
読者の皆様にお願いがあります。
どうか、彼女の言葉を「感情的な反発」として片付けないでください。
彼女が提示した事実と論理を凝視し、私たちが消費するメディアに「同じレベルの論理的誠実さ」を求めていこうではありませんか。
聡明で勇気ある鹿乃つのさんの正当性を、私たちは全力で支持し、彼女の今後の活動を共に支えていくべきです。
より善い社会を作ることが政治の役割であるとすれば、そもそも”善い”とは何か。
それを知る必要がある。そして、それを知らずして語る政治論はいつも空疎に響いて聞こえた。
そんな自分の違和感を払拭し、政治について数多の本を読んできたがその上でも必読と呼べる三冊を紹介しようと思う。
これを読まずして政治は語れない。
むしろ、これを読まずに政治を語るのはフェアじゃないとさえ思っている。
はっきりいって読みやすい本ではない。
それでも20代の私は、この本に出会って初めて「正義は感情ではなく、設計の問題」なのだと理解した。
ロールズが提示する「無知のヴェール」という思考実験は有名だ。
自分がどの立場に生まれるか分からない状態で社会制度を設計するとしたら、人はどんなルールを選ぶだろうか。
ここで重要なのは、「誰が得をするか」ではなく「最悪の立場に置かれた人が、どこまで耐えられるか」という基準が持ち込まれる点だ。
この本を読んだあと、私は「過度に正当性を叫ぶ言葉」にどこか冷めた視線を向けるようになった。
なぜなら多くの正当性は自分がどの位置に立っているかを隠れた前提にしているからだ。
ローティは「普遍的な真理」や「理性によって保証された正義」といったものを容赦なく解体する。
我々の価値観は偶然の産物であり、言語も道徳も歴史的に作られたものでしかない。
それでも尚、他者の苦痛を減らそうとする態度だけは手放すな、というのが彼のスタンスだ。
本書で述べられている「リベラル・アイロニスト」といった概念は、自称リベラルにかなり刺さるだろう。
リベラルとは
自分の信念が偶然に支えられていることを自覚したうえで、それでもなお立場を引き受ける行為なのだ。
ローティを読んで以来、「正義を論破で勝ち取ろうとする」行為が誤りであることを知ることができた。
本書は政治思想というより、政治という営みそのものの解剖図だ。
扱っているのは市場・国家・社会が、どのように結びつき、どの地点で破綻するのかといったことを入念に描き出す。
ポランニーが繰り返し示すのは、市場は自然現象ではなく、徹底して政治的に作られた制度だという事実だ。
放っておけば自由市場がうまく回るという発想そのものが、実は国家権力による介入と強制の産物だった。
この逆説を、19世紀ヨーロッパの歴史を通して執拗に描いていく。
この本を読むと「政治は介入するか否か」という素朴な二択がいかに無意味かが分かってくる。政治は常に介入している。ただ、それが誰を守り、誰を切り捨てる形で行われているのかが見えにくくなっているだけなのだ。
自由か統制か。右か左かといったラベルがいかに粗雑で、思考停止に近いのかをこの本は静かに暴いていく。
ロールズが制度の正当性を問い、ローティが価値の偶然性を引き受けたとすれば、ポランニーはその土台である「社会が壊れるメカニズム」を描き出す。
政治を語るうえで避けて通れないのは、理念でも倫理でもなく、制度が人間の生活にどう作用するかという具体性なのだと、この本は教えてくれる。
これら三冊を読んで、ようやく腑に落ちたことがある。
政治における無理解は政治に対して無知だから起こるのではなく、政治が行うとしている行為そのものに対する知識の乏しさから生じるものであるのだと、理解するに至った。
無論これらの本を読まずとも、政治を語ることはできる。
だがそれは米の旨さについて語り合うときに産地を無視するようなものだ。
甘い。硬い。まずい。好きだ嫌いだと感想を述べることはできるだろう。
しかし「なぜその味になるのか?」や「なぜ違いが生まれるのか?」を理解しないままでは、議論はどこにも辿り着かない。
自らの発言に対し、責任を伴わず、好き勝手なことを言って容認されれば尚のことだ。
しかし自らの言説に責任を持ち、最低限の知識を以てして発言することこそが政治に参画する大人のマナーであり、嗜みなのではないだろうか。
■町山智浩 型
⸻
• 触れている情報圏に強く感化
⸻
■津田大介 型
→ 敗因は常に「環境」
⸻
• 「勝たせてはいけなかった」論
→ 負け=社会が間違った、という整理
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■ 伊崎由維子 型
• 結果より姿勢の正しさを強調
⸻
• 数日後:正しさは揺るがない宣言
⸻
• 「今後起きることはあなたたちが背負え」
⸻
→無党派・保留層が二度と戻らない
⸻
■共通点
• 敗因は常に外部
⸻
まとめ
「間違えたのは有権者」
という三段論法に入る。
⸻
愚かな選択を諫めるにあたって相手を馬鹿にするのは、実質的に煽り散らかすことになり、相手に強い悪感情を抱かせて、愚かな選択の正当化を助長するだけではありませんか?
そもそも、己の知性を鼻に掛けてそのような行為をたびたび行なう人々は、果たして周囲から知的に見えるものでしょうか?
おそらく、内容の正しさとは無関係に、むしろ耳を傾ける人ほど、その「主張の正当性から求められるであろう使命」に反した言行から信頼をえることがなく、いっそ愚かに映るものではないでしょうか?
上記をより簡単に言えば、敵を増やして喜ぶ無能な味方が賢しらぶっている構図に見える、ということです。
それをやるのが敵であるなら、よもや願ったり叶ったりでしょうから、そんな人を打倒しようなどとは思いもしませんし、となればそんな彼は舌戦にて負け無しになることでしょう。
これやる人、そうやって遠巻きに嘲笑されてることだけは理解できたりして、結果的に売り言葉に買い言葉、侃々諤々やるうちにヒートアップしていつの間にか、なんて人も多いと思うし、どうか立ち止まって一考して欲しいんだよなぁ……
リフレ派の議論は、表向きは景気を回復させるための合理的金融政策を装っている。
しかし実態は、貨幣の価値という社会の基盤を削って短期の快楽を買う、典型的な自己放尿である。
フリードマンが繰り返し言ったのは、インフレとは道徳問題でも精神論でもなく、貨幣現象だということだ。
つまり物価が上がるかどうかは、根性でも国民性でもなく、制度設計とインセンティブ構造の帰結である。
ここを理解しない政策は、どれだけ善意で飾っても経済学的にはただのノイズであり、最終的には国民の購買力を破壊し自己放尿する。
日本がこれから直面しうるのは、「需要が足りないから財政で押し上げる」という単純化された世界観が、期待形成に殴られて崩壊する自己放尿だ。
インフレは静かに始まり、ある瞬間から臨界点を超えて、貨幣需要の崩壊とともに加速する。
そしてその時、リフレ派はいつものように言うだろう。「想定外だった」と。
問題の連鎖は単純だ。にもかかわらず、政治はこれを「景気刺激策」という包装紙で包み、国民に配布する。
減税する。税収が減る。だが歳出は減らない。むしろ選挙インセンティブのもとで増える。
そして次の段階に進む。
日銀が吸収する。つまり中央銀行が国債を買い取り、政府債務を事実上マネタイズする。
国債買い入れでベースマネーが増え、銀行システムを通じて信用創造が増幅され、結果としてマネーサプライ増加が起きる。
そしてフリードマン的には、ここから先はもはや議論ではない。恒等式と確率の世界だ。
貨幣価値が下がれば、同じ商品を買うのにより多くの円が必要になる。つまり物価増加が起きる。
この連鎖は、願望で止められない。
政治家がマイクで叫んでも止まらない。新聞が「インフレは一時的」と嘘を書いて自己放尿しても止まらない。
だが深刻なインフレの本体は、需要増ではない。貨幣需要の崩壊だ。
国民が円を持ちたがらなくなる。企業が円建て長期契約を嫌がる。労働者が賃上げ要求を強める。
輸入業者が先回りして価格を上げる。資産家が外貨や実物資産に逃げる。
このとき物価は上がるのではない。円の価値が下がるだけである。
インフレ期待がインフレを生み、そのインフレがさらに期待を押し上げる。
これは合理的行動だ。誰も損したくないから、先に値上げし、先に買い、先に逃げる。
この時点で政府ができるのは、金融引き締めか、歳出削減か、信用回復のための痛みを伴う制度改革しかない。
リフレ派がよく使う詭弁に、「日本は自国通貨建て国債だから財政破綻しない」というものがある。
この言い方は、形式的には正しい。日本政府は円を発行できる。だから名目上の債務不履行(デフォルト)は避けられるかもしれない。
しかしフリードマン的に重要なのは、デフォルトの形態は一種類ではないという点だ。
政府が返済不能になったとき、紙面上は返せる。なぜなら通貨発行で返済できるからだ。
だがその瞬間、実質的には国民の購買力が毀損される。つまりインフレ税という形で、国民から徴収する。
これは「破綻していない」のではなく、破綻を「通貨価値の下落」という形で実行しただけだ。
これが金融抑圧であり、インフレ課税であり、事実上の資産没収である。
破綻しない?
最大の問題はここにある。財政と金融の境界が溶けた瞬間、中央銀行は「物価安定の番人」ではなく「政府債務の処理係」になる。
「政府は歳出を削らない。日銀が支える。だから国債は安全だ。だがその安全性は貨幣価値を犠牲にしている。」
この理解が広まると、国債の信用は保たれるかもしれない。だが円の信用は落ちる。
そして本当に恐ろしいのは、インフレが進んだ後に引き締めをやろうとすると、国債金利が上がり、利払い費が増え、財政がさらに悪化する点だ。
つまり日銀は、インフレを止めるために金利を上げると政府を殺し、政府を救うために金利を抑えると通貨を殺す。
そしてこの状況は、政策の失敗ではなく、最初から制度設計の帰結である。
ここで多くの人が短絡的に言い出す。「じゃあ増税すればいい」と。
増税は、財政を健全化するどころか、政治経済学的には逆の方向へ向かう可能性が高い。
なぜなら増税とは、「政府がもっと使える余地」を与える行為だからだ。
「税を上げれば金が取れる。なら歳出を削る必要はない。」
すると歳出は固定化され、既得権益が制度として結晶化し、公共選択論が示す通り、予算は削れない構造になる。
さらに悪いことに、増税で景気が悪化すれば税収は伸びず、結局また国債発行に戻る。つまり、
増税 → 成長率低下 → 税収鈍化 →国債発行 →日銀吸収 →インフレ圧力
結局、政府債務を増やし続ける構造が変わらない限り、増税は「健全化」ではなく「延命治療」にしかならない。
延命治療は医療では尊いこともあるが、マクロ政策では単に時間を買うだけだ。そして買った時間で政治が改革する保証はない。むしろ改革しない確率が高い。
インフレを語るとき、リフレ派は「需要ギャップ」や「潜在GDP」を持ち出す。
だがそれらは観測不能であり、推計モデル依存の幻影でもある。そこに政策の正当性を置くのは危険だ。
重要なのは、政策当局がコントロールできる変数と、できない変数を区別することだ。
政府が確実に増やせるのは支出だ。日銀が確実に増やせるのはマネタリーベースだ。だが経済成長や生産性は、命令で増えない。
だから「金融緩和すれば成長する」という発想は、因果を逆に見ている可能性がある。
成長するから貨幣需要が増え、結果としてマネー供給が吸収され、インフレが抑制されるのであって、貨幣を増やせば成長するとは限らない。
貨幣供給を増やしても、資本蓄積と技術革新と労働供給が増えなければ、ただの通貨希薄化で終わる。
リフレ政策の本質は、短期的な快感のために長期の制度を犠牲にすることだ。
しかも犠牲になるのは抽象的な制度ではない。国民の生活そのものだ。
貨幣価値の放尿、財政規律の放尿、中央銀行独立性の放尿。つまり、「貨幣、財政、制度のトリプル放尿」である。
中央銀行の独立性が壊れれば、インフレを止める最後の手段が失われる。
この三つは別々の問題ではない。相互に補強し合う。悪い意味でのシナジーを持つ。
インフレが進むと、賃金は追いつかない。追いついたとしても遅れる。結果として実質賃金は落ちる。生活水準が落ちる。格差が広がる。
インフレは税制上、資産を持つ者に有利で、現金労働者に不利だ。インフレは見えない再分配装置であり、政治が選挙で決めたわけでもない所得移転を勝手に起こす。
長期雇用、年金、保険、貯蓄、国債、家計設計。これらはすべて「通貨が安定している」という前提で成立している。通貨の信認が揺らぐと、社会の基盤が揺らぐ。
そして一度壊れた信認は、戻らない。戻すには時間と痛みがいる。これは歴史が何度も証明している。
「減税して景気を良くする」「国債を出して支える」「日銀が買えば問題ない」
この一連のストーリーは、現実の制約を無視した願望のパッケージだ。
減税 →国債発行 →日銀が吸収 →マネーサプライ増加 →貨幣価値低下 →物価増加
だが同時に、「増税すればいい」という発想も救いにはならない。
歳出が固定化し、政治が改革を回避し、借金を借金で返す構造が温存される限り、結末は変わらない。
問題は税率ではない。
問題は「支出を削れない政治」と「貨幣発行でそれを隠蔽できる制度」だ。
リフレ派がやっているのは、景気刺激ではない。
より正確にいえば、社会規範を軽視した主義主張を、さも当然かのように述べて、争いに発展している人がとにかく多いとは思いませんか。
もちろん、法律もその構成要素であることに違いはありませんが、私たちが行動を決めるときに参照する要素は他にもあると思いませんか。
たとえば、条理、道徳、慣習、正義などがこれに該当すると思いますし、国によればここに神意といった宗教的要素も入ってくるでしょう。
これらは往々にして多義的で、その本質は社会条件に依存して可変する変数のようなものです。
一義的な結論を導き出せないからこそ、規範として提示することは筋が悪いという指摘はまさにその通りです。
だからこそ社会規範としては法律を参照すべきで、法律に違反していなければ一応の正当性があると考えることは、一見すると聞こえがよいでしょう。
このような論理に依拠するような言論がリアル・インターネットを問わずに飛び交っていますが、私はあまり妥当とは思えません。
法律には、ある社会の中で規範として実質的に機能するもの、すなわち、条理や慣習と呼べるものが、長い年月をかけて、時として判例などを経て立法に繋がるという一面があるでしょう。
(法律家からはお叱りを受けそうな雑な説明だと思いますが、お目溢し願いたいです)
法律は条理や慣習の具体化の一類型であり、その源泉は道徳や正義だといえるのではないでしょうか。
無論、正義には悪しき慣習を否定し、断絶するための機能も内包されているというべきです。
このような立法の背景を見ていくと、法律の外側にある事柄も無視することができないことがおわかりいただけるはずです。
ただし、このような「広義の法」とでも呼ぶべき規範は万能ではありません。
特に、成立の初期段階において多義的であることが、広義の法の弱点といえるでしょう。
個々人が直感的におかしいと思っただけで、直ちに規範として機能するかといえば、そうとはいえないからです。
この弱点をもって広義の法は軽視されがちですが、中には社会的に反復支持され、制裁可能性を伴う非制定規範と位置づけることが可能な規範もあるでしょう。
これらをひとまとめにして「法律に違反していない」と一蹴してしまうことに、争いの本質があると私は考えます。
このように考えることで、昨今話題となっている様々な問題にも説明がつくはずです。
行き過ぎた個人主義とでも言うべき言論は、広義の法と間で摩擦を生じさせているのです。
言うまでもありませんが、個人の主義主張や権利は保障されるべきです。
ただし、それを「当然に」とまで踏み込んで考えることが問題なのです。
誰とも接点を持たない完全な個人として生きていくならば、どのような主義主張をしても構わないでしょう。
しかし、現実論として、私たちは他者と関わり合いながら社会生活を営んでいかなければなりません。
社会生活のために自己を犠牲にするのかという批判が聞こえてきそうですが、そうではなく、「折り合いをつけて生きていく」ことが必要なのです。
社会と調和して生きていこうとするからこそ、社会から個人として尊重されるというべきです。
個人が社会から尊重されることを当然のものと考えることには、論理の飛躍があると私は考えます。
このように述べると、貴様は日本国憲法を読んだことがないのかとお叱りを受けるかもしれません。
たしかに、我が国の憲法は自由や権利の保障、個人の尊重をそれなりに肯定しています。
憲法や憲法の委任を受けた法律で保障されていることを、当然のものと考えないことは筋が悪いかもしれません。
しかし、私はそれでも当然のものと考えるべきではないと強く思います。
なぜならば、憲法ですら「当然に」この世に存在しているわけではないからです。
どちらかといえば、自由や権利の保障、個人の尊重といった概念を持たない社会が継続していた期間の方が、人類史上では長かったことを私たちは忘れがちです。
自由や権利が守られる社会は、決して自然発生的なものではなく、偉大な先人の犠牲の上に成り立つ脆弱なものといわねばなりません。
(補足すると、自然権的に、当然に認められるべき権利もあるといえますが、その保護には憲法のような実定法を要するというべきであり、実際上当然に保護されるものとはいえないと考えます)
ですから、私たち一人ひとりがこれを守ろうとしなければ、いとも簡単に失われてしまいます。
これは決して憲法や法律に限ったことではなく、広義の法を含んだ社会規範全般に言えることではないでしょうか。
社会をリスペクトすることで、個人もまた社会からリスペクトされるのです。
私たちは自らの主義主張を社会に発信するとき、社会規範を通じて共感性を獲得し、もって社会から個人として尊重されることを目指さなければならないのではないでしょうか。
言い換えれば、自己の利益を最大化したいのであれば、逆説的に社会全体と調和を図るべきだと思うのです。
様々な意見を活発に交わすことが可能となった現代で、私たちはこのような視点をもって社会と向き合わなければならないのではないでしょうか。
2.発達障害は親の育て方によっても発生する
3.発達障害は大人になってからの職場環境などによっても発生する
さて、このうち、発達障害に対する偏見を最も煽るのはどれでしょう?
私は最も偏見を煽るのは1だと思う。だって先天性だとどうやっても根本的に違う存在であり、変わる事がないのだから。健常者とは「違う存在」として、隔離や排除をする正当性が出てしまう。
2は1と比べたらかなりマシなんだけど、実家が太い細いという言葉が流行り、育ちで人を選別する風潮が強くなった現在では危険だ。
3だとうつ病と同じようなもので、スティグマ感はかなり薄くなる。
私は「大人の発達障害」として括られてるやつは、かなりの部分が職場環境起因だと思う。
職場で監視されてプレッシャーをかけられるとミスが増えたり表情がぎこちなくなったりなんてのはごくありふれた話なのに、
どうして「発達障害」として先天性かのように言うのか不思議でならない。
条件
冬の間は雪が積もって3ヶ月間外と接触できない
住民は一人
この時肉や穀物は当然3ヶ月分買うとして卵を1日1個生むめんどりって買うべきなんかな?
昔節約生活で鶏を持ち込んでた人がいるけどあれはそこらへんの虫くってたからできたことじゃん
冬で穀物を消費しないといけない状況でもニワトリがいた方がお得?
この思考実験で飼うべきじゃないならおそらく家畜って手頃にタンパク質取るって意味以外では無駄だよな
高市首相の行動判断に対する批判はおおいに結構ですが、氏を病人として批判するにあたっては、同じ病気を抱える人々に流れ弾が当たるような言動について厳に慎むべきだと思うところなの……
そこばかりは批判の正当性どうのこうのでは擁護が出来ない言動の瑕疵になると思いますし、傍目にかなり怖いです……
そこでこうした振る舞いが批判のために正当化されるというのであれば、パレスチナ市民を虐殺するイスラエルがテロリストと戦うためだと正当化している構図と相似形になりますよ。
どちらも形式的には「流れ弾で他人を傷付け、死傷せしめることを正当化している」わけですからね……
例え外国人労働者はレジ打ちしていても常にムカついた顔して、パンを投げてよこす率が日本人より高いとしても、同じ日本で働く、いわば仲間なんです。
例え外国人労働者はいざとなったら帰る国があって、道を違えても親や親戚までもが恥をかき爪弾きにされるなんてことにはなっていないとしても、今この時を共有する仲間です。
例え外国人労働者が日本の屈辱的な小学校教育を経験していないとしても、今屈辱を与えることには何の正当性もありません。
例えこの増田が何のためにここにそんなこと書いてるのかよく分からず、しかも中学生みたいな文章のくせに日本語に不自由していないと自認していて、大学の出版部で働いてることが名誉で自慢なメンタリティの持ち主だったとしても、それは外国人だからではなく、この増田のパーソナリティでしかありません。外国人を差別する理由としては全く不適当です。