
はてなキーワード:検査とは
こういうのを見ていると、痛い所があっても病院に行きたくなくなるよなあ
この人は自覚症状がなかったのに病院に行ったら希少がんを告げられて、大腸を切る手術を受ける羽目になった訳だ。
という事は、だ。
自覚症状がなくてこれなんだから、自覚症状があったらもう100%アウトじゃね…?手遅れなんじゃね…?
見てると怖くて検査を受けたくなくなる。
「Ryuichi Sakamoto: Diaries」という、坂本龍一さんが亡くなる前の数年間を描いたドキュメンタリー映画を見た。
坂本龍一さんの音楽は聞いたことはあるが、そこまでのファンというわけではない。
ただ、他に見たい映画も無かったし、その音楽の才能と功績が、世界中で認められた人の最期というのはどのようなものなんだろうという興味があったので見た。
坂本さんは日記をつける習慣があり、亡くなるまでの間もノートやiPhoneのメモ帳に、短い言葉を残していったようだ。
予期した通りではあったが、検査でステージ4の癌が発覚した後、ずっと「苦しい闘病生活を送り、わずかに延命することに意味はあるのか?」という問いと「まだ死にたくない」「音楽に没頭する間は死を忘れられる」というような心の変化が描かれている。
既に意識を失い、痩せ衰えたピアニストの指は、まるでピアノを弾いているかのように動き続ける。
これはとても悲しくドラマティックであると同時に、見る側に罪悪感のようなものを想起させる。と思う。
他人の、そして映画を見る人にとっては概ね「推し」の死を観測するというのは、どういったことなのか。意味があるのか。
死の瞬間まで、映画というある種のエンターテイメントに変換されることは、本人にとって幸せなことであるのかどうか。
そしてもう一つ、死が映画になり得る人間というのはほとんど存在しない。彼が特別な人間だからこそ、映画になり得たということ。
YMOや個人の音楽活動、アート活動で積み上げた実績、音楽の大きな才能があったからである。
そんな才能を持つ人でさえ、死に直面した際には「たった一年延命することに意味があるのか?」と問い続ける。
第三者から見れば、天才に一年の時間があれば、音楽が残る。インタビューが残る。その言葉から書籍が残る。それらを待ち望む人が世界中にいる。
しかし、ほとんどの人の最期には、そんな期待はあり得ない。客観的には、何も残さずに死ぬしかない。
そんな凡人にとっての延命とは何か。
自分が同じ場面に遭遇してしまったら、果たして闘病を決心することになるんだろうか。
個人的には、「凡人の死」「何も残さないであろう自分の死」を考えさせられる映画であり、心が冷たくなるような時間だった。
見てよかったかといえば良かった。
強くおすすめはしない。
https://popnote.hateblo.jp/entry/2025/12/12/005107
沖縄出身関東在住者の記事に対し北海道出身関西在住の筆者がコメントする。
①台風による激しい気圧の変動がある
これは東〜北日本にはほぼない。
台風が来る頻度が低く(北海道に至ってはほぼ皆無)気圧の変動があっても西日本ほどは大きくない。
気圧に弱い方は北に住むことをおすすめする。
②気温が高くても冷える
結果としてクーラーは避けられないし、夏冬関係なく臓腑の底まで冷えている。そこで水不足だからと湯船を諦めるのはつらい。
他にも細かいところはあるが、主にこの2点が東日本出身の虚弱者にはつらいであろうと思われた。
これだけでは一方的な悪口なので北海道のデメリットもあげてみる。
北海道までいくと東京とは比べ物にならないほど日が沈むのが早い。
他地方も病院問題は逼迫しているだろうが、北海道は隣町までが遠すぎる。近所の病院が何10km先みたいなことも珍しくない。
町医者では設備が足りず、検査の度に都市部まで出るのはかなりつらい。
関西に住んでみた結果、気候だけで言えば瀬戸内沿岸は非常に穏やかで虚弱者向きであると感じた。
ほとんどエロく無いと思いますが、どうしても吐き出しておきたい事なんで、
もう2年も前の話です。俺には婚約者がいました。
就職後に飲み会で知り合った女の子で、会った当時はお互い24歳でした。初めから可愛いなって思ってて,席が隣同士だったのがきっかけで仲良くなり、付き合い始めました。
彼女を仮にM子とします。M子は、性格はおとなしめで、色白のやや小柄な体格をしていました。バストはかなり大きい方で巨乳の部類に入り、ウエストは細くヒップはやや大きめで俗に言う"えっちなからだ"でした。
俺が残業から疲れて帰ってくると、料理を作って待っててくれてるような、優しくて気立てのいい女の子でした。
お互い酒が好きなほうで,デートの時にはよく居酒屋やBarに行き、楽しく飲んでたものでした。
セックスはお互い初めてではありませんでしたが、体の相性は良く、M子は俺とするようになってから初めてイクようになったと言ってました。
付き合って2年半の後、俺に異動の話があり2年ほど地方の支社に行くことが決まったんですが、
「離れるのは辛くて嫌だ、そんな辛い想いをするなら別れる方がいい」
帰ってきたら必ず結婚しようと話した時の、M子の泣いたような笑ったような顔を今でも覚えてます。
結納を済ませ転勤した後も、お互いマメに連絡を取り合い、休みの時は飛行機に乗って会いに行ったものでした。
俺の兄夫婦の不妊症の原因が兄の無精子症であることが判明し、俺も検査することになったんです。
結果は、俺も無精子症でした。
目の前が真っ暗になり、体がガタガタと震えました。
自分の体の欠陥についてのショックも大きかったのですが、M子と結婚しても子供が出来ないといった事実が怖かったんです。
M子は子供好きな方で、M子の姉の子供の写真を見ながら、「わたしにもかわいい赤ちゃんが出来るかなー」と言ってたほどでした。
この事がM子に判ったら捨てられるかもしれないと思うと、恐ろしくて仕方がありませんでした
しかし黙っておく訳にもいかず、本来帰る予定の無いその週の週末に、急遽M子の所に帰りました。普通なら前もって連絡を入れてから帰るところなんですが、M子と話すのがまだ怖かったので、何も伝えないままの帰郷でした。
M子の住んでるマンションの前に夜の8時頃着きましたが、M子の部屋の明かりは点いていません。携帯に電話したけどつながりませんでした。ドアにも鍵がかかっており、どうやら外出してるようでした。
このとき、俺の元いた部屋は転勤の際に解約しており、帰郷の時はM子の部屋に泊まっていたため、彼女が帰ってくるまで居場所がありません。(合鍵は持っておらず、俺の実家は遠いためわざわざ帰る気がしませんでした)
しかたなく、近くの繁華街に行き軽く食事をした後、馴染みのBarに行って暇を潰すことにしました。
Barの入り口まであと10数メートルまで来たところです。入り口から見馴れた人物が出てきました。
M子でした。
思わず声をかけようとしたところ、M子の隣に男がいました。
俺の見覚えのあるヤツで、同期入社したSでした。
俺とは結構仲が良く、転勤の前はたまに一緒に飲みに行ってる友達で、既に結婚し子供も一人いました。
M子とSは、俺を介しての顔見知りであり、たまに3人で食事をしてた程度の知り合いだったんです。
二人はBarから出てくるなり、腕を絡ませて身体をくっつけあいながら、俺の居た所とは別の方向へ歩いて行きました。
その姿は、どうみたって恋人同士の様でした。
(中略)
実は、M子が鬱で入院した時に、会いはしなかったけれど様子を見に行った事があります。
M子は、病室の天井を見つめたまま、身じろぎしないままの状態でした。
主治医のDr曰く
「鬱病は、症状が重いと全く周りの刺激に反応しなくなり、
何度も自殺しようとしたらしいです。
M子、悩みすぎてました。
俺の行いについて後悔し始めたのは、その時からです。
収入が入ったらその月に使う分や貯金に回す分を分ける。先にやる。わかってるんだ!
でも、あるじゃない。
「書籍代を毎月5000円に決めればいいんですよ。もう50年分使いました」みたいなやつ。
完全にこれ。分けたお金がそこにあるっていう記憶が残っている限り、手を付けてしまう。投資とか定期で解約しにくくしてもダメ。解約して使ってしまう。わかってるんだ!意志が弱い。意思の力ではなく仕組みに頼る方がいいってことは。「お金を分けて、どこかによけてある」という記憶ごと消して欲しい。
何度も挫折してるけど今回も一応書いてみる。次の収入が入ったら、まず貯金に回す分をよける。旦那に借りてるお金を返す分も旦那の口座に振り込む。そこから二ヶ月分に分ける。カードの返済と使える現金を計算する。とにかくこれをやること。
そうか。この「仕組み」を起動するところで「意思」の力が必要になる。そこが手動である限り、やはり「意思の力」なんだよな。私はこれが弱い。面倒くさいに飲まれる。ADHDなのかどうなのか、検査してるけど今の病院は発達障害に強くないので、検査した心理士や医師の返答も歯切れが悪い。
私も増田に近いところがあって、自分が女という感覚が昔から薄かった
25歳くらいのときに母親に「男でも女でもないって感じ」と言われたことがあるくらい
でも、ほとんど女性しか発症しない病気(摂食障害、某自己免疫疾患)になったし、WAISという知能検査では男性が女性より得意だというパズル(心的回転)という下位検査だけが平均を下回っていた
自分でも男か女か分からないなと思っていたけど、上記の経験を通して、自認はともかく脳を含め身体は間違いなく女であると認識するに至った
ところで私もアイドルには興味はないが、化粧や服に関しては興味のあるなし関係なしに社会性を持つという観点から行っている
「女性と共通の話題がない」に関しては、女性というものは自分が興味がなくても周りの話題についていけるように、流行のドラマや俳優やアイドルなどをチェックするという努力を行っているようなので、これも社会性の問題だと思う
つまり増田は他の人たちが必死にしている周りに合わせる努力、社会性を持つ努力をしていないし、それが当然だと思っているように見える
しかし恋愛感情が薄い、性愛も感じないというのはとてつもないメリットのように感じる
恋愛感情に苦しめられ振り回されることもなく、色恋沙汰のトラブルに巻き込まれることもない
男女間の精神的パワーバランスで低い立場になることもない(俗に言う「好きになったほうが負け」というやつ)
そこは羨ましいなと感じた
一段と寒い夜、久しぶりに発作があって苦しかった。今ちょっと怠い。
うちは毒親ってほどではないのかもしれない。
衣食住は十分に与えてもらったし。
ただ味の素を毛嫌いして、だって普通の塩はナトリウムだから!(?)と言って天然塩に拘り、白砂糖使用者を馬鹿にしているカサンドラ母と、ガチガチの自分ルールの中でしか生きられない単身赴任の父という環境だった。
幼い頃は熱と咳が出る日が多くて、雪国で車もない中、母がバスに乗って何度も病院に連れて行ってくれたという話は聞いてる。若い頃の父は、朝起きて着替えが出されていないとブチギレていたそうだから当時の母の苦労と苛立ちはそれはもう大変なものだったと思う。
ここで特に診断がないのは小児喘息ではなかったということなのかな、ちょっとわからない。
小学校時代は咳が落ち着いていた記憶だけれど、鼻も悪くて耳鼻科には連れて行ってもらってた。副鼻腔炎にもなった。
喘息というのを知らなないまま運動部に入って、3キロ走るのが苦しかった。
そもそもの運動神経の悪さによるいじめや苦しさもあって辞めたが、後に私が会社を鬱で辞めた時、「部活辞めさせなきゃよかった」と言っていた。そういう父である。
単身赴任の父が帰ってくる土日、両親はよく喧嘩した。険悪な空気の中で母の機嫌を直さなければならない使命感に駆られていて、心臓がばくばくして、その夜は喘息が起こる。お湯とゲロ袋を持ってきて背中を撫でてくれる母に安堵していた。
高校。体育のあとは先生に背中を撫でられながら授業を受けていた。静かにしなきゃと思うほど咳が出る悲しみ。周りも大変な迷惑だったと思う。
冬は苦しくて眠れなくて、母が起きては背中を撫でてくれた。
でも病院には連れて行ってもらえなかった。
ほとんど寝不足のまま、雪降る中を自転車で通学すると学校でまた発作が出た。でも病院には行かなかった。
ベポラップを塗ってもらった。コップのお湯の蒸気を吸わせてもらった。あと蒸気が出る吸入機だったかな、買ってくれてそれでやり過ごしてた。
一度だけ、どういうきっかけだったか病院で診てもらうか、となって婦人科を兼ねてる小児科に行ったことがある。「症状が出てる時にこないとわからないよ」。二度と病院に行くことはなかった。
大学では咳で授業抜け出してた。一人で暮らしていたけどその頃はもう、喘息じゃないっぽいし、病院も諦めていて、治療もないんだと思い込んでいた気がする。もうこういうもんなんだと。今思うと入院するほどの重症じゃなくてまだよかった。
就職後、職場で咳と鼻水が尋常じゃなく、そこで心配してくれた(迷惑もあっただろう)上司たちに、その咳はおかしいから病院紹介してあげると言われて、慣れない土地に暮らしていたこともあって色々と面倒を見てもらいながら通院した。
迷惑かけておいて歪すぎるけど、通院を勧めてもらったのがちょっと嬉しかった。
いきなり良くはならなかったけど初めて喘息の薬をもらって安心感があった。真剣に検査してもらえたことも嬉しかった気がする。
その後いろいろあって心が折れ、実家に戻ることになった。
また発作が起きては吐いて、母が起きてきて背中を撫でられる生活の始まりだ。
子供の頃と違うのは母自身が内科にかかっていたことで、私も連れて行ってもらえた。早朝に点滴を打ってもらうことも何度もあった。毎日吸入してたけど、全然コントロールできなかった。
カレーも味噌汁も作ってる最中に全然匂いがしない。鼻もぐずぐずで痰が溜まるし、顔面が痛い。食事がなんの味かわらかない。味覚が甘い、しょっぱい、酸っぱい、辛い、ざっくりとしかわからなかった。生姜のすりおろし食べながらこれニンニク?とか言ってた。
鼻水も咳も限界で新しい耳鼻科に行った。鼻をカメラで見ながら「これは苦しかったでしょう」と言われた。恥ずかしいけど泣いちゃった。
あまりにも症状が続くから母は話を聞き流していたし、父はほぼ現代医療を信じていないし、まぁ親といえど大人になったら病気なんて自己責任だよな。
けど、大袈裟だけど、それまで数十年間の苦しさをそこで初めて認めてもらえたような気がした。
喘息も鼻水も適当に扱ってきたせいかどうかはわからない。完治しないのかという最悪の気分と、やっと原因がわかった安心感で、家に帰ってまたちょっと泣いた。
幸いにして何度かの手術と治療しつつ嗅覚は継続して快調だ。喘息もだいぶいい。人生で今が一番身体が楽。冬も平気。運動もできる。医師に感謝。
なんでもっと早く、苦しんでるとき、喘息ってわからなかったんだろうなぁ。
後に母が咳喘息になって。吸入薬を見せてきたり、たまに咳してまた喘息かもと言ってる姿見たり、鼻詰まりの時にお母さんもその病気かな!とか言われて。
もう、なんだか、素直に寄り添えなくなっていく自分がいて苦しくなった。色々と私の真似したり、会話泥棒する人なのだが、病気まで自分のものにしたいのかと、そう歪んでとらえてた。
幼少期にかけた苦労と、夜通し寄り添ってくれた日々があるから何も言えない。両親がコロナにかかれば看病した。そのことすら忘れられちゃったけど。認知症じゃないのに。同居してるのに家事をすることのない兄が看病してたら、きっと死ぬまで語り続けて感謝するのに。
父が歳とって風邪引くようになっていた。さすがに病院に行って人生で初めての咳止め薬を飲んでいた。これ飲めばお前の咳も良くなるんじゃないかとか言ってきた、びびった。
今まで咳をしては薬なしで治ると力説されるたび喘息だと何度も説明してる。咳き込めば背中を撫でてくれる優しさはある。ただどうしようもなくゲームの村人会話しかできない。会う度話す度リセットされて、忘れっぽくて、無理解なのだった。
キャベツ頭に被せろとかそういった方面の知識もなかったのがせめてもの救いである。
今更親に苦しさをわかってもらおうとすることが論外なんだろう。
なのに離れた今も執着してしまう。兄の部活には必死に付き添いしてたのに。なんで学校で苦しいって話聞いてくれなかったの。あとついでにブラも買ってくれなかったなとか余計なことまで芋蔓で思い出して恨みを募らせる。夜通し世話させたのにね。それとこれとは別だと思って良いんだろうか。小遣いで内科にかかる発想がなかったのが悪かったんだろうか。ブラを買うのも病院にかかるのも親の許可が必要だと思い込んで。
LINEオープンチャット「はてなブックマーカー」の1週間分の要約を、さらにAIを使用し、試験的にまとめまています。
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この1週間のオープンチャットは、日常の悩み・笑い・テクノロジー・育児・仕事・健康といった幅広いテーマが自然に混ざり合う、非常に“生活感あふれる会話”が特徴的でした。
特に目立ったのは以下の3点です。
不動産、ボーナス、家計の赤字など、お金に関する不安が全体の底流として強く見られました。
2. **健康・体調の話が突出**
体調不良、検査、ワクチン、睡眠問題など、多くの人が「なんとなく不調」を共有して連帯する場面が多かったです。
懐かしキャラから最新ライブ、鴨鍋やたこ焼きまで、重い話題の合間にエンタメと食が“癒し要素”になっていた印象。
総じて、
「みんなで働き、育て、疲れ、食べ、笑い、テクノロジーを語り、また働く」
という1週間でした。
https://anond.hatelabo.jp/20240722084249
なんか身分の高いというか社会的地位が高いとされる同性への歪んだコンプレックスが見え隠れするなあ
そもそも産科医は起訴リスク考えて妊婦や褥婦と絶対に2人きりになる空間を作らない
逆に産科医ですら出来ないこと(密室で2人きりになる、膣に拳を入れる、授乳指導やおっぱいマッサージをする、自宅訪問する)が男性助産師にはできると考えるのがおかしい
結局男性助産師ひとりではケアが出来ないので、その分人件費がかかって現実ではない
https://anond.hatelabo.jp/20251129225647
ここの増田と同じタイプの親だと思うので、ちょっと記録していく。
途中パパママ、ブーブーやまんま、にゃんにゃんわんわんは言うようになり、2歳7ヶ月でようやく「ちょうちょ」と単語を言えた。
3歳過ぎで検査した時には診断なしで年長まで様子見。そして今年検査して境界知能の診断をもらって就学に向けて動き始めているところだ。
親の一人である私は子の発語の遅さに「喋んないな〜」くらいの気持ちだった。
1歳半の時点で検査してもどうせ3歳まではわからないから、3歳過ぎても喋らなかったら調べるかな〜まあ5歳くらいになったらうるさいくらい喋るようになるだろう、と。
対して配偶者。1歳過ぎから数週間間隔で「喋らないなあ」とひとりごとを言い出す。
続けて「検査した方がいいんじゃない?」と言い出したのが1歳半過ぎ。
この発語の遅い子は第一子。おそらく配偶者はネットで喋り出すのはいつか、などの発達の目安を調べたのだろう。
案の定、楽観的に見ている私とぶつかるようになった。
主張はこうだ。
「発達障害だったらどうする!」
「どちらかが仕事を辞めなければならないかもしれない可能性も考えるべき!」
私
「発達には個性がある。3歳や5歳まで様子を見てもいい」
「発達障害だったらだったで行政の支援でなにがあるか、将来はどうするか考えればいい」
「仕事を辞めるかどうかは子の成長次第。現状困ってないことで悲観の予測をしても徒労に終わる可能性があるからしない」
とまあかなり相性が悪い感じだった。
私の楽観的な考えに配偶者は
これを書くきっかけになった増田と同じように「これは私がおかしいのか?」と思ったりもした。
ただ、上記の私の検査結果を配偶者に渡したところ、以降私のことを頭おかしいと言うことは無くなったので、結果は察していただければと思う。
そして配偶者と意見がぶつかりやり取りをする中でなんとなく私は配偶者に対して「こいつは自己愛性パーソナリティ障害待ちの可能性があるな」と思うようになった。
本来他人で別の人生を歩んでいく子に対して、道標を示すべきにもかかわらず、まるで自分の人生の汚点かのような反応をする配偶者にはいまだに理解できないところがある。
とはいえ、これまた専門家の診断が下ったわけでもないので、今でもふわっと濁していくことにしている。
境界知能の診断をもらった我が子は、療育に通いながら親である我々、療育先の先生方、そして通園している園の先生方の複数の大人の目で多角的に見てもらっている。
診断をもらった私のスタンスは「子の性格と得意不得意を知り、小学校という環境の変化で生きることが嫌にならないようサポートをする」になった。
多角的に見てもらうことで、何ならできるか、どんな声かけだといいか、なにが苦手か、どんなアプローチなら取り組むかをまとめ、小学校生活に活かそうとしている。
これは中学、高校、社会人になってからもやることが変わるだけでアプローチは同じだとおもう。
最終的に子が自立していければいいなと思うが、まあ子育てなんて思い通り行かないものだろうから、肩の力を抜いて今を楽しもうと思う。
今回これを書いたのは元の記事に「障害受容の摩擦抵抗ゼロな親の話をもっと聞けると嬉しい」とあったからだ。
そしてこれを書いてても思うが、普通に冷静な記事になってしまい、これを目にする読者もまた冷静に捉えると思う。
大元のnoteは特に、文の端々から怒りや悲しみなどの感情が見えてた。
結局のところ、共感したり大きな声として一目につくところに上がるのは感情が大きいものだと思う。
結果、私のようなタイプの話は陳腐化してよくある日常の一部として流されてしまうのだろう。
個人的に、絶望するタイプと絶望しないタイプの割合がどこかで見えたら嬉しいなと思う。
これ読んだ人、男女どちらで読み進めたんだろうなあ。
氷河期世代で無職期間のニート期間があったりしながら、似た妻と縁あって高齢で結婚。
二人とも40超えてたけど、運良く第一子を授かった。
娘は可愛いよ。でも言葉が遅い目だったから、2歳半で相談に行ったら検査してくれてASD診断が出たよ。
最初は実感がなかったから誤診の可能性もあるかとセカンドオピニオンを探したけど、受け入れられないというわけではなくて、
一回のテストで急に療育に通うとか、そういうことになって戸惑ったのはある。
でも月5回の療育と保育園と様子を見ながら、だんだん「まぁ確かにASDなのだろうな」と理解し、4歳で2度目の検査をしたらDQが50ちょっとに下がってた。そして中等度知的障害の療育手帳も貰ったよ。
まぁ言葉がほとんど出ないからね。小学校はどうするかも考え出していて、見学などもしてきた。
特別支援学校が濃厚で、もしかしたら支援学級でも行けるかなぁと言ったところです。
将来どの程度になるか全然わからないけど、親の受容という意味では、そんなに強くがっかり落ち込んだりはなかったなぁ。
出来ることは何かを調べて、無理ない範囲でやれることはやってあげたいと思いつつも、子どもの人生なんて健常者でも定型発達でもどうなるか分からないしね。グレたり家庭崩壊するよりは、知的障害でものんびり生きていけたらマシだし。
本人が苦しむかも、なんて想定もしたところでどうなるかなんてわかりゃしないのだから。