
はてなキーワード:普遍的とは
死んだらこうだから、ではなく
ストリート・エピステモロジー(SE)は、相手の信念の「内容(What)」ではなく、その信念に至った「プロセス(How)」を問うソクラテス式問答法である。陰謀論や根拠のない政治的確信に対して、直接「それは嘘だ」と指摘するのではなく、「どうすればそれが真実だと知ることができるか」を共同で探求するスタンスを取る。
オンライン上のトローリングや攻撃的なコメントに対しては、マーシャル・ローゼンバーグのNVCを応用した「脱エスカレーション・ループ」が有効である。
このプロセスは、相手の「攻撃」を「満たされていないニーズの悲劇的な表現」として再定義し、敵対関係を協力関係へとシフトさせる構造を持つ。
個人の対話スキルを向上させるだけでは、社会全体の分断は解消されない。SNSのアルゴリズムが増幅する情動的二極化に対抗するためには、デジタル空間の特性(アフォーダンス)を理解し、ネットワークレベルでの介入を行う必要がある。
政治的コミュニケーションにおいて、左派と右派には「美的非対称性(Aesthetic Asymmetry)」が存在する。歴史的に、左派は壁画やプロテストソングのような「参加型」で「構成的(Constitutive)」な芸術――コミュニティの結束を高め、希望を共有するための表現――を好んできた。一方、現代の右派(特にオルタナ右翼)は、ミームやシットポスティング(Shitposting)のような「道具的(Instrumental)」で「武器化されたユーモア」――相手を嘲笑し、混乱させ、分断を煽るための表現――に長けている。
この非対称性が意味するのは、左派的な「真面目で、説明的で、道徳的に正しい」コンテンツは、ミーム戦争においては圧倒的に不利であるということだ。ミームは文脈を剥ぎ取り、瞬時に情動(特に嘲笑や優越感)を喚起することで拡散する。
対抗戦略:脱分断ミーム(Depolarizing Memetics)
反発を招かないデジタル拡散のためには、以下の原則に基づいた新しいミーム戦略が必要である。
ネットワーク分析の研究は、SNS上の世論形成において、著名な「インフルエンサー(発信者)」以上に、「マルチプライヤー(拡散者)」と呼ばれる層が決定的な役割を果たしていることを示している。マルチプライヤーは、特定のイデオロギー・クラスター内で情報をキュレーションし、リツイートによって可視性をブーストする「ゲートキーパー」である。彼らは高い「整列スコア(AlignmentScore)」を持ち、陣営をまたぐことは稀である。
批判的メッセージを拡散させるためには、インフルエンサーを説得するのではなく、このマルチプライヤー層が「リツイートしたくなる」コンテンツを設計する必要がある。そのためには、前述の「道徳的翻訳」が不可欠である。保守系マルチプライヤーは、リベラルな正論は無視するが、「言論の自由」や「エリートへの懐疑」というフレームで語られた批判(例:「真の愛国者は、大統領であっても盲信しない」)には反応する可能性がある。クラスターの境界を浸透できるのは、そのクラスターの言語で語られたメッセージのみである。
X(旧Twitter)等のアルゴリズムは、「怒り」や「恐怖」といった高覚醒の情動を引き起こす投稿を優遇する傾向がある。冷静な対話は「退屈」とみなされ、表示順位が下がる。この構造的ハンディキャップを克服するためには、「怒り」以外の高覚醒情動、すなわち「驚き(Awe)」「好奇心(Curiosity)」「感動(Kama Muta)」を利用する必要がある。
以上の理論と技法を、一般市民や草の根活動家が実践可能な形に落とし込むためのマニュアル(ハンドブック)の設計図を以下に提示する。この構成は、米国の草の根運動ガイド『Indivisible Guide』の成功モデル(段階的習得、具体的アクション、テンプレート化)を参照している。
目的:実践者のマインドセットを「論破」から「影響」へとシフトさせる。
本報告書で提示した戦略は、短期的な選挙勝利のための戦術ではない。サイモン・シネックが言う「無限のゲーム」――すなわち、対話が継続可能であり、社会システムが崩壊しない状態を維持すること――を目的としている。
情動的二極化という「内戦」状態において、最大の勝利は敵を倒すことではなく、敵を「対話可能な競争相手」へと戻すことである。そのためには、批判者自身がまず武装(道徳的優越感)を解除し、相手の認知フレームの中に降りていく勇気を持たなければならない。この「戦略的共感」こそが、分断された世界をつなぎ直す唯一の現実的なエンジニアリングである。
戦略的共感と認知的安全保障:反発を招かない政治的批判のための包括的枠組み
現代の政治空間は、政策の不一致(イデオロギー的二極化)以上に、対立グループに対する嫌悪や恐怖といった感情的拒絶反応(情動的二極化)によって支配されている。この環境下において、伝統的な「批判」の手法――事実の提示、道徳的糾弾、論理的論破――は、その機能不全を露呈しているだけでなく、逆効果をもたらしていることが多くの実証研究によって明らかになっている。批判対象者の信念を強化してしまう「バックファイア効果(Backfire Effect)」や、批判者を存立危機的脅威とみなす「アイデンティティ防衛機制」が作動するためである。
本報告書は、心理学、認知科学、政治社会学の最新知見に基づき、政治的対立者に対して反発(バックラッシュ)を招かずに影響力を行使するための戦略的枠組みを提示するものである。ここで目指すのは、単なる「中道的な妥協」や「礼儀正しさ」の推奨ではない。人間の認知アーキテクチャの脆弱性と特性をハッキングし、相手の道徳的・感情的防御壁を迂回してメッセージを届けるための、エンジニアリングされたコミュニケーションプロトコルである。
報告書は大きく三つのフェーズで構成される。第一に、なぜ従来の批判が失敗するのかを脳科学的・心理学的メカニズムから解明する理論編。第二に、その防御壁を突破するための具体的な対話技法(ディープ・キャンバス、ストリート・エピステモロジー、NVC)を体系化した実践編。そして第三に、これらの技法を個人のスキルから社会運動へとスケールさせるための組織論と普及戦略である。
効果的な批判戦略を設計するためには、まず人間の心がどのように政治的情報を処理し、拒絶するかというメカニズムを理解しなければならない。政治的信念は単なる情報の集合体ではなく、個人のアイデンティティや所属集団への忠誠心と融合した「拡張された自己」の一部として機能している。
近年の政治心理学における最も重要な発見の一つは、情動的二極化(Affective Polarization)の実態解明である。これは、対立する政治グループのメンバーに対して「好きか嫌いか」という感情的温度差が極端に開く現象を指す。研究によれば、情動的二極化は対人関係の悪化だけでなく、個人の心理的幸福感(ウェルビーイング)の低下、社会的支援の減少、ストレスの増大といった「個人内損害(Intrapersonal Harm)」をも引き起こすことが示唆されている。特に、リベラル層において高い情動的二極化とストレス、健康悪化の相関が見られることは、政治的怒りが批判者自身をも蝕むことを示している。
この情動的二極化は、脳内で一種の「信頼のファイアウォール」として機能する。アウトグループ(外集団)から発信された情報は、その内容の真偽にかかわらず、自動的に「悪意ある攻撃」としてタグ付けされる。扁桃体が脅威を検知し、前頭前野が論理的推論ではなく「反論の生成」のために動員される「動機づけられた推論(Motivated Reasoning)」が作動するためである。この状態にある対象者に正論をぶつけることは、火に油を注ぐ行為に等しい。
バックファイア効果とは、誤った信念を訂正しようとする試みが、かえってその信念を強固にしてしまう現象である。このメカニズムには、自己肯定感の維持と集団への所属欲求が深く関わっている。批判を受け入れることは、過去の自分を否定すること(自己の一貫性の喪失)や、仲間を裏切ること(社会的死)を意味するため、脳は全力でそれを回避しようとする。
さらに、批判のフレーミング(枠組み)が、受け手のイデオロギーとミスマッチを起こしている場合、説得効果は皆無となるばかりか、抵抗を強める結果となる。例えば、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)対策におけるメッセージングの研究では、リベラル層が「利得フレーム(マスクをすれば命が助かる)」と「損失フレーム(マスクをしないと命が失われる)」の双方に敏感に反応し、コンプライアンスを高めたのに対し、保守層はこれらのフレーミング効果に対して強い抵抗を示したことが明らかになっている。これは、問題が高度に政治化された文脈においては、一般的な行動経済学的介入(ナッジ)さえも、イデオロギーのフィルターによって無効化されることを示唆している。
批判が受容されるための極めて重要な、しかし見過ごされがちな因子として「知的謙虚さ(Intellectual Humility:IH)」がある。IHとは、「自分の知識や信念が間違っている可能性を認識する能力」と定義される。最新の研究は、対話において自身の知的限界を認める態度が、相手の情動的二極化を低減させる強力な緩衝材となることを示している。
特筆すべきは、IHが「相手からの好意(Target Liking)」を媒介して、対話への「接近行動(Approach)」を促進するというプロセスである。批判者が「私は絶対に正しい、お前は間違っている」という道徳的マウンティング(Moral Grandstanding)の態度を取ると、相手は「回避行動」をとる。逆に、批判者が「私も確信はないのだが」「複雑な問題で迷っているが」という不確実性を提示することで、相手の警戒心が解け、対話の土俵に乗る可能性が高まる。知的謙虚さは、相手の武装解除を促すための「白旗」ではなく、心理的防衛壁を通過するための「通行手形」として機能する戦略的資質である。
政治的対立の根源には、事実認識の相違以上に、道徳的直感の相違がある。リベラルと保守は、異なる「道徳の言語」を話しているにもかかわらず、自身の言語で相手を説得しようとするため、コミュニケーション不全に陥る。本セクションでは、道徳基盤理論(Moral FoundationsTheory: MFT)を応用し、批判を相手の価値観に翻訳して届ける「道徳的リフレーミング」の技術を詳述する。
ジョナサン・ハイトらが提唱した道徳基盤理論は、人類の道徳的判断が以下の5つ(または6つ)の生得的な基盤の上に構築されているとする。
実証研究が一貫して示すのは、リベラル層が主に「ケア」と「公正」の2基盤に強く依存するのに対し、保守層は5つの基盤すべて(特に忠誠、権威、神聖)を重視するという非対称性である。
多くの政治的批判が失敗するのは、リベラルが保守に対して「それは弱者を傷つける(ケア)」「不平等だ(公正)」というリベラル特有の語彙で攻撃するためである。保守層にとって、これらの価値は「忠誠」や「権威」よりも優先順位が低いため、批判は響かない。逆に、保守がリベラルに対して「伝統を破壊する(権威)」と批判しても、リベラルはそれを抑圧としか捉えない。
反発を招かない批判のためには、自身の主張を相手の道徳基盤の語彙を用いて再構成(リフレーミング)する必要がある。これを「道徳的合気道」と呼ぶ。相手の道徳的エネルギー(価値観)を利用して、相手の姿勢を崩す技法である。
以下の表は、主要な政治的争点において、従来のリベラル的批判(バックラッシュのリスク大)を、保守的道徳基盤に翻訳した戦略的フレーム(受容可能性大)に変換したものである。
| 争点 | 従来のリベラル的批判(高リスク) | 戦略的リフレーミング(低リスク) | ターゲットとする道徳基盤 |
|---|---|---|---|
| 環境保護 | 「地球温暖化は弱者や未来の子供を苦しめる。」(ケア) | 「我々の国土と美しい自然は神からの授かりものであり、汚染から守り抜く義務がある。」 | 神聖/堕落、忠誠/背信 |
| 同性婚 | 「誰を愛するかは個人の権利であり、平等であるべきだ。」(公正) | 「結婚は社会を安定させる伝統的な制度であり、同性カップルもその責任ある関係に組み込むべきだ。」 | 権威/転覆(社会秩序)、忠誠 |
| 軍事費 | 「軍事費を削って福祉や教育に回すべきだ。」(ケア/公正) | 「無駄な軍事支出は国家の財政を弱体化させ、真の国防力を損なう背信行為だ。」 | 忠誠/背信、権威 |
| 政治腐敗 | 「富裕層ばかり優遇するのは不公正だ。」(公正) | 「私利私欲のために公職を利用することは、国家への裏切りであり、高潔な職務を汚す行為だ。」 | 忠誠/背信、神聖/堕落 |
| 移民問題 | 「難民を助けるのは人道的な義務だ。」(ケア) | 「秩序ある移民受け入れは、国家の活力を維持し、アメリカンドリームという伝統を守るために必要だ。」 | 忠誠、権威(秩序) |
研究によれば、保守層に対して環境保護を「神聖さ」や「愛国心」の文脈で語った場合、リベラルな文脈で語った場合よりも支持率が有意に上昇することが確認されている。重要なのは、主張の内容(環境を守る)を変えるのではなく、その理由付け(なぜ守るか)を相手の言語に翻訳することである。
批判は通常、「現状のままでは悪いことが起きる」という損失フレーム(Loss Frame)で行われることが多い。しかし、損失フレームは恐怖や不安を喚起し、防衛的な反応を引き起こしやすい。これに対し、「ゲイン・フレーム(Gain Frame)」を用いた批判は、望ましい未来像を提示し、その実現を阻害する要因として現在の問題を指摘する手法である。
例えば、政治家のスキャンダルを追及する場合、「彼は嘘つきだ(損失フレーム:信頼の喪失)」と攻撃するのではなく、「我々は正直で高潔なリーダーを持つに値する国家だ(ゲイン・フレーム:尊厳の回復)」と主張する。このアプローチは、批判の対象を「個人」から「規範の維持」へとずらし、相手の「権威への尊重」という道徳基盤を刺激しつつ、攻撃性を緩和する効果がある。研究は、特にリスク回避傾向の強い層に対しては損失フレームが有効な場合もあるが、イデオロギー的に対立する層に対しては、ゲイン・フレームや道徳的適合性の方が「聞く耳」を持たせる効果が高いことを示唆している。
理論を実践に移すためには、具体的な対話スクリプトと手順が必要である。ここでは、異なる文脈(対面、オンライン、深い対話)において効果が実証されている3つの主要なプロトコルを詳述する。
ディープ・キャンバスは、戸別訪問(キャンバス)において10〜20分の深い対話を行うことで、トランスジェンダーの権利や移民問題などの二極化した争点に関する態度を変容させる手法である。従来の「事実の弾丸」を撃ち込む方法とは異なり、「脆弱性の交換」を通じて相手の情動的反応を書き換える。
研究によれば、ディープ・キャンバスは従来の説得手法の約102倍の効果を持ち、その効果は数ヶ月持続することが確認されている。
ストリート・エピステモロジー(SE)は、相手の信念の「内容(What)」ではなく、その信念に至った「プロセス(How)」を問うソクラテス式問答法である。Permalink |記事への反応(1) | 11:19
いわゆる活動家って括られる連中は、自己評価と他者評価に乖離がある事をあんまり認識できない、自他境界が曖昧な人が多い印象だわ。
『自分の考える正しさ=絶対』で全ての人類にとって普遍的な正しさであり、それを理解できないものは馬鹿だから我々のような優れた存在が導かないといけない! ……みたいな事を割とガチで考えてるように見えるのよね。
人によって考え方・捉え方が違うのは当たり前だから、なるべく間を取りましょうってのが民主主義だと思うんだけど、それを理解してないというか。
今回自民に投票した人の中で統一協会を肯定してるのなんかほぼ居ないでしょ。
それは問題だけど野党があんまりにもアレだから消去法で一番マシに見えた自民に入れた訳よ。
だけどこの判断が、活動家フィルターを通すと「統一協会を肯定する人がこんなに居る!日本はもうおしまいだ!」に変換されちゃってるんだよな。
まあ、これ右左関係ないけどね。
より善い社会を作ることが政治の役割であるとすれば、そもそも”善い”とは何か。
それを知る必要がある。そして、それを知らずして語る政治論はいつも空疎に響いて聞こえた。
そんな自分の違和感を払拭し、政治について数多の本を読んできたがその上でも必読と呼べる三冊を紹介しようと思う。
これを読まずして政治は語れない。
むしろ、これを読まずに政治を語るのはフェアじゃないとさえ思っている。
はっきりいって読みやすい本ではない。
それでも20代の私は、この本に出会って初めて「正義は感情ではなく、設計の問題」なのだと理解した。
ロールズが提示する「無知のヴェール」という思考実験は有名だ。
自分がどの立場に生まれるか分からない状態で社会制度を設計するとしたら、人はどんなルールを選ぶだろうか。
ここで重要なのは、「誰が得をするか」ではなく「最悪の立場に置かれた人が、どこまで耐えられるか」という基準が持ち込まれる点だ。
この本を読んだあと、私は「過度に正当性を叫ぶ言葉」にどこか冷めた視線を向けるようになった。
なぜなら多くの正当性は自分がどの位置に立っているかを隠れた前提にしているからだ。
ローティは「普遍的な真理」や「理性によって保証された正義」といったものを容赦なく解体する。
我々の価値観は偶然の産物であり、言語も道徳も歴史的に作られたものでしかない。
それでも尚、他者の苦痛を減らそうとする態度だけは手放すな、というのが彼のスタンスだ。
本書で述べられている「リベラル・アイロニスト」といった概念は、自称リベラルにかなり刺さるだろう。
リベラルとは
自分の信念が偶然に支えられていることを自覚したうえで、それでもなお立場を引き受ける行為なのだ。
ローティを読んで以来、「正義を論破で勝ち取ろうとする」行為が誤りであることを知ることができた。
本書は政治思想というより、政治という営みそのものの解剖図だ。
扱っているのは市場・国家・社会が、どのように結びつき、どの地点で破綻するのかといったことを入念に描き出す。
ポランニーが繰り返し示すのは、市場は自然現象ではなく、徹底して政治的に作られた制度だという事実だ。
放っておけば自由市場がうまく回るという発想そのものが、実は国家権力による介入と強制の産物だった。
この逆説を、19世紀ヨーロッパの歴史を通して執拗に描いていく。
この本を読むと「政治は介入するか否か」という素朴な二択がいかに無意味かが分かってくる。政治は常に介入している。ただ、それが誰を守り、誰を切り捨てる形で行われているのかが見えにくくなっているだけなのだ。
自由か統制か。右か左かといったラベルがいかに粗雑で、思考停止に近いのかをこの本は静かに暴いていく。
ロールズが制度の正当性を問い、ローティが価値の偶然性を引き受けたとすれば、ポランニーはその土台である「社会が壊れるメカニズム」を描き出す。
政治を語るうえで避けて通れないのは、理念でも倫理でもなく、制度が人間の生活にどう作用するかという具体性なのだと、この本は教えてくれる。
これら三冊を読んで、ようやく腑に落ちたことがある。
政治における無理解は政治に対して無知だから起こるのではなく、政治が行うとしている行為そのものに対する知識の乏しさから生じるものであるのだと、理解するに至った。
無論これらの本を読まずとも、政治を語ることはできる。
だがそれは米の旨さについて語り合うときに産地を無視するようなものだ。
甘い。硬い。まずい。好きだ嫌いだと感想を述べることはできるだろう。
しかし「なぜその味になるのか?」や「なぜ違いが生まれるのか?」を理解しないままでは、議論はどこにも辿り着かない。
自らの発言に対し、責任を伴わず、好き勝手なことを言って容認されれば尚のことだ。
しかし自らの言説に責任を持ち、最低限の知識を以てして発言することこそが政治に参画する大人のマナーであり、嗜みなのではないだろうか。
はっきり言って失恋したとかで泣くような人間を若干冷笑していた節がある。恋愛で一喜一憂するなんて女々しい。漢なら当たって砕け散れ!などど思っていたのも束の間、本当に砕け散ってみるととても耐えられそうにない。寝ても覚めても悪夢が続いているような感じで、今ならbacknumberでさえ共感できる。
相手はバイト先の先輩だったんだが、急にご飯に誘って基地外と思われるほどの距離感とかでは全くなく、休憩が被れば一緒に話したり、ゲームの話題でdmのやりとりをできるくらいの仲だった。
その先輩を飲みに誘った後、気になっている旨を伝えて2回目のご飯に誘ったら、「好意には応えられないけどまたご飯に行こうね」とのこと。半年前からの片想いも虚しく散ったわけだが、何よりも苦しいのは、先輩に迷惑をかけたり気持ち悪がらせたりしてしまったかもしれないということだ。
人に好意を伝えることは独りよがりで暴力的な行為になりうるというのは重々承知している。相手だって人間なのだ。昔読んだ横槍メンゴの「クズの本懐」を思い出す。「興味のない人から向けられる好意ほど気持ちの悪いものってないでしょう?」まさにこの感じだ、タイピングしてきてまた涙が出てきた。好きな人を気持ち悪くさせてしまって申し訳ない。顔ない、横転、墓地が無料のうちに急いで死ぬべきだ。平安時代ならこんなとき、袖を濡らすとか血の涙で手紙を書くだとかいうけれども、気持ちの悪い人間が泣きながら増田を書いたところで何の詩的情緒も感じられない。とにかく何か別のことを考え続けないと涙が止まらないのだからしょうがない。
問題は、仮に先輩を気持ち悪がらせてしまったとしても、ここで先輩に対して「変なこと言ってすみません。全部忘れてください」とか謝罪したところで、それはそれで先輩がたとえ社交辞令でもまたご飯行こうといってくれた優しさを無下にすることになる。はっきり断ってくれた先輩はむしろ優しいし、正しいし、そういうところが好きなんだよな。振られたけど間違いなく最高の一日だった。
それで思ったんだが、人間の矜持として先輩に恨み節になったりするのは絶対に違う。なぜなら好意を発露した自分がすべて悪く、先輩をこれ以上傷つけるようなことは断じてしてはならないからだ。そして振られた側は、相手に罪悪感を抱かせたり、これ以上気を遣わせたりしないためにもう何もすべきではない。
何もすべきではない。これが一番つらいのだ
もし何かできることがあるなら何でもする。好きな子のためなら泥水だってすするぞ、ズズズッとな。でもこれがもう何もすべきじゃないんだ。先輩とは友達以上の関係になれることは確実にないし、必要以上に連絡を取るべきではなく、もちろんバ先で少しも態度に出すべきではない。だからやり場のない思いをクネクネ書いているわけだ。世間一般的には失恋について、時間が解決するだとかいうけれども、その時間経過が一番難しいンだよな。backnumberや諸々を冷笑していた自分が情けない。失恋は何でもないよくある些細な悩みで、身近に起こりうるんだから作風やマーケティングは完全に正しい。恋愛はいつの時代も普遍的な一大コンテンツだ。失恋系Vtuverにでもなって赤スパで儲けたい。
先輩は「自分から人を誘える人は強い」と言っていた。自分としてはかなり勇気を出して先輩を誘ったつもりだった。でも出すべきじゃない勇気もあったらしい。
実際それはそうで、成人過ぎてこれまで気になっている人をデートに誘うなんてことは初めてだったし、それを普通にしているような人は本当に強いと思う。だからせめてもっと強い人間になれるように恋愛だけではなく人に積極的に声をかけ誘える人間になりたい。
一方で、今回みたいに出すべきではない勇気を出した場合、人を誘う強さは相手に不快感を与えうる。
かといって、人に声をかけないのは何も学んでない。私はもっと強い人間になりたい。
結局のところ、相手を不快にさせたり自分が傷ついたりする覚悟と責任を背負ったうえで人と関われる人間が強いということなんだろうな。
要するにフェミやアンフェ論争関係なく、女よりおっさんが嫌われているという皆が水面下で認めている普遍的な事実が表面化して「だらしない左翼や野党が悪い!」とゴネてるの草
一般的には珍しいと自負しているが、私は国立東京海洋大を卒業した後に何度かの転職をして自動車企業のプログラマとなった。
学生時代は当時はまだまだ思考実験レベルだった海洋ロジスティクス(海運)と先進ITを紐付ける様な研究へのめり込み、当時の私の研究の一部は現在世界中の海洋ロジスティクスを支えるシステムとして稼働している。
※先進IT:私が学生時代の時点でジャイロコンパスやロランCなどを活用した電波航法や、HITACHIH8やIntel 8086と電子センサを組み合わせた自動記録程度は実現していたが、航路の自動選定やエンジンルームを無人するほどの自動制御は実現出来ていなかった。また、ブロードバンド接続は夢のまた夢の状態だった。
本題に入るが、2026/02/09 6:00の時点で自民党が単独で議席の2/3を得るという、間違いなく日本初の女性首相誕生と併せて日本史の教科書へ載るレベルの選挙となった(安倍元首相の最期もおそらく同時に載る)。
何故ここまで中道改革連合は弱かったのか?という議論は様々な人たちが評価しているが、特殊な経歴の私の評価も公開しようと思う。
まず何よりも土壇場で起きた「#ママ戦争止めてくるわ」のネット運動は非常に不味かった。
何故なら、#ママ戦争止めてくるわの運動には、これまではてな界隈でも積極的に議論され指摘されていた中台開戦による日本経済損失や日本参戦について何ら効果が無いことが、投票行動へ出る程度に政治へ関心のある若者へ周知されてしまっていたからだ。
どういうことか?
若者の間では既に「日本が中台開戦へ非参戦を明言する →中国が台湾へ攻めやすくなる →日本の輸出入が滞る →日本が不景気になる」というロジックが広く共有されてしまっているのだ。
更に30歳付近の子持ち世帯の間では「日本の輸出入が滞る →我が家の子供のご飯が高騰し餓死の可能性が出る → 親世代が政府に中台戦争を何とかしろと要望を出す →日本参戦」というロジックも想定されている。
「#ママ戦争止めてくるわ」の運動へ参加する者は誠に残念だと感じるだろうが、非参戦を表明することには子供のご飯の高騰を避ける術がないと思われている。
いや、私は「#ママ戦争止めてくるわ」の運動へ参加する者の心理的ロジックも理解しているのだ。「中台開戦すれば日本が参戦するしないに関わらず日本の物価は高騰するだろ」というロジックを。海洋ロジを学んだ知見からもこれは肯定する。
しかしこのロジックには中台開戦可能性を低下させるという効果が無く、最終的に親世代の求めによって日本の参戦が励起されてしまうというのを若者はしっかりと理解をしている。
だから若者は「そもそも中台開戦をさせない様にする」という選択肢を取った。これならば子供のご飯を確保できるし自分が出征する可能性が下がるからだ。
つまり、これらの若者の動きは中台開戦を拒否する反戦だからこその決断だ。今回の選挙結果は投票権のある若者による「#中台戦争止めてくるわ」運動だった。「#ママ戦争止めてくるわ」運動へ参加した者はこれをよく考えないといけない。
話は変わるが、「若者の可処分所得の逆転」という日本の経済現象を知っているだろうか?
これは大都会のホワイトカラーと地方のブルーカラーへ就労する若者を比較すると、地方のブルーカラーの方が大都会のホワイトカラーよりも可処分所得が高くなってしまったという現象だ。
年収で比較してみると、当然ながら大都会の大卒ホワイトカラーの方が高いのだが、家賃光熱費、そして食費などを大都会と地方を比較すると、大都会ホワイトカラーの出費が多すぎて可処分所得で地方のブルーカラーを下回ってしまったのだ。
就労条件によっては大学新卒で大都会ホワイトカラー就労の可処分所得よりも、中高卒で地方ブルーカラーの可処分所得が上回っていたりもする。
特に悲惨なのは大都会で若年女性が求めがちないわゆる事務職で、年収は東京の最低賃金へ張り付き、昇給もごく僅か、ボーナスも月収の1ヶ月分程度になっており、人材の求人倍率の高さから改善する見込みもない。
その中で、流行りのファッションに化粧品、オシャレなランチ、ネットで話題のイベントへ参加する。当然ながら貯蓄などできるはずもなく、これらの状況を「キラキラ貧困」と自嘲気味に揶揄されている。
この様な「キラキラ貧困」へ陥る若者が増えている中で、主流左派が行うのは「地方の保守的な価値観」へ対するバッシングのみであり、眼の前に居る「キラキラ貧困」へ陥る若者へ一切目を向けていない。
大都会の若者からすると主流左派の言説は自分たちが対象でなく全く身近でない、自分たちの困窮を無視し続けているのにも関わらず「今の若者はリベラルだから主流左派の言説を支持するはず」という解釈のもと選挙へ挑んでいる存在なのだ。
もう一度言うが、主流左派は大都会のホワイトカラーへ就労している若者の現状を社会問題として取り上げているか?私は取り上げていないと感じる。
障害者や福祉へ接続されるべき若者のことを言っているのではない。普遍的に存在するであろう若者を取り上げているのか?という話だ。
逆に言えば人口減少に悩む「保守的な地方」の方が若者のことを考えて必死に呼び込もうとしているのではないか?
私は自動車系に居るプログラマで、その経歴から自動車総連系組合内で質問されることも多い(自動車総連では期間工も組合員なので色々な話が聞ける)。
それらの背景からはっきり言って今回の選挙は、初の女性首相誕生と、中道改革連合の失策、主流左派のズレた若者認識の3つが影響した必然的結末だったように思える。
自分のイデオロギーだけでなく、しっかりと今目の前に居る若者を見たほうが良い。そうしないと何度だって繰り返すと私は感じる。
だから2時間20分ってお前もののけ姫より長いんやぞ、140分あって限られた尺とかいうのは甘えなんだわって話。
テメーが言ってるゴミみたいな愛がちゃんと描写できてねえっつってんだよ。そういう普遍的感情に着地するための描写が散逸してて出来てねえって話をしてんの。
で、そのエモいライブシーンってなんのためにあるの?自分達のため?それともそれを見てる客のため?
ライブのためのライブになっててライブ自体に意味がないって言ってんの。それのどこに真の意味でのエモがあんの?ねえよな?
自民党工作員乙。 「ママ」という旗印が守ってきたものを知らない、歴史への無知が現れていて笑う。
あなたは、持たざる者の悲哀を装っているけど、その本質は歴史の矮小化と、自らの境遇を盾にした他者への加害に過ぎないよ。
あなた「戦時中の母親は進んで子供を戦場に送った」言い切っているけどあまりに一方的な歴史観すぎるわ。軍国主義下での母親達が強制されて子どもを戦場に送り出さざる得なかったけど、戦後はその反発と反省から日本の平和運動を牽引したのは間違いなく「母親」だよ。
具体的な例を出すよ。
1955年に日本母親大会が誕生して、原子爆弾を許すまじという声から水素爆弾禁止署名運動が全国に広がった。
あとなあ、「わが子を戦場に送らない」という願いは「自分たちの子供さえ良ければいい」という特権意識ではないんだよ。一人の母親がわが子を想う切実な痛みこそが、自民党という巨大な強欲な装置が振りかざす「お国のため」という似非の大義名分に対抗しうる、最も根源的で強力な源泉なんだよ。聞いているか?妖怪人間。庶民の暮らしは円安でほくほくなんてしてねーぞ。
あなたが攻撃する「#ママ戦争止めてくるわ」という言葉の背景にある「誰も戦場に送らせない」という普遍的な願いすら読み取れていない。それを「ママになれなかった自分への攻撃」と受け取るのは、あまりに過剰な被害妄想で、自身だけを正当化するために「反戦」という崇高な目的を泥にまみれにしている。いかにも裏金を作ったり、統一教会という外国勢力と結びつく自民党の議員を支持する自民党候補者らしい視野や理解の狭さを感じる。
「国全体が目茶苦茶になってしまえ」という破滅願望は、結局のところ、自分よりも弱い立場にある子供たちや、今まさに声を上げている女性たちを道連れにしたいという「強権的な加害性」の裏返しだよ。これこそが、自民党政権下の自己責任論が生み出した最悪の副産物で、皮肉にもあなたは、自分が批判しているはずの体制側の論理(弱肉強食と分断)にはまっている。本当に滑稽だよね。貧しかったり庶民なのに自民党を支持したり、参政党や維新という強権右翼政党を支持している人って。
「お前等のガキなんて、とっとと戦争に行ってお国のために死んで来いや」という言葉は、もはや政治批判でも何でもありません。それは、かつて軍部が若者を戦地に送り出した際の冷酷な視線そのものです。恥じなさい。
氷河期世代が放置されてきた政治的不作為は、糾弾されるべき大罪で、その責任は自民党だけが償うべき。ただしその怒りを、未来を奪われようとしている子供たちに向けるのであれば、その瞬間にあなたは「特権階級に虐げられた被害者」ではなく、「未来を食いつぶす加害者」へと成り下がっています。もう一度言います、恥じなさい。
高校生の娘がいる。平成生まれであるが、価値観は令和の人間と考えていいと思う。
良くある話、食事中にスマホとイヤホン、洗濯物は別、風呂は絶対俺の先に入る。
別にいいじゃねえかじじいと会話してくれても。洗濯物はまあいいよ。よくねえけど。
風呂だって流すんだから俺の後でもいいじゃねえか。これも別にどっちでもいいんだけど。
嫁さんと俺の関係は良好だと勝手に思っている。嫁さんと娘の関係も良好。
もっとおっさんに振り向いてくれよ。おっさんがモーションかけてんの分かってんだろ?でもそれがキモイんだろ?娘センサーはビンビンなんだろ?
おっさんの手札はもうほぼないのよ。
お出かけ、小遣い、外食、買い物、他になんかあるか?
嫁さんにもこんなこと聞けん。痛すぎて。
これは令和関係なく普遍的な親子関係に帰着しているだけなのか?
俺のきもさに拍車がかかった結果なのか?
親子の会話は壁打ちになりがちなのか?
でもおっさんはもう少しあがいてみようと思う。
あんた、なかなか面白いところに目をつけたわね。でも、「リメイクがない」なんてのはただの勉強不足よ! 実際には結構な数のプロジェクトが動いてるわ。
結論から言うと、漫画のリメイク(再解釈)はすでに一大ジャンルとして確立されているけれど、成功させるには「オリジナリティとリスペクトの絶妙なバランス」が必要で、ハードルが高いのよ。
あんたが知らないだけで、業界はとっくに動いてるわ。詳細をまとめたから、よく読みなさいよね!
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浦沢直樹の『PLUTO』だけじゃないわ。巨匠たちの作品は、今風の絵柄や物語にアップデートされてリバイバルしてるのよ。
| 元の作品(著者) | リメイク・再解釈作品 | 担当作家 | 備考 |
| 鉄腕アトム (手塚治虫) | PLUTO | 浦沢直樹 | あんたが言ってたやつね。世界的に大ヒットよ。 |
| デビルマン (永井豪) | DEVILMAN crybaby | 湯浅政明(アニメ) | 現代のSNS社会を背景に再構築された傑作。 |
| どろろ (手塚治虫) | どろろと百鬼丸伝 | 士貴智志 | キャラデザを一新して、よりスタイリッシュに。 |
| サイボーグ009 (石ノ森章太郎) | 009 RE:CYBORG | 麻生我等 | 3DCG映画連動で、かなり現代的なビジュアルに。 |
| バビル2世 (横山光輝) | バビル2世 ザ・リターナー | 野口賢 | 現代の軍事技術などと絡めたハードな展開。 |
あんたが言うように、もっとバンバンやればいいのにって思うかもしれないけど、漫画特有の難しさがあるの。
「マニア向けのニッチ作品をリメイク」っていうアイデアは悪くないわね。
最近は「スピンオフ」という形で、サブキャラを主役にして現代風のコメディにする手法(例:『名探偵コナン 犯人の犯沢さん』や『北斗の拳 イチゴ味』など)が流行ってるわ。これは、原作の古さを逆手に取った賢いやり方ね。
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結局のところ、最近の読者が「古い絵柄」を避けるのは事実だけど、逆に言えば「中身(構成やドラマ)が普遍的に面白い」からこそ、一流の漫画家がリメイクしたくなるってこと。あんたが期待してるような、もっと大胆なアレンジ作品も、これからウェブ漫画とかで増えていく可能性は高いわね。
あんた、具体的に「この作品のこのキャラを、今のこの漫画家に描いてほしい!」っていう妄想はあるの?
【深掘りの質問】
「みらいデザイン」という響きにはワクワクするものがありますが、皮肉なことに、未来を標榜したものほど早く古臭くなってしまうのはデザインの世界の「あるある」です。
なぜあんなに賞味期限が短いのか、いくつかの視点で紐解いてみましょう。
「未来っぽいデザイン」と言われるものの多くは、実は「現在最新だと思われている要素」の詰め合わせに過ぎません。
1960年代の「曲線・プラスチック(スペースエイジ)」 これらは当時の最先端技術を反映していましたが、技術が進んで「当たり前」になるか、あるいは「不便さ」が露呈した瞬間に、単なる「一昔前の流行り」に転落してしまいます。
未来を表現するために、以下のような特定の記号(お決まりのパターン)を多用しがちです。
これらは記号としての意味が強すぎるため、見る側が「あ、これは未来っぽく見せようとしているな」とメタ視点で気づいてしまいます。演出の意図が見えた瞬間に、デザインは「普遍性」を失い、消費の対象へと変わります。
「未来」を追求するあまり、現実の使い勝手(アフォーダンス)を無視したデザインは短命です。
カッコいいけれど座り心地の悪い椅子最初は「進んでいる!」と感動しますが、日常で使ううちにストレスが溜まり、「結局、普通が一番だよね」と揺り戻しが起きてしまいます。
拡大、加速、金属的、人工的
社会が求める「理想の未来像」自体がアップデートされ続けているため、古い未来像に基づいたデザインは、単に「予測が外れた過去の遺物」に見えてしまうのです。
マーケティングやデザインに真剣に取り組んだことがあれば、「みらい」と名乗った瞬間に陳腐化することは自明なことです。それでもあえて「みらい」を名乗るプロダクトには情弱を騙す意図が見え隠れします。
本当に長く愛されるデザインは「未来」を目指すのではなく、「普遍的な課題の解決」を目指していることが多いです。みらいと名乗ることが流行のスパイスを抜きにしても機能するかどうかが、陳腐化を防ぐ境界線と言えるでしょう。
人の進化ということを語るさいに、火の発明というようなことを本質とする言い方があるが、実際はこれ、もっと大きな全体像の中で捉えた方が素直なんじゃないだろうか。
つまり、人の知性・創造性というもの自体が、「食べられないもの、食べにくいものを改変して、新しく食べられるように(食べやすく)する」という、きわめて動物的な本能の延長にあるということだ。
世の中のクリエイティブな仕事をする人は、いわゆる芸術家から理工系のエンジニアまで、およそほとんどの人が自分の仕事を料理に例えがち。
それだけ生活の中で誰の身近にもある普遍的な創造的作業だということだが、この『普遍性』がどこまで遡っても、原始時代の生活まで想像をめぐらせても、普遍的であったろうことを考えると、これはもっと重大に捉えていいことなんじゃないかと思う。
原神のヒットから5年、ドラクエ7リメイクに沸く日本メーカーを後目に、中国メーカーはモバイルゲームの開発に注力していた。
同一メーカーによるターン制原神であるスターレイルはヒットし、アクション部分に特化したゼンゼロもある程度の成功を収めた。
キャラのモーションなど重要なポイントを上手く真似ることのできた鳴潮も成功した部類に入るだろう。
後続タイトルであるエンドフィールド、白銀の城、アナンタ、NTEなどもプレイアブルな状態で出揃い、大方の内容が掴めてきた。
だが結局のところ、そもそも「原神ライク」とはどのようなものだろうか?
これらのゲームは「アニメ調」と呼ばれることが多いが、日本に於いてはトゥーンシェードを用いたゲームそのものは珍しくない。
原神が世界的にヒットした事によって、その特徴である「アニメ調」という言葉が逆輸入された結果、
日本でもそう呼ばれるようになったというだけの話で、これだけではゲーム内容を表しているとは言い難い。
グラフィックが綺麗だというのも、当時のモバイルゲームとしては綺麗だというだけで、PCやコンシューマなどのプレイヤーにとってはあまり関係がないし、
PC、コンシューマ、モバイルでデータが共有されるゲームも数多くある。
原神が原神であるということは、その結果に過ぎず、遊びやすさ、快適さ、雰囲気の良さといった普遍的な努力目標から逆算して、
そのためにグラフィックの綺麗さが要求されるのであれば、それを満たすレベルまでクオリティを引き上げる。
そういった曖昧な目標の積み重ねが、良くも悪くも原神というゲームを形作っているのであって、それを真似るのは非常に難しいだろう。
「ボブ・デュラン以前のアメリカ音楽」みたいなコンピレーションで、フォークミュージックを聞けるなと思って聞いたが、ブルースやカントリーやジャズの原型みたいなものが広く入っていた。
「ボブ・デュラン以前」って何だと思ったが、どうやらボブ・デュランは「音楽の歌詞を『詩』にした」「音楽の表現に『個人』を持ち込んだ」という点で革命的な存在らしい。さすがノーベル文学賞。シンガーソングライターの誕生。
ではデュラン以前とは何か。
作曲者が演奏して歌っていても、歌の内容は作曲者の心情ではなく「みんなが共有する何か」だった時代。
実用的な電気録音できるようになって、そんなに時間が経っていない時代。
19歳で結婚して子どもが生まれたものの、数年で家族を捨てて出稼ぎ労働に出て、流しの演奏者になって、また家族を作って捨てて… みたいな人とか、持病の痛みを紛らわすために酒と薬に溺れながらテレビに出て、酔っ払って家族に暴力を振るってオーバードーズで20代で死ぬとか、そんなのばかり。
音楽で有名にならなければ、もっと早くその辺でのたれ死んでたんだろう。というか、そういう人が山ほどいただろう。
そんな奴らが、苦しい労働や暮らしの経験をもとに、「この土地はみんなのものだよ、ここはお前の国だよ」とか「誰もが神に愛されるべきなんだ」とか、普遍的なラブソングみたいなものを歌ったりする。
それらは、彼らの言葉でありながら、みんなの言葉であって、誰もが自分のものとして口ずさむ、民謡みたいな歌だった。
きっと一発どりに近い音源は、音のバランスも適当で、テンポも揺らぐ。でも、今その辺の裏ぶれたバーとかで演奏されていてもおかしくない、リアルな肉体の音楽。
そういうのがめちゃくちゃ刺さる。
増田さんの挙げた例は、どれも「最初は傍流・異端扱い → その後に主流化」ですが、主流として受け入れられた“型”がかなり共通しています。
② 新説が「定量的な予測」や「決定的な検証(テスト)」を提示
④ その過程で「何が反証になりうるか」のルールが徐々に固まる
決め手は「天体の運動を一つの法則で統一し、予測が当たった」ことです。
ニュートン力学と万有引力は、地上の落下と天体の運動を同じ枠で扱える(統一性が強い)。
そして象徴的なのが、ニュートン理論を使ったハレー彗星の回帰予測(1758年頃)で、実際に1758年末に観測され、ニュートン理論の有力な実証例として扱われました。
ここで重要なのは「それっぽい説明」ではなく、“いつ出るか”を事前に言える(予測可能性)が強かった点です。
決め手は「熱機関の効率という工学的に検証される領域で、普遍的制約として働いた」ことです。
第二法則は19世紀中頃にクラウジウスやケルヴィンらにより整理され、代表的には「熱は自発的に冷→温へは流れない」等の形で表現されました。
これは“哲学”ではなく、蒸気機関などの熱機関の性能限界(どんな工夫をしても超えられない上限)として現場で繰り返し確認され、理論の信頼を固めました。
つまり第二法則は「実験室で一発」より、工学・化学での再現性と有用性が、主流化を支えたタイプです。
決め手は「原子が実在すると仮定すると出る定量予測が、実験で確認された」ことです。
19世紀末〜20世紀初頭まで、原子の“実在”には懐疑もありましたが、
アインシュタイン(1905)がブラウン運動を原子(分子)の運動に結びつけ、観測できる量(平均二乗変位など)に落とした。
その予測がペランらの実験で支持され、原子・分子運動論が受け入れられる大きな契機になった、という整理が教科・解説論文で繰り返し語られています。
ここは反証主義っぽく言うと、「観測できる指標への翻訳(操作化)」が勝因です。
決め手は「メカニズム不在の弱点が、海底観測データで埋まり、“決定的テスト”が登場した」ことです。
ウェゲナーの大陸移動説は「大陸の形が合う」「化石・地質が対応する」などの状況証拠はあった一方、動く仕組み(メカニズム)が弱く、北米などで強い反発がありました。
1950〜60年代に海底探査が進み、海嶺で新しい地殻が生まれ広がるという「海洋底拡大」的な絵が出てきた。
さらに1963年前後、海嶺の両側に地磁気の“縞模様(磁気異常の対称パターン)”が出るはずだ、という形で「科学的テスト」が明確になり、これがプレートテクトニクス確立の重要な一歩として整理されています。
このケースは、まさに「傍流が主流へ」の典型で、“良い話”が勝ったのではなく、“測れる予測”が揃ってひっくり返った例です。
決め手は「微生物の存在→感染→予防・治療の成功」までが連結して再現されたことです。
パスツールやリスター、コッホらの仕事が「病原体が病気を引き起こす」という枠組みの確立と受容に大きく貢献した、と整理されています。
具体的には、パスツールの実験が“自然発生”を否定し微生物の役割を示す方向で影響し、
コッホは炭疽菌などで「特定の病気に特定の病原体」という因果を実験で強く示しました(コッホの業績・方法論として説明されます)。
ここは理論の受容が、手洗い・消毒・衛生・ワクチン等の実務成果に直結し、主流化が加速したタイプです。
増田さんの列挙は「傍流が主流になった」という点では正しいですが、より重要なのは、
という点です。
私がMMTに対して言っている「反証主義の土俵に乗れ」という要求は、まさにこの主流化パターン(=科学史の勝ち方)を踏まえたものになっています。