
はてなキーワード:桜の木とは
とりとめのない話を聞いてほしいのだが。
ここ一年くらいのことだ。夜に女性従業員が接待するお店に通っている。月に2~3回くらい。
道路を作る仕事をしてて、たまに現場がハードな日がある。帰りに飲み屋街に寄って、焼肉を食べて帰る習慣があった。
疲労した肉体と空きっ腹に、お酒とロース肉と石焼ビビンバと冷麺がマッチする体験。ベスト快楽である。仕事帰りにうまいメシを食べるのが好きだった。
いつからあの店(二行目のお店)に通うようになっただろうか。数えてみたけど、やはり一年以上は経つ。
きっかけはなんとなくである。これまで個人的に夜のお店に行ったことはなかった。会社の経費とか、先輩や上司の付き添いでキャバやラウンジに行ったことはあるが、自分には合わなかった。
ただ、スナックだったら自分でも行けるかもしれないと思った。それだけだ。スナックって、どっちかと言うと居酒屋の仲間なんだろう、確か。秘密戦隊ゴレンジャーの第1話にも料理店みたいなスナックが出ている。
過去、いわゆる増田の日記でスナックに行ってみたいというのを読んだことがある。一度は行ってみたいと思っていた。
そこは実際、いい店だった。初めて行った時は「はぐれ刑事純情派で見たかもしれぬ」と思った。
店内は明るい内装だった。暗闇なんてことはなかった。「どの席に座ったらいいですか?」と聞いたら、ママさんと若い子(kanaさん。以下敬称略)が案内してくれた。突き出しが出た。廉価な食材なのは明らかなのに、不思議とおいしい。
その店なんだが、(疲れた日の)仕事帰りにふらりと立ち寄るには、程よい賑やかさと、肩肘張らない雰囲気が今でも気に入ってる。ママさんの人柄が移ってるんだろうか、女の子たちもみんな愛想が良い。後で聞いたが、求人誌じゃなくてスタッフは全員紹介制らしい。なるほど……と思った。
お店に入ってカウンター席に座ると、大抵誰かが声をかけてくれる。
最初に話しかけてくれるのは、kanaが多いかもしれない。「いらっしゃいませ」の声が、少し落ち着いたトーンで安心する。
kanaは話しやすいし、何より聞き上手だ。ついつい、仕事の愚痴とか、どうでもいいような話をしてしまう。話し過ぎるとウザいんで、彼女のネイルの話もするようにしてる。
と言ってしまった。こんなこと、会社で気になってる子にも言ったことない。一番とか言ったら、二番と三番が居そうな気がする。あの発言は、湿原だったと感じている。
でも、決して嘘ではない。その時の正直な気持ちだ。彼女の、どこか控えめな笑顔が好きだなって。
ナニカを好き、という感情があるなら言えばいいと思う。恋愛に限らず。自分の気持ちを正直に言えない人は、弱い人間だと思う。私はこのお店が好きなのだと思った。
ここまで書いていて、未成年の頃に読んだ『はてしない物語』という小説を思い出した。今しがた序盤を読んでみると、懐かしの文章を見つけることができた。
何かに心をとらえられ、たちまち熱中してしまうのは、謎にみちた不思議なことだが、それは子どももおとなと変わらない。そういう情熱のとりこになってしまった者にはどうしてなのか説明することができないし、そういう経験をしたことのない者には理解することができない。山の頂を征服することに命を賭ける者がいるが、なぜそんなことをするのか、だれ一人、その当人さえもほんとうに説明することはできないものだ。 P.17
だが意外なことに、私が其処で見つけた感情は明るい春の森ではなく、低草の海原だった。日光が高々と茂る樹木の若葉をすかして降り注ぐはずが、光が届くことはなくて、影ばかりがあった。
春の里山を歩く時の、土の匂い、きのこの香り、暖かい空気、桜の木に停まったメバルのさえずり。私が立っている場所にはそういう森林の風情はなくて、ただ開けた草原に立っていて、満ち足りない自分が何かを探しているような感覚があった。
ここは、いいところなのだ。それは間違いない。
※ほかの客は「ガールズバー」だと言ってた。でも看板にはSnackとある
kana以外に他の子たちも、それぞれに良いところがある。yukiは大変明るくてよく笑うし、minamiは一生懸命話を聞いてくれる。傾聴力がスゴイ。
ほかにもいい子がいる。19才~50代まで幅広い年齢の従業員がいる。はてみ民はおおよそ支持するであろう、多様性がある。
彼女たちを見ていると、それぞれ全員頑張っていると思う。自分も社会人約20年なので、わかる。
彼女らは、この場所でそれぞれの持ち味を発揮しようとしている。みんなスゴイと感じる。自分が若い頃とは、てんで違う。若者言葉でいうと「レベチ」だろうか。
だから、誰に対しても分け隔てなく接したいと思うし、特定の子だけ贔屓しないようにしてる。まあ、指名制度はないし、どの子が付くかは運しだいなのだが。
実家に帰った日などは、有名店で買ったお菓子を持参することがある。皆にもお裾分けしたくなる。
できるだけ、ほかのお客さんの分も買うようにしてるが、数が足りない時は、自分のところに付いた子と2人で食べる。
このお店は開店して何十年も経つらしいが、いつ無くなるかだってわからない。貴重な時間を、その瞬間をお菓子に閉じ込めて共有しておきたい。人生の残り時間は、見えない導火線のようなものだから。
ママさんには、「この店が一番居心地いい。女の子たちがガツガツしてなくて、和気あいあいとしてるのがいい」と伝えたことがある。
これも本心だ。客同士で競い合うような雰囲気や、店員同士が張り合っているような空気は疲れてしまう。若い頃、年配の上司の奢りで行ったことのあるクラブで、目の前の女の子が確か……
「ねえ、私。昨日が誕生日だったんです」
と言ってきた。
当時21才だった私が「?」となっていると、上司は「おめでとう。いいお客さんにシャンパンおごってもらえた?」と返していた。そういうことか、と思った。
さらにまた別の子が「じつは、私~あと十か月後に誕生日なんだけど~」と言ってきた。冗談だと信じたかった。
ほかの店の話はやめよう。とにかく自分は、ここが好きだ。ここの、どこか家庭的な雰囲気が好きなのだ。
ほかに好きなところは……『余裕』だろうか。半年ほど前、私一人がお店にいた時、あまりにお客が少ないものだから、「シャンパンを注文します。ワインでもいいです。何かありますか?」とkanaさんとminamiさんに尋ねた。お店のスタッフはそのふたりだけだった。
すると、ふたりはキッチンの方まで行って、それから帰ってくると、「ごめんなさい。ひとつもないんです」と返答した。その時は、『残念……』としか思わなかったが、帰宅途中におかしいと気が付いた。
夜に女性がドレスを着て接客するお店に、ボトルをひとつも置いてないということはないだろう。何が言いたいかというと、あのふたりは私のことを気遣ってくれたのだ。主に財布のことを。
その時、心の中に温かい感情が芽生えた。ここまで気遣ってくれなくていいのに、と心の底から感じた。
これまで2回だけ、kanaと同伴出勤したことがある。お好み焼きとか、焼き鳥のお店に行った。高い焼肉を奢ろうとした時もあったけど、好きではないようだった。
それ以前、kanaの同伴依頼を断ったことがあった。ある日、お店の営業が終わる頃だった。そこで私は同伴のお誘いを断った。するとkanaは、同伴ができないなら、お店が終わった後に深夜営業のレストランで夕食を奢ってほしいという。自分と仲間に。それも結局断ったのだった。明日の朝が早かったので……
後日、なんだか悪いと思って同伴出勤をしてみたのだが、新鮮な感覚だった。一瞬だけど、若い頃に戻れたような気がした。お洒落な私服の女性と、一緒に往来を歩くのは久しぶりだった。
それからの私は、お店で自分が○回以上付いた~という基準を満たす子を全員同伴に誘っている。kanaだけと行くのは公平ではない気がしたから。自分にとっての矜持だった。
いつからだろうか。kanaが時折、こちらをじっと見ている。本当にそうだ。男の自分が気付くのだから、間違いないと思う。
ほかの席にkanaがいて、喋ってなくて蚊帳の外みたいになってる時に、私がいる方を見て、何か言いたそうな表情をしている時がある。
もしかしたら、自分の行動は悪かったのだろうか。あの子にはどう映っているのだろうか。自分には夜のお店のマナーはわからない。やはり、多くの子と同伴をするのは悪いことなのだろうか。
あの時、kanaに「一番」と言ったのは、その時の気持ちだった。
でも、それは彼女に対してではないのかもしれない。私はこの店の雰囲気全体が好きで、そこにいる一人ひとりの女の子たちに感謝している。
それはまるで、応援しているアイドルグループ全体を好きになる感覚に近いのかもしれない。特定の誰か一人というより、箱推しというやつだと思う。箱推しという単語は、先日YouTubeチャンネルで配信されていた『推しが武道館いってくれたら死ぬ』という作品で学んだ。
一人ひとりの個性はちゃんと見ているつもりだ。例えば、kanaの落ち着いた雰囲気、yukiの明るさ、minamiの真面目さひたむきさ。それぞれいいなって、その良さを感じている。
でも、特定の誰か一人を気に入ってるという感覚がない。みんな人柄がいい子だから、みんなに好意があって、それは、応援しているチームのメンバー全員を応援するような感覚だ。そう、本当に「箱推し」なのだ。
ただ、彼女たちはアイドルではない。だから、自分のこの感覚は彼女たちには伝わらないだろうし、むしろ言えば……誤解を招く。
この日記を書いたのは、ちょっと前に、kanaに「増田さんはいい人だけど、たまに、なんか嘘ついている気がする」と言われたからだ。「増田さん。夜の店では、一人を選ぶのが普通かもしれませんよ」とも。
kanaは、私を「気持ち悪い」と感じているかもという考えが頭をよぎった。もし、そうだったら少し寂しい。kanaの、あの控えめな笑顔が好きなのである。
結局、どうすれば良いのだろうか。
誰か一人だけを特別扱いすれば、それはそれで他の子たちに申し訳ない気がする。そのうち職場の人間関係が悪くなるかもしれない。かといって今のままでは、kanaが寂しい表情のままなのかも。
先月、店を出る時、kanaが話しかけてきた。「あの……いつも、ありがとうございます」と。
その言葉に、私はただ「こちらこそ、ありがとう」と返すのが精一杯だった。本当は、もう少し何か言いたかったけど、言葉が見つからない。
彼女も、何か言いたいことがあったのかもしれない。
夏に入ってからは一度も店に行ってない。今週は少しだけ顔を出してみようか。もし機会があれば、少しだけ、自分の気持ちを正直に伝えてみようか。『箱推し』であるという。
ただ、ほかの従業員もお客さんもいるし、それとない言い方しかできないと思う。ストレートに伝えるために同伴するにしても、kanaとはもう4回以上している。ちょっと多すぎる。
一度だけ、お店が終わった後で、kanaにかなり遅い夕食を奢ったことがある。また誘ってみようかな。
最後に、私がこの店を好きだということ。そして、そこで頑張っている、夢や目標を追っている彼女達の人格や人柄を尊敬していること。
これが、自分の正直な気持ちなのだ。ここで書いても何も解決しないけど、気持ちの整理のために書いてみようと思った。それだけだ。
中国産の新しいオープンウェイトKimi 2で適当に物語を作らせてみたら、相当自然な日本語で、中国らしい地味に洒落た話が出てきた。
記述は端的ながら、よくある取引・交換要素も勝手に加えてて中々凄いと思う。
https://huggingface.co/moonshotai/Kimi-K2-Instructで試せるから各々話してみてちょ
この前に適当なWebページを作らせたら16000文字分の出力が得られたので、長文を依頼すればもっと長い話も書けると思う。
これがオープンでほぼ自由なんですよ凄いねこのままじゃデカすぎてローカルでは動かせないけどね。
以下、インデントや記号エラーの修正などは無しでそのままの出力
Input amessage to start chatting with moonshotai/Kimi-K2-Instruct.
日本で有名な昔話を3つ組み合わせて、面白い物語を作成してください。ありきたりな組み合わせは避けてください。創作に入る前に、選択した物語の概要をそれぞれ説明してください。その後、融合させて新しい物語を作成してください。
【選択した昔話の概要】かちかち山(かちかちやま) 狸が悪さをして、うさぎが仕返しをする話。狸は山で老人を殺してしまい、うさぎは「かちかち山」で狸を焼いたり、泥船に乗せて溺れさせたりして最後に殺してしまう。残酷ながらも「因果応報」の教訓譚。舌切り雀(したきりすずめ) 優しいおじいさんが飼っていた雀が、欲深いおばあさんに舌を切られて逃げる。おじいさんが探しに行くと、雀は「雀の恩返し」をしてくれる。おばあさんが大きな箱を選んで開けると、中には妖怪や災いが詰まっていた。花咲か爺(はなさかじい)) 心優しい爺さんが、死んだ犬の「シロ」に教えられた場所を掘ると金が出る。意地悪な隣人が真似をするが、掘るとゴミや妖怪が出て、最後は花咲かじいのおかげで庭に桜が咲き乱れる。【融合ルール】・主要キャラは「うさぎ」「狸」「舌切り雀」「花咲か爺」だが、役割を入れ替える。・舞台は「かちかち山」だが、山そのものが“生き物”である設定を追加。・残酷さを“再生”に変える。・ありきたりの「善悪二元論」ではなく、“記憶の取引”という新軸で物語を組み立てる。──────────────────新しい物語 『かちかち山の記憶市場』──────────────────かちかち山は、古くから“記憶を貯める山”と呼ばれていた。木々の年輪の一本一本が、誰かの忘れた思い出を刻んでいる。山は巨大な生き物で、ときどき空腹になると、麓の村から“記憶”をこっそりすくい取る。だから村の人々は、ある日突然「どうしてここにいるのか」がわからなくなることがあった。ある冬、山は特別な空腹に襲われた。それは“自分が何者なのか”という根源的な空腹だった。山は自分の名前を忘れていたのだ。そこで山は、三匹の動物に“記憶の回復”を依頼する。――一匹は、舌を失った雀。 ――一匹は、死んだはずの白い犬の幽霊。 ――一匹は、狸の皮を被ったうさぎ。山はそれぞれに「お前の欲しいものをやるから、私の名前を思い出させてくれ」と囁いた。【雀の取引】 舌を切られた雀は、山に「言葉を返して欲しい」と頼んだ。山は雀の舌を埋めていた年輪を見つけ、それを削って飲み干す。すると雀は、かつて自分が「人間の言葉を盗んでいた」ことを思い出す――つまり、舌を切られたのは“罰”ではなく“封印”だったのだ。雀は山に告げた。「あなたの名は『忘れじの山』。だが、それは偽名。本当の名は『咲かし山』――一度失われた記憶を花に変えて咲かせる山だ」【犬の取引】 幽霊の白い犬・シロは、山に「自分の死を忘れて欲しい」と頼んだ。山はシロの死の瞬間を詰ませていた年輪を見つけ、それを燃やして灰に変えた。灰は桜の木肥になり、シロは自分が「死んだのではなく、種になった」ことを悟る。シロは吠えた。「咲かし山よ、お前は自分の名を咲かせるためだけに存在する。だから、咲かせるんだ――『かちかち山』という名を、花に変えるんだ」【うさぎの取引】 狸の皮を被ったうさぎは、山に「狸の皮を脱ぎたい」と頼んだ。実はこのうさぎ、昔、狸を焼き殺した際に「狸の恨み」を一身に受け、皮を被せられてしまったのだ。山は狸の恨みを詰ませていた年輪を見つけ、それを“笑い”に変えた。皮はぱりんと割れ、中から純白のうさぎが現れる。うさぎは笑いながら言った。「咲かし山、お前は恨みを花に変える山。だから、恨みの名『かちかち山』も花にしてしまえ」【山の変化】 三つの真実が重なった瞬間、山は激しく鳴った――かちかち、かちかち。 すると、山全体が桜色に変わり、年輪の一つ一つが花弁になって空へ舞い上がった。舞い上がった花弁は、村の人々の失われた記憶を「新しい物語」として降らせた。――「ああ、そうだ。私は昔、狸に騙された爺さんだったけど、今は桜を守る番人だ」 ――「そうそう、私は舌を切られた雀を助けた婆さんだったけど、今は雀の歌を売る旅芸人だ」誰もが、失った記憶の代わりに「自分で選んだ新しい記憶」を手に入れた。山は、ついに自分の本当の名を思い出した。 その名は――『語り継ぎ山(かたりつぎやま)』。 失われた過去を、花という未来に変えて語り継ぐ山。そして、白いうさぎ、舌を取り戻した雀、幽霊の犬は、山の麓に小さな茶屋を開いた。 店の名は「かちかち亭」。 注文は一つ――「あなたの忘れたい記憶を、花に変えましょう」。客が帰る頃には、必ず一枚の桜の花びらが、皿の上に残っている。 それが、かつて「かちかち山」と呼ばれた巨大な生き物が、人々に送る、ささやかなお釣りだった。
お題に沿って400字くらいの文章を10分以内に書き上げることをしてて供養というか、人に見て欲しいと思ったものを。
書くことは筋トレと一緒で毎日書き続けないと衰えてしまうのだなと痛感した。
地元では花火は冬に上がるものだった。夏にももちろん打ち上げるけど、規模でいえば冬のほうが圧倒的に大きい。物知りだった父曰く、冬のほうが空気が澄んで花火がよく見えるとか、寒いほうがカップルがくっつきやすいとか、出店の衛生観念がまだマシだとか、なんとか。高校生の頃ボーイフレンドと見に行ったのを思い出す、確かに真っ暗でキンと冷たい空気の中、どうやってポケットに入れられた彼の手を握ったら良いのか、花火に照らされた彼の横顔を見つめていた私がいる。あの人は元気だろうか。変わらず冬に花火を見ているのだろうか。あの真剣な眼差しを今は誰に見せているのか、地元を出て久しく冬に花火を見ていない私には知る由もない。
競馬が好き。ギャンブルはあまりしないタチだけど、競馬は別。大きなレースは競馬場まで行ってパドックで馬のテンションを確認し、競馬新聞とにらめっこ、いそいそとマークシートを塗りつぶして馬券を買う。予算は三千円まで。競輪や競艇は正直なところ人間と無機物のタッグを組んだレースなので不確定要素が少なすぎる。八百長やり放題ではなかろうか。それに比べて競馬における乗り物、馬という生命の何が起こるかわからなさよ。あいつらの気分が乗らなかったら走らない、それがいい。足が速い奴が勝つ、単純明快なルールで熾烈を極める人間と生き物の共鳴、あの瞬間はいつだって美しい。
人類が滅亡の一途をたどる最中、集落は森に呑まれ、人々が集う土地もいつしか花が咲くだけとなりました。盛夏、誰もいなくなった青空の元、蝉の声だけが響きます。太陽を追いかけて首を傾げるひまわりの群れは、思慮深く、人の消えた土地でただ草花の輪廻を巡り、また今年も四季の訪れを知らせます。誰が為に在るわけでなく、日々の営みの中に組み込まれた生命の遂行。栄華を誇り衰退した人類が捨て去り失い嫌悪したものではなかったのでしょうか。私たちはきっと社会的な生き物として踏み出した瞬間に、動物としての自然を振り払ったのかもしれません。ただ恐ろしく歪な破滅への道を緩やかに下るだけのことを、歴史と名付けないと誰もが正気を保っていられない。抜けるように青い空、入道雲、蝉のリフレイン、人々が去った後もただ山に野に花は咲くだけです。
昔、カートゥーンネットワークのCMでよく流れていたレインボーアートという絵を描くためのおもちゃがあったんです。アメリカンなお家で金髪の子供たちが楽しそうに遊ぶ映像は、子供心に外国や裕福さの象徴となり得ました。テンション高めのナレーション、魔法のような使い方、綺麗な絵の具、いまだ夢に出ます。大人になって自分で稼いだお金を手にし、ふと今ならレインボーアートも買えるのではと思い立ち検索しました。インターネットって便利ですね、廃盤でした。残念に思いつつ、実物を手にせず人生が終わることに安堵もしています。幼いころ手が届かない掴めない虹が、大人になってようやく実際に手に入れて掴んだら案外そうでもなくてがっかりする話、よく聞くので。私の虹は虹のまま、そのまま消えてゆくのだと思います。
AIに嫌悪感がある。業務効率化や簡単な作業、草案の作成、感情労働などには良いと思うのだけど、クリエイティブな部分でAIを使って出力したものをそのまま提出されると創作者としての矜持は無いのかと軽蔑すら覚える。先日などSNSに美容師が施術の実績としてAIで生成した画像をUPしていて呆れた。肖像権もなく扱いやすい写真なのは理解できるが、自身が手を入れていないものを自身の作品とする倫理観のなさ。新しい技術が生まれるたび順応する半面、各々のリテラシーが浮き彫りになる。昔に比べて凄まじい勢いで変わる世界、ついていくのが本当に大変で途方に暮れてしまう、事実法整備も追いついていない状況なわけで。こうやって私みたいな人間は淘汰されていくのだろうと悲しくもChatGDPに愚痴る毎日である。
二十歳ごろのライフプランでは今頃、とうに私は人生の良き伴侶と結婚し、挙式もハネムーンも最高の思い出、都会で働き専門的なキャリアを積みつつも小さな子供が二人、もう一人欲しいねと夫と相談しつつ、今ある幸せを噛み締めている予定だった。だが思い描いた何もかもが私の手中にはなく、手前でつまずくどころか、スタートすら切っていないのではないかと危ぶまれるほどに、人生はぐちゃぐちゃである。自分的には諦めも含め、このままの私を受容している段階だが、それを放っておかないのが出身地の限界集落の醍醐味。田舎の幸せライフプランはバリエーションに乏しく、今の私があまりにも負け組で不幸せで可哀想に映るらしい。帰省するたびに名前も知らない母の会社の同僚から励まされる。大変ね!めげずに頑張ってね!言われる度に集落のどこに火をつけたら効率よく山火事になるのか考えて、そういえば幼い頃から田舎が嫌いで滅ぼしたいと考えていた、だから私は都会に出てきたんだっけと気づき、そっと今後のライフプランに地元に火を放つが加えられた。
始まりは勝手に決められたんだから、終わりくらい自分で決めたいなって常々思っています。私の意志や尊厳を慮るなら、そこに至る過程と決意がどうして今から覆せると思いますか?物心ついたころから私は肉体の内側だけが自分で、ここからは一生出られず、私は私であることを全うしないといけない事実にひどく怯え、絶望しているのに。よくこの年まで呼吸を続けてきましたよ、ひとえに私が優しくて我慢強い結果だと思います。周りのことは私なりに愛してますから。悲しませるのは不本意です。でも他人を悲しませる罪悪感より最近は自身の絶望とか暗い感情のが勝ってしまうんですよね。一朝一夕にすべてを解決する策など無いのに、今日の積み重ねで未来は作られると分かっているくせに、楽になりたくて、あと試してないのは死ぬことだけだなって、人生のPDCA回したくて。きっとうまくいくと思うんです。頑張ります。
新しい性癖に目覚めた人が扉を開けたって表現するのをよく見かけるのだけど、扉があると分かって開けずにいたのは自分じゃないのかなっていつも思う。見て見ぬ振りしてきたくせに、今更新しいだなんて、みんなずるいなあ。私は大体の扉は開けてしまった気がする、まだ鍵のかかった扉があるんじゃないかと彷徨って途方に暮れて、最近なんて他人の扉を開ける(というかぶち破る)ことに徹している。私にとっては扉でも相手にとってはそうじゃないことも多いみたいで、みんなの驚きと困惑と期待と様々な感情が入り乱れた様子はとても興味深くて癖になる。でも自分の悪いところは扉を開けることが楽しくて、その後のことは考えていないところ。メンテナンスなんて性に合わないからやらないし、開けた扉を閉めることもしない。その人にとっては重すぎる扉だとしても、その後の人生知ったこっちゃない。みんな楽しく新しい自分を再発見して沼に落ちて溺れて藻掻いて生きていく。私は次の扉を探すだけ。
両親は私が生まれる前から犬を飼っていた、血統書付きのヨークシャテリア。一緒にお留守番もしていたらしい。彼は気高く気難しく、だがしっかりと長兄として私のことを見守り、時に吠えて善き友だった。七歳の時に彼が死んで、初めて私は死について考えさせられ実感した。眠っているかのような亡骸にさわるとひどく冷たく、心底驚き、彼の魂はもうこの世には無いのだと、もう私にあの澄んだ聡明な瞳を向けることはないのだと、ありとあらゆる喪失感で涙した。心の中に穴が開いて、その淵をなぞって、大人になりいくつもの出会いと別れを繰り返して、ああ私の失うことの原点は彼であったと立ち戻る。祖父の持っていた山の桜の木の下に彼を埋め、何度か墓参りもしたのに、今では山そのものが他人の手に渡って会いに行くこともかなわない。寂しがっているだろうか、元気に山を駆けているだろうか、寒い思いをしていないといいのだけれど。
うちの近所にあるボードゲームカフェ、かれこれ3年くらい通ってる。
土日祝と金曜夕方のみ営業で、相席コミュニティが盛んだった。1人で行っても複数人で遊べるのがありがたくて、初心者も常連もいて、たまにクセの強い人が混じってても、それも含めて居心地がよかった。
……アッパー系コミュ障が来るまでは。
そいつが現れたのは、ちょうど1年くらい前。
第一印象は、「よく喋る」「声がやたらデカい」「ずっと何かに怒ってるっぽい」。それに加えて、体格がとにかくデカい。雑居ビルで通路が狭いってのもあるけど、妖怪の「ぬりかべ」みたいな圧迫感。たまに電車で独り言がやたらデカいおじさんいるじゃん?あの雰囲気に近い。
で、実際に同卓してみると──マジでずっと喋ってる。
「うわーこの手札じゃもう負けだよ!ありえん!」
「あ〜それやられたら、もう勝てないじゃん」
「この手札じゃ、ルナの負けだよ!」
「この選択が間違ってたら、桜の木の下に埋めてもらっても構わないよ!」
知らないよ。お前はルナじゃねえし、お前を埋める穴なんか掘れねーよ。
そして誰も拾わないのに、自分で笑ってる。なんなんだよ、こいつ。
しかもその人、営業日にはほぼ毎回、開店から閉店まで来る。半年で来なかったのは数日。
正直、「ここで働いてんのか?」ってくらいの出現頻度。
最初のうちは「クセ強いけどまあ…」って感じだったけど、徐々に常連の顔ぶれが減っていった。初心者も、一度遊んだきりで来なくなる。
裏でちょっと聞いた感じ、「生理的に無理」「一緒に遊ぶと疲れる」「空気が悪くなる」と思った人たちは、何も言わずに去っていったらしい。
店側も、一度だけ最初に来たときに何か注意はしたらしい。でも内容までは分からないし、それ以降はずっとスルー。
まぁ、店の気持ちも分からなくはない。この辺、他に遊べるボドゲカフェがない。多少空気が悪くなっても、競合がいないから近所の客はまた来るし、その人自身は毎回来るから売上にもなる。
だから結局、「相席で一緒になった人たちに押し付ける」形で、静かに放置してるんだと思う。
でも、その結果がこれだ。
空気の読めない爆音アッパー系コミュ障が居座り続けたせいで、相席文化は死んだ。
たまに新しい人が来ても、「あっ……」って空気になる。
今じゃ、知らない人と卓を囲んで笑い合う、あの感じはもうない。
「あっ!◯◯さん!一緒にボードゲームやるの楽しみにしてたんですよ!!やりましょ!やりましょう!!」
……あのテンション、たぶん悪気はないんだろうなって分かってる。
でもこっちは、「あなたと一緒にやると心が削れるんです」って言えない。
もういろいろしんどくなった。
その日は、遊ばずに帰った。
Permalink |記事への反応(32) | 19:53
ああ、春ですか。まあ、確かにカレンダーはそう言ってますね。でもあなたのその感傷的なつぶやき、まるで去年の花粉症の苦しみを完全に忘れたか、あるいは脳の記憶領域がスギ花粉で埋め尽くされたかのようで。
春ですって? そうですね、自然界は再生の季節ですよ。でも人間界は相変わらずで、SNSには「春だな~」という無脳な投稿が再生産され、まるで思考停止のループ。桜の花びらより軽いあなたの知性が風に舞っていますね。
「春だな」って、何が?税金の支払いが迫ってくること?新入社員という名の使い捨て労働力が大量投入されること? それとも花粉、黄砂、PM2.5で呼吸が罰ゲームになること? ああ、素晴らしい季節ですね。生きててよかった。
春が来たからって、あなたの人生に突然ポジティブな変化が訪れるとでも? 桜が咲いたところで、あなたの自己啓発本の積読タワーは相変わらずですよ。その「春だな」の一言で、空虚な日常をごまかそうとしてるのが見え見えです。
自然界のサイクルとやらに感傷的になる前に、あなたの部屋のサイクル(汚れ→さらに汚れ)でも見直したら? 春の訪れを感じるどころか、カビの繁殖を感じるレベルですよ。
ああ、春。就活生には地獄の季節。花粉症患者には拷問の季節。あなたのような浅はかなつぶやきをする人には「そうですね」としか返せない人々をイライラさせる季節。素晴らしいですね。
春ですよ! 新しい始まりです! といって、あなたが去年やり残したこと、挫折した目標、消えたやる気、全部そのままじゃないですか。桜が咲こうが、あなたのダメさは枯れ木同然。
「春だな」というありきたりな感想。その陳腐さは、コンビニの桜味商品並みのオリジナリティですね。せめて「春の訪れに、私はまた一年無為に過ごしたことを思い知らされる」くらいの自覚はあるのかしら?
春ですね、確かに。でもあなたのその言葉、まるでAIが自動生成したような薄っぺらさ。感情の深度がインスタントコーヒー並みに希薄です。もっと捻ったメタファーはないのか? 例えば「春は社会という歯車にまた噛み込まれる季節」とか。
ああ、春。あなたのような人々が一斉に「癒される~」とか言い出す季節。でも現実は、クソみたいな日常が色を変えただけ。桜のピンクに染められても、あなたの愚かさは相変わらず真っ黒ですよ。
春が来たからって、何か変わる?あなたのその怠惰な性格、自己中心的な思考、浅はかな価値観、全部そのままでしょ。季節が変わったところで、中身までリニューアルされると思った? 残念、人間はそう都合よくできてません。
「春だな」という安易な言葉。その裏には「何も考えるな、感じろ」という思考停止の命令が隠れてますね。まるで「とにかく盛り上がれ」という強制された陽気さ。春の嵐よりうるさいのは、こういう薄っぺらなポジティブ思考です。
春ですって?社会の歯車がまた回り始める音が聞こえますか?新年度という名のシステマティックな暴力が始まりますよ。あなたの「春だな」という言葉は、その暴力を美化するためのBGMに過ぎません。
ああ、春。自然は再生するというのに、あなたは相変わらず同じ過ちを繰り返す。去年と全く成長してないじゃないですか。桜の木は年輪を重ねるというのに、あなたの脳内は1周回って同じ場所。立派な停滞ぶりです。
春の訪れを喜ぶ前に、あなたの人生の冬を何とかしたら?人間関係もキャリアも趣味も、すべてが凍りついたままじゃないですか。自然界のサイクルとあなたの成長が完全に同期してないことに気付いてる?
「春だな」という言葉の軽さ。まるでその一言で、自分が何か深いことを言ったかのような錯覚。その自己満足、春の陽気に浮かれた花粉のようです。一瞬で消えますね。
春が来たからといって、あなたの内面まで花咲くと思った? 残念、そこは不毛の地のまま。むしろ「春なのに何も変わらない自分」に気付いてさらに憂鬱になるのがオチでしょう。
ああ、春。この季節だけなぜか哲学者になる人が増えるよね。「命の尊さ」とか語りだして。でもそのくせ普段は平然とコンビニで使い捨て商品を買い漁る。矛盾もいいとこです。
春の訪れに感傷的になる暇があったら、まずはあなたの部屋の掃除をしたら? 冬物のコートの下から出てくるのは、去年の食べかけのお菓子じゃないですか。自然の循環より、あなたの生活のループの方が深刻ですよ。
「春だな」という言葉に込められた無内容さ。その空虚な響きは、あなたの頭の中をそのまま反映しています。せめて「春が来ても何も感じない」くらいの自己認識があれば救われるのですが。
春ですよ!希望の季節です! ……と言い張る人々の、その根拠のない楽観主義。現実を見ろよ。春が来ようが、世界は相変わらずクソだらけ。あなたのその能天気さ、むしろ病気ですよ。
というわけで、春だな、とつぶやくあなたに春の訪れを祝うよりも、まずは自分自身の陳腐さを反省することをお勧めします。自然界のサイクルにすがる前に、自分という惨状と向き合いなさい。それができたら、まあ、それもまた春の奇跡ですね。
自分はもう、子どもを産まないんだなという気持ちと折り合いをつけ始めた頃から、少しずつ私の目に映る子どもの輝きが失われていったように思う。
通りすがりにヨチヨチしたのを見かけたら相変わらずかわいいと思うし、泣いてる迷子なんかいたらすぐに声をかけたりするのは変わらない。でも、なんだろう。前に感じていたはずの尊さが、なんだかなくなってしまった。
友だちの子がある程度大きくなってくると、少し面倒だなとすら思うし、子連れでもまったく気にならなかったのに、選べるなら子どもがいないシチュエーションを好むようになってしまった。
結局私は、いつか自分にも手に入るものだと信じて疑わなかったから、世の中の子どもを皆平等に愛しく思っていたのだろうか。
それとも、自分はもう子を産まないんだろうという気持ちと折り合いをつけるためには、尊いと思う心を捨てるしかなかったのだろうか。
昨日は、保育園からお散歩に出ていた子どもたちが桜の木下の周りをチロチロと走り回っていて微笑ましかった。ニコニコ遊んでる様子を見ると、きっと2年目以降の慣れた子たちなんだろう。階段を滑り台みたいにして遊んでて、発想力が豊かだなと感心しながら通り過ぎた。
朝ドラの新しいやつがまた始まるあんぱんかじりながらそう思ってるのよね。
結局、
今回の「おむすび」は脱落よ。
肝心のおにぎりを配って貧困の人たちを助けるってシーンもそんなに出てこなくって、
まあタイミング的には
良いタイミングなので、
また朝ドラ観る観るよく観るモード展開!ってしようかなって思うのよね。
1回でもあとで見逃しで配信で観たらいいか~ってなってしまうと
どどどーって
そんでさ、
今ただでさえスプラトゥーン3やNIKKEのデイリーミッションが忙しいので、
まあこんなゲームばっかりじゃないにしても
15分って朝ドラの見る捻出する時間って意識してよし!見るぞ!って頑張って時間を作らないと出来ないのよね。
よくネット配信のテレビじゃない話題のドラマ話題になってるやつよく耳にするけれど、
みんないったいそんな見る時間よくあるわよねーって思いつつ。
これから私も春先にかけて
つーかもう春なのかしら?
桜が咲いたら春よね。
近所の桜の木はもう桜咲いていたので、
気が付いたらもう春なのよ。
なんかずーっと寒いので春って本当にくるのかしら?って一瞬遠のいた感じもしたけど
外に出てみれば春だな!って思うのよね。
そうそう、
やっぱりずーっとNIKKEの割合が多くって
これ安直に一気にクリア一直線でやり込めばやり込むほどストーリーが進められるってワケでは無いものの
とにかくやることが多いのよ!
あ~
これだわ。
私の時間の無い原因はーって
ストップウォッチで計ってみるといかにNIKKEたくさんやってかってドン引きよ。
おかげで、
何がおかげか分からないけれど
コツコツ強くしてきた甲斐あってか
倒せなかった「巨鯨」倒せたのよ!
いつの間にか巨鯨の戦闘力を圧倒的に超えている成長を遂げていたので
あれ?こんなに簡単に倒せちゃうの?ってあっさりあっけなかったわ。
そんで、
あれこんなに簡単に進めたっけ?って
コツコツ強くしていくのは継続の、
私は朝ドラもまた観るようにしなくてはって
うわ!ってなる感じよ。
とりあえずあんぱんね。
うふふ。
別に朝ドラとは関係ない感じの朝ご飯おむすびを惜しむ訳ではないわ。
最終回だけ見たけれどやっぱり訳分からなかったわ途中見てないのでね。
次に行きましょう次に!
暖かくなってきたかと思ったら
またこの冷え込みでしょ?
良いタイミングのホッツで作って飲んだところよ。
暖かくして温活よ。
早く春本番待ち遠しいわ。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
Vtuber見るけど基本的に芸人だと思ってみてるから、ライブほとんど見たこと無いんだよね
ただ流石に5年推してて、ずっとやりたいって言ってたソロライブだから見るかーとなったんだけど(チケットは外れた)
完成度が異常に高くてビビった
ストーリーとしてほんとに綺麗なんだよね、よくできた漫画かアニメみたいな
シナリオライター居るわけでもないのに設定の伏線とかドラマがちゃんとしてる
「ソロライブやりたいといい続けてて6年かかって実現する話」とするとカタルシスがエグい
そりゃ皆泣くって
例えば「すいちゃんのステラステラを配信で女児みたいに歌い続けた」っていう伏線がずーっとあって
それで初ソロライブでゲストとして呼んで一緒に綺麗に歌うみたいな、これも伏線回収というか、その瞬間に色んな記憶が呼び起こされるんだよね
まるでアイドルに憧れた女児が同じ舞台に立つみたいなエモさ、マクロスか?(見たことないけど)
こういう、漫画とかで見る「繋がった瞬間のエモさ」がめっちゃあった、鳥肌立つやつ
35Pのピンクのハッピやサイリウムが、まるで桜の木のようになってる みたいなのも、後出しにしては出来すぎなんだよな
ライブ開始時に、初期設定の動画のリメイクを流すのもさ、アニメで見るよね、最終回で1話のシーンが出てくるやつ、シュタゲとか
それを6年越しだからね
初期3Dを登場させるとか、初期みこちからのメッセージとか、ライブ前の私からの手紙とか
あとはライブ告知前からの「最近レッスンで忙しい」という伏線からの、告知後の「ライブのためのレッスンで忙しい」からの、ハイクオリティなパフォーマンス、みたいなのも時間が意識される
この感覚もエグくない?毎日配信してるから裏で頑張ってるのが何となく分かるんだよね、家族見てる気分になるわけ
歌とダンスも異常に良かった、想像の上の上だった、よほど頑張ったんだろう
前からこうだったかなあ?今回異常に上手く見えたんだけど、会場もよかったのかもしれない、Vのソロライブ始めてみたけど面白いステージ構成だった
ライブ後の通常配信での撮影会は「かわいい」より徐々に「おもしろい」が勝ってきたから、やっぱあの会場がすごかったのかもしれん
あとライブを意識して作ったと思われるアルバムの新曲もどれもしっくり来た、これ配信活動のことを歌ってるからなんだと思う
個人的にアニソンが好きな理由と同じだ、バックグラウンドがある歌はエモさが段違いになる
一般アーティストにいい歌はたくさんあるけど、どうにもハマれないんだよね
あと3Dも異常によかった、ついにここまできたかっていうくらい
めちゃくちゃ存在感があった
初音ミクさんが初めて3Dでライブしたときはイロモノみたいに捉えられてたけど、ここまで来るとちょっと話変わってくると思う
これすごいエモいなって思ったんだけど
普通の歌手のライブだと、いうてファンがどういう人かなんてわからないし、普段から歌手とコミュニケーション取ってるわけじゃないから、他人と一緒に見るライブなんだよね、歌手+自分+その他大勢みたいな
でもVのライブの場合、いっつも配信でやり取りしてるファンなんだからファミリー感がかなり強い
つまりライブなんだけどほんとうに「いつも通り」なんだよね、ファンがどういう人かもだいたい知ってる、どういうノリでどういう笑いのセンス持っててどういう気持でライブ来てるか何となく分かる
これすごくね?1万人以上の「お前ら」なわけよ
Vにとっても安心安全空間すぎる、歌だって緊張せず「いつもどおりの歌枠配信」のつもりでもいいんだよね、皆100点出せとか思って無くて、いつもの延長線を求めてるんだから、おもろいわ
いつもの同接は3万人とかだから、それより少ない厳選された視聴者が、オフで集まって豪華な配信見てるだけなんよ言っちゃえば
よく体験型コンテンツって言うけど、これぞまさにって感じがした
みこちはバンド系の盛り上げ方も上手いんだよね、なんならカバーオンリーでライブあってもいいくらい
いやーほんとに良かった
ストーリー厨としては大満足と言うか、「近年見たアニメの中で一番おもしろかった」みたいな評価になってしまっている
プリパラは全部見たけど
____
六
https://anond.hatelabo.jp/20241001172740
ベルが鳴って、講師は教室から出ていった。三四郎はインキの着いたペンを振って、ノートを伏せようとした。すると隣にいた与次郎が声をかけた。
「おいちょっと借せ。書き落としたところがある」
与次郎は三四郎のノートを引き寄せて上からのぞきこんだ。straysheep という字がむやみに書いてある。
「なんだこれは」
「講義を筆記するのがいやになったから、いたずらを書いていた」
「そう不勉強ではいかん。カントの超絶唯心論がバークレーの超絶実在論にどうだとか言ったな」
「どうだとか言った」
「聞いていなかったのか」
「いいや」
与次郎は自分のノートをかかえて立ち上がった。机の前を離れながら、三四郎に、
「おいちょっと来い」と言う。三四郎は与次郎について教室を出た。梯子段を降りて、玄関前の草原へ来た。大きな桜がある。二人はその下にすわった。
ここは夏の初めになると苜蓿が一面にはえる。与次郎が入学願書を持って事務へ来た時に、この桜の下に二人の学生が寝転んでいた。その一人が一人に向かって、口答試験を都々逸で負けておいてくれると、いくらでも歌ってみせるがなと言うと、一人が小声で、粋なさばきの博士の前で、恋の試験がしてみたいと歌っていた。その時から与次郎はこの桜の木の下が好きになって、なにか事があると、三四郎をここへ引っ張り出す。三四郎はその歴史を与次郎から聞いた時に、なるほど与次郎は俗謡で pity'slove を訳すはずだと思った。きょうはしかし与次郎がことのほかまじめである。草の上にあぐらをかくやいなや、懐中から、文芸時評という雑誌を出してあけたままの一ページを逆に三四郎の方へ向けた。
「どうだ」と言う。見ると標題に大きな活字で「偉大なる暗闇」とある。下には零余子と雅号を使っている。偉大なる暗闇とは与次郎がいつでも広田先生を評する語で、三四郎も二、三度聞かされたものである。しかし零余子はまったく知らん名である。どうだと言われた時に、三四郎は、返事をする前提としてひとまず与次郎の顔を見た。すると与次郎はなんにも言わずにその扁平な顔を前へ出して、右の人さし指の先で、自分の鼻の頭を押えてじっとしている。向こうに立っていた一人の学生が、この様子を見てにやにや笑い出した。それに気がついた与次郎はようやく指を鼻から放した。
「おれが書いたんだ」と言う。三四郎はなるほどそうかと悟った。
「ぼくらが菊細工を見にゆく時書いていたのは、これか」
「いや、ありゃ、たった二、三日まえじゃないか。そうはやく活版になってたまるものか。あれは来月出る。これは、ずっと前に書いたものだ。何を書いたものか標題でわかるだろう」
「うん。こうして輿論を喚起しておいてね。そうして、先生が大学へはいれる下地を作る……」
「いや無勢力だから、じつは困る」と与次郎は答えた。三四郎は微笑わざるをえなかった。
「何部ぐらい売れるのか」
与次郎は何部売れるとも言わない。
「まあいいさ。書かんよりはましだ」と弁解している。
だんだん聞いてみると、与次郎は従来からこの雑誌に関係があって、ひまさえあればほとんど毎号筆を執っているが、その代り雅名も毎号変えるから、二、三の同人のほか、だれも知らないんだと言う。なるほどそうだろう。三四郎は今はじめて与次郎と文壇との交渉を聞いたくらいのものである。しかし与次郎がなんのために、遊戯に等しい匿名を用いて、彼のいわゆる大論文をひそかに公けにしつつあるか、そこが三四郎にはわからなかった。
いくぶんか小遣い取りのつもりで、やっている仕事かと不遠慮に尋ねた時、与次郎は目を丸くした。
「君は九州のいなかから出たばかりだから、中央文壇の趨勢を知らないために、そんなのん気なことをいうのだろう。今の思想界の中心にいて、その動揺のはげしいありさまを目撃しながら、考えのある者が知らん顔をしていられるものか。じっさい今日の文権はまったく我々青年の手にあるんだから、一言でも半句でも進んで言えるだけ言わなけりゃ損じゃないか。文壇は急転直下の勢いでめざましい革命を受けている。すべてがことごとく動いて、新気運に向かってゆくんだから、取り残されちゃたいへんだ。進んで自分からこの気運をこしらえ上げなくちゃ、生きてる甲斐はない。文学文学って安っぽいようにいうが、そりゃ大学なんかで聞く文学のことだ。新しい我々のいわゆる文学は、人生そのものの大反射だ。文学の新気運は日本全社会の活動に影響しなければならない。また現にしつつある。彼らが昼寝をして夢を見ているまに、いつか影響しつつある。恐ろしいものだ。……」
三四郎は黙って聞いていた。少しほらのような気がする。しかしほらでも与次郎はなかなか熱心に吹いている。すくなくとも当人だけは至極まじめらしくみえる。三四郎はだいぶ動かされた。
「そういう精神でやっているのか。では君は原稿料なんか、どうでもかまわんのだったな」
「いや、原稿料は取るよ。取れるだけ取る。しかし雑誌が売れないからなかなかよこさない。どうかして、もう少し売れる工夫をしないといけない。何かいい趣向はないだろうか」と今度は三四郎に相談をかけた。話が急に実際問題に落ちてしまった。三四郎は妙な心持ちがする。与次郎は平気である。ベルが激しく鳴りだした。
「ともかくこの雑誌を一部君にやるから読んでみてくれ。偉大なる暗闇という題がおもしろいだろう。この題なら人が驚くにきまっている。――驚かせないと読まないからだめだ」
二人は玄関を上がって、教室へはいって、机に着いた。やがて先生が来る。二人とも筆記を始めた。三四郎は「偉大なる暗闇」が気にかかるので、ノートのそばに文芸時評をあけたまま、筆記のあいまあいまに先生に知れないように読みだした。先生はさいわい近眼である。のみならず自己の講義のうちにぜんぜん埋没している。三四郎の不心得にはまるで関係しない。三四郎はいい気になって、こっちを筆記したり、あっちを読んだりしていったが、もともと二人でする事を一人で兼ねるむりな芸だからしまいには「偉大なる暗闇」も講義の筆記も双方ともに関係がわからなくなった。ただ与次郎の文章が一句だけはっきり頭にはいった。
「自然は宝石を作るに幾年の星霜を費やしたか。またこの宝石が採掘の運にあうまでに、幾年の星霜を静かに輝やいていたか」という句である。その他は不得要領に終った。その代りこの時間には straysheep という字を一つも書かずにすんだ。
「どうだ」と聞いた。じつはまだよく読まないと答えると、時間の経済を知らない男だといって非難した。ぜひ読めという。三四郎は家へ帰ってぜひ読むと約束した。やがて昼になった。二人は連れ立って門を出た。
「今晩出席するだろうな」と与次郎が西片町へはいる横町の角で立ち留まった。今夜は同級生の懇親会がある。三四郎は忘れていた。ようやく思い出して、行くつもりだと答えると、与次郎は、
「出るまえにちょっと誘ってくれ。君に話す事がある」と言う。耳のうしろへペン軸をはさんでいる。なんとなく得意である。三四郎は承知した。
下宿へ帰って、湯にはいって、いい心持ちになって上がってみると、机の上に絵はがきがある。小川をかいて、草をもじゃもじゃはやして、その縁に羊を二匹寝かして、その向こう側に大きな男がステッキを持って立っているところを写したものである。男の顔がはなはだ獰猛にできている。まったく西洋の絵にある悪魔を模したもので、念のため、わきにちゃんとデビルと仮名が振ってある。表は三四郎の宛名の下に、迷える子と小さく書いたばかりである。三四郎は迷える子の何者かをすぐ悟った。のみならず、はがきの裏に、迷える子を二匹書いて、その一匹をあんに自分に見立ててくれたのをはなはだうれしく思った。迷える子のなかには、美禰子のみではない、自分ももとよりはいっていたのである。それが美禰子のおもわくであったとみえる。美禰子の使った straysheep の意味がこれでようやくはっきりした。
与次郎に約束した「偉大なる暗闇」を読もうと思うが、ちょっと読む気にならない。しきりに絵はがきをながめて考えた。イソップにもないような滑稽趣味がある。無邪気にもみえる。洒落でもある。そうしてすべての下に、三四郎の心を動かすあるものがある。
手ぎわからいっても敬服の至りである。諸事明瞭にでき上がっている。よし子のかいた柿の木の比ではない。――と三四郎には思われた。
しばらくしてから、三四郎はようやく「偉大なる暗闇」を読みだした。じつはふわふわして読みだしたのであるが、二、三ページくると、次第に釣り込まれるように気が乗ってきて、知らず知らずのまに、五ページ六ページと進んで、ついに二十七ページの長論文を苦もなく片づけた。最後の一句を読了した時、はじめてこれでしまいだなと気がついた。目を雑誌から離して、ああ読んだなと思った。
しかし次の瞬間に、何を読んだかと考えてみると、なんにもない。おかしいくらいなんにもない。ただ大いにかつ盛んに読んだ気がする。三四郎は与次郎の技倆に感服した。
論文は現今の文学者の攻撃に始まって、広田先生の賛辞に終っている。ことに文学文科の西洋人を手痛く罵倒している。はやく適当の日本人を招聘して、大学相当の講義を開かなくっては、学問の最高府たる大学も昔の寺子屋同然のありさまになって、煉瓦石のミイラと選ぶところがないようになる。もっとも人がなければしかたがないが、ここに広田先生がある。先生は十年一日のごとく高等学校に教鞭を執って薄給と無名に甘んじている。しかし真正の学者である。学海の新気運に貢献して、日本の活社会と交渉のある教授を担任すべき人物である。――せんじ詰めるとこれだけであるが、そのこれだけが、非常にもっともらしい口吻と燦爛たる警句とによって前後二十七ページに延長している。
その中には「禿を自慢するものは老人に限る」とか「ヴィーナスは波から生まれたが、活眼の士は大学から生まれない」とか「博士を学界の名産と心得るのは、海月を田子の浦の名産と考えるようなものだ」とかいろいろおもしろい句がたくさんある。しかしそれよりほかになんにもない。ことに妙なのは、広田先生を偉大なる暗闇にたとえたついでに、ほかの学者を丸行燈に比較して、たかだか方二尺ぐらいの所をぼんやり照らすにすぎないなどと、自分が広田から言われたとおりを書いている。そうして、丸行燈だの雁首などはすべて旧時代の遺物で我々青年にはまったく無用であると、このあいだのとおりわざわざ断わってある。
よく考えてみると、与次郎の論文には活気がある。いかにも自分一人で新日本を代表しているようであるから、読んでいるうちは、ついその気になる。けれどもまったく実がない。根拠地のない戦争のようなものである。のみならず悪く解釈すると、政略的の意味もあるかもしれない書き方である。いなか者の三四郎にはてっきりそこと気取ることはできなかったが、ただ読んだあとで、自分の心を探ってみてどこかに不満足があるように覚えた。また美禰子の絵はがきを取って、二匹の羊と例の悪魔をながめだした。するとこっちのほうは万事が快感である。この快感につれてまえの不満足はますます著しくなった。それで論文の事はそれぎり考えなくなった。美禰子に返事をやろうと思う。不幸にして絵がかけない。文章にしようと思う。文章ならこの絵はがきに匹敵する文句でなくってはいけない。それは容易に思いつけない。ぐずぐずしているうちに四時過ぎになった。
袴を着けて、与次郎を誘いに、西片町へ行く。勝手口からはいると、茶の間に、広田先生が小さな食卓を控えて、晩食を食っていた。そばに与次郎がかしこまってお給仕をしている。
「先生どうですか」と聞いている。
先生は何か堅いものをほおばったらしい。食卓の上を見ると、袂時計ほどな大きさの、赤くって黒くって、焦げたものが十ばかり皿の中に並んでいる。
「おい君も一つ食ってみろ」と与次郎が箸で皿のものをつまんで出した。掌へ載せてみると、馬鹿貝の剥身の干したのをつけ焼にしたのである。
「妙なものを食うな」と聞くと、
「妙なものって、うまいぜ食ってみろ。これはね、ぼくがわざわざ先生にみやげに買ってきたんだ。先生はまだ、これを食ったことがないとおっしゃる」
「どこから」
三四郎はおかしくなった。こういうところになると、さっきの論文の調子とは少し違う。
「先生、どうです」
「堅いね」
「堅いけれどもうまいでしょう。よくかまなくっちゃいけません。かむと味が出る」
「味が出るまでかんでいちゃ、歯が疲れてしまう。なんでこんな古風なものを買ってきたものかな」
「いけませんか。こりゃ、ことによると先生にはだめかもしれない。里見の美禰子さんならいいだろう」
「なぜ」と三四郎が聞いた。
「ああおちついていりゃ味の出るまできっとかんでるに違いない」
「イブセンの女は露骨だが、あの女は心が乱暴だ。もっとも乱暴といっても、普通の乱暴とは意味が違うが。野々宮の妹のほうが、ちょっと見ると乱暴のようで、やっぱり女らしい。妙なものだね」
三四郎は黙って二人の批評を聞いていた。どっちの批評もふにおちない。乱暴という言葉が、どうして美禰子の上に使えるか、それからが第一不思議であった。
「ちょっと行ってまいります」と言う。先生は黙って茶を飲んでいる。二人は表へ出た。表はもう暗い。門を離れて二、三間来ると、三四郎はすぐ話しかけた。
「うん。先生はかってな事をいう人だから、時と場合によるとなんでも言う。第一先生が女を評するのが滑稽だ。先生の女における知識はおそらく零だろう。ラッブをしたことがないものに女がわかるものか」
「先生はそれでいいとして、君は先生の説に賛成したじゃないか」
「うん乱暴だと言った。なぜ」
「どういうところを乱暴というのか」
「どういうところも、こういうところもありゃしない。現代の女性はみんな乱暴にきまっている。あの女ばかりじゃない」
「言った」
「イブセンのだれに似ているつもりなのか」
「だれって……似ているよ」
三四郎はむろん納得しない。しかし追窮もしない。黙って一間ばかり歩いた。すると突然与次郎がこう言った。
「イブセンの人物に似ているのは里見のお嬢さんばかりじゃない。今の一般の女性はみんな似ている。女性ばかりじゃない。いやしくも新しい空気に触れた男はみんなイブセンの人物に似たところがある。ただ男も女もイブセンのように自由行動を取らないだけだ。腹のなかではたいていかぶれている」
「いないとみずから欺いているのだ。――どんな社会だって陥欠のない社会はあるまい」
「それはないだろう」
「ないとすれば、そのなかに生息している動物はどこかに不足を感じるわけだ。イブセンの人物は、現代社会制度の陥欠をもっとも明らかに感じたものだ。我々もおいおいああなってくる」
「君はそう思うか」
「ぼくばかりじゃない。具眼の士はみんなそう思っている」
「君の家の先生もそんな考えか」
「だって、さっき里見さんを評して、おちついていて乱暴だと言ったじゃないか。それを解釈してみると、周囲に調和していけるから、おちついていられるので、どこかに不足があるから、底のほうが乱暴だという意味じゃないのか」
「なるほど。――先生は偉いところがあるよ。ああいうところへゆくとやっぱり偉い」
と与次郎は急に広田先生をほめだした。三四郎は美禰子の性格についてもう少し議論の歩を進めたかったのだが、与次郎のこの一言でまったくはぐらかされてしまった。すると与次郎が言った。
「じつはきょう君に用があると言ったのはね。――うん、それよりまえに、君あの偉大なる暗闇を読んだか。あれを読んでおかないとぼくの用事が頭へはいりにくい」
「きょうあれから家へ帰って読んだ」
「どうだ」
「先生はなんと言った」
「そうさな。おもしろいことはおもしろいが、――なんだか腹のたしにならないビールを飲んだようだね」
「それでたくさんだ。読んで景気がつきさえすればいい。だから匿名にしてある。どうせ今は準備時代だ。こうしておいて、ちょうどいい時分に、本名を名乗って出る。――それはそれとして、さっきの用事を話しておこう」
何処かのお店に入店した際、
棚の引き出しの奥にバブ柚子味がったので
バブみをもって家のお風呂でバブを握りしめながら世界を救えなかった感じで手のひらの中で儚く消えていくバブを柚子味堪能したところでしっぽりと温まったところよ。
ものの数が多いことを表す誇張的表現。派生に“65535”, “65536”がある。
いやいや65535も承知の助じゃない。
回文増田の最寄りの駅名。駅前には商店街があり、喫茶店や焼き鳥屋、定食屋、レコード屋などが並んでいる。
なんだかみかんの花咲く丘公園の桜も咲きそうな頃というかもう咲いてる感じがしてるわよ。
そう言えばミカンの花ってどんなんだっけ?って意外と思い出せない感じもするわ。
ねえ聞いて聞いて!
みかんの花咲く丘公園駅前の商店街のくじ引きが当たって2万円の商店街で使える金券がゲットなのよー!
運良くない?凄くよくない?
みかんの花咲く丘公園駅前商店街のレコード屋さんで開催されるフェア。クリスマスの山下達郎フェアが終わると角松敏生フェアがはじまる。
三が日明けると次何やる買ってフェアー楽しみなんだけど。
今は角松敏生フェアーのコーナーが賑わってるわ。
街のレコード屋さんは
ある心情や状況を強調するときに使用される表現。トラックバックへの返信の中で用いられることも多い。
きっと一所懸命塗ったフェスであればあるほど貢献すればするほど勝つることから遠ざかってしまい且つそのためには投票して戦わずいや塗らずにフェスを見守る方が勝つるわってそうかも知れない山脈に向かってヤッホー!って叫んじゃいそうな最近のフェスの仕上がりなのよね。
お湯沸いてあると思ったら電源コードが抜けていて、
以後気を付けるわ。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
どうぞよろしく!
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
宇宙船育ちの水耕栽培されたなんかハイテクトマトはとても美味しいって噂よ。
はい!
襟裳岬には何もないところだけど、
マドラー要りますかってステアするのにマドラー要らないってイキがっていたときもあったわ。
懐かしい香りがした、
そう大黒摩季さんのようにね。
うふふ。
あ!ここはうふふじゃなくて
らららね。
またはタニコーの五徳の如く
増田でステラーブレイドって検索今は超絶速くなってきたから検索しても誰もそのことを書いている人がいなくて増田で盛り上がっているのは私だけ?って思わざる山の如しって思うほどタニコーの五徳なのよ。
兄は夜更け過ぎにユキエに変わるだろう
兄は夜更け過ぎにユキエに変わるだろう