
はてなキーワード:月並みとは
社会人になってしばらく経ち、結婚だ物件だと大きなプライベート案件の話が出てくると、いわゆる実家が太いとか、お育ちが雅でとか、そういう話が結構顔を覗かせるようになってきた。
自分は田舎のサラリーマン家庭で育った。THE中流階級だったと思う。小学校の頃は、自宅とは違う雰囲気の友達の家に遊びに行っても、いろいろあるなあくらいにしか感じていなかった。たくさんの習い事や歯列矯正をさせてもらっていたし、母から「パパもママもこどもにいちばんお金をかけたいの」と言い聞かせられていたので、自分は恵まれているなあとは思っていた。中学校はずっと学級崩壊しており、いじめと暴力と地方脱出のための勉強漬けでそれどころではなかった。高校は進学校だったので、医者の娘とか社長の息子とかがごろごろいた。私立医学科が選択肢にあるなんてやんごとねえな~くらいは思っていたが、自分の受験に必死でそれどころではなかった。オープンな校風の都内の大学に進学したので、お金がないやつもいれば世田谷の実家から通っているやつもいた。でも大体みんなバイト代でやりくりしていたし、大体みんなお金が無かった。大学生なんてそんなもんだった。
社会人なりたて程度では、会社の同期も大学の友人たちも、一部を除いてそれほど突飛な収入差はない。みんな概ね一直線。そのはずだったのに、5年10年経つとなんかおかしい話が出始めてくる。明らかに弊社の収入では賄えない頻度の海外旅行とか、明らかに弊社の収入では賄えないマンションとか。お金の使いどころや株では片づけられないハテナが頭に浮かぶ。で、そのうち飲み会とかで噂が回ってくるのだ。「おじいちゃま松涛らしい」「マチアプで出会った彼女の親が」「生前贈与で」。
そんなのありかよと思った。ずっと勉強頑張ってきて、田舎から脱出して、ようやく23区で同じ土俵に立てたと思ったのに、立ってるところ全然違うじゃねえかよ。なんだそれは。配偶者の実家が太いパターンはさらに腹が立った。一発逆転ってそんな転がってるもんなのか。
自分は大好きで尊敬できる、似たような収入で似たような出自のパートナーとさっさと結婚していた。これに関してはなんの後悔もしていない。でもなんかもう空しくて仕方がなくて、パートナーにぼやいたところ、ライフプランシミュレーションのエクセルを見せられた。そこにはざっくりとした人生の進みとそれに応じた資金計画が書かれていて、ちゃんと働いてちゃんと資産形成していけば、20年後30年後には結構いい感じになってますというものだった。なんだ意外といけるもんかと安心し、しっかり者の相手に改めて感動したが、なによりも、自分の足でゆとりある生活を安心して送っていけるだけの学歴をつけてくれた両親への尊敬の念が湧いた。ようやく本当の意味で感謝できた気がする。
親の年収をしっかりとは知らないけれど、自分の方が学歴も収入レンジも高い。生活は細かく節約していたことが都会で適当に暮らしているとわかるし、こども2人が大学生だったときはなかなかギリギリだったと後になってこぼしていたのは少しだけ聞いたことがある。「地元に帰ってきてね」=「帰ってきて自分たちの面倒を見てね」が基本の田舎から、何も心配するな行けるとこまで行ってくれ、と背中を押してくれたのか。教育費をかけまくった見返りを期待することもなく。鳶が鷹をなどとは言いたくないし思ってもいないが、自分の代より子の代をずっと豊かにすることってできるのか。お生まれガチャや配偶者ガチャよりも尊いガチャを引き当てたのかもしれん。
親から良くしてもらったから、当然自分も自分の子にはお金も時間もかけてあげたいとは思っていたが、身が引き締まる思いがした。月並みな結論だけれど、しっかり親孝行も、子育てもしていきたい。保育園に迎えに行ってきます。
子どもが生まれてから、もうすぐ10年になる。めちゃくちゃ幸せ。子ども最高。
家庭のこと環境のことなどなど、長いあいだ悩み苦しみ こーーんなに生きると思ってなかったし、クリティカルな分岐点も複数回はあった。
という気持ちになっている。
若い頃はもちろん、生まれてからそんなことを思ったことがなかった。
でも今は、かなり具体的に長生きしたい。それはそれはしたい。
で、3日前くらいに、ふと閃いた。
と。
なんで勉強するのかって
なんで趣味をするのかって
楽しい、面白い、気持ちいい…そうじゃないと長生きに耐えられない。
大事だったり意味を問われたり、そういうオーソドックスなもの、全て「長生き」ベースに説明できそう。
…いいぞ。
物の扱い方。
まだ使えるものは譲る。
長く使える一生もの、みたいな物は、それを全うさせられる自分にまだなっていないなら、あえて今は手を出さない。
お金の使い方。
宵越しの金は持たねえ、ではないけど、あるものをある分、今と未来の自分が長生きしやすくなるように使えばいい。
…なるほどな…所謂「寿命が延びるぜ〜!」てことをすればいいんだな。
で、この辺でもう一つ閃いた。
楽しい、面白い、気持ちいい…そういうのを得た時の感覚を「寿命が延びるぜ〜!」だなと捉えた時、その解答が出たと感じた。
なんでそんなにもこんなにも大きな幸福なのかというと、概念的な寿命がありえない長さに延びるからだ。
わけがわかった。
めちゃくちゃ幸せなのも。
めちゃくちゃ長生きしたいのも。
他業界のホワイトカラーはまだ年功序列が根強く中年以降もキャリアラダーが用意されていて、たとえ老害ムーブがあったとしても正当化されるが、ソフトウェアエンジニアは40歳あたりからキャリアもロールモデルも用意されてない。その上、新しい技術がバンバン出てくるし、職人のような積み重ねも評価されづらい。若いころの何でも作ったるという情熱もない。「解決策がない」というのはこの業界独特の行き詰まり感なんじゃないか。
月並みだけど、マネージャー職にでもなるべきだね。社内やコミュニティの人的繋がりを増やしていこう。
・自分はたまたま年収面などで上手く言ったが、今の新卒のメンバーはどうなるか分からない。
・20代でFIREみたいな条件では無く、年齢相応に遊んだり失敗したりしながらも晩年詰まない方法を考えたい。
前提
・今の新卒が30代、40代になったらという話は経済環境が分からないから、今考え得るレベルで考える。
・親の資産も無い前提
やること
・もしもの時に即詰みにならない状態を作ろう。事故があったときの医療費や生活資金としての掛け捨て保険、急な退職など保険で賄えないことがあったときの貯金が必要。
・高額医療制度があるから保険は不要、若いうちは元気だから保険は不要、は分かりつつ、3,000円くらいから入れるので入っておいた方が良いと私は思った。
・最初は資産形成とかそういうこと、考えずに労働収入を安定化させることに動いた方が良い。今は転職も選択肢としてあり得るので、骨を埋める必要も無い。副業もある。
・月並みですが、100万超えたら生活スタイルを見つつも積み立てNISAに全ツッパ。
・今の制度だと120万/年を詰めるまではNISAだけ見ていればOK。
・オルカンでもSP500でもFANGでも日本株でもお好きなのをどうぞ。大事なのは投資している感覚を持たないこと。
その3:NISAに満額出来るようになったら、そこからは自由に。
・生活スタイルや家族の有無などにもよるが、年120万を安定して投資に回せるようになったら後は自分の欲望の赴くままにすればいい。
・成長枠を使って投資するもあり、老後に心配をしてiDeCoするのも良い、仮想通貨とかに掛けても良い。
・言いたいことは、その2まではあくまで投資であり、投機でではない。その3から投機を考えるようにした方が良い。
・資産というものが出来てきたら終わり方を考える。終身とか相続とか贈与とか。
・長い人でその3の期間が30年とかあると思うので、そのときにリテラシーが嫌でも上がっていると思うのでExitを考える。
ここまで書いて思ったけど、ぶっちゃけその2まで行けることが大事。
その1をおろそかにしてNISA全ツッパとか、ライフスタイル削ってFIREとか、何も言える立場では無いけど、お勧めはしない。
月並みだけど、そうじゃない男も居るよ
てか、結婚は共同戦線なんだからパートナーの収入多くて困ることなんか1ミリもないよ
うちは付き合った当初は妻の方が年収高かったけど、私は全く気にしないというか、単純に優秀な人なんだなと尊敬してた
結婚後も完全別会計なので妻がいくら稼ごうと特に私に関係はないが、ペアローン組めたり万が一自分に何かあっても金の心配が少ないのは本当にありがたい(当然逆の場合は私がフォローするつもり)
何より優秀な妻の影響・教育を受けて私自身のスキルやキャリアもあがったので、感謝しかない
まあ妻からは「女が優位でも僻んだり拗ねないところがあんたの一番良いところ」と言われてたので、そうじゃない男が多いのかもしらんが…
自分で言うととんでもなく烏滸がましいが、現在のパフォーマンスではなくスタンスが素直な奴を育ててやろうとすると良いのかもね
個人的には、村上春樹さん(以下、「春樹さん」といいます。)の作品で好きなのは、「風の歌を聴け」「ノルウェーの森」「ダンス・ダンス・ダンス」「遠い太鼓」、そしてこの「スプートニクの恋人」です。「ねじまき鳥クロニクル」や「海辺のカフカ」、「1Q84」も読みましたが、あまり印象に残りませんでした。
一番最初に読んだのが「風の歌を聴け」だったのですが、この作品で印象的だったのは、語ること・書くことそれ自体が小説となっているというところです。
つまり、この作品で主人公である「僕」は、「今、僕は語ろうと思う」と宣言する。作中に出てくる架空の作家、デレク・ハートフィールドは、いわゆるB級SF作品を大量に書く作家です。それにも関わらず「文章を武器として闘」った作家として「僕」に高く評価されます。そのデレク・ハートフィールドは、最愛の母親が亡くなった後自殺します-多分その「死」について文章を書けなかったからかもしれません。
何も言うことはなくても、何かを語って良いのだーそれは若い自分が感じ、勇気づけられたことです。初期の春樹さんの作品の良さはそこにあるのだと思います。春樹さんがチャンドラーの翻訳をしたことは象徴的です。ハードボイルド小説は、まさに「語る」ことの小説だからです。
ここで、「僕」が「語ろう」とし、デレク・ハートフィールドが「文章を武器」とすることの対比は、興味深いです。「僕」は「語り」、デレクは「書く」。この作品でも、「僕」の友人は小説を書きます。しかし、「僕」は本を読むだけ、そして、「語る」だけ-理不尽な世界に自分の置場を見つけるため、気になる女性に不誠実な男と思われたくないため。様々な理由で、「僕」は語ります。それを春樹さんが書きます。「語ること」そのものを書くこと、それが初期の春樹さんの文学だったのかもしれません。
春樹さんの作品は、このデビュー作から、主人公の軽妙な語り-会話であれ、モノローグであれ、が魅力的です。世界の理不尽に抗い、傷つきやすい自分を守り、誠実であることを認めて貰うために。
しかし、一貫して春樹さんの主人公は「語る」けど、書きません。書きませんでした。いや、本当はそうでないかもしれない。「羊を巡る冒険」を私は読んでません。「1973年のピンボール」は読みました。しかし、どうもぼやけた印象です。
ただ、「ノルウェーの森」の「僕」は、フィッツジェラルドを読むけれど、何も「書かない」。彼は書かずにただ、「語る」だけでした。
「ダンス・ダンス・ダンス」において、「僕」は、「文化的雪かき」と自嘲するコマーシャルライティングの仕事に従事しています。ここで「書く」ことが出てきますが、やはり主眼は「語り」です。というか、この作品こそ、春樹さんの作品の中で最も「語り」が冴えたものだと思います。警察の取り調べに対抗するために、五反田くんのことを知るために、羊男と対峙するために、ユキの職業的ボーイフレンドとして、そして、ユミヨシさんと近くなれるために、「僕」は言葉を尽くして語り続けます。しかし、その最後は空虚なものでしたー羊男のいなくなったドルフィンホテル。「僕」は札幌に引っ越して小説家になろう、と思いますが、具体的には何もなしとげないまま、ユミヨシさんと結ばれることが物語の結末となりました。
「本を読み、料理を作り、しゃれたやりとりで語り続ける」主人公の「僕」―初期の春樹さんの主人公の典型的なイメージは、若い読者の自意識に強く訴えかけます。ただ、他方で、とても空虚なことは否定できません。「僕」の周りは死に満ちています。「僕」は誰も救えない。結局、「語る」ことは、「僕」を生かしはするけれど、直子も、レイ子さんも、キキも、五反田くんも、誰も救えなかったのではないかーという疑念を抱かざるを得ません。
それは私の後付けの感想かもしれませんが、その後数年間の春樹さんの作品は、どこか力強さを欠く印象を受けました。
「国境の南 太陽の西」は自分には、若干覇気の無い「ノルウェーの森」に見えました。
「ねじまき鳥クロニクル」は昂奮して一気に読みましたが、不思議と何も覚えていません。井戸に潜るという主人公の奇妙な行動は「語る」ことの対局にある気がします。作品としては魅力的なはずですが、これまでのものと大きな隔たりを覚えざるを得ません。
そして、「アンダーグラウンド」―この作品において、春樹さんは語り手を「僕」から手放します。語り手はコントロールできない他者であり、春樹さんはそれを伝えるだけの役割になります。。もともと翻訳家としても活躍していた春樹さんですから、作者の「語り」を整え、伝える役割は決して珍しいものではありません。ただ、ここに来て、「僕」という一人称を手放し、もっと多様な「語り」に耳を傾けるものに変化したのではないかと思います。
その空虚さー変化というより、空虚さ、を私は感じました。「僕」はどこに言ったのだろうか。「僕」の「語り」の消滅はどこに言ってしまったのだろう。
そんな春樹さんが次に出したのがこの『スプートニクの恋人』です。私はこの作品がとても好きなのですが、それが何故かというと、この主人公「ぼく」の弱さ、語れなさ、に共感できたんだと思います。
ここで「ぼく」が登場します(「僕」ではない)。しかし、主人公の「ぼく」は何もできない。
「ぼく」が憧れる「すみれ」は、気楽に夜中に泊まりに来たりする。「ぼく」は「すみれ」に気の利いた返しで会話をしますが、それはどことなく稚拙であり、戯画的です。「すみれ」に気があることを隠し、「すみれ」に嫌われないための必死のあがきのように見えます。
そのうち、すみれは「ミュウ」という女性に惹かれ、あからさまな恋心を「語られ」ます。そうしてやっと「ぼく」はすみれに「好き」と言ってもらえるのですが、それに対して「ぼく」が言えたのは「ミュウの次に?」です。それはもう敗北の言葉でしかありません。
この作品-「スプートニクの恋人」の「ぼく」の語りは、奇妙に平凡で月並みで、しかも誰にも届かない。
「どうしてみんなこれほどまでに孤独にならなくてはならないのだろう」
すみれを見つけるためにギリシアまで渡った旅が徒労に終わり、おもわず「ぼく」がつぶやくこのモノローグ、こんな平凡極まりない言い回しを春樹さんが書くのかと、私は驚きました。
話は戻りますが、そのギリシアでは、「ぼく」は、ミュウからすみれとの関係の詳細を「語られ」、あらかじめ「ぼく」に読ませるかのように仕込まれたースーツケースの暗証番号は「ぼく」の市外局番でしたー「すみれ」のディスクには、ミュウへの恋心と、ミュウが語らなかった、悲惨な経験が「語られる」。「ぼく」はそれを読むしかない。
結局「ぼく」は何もできないままギリシアから帰ってくるのです。
いるかホテルや、井戸のような、異界への通り道はない-すみれにたどり着けない
緑やユミヨシさんのような癒やしの存在もない-「ミュウ」はあらかじめその役割を果たせない人として設定されています。
結果、「ぼく」は、すれみにもミュウにもたどり着けず、そして先ほどの「どうしてみんなこれほどまでに孤独にならなくてはならないのだろう」というひどく平凡なモノローグをつぶやくことしかできない。
この「語れなさ」、「語る」ではなく、「語られる」だけの「ぼく」いう存在。架空の作家、デレク・ハートフィールドに託した、「語る」ことの意味、デレクが文章で闘っていたのだとすると、春樹さんは「僕」が「語る」のを書くという行為で闘っていたのだと思います。しかし、「語る」のは「僕」でなくてもかまわない。様々な「語り」を引き受ける「ぼく」という軽やかな主人公の存在は、なさけなくて弱いけれど、とても魅力的な主人公だと思います。
以上
(追記)さっそくのコメントありがとうございます。私はAIではありませんw
(追記2)さっそく「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」を読んでいます。今全体の20%くらい。ものすごい悪夢感というか、解けない問題集を前にしてパニック障害一歩手前になりそうな息苦しさを感じます。この作品を愛読される方の文学的体力の強靱さには敬服いたします。
先日恋人に振られた。
常に頭が働いているような人で、一つの事柄にたいして、私がせいぜい1~2個見解を述べる間に20~30の見解を様々な角度から新しい視点を検討し考察することを楽しむような人だった。
人に対してもとても丁寧で、周りの人からもとても愛されていた。
別れ話をされたとき、本当はすがりついてでも考え直してくれと言いたかったが、あまりにも惚れ込んでいた為これ以上相手を苦しめることも出来ず、引き止めることはしなかった。
とはいえ最後の別れの日には、いつでも連絡してくれとか、他にも複数の未練たらたら発言をみっともなく伝えた。
同時期、相性の合わない仕事を相性の合わない人間とやっていてずっとストレスを感じていた。
が、過去にはもっとハードな仕事の経験もあったので、まぁしんどいが歯を食いしばってなんとかやり遂げようと思っていた。
が、ある日、働けなくなってしまった。恋人は関係ないとは思うが、期間としては別れてから2週間後ぐらいだったと思う。
本当に、ほんの数日前までは明日も来週も、今日と同じ未来が続くことを疑うこともなく、綿密な作業スケジュールをたてていたのに。
その日急に、どう仕事すればいいのか分からなくなってしまった。
何をしても自分の選択は間違っていると思ってしまい手が動かなくなってしまった。
打ち合わせでも頭が真っ白になってしまい何も言葉が出ない時間が発生した。ほとんど衝動的に担当営業に連絡した。
急に辞めたことによる罪悪感で三日三晩布団に包まれながら、過去適応障害や鬱で辞めていった同僚や上司に想いを馳せていたら、1週間で3キロ痩せた。
正直恋愛の能力より、仕事の能力の方に自信があったので、自分が急に働けなくなった体験の方がショックが大きい。
様々な手続きを終えたあとは1週間ほど療養し、そのあとすぐに仕事探しを始めた。
友人(鬱による休職経験者)には2~3ヶ月ぐらいはしっかり休んでからゆっくり仕事探し始めるぐらいでいいとアドバイスされたのだが、自分は働いている方が精神が落ち着くと思い仕事探しを始めた。
来週面接が控えており、少々気持ちの落ち込みが煩わしく感じる部分もあるが、少し考える時間と体力が戻ってきて、ふと色んなことを考えるようになったので文字に書き起こしておこうと思う。
思い返すと10年以上、順当にステップアップしながら働いてきて、2週間以上休みを取ったのは人生で初めてだ。
オーバーな物言いであることは十分理解した上でだが特に仕事をやめた時は、
「すべて失った」という感じがした。
たまたまタイミングが被ってしまっただけなのだが、愛した恋人を失い、職もなくした。
自信もなくしてしまい、次の業務は内容がつまらなくても負担が軽いものを最優先に選んでいるため、キャリアのリセット感もある。
住んでいた3LDKの賃貸も恋人との同棲解消で解約し、こじんまりしたワンルームに引っ越した。今は趣味を楽しむ気力もない。
得たものはまず、友人のありがたみだろうか。
断るほうが逆に億劫なので飯ぐらいは行くのだが、一応友人の前では明るく努めようとすると自己催眠に近いなにかで気持ちも前向きになる。
お酒の勢いもあって、ちょっと自分の心情をこぼすと皆やさしく受け止めてくれる。
反応は人それぞれだが、各々がそれぞれの言葉で、あえて軽く話してくれたり、心底心配してくれたりするのが感じ取れて少し涙ぐんでしまう。
恋人を失って気がつくのは、やはり自分は幾分か無理していたなということだった。
付き合っていた当初は無理しているとは微塵にも思っていなかった。相手に合わせて自分が変わること自体が愛だと思っていたし、がんばっている事自体に満足していた。
相手と対等になれるよう、難解な映画を見て自分なりの意見を述べるトレーニングをしてみたり、コミュニケーションも言葉選びのひとつひとつを思考したり、相手の理想の人間になろうとしていた。
今思うと相手も完璧人間ではないのだが、当時は相手の不満が全く思いつかないぐらい自分を変化させることにいっぱいいっぱいだった。
一人になった今、時間があればやることは、なんの身のためにもならないYouTubeを見たり、Xで交わされる議論をまんま鵜呑みにするだけだ。
そんな不毛な時間に罪悪感を覚えなくなった自分が、良くないとも思っているが、同時に人間らしくていいのではとも思う
また、メンタルの不調で休職する人に対する解像度が上がったのも良い気づきではあった。
過去に自分と同じチームの上司や同僚がメンタルをやられて休職に至ったケースが2度ある。
当時は自分のサポート不足を悔やむ反面、正直こころの奥底では「そこまで大変だっただろうか」という相手を下に見る感情と「自分は困難な状況における適応能力が高いのだろう」というおごりがあった。
いざ当事者になってみると、自分がまさかこんなタイミングで働けなくなるだなんて今現在も理解できない。
過去「困難な状況でも最後までやり抜く遂行力があります」なんて言っていた若かりし自分がむしろ眩しく見える。
30歳をとうに過ぎた今日この頃、思うところがある。
それは…それは…。
むしろそんなしょうもない人生にこそ、喜びや幸せが満ち溢れているのだ。
日常の中で感じられる幸せというのは、ひどく小さく、非刺激的である。
酒やギャンブルに身を委ねたり、性的衝動によって得られる快楽なんかとは比べものにならない。
地位や名声を得て他者を優越したり、SNSで自分の投稿をバズらせた時に得られるような
承認欲求的な欲求から発生する刺激と比べても、ひどく非刺激的である。
こんなしょうもない日常や人生に、どう幸せを見出そうと思うのか?
長年の謎であった。
しかし、齢30にして思うのだ。
月並みではあるが、日常の些細というものは、当たり前ではないのだ。
衣食住事足りているのも世の人間の絶え間ない営みのおかげである。
こうしてインターネットでくだらないやりとりをできているのも、この世の中が
今日もインターネットの片隅では、フェミニズムや男女論が語られ、政治・政策への
非建設的な不満が渦を巻いている。
しかし考えてもみて欲しい。
それらが形成されているのは、いや、それらの形成が許されているのは、
今日も日本が平和だからである。平和であるからこそ、そんな非生産的なことが
許されるのだ。
インターネットに入り浸って、男女格差や政治不信について語っているのも
そんな話を、しようじゃないか。
日常の些細な話、目の前にある小さな喜びを拾い集め、今一度自分の
人生を振り返ってみよう。
悲しいことが起きるかもしれない。でも、きっと大丈夫だ。
全てが落ち着いたら、自分達はきっとこの日常にまた戻ってくる。
今、女が浮気する創作を叩いたり冷笑する人が散見されるが、これは非常に問題である。
世の中にはインモラルや悪事を楽しむ作品が溢れている。もちろんドラマにでもだ。月並みだが、東京卍リベンジャーズなんか不良が夜な夜な集まって喧嘩を繰り広げるなんてろくなもんじゃない。法律を越えた私刑も許容されるし、なんなら「主人公一行を不快にさせた」程度のことで相手の骨を折ったりもする。
殺人、窃盗、暴力、不良、半グレ、闇バイト、銃器の所持、爆弾の製造、暗殺、創作にはインモラルが溢れている。作中でその行為に対して「本当は良くないけどね」と言う人がいない作品だって山ほどある。
更に潔癖な視点で見れば、男子高校生が複数の女子から不純異性交遊に誘われるハーレム作品なんて本当はけしからん。奴隷を購入して身の回りの世話をさせ愛妾のように扱う作品、これは言うまでもなく酷い。
では何故、女の浮気、浮気を肯定的に描いた作品は叩かれ、冷笑されて当然なのか?
創作では普段もっと酷いテーマを肯定的に扱っているじゃあないか。
だが問題視はしない。いや、正確に言えば「問題視してはいけない」と皆思ってる。「創作だからそんな風に問題視してはいけないのだ」と思っている。俺だってそう思う。
当然そういう構造に対する冷笑だって少ない。様々な意見があるのがネットだから、あるにはある。だが「いや、エンタメってそういうもんだし…」というリアクションが付きまとう。
では何故女の浮気を創作で描くと問題視され、おかしなことをしているからと冷笑され、フォローもされないのか。
創作というのは我々の考えを越えて保護され、「創作を守る」という方向に厳格な基準の元で「社会的に適切かどうか」と判断されるべきなのだ。
表現の自由を訴える人は、市民団体などに対してまさにそれを言い続けてきたのではないか。
そして、これは論理的帰結だが、「浮気」を肯定的に描いて叩いたり冷笑する理由は、「感情」以外に無い。浮気はもちろんインモラルな行為だが、創作という観点ではテーマとして扱うことは問題ではない。そもそも古来よりそんなもん山ほどある。現代の価値観には合わない。もちろんそうだ。ただし殺人だって銃器所持だって奴隷の購入だって今の価値観には合わない。キモいから批判する?感情以外の何物でもない。
つまり、女性の浮気をテーマにした作品を叩き冷笑することは、「本来保護されるべきである創作物を何も考えずに叩き萎縮させる行為」でしかないのだ。
これが問題でなければ何が問題なのか。表現の自由を嘲笑し、貶す行為は唾棄すべきことであり、それは決して多数派に紛れない。同調する者が多かろうが、「創作物は守られるべき」という考えには何の影響を及ぼさないのだ。
「そんなこと言われても俺はただのネット民。別に創作を守る義理なんて無い。好き勝手に言いたいことを言うよ」
中学の卒業式が終わった後、校門前で友人と名残を惜しんでいると、仲の良かった女子が二人で写真を撮りたいと言いだした。
彼女が自分に好意を持っていることは薄々気付いていた。その好意に対しては悪く思っていなかったし、この後告白されたら違う高校でもやっていけるのかなー。とか考えていたと思う。
なぜか校門ではなく校門前の民家の前に並んで、彼女のお母さんが写真を撮ってくれた。同級生の前で彼女の母親に撮られる写真は流石に恥ずかしくて、ツーショットと言うには間が開きすぎた写真になった。
写真を撮った後、彼女は別れの言葉と共に「父の転勤で明日東京に引っ越すこと」、「東京の高校に通うこと」、「最後に地元での思い出が欲しかったこと」、「これまでの感謝と、ずっと黙っていたことへの謝罪」みたいなことを話していた気がする。俺からはあまりにも突然の事過ぎて、「なんで今まで言ってくれなかったんだよ」とか「そっか、元気で」みたいな月並みな言葉しか出てこなかった。
その後、彼女は買って貰ったばかりの携帯電話を取り出して、赤外線通信で連絡先を交換してわかれた。
結局、現像された写真をみたのはそれから数年後、お互いに大学生になってからだった。その間も頻繁に連絡をとっていたのかというとそうでもなく、再開したのは東日本大震災がおきて久しぶりに連絡をとったのが切っ掛けだった。
再開したその日に交際をはじめて、もうそろそろ14年になる。今は千葉の、なんとなく地元に似た雰囲気が気に入った街で彼女によく似た顔の長男と自分によく似た顔の次男と4人で暮らしている。あの写真は今もリビングに飾ってある。
ことわっておくと、彼の事をしっかり調べたわけではなくて、断片的にニュースやweb記事で見かけてきた記憶だけを元に書きます。
まず言わずと知れたZOZOTOWNを運営するスタートトゥデイの創業者で、資産家だ。
10年くらい前に金が余りすぎてて、バスキアの絵なんかをジャケ買い?しているみたいな記事を見た記憶がある。
今はもう売ったらしいけど。
5年くらい前には、宇宙に行くみたいな壮大な話が出て、羨ましいし富豪ならではの良い金の使い方やん、と僻みまじりに思った記憶がある。
ま、これも宇宙ステーションに滞在して、月周回は中止したらしいけど。
ただ、広義には「レジャーとしての宇宙旅行」に先鞭をつけた意味では人類史において偉業だし、
これを書いてる自分は人類がいつか太陽系を旅立つ日が来ることを夢見ているので、その日に近づく一歩として有意義だとも思っていた。
剛力彩芽はべらせてな!羨ましいぞぅ…
そして、その時期あたりだったかで、「金配りおじさん」を自称?していたのも記憶にある。
自分は「富豪の醜悪な社会実験」という月並みな感想しかないし、そのあとに雨後の筍のように模倣した詐欺師が跋扈したことも踏まえて、業の深い所業だなあと思っていた。
なんかすごい残念なんだよね。
zozoって、一定層の人の行動様式を変えた、社会にインパクトのある偉業を商売のフィールドで成し遂げたんだよね。
なかなかできることではない。
で、そのあとやってる事業がコレ?っていうね。
たぶんだけど、今さら大儲けしたい動機メインで事業やりたいとは思わないだろうから、「でっかいことやりたい、社会にインパクト与えたい」が原動力だと想像するんだけど、それがコレ?
仮説に仮説重ねてるけど、もしそうだとしたら、zozoを成した男がこんなことしかできないの?こんな座組で何ができるの?って思う。
そりゃ、バカは釣れるけどさ。
なんだかね。
宇宙だけ行ってればいいのに…
The Avalanches - 『Since I LeftYou』だ。
今まで好きな曲やアーティストはもう100以上あるけど、好きなアルバムは1つも無かった。
たぶんベストアルバムとかを答えるのは違うんだろうなと思っていた。ヒットした曲の詰め合わせというか。別にアルバム自体が好きな訳では無い。
『Since I LeftYou』は違った。
1つの写真でしかなかった楽曲が、アルバムの次のページでも続いている。
音楽は絶え間なく流れ、
流れが世界を作る。
ベストアルバムを聴いていた自分が何か足りないと感じていたもの。
それは流れだった。
名場面ばかりが人生じゃないよな。
意外だったのが全ての曲がサンプリングで作られていること。
何度も聴いていると、「2番目の曲の裏で流れてた音が、13番目の曲で登場する」とか「この音どこかで聴いたな……」が起きる。
サンプリングの成せる技だ。
「Since I LeftYou」の意味が、私には母親との関係に思える。
月並みな表現かもだけど、この世に生を受けたことの喜びと別れの悲しさ両方を覚える。
ちなみに、『Since I LeftYou』と出会ったきっかけは「海外にも音MADとかあるのかな?」とAIに聞いたことから。
もし興味が出たなら最初の「Since I LeftYou」だけ聴いてほしい。私が一番好きな曲だ。
アルバム全部を聴き切るなら、CDか間に広告が入らないようにしてほしい。
そして音の波間に身をゆだねてみてほしい。