
はてなキーワード:普通車とは
それから十数年経ってもずっと欲しかった(2代目コペンの存在は記憶から消しました、初代に寄せたセロもあとから出たけどなんかフォルムが違うんだよなぁ)
免許を取ってすぐ状態の良さそうな中古車を探し始めてようやく見つけた1台に試乗しに岐阜まで旅行した
しかし、残念なことに縦にも横にも大きく育ってしまった私はコペンにフィットすることはなく泣く泣く諦めた
岐阜行く前に先に乗っておけよって話だが
そんなコペン、次は軽じゃなくて普通車になるらしいじゃないですか!?
しかも「は?」ってなった2代目ではなく初代のあの可愛らしいスタイルを踏襲しているなんて理想的すぎる
ついでにFRになるらしいけど、正直そこはあまり良くわからん、ただCVTじゃなくて6速ATっぽいのは嬉しい
とりあえずロードスターくらいの大きさだろうと友人のロードスターを借りてみてサイズ確認したが、コペンを探していた当時からいろいろあり横幅が減ったことでなんとか乗ることができた
俺を止めるものは何もない
買うぞ、俺は買うぞ
30半ばの女なのだが、女性専用車というものに乗ったことがなかった
何か信条があるとかじゃなくて探したり移動するのだるかったから
⬜︎別に空いてない
ネットの普通車満員、女性専用車ガラガラ画像を見てたのでちょっと期待したが空いてなかった
普通にぎゅうぎゅう
ただ、小さめな方が半数以上なので、そのぶん天井までのスペースがあり165cmの私は快適だった
顔周り涼しい
⬜︎香りがすごい
鼻をつまむほどじゃないが匂いに敏感な人は無理だな
ホームに電車が来て扉開いた瞬間に香るくらいにはフローラル充満してる
化粧してる人はいなかった
⬜︎遠慮がない
ぶつかりおばさんがいた
あと正面の人と同じ方向を向かずに超至近距離で向かい合ってスマホをいじるおねえさんがいたらとか、普通車で見ない女性たちって感じだった
普段女性が男性にクレーム入れているような内容が目の前にありちょっとおもしろかった
周りに配慮なくなるとこうなるんだなと
つまりは男性は。。。みたいな話になりそうだが今日はそういう話じゃないので割愛
ただ肌を出してる腕が触れ合っても気にしないのはちょっとやだった
普通車ならキュッとして触れないようにすると思うんだけど、同性しかいないから気にしない人もいるみたい
今日涼しいしお互いサラサラだったからよかったが、普通に微妙な気持ちになった
それだけ
普段背の低いお姉さんたちが男性の影から出てくるとぶつかりそうで怖かったし(路駐の影から子供出てくる感じ)、このお姉さんたちは満員電車どうしてんだろって思ってたけど安全地帯あるようでよかったなと思った
20代の初めのうちは北海道にいたこともあり自家用車を所持していたが、上京に伴い自家用車を手放して以来20年近く自家用車を所持していなかった。
生活には自家用車は必須だし、ちょうどコロナ禍の真っ只中で車が手に入りにくい時期だったこともあり、地元に戻り一番最初にしたことの1つが自家用車の購入だった。
とはいえ20年近く車とは縁遠い生活をしていたので全く車に興味もないし最近の車種の知識もないので、「普通車」「ガソリン車」「燃費がいい」というキーワードだけで適当に車種を選び、現物も見ずに新車を注文した。
入手性のいい車種を選んだつもりだったが、当時はディーラーにも在庫が全然なくて契約から納車まで4ヶ月以上かかったように記憶している。
公道での運転は13〜14年ぶりだったが、運転に慣れるまで1年近くかかった。
1年経ってようやっと車を出すのが億劫ではなくなったように思う。
家賃は意外と安くないのは感じる。
東京の都心に比べれば半額以下ではあるのだけれど、それなりのところを借りようとするとそれなりの家賃にはなってしまう。
都市と地方の家賃の差額は、自家用車の維持コスト(ローン、保険、税金、ガソリン代、駐車場代など)ほどには差額はないと感じる。
だが、ファミリーだとこの辺の感じ方はちょっと違うかもしれない。
ファミリー向けのマンションがほとんどないので(あっても意外と空きがない)戸建てを買うか借りるかになってしまうが、東京圏のファミリー向けのマンションに比べるとかなり安く借りられる。
食料品や日用品の物価はそこまで安くないし、水道やガスが都市圏に比べると倍くらいするので、いわゆる日常のコストはそこまで変わらない。
一方で公共交通機関が貧弱で普段使うことがないので交通費の支出がほぼほぼなくなったことや、車を出してまで外食するのがめんどくさいのでほぼ自炊になったこと、人付き合いが減ったことなどで飲み会が皆無になったことなどのことがあり、出ていくお金は減った。
今のところは車のローン支払いがあるし、自宅のメンテなどでまだそれなりにお金が出ていっているが、車のローンが終わればそれこそ勤め人をしなくても生きてけるのではないかというレベルの出費になりそうな勢いである。
小さな町ではもうほぼ個人商店がなくなり大手のスーパーしか残っていないので、普段行く場所で電子決済が使えないところがほとんどなくなってしまった。
以前は現金のみだった産直もここ1年でだいぶPayPayに対応してきたので、今年に入ってからは現金を使ったのは数えるほどしかない。
都市圏にいた頃は所属していた組織の内外によらず人付き合いはあったし、技術系のコミュニティを中心にコミュニティにも顔を出すようにしていたが、地元に戻ってきてからはほぼ人付き合いがなくなった。
普段自宅で仕事をしているので人と合わないのもあるが、身の回りに同じような仕事をしている人もほぼいないし、人付き合いしなければならない人というものがすっぱりなくなってしまった。
地元のコミュニティみたいなものに顔を出してみた時期もあったのだが、地元の人と自分とではすでに生き方や価値観がかなり違ってしまっており、コミュニティに顔を出してみてもあまり実のある状況にならなかった。
もちろん近所付き合いみたいなものはなくはないが、高齢者が多く自分とは年齢がだいぶ離れていることもあって、浅い付き合い程度しかない。
そもそも自分のような男一人で暮らしており朝に出勤する様子もない状況だと、自分が近所からアンタッチャブル認定されている可能性もあるのではないかと思っている。
もとよりリモート前提のフリーランスなので引っ越す際に転職を検討することはないが、住んでいる場所の求人は継続的にチェックしている。
地域によっても相場は違うが、今住んでいる地域は地方のわりには平均年収は高め。
何年か前に大手企業の工場が規模拡大したので、その工場の求人や関連企業の求人もガッツリ増えたことで、相場が上がったみたいだ。
といっても東京圏からの転職となると年収の大幅ダウンは避けられないが。
なお自分はソフトウェア開発者なのだけれど、地元のソフトウェア開発者の求人は片手で数えられるくらいしかない。
仮にそれらの企業に転職すると年収は半額以下は確実だし、そのまま勤め上げたとしても東京での私の社会人1年目の年収を超えることはなさそうである。
大手企業の工場が生産を拡大していることもあってか県内の中では外から来る人も多い方だし、市内には外国人も増えているので県内的には治安が悪い方とはされている。
しかし実際には犯罪率は全国平均を下回るし、その犯罪率も年々下がっているようである。
先日すごい台数のパトカーが巡回していて「なんだろう?」と思っていたら、1キロ程度先でクマが目撃されたとのことだった。
そこも普通に町中なのだけれど、クマが出たとの通報が複数あったらしい。
なお、特に今年は山中でのブナの実が大凶作とのことで、例年以上のクマの出没が予想されている。
東京や政令指定都市なんかと比べると自治体の施設なりサービスはよくないのは感じる。
ただ自分のような独身の男は自治体のサービスからは最も縁遠い属性であり、自治体のサービスやよかろうが悪かろうが生活に影響がほとんどない。
唯一困るのが都市圏に比べてゴミ出しできる頻度が少ないことくらいか。特に資源ごみと不燃ごみを出せるタイミングが少ないのがツラい。
地元に戻ってきてそろそろ2年が経つが、思い返してみるとこの2年は人生の中で一番何もない2年間だった。
平和だったともいえるし、刺激がなかったともいえる。
手元の仕事は忙しいものの、そのわりに随分平和で何もない2年だったように思う。
とはいえ親の近くで暮らしてみると親の老いを感じるし、5年もしたら介護なんかも視野に入ってくるかもしれない。
今のところ全くその兆候はないし、具体的な心配があるわけではないけれど、自分が何かをするなら今のフリーなタイミングしかないのかもなあとは思っている。
3月に続けて、この連休も乗り鉄してきたので、また日記を増田に残そうと思う。
6時前の起床は目覚まし前に起きられた。夏なので暗くはなく、起きるのも困難ではないのだ。
横浜に出て、途中の行程を端折る新幹線切符をえきねっと経由の券売機で購入。
(券売機を直に操作すると、並ぶ列のプレッシャーが嫌なので、発券以外はえきねっとで済ませた。)
降りたところにはあまり選択肢が無かったので、自分には珍しくそばを食う。
窓側ながら眠くて大宮までは寝てて、あとはGoogleマップで現在位置を追う。
新前橋を過ぎれば遠方にこんもりとした山を見るが、吾妻線に入るとそこに挟まれた感じとなる。
橋で川を渡れば、岩に立つ白波が涼やか。強い光ゆえ緑の色彩も濃く見える。
小野上では採石がとれるようで、それを積む特殊車両が泊まっている。
中之条で山あいは開ける。それなりに人が降りるのは四万温泉に向かうのか。
トイレしたくて車両を渡ると、二人ほどロードバイクを持ち込む人が居てうらやましい。
岩島からは最近作ったろう高架橋で国道をまたぎ、長いトンネルに入る。これが八ッ場ダムによる新線なのか。
ダムの湖面が木々の合間にわずかに見える。その前方には急峻な地形に貼り付く国道。駅前にはキャンプ場もあるのね。
また長いトンネルとなり、トンネルではWikipediaの沿線概況を見て過ごす。
ダム下だからか、削り込まれた吾妻川を橋から見ては、長野原草津口でもごっそり降りる。
片面の行き止まりホームを見ては遠景を撮ろうとするが、時間が足りず。
そして、大前での折返時間は短いので、事前に車内で精算しておくようにとの放送。ここまで30人程度は残っただろうか。
羽根尾の構内も広い。それを過ぎると、シールドや木々に包まれては20km/hなんて看板まである。
強く減速し、災害の多いこと、そして線路の終わりも近いだろうことを知る。
万座・鹿沢口手前でも同じくらいの減速。
街は川向いにあり、駅前には旅館を示す剥げた看板と土産店。反対側にはバイクの集まるカフェ。
そしてさらにトンネルで、大前まで乗り切った。プツっと終わる感じの平面ホーム。
気持ちだけかもしれないが、降りても涼しく思える。見どころはけっこう多くて飽きない行程だった。
ロードバイクも組み立てている。
そして出発となるが、乗車証明発券機はなかったので、帰りの車内で切符を発券してもらう。
ひとりひとり処理するの大変だなあ。
また強い減速で始まる帰りは、長野原草津口手前で旧太子線の橋脚、その先では引上線として残る旧線がみつけられた。
川原湯温泉では今回も行き違いで、わずかに見える湖面に向け写真を撮る。
帰りはなんだか行き違いが多くて、ちまちまと停まる。
そして考えることもなく車窓を眺めていると、幸せすぎて「ずっとこのままで居たい」とさえ思ったりもする。
ちなみに、親は親で観光地に出かけたらしい。
じいさん、ばあさんの写真とともに撮った観光地の写真が送られてきて、
夫婦には子供なり老人なり慈しむ存在がないと、関係性が保てなくなるのかなと思ったりする。
そんな詮無いことばかり考えないよう、Vtuberの雑談を聞きつつ、平野が広がれば渋川に戻る。
まともなものが食いたく、今回は菓子パンで済まさず、中華屋で豚キムチ定食。
そして、飲み物買っての上信電鉄は建物のすき間を縫うような改札口。
車両は107系の改造らしいが、LEDはフルカラーで行先案内もディスプレイ化され、手間暇かかっている感じ。
でもトイレは不可か。
車両所には剥がれる古き車両も見て、街を抜けては新幹線下からねじるようにして川を越える。
スピードはゆっくりなのに、線路の整備がいまいちなのか、左右に振られて轟音がある。
車窓は吾妻線と比べると、山々に挟まれるというか囲まれるといったくらい。
住宅もそれなりに多く、昼間のワンマン運用ながら乗降は細かくある。
吉井からはひたすらまっすぐなのにやはりスピードは緩く、車両は揺れる。
上州福島はほぼ中間ゆえ、行き違い。駅舎はホーローの駅名標だったりしてそれなりに古い。
上州一之宮ではきついカーブから、同じ方向に折れた川幅を高いところから眺める。
そしてラストの千平からは、鏑川の渓谷と急峻な山肌に挟まれ、スリルさえ感じる空間をこわごわと進んでいく。
ここはさすがに相当(体感で20km/hくらいか?)減速するようだ。
山肌を回り込んでは下仁田駅に着く。
駅名標と山々を合わせて撮っては、車線もない駅前から5つものコミュニティバスが入れ替わりに発車する(列車に合わせるので当然か)。
乗り潰しは14時台ながら早くも終わりなので、折り返し便では帰らず、
バス待合室で時刻表の少なさ(6系統+南牧村便があるが、休日は4便ずつしかない。
乗合タクシーに至っては曜日運行!)をじっくり見ては、廃墟かわからない昭和な建物とか、
旅館がこんにゃく料理を出すとか、河原で人々が水遊びをする遠景を見るとかして駅に戻る。
上州富岡は名所に合わせてか、新しい建物で屋根が高く作ってあるのも知る。
行きは乗るべき列車があったから急いだが、帰りは急ぐ理由もない。
酒飲むかは迷ったが、暑さによって酔ったような頭のかすみがあり、辞める。
車両区には吾妻線で見た砂利運ぶ車両が複数居て、SLも構内で入れ替えしていた。
烏川を越えた光景には見覚えがあり、やっぱり一度来たことあるなと思える。
そして車窓も気になるのだが、暑さからの疲れで眠くなる。
こんなんではダメだと、短編で興味がキレギレとなるゆえ、まだ読み終わらない「異常論文」を読み出す。
「ザムザの羽」は感情的に来るものがあり、「論文」として並ぶ中では特に面白かった。
そして横浜は19時前であり、さすがに薄暗くなる。
帰っては速攻でシャワーを浴び、20時には楽しみな議席予測を聞く。
結果は最後まで気になり、途中暇つぶしをしながら、寝るのは25時となる。
車が高くなってきててネッツの人がコロナ前くらいから高くなったって言ってた。
サクッと見積もりするとどの車も500万円する。
全体的に富裕層シフトしているらしく、受注生産体制になっても売れると分かってから高くなりだした。
自分はむかしタイに駐在してて、現地ではピックアップトラック乗る職員も多くて
当時の交通の不便さからトラックの荷台に奥さんと子どもや親戚を乗せて15時間くらい運転して帰省する感じで、現在なら交通事情は多少は良くなってるだろうけど。
日本人も途上国向けの安めの車種を日本メーカーなどが輸入してもらって、
安くてもそこそこパワーがあるとか、面倒な電動化システムを排除した感じの車で、
高めのクルマを買う人は一定数いるだろうけど安めを買うという2極化も進んで
N-BOXでも高いとなってきて、そこそこ見栄えのする安めの普通車
今の普通車はモーターが付いてて高いのである時点でルーミー・ライズみたいな車種
ルーミーしかないからルーミーばかりが走ってるけど、この辺が売れるとなれば
軽自動車より容積単価的にお得感あって見栄えもする車種
フロンクスが出てみるとこの辺からコストの牙城崩しが始まってくる。
この辺はユーザーがどの程度慣れてくるかで変わってくる。
昔の日産がタイ生産の車種が当時とすればまだ日本人が慣れてなくて品質の悪い車に乗るというのではなかった。あれから15年くらいは経っているが、だんだんユーザーも慣れてきた。
満員の電車内。携帯で写真撮るときにカシャという音がするため普通車内で撮れないのだが、「人身事故が発生したため・・」というアナウンスが流れているときに緊急激写した。
大人が少年ジャンプを電車内で読んでいるのをたまに見かける。最近の漫画はほとんど読んでいないので、少年ジャンプが中年ジャンプに変化したのか?と思い、コンビニで立ち読みしてみた。
うーむ。
どう見ても、小学生の男の子に向けて描かれている。それを読む大人がいる・・・
広く大人にまで読ませるということは作り手、ジャンプ編集部がすごいということにもなろうが、しかし、小学生に向けて描いているわけで・・・
漫画を読むことが = アホ
とは決して思わない。
成長の過程で、その世代に合った楽しみを見つけ堪能し → それを卒業して次の楽しみを見つけていくということが真っ当なのではなかろうか。
少年ジャンプを卒業して、中学生から高校生にかけてはヤング・ジャンプとかビッグコミック・スピリッツ 大学生から大人になったらビッグコミック・オリジナル(ってまだある?)
しかしいつか漫画の世界に飽き足らなくなる(のが自然)→ 活字メディアであれば、小説の世界へ。
漫画が悪いわけじゃない。
俺だって漫画を読むことはある。浦沢直樹のMonsterにはぶっ飛んだし、PLUTEは途中まで読んだが、連載終了してから全巻最初から読もうと思ってる。
しかし、漫画がお手軽すぎのメディアなのは、解釈の余地がほとんどないからだ。
同じ漫画を読んだ子供も大人も全く同じ印象・感想を持つだろう。絵が描いてあって、台詞が書いてある。この解釈の余地がないほとんど同じ印象しか与えない漫画を読んでいると、想像する力が薄くなってしまうと思う。それと、漫画は「読みに行く」という前のめりの姿勢が必要なく、パラパラとめくり簡単に目に飛び込んで来る。
そして、解釈の余地・想像の余地が大いにある。だからこそ、読むのが面倒でもあり、そしてまた読む喜びも大きいのだ。同じ小説なのに全く違う感覚を人びとに与える本こそ傑作だと俺は思う。(セカチューのように同じ感覚を与える作品は違う)
書評家、関口苑生氏が何ヶ月か前のミステリ・マガジンで書いておられたのは、
「最近のミステリー新人賞とケータイ小説読んだのだが、説明が多すぎる!いつからこんなことになったのだ」
その通りだと思った。説明をあえてしないことによって生まれる解釈の余地、小説としての美しさがあると思う。
漫画「も」読む。
そうあって欲しい、と俺は誰に向かって言ってるのだろう?
ゲームしか楽しみがない大人にもほぼ同じことが言えるのだろうが。
一つ女性陣に聞きたいのだが、
彼に魅力を感じますか?
https://blog.goo.ne.jp/full-chin/e/eae96ef64713f3fd701ba72d4cb354e6
女性専用車自体がない路線の話なので女性専用車にいけって話は受け付けません。
「誰もお前なんか痴漢しねえよ」
よく聞く言葉だ。実際私も痴漢すらされる需要がない女だと思ってるのでおしくらまんじゅうの身動き取れないようなところに更に人がなだれ込んでくる満員電車に普通に乗るし今も乗ってるけど数年前痴漢された。
自分の当時のスペックは170半ばかつ100kg越え。そう、百貫デブの喪女。黒髪メガネ。オタク。男性向けのエロのほうが好き。
デブは乗るな?すみません。今ダイエットしてます。ちなみにポケモンで当時の身長体重調べたらメガシンカのリザードンが一番比率近かった。ジュゴンまで行かなくてよかった。ひとまずエンペルト目標にしてる。
「自意識過剰」とか「お前なんか興味ない」とか言われる以前に「この見た目で女として見るやついねえよw」と自分でも思っているタイプだし、中高大も百貫デブまで行かずともデブかつ中1の時点で165はあったので痴漢を受けたことがなかった。
こんな私でもナンパもどきの声掛けを受けることが数回あるが「うれしい」にはならないし、たまに聞く「自分なら行けるレベルとナンパ男に思われた」という怒りも湧かない。「私レベルまで落とさないと可能性ないのか……何かしらの勧誘とかのノルマなのかな……」と相手を憐れむレベルになる。まあ無視するけど。人見知りなので。
それで痴漢の話に移る。
その日は冬、雨だか雪が降ってたか降るかもしれないだかそんな日で傘持ってる人も多かった。身動き取れないほどの満員電車に、それでも意外と人は乗れるのでどんどん人が乗ってくる。とはいえそれが日常。
駅と駅の間はだいたい5分。
横にスーツケース的な大きい箱物を持った人がいたから、まっすぐ立てずに腰から下だけやや横を向いてるみたいな状態で扉を見て立ってた。角度的に言えばとにかく明るい安村さんのネタですぐ浮かぶ野球部のあの体制から足をおろしたみたいなくらいの角度。
駅を出て3分程経過した後。私下っ腹に違和感を感じた。なにかが私のお腹に当たっている。パンツの上どころかややパンツを隠すように前掛けになりかけてるたくさんの脂肪に。
とはいえ満員電車、誰かのカバンかなにかが当たっているのだろうと気にしなかった。
1分くらい立つとそれが小刻みに揺れ始める。
私は推理する。満員電車、社内の人の持ち物。ふむ。これは…………
満員電車に苛立って長傘を持ちながら貧乏揺すりしてる人の手の甲とかだな?と。
お腹がスッキリとかズボンやパンツに少しだけ乗るくらいの人はベルトのように腰につけるウエストポーチを想像してほしい。
冬で厚着だからウエストポーチの底に何かが当たってる?くらいの揺れ。正直ぎゅうぎゅうの車内、なにかが体に当たってしまうのはよくあること。気にしていなかった。
と言ってもウエストポーチのようにパンツを隠すようについた脂肪を電車の揺れ以外で誰かに揺らされ続けるのは普通に嫌だったし、それが少しでも当たらないように動ける範囲でちょっとだけ体をずらす。
なんと一瞬離れたのにかかわらず当たってくるものが追随してきた。
なんで〜〜〜?(困惑)
そこでその貧乏揺すりマンの長傘があればやめろやの意味も込めて足で軽く払ってやろうと思うものの靴が動かせる範囲かつ、下っ腹に当たる位置の軸として機能しそうなところに傘はない。そこで気がつく。意識を持って指が1本お腹に食い込んできてる。
怖くて声が出せない。とかじゃない。まあ驚きで声が出せないに近いのかもしれない。とはいえまだ確証もない。
まず満員すぎて犯人がわからない。少なくとも私の下っ腹に手が届きそうな範囲には3人いる。
そして私も片手に通勤カバン、反対の手にはスマホで犯行してると思われる人の手を捕まえることも叶わない。
窓の外を見る。
実際にそこが陰部だったら嫌だけどまあ……下っ腹だし。
そして気がつく。私が体を捻っているのでこの人、私の贅肉を股間と勘違いしているのか、と。
なぜか気分をよくしたのか指の動きがやや元気になる。あ、もしかしてこれ私が避けたのを快感によって身をよじらせたとおもったな?ちがうんだって。
当たっている指の本数が1本から2本に増える。愛撫からフィニッシュまで行くまでの薄い本バリの展開の速さ。
駅が見えてくる。
下っ腹をタプタプするガシマンならぬガシ下っ腹の指が早くなる。
冬用の厚手のズボンだから実は対して触られてる感覚もないし、まずそこ贅肉だしどうすりゃいいんだよ。いや痴漢なのか。
フィニッシュと言わんばかりに指が一番激しくなる。
エロ漫画だったらきっと駅に到着と同時にイく流れかもしれない。
そんなことはない。ここはフィクションじゃねえんだぞ。
私は今知らん誰かにお腹の脂肪を小刻みに揺らされているのだ。どんな状況?
だがしかし何度も書くがそこは私の長年の脂質と糖質でできた高級ボディの一部。
誰かの指がただただ私のパンツのウエストラインとそれを隠すように乗った脂肪の境目部分を指の腹を上にしてフックのようにした指が、厚手のズボンのおかげでなにかと勘違いしたパンツの縫い代の最後のちょっと出っ張った部分を押し込んでくる。なんならその押し込まれた端っこ部分の食い込みがやや痛い。
扉が空いた直後手は離れ、個人的に痴漢候補者の付近の人たちも私も一斉に車外に流れ出る。
正直就業時間ギリギリだったので釈然としないものの、そのまま私は乗り換えるために去っていった。
これが二十数年生きてきて中学から十年以上電車で通勤通学している私の初めての痴漢だった。
別にその被害によって「私は」泣いてはいないし、電車に乗ることが心理的に負担になってるわけでもない。強いて言うならでそれ以来エロ漫画で痴漢モノをそんなに読まなくなったくらいで。だってリアリティがなくて(いまさら?ではある。エロ漫画にリアリティあっても困る。でもたまに読む)ちなみに胃カメラ経験してから触手モノもあんまり読めなくなった。オエってならないの、すごいなって。
ただ私の対応は世間で言えば「泣き寝入り」に入る部類だし、他の女性からしたら変な成功体験を性犯罪野郎に与えた女なだけだ。
お尻や胸ではなく下っ腹をたぷたぷされたという状況だけ書くと面白いし私も何これ?と今でも思ってるが、これは相手の誤認と私の特殊なボディでたまたま下っ腹になっていただけで、一歩違ったら普通に性器だったのだから。
これで味をしめた私の下っ腹たぷたぷ野郎が他の女性にもっとエスカレートした行為をしてるかもしれないと今思えば声くらい出せばよかったかな?とはおもう。
この経験から他の路線で女性専用車があれば絶対にそこに乗るかと言われたら全然そんなことはない。
(もちろんこんなことは滅多にないというのは前提で、とある猛暑日の満員の女性専用車で、女性の多種多様な気遣いによるいい香りを全部まとめた匂いで気持ち悪くなり吐きかけた経験があるから。制汗剤と整髪剤と柔軟剤全部まとめてほんのり遠くに汗の香りみたいな女子校の体育の後の着替え中の香りに香水とワキガを混ぜた香りだった。正直現時点では痴漢よりこっちがトラウマである)
あと私が日本人の男性の平均身長よりも高い私が女性専用車乗ると頭一つ抜けて大きいからなんか……たまに怖い視線が。向いてくる。日本人の女性の平均に対してアス比どちらにもでかいけど女です。巨デブ喪女キモオタクですみません。
ただこの経験から女性専用車に乗りたがる人、男が入ってきてほしくない人はいるだろうなとも思ったのは事実。
私だってきっとガシ下っ腹じゃなくて実際にされてたら普通車両が怖くなってたと思う。
これは痴漢自慢ではない。
ただ「誰もお前なんか痴漢しない」っていう人に対して、それがケツとタッパと脂肪のある欧米人の観光客とかでみるような体型の女もされるからほんとに痴漢するやつ見境ない、もしくはめちゃくちゃ趣味が幅白いか多種多様な人がいるんだよ。っていう話。
本稿は、13歳になった君にこれからの人生を生きる上での考え方の土台や心の支えとなる思考的枠組みを網羅的に記したものである。
観念的でメタな内容が多く具体的なことについてはあまり書いていないが、それは君の人生の選択肢を狭めないためである。
具体的なことについてはその時々に応じて人に教わったり、自分で文献に当たったりしながら方策を模索して欲しい。
もちろんお父さんも協力は惜しまない。
人生を過ごすとは「何か」を成し遂げることである。まずは「目標」を持つこと。目標があれば「何をすべきか」=「手段や道筋」は自然と定まる。
歴史上、偉人と呼ばれる人々は皆、高い理想と大きな目標を抱き、それを目指して全力で努力をした。目標は、その時点で可能な限り高く大きく設定すること。最初は、例えば「貧困をなくす」「世界平和を実現する」「地球温暖化を防ぐ」「子どもたちを笑顔にする」などの抽象的なもの、漠然としたもの、夢のような目標で良い。後から変わっても構わない。というより、人生において目標はどんどん上書きされるものだからである。
ポイントは、まず「自分が想像する理想の未来=目標=ビジョン」を思い描き、そこからそのための「手段=ミッション」を考えることである。(これを上から下への思考法という)
「ビジョン」は感覚的、直感的、創造的なものなので右脳で捉えるものと言える。一方で「ミッション」は、抽象的でぼんやりとしたビジョンを具現化するための方法を、左脳を使って計算や分析、論理的思考で精緻に組み立てていくものである。
多くの人は与えられた「手段」から始めてしまう。とりあえず言われたから「勉強」する。とにかく「お金」が必要だから働く。なんとなく環境に悪そうだから「ビニール袋」を使うのをやめてみる。などである。勉強も、お金も、ビニール袋をやめることもすべて「手段」であり、それ自体が「目標」ではない。
「電気自動車があれば地球環境が良くなるかも?」ではなく、「地球温暖化を止める、そのためには何をすべきか?」という問い(イシュー)から入る習慣を身につけること。これはすべての課題解決のための基本的な姿勢である。
そのためには、視野を広く大きく持たなければならない。物質(モノ)、出来事(コト)、人間(ヒト)などはすべて、「多面的」、「俯瞰的(ふかんてき)」、「時間的」にとらえるクセを付けること。その裏側や側面はどうなっているのか、他のモノやヒトとの関係は? 昔はどうだったのか、10年後にはどうなっているだろうか? 世の中の多くの物事は複雑で、いろんなものと影響し合っており、時間とともに変化する。一義的、一面的、一時的な見方で正しい評価はできないと常に肝に銘じること。
受験や就職、大きな買い物、仕事、恋愛、結婚など人生の重要な決断をする時は、一歩引いて、客観的に、様々な立場や状況からモノ・コト・ヒトをとらえ、十分に考えること。
その際、ひとつ注意すべきなのは人間の物理的感覚、時間的感覚、記憶はとにかくあいまいでいい加減なものだということである。『10cm』は自分が思ったより短かく、『10分間』は長い。その逆もある。人の『過去の記憶』は都合よく修正される。正しい判断のためには科学的、客観的な「根拠」に立脚することが求められる。日記をつける、ちょっとしたメモを残す、時間や度量衡(どりょうこう)は道具を使って正確に測る、何かを分析する際は統計やデータに当たるなど、簡単なクセをつけるだけで結果は大きく変わる。
先に述べたように、目標は変化してもいい。というよりも変化すべきである。13歳の時にしか見えない、感じられないことがある一方、20歳になれば見えてくることも、40歳、60歳でしかできないこともたくさんある。重要なのはいつも目標を設定し前進し続ける、上を目指すという「姿勢」である。
人生は長い。5〜6歳で天才的な才能を発揮する子どもも、20代、30代で活躍するスポーツ選手も、70歳で功績が認められる科学者もいる。良いことだけではない。人生のどこでどんな不幸やトラブルに見舞われるかは予測できない。人生には浮き沈み、山も谷もある。どんな天才にも挫折はある。災害や戦争など自分では回避、制御できないことも起きる。
『良いことばかりは続かない』という覚悟は必要だ。しかし『悪いことばかり起こるわけでもない』。現状を悲観してばかりではダメだし、現状が順調であってもそれに安穏(あんのん)としていてはならない。常にトラブルに備えつつ、そして決して希望は捨てないこと。
おそらく、君の人生はお父さんやお母さんが生きてきたそれより厳しい時代を生きることになる。しかし、目標を一段高いところに置けば、現状に迷い悩んだ時にもぶれることはない。未来を信じて、希望を持って進むことができる。
「成功」への最大の近道は「人間関係(人脈)」だと断言できる。「実力」でも「運」でも「お金」でもなく「人脈」である。いい学校に行く、いい会社に勤めるのもすべていい人に出会うためであると言って良い。
成功の最大の秘訣は「人脈=人の縁」であり、人と人が出会って起きる化学反応が「奇跡」を起こす。
重要なのは、奇跡を自分で起こすことはできないが、奇跡が起きる「確率」を上げることはできるということである。単純な話、「機会」が増えれば「確率」は上がる。サイコロで六の目を出すのに一回振るのと六回振るのとではどちらの可能性が高いかは考えるまでもない。
人との良いつながりを広げるための小さな可能性を積み上げることがチャンスを引き寄せる。良い人には出向いてでも会いに行くこと。無駄かもしれないと思うような「小さな機会」を大切にすること。
『人は環境によって作られる』これは絶対的な真理である。高尚で、得るものが多く、社会的に正しい環境や居場所に自らを置くよう意識して行動しなさい。善良な人間と付き合えば善良になるし、朱に交われば赤くなる。学校には「校風」、会社には「社風」がある。
自身が意図しないこと、コントロールできないことで大きく運命が変わることもある。それを完璧に防ぐことは難しいが、「確率を下げることはできる」。
気をつけなければならないのは、「人としての善悪」は頭の良さや肩書や金持ちかどうかとは関係がないという点である。会社の社長にも教師にも医者にも政治家にも科学者にも宗教家にも、悪人や変人はいる。それを見抜く眼力は、多くの人間を実際に見ることで養われる。つまり「機会」が重要だ。おそらく君が想像する以上に人間は「多様」である。良い方にも悪い方にも突き抜けたとんでもない人間が存在するという現実は認識しておいた方が良い。
出会う人間を自ら選ぶことは難しいが、付き合う「距離感」は自分でコントロールできる。付き合う人や、身を置く場所や環境は自分で決められる。できるだけ「良い環境」で時間を過ごし、おかしな場所、コミュニティには近づかないこと。
たった一滴の赤いインクが落ちてピンク色に染まった水を元に戻すことはできない。大切なのは自分のコップにインクを落とさないように気をつけることだ。
「エントロピー増大の法則(熱力学の第二法則)」というものがある。エントロピーとは「無秩序さの度合い」を示す尺度である。放っておくとエントロピーはどんどん増大し元に戻らなくなる。これは物理空間の森羅万象すべてに当てはまる普遍の法則とされる。水に拡散したインクが自然に水とインクに分離されることは絶対にない。トランプをシャッフルするのは容易だが、偶然きれいにカードが揃うなどということはまず起こり得ない。机の上や部屋はどんどん散らかるが、自動的に整理されることはない。社会的な混乱の広がりもエントロピーの増大である。エントロピーの増大を制御し「秩序」を保つためには人の意志と行動と力が必要である。
人と人との関係も同様で、意識して制御する必要がある。良い人と出会うことが良い環境への扉を開く鍵であり、良い環境に身を置くことがより良い人に出会う条件である。この好循環を自ら意識して作り出すこと。
井の中の蛙は池を知らず、池の小ブナは大海を知らない。大海原や大空に出て様々な出会いを経験することは君を大きく成長させる。
もう一度言う。『人は環境によって作られる』
お金がある事は必ずしも人を幸せにしないが、お金がない事は確実に人を不幸にする。そういう意味でお金は重要である。
その日その日の生活がやっとという状態では先のことが考えられなくなり目標を見失なう。そうするとどんどん人生の選択肢が狭まっていく悪循環に陥る。
金はどん欲に稼ぐ必要がある。ただし「正しい心」は忘れずに。
お金を稼ぐときには、ギャンブルや宝くじのような一攫千金は「まず起こり得ない」と肝に銘じること。0%ではないがあまりにも期待値=確率が低く、選択肢に含めて物事を考えるには無理がある。確率論に基づいて冷静に考えれば理解できることである。一攫千金を前提に物事の計画を立ててはいけない。
怪しげな儲け話も同様である。誰かから「うまい話」を持ちかけられた時は、それは「あなたのことを思って」の話ではなく、相手が「自分のために考えた」話だと受け止めること。うまい話の裏には必ず別の悪い話、ヤバい話、落とし穴がある。
確かに「成功し、大金を手にした」という人は世の中に多数存在する。だがそれはほとんどの場合「塵(チリ)が積もって山になった『結果』」である。着実に金を稼ぐには「塵のような稼ぎをどん欲にかき集める」ことが必要だ。1円、10円のような「塵のような稼ぎ」を生み出すことはそれほど難しくはない。ただしそれを「どん欲にかき集める」ためには知恵と努力が必要になる。
『100万円の商品を1個売る』より、『100円の商品を1万個売る』方がビジネスとしては堅実である。100万円の商品が1個売れなかったらそこで終わりだが、100円の商品が9,999個しか売れなくてもあまり影響はない。『100円の商品を1万個売る』より『100万円を一発で当てる』ことの方が何倍も難しいが、多くの人はそれを逆に考えてしまう。『一発当てる』ためには運が必要で不確実性が極めて高い。しかし「塵をかき集める」ことは自分の努力でなんとかなるということを理解すること。
近い将来、君は世の中に無数にある仕事や事業の中から何かを選んで生活の糧を得ることになる。何をすべきか迷ったら「人からの感謝」を対価として得る仕事を選ぶと良い。
野菜が欲しいと思っている人に野菜を作ってあげることは素晴らしいことである。困っている人を助けてあげれば感謝されるだろう。スポーツや芸術で人々に感動を与えることも意義のある仕事だ。それが「世の中の役に立つということ」である。『いい世の中』はそうやってできている。
しかし、投資やギャンブルで稼いでも誰からも感謝されることはない。つまりそれらは「仕事」にはならない。ギャンブルは論外としても、投資は今の時代には資産形成のために必要(そういう仕組みが前提の社会になってしまっている)なので否定はしないが、少なくとも「生業(なりわい)」にすべき仕事ではないことは知っておいて欲しい。
人間の欲求には際限がない。1万円あれば1万円使うし、1億円あれば1億円使いたくなるのが人間である。これは抑えることが難しいし、無理に抑えこむと精神的にも疲弊しQOL(Quality ofLife、生活の質)が低下する。
この課題に対する古来よりの解決策はただひとつ。収入から「天引き」することである。給料であれ何らかの収益であれ、収入があったらその10~25%くらいをすぐに使えないような形で貯蓄に回しておく。
「天引き」が蓄財のための最も効果的な方法であることは、ユダヤ人もイスラムもメソポタミア文明も華僑も日本の本多静六という人物(明治の造園家であり東大教授)も提唱している「お金を貯めるための基本中の基本」である。(逆説的だが、租税公課や組織に必要な費用の類はだいたい給料から天引きされる。その理由をよく考えるべきである)
人間は9000円しかなければ9000円しか使わないし、1万円あれば1万円使ってしまう。その理由は消費社会の仕組みがそうなっているからだ。時計には1000円から1000万円以上するものまである。自動車も同じ。毎日飲むお茶、毎日使う紙にもいくつもの価格が設定されているように、世の中のありとあらゆるものには価格の上中下(日本では松竹梅)が存在する。お金があるからといってその分高いものを買っていると際限がなくなる。この欲求はお金がある限り続く。それが人間の本質なので努力や気合いで抑制するのは難しいし、何より楽しくない。だから「欲求」を抑え込むのではなく、「お金」の方を制限しなければならない。
そのために最も有効な方法が「天引き」である。人間は9000円しかなければその内でやりくりをするのである。それで困ることはほとんどない。資本主義とはよくできたもので、モノ・コトの価格には上には上があるように下には下もあるからである。
「天引き」のための具体的な方法は色々ある。最も簡単な方法は「定期預金」や「財形貯蓄」を銀行に申し込んでおくことである。今の時代なら「(安定した)投資信託」も選択肢に入るだろう。初任給をもらうと同時に始めることを勧める。
次に、天引きした後のお金で「やりくり」をするための基本的な「生活の知恵」を記しておく。
高額のものを買う時は、その価格に「本質的な価値」があるかどうかを見極めること。
高級車も普通車も、飛行機のエコノミークラスもビジネスクラスも、「移動する」ための時間は変わらない。どんな時計も「時刻を知る」という性能はほとんど同じである。どんなカバンでも「物を運ぶ」という役割は変わらない。もちろん機能以外に別の価値(デザインなど)を認めることは人間が文化的な営みを行うために必要なことだが、消費社会においては高価な価格の価値の大部分は「欲望」=「欲しいと思う気持ち」を揺さぶるために人為的に生み出されたものだ。
その価格差は、機能や性能によって生じているものなのか? 人間の心理的な欲望を巧みに刺激するために付けられたものなのか。物を買うときは「本来の機能=目的」を基準にして価値を判断するとぶれない。
基本的に日常生活品を買うときは「今ある物を使い切ってから買う」こと。流通が高度に発展した現代日本においては(災害などの例外的な事象は別にして)無くなってから買っても不自由することはない。
経営学における重要な概念として、「在庫」と「廃棄」には「維持」と「損失」という大きなコストがかかっているという考え方がある。物は「置いておくだけ」でお金がかかっているという感覚を徹底して身につけることが重要である。
特売だからとか念のためにとかいう理由で安易に「在庫」を増やしてはいけない。「無くなってから買う」が原則である。1日程度のブランク(空白)が生じたとしても、ほとんどの場合なんとかなる。文房具も、食料品も、日用品も、服も、本も、ゲームも、前のものを使い切り、無くなってから次のものを買う。これで無駄遣いは随分と減るはずだ。(繰り返すが非常時への備えは別である)
それからこれは私の経験則だが、衝動的に「欲しい!」と思ったけど買うかどうか迷ったものは、1週間〜一か月程度我慢してみる。ほとんどのものは熱が冷めたように関心がなくなる。ただし「売る側」もしたたかで、「期間限定」や「数量限定」といった手法でこちらに考える隙を与えない。冷静な判断のためには、やはり「それをいつ、どこで、どのくらい使うか」という「在庫管理」を常に正確に行うことが肝要だ。
あらゆる在庫を管理するためには「整理整頓」が重要である。身の回りのものは整理整頓に努め、いつでも数量や状態を把握できるようにしておくこと。
整理整頓には各分野に体系化された「技法」がある(代表的なものとして図書館の本の分類法である日本十進分類法(NDC)や日本工業規格(JIS)、ISO、公文書管理規則、生物の分類と同定法、見える化など)。早いうちに機会を作り、習得しておくことを勧める。
ちなみに、このような「一生使える知識や技能」は習得が早ければ早いほど人生において得られる利益が大きくなる。大人になってから「こんな便利なもの、方法、知識があるとは知らなかった」と後悔することは多い。
金銭出納帳を付けることも重要である。帳簿をつけない企業、組織など存在しないことを考えれば、出納管理は必須のPermalink |記事への反応(0) | 21:00
内装は安っぽさまるだし。
車は小さくて乗り降りが辛い。車内スペースも狭いし収納もたいしてない
カーナビが付いてるけどバカ。Googleマップで1時間かからない道を2時間かかるといいGoogleマップ並にバカな道を示すことがある
燃費はたいして良くない。というかよくわからない。メーター類が信頼できない。航続可能距離を示すのはいいが、10キロ走っての5キロしか減らなかったりエンジンかけて数百メートルで数キロへることがある。
いい所がまるでなく、近所に下駄代わりみたいな車なのだが俺はコレを毎日100キロ運転する
両親は「軽の四駆だから」これを選んだらしい。
軽の四駆とかいうニッチな要望なので納車まで2年かかった。そこら辺で安売りされている普通車より高い
でも俺は四駆を活かすような場面で生活しない。2年たって状況が変わってから押し付けるように買ってきた。前の車の方が良かった。最初はそう思ってたし今でもそう思ってる
なお名義は両親である。事あるごとに「ワタシのクルマなんだから」と口にしてくる
俺はこういう鉄くずに毛が生えたクルマより長距離運転して疲れない車、それがわがままならせめて乗り降りするたびに頭を天井に擦らない車がいい
でもそれは無理だ。両親は俺が嫌がることやらなくていいと思うことについては率先して金を払う。金貸してくれと言えば1000円でも嫌がるが、30万のクルマ買う分には俺が要らない今のでいいと言っても押しつけるように買ってくる
不満しかないがそれを口にできる立場ではないので今でもこの車に乗っている
いつも思うんだけど
ガソリン満タン(普通車の平均的な数字50リットル)で250円なんだよね、5円値上げ。
空になってから入れることはないとからたぶん給油タイミング的には200円とかだよね。
200円気にするなら車乗ってる場合じゃないと思う
5000万だったマンションが突然1億になった
みたいなインフレと違い、ガソリンの1リットル数円のインフレはあまりにも緩やかで健全にしか見えない。
実数を出せば出すほど「その程度なら家計の負担にはならへんな・・・」となるのがガソリン代。
趣味で乗ってる人なら「それただの娯楽費で、生活費じゃないだろ」になる
片道100kmみたいな辺境の地に住んでたら、それはそれで「そんなとこ住むなよ」だよね。都心に住んで家賃高いと言ってる奴の地域逆バージョン。
常識的な範囲の地方の車社会だとガソリン消費量に対する数円の値上げは誤差範囲にしかならない。
だから個人の家計でガソリン代の多少の増減は、実数に対する意識はなくイメージで話してるだけだ思うよ。
車2台あるのでガソリン値上げきついっす!
1人の人間が同時に乗るのは1台なのだから、1台でも100台でも1回あたりの運転にかかる値上げ分は同じなのではないか
その2台目の車を買わなかったら一生分のガソリン代になるのではないか
脳が震えるわ
口座に預けた金額と、ビューカード支払い指定、給与受け取り指定などでJR東日本の運輸系特典がもらえるアレだが、特典が配布され始めている。
自分も「ほうほう」と思い、一旦口座に50万入れて半年経った今、新幹線も含む片道旅客券4割引、どこかへビューーン2000pt割引2枚、普通車グリーン券1枚が手元にある。
ちなみに普通車グリーン券1枚と左のアウトレットモール行き高速バス片道券ももらい、すでに使った。
宇都宮に行って餃子を食べたり、LRTに乗ってみたり、佐野に行ってラーメンを食べたり、佐野駅前の半径400mほどにコンビニ1件すらない住宅街で車社会の地方都市での生活に思いを馳せたりした。
さて手元にJREポイントが9000ptほどあり、どこビュンの割引サービスが3月末であることと、弊社が年内26日終業で今年の冬休みが長いんで、ここらで1枚どこビュンの割引を使っておきたいところなのだが、ミステリーツアー券なので、旅の事前の目的のようなものが立てづらい。
「とりあえずここを狙うといいよ」とか、「ここ行ってみてよかったよ」的な話があったら聞かせて欲しいんだが。