
はてなキーワード:昭和30年とは
近世以前
日本において暦日を用いた新年の概念が生まれたのは飛鳥時代であり、聖徳太子が十七条憲法を制定した604年まで遡る[13]。その後、646年には朝賀が執り行われ、新年の回礼という風習が始まった[13]。これに伴い、畿内には飛脚使が設置され、701年には通信物を運ぶ脚力(かくりき)が定められた[13]。奈良の正倉院に収められている「人勝残欠雑張」には「正月七日のこのよき日、慶びを新にし、泰平が万年続き、寿命は千春を保つことができますように」とする十六文字が記されており、新年の挨拶を伴った年賀状のルーツといえる[14]。
平安時代に入ると貴族間で年始の挨拶を文で取り交わすようになったと見られ、当時の書簡、文例を集積した最古の例と言われている藤原明衡が残した『明衡往来』にも年始の挨拶文例を確認することができる[15]。室町時代に『庭訓往来』が登場し、寺子屋などで読み書きを教えられるようになると識字率の向上が見られるようになった[16]。これに伴って江戸時代には武家社会において文書による年始挨拶が一般化したほか、非武家社会においても口頭の代用として簡易書簡を用いることが年始挨拶に限らず一般的になり、公的郵便手段である飛脚や使用人を使った私的手段により年始挨拶の文書が運ばれるようになった[16][17]。1740年の『書札重宝記』には年始書状のための語彙として「改年、新春、新暦、初春、陽春、祝賀、御慶」などの用語が紹介されている[18]。江戸中期以降は大小暦が大いに流行し、年頭には機知に富んだ摺物の交換が積極的に行われた[19]。
明治維新後になると逓信省の前身として駅逓司が設置され、1870年10月には新年賀詞を示す太政官令が発布された[20]。1871年には郵便制度が確立し、1873年に二つ折りの郵便はがきが発行され、1875年には単面の官製はがきなどが見られるようになった[20]。これにより年始のあいさつを簡潔に安価で書き送れるということで、葉書で年賀状を送る習慣が急速に広まっていった。1887年頃になると年賀状を出すことが国民の間に年末年始の行事の1つとして定着し、その結果、年末年始にかけて郵便局には多くの人々が出した年賀状が集中し郵便取扱量が何十倍にもなってしまった。
郵便事業に携わる人の数は限られているため、膨大な年賀状のために郵便物全体の処理が遅れ、それが年賀状以外の郵便物にも影響し通常より到着が遅れることがしばしば発生していた。しかも年末は商売上の締めの時期にも当たり、郵便の遅延が経済的障害ともなりかねない状況となっていた。その対策として1890年に1月1日からの3日間、年始の集配回数を減らす対応が取られた[20]。それでも、さらに増え続ける年賀状にその対応だけではとても追いついていけなかった。また当時、郵便物は受付局と配達局で2つの消印が押されていた。そこで受付局か配達局の「1月1日」の消印を押してもらうため多くの人がそこを狙って年賀状を出すようになり、12月26から28日あたりと1月1日当日の郵便物が集中するようになった。そこで1899年、その対策として指定された郵便局での年賀郵便の特別取扱が始まった[20]。年末の一定時期、具体的には12月20日から30日の間に指定された郵便局に持ち込めば、「1月1日」の消印で元日以降に配達するという仕組みになっていた。翌1900年には(必要に応じてではあるが)全国の郵便局で実施、私製はがきの使用も認められ、1905年に完全に全国の郵便局で実施されるようになった[21]。この頃の年賀はがきの概数は1億1000万通前後であったが、郵便ポスト投函が可能となった1907年には4億通を突破し、「年賀状ブーム」とも呼べる時代が到来した[21][22]。
関東大震災(1923年)や大正天皇崩御(1926年12月25日)の年は、その年(翌年配達分)の特別取扱が中止された。明治天皇と昭和天皇崩御の年は実施されている。
年々取扱量が増えていくと共に私製はがきの取扱量も増えていったため、1935年(昭和10年)に私製はがきの貼付用として年賀切手の発行が始まった。しかし、時勢の悪化により1938年(昭和13年)に年賀切手の発行が中止。さらに物資の節約のため1941年(昭和16年)の年賀状から特別取り扱いが廃止[23](廃止決定は同年11月6日[24])。この年の東京中央郵便局が集配した年賀状は1/3に減少した[25]。
終戦後の1948年(昭和23年)12月15日、特別取扱と年賀切手の発行が再開された[26]。この年から年賀切手の図柄が干支にちなんだ郷土玩具のものになる。1949年(昭和24年)、お年玉付郵便はがき(年賀はがき)が初めて発行され(官製はがきとしては初めての年賀はがき)、大きな話題を呼び大ヒットした。そしてこれを機に年賀状の取扱量は急激に伸びていった。1955年(昭和30年)には、アメリカ合衆国による沖縄統治に置かれた沖縄諸島でも琉球郵政庁により年賀はがきが発行され、1956年には年賀切手も発行されている。
お年玉付郵便はがきは当初、寄付金付きの葉書にくじが付いていたが1956年に寄付金なしの葉書もくじが付くようになった。1961年(昭和36年)から年賀はがきの消印が省略され額面表示の下に消印に模した丸表示を印刷するようになり、1968年(昭和43年)には郵便番号導入により郵便番号枠が追加された。
1970年代になるとプリントゴッコの登場と相まってで年賀はがきに絵や文字を印刷する年賀状印刷が盛んになり、1982年(昭和57年)から寄付金付きの年賀はがきにの裏面に絵や賀詞が印刷されるようになった。1989年(平成元年)からはくじ付きの年賀切手も発売されるようになった。
イラストやデジタルカメラで撮った写真などを家庭のパソコンとプリンターで作成・印刷するスタイルが定着し、手間が減った。2005年からは光沢感がありインクジェットプリンターの印刷に適したインクジェット写真用年賀はがきが発行されるようになった。
一方で2000年代からはインターネットの普及が拡大。インターネットと紙を融合した「ネットで届く年賀状」などのサービスも登場したが、年賀状用紙やプリンターが高額、書いたり投函するのが面倒、交流がある人でも自宅住所が不明であるなどの理由で、年賀状を出さずに電子メールなどの紙以外のオンラインの手段で済ませる人が増加。携帯電話を使った「あけおめメール」による通信混乱は2000年代の正月の風物詩となった。
2008年には、郵政民営化を機に「カーボンオフセット年賀はがき」や「ディズニーキャラクター年賀はがき」などの新商品が出た。
2017年6月1日に郵便料金が値上げされ、通常はがきも52円から62円とされたが、2018年用に限り年賀はがき(1月7日までに年賀状扱いとする場合)は旧料金のまま(52円)とした[27]。年賀はがきの発行枚数の減少を食い止める効果を期待しての値段据え置きであったが、結果として総発行枚数は前年比より5.6%減少したほか、1月8日以降に差し出す場合は差額として10円分の切手を貼り足す必要があったことから、利用者からはわかりづらいと不評の声もあった。この取扱いは1年限りで終了し、翌年から通常はがきと年賀はがきは同一の料金となった[28]。
2010年代になるとスマートフォン、ソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)、インスタントメッセンジャー等が普及し、新年の挨拶をオンラインで済ませる人がさらに増えた。LINEが運営する「LINEリサーチ」の2019年のインターネット調査(約59万人対象、複数回答)によると、「葉書を送る」と回答した人は60代以上で71.7%だが、20代は26%であった。一方「SNSで送信する」が30代から60代以上でいずれも60%に達し、20代では72%に上った。IT企業のTB(名古屋市東区)は2017年から、高齢を理由に、今年限りで年始の挨拶をやめること(年賀状じまい)を伝える例文をサイト上で提供している[4]。
また高齢者の増加の他、郵便料金の値上げ、特に2024年10月1日以後は、消費税増税に伴う転嫁分を除けば実質1994年以来30年ぶりの大幅値上げで1枚85円[29]となったこともあり、年賀状終いをする世帯が急激に増え、アスカネットの調べでは、2024年に年賀状を出さなかった人は58.2%に及び、そのうち20代が72.5%、30代でも65.8%が年賀状を出さなかったとする統計がでている。また「年賀状はフタバ」の調べでは、全体の6割が3年以内に年賀状終いをしており、そのさらに半数の3割強が2023年度で終わりにしたという人である。企業においても、葉書をやめて、SNSなどを利用した「ペーパーレス」に移行したところも多いとされる[30
今日も特にやることがなかったので歩いて小一時間ほどのところにあるショッピングモール内のフードコートに昼食を食べに行った
そこには何か特別なメニューがあるわけではなく食べたのは普通のおいしい昼食以上のものではないのだがもう一つの目当てのものがあった
導線から外れて人がほとんど通らない空いた空間にある写真展である
写真は付近の街の歴史を明治時代から令和まで振り返るというテーマで並んでいる
明治時代や大正時代のものは原っぱや果樹園や掘っ建て小屋のような駅舎の写真でほとんどが歴史モノの映画のワンシーンのような雰囲気でとても今の街並と連続しているとは思えないファンタジーの世界のように見えた
戦後の混乱期は道端や広場に瓦礫や何かの資材のようなものが転がっていて活気がありつつも嵐の後のような荒々しい雰囲気がある
空爆の被害を受けたのかそれとも別の災害や争乱によるものなのかは不勉強で知識がないのでよくわからなかった
昭和30年代になると街並はまだ荒れているものの自分も知っている庁舎や劇場などの大きくてモダンな施設が建ち始める
昭和40年代には建物の雰囲気はレトロ風なもののここがどこか?と問われたら答えられるくらいには今の街並と地続きな感じの整った景色が完成されている
ネットを見ているとつい人類や歴史のダークサイドばかり考えてしまうがこういう記録を見ると文明の強さや美しさなど明るい面を感じることができて良い経験だった
@sosotakei
この15年くらいで日本の人口は500万人近く減っているんだなあ
どうやったら減少を止められるのかを議論してる事が多いけど、人口が少なかった昭和30年から50年までの20年間にどうやって2300万人も増えたのかを考えてみたらいいんじゃないかと思う
↑
マジェそば☺︎
@majesoba00
まじで申し訳ないけど「みんな目の前のお皿を洗おうとしないが、世界を救いたがる」みたいな名言?思い出してしまった
この15年くらいで日本の人口は500万人近く減っているんだなあ
どうやったら減少を止められるのかを議論してる事が多いけど、人口が少なかった昭和30年から50年までの20年間にどうやって2300万人も増えたのかを考えてみたらいいんじゃないかと思う
https://x.com/sosotakei/status/1990210395211272462?t=_YLcZPmtDdIEaLBRMbitkQ&s=19
武井壮が少子化を憂いていたけど、彼は52歳独身子無しで、家族を持つのが怖いと過去ポストをして多くの共感を集めていた。
子供何人でも作れる裕福な男性が独身で家族を持ちたくないと言って52歳で好きなことしてても皆が理解してくれる世の中になったから少子化なんじゃね?としか思えないんだけど、何で少子化加速させてる方が少子化憂いて考えてみたらいいとか言ってるんだろう。
ChatGPTによる調査をしてみた
・昭和36年と昭和37年の北海道で集落に降りてきた羆による獣害対策に自衛隊が派遣された記録あり
・熊の縄張り主張の生態が的確
・森に餌が少なくなると人里に動物が降りてる生態が的確
・狩猟者が手首足首を重点的に守るのは草木で四肢が擦れるためで描写が的確
・マキリはアイヌの基本装備
・フクロウはアイヌ神話のコタンコロカムイと呼ばれ集落を守護する神
・アイヌの槍の長さは150cmほどで日本の伝統的な槍よりも短い
・昭和30年代に祖父が婚姻したと考えるならばその10〜20年前は終戦時期で学徒動員などから民兵訓練を受けていた可能性が非常に高く、日本陸軍の銃剣術は下段もしくは中段構えが基本
「爺ちゃんの傍さ離れんなよ」
孫は聞いているんだか聞いていないのだか「うん!」と答えるが、その辺で拾った良い感じの木の枝を振り回し遊ぶ。木々が生い茂って独特の静寂さを持つ山中を老人とその孫、そして愛犬の五郎は進んでいった。
後年、知ることになるが本州の山林とは違い、ここ北海道の山は本州のそれとは違って非常に視界が悪い。本州の山林のほとんどは林業を営む方々が手入れをし真っ直ぐに樹木は伸びるが、北海道ではその圧倒的な森林面積により人の手が入っていない部分が数多く残り、文字通りの原生林として山の威容を示し、伸び放題となった木々は山中を行くあらゆる生命の視界を遮る。
老人とその孫の身なりは帽子、長袖長ズボン、長靴、本革製の手袋と手足首を覆う手甲と足甲は老人の妻、即ち孫から見れば祖母の手製だ。ハイキングならばまだしも老人と孫の装備は見るものが見ればひと目で生業を特定できる。猟師だ。可能な限り肌の露出を抑え、特に四肢を重点的に防護する見た目は娯楽ではない事を表す。
老人の右手には大鉈、左手には老人の背丈と同じ程度の狩猟槍、肩に猟銃を下げていた。孫は武器らしい武器はほぼ無いが猟に出る際にだけ持たされるマキリと呼ばれる小刀は腰に差されていた。マキリの持ち手には滑り止めを兼ねたフクロウを模した見事な装飾が施されており、この持ち手の作者は孫の目の前を行く祖父である。
この日は週のうちに何度も繰り返す山道の整備と捕獲罠の点検だ。祖父は大鉈で不要な草木を打ち払いながら進み、樹木の肌やその根本を観察する。昨今の報道でも知られるようにクマは樹木へ爪で傷を付け自身の縄張りを主張する。そして熊だけでなく多くの野生動物は排泄をする際に隠れるため木々の近くでする事が多い。
「爺ちゃんコレ!」と孫が樹木を指差す。孫はマーキングを見付けたと祖父へ伝えた。「おぉそうだよく見付けたべなぁ。クマが出っかも知れねぇから気ぃ付けろぉ」と孫を促す。当然ながら孫よりも先に祖父はマーキングに気が付いている。しかし孫の"発見"を褒めてくれるのだ。一応の確認として猟犬としてよく訓練された五郎へ目を配り何も反応がない事を知ると前へ進んだ。
いくつかの罠を巡ると、くくり罠に雄のエゾシカが捉えられているのを見付けた。祖父はそっと猟銃と大鉈を地面へ置き、槍を構えてエゾシカへ近付いた。そこそこの歳を重ねているであろうエゾシカはその場へ伏せていたが祖父を視界に収めると立ち上がるものの一切の抵抗を見せない。エゾシカはまさに威風堂々と言った立ち振舞いをし祖父を見つめている。祖父が音もなく踏み込み、首元から深く入るたったの一突きでエゾシカは倒れた。
馬ほどの体格を持つとは言え、素人目からするとたかが草食動物を容易に倒したように見えるが首元から様々な骨を避けて心臓まで一閃する達人の技だ。
実は昭和30年代に北海道で冷夏が相次いで森が飢饉状態となりエゾシカやヒグマ、キタキツネなど野生動物が人里へ大量に押し寄せる状態となったことがあった。その際に多くの民衆がヒグマに襲われるという事故が頻発し、若き日の老人は槍一本のみで日夜ヒグマを狩り続け、多いときには月に20頭以上、日に3頭ものヒグマを狩った。この若者は周囲の村落で大いに語られる槍の名手として名を馳せた。
その男気を聞きつけて槍を習おうとする男衆に混じり見物に来ていた女性は槍の名手の男に惚れ込んでそのまま押し入り女房となったという。それが孫の祖母である。
「奥義は下段」
孫は槍の名手たる祖父から毎日のように槍を習った。槍を習うとは言っても「まだ早い」と言われ穂の無い槍、すなわち単なる長い棒であり来る日も来る日も孫は祖父お手製の"槍"を振った。
祖父は口癖のように「奥義は下段」と言った。漫画の中で見るような敵を大きく吹き飛ばしたり環境大破壊を伴う派手な技でない。単に獣へ対して半身を取って穂先を地面すれすれに落とす構えこそが祖父の槍、アイヌの槍の奥義なのだという。
「槍を振った」と前述したが、実のところ槍を振り回すことはお説教を招く動きだった。「振るなァ!突かんかァ!」という祖父の怒号は今でも頭の中で鮮明に響き渡るほど毎度毎度同じ説教を貰った。
「突き引きが遅い!」「力任せに振るな!」「穂先を目線より上げんな!」「下段から何を出来るか考えれェ!」と覚えの悪い孫は何度も何度も同じ説教を受け続けたがコレがまたなかなか上手く出来ないものだった。祖父が用意してくれた的へ次々と素早く当てようとするとどうしても槍を振ってしまうのだ。
後年、孫は祖父の教えの真髄を1つずつ理解するようになってきた。
特徴と言えば祖父の槍、つまりアイヌの槍は内地(本州)の槍よりも短い。前述したが長さは使用者の背丈前後程度。これには理由があり樹木が生い茂る環境で内地の槍は振るうこと叶わず、まさに無用の長物となるのであった。内地の槍の長さは人間同士が平地で争うための長さだ。
これが理解できれば"樹木が生い茂る環境で槍は振るうこと叶わず"であり、槍は基本として突かなければならないというのも理解できるようになる。槍を振れば周囲の樹木へ当たる。しかも槍を使っているということは獣とまさに相対している時である。森林で槍を振るということは自らの死を招く愚行なのだ。
「下段を奥義」とするのも獣と相対した際の死活問題から来ていると今では推測している。半身で構える下段は体当たりしてくる四足の獣の動きへ穂先の反応が遅れたとしても槍の柄が使用者と獣の間に残り、槍の柄で防御へ転じられる。これが上段や中段の構えであれば穂先の反応が遅れた瞬間に獣の一撃を直接身体へ貰うことになるだろう。下段から何が出来るか?攻撃と防御が同時に出来るのである。
孫は何度か祖父が槍のみでヒグマを打倒するところを見たことがある。法令上、猟銃が使用できる範囲は限られ、猟銃使用許可のある場所であっても射撃方向に民家があると使用できなかったりするためだ。
「遠くへ行ってろ」と言われ祖父から離れるが、ギリギリ祖父を視認できる距離で見ていた。猟犬五郎は祖父の指示を受けるまでもなく孫が祖父から離れると護衛のように孫へついて行く。
奥義の下段を忠実に構える祖父の気迫は幼い孫が遠目で見ても物凄く伝わってくる。じりじりとヒグマとの距離を詰め、痺れを切らしたヒグマが祖父へ体当たりを敢行する。祖父の動きは音がしない破裂音である。パンッと鳴ったと錯覚するような鋭く素早い動きでヒグマの体当たりを回避したかと思えば、ヒグマは自ら後ずさりする。祖父の槍の穂先がヒグマの血で赤く染まっていた。
ヒグマの口から鼻先が切り裂かれているようだ。瞬く間に祖父はヒグマから後の先で呼吸を奪った。命のやり取りという極限のストレスの中で呼吸が難しくなるというのは息をする者にとってはかなりの重荷を背負ったことになる。時間が経てば経つほどにその巨体が自らに重くのしかかり、逃げることすら困難にさせる。
体当たりは分が悪いと悟ったヒグマは祖父へ怒涛の勢いで距離を詰め、右前腕での引っ掻きを狙うが右前腕の起こりに合わせ祖父は瞬時に熊の手を下段から貫いた。ヒグマはあまりの激痛からか唸りとも呻きとも取れる声をあげて四足を地へ付く姿勢に戻ろうとするが右前腕は軽く浮かせたままである。
三足となったヒグマは再び必死の体当たりを敢行するが祖父は素早く真横へ体当たりを回避し、三足となり横方向の動きが制限されたヒグマは祖父の動きを視線でしか追えず首へ必死の槍を受けた。祖父は力なく地へ沈むヒグマの様子を見ると距離を取り2分3分と下段の構えを解かずヒグマの様子を伺い続けた。
短いようで長い時間が経つと下段の構えを解き、祖父が手を振って終わりだと合図したことを察した孫は祖父へ駆ける。仕留めたヒグマは体調2mを優に超える大物だ。「すごいすごい!」と興奮する孫をよそに祖父はニヤリと意地悪く笑って孫へ「血抜きすんぞ」と告げた。
ヒグマはメートル100キロ、2m超のヒグマは200kg以上である。これを老人と幼き孫が気合いで持ち上げ木へ吊るして血抜きするのである。祖父との狩猟で最も楽しくないのが大物の血抜きという重労働であり「忘れてた!」と声を出さずともわかる表情を孫は浮かべた。
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父が「来月から毎日山を見て回るぞ」と言うので幼き日の思い出を書きました。
私が1人でヒグマを獲ったのは二十歳を越えた頃、何かあったときのために祖父が後ろで見守りながらだったという、祖父とは違って槍下手なのですが私程度であっても昨今の情勢で何か社会のお役に立てれば幸いかなと。
では、行ってきます。
Permalink |記事への反応(12) | 08:02
ぜんぶ嫌いだった
古いもの全部嫌いだったと思う
タバコも嫌いだし、酒も嫌いだし、お茶も嫌いだし、車も嫌いだった
昭和を感じるもの、親父(あるいは親族)を感じるもの、全部「古くてダサい」と言う感覚だった
それでパソコンに逃げたんだと思う
きっかけを与えたのは、若い子の感想と、日本すごい系動画だった
つまりこれは、親世代が着てるファッションが絶妙にダサく感じる現象に近いんだと思う
例えば、昭和30年代あたりの文化に対して、自分はさほど何とも思わないしいいデザインだと思うが
親世代は拒絶感が出るらしい、アデリアとかは一周してまたブームになっている
親世代が和服から離れてるのもそういうことなんじゃないかと思う
なんかさ、定期的に出てくるよね。
でも本当に昭和に戻ったら少子化って止まるの?って話なんだけど、結論から言うと止まらないよ。
まるで昭和時代がバラ色だったかのように語るけど、データも歴史もまったく見てないノスタルジー脳なんだよね。
まず現実見ようか。
1950年には3.65人だった合計特殊出生率が、1975年にはもう1.91人まで低下。
逆だよ。専業主婦が当たり前だった時代に、出生率は落ちてるの。
そもそも、家事も育児も自動化・外注化が進んだ現代で、専業主婦って必要?
なんか悲惨な世代みたいに言われてるけど若い頃はそれでも日本の未来はよくなると思えたんだよな
バブルの余韻かもしれないけど、パッとしない生活でも絶望感はなかった
昭和30年代の映画やドラマ見ると貧しいけど明日はよくなるって希望がある感じ、あれの残滓があった
本格的にもうこれダメじゃないか、もう落ちて悪くなっていくだけじゃないかと思ったのは
思い返すと東京オリンピックが決まった時だと思う
なんだこれ、なにやってんだ、なに浮かれてんだと思った
こんなの、できるわけがない、そんな能力も余裕もないのに、政治家が現実を見ていない、
それから10年間、世界からの凋落と社会の貧しさ、倫理の欠落がめちゃくちゃ加速していった感覚がある
株やっていて儲けた、って同期もいて、そういう人にはいい時代だったかもしれない
そして今残ったのはボロボロの実態をごまかすために縋る愛国や日本の張りぼてだ
そんなもんでなにが取り戻せるのか
何がこの30年あったのか、真面目に考えて選挙いってくれ
•明治の終わりに生まれた。家は農家。田んぼと畑が遊び場やった
•子どものころは学校まで何キロも歩いて通った。冬は足の指がしもやけでパンパンやった
•大正時代に入って、村に電気がきた。最初に見た電灯の明るさにびっくりした
•少年時代は家の手伝いばっかり。遊び言うたら木登りと虫取りくらい
•青年になって徴兵検査受けた。甲種合格で、軍隊に入ることになった
•昭和になって、満州やら中国に出征。あの頃のことはあんまり話したくない
•戦後、生きて帰ってこれただけで運がよかった。家は焼けとった
• しばらく闇市で働いたり、土方したり、なんでもやった。食うだけで必死やった
•テレビ買ったときは家族みんなで正座して見とった。白黒やったけど、よう覚えとる
•子どもが生まれてからは毎日くたくたやったけど、それが幸せやったかもしれん
• 妻が先に逝った。あれが一番こたえた。もう話す相手もおらんようになった
• 孫がパソコンくれたけど、よう使わんかった。最近はロボットが話しかけてくる
• 100超えてからは、もう一日一日をなんとなく過ごしてる
•長生きはええことばっかりちゃうけど、昔のことを思い出す時間があるのは悪ない
• こうして思い出すと、ええことも苦しいことも、全部まとめて宝もんやったんかもしれん
……まぁ、よう生きたわ。ほんまにな。
麻薬及び向精神薬取締法(まやくおよびこうせいしんやくとりしまりほう、昭和28年3月17日法律第14号、英語: Narcotics and Psychotropics Control Law[1])は、薬物に関する法律で、刑法に対する特別法である。
自由民主党(じゆうみんしゅとう、英語:LiberalDemocratic Party[56][57] / LDP)は、日本の政党。自由民主主義の理念を掲げる政党である。
略称は「自民党[10][24][58]」、「自民[59]」、英語ではLDP。1字表記の際は「自[59]」。
2012年(平成24年)12月以降、公明党と自公連立政権を構成している。戦後最も長く与党を務めている政党である[60][61][62][63][64]。
概説
1955年(昭和30年)に日本社会党の台頭を危惧し、かつての自由党と日本民主党が合同して結成された政党である[24][58]。
本当に賢い人達なら
1.先進国では儲からない製造業はスリムにして、代わりにITや金融やら宇宙産業などの、次の基幹産業=儲かるセクターを更にテコ入れ
2. そんでもって社会主義アレルギーのアメリカ庶民の洗脳を解いて社会主義を少し導入、再分配
3. 超富裕層のダブつきまくった数百兆円を、おだてにおだてて、ある時は銃を突き付けて再分配
こうすると思うよ
製造業の復活なんて賢い人は目論まない(製造業でも半導体みたいな成長産業は別)
それはイオンを潰して昭和30年代の個人商店のアーケード街を作ろうとするようなもの
そもそもあの国は30年以上前から富裕層は金が余って余って仕方ないのに下には金が無いっていう状態なのに、なぜか下層と中層が社会主義嫌ってるからね
はい、皆様、本日もご乗車ありがとうございます。
さて、本日は皆様に、かつて日本の自動車史にその名を刻んだ、一台の軽自動車についてお話させていただきましょう。その名も「スズキ・ローラースルーゴーゴー」。
ええ、なんともユニークなネーミングでございますね。この名前を聞いただけで、どこか懐かしい、そして少しばかり奇妙な印象を受けられた方もいらっしゃるのではないでしょうか。
ローラースルーゴーゴーが世に登場したのは、1955年、昭和30年のことでございます。当時の日本は、戦後の復興期にあり、人々の生活も徐々に豊かになりつつあった時代でございます。自家用車を持つことは、まだ多くの人々にとって夢のような時代でありましたが、そんな中で、手軽な移動手段として注目を集めたのが軽自動車でございました。
その黎明期において、スズキが送り出したのが、このローラースルーゴーゴーでございます。最大の特徴は、その車名の通り、「ローラースルー」という機構にございました。これは、エンジンの動力をチェーンを介して後輪に伝える方式で、当時の一般的な自動車とは異なる、非常にユニークな駆動方式を採用しておりました。
また、そのスタイリングも個性的でございました。丸みを帯びた愛らしいフォルムは、どこかユーモラスでありながら、当時の人々に新鮮な印象を与えたことでしょう。簡素ながらも、必要最低限の機能を備え、人々の生活の足として、あるいは通勤のための移動手段として、活躍いたしました。
しかしながら、ローラースルーゴーゴーは、その斬新な機構ゆえに、いくつかの課題も抱えておりました。チェーン駆動という方式は、耐久性や騒音の面で、当時の技術的な限界もございました。また、自動車技術の進歩とともに、より高性能で信頼性の高い軽自動車が登場する中で、ローラースルーゴーゴーは、徐々にその姿を消していきました。
短い期間の販売でありましたが、ローラースルーゴーゴーは、日本の軽自動車史における、一つの特異な存在として、その名を刻んでおります。それは、当時の技術者の独創的な発想と、人々の生活を支えたいという熱意の証左と言えるでしょう。
現代の高度に発達した自動車技術から見れば、ローラースルーゴーゴーは、原始的で簡素な乗り物かもしれません。しかし、その背景には、当時の社会情勢や技術水準、そして何よりも、夢と希望に満ちた人々の想いが詰まっているのではないでしょうか。
もし、街中でローラースルーゴーゴーを見かけることがあれば、そのユニークな姿を眺めながら、日本の自動車の歴史、そしてそれを支えてきた人々の情熱に、少し思いを馳せていただければ幸いでございます。
本日は、スズキ・ローラースルーゴーゴーについて解説させていただきました。皆様、本日も安全運転で、快適な移動をお楽しみください。ご利用いただき、誠にありがとうございました。
歌舞伎揚とぼんち揚は、日本の代表的な揚げ煎餅であり、見た目や味に共通点が多いものの、製法や食感、歴史的背景には明確な違いがある。これらの違いを明らかにするために、それぞれの特徴を比較しながら考察する。
まず、歌舞伎揚は天乃屋が製造・販売する揚げ煎餅であり、表面には甘辛いタレが絡められている。生地にはうるち米が使われており、比較的しっかりとした歯ごたえが特徴である。揚げることで生まれる香ばしさと、タレの甘みと塩味のバランスが絶妙で、多くの人に親しまれている。歴史的には、昭和30年代に誕生し、江戸時代の歌舞伎文化にちなんで「歌舞伎揚」と名付けられた。パッケージデザインも和風で、伝統的なイメージを大切にしている。
一方、ぼんち揚は、大阪のぼんち株式会社が製造する揚げ煎餅である。関西発祥であるため、味付けには関西風の出汁の風味が感じられ、より軽い口当たりが特徴となっている。歌舞伎揚と異なり、もち米を主原料としているため、食感はサクサクとしており、噛むとほろほろと崩れるような軽やかさがある。昭和30年代に誕生し、関西を中心に親しまれてきたが、現在では全国的に販売されている。パッケージには、関西らしいポップなデザインが採用されており、歌舞伎揚とは異なる印象を与える。
製法においても、両者には違いがある。歌舞伎揚はうるち米を使った生地を成形して揚げ、タレを絡めるのに対し、ぼんち揚はもち米を使った生地を揚げ、味付けがより軽やかに仕上げられている。この違いが、食感や風味の差を生んでいる。うるち米を使うことで、歌舞伎揚は歯ごたえがあり、タレの絡みが良くなる。一方で、もち米を使うぼんち揚は、軽い食感と口どけの良さが際立つ。
これらの違いを踏まえると、歌舞伎揚とぼんち揚は単なる揚げ煎餅のバリエーションではなく、それぞれに独自の個性を持つ菓子であると言える。歌舞伎揚は、しっかりとした味付けと歯ごたえを楽しみたい人向けであり、ぼんち揚は、軽い食感と関西風の風味を好む人に適している。どちらも日本の伝統的な菓子として広く愛されており、それぞれの特徴を理解することで、より一層その魅力を味わうことができる。
昭和生まれのおっさんだから思うのだろうけど、最近の昭和擦りいい加減にやめられんかね…
そうだなあと思う部分もありつつ、雑な論理展開だなと思うことも半々くらい感じる
昭和時代の人間が作った悪習だから平成期にも受け継がれてるっていうのはそうなんだけど、昭和期の悪習として紹介されるものの中に平成期の話が混入してることが多い。
特に経済事案系だけど、(たまたまとはいえ)昭和の終盤は基本的に好景気で終わったので、不景気に伴う悪習はほとんど平成のもの。
語るまでもないと思うけど、一応念のため…。今語られる昭和性って、昭和の最後15年くらいで平和時代で固定化された世相のみを切り取ってるような気がする
昭和1年~:1926年 普通選挙になったり、治安維持法で思想統制されていたころ…。この数年前までは一定の納税が無いと選挙権すらなかった
昭和20年~:1945年 言わずと知れた敗戦。写真で見るような焼野原。裁判官が闇市場のコメを拒否して餓死したり。
昭和30年~:1955年 「もはや戦後ではない」あの戦争から10年で立ち上がる…失われた30年とか言ってる今のスピード感と違う
昭和45年~:1970年 安保闘争や学生運動を経て左派が威勢良かった時代の最後あたり。この後京浜安保闘争とかあさま山荘の過激化路線につながる。
昭和60年~:1985年 プラザ合意経て地価高騰、バブル景気の始まり。「24時間戦えますか?」ってTVCMで問いかけられたり。昭和天皇の崩去に近いころは、天気予報のように毎日昭和帝の脈拍とかがニュースで流れてた
「昭和」…というけど、権威への盲従性とか同調圧力って昭和の時代性というより、日本人性のような気がする
そこらへんって江戸時代あたりから続いてるような(石門心学とか?)。時代の問題として片づけると、本質から目を逸らされることもあると思う
あの時代に戻りたいか…?と言われたら、あんな野蛮な時代に戻りたいとは思わない
今から見たら原始時代みたいな野蛮性や狂気を許してた時代だったと確かに思う
単なる目先の生活のためが圧倒的に大多数
経営者はみな頭を抱えることになる
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『市川房枝集』に収録されてる
1930年に書かれた『現代の婦人問題』という文章にはこうある
まったく見られないといっても差し支えはない。」
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黒澤明が戦時中に監督した国策映画『一番美しく』を見るとわかる
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そのころの大学進学率はせいぜい30%台な
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『「育児休職」協約の成立 高度成長期と家族的責任』(勁草書房)
という本によれば、1968年の専売公社職員の女性比率は43%(1万5600人)
平均年齢は35歳、平均勤続年数は16.4年、半数以上が既婚、82%が製造職
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東京商工会議所は女性の軽労働について時間外労働(1日2時間)の制限を撤廃
左翼フェミではなく資本の側が女性労働の制限撤廃を主張していた!!!!
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実際にあったのは「すでに働いてる女も男と同待遇にしろ運動」な
それが実現したのが1985年の男女雇用機会均等法なのだが……
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「この法そのものが、職場での男女平等を進める労使の合意によって生み
だされたものではなく、国連の婦人差別撤廃条約を批准するため政府が成
立を急いだという色彩が強いことから、「お役所仕事として、性急にコト
を運ばれては困る」(大手通信機メーカー)という批判も出ている。」
「西欧諸国の中には「安い女子労働で支えられた日本の集中豪雨的な輸出
が貿易摩擦を生んでいる」と非難する向きもあり、同省は「こうした誤解
――雇用機会均等法の成立は左翼フェミや労働組合の要望もあったが
俺も当時の事情を調べ直してこの辺の経緯を知ったら驚いたが
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という論旨なのであるが
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いまだに定期的に
論者がくり返し何度も飽きずに出てくるが
悪いけど完全に的外れなんだよ
ま、絶対に信じたくないだろうけどね