
はてなキーワード:歌舞伎役者とは
そこまで重く考えなくてもいいんじゃない?
飲食店なら皿洗いとか、水やコップの補充とか、小学生からできる事はたくさんあると思うよ
(飲食なら衛生に注意した上で、は前提として)
手伝わされるから自営は嫌って話も聞いた事あるけど、毒親は違うでしょ
会社がクソブラックっていうか、帯状疱疹になっても休ませてくれなかったりとか更年期ババアA.Y.のヒステリック八つ当たり喰らったりとか事なかれ主義の上司とかそういう全てのことに愛想をつかして限界が来たというか、そういう理由で次も決まってないのに突発的に仕事辞めてニートになった。心的にはもうちょっと耐えられた気がするけど逃げる判断できるうちに逃げといた方がいい気がしたので逃げた。
この判断が正解だったってことにはあとでするとして、とりあえず有休消化中で暇になった。でも友達は結婚しちゃったり海外だったり消息不明だったりで数人にしか会えないので、どうしてもおひとり様時間が増える。折角なので気になってたカフェとかイベントとか色々行ってみたけど味気ない気がして、どうしようかなって思った時にgooglemapの噂を聞いた。
“googlemapのローカルガイドランキングで一位になると特別な特典がもらえる”
マジか。よく分かんないけどタダでもらえるものはなんでもほしい。無職でお金ないし。
というわけで一位を目指すことにした。
で、そもそもローカルガイドって何って話なんだけど、これがよく分からない。
まぁ多分だけど、「実際にその店を利用した上での忖度抜きの感想と気付きをこまめに口コミ投稿してくれる暇人」のことをカッコよく言ってるだけ。
で。とりあえず、点数稼ぐためにまずは行ったことのある場所を思い出して口コミ書いていったのよ。
【ここの店員さんすごい親切で大好きです。一緒に選んでもらった眼鏡気に入りました!ありがとうございます♪】
【ここの海鮮丼めちゃくちゃ量多いのでお腹すかせていったほうがいいです。11:00には列ができてるので来るならお早めに!】
【銀座で1000円ランチなんて安いなって思ったらクラブのママさんがお得意様向けにやってるお店でした。歌舞伎役者と麻生太郎みたいな人がいっぱいいました。】
【ここで買ったブドウ1日でカビました。衛生管理どうなってんの】
…
途中から飽きてきて適当になったけど、とりあえずその日だけで10件は投稿した。でもやっぱり適当すぎると閲覧数もそんなに稼げないし、ハートとか合掌とかでリアクションしてもらえないんだよね。だから投稿する時に、口コミ読む人は一体どんな情報が欲しいのか想像しながら書いた。
と言ってもそんなに立派なものじゃない。私は現金持たない派なので、支払いはカードやモバイルバーコード決済も使えるのかとか分かるんなら嬉しいなと思って、そういうことを書いた。
そうしたら閲覧数伸びるんだよねえ。あっという間に5桁になった。
その時、この店でカード決済とかができるのかが気になってgooglemapで調べてる人ってわたし以外にもいるんだ〜って、そんな小学生みたいなこと思ったりした。
それからは食事に行った時とかはもちろん、ふらっとカフェに入った時とか、出先で寄ったスーパーとかスギ薬局とかよく分からない駄菓子みたいな名前したコインランドリーとか、そういうところにも口コミを残すようになった。閲覧数を伸ばすために試行錯誤して、一つの口コミに支払い方法や提供時間、店の雰囲気とか複数の情報を入れるようにした。
特にカフェとかレストランは、今までメニューから食べたいもの選んで食べて満足して終わってたけど、店の様子とか店員さんの対応とかを観察して、子供連れでも大丈夫かとか、車椅子でも大丈夫かとか、駐車場何台あるのかとか、そういうことも確認して、今までは取らなかったけど料理の写真や動画も撮るようになった。わたしの口コミ見る人に分かりやすいって思ってもらえるといいなと思ったから。
そうしたら、自然と店のお客さんが目に入るようになった。当たり前なんだけど、わたしが店にいる時に居合わせてる他のお客さんもわたしと同じ人間で、わたしと同じように、この店カードとかPayPay払い使えるのかなとか、混んでないかなとか、そういうこと考えながら無数の意思決定をしてこの店に来たんだ、世界にはこんなに人がいたんだって実感した。勿論理屈としては分かってたんだけど、ノイキャンして無意識下に置いて忘れてたものを再認識してびっくりしたような感じだった。世界には沢山の人がいて、キャッシュレス決済ができるかどうかとか、子どもが少し大きな声を出してしまっても急いで退店しなくて良さそうな雰囲気なのかとか、入り口にある20cmの段差の存在とか、そういうのを知りたい人がいるんだ。
そんなこと、本当はフツーのことなんだけどね、ほら、ニートって外出ないから自分以外の人間見ないし世界に自分しか居なくしがちじゃん。だからそんなフツーのことも忘れちゃうんだろうね。
それからはチャッピーに助けてもらいながら英語文でも投稿してみたり、トイレ綺麗じゃないと使えない人もいるかなって思ってトイレの綺麗さレビューとかもしてみたりしてる。
今レベル10まできた。レベル40ぐらいの魔王みたいなローカルガイダーを見かけて戦々恐々としてるけど、レベル上げしていつか倒す。一位は私のモンだよ。まあ別にもし一位になっても別に何ももらえないとしてもいいんだ〜、人生、何かを信じる余白ぐらいあってほしいじゃんね〜。
変なところで見栄はってローカルガイダーレベル盛ったら綻び出て大恥 ごめんがんばってるけど本当はまだ全然雑魚で上限知らんかったんや…すごい人の魔王感出したかったんや…
写真や動画も投稿してるけど他のお客さん映らないように撮るのむずくない??
Permalink |記事への反応(15) | 21:52
すげーーわかるけど歌舞伎役者メインで出すなら松竹じゃないと作れないと思うし、松竹だとあの内容は出来ない気がするんだよなあ
まず歌舞伎俳優でもない役者が歌舞伎俳優を演じられるってことが、歌舞伎はその程度のものだってことだ。
次に映画の中での「すごい演技」は全部映画的なエフェクトや効果音を足して盛ったものであり、演出を足さない素の歌舞伎は鑑賞に堪えないレベルのものだってことだ。
稽古のシーンも駄目だったな。
姿勢が悪いだの台詞に感情がこもってないだの単なる昭和スパルタの根性論であり、具体的に何がいい演技なのか全然示せていない。
そもそも「歌舞伎役者は結局血筋だ」とか「週刊誌などに振り回されて役者への評価が時代でころころ変わる」とか「ただ長く続けてりゃ国宝なのか」とか
歌舞伎業界の醜さやいい加減さを描いている映画でもあったので、それでいいのかもしれないけどさ。
実力は戦前でも圧倒的に職業野球のほうが上だった(六大学の名選手が職業野球に行くのは「挑戦」だったし、「入団してすぐ次元の違いに青ざめる」という感じ。つまり実力面では今のアマチュアに対するプロ野球の構図と何ら変わらない)
そしてプロは当時からちゃんとビックリするくらいの金貰ってたよ
六大学野球は当時のスター選手が大物歌舞伎役者に可愛がられて神楽坂の置屋とか料亭に連れてって貰える、とかその程度だったけどプロはそんなレベルじゃなかった
なんなら職業野球もちゃんと大人気で、早慶あたりの花形プレイヤーでも「なれるもんならなりたい」と憧れるような仕事だったんじゃないかとまで疑ってる
昨日国宝を見てきた。
私は京都で「元芸者が経営する祇園のラウンジバーで4年間の勤務経験がある」現オタクです。
映画は1回観ただけ、原作小説は未読。感想をどこかに殴り書きしたいけどネタバレ考慮もしないとなので、ツイッターとは切り離されたここに置いておく。
映画の国宝は「龍が如くみたいな舞台で歌舞伎もドッキング」した感じのストーリーなのだと思った。
なんの予備知識も入れずに行ったので、「歌舞伎役者同士の派閥てか屋号…?の争いなのかなあ」と思っていたら、いい意味で裏切られたし、歌舞伎のことあんまりわからない私でもすんなりとストーリーが把握できた。
以下、思ったことを書きなぐるだけなのでネタバレあり。ストーリーの順番とかもぐちゃぐちゃです。
思ったことその1【登場する人全員終わっててマジで人間臭くていい】
御曹司俊坊(これ、しゅんぼうってあだ名よね?そう聞こえていたけど、違ってたらすみません)が生まれながらにしてボンボンとか、苦労を知らない血を持つ人間って捉えられがちだけど、主人公の顔面国宝吉沢亮さん演じるきくちゃんも、組の息子という点でボンボンなのでそれなりの行動しててなんか……めっちゃひやひやした。
もっと姐さん(寺島しのぶさんが演じる、俊坊のお母さん)に筋通しなよ!とか、挨拶ちょっと遅すぎない?とか、その服装(紫のシャツ)はど、どうなのかなあ?っていけずババアの気持ちになった。きくちゃんは桐生さんではなくて、錦の一面も持っている。結局歌舞伎に夢中になったためすんごい肝の据わった男になったけど、「すぐ人と喧嘩する」「いいなと思った女は全部手を出す」「家族よりも自分のやりたいこと優先」って時点できくちゃんも終わってた。
俊坊もまあまあ終わってる。まさにボンボン。私は歌舞伎に対して「俊坊みたいな人ばっかだろどうせ!」と偏見を持っていたが、その偏見ど真ん中ステレオタイプの歌舞伎っぽい人である俊坊がいてくれたから、この映画に没頭できた(のちに観たインタビューで寺島しのぶさんが「血筋だけじゃなくって、才のある外部の人も取り込めたら、歌舞伎界は変わるのになあ!」みたいなことをおっしゃっていたのでガチさがいよいよ増した)。
二代目半次郎さんも、すごくすごく終わってる。もうやりたいこと全部盛りの大御所だし、くたばる前に「世襲間に合わせたい!」みたいなの本当にいいな。そもそもきくちゃんのパパ立花組に「今後もどうぞごひいきに」って新年のご挨拶してるってことは、そ、そういうつながりがあるってことでしょ。原作未読だからわかんないけど、歌舞伎という伝統芸能とお背中お絵描き組のつながりは結構「なんかようわからんけど闇深そう」でいい演出だと思った。
半次郎さんの奥さん、俊坊ママも強い女で憧れはあるものの、それでも「母親」というのがものすごくわかるし、つらいよねえ…。もし俊坊ママが「丹波屋」のことしか考えていなかったなら、きっと早々に俊坊はダメになっていたのかもしれない。この映画に出てくる女性、みんなクソ強くて大好きだ。
思ったことその2【登場する女がめちゃくちゃ強い。あとあきこがマジでくだらねえ】
さっきも書いたけど、俊坊ママ(お名前忘れたので調べたらさちこさんだった)がくそ強い。あの演目始まる前のさ、ロビーみたいなところでご贔屓さんたちに声かけて頭下げてるあの立ち振る舞い、もうクラックラするほど強くて好き。私自身がそういう横のつながりに苦手意識のある性格だから、「面倒そうなのに毎回ちゃんとやるの、女将さん本当に強いわ」ってなった。
そして上京したきくちゃんにまずはいけずをかますやつね。これがないと、関西の強い女じゃないよなあ。でも結局「お腹空いたやろ。ご飯にしよ」って優しくするのよね。「ちゃんとしてる人」には情があって京都の姉さん(一緒に働く先輩のこと、ほんとにこう呼んでた)とお母さん(ラウンジバーのママ、元芸者)大好きだったよ。
春江もすごい。あの頃のホステスさんってなんか大変なんですよね?龍が如くで学びました。でも好きな男を追って(あの時点ではきくちゃんのこと好きだったと思う)つらい仕事も続けて一人暮らしして、春江ちょ~強いわ。高畑充希さん、マジでミュージカル好きだから半分「歌ってよ春江ちゃん!」って思ったもんね。
そのあときくちゃんとおそらく?付き合ってたけど、きくちゃんの稽古見てから「これは添い遂げたい人じゃない、推しだ」ってなってプロポーズかわすのも強すぎる。そうなんだよね、きくちゃんは誰のことも幸せにしてやれないし、自分だときくちゃんが欲しい「血」はあげられないから身を引くのだ、これでこそ最強の女春江だよ。推し活として美しい形すぎる。しかも、俊坊が弱ってるのを見て「この人を立てなおしたら結果きくちゃんも救える」って思ったのかどうかわかんないけど、筋の通った乗り換えをしてるのもすごい。
こんな強い女春江なら、さちこさんと同じ役割をきっと勤めあげられる。さらにさちこさんと違って「丹波屋」だけを見てる女だから、きっとこの先も安泰だ…とあの時点では安心した。しかも男を生む。もう春江一強になってしまった。誰も勝てない。強すぎる。
藤駒ちゃんも強すぎる。も~強い。きくちゃんとであったころのおぼこい藤駒ちゃんは、きっと舞妓さんだったと思うけど、あの時点でめっちゃ厳しい修行に耐えてる子なんだよね?置き屋によって全然違うけど、俊坊ときくちゃんが遊びに行くんなら多分祇園だと思うし、その宴席に付いている藤駒ちゃんもきっとエリートさん。その中で「この人は売れる!」って見抜いて、しかも「日本一になるなら別に家庭を捨てても構わない」ってきくちゃんと添い遂げることに覚悟の決まった子なんだよ。
藤駒ちゃんマジで……強い。そりゃきくちゃんも藤駒ちゃんとなら子ども作ってもいいなって思うわ。いい女すぎるよ。
あと、あきこね~~~。あきこだよね~~~もう。くだらね~~この女。本当にあきこのくだらなさが作中ずっと好きだったし(褒めてるよ)あきこが都合のいい女すぎる。太宰治の小説に出てきそうな何番目かの女ポジすぎる。
なんか……、きくちゃんと俊坊が殴り合いの喧嘩したとき、あきこがすげ~冷めた目で見てたのが印象的で。この時点で、もしかしてあきこ鼻血出して車に戻ってきたきくちゃんに対して「もういいや。ばいばい」って言い出すかと思ったら、それはしないんだよね。「それぐらいきくちゃんのこと好きだから」じゃなくって「ここまできたらもう元に戻れないし仕方ない」って感情があるでしょ、あきこには。
これまで女全員強いって言ってきたけど、唯一あきこにはそれが思えなかった。
そのあときくちゃんのどさ回りをずっとサポートするのは献身的と思う。でも、あきこお前死んだフナみてえな目してきくちゃんの舞台見ててさ、もうそれは義務になってますやん。「この芸をずっと支えたい」って思いもないし、「素晴らしい国宝級!」とも思えてないし、何も感じ取れてないでしょ。これ、実際にはどうなってたのかわかんないけど、あきこときくちゃんは結婚してないと思ってた。あきこ、きくちゃんがもし上り詰めて梨園の妻になったとしたら、さちこさんみたいに振るまえないでしょ。春江よりも絶対に弱い。そういうあきこ、、ああもう本当にくだらないな~って思った。きくちゃんが落ちぶれたそのときだったから傍にいれただけで、あきこにはなんの覚悟も魅力もないのはきくちゃんも見抜いてる。
もうあきこ……この子もまた、大御所の娘としてボンボン気質が終わってていい。ただ、このあきこを演じたのが森七菜さんだったのがまたよくて、もうちょうどいい塩梅の女の役がうますぎる。森七菜さんがこんなに演技お上手だって知らなかった。あきこのこと、まだ気になってるぐらいに印象に残ってるもん。「どこ見てるの?」って台詞もいいよね。これまで何もしなくてもあきこはお嬢様、みんなから愛してもらってる女、見どころを周囲が与えてくれる人だったけど、きくちゃんはそうじゃないんだよ。「どこ見てるの?私を見てよ」って訴えても「あきこには見るべきところがない」のが、深いなって思った。そして少しだけ切ない。
さらに、きくちゃんにとっては「何を見てたの、今まで」っていう台詞に受け止められているところが、まだ二人がすれ違っててすげ~シーンだった。
あきこ、はやくきくちゃんを捨てなってずっと思ってた。
竹野マジで好きだ……。竹野が忌み嫌うのは歌舞伎ではなくて、「血筋という最強カードがないとのし上がれない伝統そのもの」ってところに筋が通りまくってて最高。初めは単にいちゃもんつけただけの奴かな?って思ってたけど、そうじゃないところがまたいい。
きくちゃんと俊坊の関係性も好きだけど、竹野ときくちゃんもまたいいよね。
終盤ずっと「三代目」って呼ぶのも好きだし、万菊さんと会わせたのが竹野ってところが最強にエモい。なんか竹野と万菊さんに対しては、終わってる人間まみれの中の唯一の光すぎて、どう表現したらいいのかわかんない……。
いや、万菊さんももしかするとどえらいことしてたのかもしれないけど、あの俳優さん演技うまいな~!ああいうレジェンドいそうだもん。奥行がすごい。でも万菊さんなんできくちゃんのこと認めるタイミングがあんなに遅かったんだ?やっぱ役者が全部そろわないとって思ったからかな?半々コンビで沸き立つ女の感情がすご~~くよくわかる。私はオタクだからだ。
きくちゃんの娘さん、綾乃って名前だったらしいけど、ずっと「文乃であやのなのかな~?」って思ってた。藤駒ちゃんが芸妓さんになってすっぴん日常着物でお祭り行くシーン、芸妓さんの「なんでそんなすっぴんキレイなの?」ってぎょっとするほどの透明感が再現されててめっちゃよかった。
あやのが最後にきくちゃんと再会して思いのたけを吐くんだけどさ、あのシーンが本当に大好き。
あやのは多分、ずっと「父ちゃん帰ってこないし終わってんなア」って思ってるけど「お母さんを苦しめた最低な父親」とは思ってなさそう。藤駒ちゃんがあやのになんて言ってるかはわかんないけど、そもそも「父親がこの人よ」とは言い聞かせもしなかったかも。藤駒ちゃん最後まで映画では出てこなかったけど、元気にしているのでしょうか。。私が働いてたラウンジバーみたいなの運営してるのかな。とんでもなく金持ってる「お父さん」見つけて……。
きくちゃんが三代目襲名して、お披露目パレード的なところであやのを無視ったシーンは、私はめちゃくちゃ納得した。そりゃそうよね、藤駒ちゃんがあやのを止めるのも何も言わないのも、そりゃそうだと思った。もう人生のすべてを捨ててひとつのことに溺れる男に惚れて、それでもいいから隣にいたい女というのは、そんなもんだよ…。
だが、隣で見ていた旦那は「あのシーンで一気にきくちゃんに同情できなくなった。最低」って思ったらしいので、家族を捨てるシーンとか子どもよりも人生を優先させる親が大嫌いな人は、ここで国宝そのものの評価を下げてしまうかもしれない。
ただ、覚悟の決まっている最強女藤駒ちゃんと違って、娘のあやのは結構冷静なのがまたよかった。きくちゃんに「お前最低」って面と向かって言えるの、あやのだけだよな。実際こんな父親、本当になんだお前ってなるよ。
でも最後に救いがある。まず、きくちゃんはあやのと対面したとき「藤駒という芸妓を知っていますか?」と訊ねられて、「忘れたことはないよ、あやの」って答える。台詞うろ覚えだけど。最低なきくちゃんだけど、藤駒ちゃんとあやののことはずっと心に居続けたんだね、と救われた。
さらに、あやの砲が続く。「お前が舞台に立ってヘラヘラするために、どれだけ人が泣いて不幸になったと思ってんだよ。だいたい、家族でお祭り行ってさあ、神社で願掛けするのが自分のことってどういうこと?自己中すぎるだろ」みたいなことをガンガン刺す。あやの、いいぞもっと言え。
でも、あやのはそんな最低の父親でも、きくちゃんのことを父親と思っていなくても「父ちゃんの舞台を見ると素晴らしいと感じる」みたいなこと言って、唯一芸だけは認めるんだよね。
あのシーン、好きすぎる。危うく泣きかけたが、周囲でトイレが我慢できず立ちだす人も多かったため、意識が逸れて涙は出なかった。
そして芸を手に入れ国宝にはなったが、その後何にも残らなかったきくちゃん。お前はきっとひどい死に方をするんだろうし、地獄に落ちる。でも、その姿はめちゃくちゃ美しかった。
時間が許せばもう一度見に行きたいけど、およそ3時間もある映画だからちょっと厳しい。
数か月ぶりに実家行った
少し離れた駅から歩いて行ったら、家に着くまでに3匹の猫に出会えた
1匹目は砂利が転がる駐車場のど真ん中で寝そべっていた
俺が見ていることに気づいて振り向くと、おもむろに起き上がってこっちに歩いてきた
首輪の鈴が見えて、あー飼い猫の外飼いだから慣れてるのか、と思った
でも2,3mまで来たら立ち止まってお行儀よく座ってこっちをじっと見ていた
2匹目
茶トラ色した母猫らしい
こっちも砂利が転がってる駐車場で寝そべってたけど、俺がきたらばっと起きて警戒態勢に入った
でもがっつり逃げることはせずにこっちを見ている
耳もイカ耳にはなってない感じ
顔つきもメスだからかそこまで険しくないし太ってもいなかった
目のまわりが黒くて隈取した歌舞伎役者みたいで怖い見た目をしている
ちょっと近づくとさっと逃げた
あとで聞くとこの辺を徘徊してエサもらったりしてるらしい
んでラスト家を出るときに、近所で外飼いされてる茶トラオスに出会えた
こっちも図々しくいろんなとこでエサもらってるらしい
小さい頃とか中くらいの猫だったときはかわいかったのに、今はぶくぶく太って顔もかわいくなくなってしまった
立派なオス猫になったといえばそうなのかもだけど
今自分は一番栄えてる駅のそばに住んでて猫はほぼ見かけなくなっちゃったから、久しぶりに猫みて楽しかった
やっぱshort動画とかで見るのとは違う感じがする
short動画と違ってこっちを見ているってのと、short動画ほど面白いことしてない、普通の猫って感じがいい
結論:血の繋がりこそが全て
いやーー、終わり悪ければ全て悪しの典型みたいな映画だったわ、『国宝』。
最後の最後に出て来たある登場人物のおかげで、それまでの内容が全部吹っ飛んで、映画の印象が最悪になった。
役者の演技や舞台美術、音楽がどんなに素晴らしかろうとも全てが台無し。上等なワインに泥水をぶち込むが如き存在だった。
この映画の主人公はとにかく、歌舞伎役者として成功するに値する血統がない事に苦しめられ続ける。
主人公はヤクザの組長の息子で、家が襲撃されて父が死んだ時に助けてくれた有名歌舞伎役者に引き取られる。
その家には歌舞伎役者の実子として主人公と同い年のボンボンがいた。
そのボンボンは憎めない所もあるもの、稽古をサボっていたり、その割に父が怪我でその代役に抜擢された主人公の演技の素晴らしさに打ちのめされて主人公の彼女と駆け落ちし失踪したりと、とにかく迷惑野郎。
主人公はボンボンの失踪後に師匠の歌舞伎役者を支え、名前を貰うまでになるが、師匠が舞台上で倒れて最期に呼んだのは実の息子の名前。
父の死後にボンボンが帰って来て、主人公から居場所を奪う。主人公はヤクザの生まれである事や舞妓との間に考えを作った事実を週刊誌で報道されて落ちぶれる。
紆余曲折あった末にボンボンとも和解し、そんなボンボンの死から16年。主人公は結婚もせず芸に邁進し、遂には人間国宝に選ばれ、取材を受ける。
主人公を取材する写真家は、主人公が舞妓との間に生ませた実の娘だった。この娘の存在がとにかく最悪。
主人公に恨み言を吐くところで終わっておけばいいものを、舞台の上の主人公を称賛し、人間国宝選出を祝う言葉をかける。それから主人公は舞台に上がり、師匠がかつて得意とした演目を演じる。
結局のところ、歌舞伎役者としての舞台への情熱や演技にかける狂気なんてどうでもよくて、女と交尾して子供を作っておけばいいよというオチでした!!マジでクソだな!
この娘の台詞が主人公を恨むもので終わっていたら、映画の印象は全然違うものになっていただろうに。全てを失い肉親からも恨まれてもそれでも舞台に立つというオチならば、緩急が聞いて素晴らしいオチだった筈だ。本当に勿体無い。
ていうかこの映画、出て来る女性陣が軒並カスなんだよね。実子に後を継がせる事に執着する歌舞伎役者の妻や、主人公を裏切りボンボンと駆け落ちする主人公の彼女、主人公と駆け落ちしたが途中で見捨てる金持ちのお嬢様、2号さんでもいいという安易な考えで婚外子を産む舞妓、そんな母を恨まず父だけを恨む主人公の娘。原作者のミソジニーが強いのか、歌舞伎という題材だと自然とそうなるのか。
歌舞伎の「か」の字も知らない状態で見に行ったので主人公が高校生くらいまでは退屈だった
襲名制なのは知っていたので、血筋はどうしようもないっていうのはかわいそうにも思った
自分も天皇の家に生まれてたら映画はファーストデーと水曜限定とか貧困しなくて済んだけど
コスプレしたり同人誌買い漁ったりできないかと思うと悩ましい(そこかよ)
(たぶん歌舞伎を演じてる間はキャラとして気持ちいいんじゃないかな?二人とも)
背中のイラストは、入れてたシーンで「お前それ鬼門になるぞ」と思ったら
鬼門になったので、こういう先読みあまりできないので「やったぁ」と思った
まあ、週刊誌にすっぱ抜かれるのはありえるよね、と思った
カマキリ先生はその後浮上してこないので、再び大舞台に上がれた喜久雄は
それだけ演技はすんごいということでよろしいですか?
万菊さんは国宝なのに最後はああいうとこで最後を迎えるの? そんなものなのか?
戦犯は渡辺謙だゆね? 流星くんに曾根崎心中やらしとけば何も揉めなかったw
この後の公開の映画で吉沢くんが「バババ」で全裸ヴァンパイアになるかと思うと役者ってすごいな、って思うw
見る価値は、そのセットや衣装の仕上がりや、人気イケメンキャストの頑張り、田中泯の迫力演技、高級感のある画作り、迫真の手を抜かなかった演技だろう。
もちろん本物の歌舞伎役者ではないので技術的な面では劣っていると素人目でも思う部分はあった。
ただしそれも別にマイナス点ではなく、一朝一夕にはいかない部分であり、ああ歌舞伎役者ってすごいんだなと思う部分にもなっている。
この作品を絶賛する人がいるのはよくわかる。
ただ、個人的にはどうも人間性がよくわからない映画に見えてしまった。
展開的にはベタとも言える感じでギャグにすらなりかけている。昭和元禄落語心中の作りに似ているのだが、あれが原液で10倍に薄めた感じだ。
おそらく長い原作を3時間以内に収めようとした結果なのだろう。
感想を見ると指摘する人もいるが庇う人もいる。
庇う人の意見は「梨園の世界だから女性の扱いが悪いのは仕方ない」とか「男同士の熱い思いだから女性はいらない」とか「昭和時代だから」とかそういうのだ。
ただ「あの世界は女性の扱いが悪いのは当然」というのを観客に思わせてしまうのは一体どうなのかと。
そして問題は「女性の葛藤が描かれない」「都合のいい記号的な存在」として演出されたことだろう。
この映画、主人公がかなり冷淡なのだが、周囲の人物の熱さや苦しみを描かないので、どのキャラにも冷淡な扱いを感じてしまう。主人公とライバルになるキャラですら、もっと掘り下げがほしいと感じるのだ。
主人公は好き勝手して、そこに女性を巻き込み、どう見ても不幸にしている。周囲の女性も耐え忍ぶ女性ばかりだ。泣きわめきもしないし、誰も彼女たちを心配もしない。彼女たちから怒りすら見えない。
ただそこからこの映画がいわゆる「バッドエンド」になってくれるか「ヴィラン誕生」とかになってくれれば、それも美しい物語になれたかもしれない。
しかしこの主人公は、最後の最後に、不幸にした女性に突然脈絡もなく許される。
原作では許すキャラが変わっており、映画のオリジナル部分となる。
ここで減点4億点がつく。なぜ変えた。なぜその最悪の選択肢をとったのか。
もちろんこの感想はある一人の感想なのだが、作品の観客は年配層中心らしい。年配はこれをスルーできるのかもしれないが、個人的にちょっとスルーできない気持ち悪さがあった。
これがもし20年前の映画であれば「昔はまぁこういう描き方されるよな」と思えたし昭和なら「すごい映画だな!」と手放しで褒めることができた。
しかし令和7年ともなってこの表現が来ると、戸惑いのほうが強く覚えてしまう。
制作陣が一番その辺どうでも良かったのではないか?あまり考えていない気がする。
これをフェミの意見だとかなんとかくさす人も居るかもしれないが、別に歌舞伎界が女性のことを下働きとしか思っていないことをはっきりさせられて、感動するような感性ははっきり言って持ち合わせていないし。
ダウンタウンが、とんねるずが、デヴィ・スカルノが、あの歌舞伎役者が、とか、まぁ「アーあの人、現実でもやってそうじゃん」というタレントたちは、それでも全盛期は大人気だった。
「暴君系」、「ハラスメント系」、「強圧系」などと名付けてみたくもなるが、タレントの系譜の中に明らかにそういう一派がいる。
まぁ温いテレビバラエティコンテンツならではの、多少刺激的な言動をするタレントを置いておきたいニーズはあるんだろうとは思う。それにしても昔から今までずっと人気があるペルソナなのだ。
平成初期には野村沙知代&浅香光代の「サッチー・ミッチー」がご意見番顔をして(そしてその後色々あって)たし、みのもんたや島田紳助、和田アキ子などの「ハラスメントMC系」みたいな系譜もある。
一方私は、子供のころから、この手の強圧系のタレントが本当に苦手で、「何のためにわたしはテレビを見てるのかアホらしい」とテレビを消していたのだが、どうも世の中にはこういう一派を娯楽として楽しんで消費している人たちが少なからずいるのだ。短歌だか俳句だかに居丈高なダメ出しをしてるオバハンとかも大人気だし、高嶋ちさ子(かなり酷い)と長嶋一茂(かなり酷い)と石原良純(そこそこ酷い)が並んで、産まれが金持ちのセレブが傍若無人な顔をして並んでいたりする。好きにはなれないし、申し訳ないけど下品だなぁ…という印象だ。そういう人を起用した番組があちこちにあるから、まぁそういうのが好きな人が結構いるわけだ。
TVなんか見てるからだ馬鹿、というのはとても愚かで、ホリエモンやひろゆきの消費のされ方も同じ。
「金持ちが暴論、暴言を吐いているところを楽しむ娯楽」がたくさん。
お化け屋敷ではないが、対岸の火事として恐怖刺激を楽しんでいる?
それとも、傍若無人なセレブな王様が吐く暴論に己の何かを仮託して溜飲が下がったりしてるのか
あまり考えたくはないが、彼らのハラスメント色の強い言動や、現実味がゼロの暴論などに、少しのあこがれがあったりするのか
アンチポリティカル的な、反動で下品で暴力的であるコンテンツが快感なのだろうか、とか
もっとシンプルに「俺も有名に、金持ちになったら同じように暴虐にふるまってやろう」と思っているのか。
少し違うかもだが、子供のころに読んだ少女漫画に出てくる、そして先ごろまでオタクコンテンツで流行っていた「悪役令嬢」的な娯楽だったりすることは有り得るだろうか
昭和の少女漫画定番の「いじわるをする美少女(お嬢様)」は、ストーリーにスパイスを加える役割的脇役だと思うが、オタク界隈で流行った悪役令嬢は「悪役だったけど実は・・・」のギャップ萌え主人公?だったりするらしいじゃないか。現実の「ハラスメント系タレント」の消費って、そういう娯楽だったりもするんだろうか。子犬を拾うヤンキー的な、ツンデレなギャル的な、そういうやつ?
現実は、ほとんどの場合は「ハラスっぽい属性が売りになってる人は、裏でも似たようなもんだぞ」ってことだと思うんだけどなぁ…。
例えばマイクロソフト本社の近くで働いてりゃハンバーガー買いにきたビルゲイツに出会う可能性もあるし(これはアメリカだが)
東銀座あたりで飯食ってれば歌舞伎役者と出くわすかもしれないし
丸の内でランチ食ってたら隣にいるのは有名一部上場企業の部長とかかもしれない
ちょっとは何者かになれた人や、何者かになった人の関係者がたくさんいてその人の繋がりが仕事を動かしている
多くの成功者が本人の努力や能力だけでなく運や人の繋がりが非常に大切だったと語っているし、田舎の閉塞的な何者にもなれなかった人間の集まりでのマウント合戦と明らかに違うのが人の部分だと思う
https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kaigirokua.nsf/html/kaigirokua/002615620030226004.htm
次に、東京集中は自然に起こっているんだ、これは経済の流れであると言う人がおりますが、これは全く間違いでございます。
戦後、昭和十六年体制、あるいは一九四〇年体制と言われる中で、官僚が猛烈な勢いで東京一極集中を無理やり進めてまいりました。そのやり方というのは、まず、産業、経済の中枢管理機能を全部東京に移す。そのために、全国的な産業団体の事務局は東京都に置かなければならない、二十三区に置かなければならないという指導を徹底しました。
だから、もともと大阪にありました繊維業界の団体も、強引に、あの日米繊維交渉のときに無理やり東京に移しました。十年かけて移しました。名古屋にありました陶磁器工業会も移しました。京都にあった伝統産業振興会も東京に移しました。
かくして、主要な企業の本社は東京に移らざるを得ない。団体が東京に移りますと、団体の長になるような大企業の社長は、何々工業会の団体長になりますと週に三回ぐらい東京に呼び出される仕掛けになっていますから、地方に本社を置いていられない。これでどんどんと移転した。これが第一であります。
二番目は、情報発信機能を、世界じゅうで類例がなく、日本だけが東京一極集中いたしました。
例えば、印刷関係で申しますと、元売を東京一極に集中しております。今これがまた問題になっておりますけれども、東京にしか日販とかトーハンとかいう元売会社はございません。したがって、関西で出版していたエコノミストやPHPは発行が一日おくれる。大阪で印刷した本を川一つ挟んだ尼崎で売るためにも、必ず東京へ持ってこなけりゃならなくなっております。これは非常に強い犠牲でございます。したがって、雑誌の場合は締め切りが一日早くなる。これで東京以外で雑誌をつくることができなくなりまして、全部東京へ無理やり移しました。これは国土政策懇談会でも何回も問題になりましたが、政府、官僚の方は頑固に譲りません。香川県や長野県でも元売をつくろうという動きがありましたけれども、ことごとくつぶされてしまいました。
また、電波につきましては、世界に類例のないキー局システムをつくって、キー局は東京にしか許されていない。そして、キー局でないと全国番組編成権がございませんから、すべて東京都スルーの情報しか流れないようになっています。
さらに、文化創造活動も東京に集中いたしました。だから、特定目的の施設、例えば歌舞伎座でありますとか格闘技専門体育館でありますとかいうのは、補助金の関係で東京にしかつくれないようになっています。これで歌舞伎役者は全員東京に住むようになって、関西歌舞伎は一人もいなくなりました。あるいはプロレス団体も、東北地方にみちのくプロレス、大阪に大阪プロレスがあるだけで、四十団体はことごとく東京に集められました。
https://www5.cao.go.jp/99/e/kgiji/19990531chiiki.html
ここにも記述してありますが、日本の地域政策は、昭和初め、昭和16年ごろの決定がございまして、日本全体を有機型地域構造にするというような決定がございました。有機型というのは、人間の体のようにするということです。人間の体であれば頭は1つだということで、全国の頭脳機能を1つに集める。それは首都東京でなければいけない。
頭脳機能というのは、産業・経済の中枢管理機能と、情報発信機能と、文化創造活動である、こう定めました。そして、各地に地方中核都市をつくりまして、北海道なら札幌、東北6県なら仙台、中国なら広島とする。ここは地方限りの頭脳機能をもつ。各県限りのものは、県庁所在地に置くという、段階的なヒエラルキーをつくりました。
そして、すべての文化創造活動、情報発信機能、産業・経済の中枢管理機能を東京に集めることにする。その手法として様々なことがとられました。例えば、産業・経済の中枢管理機能を東京に集めるためには、各産業別、職業別に全国団体を作り、この全国団体の本部事務局は東京都に置かせるという政策をとりました。
私が通産省に入りました1960年代は、まさにこの政策を継続し、強化する真っ最中でございました。この方針に反して地方に、東京以外に、全国団体の本部があると、一日も早く東京へ来なければいけない。その対象になりましたのが、大阪にありました繊維業界、名古屋にありました陶磁器業界の2つでございまして、繊維業界については再三圧力をかけておりましたけれども、なかなか成功しませんでした。ところが、うまい具合に68年に、あの日米繊維交渉、これを折衝するにあたって、まずアメリカと折衝する前の条件は、紡績協会が、各種団体が東京に本部を移すことだ、こういう話をいたしました。
当時の局長室に、「敵は米国にあらず、大阪なり」という有名な看板を掲げられて、新聞にも出たことがあります。
いろいろ折衝したのですが、なかなか職員も大勢おられてそう簡単にいきませんで、日本繊維工業連合会という屋上屋の団体をつくりました。
銀行協会などもずっと東京にあったのですが、銀行協会長は東京にある銀行からしか出さないということがずっと続いて、三和と住友はダメということになっておりました。それが、70何年でしたか、本社機能を東京に移すことを条件に、まず住友銀行、次いで三和銀行が会長銀行になりました。それぞれ、会長銀行になると勲一等がもらえる、こういう仕掛けになっております。
それから、名古屋の陶磁器工業会も70何年に移転しまして、今は、陶磁器輸出組合だけが名古屋に残っております。
同様に、情報発信機能につきましても、非常に厳格に東京集中を行いました。吉本さんも東京へ進出しておられるようでございますけれども。そのもとになっているのは、NHKにつきましては全国放送は東京中央放送局から行う、民放につきましてはキー局は東京都にしか置いてはいけない。準キー局というのが大阪や、名古屋や、福岡や、札幌にあります。キー局でなければ全国番組編成権がないのです。準キー局は、キー局から番組と時間を割り当てられて放送するという仕掛けになっていまして、近畿地方だけとか、中国地方だけというのならいいのですが、それ以外はダメ。だから、例えば、広島カープという球団が広島球場で試合をやっているときでも、これを全国放送するときには東京のキー局でなければ放送できないというので、東京のテレビ局から全員が行っているというような仕掛けになっているわけです。
それから、全国的な文化創造活動を東京に集めるという仕掛けはどうしたかといいますと、特定の目的をもった文化施設は東京以外につくらせない。これは補助金交付規則で決めた。他のところでは、汎用性のある、劇場でいいますと多目的ホール、体育館でいいますと一般体育館(これはバレーボール、バスケットボールが2面取れる平場があるということが条件であります)、展示場でいいますと一般団体用展示場・美術館でなければいけない。格闘技専門の体育館とか、歌舞伎専門の劇場とかいうのは、東京以外につくってはならないということにしたのです。これも厳格に守られていまして、今でも、格闘技専門の体育館というのは、東京には、国技館、武道館等4つほどありますが、東京都以外ではまだないです。それから、歌舞伎座も、最近は南座が改装して、松竹座も民間ではやっていますけれども、国立劇場は両方とも東京へつくったというような形で、かなり厳格に守られております。
そうしますと、劇団や楽団をやる人のうち、素人は多目的ホールでも、歌舞伎は歌舞伎らしきものができますが、劇団や楽団を本格的にやる人は本物のところでないとできませんから、結局、東京でないと劇団はやれないということで、関西歌舞伎はなくなりました。シンフォニーも13か14が東京にある。25のうち6割以上が東京にある。ニューヨークでも5つぐらいなのに、東京だけ13も14もあるような格好になっている、というような仕掛けを作りました。