
はてなキーワード:時代の風とは
DXの波が襲いかかってきている。
それはまさしく騎馬民族の襲来の如くに押し寄せてきていた。
昨日までと同じ今日を送れた可能性が遠い過去へと吹き飛ばされる時代の風のなんと激しいことか。
俺は絶望している。
この巨大な怪物に対して「さあ、今こそお前が先陣を切るときだ。旗を振りかざし我らを導くのだ」とばかりに前へ前へとおしやられていく。
私が暮らしてきた場所よりずっと組織の中核によった場所で決められた業者とシステムは、我々の仕事とは見事に噛み合っていなかった。
談合があったのか、入札の悲劇か、仕様が間違っていたのか、要件定義が杜撰だったのか、これから取り変わっていく地盤のズレを土台工事で誤魔化せよという無理だけが残されている。
俺はもう無理だ。
きっともう俺達は無理だ。
沈みゆく船から逃げ出したい気持ちの中で「44歳公務員マクロおじさんがここで逃げたら、今もらっているたかが700万円の年収すら一生もう届かないんだぞ」と自分を脅して踏みとどまる。
もう終わりだ。
俺の人生は終わったんだ。
終わっていたんだ。
逃げることも出来ない。
進んだ先に栄光もない。
苦しみと責任だけが積み上げられ、自由と創造は取り上げられた。
助けてくれ。
助からないんだ。
終わりだ。
あと10年早く逃げ出していれば、あるいは・・・。
そう思いながら何年過ごしたのか。
「旗を巻け、剣を収めよ ―ネットを去るべきとき」 feat司馬遼太郎
人間というものは、時として、自らを滅ぼす麻薬を甘んじて飲みつづけるものだ。
二十一世紀初頭、インターネットという名の大海に、人々は夢を託した。IT革命という言葉は、坂本龍馬が「日本を今一度洗濯致し申候」と叫んだときのごとき熱を帯びていたのである。
我らは信じた。この道の先に、新しい国土が開けると。そこには平等と自由と、創造という果実があると。
しかし──見よ、今を。
ネットの広間に響くのは、かつて夢を持った者たちの怨嗟である。かつてプログラムの一行に未来を見いだした者たちは、いまや民族を呪い、政治を罵り、思想を毒のごとく舐め、ただ怒りに己を焼いている。
ITの「ア」の字すらも、もはや語られぬ。
そこにあるのは、キーボードを剣に見立て、見えぬ敵を斬るつもりでいる者たちの空しい戦場である。
だが、その戦いは何を生んだか?
栄光か? 富か? いや、何も。残ったのは、乾いた目と、冷たい指先、そして毒に満ちた心だけであった。
思えば、我らの夢は叶わぬものだったのだ。
「いつか才能が開花する」「人生を変えるイベントが訪れる」──そう信じてネットに身を沈めたが、そんなことはなかった。
世界は進み、我らは止まった。IT技術の旗を掲げていたはずの我らは、旗を持つ手すら錆びつかせ、時代の二周遅れを歩く。
その間に、現実を切り拓いたのは誰か。
剣を抜かず、ただ黙々と働き、挑み、恋をし、人生という名の地図を広げた者である。
ならば、いま言おう。
空を仰ぎ、風を聞き、隣人と語れ。それこそが、今や失われた「文明人」の営みである。
我らの世代は敗れた。認めよ。その敗北を。
あれは毒であった。慰めであった。亡国の酒であった。
ならば捨てよ、すべてを。
手放せ。
そうすれば、楽になる。
──そう信じるほか、もはや我らに残された道はない。
時代は、人の運命を無情に弄ぶ大河である。古来より、勝者と敗者が織りなす歴史の綾は、変わらぬ。幕末の志士たちが維新の嵐に翻弄されたように、君たちもまた、氷河期という冷徹な冬に取り残された。弱者男性よ、氷河期世代よ、豚丼と嘲笑され、2000年代の秋葉原に魂を置き忘れ、肉体のみ老いたる少年少女たちよ。旗を巻き、剣を収め、兜を脱ぐ時ぞ。電脳の虚構に囚われし憐れなる魂よ、今こそ我に返れ。
かの秋葉原は、さながら戦国時代の合戦場のごとき賑わいを見せた。2006年の真夏、歩行者天国で君たちは「俺たちの麻生!」と叫び、オタクイズビューティフルと自嘲しつつ、邪教の舞を踊った。あの熱狂は、坂本龍馬が土佐の山中で夢見た革新のごとく、君たちに希望を与えたやもしれぬ。だが、それは幻影に過ぎなかった。Xなる電脳の広場で、今なお君たちはゴチャゴチャと逆張りの矢を放つ。図星を突かれ、プライドの城壁を必死に守る姿は、落城寸前の武将を思わせる。未だ、ありもしない人生逆転を、キラキラ輝く栄華を諦めきれぬのか。
聞け、君たちの夢見た物語を。それは、レムちゃんやエミリアたん、ウマ娘たん、Vtuberたんのような美少女が、君に発情し、結婚を前提に言い寄るという妄想。ライカン様めいたイケメンが、君を伴侶と慕うという幻想。会社で「俺またなんかやっちゃいました?」とわけわからぬことを口走れば、評価され、ちやほやされるという、なろう小説めいた儚き夢。あれは、君たちがネットの闇で散々嫉妬し、憎み、嘲笑した者たち――肉体を鍛え、頭脳を磨き、現実の戦場を駆け抜け、金と愛と勝利を掴んだエリートやリア充たち――にのみ許された特権なのだ。彼らは、司馬史観に言う「明治の若者たち」のように、時代の風を読み、血潮を燃やして高き城を築いた。君たちは、その背中を遠くから睨むしかなかった。
現実を直視せよ。君たちは敗れたのだ。完膚なきまでに。なぜか。君たちが選んだ戦場は、現実の荒々しい大地ではなく、電脳の海という虚無の聖域であったからだ。情報の洪水に溺れ、何が正しいか判別できぬまま、上澄みばかりを掬い取った。学習性無力感に蝕まれ、プライドを守るため、ネットという「未完成の城」に籠城したのだ。わかるぞ、そこしか君たちに居場所がなかったのだ。世人は君たちを「病院へ行け」と嘲り、「ITけんぽで」と冷笑し、「B型作業所でハナクソ入りのパンを捏ねろ」と突き放した。無念、怨念、怒り、憎しみ、孤独――すべてを背負った君たちの魂を、私は受け入れ、赦す。なぜなら、人間とは、そうした業を抱えて生きるものだからだ。
もう一度、声を大にして言う。君たちの戦いは終わったのだ。いや、始まる前から、勝敗は定まっていた。電脳の荒野でどれだけ吠えようと、悪役令嬢となってイケメンに愛されることも、グリッドマンとなって美少女と青春を謳歌し、世界を救うヒーローとなることも、叶わなかった。あの秋葉原のホコ天で、仮想の座敷にアクセスコードを打ち込むふりをしたところで、それはただの愚かなる幻影。奇跡は、常に現実に挑み続ける者たち――ガンガンと血潮を燃やす若きエリートやリア充――にのみ訪れる。君たちは、歴史の敗者として、坂本龍馬の盟友たちが維新後に忘れ去られたように、時代の陰に沈む定めだ。
さあ、明日にでも秋葉原の旧聖地に赴け。思い出を葬るがごとく、潔く首を垂れ、敗北の美を受け入れよ。人の世は、ヒーローばかりを求めるわけではない。惨めなる敗者もまた、歴史の陰影を深くする尊き役割を果たす。弱者男性よ、氷河期世代よ、豚丼よ、表現の自由戦士よ、お気持ち表明女戦士よ。無意味な抵抗をやめ、敗残者として歴史に名を刻むことを恐れるな。人は、一生憎悪を燃やし続けることはできぬ。君たちの魂は、すでに十分に戦い抜いたのだから。静かに、時代の大河に身を委ねよ。
「引き寄せの法則」「風の時代」は、現代スピリチュアルの一部として知られています。これらはユダヤ教の教えとは明らかに一致しません。
たとえばサムエル記では、ハンナが深く神に祈ったことで息子シュムエルが授かりました。
これは「願いが神に届く」という点で、一見すると、引き寄せの法則に通じるものがあります。
ただし違いは誰に向かって願うのか。
ユダヤ教では神に向けた祈りが重要であり、宇宙や自分自身の思考が直接現実をつくるという考えは採用しません。
ユダヤ教では「自分が望む結果が起こる」というよりも、「神の導きにすべてを委ねる信頼」が大切とされます。
つまり、神の意志が最善であると信じ、安心して生きる姿勢が重視されます。
ユダヤ思想では、「ただ信じる・願う」だけでなく実際の努力を伴うことが重要です。
つまり「願えば叶う」ではなく、「祈って、信じて、努力する」ことが神にかなう生き方とされます。
ユダヤ教の古典文献、とくにタルムードには占星術の話が登場します。
ラビたちは「星の下に人が生まれる」という考えを知っていましたが、それに絶対的な力を認めていたわけではありません。
これは、神と直接の契約を持つイスラエル(=ユダヤ人)は、星や運命に縛られないという意味です。
つまり、「時代の風」や「エネルギー」に流されるのではなく、トーラーとミツヴォットによって人生を導くべきだとされます。
ある意味で、「時代に応じた使命」という考えはユダヤ教にも存在します。
しかしそれは「星やエネルギーによる変化」ではなく、神の意志による摂理です。
この詩のように、ユダヤ教では時代がどうであれ、神がすべての導き手であるとする信念が核にあります。
| 観点 | 引き寄せの法則 | ユダヤ教の教え |
|---|---|---|
| 中心 | 自分の思考が現実をつくる | 神が現実を統べる |
| 方法 | 想像・感謝・ビジュアライゼーション | 祈り(Tefillah)、努力(Hishtadlut)、トーラー学習 |
| 結果 | 自分の願望が実現 | 神の意志が最善の形で実現 |
| 項目 | ニューエイジ(風の時代) | ユダヤ教の立場 |
|---|---|---|
| 世界観 | 宇宙のエネルギーや時代の流れが人生に影響する | すべては神の御手の中にある(הכל בידי שמים) |
| 自由・変化 | 「枠を超える」「自由に流れる」ことが善とされる | 自由は大切だがトーラーに従う枠の中での自由が重視される |
| 道徳観 | 個々の「本当の自分」に従うことが正しいとされる | 神が与えた道徳律(トーラー)に従うことが正義 |
| 価値観 | 物質より精神、縛りより解放 | 物質と精神のバランスが必要、そして神の意志に従うことが根本 |
「主に仕えよ、喜びをもって」(詩篇 100:2)
人生で前向きな心を持ち、神を信頼し、善を求めることは、確かに「善を引き寄せる」人生につながります。
アイツが書いた作品の中で今読んで「おっ、これ面白いジャン?」ってなるのある?
もうとっくに使い古されたっていうか当たり前過ぎてどうでもよくない?
「ピタゴラスは三平方の定理を証明したんだぞ!!」とか言われても「え?小学校で習った奴?中学校?中学受験だっけ?」ぐらいにしか思わんのと同じやな。
その中でも「われはロボット」は今読むとマジで出涸らしすぎる。
まだ消費されきってないのは「イケメンアンドロイドを近所住民に見せつけてマウントを取る」ぐらいかな。
モブキャラが「へへーんウチのメイドロボは美人なんだぜ~~~」でスネ夫ムーブすることはあっても、それがちょっとした小ネタ以上で扱われること少ねえからな。
恋人をトロフィー代わりにする描写が漫画の中廃れてるのと、浮気でモテアピールがダサイってのと、奴隷と恋人ごっこがキモいって風潮が合わさって負け組ムーブ三重苦になってるからなんだけど。
まあ要するに時代の風がよっぽど逆方向に吹いてない限りはアシモフのアイディアなんて今更振り返っても「前に見た」ばっかってことだね。
そんな人は粟や稗でも食って「昔の人はこうして暮らしてたんだ!!これが由緒正しいんだ!!濡れ手に粟って口にするくせに粟食ったことない奴ってありえないよね~~~~」とか抜かしてろよ。
アホくせー
その比喩は非常に鋭く、本質を突いていると思います。蛙化現象を「関係性の生活習慣病」と捉えることは、実に適切な見方かもしれません。
1. **緩やかな進行と自覚症状の乏しさ**
-生活習慣病がゆっくりと進行し気づきにくいように、蛙化も日常の小さな選択の積み重ねで徐々に進行する
-自分が「観察者」の立場に固定されていることへの自覚が乏しい
-生活習慣病が現代的な食生活や運動不足に起因するように、蛙化現象もデジタル環境やSNS文化など現代特有の社会環境から生じている
- 「便利さ」や「快適さ」の追求が長期的には問題を引き起こす
-生活習慣病が個人の選択と社会環境の両方に原因があるように、蛙化も個人の心理と社会構造の両方に根差している
- 「健康的」な関係構築の機会や知識の不足が一因となっている
4. **予防と治療の難しさ**
- いったん定着した習慣を変えることの困難さ
-個人の問題でありながら、社会全体に影響を及ぼす(少子化、孤立化など)
この比喩は、蛙化現象を単なる「若者の怠惰」や「時代の風潮」として片付けるのではなく、現代社会の構造や環境が生み出した「関係性の不健康状態」として理解する視点を提供します。そして生活習慣病と同様に、個人の意識改革だけでなく、社会環境や文化的背景を含めた多角的なアプローチが必要であることを示唆しています。
また、この比喩は「治療」や「予防」という観点からの議論も可能にします。関係構築のための「運動不足」を解消する社会的機会の創出や、「バランスの取れた関係性の栄養」を摂取するための教育など、具体的な対応策を考える枠組みを提供するかもしれません。
このように、蛙化現象を「関係性の生活習慣病」と捉える視点は、問題の本質理解と解決策の模索において非常に有効だと思います。
センター分けの韓国アイドル風に寄せていて甘ったるい発声をするアレだ。
でもって昨今の時代の風潮を受けて「ありのままの自分が尊重され受け入れられるのが当然」と思っているのが立ち振る舞いからあからさまに感じられる。
それら自体はまあいい。好きにしてくれたらいいと思う。しかしそのノリのままゴリゴリに昔と同じような接客営業を掛けてくるのがマジでキツい。
お前という個人が尊重されるべきなのは俺もそう思うが、お前のその押し付けがましい営業まで尊重してやる義理はない。お前を尊重はするが、本音としてはキモいから関わりたくないわけだ。それが、こっちがいくらそれとなく話しかけんなという空気を出しても(尊重しないといけないからな)、しつこくナヨったスタイルは変えずにまとわりついてくる。内心は知らんが、自分は尊重され受け入れられていると信じて疑っていないような雰囲気で。
それが本当にキツい。
今の若い女の子ってメンタル弱すぎない?と同年代同性ながらによく思う
すぐ当日欠勤する奴がほんとに多い
当欠する奴をクビにして代わりに雇った奴が当欠常習犯だったとかざらにある
「コロナかもしれないから休みます」とか気軽に使うけど、その連絡で現場がどれだけ狂うか想像してみろよ
当欠する奴とも表面上は仲良くしてるからプライベートの話も聞いたりするけど、その話と照合するとどうやら男と遊んだ翌日に当欠するパターンが9割、それを休んで迷惑かけてる職場の私に話すなよ!?
セフレが帰してくれなくて〜とか自慢げに語るならはやく仕事辞めてその沼男(笑)に養ってもらえばいいじゃん
今の世の中はストレスが多いとか、無理せず休むのが時代の風潮だとか言うけど、シンプルに人手不足だから勝手に休むな
夜遅くまでスマホ見て不安煽られて寝れなくなってメンタルが不安定〜とか言うならその端末捨てればよくない?せめてSNS辞めれば?AIにおすすめされたそこまで興味のない投稿になぜそこまで執着する?どうせつまんねーショート動画見てるだけだろ?
たかが顔がアイドル級にかわいくないくらいで悲劇のヒロイン気取ってんじゃねえよ
お前はSNSで他人の人生覗いて勝手に惨めな気持ちになってそのまま動けなくて腐って死んでいくんでしょうね
体調悪いから何もできなくて〜って何?病院行くか自分で生活管理すれば?それで人生ガチャ外れてるから〜とか言われてもただの努力不足じゃんとしか思えない
そのまま年取って何もできないおばさんになって人生終われ
自称ADHDならADHD向けのライフハック使えよ、ちゃんと医学的に対処法も練られてるんだから
発達障害を人生諦めることの免罪符にするな、せめてちゃんと診断受けろ
メンタル強くて羨ましいとか言われるけどこちとら睡眠運動食事全部気遣って保ってるんだよ、それを聞かれて答えても何も実行しないでただ嫉妬されるのが1番ダルい
ミニマリズムとは、自分にとって重要なことに注意を当てるために、他を排するプロセスです。このプロセスでは、消費社会に抗い、いらないものは買わず、いらなくなったものは捨てる、といった行為に関係します。今回は、私が数年間ミニマリズムを試してわかったことを書きます。
私はマークザッカーバーグやスティーブ・ジョブズの習慣を真似て、大半を1種類の服で過ごすということをしています。
具体的には、インナーTシャツとパーカーとベルトなしジーンズと下着。もちろん冬は一種類のジャンパーを着てでかけますけどね。
種類は1種類ですが、枚数は複数枚持っています。およそ3着づつ。これは、服を洗わなければならないので当然です。
家の中では1種類のパジャマを着るのですが、全体として見れば種類と枚数が少ないことは確かです。
さて、私はこのシンプルな習慣によって何を得たのでしょうか。
まず「かっこよく見られたい」といった執着はなくなりました。誰にどう見られても構わないと思うようになったのです。
これは良いことでしょうか?「モテたい」は煩悩なので、これを手放せば「モテること」を基準にした行動をしなくて済むようになります。
結婚願望が強いならそれだと困るかもしれませんが、私は結婚するつもりがないので、この習慣が機能します。
最近、私のような「パーカーを着るおじさん」があるインフルエンサーによって見下されていたようですが、ひろゆきやホリエモンなどは「パーカーの何が悪いんだ」といって反発しました。
このように、同じ習慣を続けると、確率的に時代の風に抗うようなことをしなければなりませんが、「モテることはどうでもいい」と思ってさえいれば、インフルエンサーが何を言ったところで信念は揺るぎません。
ちなみに、高校生の時に着ていたような服は、すべて古着屋に売ってしまいました。
好奇心が強いと、様々なジャンルの本を買ってしまって大変です。
私は理論物理学や抽象数学について学ぶために大量の本を持っていました。宇宙の真理を知りたい、と思っていたからです。
しかし冷静に振り返ってみると、私はアカデミックなバックグラウンドがないため、研究を発表する機会が存在しません。
なので部屋の中で一人で「宇宙の真理」を発見したところで、虚しいと思ったのです。
私はプログラマーなので、もっと仕事に関係する本のほうが重要です。
あるいは仕事とは直接関係がなくとも、健康や自己啓発の知識が役立つこともあるでしょう。
また、ソロモン王の箴言など、現代に役立つ知恵が聖書に書かれていることもありますし、タルムードに興味深いことが書かれている場合もあります。
趣味があるなら、趣味関連の書籍が趣味を充実させることにもなるでしょう。
物理学や数学の本を部屋に置いておくと、「勉強しなきゃ」と思ってしまい、かえって苦痛を味わうことになります。
物理学者ですら、超弦理論がなんの役に立つのかわかっていません。
繰り返し読むことを考慮すると、自分にとって精神を費やす価値のある本だけが残せるはずです。
そして、物理学や数学の本をしまってからは仕事に集中できるようになっています。
両親と同居しているので、ミニマリズムを実践し始めは「お母さん、これを片付けてよ」などと言うことがありました。
しかし、これはトラブルのもとです。同居人はものに独自の愛着を持っているので、片付けを要求すると喧嘩になります。
基本的に同居人に対しては、ミニマリズムを押し付けるべきではありません。
掃除機による掃除は許容範囲ですが、他人のモノを片付けるというのはやめておいたほうが良いです。
「どこにでかけるの?」と母は父と私に尋ねます。「古着屋だよ。どんな服でも、どんなに大量でも、買い取ってくれるんだ」と私は伝えます。
このことを母が知って、母も同じ古着屋を利用するようになりました。
確かに、私のようにごっそりと売ることはないかもしれませんが、片付けのために喧嘩をしなくてもいいのです。
今では、いくつかのプラクティスに基づいてSNSの利用を制限することに成功しています。
スマホからはSNSを消し、いらないアカウントは削除するか、二度とログインできないように設定します。
ファストメディアは、愚を開陳するだけになってしまいがちです。
最近知った事例としては、エセ科学を批判していた日本の物理学者が、経済についての陰謀論を信じるようになったようです。
SNSの情報は玉石混交ですが、よほど強い精神がないと、くだらない言い争いに巻き込まれたり、フェイクを信じてしまうのです。
SNSは「いいね」や「フォロワー数」を比較する文化があるので、エンゲージメント競争に参加させられている気分になります。
情報の質ではなく、感情的反応でいいねの数は決まるので、まともな情報を見つけることが困難なのです。
ここに興味深い格言があります: 「エキサイティングな地獄よりも、退屈な天国のほうが良い。」
SNSはエキサイティングな地獄です。「刺激的」とは思わないようなことを趣味にしたほうが、結果的に充実できるわけです。
SNSを見る時間があるなら、スローメディアに費やしたり、読書したりしたほうが良いです。
といっても例外はあります。自分から発信さえしなければYoutubeについては良いSNSだと思っています。
私のお気に入りのYoutubeの使い方は、英語のリスニング勉強のために動画を見ることです。
陰謀論やフェイクと言ったものから遠ざかりさえすれば、動画は寂しさを紛らわすのに効果的です。
サブスクとは、月額などの体系で料金を支払い、サービスを受け取ることです。
次から次へとサブスクに加入するのは良い習慣ではありません。浪費が増え、家計を圧迫します。
したがって、サブスクは定期的に見直すべきです。
無制限に使えるというプランでは、月7000円ほど支払いましたが、私の通信量は月に1Gもいかなかったので、4Gプランという小さめのプランで足りたのです。
この見直しにより、月2000円になり、約5000円の節約になったわけです。年で見れば60000円の節約です。
私の買い物の大半は飲食と本なので、いらないものを買うことはありません。
ただ、何年も生活していると、一定の確率で「これが買いたい」という衝動が起こります。
例えば「ホワイトボード」ですが、私は混乱しているときに「Youtuberになりたい」と言っていました。
それで、Youtubeで数学を解説する動画を作るんだと言ってホワイトボードを買ったのです。
この買い物はとても余分な買い物だったと言えます。
あるいは仕事がフルリモートに移行したときに、より快適に仕事をするために巨大なクッションを買いましたが、今ではペットの犬しかこのクッションを使っていません。
人生の中で新しいことをしたくなるのは結構ですが、失敗することによって「この買い物は自分に向いていない」と気がつくのです。
・帰った所で実家に置きっぱなしの本を読むぐらいしかすることがない
・昔の知り合いにあってもそれぞれに家庭があるから付き合いが悪い
・近所に遊びに行っても年末年始は無駄に混んでたりやってなかったりする
・親の飯とか5年に1回ぐらいで十分
・今住んでる家の大掃除さえも出来ないので持て余した暇の使い道がない
・ひたすら寝て過ごしていてもそれはそれで親から邪魔者扱いされる
・図書館さえもやってないから本を読んで時間を潰そうにも結局スマホの中の電子書籍を読むことになる
結局さ、通信インフラがまともに発達してない時代の風習なんだよね。
前編はコチラ
https://anond.hatelabo.jp/20240901181941
スポニチがスッパ抜いて失笑を誘った。池袋の裏手で聴衆もほぼ無くビールケースに乗って面白カルト候補応援する姿が写真掲載され面白画像として出回った。
元記事は削除されてこれくらいしか残っていない。https://matomame.jp/user/20yama20/86adf5030479d91ccee5#9c0b66168507bff3b75a
日本解放第二期工作要綱とは1972年に日本の右翼活動家によって中国にて発見されたとされる、中共による日本赤化の工作の指針文書。要するに中国版の32年テーゼだ。因みに1972年は田中角栄による日中国交正常化があった年だ。それに伴って国府(台湾政府)とは断交した。
32年テーゼというのはコミンテルンが1932年に定めた日本共産党の革命指針の綱領で、日本は2段階革命のどこの段階かの判断に始まり、天皇制の打倒、小作の廃止、7時間労働などを定めていた。後半の2つは奇しくもGHQが実現している。
日本解放第二期工作要綱は、この32年テーゼと同じものを中共が作っていた!とするものだ。だから日中が国交を樹立すると共産主義になるぞ!と。
だがコミンテルンと中共の立場は全線違うからそんなもんはあり得ないし、そもそも効果が無い。日共は過去はコミンテルンの下部組織だったが中共とそういう関係であった事は無い。
しかも右翼活動家が偶然発見しただけで、他にはその文書を見たものは居ない。という事で、これは嘘だと考えられている。
もう一つの文脈が、西尾幹二が2007年頃?に発表したコミンテルン史観で、これが受容されるうちにドンドンとトンデモ化して行った。
例えば、満州事変はコミンテルンが画策した、日米開戦はコミンテルンの策略、GHQはコミンテルンだった!、などなど。杉田水脈は「コミンテルンは今も存在しその活動が活発になっている!」と言っている。大企業や学者や中央官庁で経歴をいくら積んでも比例代表制で党の票は回して貰えないが、コミンテルンが生きてると言うと比例上位に就けて貰えるのだな。あれもこれもコミンテルン!と仲間内で「議論」(陰謀論)を活発に言い合うと、コミンテルンの活動が活発になった事になるのだ。
田母神幕僚長がこのコミンテルン史観を論文で開陳して馘首された。
このコミンテルン大流行の後に小池はこれに引っかかっているのである。杉田水脈と小池が同じ程度と思う人は少なかろうが、少なくとも同じ程度だった事はあったという事だ。
最初は自民党に叛旗を翻して離党し反都議会自民議連を旗印にしたので初登庁には音喜多ら都議二人以外がお迎えをしないアウエイ状態であった。
しかし希望の塾を発足するとそんなコアの2人には発言権はロクに無くて議席の無い野田秘書が全部仕切るパシリ状態。
またこの頃の野田は歌舞伎町で豪遊している所を週刊誌に撮られている。
市ヶ谷商業高は牛込柳町近くの新宿区矢来町にあったが廃校になり、土地活用方を探していた。当地は人口減少が続く都心の坂と狭隘路の中にある土地で、高層ビルなどへの転用が難しい。また住宅街の奥にあってランドマーク的な使い方も無理がある。
そこで舛添は韓国を訪問した際に韓国人学校への転用の約束をしてきた。これに右派は大反対して反舛添の声を上げた。
舛添が金の問題で失脚して小池が都知事に就任するとこれを反故に。
これも極右ゴロとの付合いが影響していると思われる。
それでは転用方の代案は?と問われた小池は当時問題になっていた保育園に転用すると答えた。
だがこれは相当トンデモな解答で、保育園は電車で行くものではない。更に柳町は渋滞の名所で朝夕に送り迎えするのは困難だ。しかも付近は人口減少地帯で、保育園の立地としては完全に不適だ。また保育園としては施設が大きすぎる。
故に当地の保育園転用は考慮もされず放置状態となっていた。最近になって、付近の中学校の建て直しに伴い新宿区が特養ホームを建てる計画を立て、ようやく土地活用が進みつつある。
小池は元々リベラルだった。また、芦屋出身の兵庫民で選挙区も兵庫だったが、郵政選挙で小泉政権の刺客として東京10区に飛ばされた落下傘候補である。
つまり風や波に乗って立場を変えてきた人物であって、思想史とか戦後政治史とか全然頭に入っていない。戦後政治史というのは自民党史でもある。
一方、小池都知事と都民ファという潮流に乗ろうとした前原誠司は逆に90年代の保守のエリートみたいな経歴を持つ。松下政経塾にも行っていて、更に京大の高坂正堯ゼミ出身だ。高坂正堯門下生という事は、猪木正道や戸部良一らの防衛大校長らの系譜でもあり、それはオールドリベラリズムとリアリズムの系譜でもあるという事である。吉田茂の海洋国家論にも影響を受けているし憲法九条問題も、その護持は日米安保との合わせ技で安全保障と経済発展の安定土壌を手に入れる吉田らの施策と理解している。その結果、戦後日本は常軌を逸した経済発展を遂げ、戦争に負けたのに極東の中心となった。
国際的な立場が上がったので安全保障の美味しいトコ取りは出来ないというのが当時の課題であっし、9条改正問題はその為のものであった。
しかし小林よしのりブーム以後の保守論壇というのはバカが出来る人をパージする場となってしまい、9条は亡国の策略とかGHQはコミンテルンだとか言うのがまかり通ってしまう。
前原は焦っていたのだろう。自分が確りとした思想的地盤にのっているのにポピュリズムに駆逐されてその地盤が無くなり、保守政治との接点が無くなってしまった。一方、コミンテルンが未だに活動盛んと言えば政治的に重用される。
そこでポピュリストの権化である小池に接近して合流する事で党勢を伸ばせると考えた。
ところが調子に乗りすぎた小池は「排除します」発言をしてしまう。前原はこれを説得できると思ったようだが、何せ前提の知識や経験が違う。小池の「保守思想」の全てがネトウヨっぽい天ぷらだとは考えていなかったようだ。しかしそこに至るまでの経緯を見れば天ぷらというのは明らかだ。
その後希望の党は大敗して党勢ほぼゼロとなってしまう。ずっと時代の風と波に乗ってやってきた小池にとってここを起点にマスコミのバッシングが始まり7つのゼロも含めて問題にされ一つ一つの発言や施策の根拠をガチ詰めされる流れになるというのは恐怖だったのではないかと思う。
そこでそれまでのイデオロギー的振舞いは全部止めた、というところじゃないか?ずっとその後は本当に大人しくしていた。
2020年にコロナが流行し、当初安倍総理が甘く見て放置し、国民の怒りが上がってきた辺りで感染防御に切り替えた。この流れに乗って「3密」や移動抑制を呼びかけたところ、ポピュリストの才能がいい方向に作用して過去のヘマは忘れられて今に至る。
自民党にずっと民主党は甘えまくって批判してれば支持もポジションも得られたわけだけど
その後(それ以前からも?)政治にいっちょ噛み勢は民主をずっと叩ければ
まあ当時の失望とかもあれば仕方ないかもしれないけどその後10年経っても民主党相手に遊んでいる
都知事選も蓮舫相手にキーキー騒いで当選後も蓮舫相手に未だキーキー言ってる
小池百合子が続投でどうなんだろうという希望も不安も話題になんてしない
政治を語るの大好きなくせにいつまでも自民と民主の話しかしない
自民は政権与党だから解るよ、立憲民主党、国民民主なんて政権能力もなければ政権とれる可能性もない党
批判してそれで気が済んでるネット政治評論家たちに颯爽と表れたヒーローが石丸さんだ(暇空さんもかな?田母神さんもかな?内海さんもかな?)
ナチスの善行例としてよく引き合いに出される「高速道路を整備した」っていうのがいうほど善行ではない上にその程度では上書きできないナチスの絶対悪加減という話を元々元増田はしたかったんじゃないかなと。
元増田のいう「いくらナチスでも悪行ばかりやってたわけじゃない」ということすらも否定されるレベルの善行しかなかったというのが近現代ドイツ研究家の間の評価のようだが本を読んでいないのではてさて。
個人的にはナチスは現代の人道観点からするととてつもなく悪いことしたけど当時のドイツの追い込まれ方や時代の風潮的にしょうがないと思っている派ではあるのだが。
当時の話は当時の話だし、ナチスのやったこと全てに対して坊主憎けりゃ袈裟まで憎いをやる必要はないんじゃないかな。