
はてなキーワード:服装とは
定期的に考える。
先に記しておきますがこれはただ自分の考えを書き散らして発散したい目的が主であり、何か大々的に議論をしたいとかそういう意図はございません。
じゃあそれこそチラシの裏にでも書いておけよって感じではありますが、ここに書いてみたくなったということでご容赦いただきたい。
あと似たような境遇の方がもしおられましたら、どのようにしているのか教えて頂けたら嬉しいなという気持ちもあります。
自分は女性として生まれて女性として違和感なく生活していますが、服装や髪型の趣味が男性的というか。
かわいいより格好良くなりたい、服をスラッと着たいので胸は普段から平らになるような下着を身に付け、美容室で参考に持って行く写真は男性モデルばかり。おまけに身長が高めで足もかなり大きいのを良いことに靴は冠婚葬祭用のパンプス以外が全てメンズ、服も半分以上がメンズでまかなっています。メンズ向け商品でしか探さないわけではなく好みのものを集めたらこうなっていただけでわざわざ異性装をしようと思ってしているつもりはありませんが結果的にぱっと見で性別が分かりにくくなってしまっている現状です。
自分の事をよく知っている友人や同僚たちは「あなたはちゃんと女性だよ」と言ってくれますが、通りすがりの人には分かりません。
風俗の無料案内所のキャッチに声を掛けられたり、旅行先で話した人に男の子だと思った!と言われたり。大抵の事は紛らわしくてすみません…で済みますが、トイレや温泉となると申し訳なさが倍増です。
向こうも申し訳なさそうに「失礼ですが女性の方…?」と聞いてこられる方、出会い頭に「は!?」と叫ばれる方、自分の姿を見て入口の表示を確認しに戻る方、女子トイレに入ろうとしたら背後から「女の子なのー!?」と叫ぶ子供とそれを窘めつつも「いや、でも…?」といった反応をされる保護者の方……本当に何度も、数え切れない人数の女性を一瞬でも不安にさせてしまったと今となっては反省しています。自分も自分のような外見の人間が女性専用エリアにいたらちょっとびっくりするかもしれないので彼女たちの気持ちは大いに分かるつもりです。昨今のトランス女性が女子トイレを使用云々の話題も相まって、強く警戒されるのも仕方がないと思っています。
そういった反省と共感を積み重ねて、現在は人が並んでいる女子トイレには入らなくなりました。今自分がやっているのは出来る限り外出先ではトイレに入らないようにすること(長時間外出しない、我慢する)、入る場合は飲食店などにある男女の区別がないトイレやコンビニの男女共用トイレを優先して、それらに入れない状況だったら空いている女子トイレか多目的トイレを1分以内に出るつもりで手早く済ませています。もちろん身も心も女性なので男子トイレを利用する選択肢は当たり前にナシです。温浴施設は友人が一緒に居る時のみ、1人では行かなくなりました。
これらの行動でストレスがないと言えば嘘になりますが、そもそも自分が紛らわしい格好をしているのが悪い、それが嫌なら髪を伸ばして一目で女性と分かる服装をすればいいのにその選択をしない自分が悪いと思っているので甘んじていますがそもそもこの対策も正解か分からないし。1分以内で出るとはいえ、タイミング悪く本当に多目的トイレしか利用できない方を少しでも待たせてしまったりしたら?空いている女子トイレに性別の分かりにくい人がいる方がたまたま鉢合わせる女性としては怖いのでは?やっぱり私が好き勝手な格好しなければ良くない?
どうするのが一番誰も嫌な思いをしないんだろうな。
今これ以上1人で考えても堂々巡りな感じがするし、他にやる事をやらないといけないのでこれで一旦おしまいとします。
違う。
まさにその「決め付け」こそが主張の本丸なんだからそれは全然問題ない。
問題は反戦の主張を『ママ』の手柄にし、それ以外の属性の人間を排除している点。
ていうか発端の清繭子さんがとにかく致命的なまでに広告代理店的でステマめいているから、そのうち高市首相とも合流しそうだ。
mayukokiyoshi
パパも叔母も独身貴族もオタクも会社員も飼い主もA型も牡羊座もおっちゃんもラーメンマニアも、ひとりひとりの、みんなの、#戦争止めてくるわ です。
雪の中、戦争を止めてくれたみなさん、ありがとうございます。
戦争イヤなの、私だけじゃなかった!
https://note.com/mayuko_kiyoshi/n/n0178432b4ecb
22歳、新卒で入社した私は、気づいたら同じ会社で39歳になっていた。
むしろ上には可愛がられ、下には支えてもらい、同期には甘え、何もかもスムーズで快適だけど辞める。
初めて増田に書く。本当に腹に据えかねているから、ここに吐き出させてもらうとともに、警鐘を鳴らしたい。
整体師、お前らいい加減にせえよ。
私は体の調子が悪い。幼少期から姿勢が悪いと指摘されていたが、ここ最近は1〜2年に1回はぎっくり腰を患うようになった。
それに伴い、定期的に整体に通うようになった。お金がバカにならないので、できれば極力行きたくないが、冬場に1か月整体に行かなかったらぎっくり腰が再燃し、なかなか治らなかったため、定期的に通っている。
自宅では毎日ストレッチを欠かさず、とにかく体をいわさないように、細心の注意を払っている。
整体院を選ぶポイントとしては、チェーン系の整体院はリラクゼーションの延長であることが多く、施術が安定しないため、症状を見てカスタム施術をしてくれるところを選んでいる。
そうすると、だいたい独立開業している個人の整体院に行くことになる。
あるとき、ぎっくり腰の予後が悪く、YouTubeで観たある治療法に注目した。その治療をライセンスとして卸しているらしく、最寄りの(といっても数駅離れている)治療院に予約を入れた。
金額も通常の整体院に比べると高かったが、症状を少しでも緩和してくれるならと思い、通うことにした。
数回通ったある日、季節は夏だったのだが、膝丈の5cm上くらいのハーフパンツで家を出てしまった。その日、整体の予約を入れていたことを忘れていたのである。
しかも、そこは着替えが出ない。
ただ、その治療は通常の整体と異なり、ほとんど足を触らない施術(足首をつかんで曲げるくらい)だったので、問題ないだろうとそのまま向かった。
入るなり整体師に「足、めっちゃキレイですね」と褒められて、すごく嫌な予感がした。今思うと、その場で帰るべきだった。
施術が始まると、いつもは触らない足を異様に触ってくる。おかしいなと思っていると、ハーフパンツの隙間から手を突っ込まれて、そのままお尻ぎりぎりの太ももまで撫でられた。
次に、口コミを吟味して、評判が良さそうな整体院を探してそこに行くことにした。
最初のうちは良かったのだが、回数を重ねるうちに「患者に聞くべきじゃない」個人的な情報を聞き出そうとする気配があった。
答えたくないので濁していたが、だんだん「整体師と患者の恋愛はどう思うか」など、気持ち悪いことを聞かれるようになり、気持ち悪くなって行くのをやめた。
次に行った整体院では、整体師が左手の薬指に指輪をしていたので、いささか安堵した(最初にセクハラをしてきた整体師も既婚者ではあったが)。
しかし、やはり回数を重ねるごとに個人的な質問が増え、挙げ句に「妻とは不仲、いつ離婚してもいい」などと話し始めたため、気持ちが悪くなって行くのをやめた。回数券を買ってしまっていたので、2万円分くらいをドブに捨てることになった。
これらはほぼ1年半以内に立て続けに起こったことで、その結果、男性の整体師という存在そのものが気持ち悪くなり、体を触られるのも無理になった。
たぶん、知人の会食に知らない男性がいて「整体師です」って言われたら、申し訳ないけど「うわ、気持ち悪い」と思ってしまうと思う。
もともと整体師の性犯罪というのは時折耳にすることで、医者に比べて件数が多い。それは、国家資格を得なくとも独立開業できるという手軽さもあるから、医者に比べてコンプライアンス意識も低いんだと思う。
さらに、整体師は整体師になりたくてなったのではなく、何らかの事情を抱えてドロップアウトした人も多く、社会人経験が乏しい人もいる。
身バレが怖いので詳細は書けないが、整体師という立場を使った職業倫理に反するビジネスを展開していると公言する人物もいた。
さらに保険適用をしている医院でも、ケガは治っているのに、なぜか料金をサブスクにしており、基本的に患者が言い出さない限り継続されるという料金システムを取っているところもあった。
怖くて男性のいる整体院に行けなくなってしまったので、現在は女性の整体師さんがいるところに電車に乗って通っている。
最初からそうすればいいだろと思われるかもしれないが、女性が開業している整体院というのは数がものすごく少ないから、遠方まで通う必要がある。
それに、女性が開業している場合、良からぬ目的で通う男性客を避けるために、料金を高めに設定しているケースが多い。
周りに話を聞いても、整体院で変なところを触られたとか、飲みに誘われたという知人は多い。
いや、本当になにしてくれてんだよと思う。こっちは体の不調という切実な理由で通っているのに、お金まで払って、なぜこんな目に遭わなければいけないのか。
そもそも整体院を選ぶときは大通りに面したところを選んでいたし、服装もダボっとしたスウェットを着るなど最低限の自衛はしていたのである。
整体院は体のメンテナンスをするところであって、お前の狩場じゃねえんだわ、って思う。
それに、私は立派な中年である。中年になってもなお、このような被害に遭うのだから、本当に気が抜けない。
ここに書いた整体院のGoogleレビューに書いてやりたいが、こちらは住所を握られているから、報復が怖くて書けない。
あと、たまに整体師とか、美容師とか、ジムのトレーナーとか、体の一部に触れるサービス業の異性をすぐに好きになっちゃう人がいるけれど、悪いことは言わないからやめた方がいい。
仮に相手から恋愛的なことをほのめかされてのぼせ上がったとしても、それはあなたに言ってるんじゃなくて、客の大半に言ってると思った方がいい。
しかも、それでなびいちゃう人がいるから、成功体験をつかんで次から次にそういうことをしているんだと思う。
ということで、カスタム施術を受けたいから個人院を選ぶという私と同じような人は、女性か、夫婦で運営する整体院を強めにおすすめします。
こんな恵まれた人に、#ママ戦争止めてくるわとか言われてもなあ…
新卒で大企業の出版社に入って産休育休時短も取ったけれどフリーライターになるため会社をやめましたって、1982年生まれにしてはあまりにもイージーモードな人生で羨ましい。さすがは早稲田卒。
ていうか、結婚してるんだからフリーライターじゃなくて専業主婦では?
https://note.com/mayuko_kiyoshi/n/n0178432b4ecb
22歳、新卒で入社した私は、気づいたら同じ会社で39歳になっていた。
むしろ上には可愛がられ、下には支えてもらい、同期には甘え、何もかもスムーズで快適だけど辞める。
まるで巨大な単一人格が存在し、俺を観測し、評価し、記憶し、社会的スコアを付与しているかのように扱われる。
しかしストア派の冷徹な自然観に従えば、その前提は最初から壊れている。
世間とは主体ではない。世間はロゴスを宿した統一的意志ではなく、ただの相互作用の束、無数の表象と衝動と欲望の乱流である。
つまり世間が俺を認識していないのではない。世間という仮想の審判者を俺が作り出し、その審判者が俺を見ていないという物語を俺が採用しているだけだ。
ストア派はここで、即座に区別を導入する。エピクテトスの二分法だ。
すなわち、俺の支配下にあるもの(選択能力、意志、判断)と、俺の支配下にないもの(他者の評価、偶然、噂、流行、アルゴリズムの気まぐれ)を切断せよ、と。
世間の認識は後者だ。つまり俺がいくら歯を食いしばっても、そこに統制権はない。
ならばその領域に魂のリソースを投下するのは、倫理的にも論理的にも誤りだ。
ストア派はこれを外部財への隷属と呼ぶ。名声は外部財であり、承認は外部財であり、世間の視線は外部財である。
外部財に依存する生は、最初から不安定に設計されている。株価に人生を賭けるようなものだ。
しかし、ここで話は終わらない。なぜなら俺が言っているのは世間が俺を認識していないだけではなく、俺も世間を認識していないからだ。
この対称性が、ただの愚痴を形而上学へと押し上げる。これは単なる孤独の嘆きではなく、認識論的な断絶の宣言である。
俺は世間を見ていない。世間も俺を見ていない。ここには、相互主観性の回路が形成されていない。
社会とは本来、相互に他者を他者として認識し合うことで成立する。
しかしその回路が途切れている。これは社会的死の一形態であり、ユング的に言えば集合意識への接続不全だ。
ユングは言う。人間は意識だけで生きているのではない。個人的無意識と集合的無意識があり、さらにそこには元型が蠢いている。
世間というものは、単なる人間集団ではない。世間は集合的無意識の表層に現れる社会的ペルソナの海である。
ペルソナとは仮面だ。人は社会の中で、役割に最適化された仮面を被る。
会社員の仮面、家族の仮面、SNSの仮面、善良な市民の仮面。世間は、無数のペルソナが互いのペルソナを認識し合って成立する、仮面の交換市場である。
そしてここで重要なことが起きる。俺が世間は俺を認識していないと感じるとき、それは俺の本体が認識されていないというより、俺のペルソナが市場に上場していないという意味である可能性が高い。
世間は本体を見ない。世間は仮面しか見ない。世間が見ているのは、社会的にタグ付け可能な記号、職業、年収、肩書、フォロワー数、言語の癖、政治的立ち位置、消費行動、顔の表情、服装のテンプレだ。
世間は個体の魂を識別する器官を持たない。だから世間に認識されるとは、実際にはペルソナとして分類されることに過ぎない。
つまり俺が認識されないと言うとき、それは分類されないということだ。
分類されない者は、統計に載らない。統計に載らない者は、社会の意思決定に影響しない。影響しない者は、存在しないものとして扱われる。
これは現代のロゴスではなく、統計的なダイモーンである。世間は人格を持たないが、集合としての惰性を持つ。惰性は倫理を持たない。惰性はただ、流れる。これが世間の正体だ。
しかしユングはさらに深く刺してくる。俺は世間の人間を一切認識していないと言うとき、そこには投影が潜んでいる。
俺は他者を見ていないのではない。俺は他者を世間という抽象概念に圧縮している。
これは他者の人格を剥奪する心理的操作だ。世間の人間は、顔も名前も欲望も恐怖も持つ具体的存在なのに、俺はそれを世間という巨大なモンスターにまとめてしまう。
つまり俺は他者を認識しないことで、逆説的に自分を守っている。ユングはこれを影の機制として読むだろう。
影とは、自我が受け入れたくない側面の貯蔵庫だ。俺が世間を嫌悪するとき、その嫌悪の一部は、俺自身の影が外部に投影されたものかもしれない。
世間は薄っぺらい、世間は愚かだ、世間は凡庸だ、世間は空虚だ。そう断罪することで、俺は自分の中の薄っぺらさ、愚かさ、凡庸さ、空虚さを俺ではないものに隔離している可能性がある。
これは心理的には合理的だ。自我は自己像を守るために、世界を歪める。だがそれは同時に、個性化のプロセスを阻害する。
ストア派の言葉で言えば、これは判断の誤謬だ。外部の現象に価値判断を貼り付け、心を乱す。ストア派が問題視するのは現象ではない。
現象はただの現象だ。問題は俺の判断だ。世間が俺を認識しないこと自体は中立である。
善でも悪でもない。ただの事実である。しかし俺がそこに「これは耐えがたい」「これは屈辱だ」「これは人生の敗北だ」という価値を付与した瞬間、俺は自分の魂を鎖につないだ。
そしてこの鎖の正体は、承認欲求というよりもっと原始的なものだ。
ストア派的に言えば他者の評価への恐怖であり、ユング的に言えばペルソナ崩壊への恐怖だ。
世間に認識されないということは、ペルソナが成立しないということだ。ペルソナが成立しないと、社会の舞台における座標がない。座標がないと、自我は漂流する。漂流する自我は、存在論的不安に沈む。
だから俺は認識されないことを恐れているのではない。俺が俺であることを保証する外部の鏡がないことを恐れている。
人間は他者の眼差しを通して自己像を形成する。これはサルトル的だが、ユングも似た構造を持つ。自己は自我を超えた中心だが、そこに到達するには、他者との摩擦が必要になる。摩擦がなければ、俺は自己の輪郭を得られない。
だがストア派は冷酷に言う。そんなものに依存するな、と。自己の輪郭は外部の鏡ではなく、内的ロゴスによって確立されるべきだ。
ストア派にとって自由とは、外界の承認から独立した精神状態である。アパテイアとは、無感情ではない。誤った価値判断から解放された状態だ。
世間に認識されないことを害と見なさないこと。世間に認識されることを善と見なさないこと。これが精神の自律だ。
しかし、ここで一つの逆説がある。ストア派は共同体を否定しない。むしろコスモポリタニズムを唱える。
人間は宇宙国家の市民であり、互いに理性によって結ばれている、と。つまりストア派は世間を無視して独りで悟れとは言っていない。
むしろ共同体に奉仕せよ。ただし、共同体からの評価に魂を売るなと言う。
これが厄介だ。俺の状況は、奉仕する共同体が実感として存在しないという状態だ。
世間が見えない。世間も俺を見ない。ここでストア派倫理は、真空に投げ込まれる。
ユングはここで、個性化の観点から別の地図を提示する。世間から切断された者は、集合意識の浅瀬に住めない。
浅瀬に住めない者は、深海に潜るしかない。つまり、世間に適応するペルソナのゲームを捨てた者は、否応なく影と対峙し、アニマ/アニムス(内なる異性元型)と格闘し、自己の徴候に出会う。
これは苦しいが、精神の錬金術でもある。ユングはこれを魂の夜と呼びたくなるだろう。孤独は病理である場合もあるが、同時に、個性化の必須条件でもある。
だから世間が俺を認識しないは、災厄であると同時にチャンスでもある。
世間に認識されることは、社会的安定を与える代わりに、ペルソナの牢獄を与える。認識されないことは、安定を奪う代わりに、自由と深度を与える。
これはユングの言う補償作用だ。意識が外界で満たされないなら、無意識が別の形で膨張する。世間が俺に意味を与えないなら、無意識が俺に意味を生成する。
しかし、意味生成には危険がある。世間が俺を認識しないとき、俺は選ばれた孤独という神話を作りたくなる。
これは元型的誘惑だ。殉教者の元型、賢者の元型、アウトサイダーの元型。俺は世間に理解されない天才だ、という物語は甘い。
だがそれはしばしば、単なる自己防衛の神話化にすぎない。ユングはそれをインフレーションと呼ぶ。
自我が元型のエネルギーを吸って巨大化し、現実との接地を失う状態だ。これは精神の事故だ。孤独が精神を鍛えることもあるが、孤独が精神を神格化することもある。
ストア派は、この危険をもっと簡単な言葉で切り捨てる。思い上がりだと。
宇宙の秩序の中で、俺が特別に悲劇的である理由はない。俺が特別に見捨てられている理由もない。世界は俺を中心に設計されていない。
ここでストア派は残酷なほど健全だ。世界が俺を見ていないのは、世界が忙しいからだ。
世界は世界のロゴスで回っている。俺はその一部でしかない。これは虚無ではない。むしろ、過剰な自己重要感からの解放である。
そして結局、俺が言うべきことはこうなる。
世間が俺を認識しないのは、世間が愚かだからではない。世間とはそもそも、俺を認識するための器官を持たない現象だからだ。
世間は意識ではなく、統計的流体であり、アルゴリズムであり、模倣の連鎖であり、集合的無意識の泡である。そこに人格的な期待を置くのが誤りだ。
また、俺が世間を認識しないのは、俺が優れているからではない。俺が他者を抽象化し、投影し、影を外部化しているからだ。
俺は世間を見ているのではなく、世間という言葉に詰め込んだ自分の恐怖と嫌悪を見ている。
俺は世間を拒絶しているのではない。俺は世間を通じて、自分の無意識と戦っている。
ストア派の結論は明快だ。認識されるかどうかは外部の事象であり、俺の徳とは無関係だ。
俺が制御できるのは、判断と行為だけだ。ゆえに、世間の認識を求めて魂を擦り減らすのは、ロゴスに反する。
ユングの結論はもっと暗い。世間に認識されないという傷は、影を肥大させ、投影を増やし、ペルソナを崩し、個性化を促進する。
つまり俺は今、精神の錬金炉の中にいる。そこから黄金が出るか、煙だけが出るかは、俺の自我がどこまで誠実に無意識と対話できるかにかかっている。
だから、このタイトルの文章は、ただの絶望ではない。これは認識の構造の告白だ。
世界は俺を見ない。俺も世界を見ない。その断絶は、社会的には不幸であり、哲学的には中立であり、心理学的には危険であり、同時に可能性でもある。
俺がすべきことは、世間に認識されるために仮面を磨くことではない。仮面が必要なら、それは道具として作ればいい。しかし魂を仮面に売るな。ストア派の禁忌はそこにある。
世間を憎んで自分を正当化することでもない。影を世間に投げつけるな。ユングの禁忌はそこにある。
残るのは、静かな実務だ。俺の支配下にある行為を、今日も淡々と実行すること。ロゴスに従い、自然に従い、徳に従い、同時に、自分の影を凝視し、投影を回収し、自己の中心に向かって潜ること。
世間が俺を認識するかどうかは、天候のようなものだ。雨が降るかどうかに怒るのは愚かだ。だが雨が降るなら傘を差すのは合理的だ。世間は俺を認識しない。
ならば、俺は俺の生を、俺の判断で構築する。世間が俺を認識しようがしまいが、宇宙は無関心に回り続ける。ならば俺もまた、余計なドラマを捨て、静かに回ればいい。
「俺は世間を認識していない」と言いながら、この文章を書いている時点で、俺はすでに世間を認識している。
「世間は俺を認識していない」と言いながら、その不在を語ることで、俺は世間の視線を前提にしている。
つまりこの文章は、断絶の宣言ではない。断絶を前提にした、接続への欲望の記録だ。
ロゴスに反し、元型に引きずられ、影を撒き散らし、それでも理性を求める生物だ。
女性トイレの行列問題で、弱者男性が女性のスペース増設にキレまくってるじゃん?
国土交通省の指針案で女性用便器を男性以上にする動きが進んでる。
なのにXで「男のスペース奪うな」「スマホいじってる女が悪い」「和式に戻せ」ってうるせえ。
彼ら、ただの甘えでしかない。
社会で上手くいかないのを全部女のせいにして、女性が少しでもマシな環境を手に入れるのが許せないだけ。
自分より下の存在がいなくなるのが怖いから、女性の小さな改善さえ全力で潰そうとする。
弱者男性の「生きづらさ」?
そんなもんねえよ、ただの甘え。
女がトイレで苦しむのを「仕方ない」って放置してきた構造が問題なのに、それを指摘されたら逆ギレして女を叩くとか、情けなさすぎ。
前に「生まれた環境に恵まれなかった子供たちの支援に関わっていたけど、あいつらクズばかりだ。途中から『もうこいつら不幸になろうがならまいがどうでもいいわ、養分として搾取されて生きろ』と思い始めた」と言ってるエントリが昔話題になってたけど、
それは虐待被害者が被害により、虐待に遭いやすい性格に育ったからじゃないかと思う。
こんな話を読んだ。
http://www.kitimama-matome.net/archives/59904730.html
虐待に遭った知人がいる。
暴力とか暴言とか、性的なこと以外で思いつくようなことは全部されてた。
就職して実家を出たと思ったら、そこもブラックな職場だったようで、上司が家に平然と出入りして、趣味のもの(オタク系の趣味があった)を取り上げ、キショい等等の人格否定に遭ったらしい。
苦労して集めたDVDなどを勝手に捨てられたり、ゲームを無断借りパクされたり。(窃盗では?)
知り合い総出で、今の状態はおかしいから病院に行け、仕事も辞めろと説得した。
できれば引っ越して、実家とも絶縁しろという話になり、その人は結局、知人の助けの上で引っ越して転職した。
でも、その後もトラブルは絶えなかった。
何故か新しい職場でも似たような事態になり、ひどいと医者までもがその人に暴言を吐くという。
私はあまり親しくはなかったが、その人の親友とよく話す機会があった。
話を聞いては、なんでそんな事になるんだ?と毎回不思議だった。
数日前、本人と話す機会があった。
もう信じられないほど卑屈になっていて驚いたんだけど、
それより、話しているうちに、私自身がどんどんおかしくなっていく気がした。
うまく言えないんだけど、その人と話してると、何でもその人が悪いような気になっていくんだよね。
何でもかんでも、こじつけみたいな事で自分のせいですごめんなさいって謝り出す。
今日天気悪いねーと言えば、自分がこの日を指定したから、天気悪い日に外出させてゴメンナサイ。
移動で電車が混んでたら、自分との移動に煩わせてゴメンナサイ。
あのアニメ見た?→見てませんゴメンナサイ、自分が無知で話の腰折ってゴメンナサイ。
何が食べたい?→何でもいいです気を使わせてゴメンナサイ。
謝る事ないよってその都度に落ち着かせてたんだけど、なんか段々、面倒になっていってしまうんだよね。
ほんの数時間一緒にいただけで、なんでこいつこんなに卑屈なんだ?面倒臭いなと思ってしまって、
その内に段々と、本当に詐病なんじゃないかとまで思い始めてしまった。
実は全部この人の虚言で、可哀想がって欲しいだけなんじゃないか。そんなのおかしい、私は貴重な休日にこの人を慰めるのに苦労してるんだから、やっぱ本当に謝らせた方がいいのか、と。
絶対にそんなことはないってわかってるのに。
逆洗脳?とにかく、どんどん加虐的な考えが浮かんでくるから、とても怖くなってしまった。
今、その人をブロックしようか迷ってる。
その人が被害者なのは間違いないんだけど、下手に助けようとか思って関わってたら、自分がその人を虐げる側に行きそうで。
でもブロックも十分酷いことだよな…やめた方がいいのか…って、ずっとぐるぐるしてる。
この話から、被害に遭った人は被害を呼び寄せるように変容する、という仮説を得た。
何度もDVされる人、何度も浮気される人、何度もいじめられる人、何度も性被害に遭う人、そんな人はよくいる。生家でも虐待に遭い里親家庭でも虐待される人も…。
あの増田が関わった、親に恵まれない子供達も、虐待に遭っているうちに「こいつ本当にクズ」と思わせ、虐待や搾取を呼び寄せたり「虐待や搾取されても仕方ない」と思わせるように自分を変容させたのだと思う。
ツイッターにもいるだろう。○○に攻撃され、その○○という属性を嫌うようになり、益々○○から攻撃される人が。被害は連鎖する。
虐待被害者がDVするような配偶者と結婚する。これも自己変容の結果だろう。
性被害に遭ったことのあるはずの彼女が、露出の多い服装で夜中に出歩き、平気で男の家に上がる、本当に被害にあったのか?という相談も見た。
「性被害に何度も遭うのは、性被害によって性犯罪に警戒するレーダーのようなものが壊れてしまうから」という分析も見たことがある。
「痴漢にあったら絶対に警察に突き出してやる」と思っていると不思議と痴漢にあわなくなるらしい。加害者は、被害に遭いやすい人の負のオーラを目敏く感知する。
力を加えられたものが、壊れる代わりに凹んだり歪んだりするように。
綺麗だと言い続けると綺麗になる。成績を褒め続けると成績が伸びる。となると、その逆もあるのだ。
負のピグマリオン効果とでもいうのか。
断っておくが、「被害者が悪いのだ」と言いたいのではない。加害者が悪いに決まっている。
被害者を変容させ、幸せから遠ざけてしまうのだから、加害者は一層許しがたい。
それに、加害があるたびに「どうせ被害者に原因があるんだろ」ということはできない。被害者がどんな人間だろうと関係なく加害する人は当然ながら沢山いる。
「被害者の自己変容論」が、加害者の言い訳に使われそうな仮説だということは承知だ。だが、むしろ加害者へのアプローチには使えないか。
虐待する親は「あの子は本当に馬鹿で悪い子で苛つかせてくるんだ!あの子が悪いんだ!」と本気で主張する。DVする奴も同じ。
そんな時「あなたが虐待するから、益々その子はあなたを苛つかせて虐待されやすいように自己変容するのです。あなたのせいです。あなたが変わりましょう」と自己変容論を用いて説得することはできないか。
はあ、もうそれでいいけどさ、パズルゲームをしてるのは店であって、店は空いてるピースに対して客を呼び込んでるわけじゃなく、条件つけずに未婚者を受け入れているわけだろ
受け入れている以上文句言うなって当たり前の話も分かんない低能なのか?
例えば、飲食で高級なところはドレスコードで異常者をはじいているよな?そこに短パンサンダルが来て暴れまわるなら、客がカスだ。最初はきちっとした服装だったが、急にラフな格好になりだしたら
それは客がモンスターだ。
でもドレスコードがないラーメン屋に短パンサンダルで言ってもモンスターではない。当たり前だよな?
くだんの結婚相談所はドレスコード設定してないのに、あなたはうちの店に合いませんね。って入れてから勝手にラベリングしてるってことだろ
あれ、何の勧誘?
多分コロナくらいの頃からずっといるけど、学生さん笑じゃないので正体不明。
なにしろ私は、
コロナ当時から学生さんではないのだから、今はアラフォーに差し掛かっている。
とかを通り越して、恐怖を感じる。
芋全開のマスクとメガネをしているし、キャッチ自体も若そうなので学生判定がガバガバすぎる。
ババアなら共感できると思うが、ガキはババアを見分けられない。
でもなぜこんな恐ろしいことが起こるのか、よく考えてみた。
私は年相応の服装をしている。
当時のお母さんが私と同い年くらいで、もうお母さんみたいな服装にならざるをえないんだよ。
それに、寒いし。
オシャレは我慢だが、お母さんは我慢する理由も必要もないので、真冬と真夏は特にお母さんだよ。
グリーンレーベルとかの安いダウンコートにGUのパンツとブーツとかスニーカー。
お母さんだろ?
でもなんでお母さんが、学生さんですか!?というトンチキな声がけをされるのか?
考えてみなよ。
今の若い子たちも、
お母さんみたいな服装してんだよな。
いつも不思議なんだがなんで非モテのチー牛って反省しないんだ?
一般的な男性は小中高のあいだに女子に嫌われるような振る舞いをしてしまったり身だしなみに無頓着すぎて嫌われたりあるいは逆に似合いもしない気取った格好をし過ぎて浮いたりしながら少しずつ自分なりに人から好かれる態度や格好を学んでいくじゃん
かく言う俺もそうだよ
言うほどモテはしなかったけど「俺の顔の形でマッシュヘアは似合わないんだなぁ」とか「イキった自慢話すると嫌われるなぁ」とか人との交流のなかで学んでいった
なんならいまだに風呂の中で思い出して叫びたくなるような黒歴史もあるけど、それでもそういう経験から少しずつ学んで人から好かれる所作を身につけていったしみんなそうやって社会性を身につけるわけじゃん?
でも非モテのチー牛ってそういう自己反省とかしない傲慢なやつしかいない
これ傲慢だから非モテチー牛になるのか非モテチー牛は傲慢になるのかどっちなんだろうな
もみあげが伸びた気色悪い髪形
人の話を聞かないコミュニケーション
人を見下す姿勢
これって男子児童がみんな持って生まれてきて本来小中高のうちに矯正される特性のはずだよな?
非モテチー牛ってなんでこういう幼稚な特性を持ったまま大人になるんだろ
逆に小中高のあいだどんな人付き合いをしていたらああなれるの?
10年ぶりぐらいにかつての親友を見かけたらあまりに気持ち悪い姿に変貌してて吐きそうになった話
吐き出すところがなくてだらだら書いてるだけ。
そいつは美意識が高いやつで、背は低かったけどおしゃれな服を着こなし、とてもカッコよかった。
好んでレディースの服を着てたけど、背の低さもあいまってそれが似合って、逆に男らしく、かっこよく見えた。
体形もスマートで、体脂肪率一桁とか言ってた。二桁行くと不安になるだかで、ずっと節制してたらしい。
髪をよく染めてた。ブラウンやアッシュ、時にはブルーやピンクに染めてた。すごく綺麗に染まってて、よく似合ってた。
化粧してた。メンズの化粧品が流行るずっと前から、ファンデーションつけて眉描いて、バッチリ化粧してた。カッコよかった。
音楽やっててギターも歌もうまかった。本もいっぱい読んでて知識も豊富だった。
頭の回転も速く、会話をしていてとても楽しい奴だった。
正直、自分の完全な上位互換な感じがして、ちょっとうらやましかった。
当時の俺はいろいろあって心に余裕がなく、無意識のうちに自分の不機嫌で周囲をコントロールしようとしてた。
それでもある程度は俺に付き合ってくれていたけど、ある日、相手の誘いを断ったら、その日から連絡が取れなくなった。
何度も連絡したけど繋がらなくて、ほどなくして『ああ、自分は縁を切られたんだな』と納得した。
むしろ、よくしばらくの間付き合ってくれてたなぁと思う。
それからは会うこともなくなり、話す機会ももちろん無くなった。
つい先日、偶然コンビニで姿を見かけた。
見間違うはずがない。確実にあいつだった。
棚の向こう側にいたから、服装は棚に隠れて何を着ていたのかは分からなかった。
でも相変わらず髪を染めてた。シルバーというよりは爺さんの白髪みたいな色だった。前髪だけ薄汚い紫みたいな色だった。
相変わらず化粧してた。塗りまくってるのか、ファンデーションの粒子が顔全体にびっしりついてる感じがした。
アイライン? アイシャドウ? よくわかんないけど、目の周りが真っ黒だった。
げっそりして頬がこけてた。歳とったジョニーデップが化粧してマイケルジャクソンそっくりになったみたいな顔してた。
あんなにかっこよかったアイツが、とてつもなくグロテスクな化け物みたいな姿になっていた。
面影が残っていたのが幸というか不幸というか……
そのグロテスクな生き物はアイツだというのが分かってしまう程度には面影が残っていた。
あまりにショックだったのか、チラッと見ただけなのに気持ち悪くなってしまい、急いでコンビニを出た。
その後急いで別のコンビニに移動したわけだが、移動中はずっとえずいてた。あともう少しで吐くとこまで行った。
別のコンビニの駐車場で少し休憩して気分が改善したあと、家に帰った。
家に帰ったあといろいろ考えた。
この反応は、ひょっとして以前に縁を切られたからではないのか。
自分では納得して受け入れたと思っているが、実はトラウマのようにかつてのことを思い出しただけなのではないか?
でも、そう考える度に、
あんなグロテスクな姿になってしまったアイツの顔を思い出して、気持ち悪くなる。
あんなにかっこよかったやつなのに。
正直、ちょっと憧れた部分もあったやつなのに。
それなのに、あんな姿になるなんて信じられん。
人の顔に対して失礼だとは思うが本当に気持ち悪い。
奥さまにこのことを話した。あいつと縁が切れてから、いろいろあって結婚した奥さまだ。
『そういう人いるよねぇ~』と軽く流された。
単純に、人間にラベルつけてパラメータを公開したら攻略サイト化するんじゃないの?
身長やら服装やらで絞り込んでいる人たちは心底意味不明だと思うよ
anond:20260129162733 オーク、ホビット、ゴブリンレベルで結婚できるのに、生活感とか服装とか匂いとかなんか原因があるだけやろ 逃げずに向き合え
婚活市場で「条件を増やすほど対象がレアになる」ってよく聞くけど、あれ、言い方がおかしいと思う。
「女が高望みしている」んじゃなくて、単に「男が人間としての最低限のアップデートを怠っている」だけだよね?
メイク、スキンケア、ダイエット、TPOに合わせた服装。女として社会で生きていくための「入場券」として、努力を日常的にこなしてる。
「清潔感」を「毎日風呂に入ってる」程度に勘違いしてる層が多すぎる。眉毛を整える、サイズ感の合った服を着る。そんな基本さえ男にとっては「特別な努力」枠。この時点で7割が脱落。
女の世界は共感と調整の連続。空気を読んで相手を不快にさせない会話ができないと集団からハブられて社会生活が送れなくなる。
話をしても自分の自慢話かオタク知識の披露ばかり。そんな低レベルなコミュ力でも許されて生きてきた甘えの構造が透けて見える。
ここだけは平等。
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女性にとっては「ごく普通の存在」であるための努力が、男性基準だと「上位3%のエリート」扱いになってしまう。
女性は自分と同じ高さのスタートラインに立っている人間を探しているだけ。
イスラム教を嫌っているわけではないし、信者個人を否定するつもりもない。
ただ、日本では外来宗教そのものが社会の土台にはなりにくい。特に一神教は難しい。これは感情論ではなく、歴史と社会構造が示している事実だ。
そもそも日本社会は、宗教を「絶対的な真理体系」として受け入れる社会ではない。社会や生活の安定が先にあり、宗教はそれを補完する儀礼・慣習・意味づけの装置として扱われてきた。日本は、外来宗教を信仰としてそのまま受け入れるのではなく、社会に適合する形へと作り替える社会と言える。
この背景には、土着の宗教としての神道の存在がある。神道は教典や排他的教義を持たず、唯一の正しさを主張しない。そのため、日本人の宗教観は、無意識のうちに「状況に応じて使い分ける」「複数を同時に受け入れる」ことを前提として形成されてきた。
6世紀に仏教が伝来した際ですら、蘇我氏と物部氏の対立という宗教的・政治的な争いが起き、社会に定着するまでには約100年を要した。しかも仏教は、出家中心・解脱志向という原型のままではなく、神仏習合や先祖供養、国家儀礼への組み込みなど、日本社会に合わせて大きく姿を変えたからこそ社会に根付いた。
一方、キリスト教は1549年に伝来してから約470年が経つが、日本社会の土台となる宗教にはなっていない。もちろん、キリスト教も、結婚式の様式、建築、音楽、教育、倫理的イメージなど、教義から切り離された「様式や文化的要素」は、すでに社会の中に広く浸透している。これは、日本社会がキリスト教の信仰体系を受け入れたというより、利用しやすい部分だけを取り込んだ結果だ。
逆に言えば、唯一神信仰や排他的教義といった核心部分は、日本社会の重層的で柔軟な宗教観とは合わず、社会の前提となるには至らなかった。
イスラム教も同じく一神教であり、しかも信仰と生活規範が極めて強く結びついている。信仰は内面にとどまらず、食事、1日5回の祈り、服装、断食(ラマダーン)、埋葬といった日常生活の細部にまで及ぶ。この点で、日本社会に合わせて宗教側が変化する余地は、キリスト教以上に小さい。
日本社会ではハラールや1日5回の祈り、服装や断食といった実践に対しては、比較的不満が出にくい。これらは個人やコミュニティの内部で完結し、社会全体の制度や仕組みを変えずに共存できるからだ。
一方、土葬は性質がまったく異なる。埋葬は個人の信仰行為であると同時に、公衆衛生、土地利用、墓地制度、行政管理といった社会全体の仕組みに直接関わる。日本は長年、火葬を前提に制度と文化を築いてきたため、土葬は単なる宗教的違いではなく、社会の前提を揺るがす行為として受け止められる。その結果、ハラールや祈りには配慮が向けられても、衛生的な問題を伴う土葬には強い反発が生じるだ。
社会に適応できた宗教、あるいは文化的要素として切り出せた部分だけが、時間をかけて残ってきた。
一神教が日本社会に深く溶け込むのが難しいのは、偶然でも偏見でもなく、歴史的にも構造的にも、ほぼ一貫している。
なので、土葬の受け入れは、反発が大きいし、土葬を容認しようと主張する人は、社会の秩序や制度を揺るがす存在として受け止められやすく、場合によっては「社会を壊すもの」と見なされることもあるのだと思う。