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はてなキーワード:昭和30年とは

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2025-12-14

夫婦別姓阻止のために汗かい高市氏、という新聞記事を読むと、少なくとも1996年から別姓案がつぶれるように尽力してきたらしく、いまのアラフォーはもちろんのこと、昭和30年代、40年代まれくらいの人もとっくに夫婦別姓結婚できてたかもしれないのを邪魔してきた…とわかって執念を感じました。

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2025-12-08

anond:20251208193942

近世以前

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日本において暦日を用いた新年概念が生まれたのは飛鳥時代であり、聖徳太子が十七条憲法を制定した604年まで遡る[13]。その後、646年には朝賀が執り行われ、新年の回礼という風習が始まった[13]。これに伴い、畿内には飛脚使が設置され、701年には通信物を運ぶ脚力(かくりき)が定められた[13]。奈良正倉院に収められている「人勝残欠雑張」には「正月七日のこのよき日、慶びを新にし、泰平が万年続き、寿命は千春を保つことができますように」とする十六文字が記されており、新年挨拶を伴った年賀状ルーツといえる[14]。

平安時代に入ると貴族間で年始挨拶を文で取り交わすようになったと見られ、当時の書簡、文例を集積した最古の例と言われている藤原明衡が残した『明衡往来』にも年始挨拶文例を確認することができる[15]。室町時代に『庭訓往来』が登場し、寺子屋などで読み書きを教えられるようになると識字率の向上が見られるようになった[16]。これに伴って江戸時代には武家社会において文書による年始挨拶一般化したほか、非武家社会においても口頭の代用として簡易書簡を用いることが年始挨拶に限らず一般的になり、公的郵便手段である飛脚使用人を使った私的手段により年始挨拶文書が運ばれるようになった[16][17]。1740年の『書札重宝記』には年始書状のための語彙として「改年、新春、新暦、初春、陽春、祝賀、御慶」などの用語が紹介されている[18]。江戸中期以降は大小暦が大いに流行し、年頭には機知に富んだ摺物の交換が積極的に行われた[19]。

明治時代

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明治維新後になると逓信省前身として駅逓司が設置され、1870年10月には新年賀詞を示す太政官令が発布された[20]。1871年には郵便制度確立し、1873年に二つ折りの郵便はがきが発行され、1875年には単面の官製はがきなどが見られるようになった[20]。これにより年始あいさつを簡潔に安価で書き送れるということで、葉書年賀状を送る習慣が急速に広まっていった。1887年頃になると年賀状を出すことが国民の間に年末年始行事の1つとして定着し、その結果、年末年始にかけて郵便局には多くの人々が出した年賀状が集中し郵便取扱量が何十倍にもなってしまった。

郵便事業に携わる人の数は限られているため、膨大な年賀状のために郵便物全体の処理が遅れ、それが年賀状以外の郵便物にも影響し通常より到着が遅れることがしばしば発生していた。しか年末商売上の締めの時期にも当たり、郵便の遅延が経済的障害ともなりかねない状況となっていた。その対策として1890年1月1日からの3日間、年始の集配回数を減らす対応が取られた[20]。それでも、さらに増え続ける年賀状にその対応だけではとても追いついていけなかった。また当時、郵便物は受付局と配達局で2つの消印が押されていた。そこで受付局か配達局の「1月1日」の消印を押してもらうため多くの人がそこを狙って年賀状を出すようになり、12月26から28日あたりと1月1日当日の郵便物が集中するようになった。そこで1899年、その対策として指定された郵便局での年賀郵便特別取扱が始まった[20]。年末一定時期、具体的には12月20から30日の間に指定された郵便局に持ち込めば、「1月1日」の消印元日以降に配達するという仕組みになっていた。翌1900年には(必要に応じてではあるが)全国の郵便局で実施、私製はがき使用も認められ、1905年に完全に全国の郵便局で実施されるようになった[21]。この頃の年賀はがきの概数は1億1000万通前後であったが、郵便ポスト投函可能となった1907年には4億通を突破し、「年賀状ブーム」とも呼べる時代が到来した[21][22]。

大正戦前昭和時代

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琉球郵政庁が発行した1957年2ドル年賀はがき

関東大震災1923年)や大正天皇崩御1926年12月25日)の年は、その年(翌年配達分)の特別取扱が中止された。明治天皇昭和天皇崩御の年は実施されている。

年々取扱量が増えていくと共に私製はがきの取扱量も増えていったため、1935年昭和10年)に私製はがき貼付用として年賀切手の発行が始まった。しかし、時勢の悪化により1938年昭和13年)に年賀切手の発行が中止。さら物資節約のため1941年昭和16年)の年賀状から特別取り扱いが廃止[23](廃止決定は同年11月6日[24])。この年の東京中央郵便局が集配した年賀状は1/3に減少した[25]。

戦後昭和時代

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終戦後の1948年昭和23年12月15日、特別取扱と年賀切手の発行が再開された[26]。この年から年賀切手図柄干支にちなんだ郷土玩具のものになる。1949年昭和24年)、お年玉郵便はがき年賀はがき)が初めて発行され(官製はがきとしては初めての年賀はがき)、大きな話題を呼び大ヒットした。そしてこれを機に年賀状の取扱量は急激に伸びていった。1955年昭和30年)には、アメリカ合衆国による沖縄統治に置かれた沖縄諸島でも琉球郵政庁により年賀はがきが発行され、1956年には年賀切手も発行されている。

→「年賀寄付金」も参照

お年玉郵便はがきは当初、寄付金付きの葉書にくじが付いていたが1956年寄付金なしの葉書もくじが付くようになった。1961年昭和36年から年賀はがき消印が省略され額面表示の下に消印に模した丸表示を印刷するようになり、1968年昭和43年)には郵便番号導入により郵便番号枠が追加された。

1970年代になるとプリントゴッコの登場と相まってで年賀はがきに絵や文字印刷する年賀状印刷が盛んになり、1982年昭和57年から寄付金付きの年賀はがきにの裏面に絵や賀詞が印刷されるようになった。1989年平成元年からはくじ付きの年賀切手も発売されるようになった。

平成・令和時代

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2007年カーボンオフセット年賀状200枚包装紙

イラストデジタルカメラで撮った写真などを家庭のパソコンプリンター作成印刷するスタイルが定着し、手間が減った。2005年からは光沢感がありインクジェットプリンター印刷に適したインクジェット写真年賀はがきが発行されるようになった。

一方で2000年代からインターネットの普及が拡大。インターネットと紙を融合した「ネットで届く年賀状」などのサービスも登場したが、年賀状用紙やプリンターが高額、書いたり投函するのが面倒、交流がある人でも自宅住所が不明であるなどの理由で、年賀状を出さずに電子メールなどの紙以外のオンライン手段で済ませる人が増加。携帯電話を使った「あけおめメール」による通信混乱は2000年代の正月風物詩となった。

2008年には、郵政民営化を機に「カーボンオフセット年賀はがき」や「ディズニーキャラクター年賀はがき」などの新商品が出た。

20176月1日郵便料金が値上げされ、通常はがきも52円から62円とされたが、2018年用に限り年賀はがき1月7日までに年賀状扱いとする場合)は旧料金のまま(52円)とした[27]。年賀はがきの発行枚数の減少を食い止める効果を期待しての値段据え置きであったが、結果として総発行枚数は前年比より5.6%減少したほか、1月8日以降に差し出す場合は差額として10円分の切手を貼り足す必要があったこから利用者からはわかりづらいと不評の声もあった。この取扱いは1年限りで終了し、翌年から通常はがき年賀はがきは同一の料金となった[28]。

2010年代になるとスマートフォンソーシャル・ネットワーキング・サービスSNS)、インスタントメッセンジャー等が普及し、新年挨拶オンラインで済ませる人がさらに増えた。LINE運営する「LINEリサーチ」の2019年のインターネット調査(約59万人対象複数回答)によると、「葉書を送る」と回答した人は60代以上で71.7%だが、20代は26%であった。一方「SNS送信する」が30代から60代以上でいずれも60%に達し、20代では72%に上った。IT企業TB名古屋市東区)は2017から高齢理由に、今年限りで年始挨拶をやめること(年賀状じまい)を伝える例文をサイト上で提供している[4]。

また高齢者の増加の他、郵便料金の値上げ、特に202410月1日以後は、消費税増税に伴う転嫁分を除けば実質1994年以来30年ぶりの大幅値上げで1枚85円[29]となったこともあり、年賀状終いをする世帯が急激に増え、アスカネットの調べでは、2024年に年賀状を出さなかった人は58.2%に及び、そのうち20代が72.5%、30代でも65.8%が年賀状を出さなかったとする統計がでている。また「年賀状フタバ」の調べでは、全体の6割が3年以内に年賀状終いをしており、そのさらに半数の3割強が2023年度で終わりにしたという人である企業においても、葉書をやめて、SNSなどを利用した「ペーパーレス」に移行したところも多いとされる[30

Permalink |記事への反応(0) | 19:49

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2025-11-23

今日特にやることがなかったので歩いて小一時間ほどのところにあるショッピングモール内のフードコートに昼食を食べに行った

そこには何か特別メニューがあるわけではなく食べたのは普通のおいしい昼食以上のものではないのだがもう一つの目当てのものがあった

導線から外れて人がほとんど通らない空いた空間にある写真である

写真付近の街の歴史明治時代から令和まで振り返るというテーマで並んでいる

明治時代大正時代のものは原っぱや果樹園や掘っ建て小屋のような駅舎の写真ほとんどが歴史モノの映画のワンシーンのような雰囲気でとても今の街並と連続しているとは思えないファンタジー世界のように見えた

そして昭和初期まで人力車が走っていたのがわかる

戦後の混乱期は道端や広場瓦礫や何かの資材のようなものが転がっていて活気がありつつも嵐の後のような荒々しい雰囲気がある

空爆被害を受けたのかそれとも別の災害や争乱によるものなのかは不勉強知識がないのでよくわからなかった

昭和30年代になると街並はまだ荒れているもの自分も知っている庁舎劇場などの大きくてモダン施設が建ち始める

昭和40年代には建物雰囲気レトロ風なもののここがどこか?と問われたら答えられるくらいには今の街並と地続きな感じの整った景色が完成されている

ネットを見ているとつい人類歴史ダークサイドばかり考えてしまうがこういう記録を見ると文明の強さや美しさなど明るい面を感じることができて良い経験だった

この写真展がいつまでやっているのかはわからないけど気が向いた時にまた見にこようと思う

Permalink |記事への反応(0) | 20:08

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2025-11-22

武井壮「この15年くらいで日本人口は500万人近く減っているんだなあ」女さん「なぜ自分がいま独身子供いないか考えた方が人口減少の答えに近いんじゃないか?? 減少させてる側なんやから

武井壮

@sosotakei

この15年くらいで日本人口は500万人近く減っているんだなあ

どうやったら減少を止められるのかを議論してる事が多いけど、人口が少なかった昭和30年から50年までの20年間にどうやって2300万人も増えたのかを考えてみたらいいんじゃないかと思う

https://x.com/sosotakei/status/1990210395211272462

マジェそば☺︎

@majesoba00

まじで申し訳ないけど「みんな目の前のお皿を洗おうとしないが、世界を救いたがる」みたいな名言?思い出してしまった

2300万人増えたこと考える前に、なぜ自分がいま独身子供いないか考えた方が人口減少の答えに近いんじゃないか??

減少させてる側なんやから

Permalink |記事への反応(1) | 04:07

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2025-11-21

武井壮(52歳)何で結婚して子供作らないのに偉そうなの?

この15年くらいで日本人口は500万人近く減っているんだなあ

どうやったら減少を止められるのかを議論してる事が多いけど、人口が少なかった昭和30年から50年までの20年間にどうやって2300万人も増えたのかを考えてみたらいいんじゃないかと思う

https://x.com/sosotakei/status/1990210395211272462?t=_YLcZPmtDdIEaLBRMbitkQ&s=19

武井壮少子化を憂いていたけど、彼は52歳独身子無しで、家族を持つのが怖いと過去ポストをして多くの共感を集めていた。

独身でいたい、とかじゃなく家族を持つのが怖いのかもな 失うくらいなら、もとからいない方がいい

子供何人でも作れる裕福な男性独身家族を持ちたくないと言って52歳で好きなことしてても皆が理解してくれる世の中になったか少子化なんじゃね?としか思えないんだけど、何で少子化加速させてる方が少子化憂いて考えてみたらいいとか言ってるんだろう。

子供をたくさん産んでた昔は、独身中年なんて男も女も笑い者だったよ。

Permalink |記事への反応(0) | 01:29

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2025-10-30

anond:20251030080233

ChatGPTによる調査をしてみた

昭和30年代に冷夏の記録が複数回あり

昭和36年昭和37年北海道集落に降りてきた羆による獣害対策自衛隊派遣された記録あり

北海道には手付かずの原生林が令和の現在でも残る

・熊の縄張り主張の生態が的確

・森に餌が少なくなると人里に動物が降りてる生態が的確

狩猟者が手首足首を重点的に守るのは草木四肢が擦れるためで描写が的確

狩猟者が大鉈もしくは山刀で草木を打つという描写が的確

・呼吸を奪う対獣戦闘戦略合理的

アイヌ語北海道犬をセタと呼び狩猟犬として訓練されていた

・マキリはアイヌの基本装備

フクロウアイヌ神話のコタンコロカムイと呼ばれ集落守護する神

アイヌ男性は木工細工などが得意だった

アイヌの槍の長さは150cmほどで日本の伝統的な槍よりも短い

昭和30年代に祖父婚姻したと考えるならばその1020年前は終戦時期で学徒動員などから民兵訓練を受けていた可能性が非常に高く、日本陸軍銃剣術は下段もしくは中段構えが基本

まりにも真正情報が多いのでたぶん真実じゃないか

Permalink |記事への反応(1) | 17:41

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anond:20251030080233

極まった猟師って槍でヒグマ倒せるのか

いやそうだよな過去時代はそうしてたはずだもんな

とは言え古い世代が多く居たはずの昭和30年代でもヒグマに荒らされてるんじゃ人類の外れ値みたいな強さの人じゃないと無理なのか

Permalink |記事への反応(1) | 09:22

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猟師の孫

「爺ちゃんの傍さ離れんなよ」

孫は聞いているんだか聞いていないのだか「うん!」と答えるが、その辺で拾った良い感じの木の枝を振り回し遊ぶ。木々が生い茂って独特の静寂さを持つ山中を老人とその孫、そして愛犬の五郎は進んでいった。

後年、知ることになるが本州の山林とは違い、ここ北海道の山は本州のそれとは違って非常に視界が悪い。本州の山林のほとんどは林業を営む方々が手入れをし真っ直ぐに樹木は伸びるが、北海道ではその圧倒的な森林面積により人の手が入っていない部分が数多く残り、文字通りの原生林として山の威容を示し、伸び放題となった木々山中を行くあらゆる生命の視界を遮る。

老人とその孫の身なりは帽子、長袖長ズボン長靴、本革製の手袋と手足首を覆う手甲と足甲は老人の妻、即ち孫から見れば祖母の手製だ。ハイキングならばまだしも老人と孫の装備は見るものが見ればひと目で生業特定できる。猟師だ。可能な限り肌の露出を抑え、特に四肢を重点的に防護する見た目は娯楽ではない事を表す。

老人の右手には大鉈、左手には老人の背丈と同じ程度の狩猟槍、肩に猟銃を下げていた。孫は武器らしい武器はほぼ無いが猟に出る際にだけ持たされるマキリと呼ばれる小刀は腰に差されていた。マキリの持ち手には滑り止めを兼ねたフクロウを模した見事な装飾が施されており、この持ち手の作者は孫の目の前を行く祖父である

この日は週のうちに何度も繰り返す山道の整備と捕獲罠の点検だ。祖父は大鉈で不要草木を打ち払いながら進み、樹木の肌やその根本を観察する。昨今の報道でも知られるようにクマ樹木へ爪で傷を付け自身縄張りを主張する。そして熊だけでなく多くの野生動物は排泄をする際に隠れるため木々の近くでする事が多い。

「爺ちゃんコレ!」と孫が樹木を指差す。孫はマーキングを見付けたと祖父へ伝えた。「おぉそうだよく見付けたべなぁ。クマが出っかも知れねぇから気ぃ付けろぉ」と孫を促す。当然ながら孫よりも先に祖父マーキングに気が付いている。しかし孫の"発見"を褒めてくれるのだ。一応の確認として猟犬としてよく訓練された五郎へ目を配り何も反応がない事を知ると前へ進んだ。

いくつかの罠を巡ると、くくり罠に雄のエゾシカが捉えられているのを見付けた。祖父はそっと猟銃と大鉈を地面へ置き、槍を構えてエゾシカへ近付いた。そこそこの歳を重ねているであろうエゾシカはその場へ伏せていたが祖父を視界に収めると立ち上がるものの一切の抵抗を見せない。エゾシカはまさに威風堂々と言った立ち振舞いをし祖父を見つめている。祖父が音もなく踏み込み、首元から深く入るたったの一突きでエゾシカは倒れた。

馬ほどの体格を持つとは言え、素人からするとたか草食動物を容易に倒したように見えるが首元から様々な骨を避けて心臓まで一閃する達人の技だ。

実は昭和30年代に北海道で冷夏が相次いで森が飢饉状態となりエゾシカヒグマキタキツネなど野生動物が人里へ大量に押し寄せる状態となったことがあった。その際に多くの民衆ヒグマに襲われるという事故が頻発し、若き日の老人は槍一本のみで日夜ヒグマを狩り続け、多いときには月に20頭以上、日に3頭ものヒグマを狩った。この若者は周囲の村落で大いに語られる槍の名手として名を馳せた。

その男気を聞きつけて槍を習おうとする男衆に混じり見物に来ていた女性は槍の名手の男に惚れ込んでそのまま押し入り女房となったという。それが孫の祖母である

「奥義は下段」

孫は槍の名手たる祖父から毎日のように槍を習った。槍を習うとは言っても「まだ早い」と言われ穂の無い槍、すなわち単なる長い棒であり来る日も来る日も孫は祖父お手製の"槍"を振った。

祖父は口癖のように「奥義は下段」と言った。漫画の中で見るような敵を大きく吹き飛ばしたり環境破壊を伴う派手な技でない。単に獣へ対して半身を取って穂先を地面すれすれに落とす構えこそが祖父の槍、アイヌの槍の奥義なのだという。

「槍を振った」と前述したが、実のところ槍を振り回すことはお説教を招く動きだった。「振るなァ!突かんかァ!」という祖父の怒号は今でも頭の中で鮮明に響き渡るほど毎度毎度同じ説教を貰った。

「突き引きが遅い!」「力任せに振るな!」「穂先を目線より上げんな!」「下段から何を出来るか考えれェ!」と覚えの悪い孫は何度も何度も同じ説教を受け続けたがコレがまたなかなか上手く出来ないものだった。祖父が用意してくれた的へ次々と素早く当てようとするとどうしても槍を振ってしまうのだ。

後年、孫は祖父の教えの真髄を1つずつ理解するようになってきた。

特徴と言えば祖父の槍、つまりアイヌの槍は内地(本州)の槍よりも短い。前述したが長さは使用者の背丈前後程度。これには理由があり樹木が生い茂る環境内地の槍は振るうこと叶わず、まさに無用の長物となるのであった。内地の槍の長さは人間同士が平地で争うための長さだ。

これが理解できれば"樹木が生い茂る環境で槍は振るうこと叶わず"であり、槍は基本として突かなければならないというのも理解できるようになる。槍を振れば周囲の樹木へ当たる。しかも槍を使っているということは獣とまさに相対している時である森林で槍を振るということは自らの死を招く愚行なのだ

「下段を奥義」とするのも獣と相対した際の死活問題から来ていると今では推測している。半身で構える下段は体当たりしてくる四足の獣の動きへ穂先の反応が遅れたとしても槍の柄が使用者と獣の間に残り、槍の柄で防御へ転じられる。これが上段や中段の構えであれば穂先の反応が遅れた瞬間に獣の一撃を直接身体へ貰うことになるだろう。下段から何が出来るか?攻撃と防御が同時に出来るのである

孫は何度か祖父が槍のみでヒグマを打倒するところを見たことがある。法令上、猟銃が使用できる範囲は限られ、猟銃使用許可のある場所であっても射撃方向に民家があると使用できなかったりするためだ。

遠くへ行ってろ」と言われ祖父から離れるが、ギリギリ祖父を視認できる距離で見ていた。猟犬五郎祖父の指示を受けるまでもなく孫が祖父から離れると護衛のように孫へついて行く。

奥義の下段を忠実に構える祖父の気迫は幼い孫が遠目で見ても物凄く伝わってくる。じりじりとヒグマとの距離を詰め、痺れを切らしたヒグマ祖父体当たりを敢行する。祖父の動きは音がしない破裂音であるパンッと鳴ったと錯覚するような鋭く素早い動きでヒグマ体当たり回避たかと思えば、ヒグマは自ら後ずさりする。祖父の槍の穂先がヒグマの血で赤く染まっていた。

ヒグマの口から鼻先が切り裂かれているようだ。瞬く間に祖父ヒグマから後の先で呼吸を奪った。命のやり取りという極限のストレスの中で呼吸が難しくなるというのは息をする者にとってはかなりの重荷を背負ったことになる。時間が経てば経つほどにその巨体が自らに重くのしかかり、逃げることすら困難にさせる。

体当たりは分が悪いと悟ったヒグマ祖父へ怒涛の勢いで距離を詰め、右前腕での引っ掻きを狙うが右前腕の起こりに合わせ祖父は瞬時に熊の手を下段から貫いた。ヒグマはあまりの激痛からか唸りとも呻きとも取れる声をあげて四足を地へ付く姿勢に戻ろうとするが右前腕は軽く浮かせたままである

三足となったヒグマは再び必死体当たりを敢行するが祖父は素早く真横へ体当たり回避し、三足となり横方向の動きが制限されたヒグマ祖父の動きを視線しか追えず首へ必死の槍を受けた。祖父は力なく地へ沈むヒグマの様子を見ると距離を取り2分3分と下段の構えを解かずヒグマの様子を伺い続けた。

短いようで長い時間が経つと下段の構えを解き、祖父が手を振って終わりだと合図したことを察した孫は祖父へ駆ける。仕留めたヒグマは体調2mを優に超える大物だ。「すごいすごい!」と興奮する孫をよそに祖父はニヤリと意地悪く笑って孫へ「血抜きすんぞ」と告げた。

ヒグマメートル100キロ、2m超のヒグマ200kg以上である。これを老人と幼き孫が気合いで持ち上げ木へ吊るして血抜きするのである祖父との狩猟で最も楽しくないのが大物の血抜きという重労働であり「忘れてた!」と声を出さずともわかる表情を孫は浮かべた。

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父が「来月から毎日山を見て回るぞ」と言うので幼き日の思い出を書きました。

私が1人でヒグマを獲ったのは二十歳を越えた頃、何かあったときのために祖父が後ろで見守りながらだったという、祖父とは違って槍下手なのですが私程度であっても昨今の情勢で何か社会のお役に立てれば幸いかなと。

では、行ってきます

Permalink |記事への反応(12) | 08:02

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2025-10-17

相撲野球も大嫌いだった

80年代まれ自分にとって、それは親父の趣味だった

あの雰囲気アナウンサーの落ち着いた声、スローテンポ試合

ぜんぶ嫌いだった

 

あとは、神社仏閣も嫌いだったし、ニュースも嫌いだった

古いもの全部嫌いだったと思う

タバコも嫌いだし、酒も嫌いだし、お茶も嫌いだし、車も嫌いだった

NHKも、時代劇も、ドラマも嫌いだし、祭りも嫌いだった

昭和を感じるもの、親父(あるいは親族)を感じるもの、全部「古くてダサい」と言う感覚だった

 

それでパソコンに逃げたんだと思う

最近その呪いが解けつつある

改めてみると別にそこまで悪いもんじゃないように思えた

きっかけを与えたのは、若い子の感想と、日本すごい動画だった

もう長いこと離れていたそれらを見直したら、案外普通に思えた

 

まりこれは、親世代が着てるファッション絶妙にダサく感じる現象に近いんだと思う

世代が一周すると、別にいいじゃんとなる

 

例えば、昭和30年代あたりの文化に対して、自分はさほど何とも思わないしいいデザインだと思うが

世代は拒絶感が出るらしい、アデリアとかは一周してまたブームになっている

世代和服から離れてるのもそういうことなんじゃないかと思う

海外日本贔屓してる奴らも、別に日本が好きというより自分の周囲のすべてがダサくて退屈に見えてるんだろうなと思う

今の若者とかはどこらへんをダサいと感じてるんだろう

Permalink |記事への反応(2) | 19:10

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2025-08-31

anond:20250831172600

昭和30年代くらいやったらお隣さんにおすそ分けして始まる恋もあるんやろか?

Permalink |記事への反応(0) | 17:50

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2025-07-17

昭和時代に戻れば、女が専業主婦になれば少子化は解消する←これって本当?

なんかさ、定期的に出てくるよね。

昭和に戻せばいい」「女は専業主婦になれ」とかいうやつ。

でも本当に昭和に戻ったら少子化って止まるの?って話なんだけど、結論から言うと止まらないよ。

しろ少子化って昭和時代に始まってるんだよね。

まるで昭和時代バラ色だったかのように語るけど、データ歴史もまったく見てないノスタルジー脳なんだよね。

専業主婦が多かった昭和で、少子化は始まってたんだが?

まず現実見ようか。

昭和30年代以降、日本出生率は右肩下がりだった。

1950年には3.65人だった合計特殊出生率が、1975年にはもう1.91人まで低下。

まり専業主婦全盛期に、少子化はもう始まってる。

昭和に戻ったら子どもが増える?

逆だよ。専業主婦が当たり前だった時代に、出生率は落ちてるの。

「女は専業主婦に」=「社会全体で寄生虫を量産しよう」ってこと?

そもそも家事育児自動化外注化が進んだ現代で、専業主婦って必要

掃除機食洗機保育園もある。

それなのに「自分は家庭を守ってる!」とか言いながら、SNSで1日中だらだら文句言ってるだけなら、

はっきり言って経済的寄生虫だよね。

Permalink |記事への反応(0) | 19:57

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2025-07-01

実際昭和ってどんくらい涼しかったんだろうな

平成時点で「39度の!とろけそうな日!」って歌っててこの曲が発表された2000年最高気温は40.4度(新潟三条)なんだが

昭和の夏ってどんな感じだったんだろう

マイマイ新子と千年の魔法とかみると昭和30年代で氷の冷蔵庫使ってるけど、あれ今使うと一瞬で溶けるよな。

しかったんだろうなぁ…あの時代に戻らんかなぁ…

あと今体温はかったら38.4なんだけど、もうすぐ自分 とろけます

追記

胃腸炎だった。炎天下だしな。なんか腐ったもん食ったか

Permalink |記事への反応(23) | 01:34

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2025-06-24

氷河期世代だけど1990年代からゼロ年代までまだ明るい未来を感じてた

なんか悲惨世代みたいに言われてるけど若い頃はそれでも日本未来はよくなると思えたんだよな

バブルの余韻かもしれないけど、パッとしない生活でも絶望感はなかった

昭和30年代の映画ドラマ見ると貧しいけど明日はよくなるって希望がある感じ、あれの残滓があった

本格的にもうこれダメじゃないか、もう落ちて悪くなっていくだけじゃないかと思ったのは

思い返すと東京オリンピックが決まった時だと思う

2013年

なんだこれ、なにやってんだ、なに浮かれてんだと思った

こんなの、できるわけがない、そんな能力も余裕もないのに、政治家現実を見ていない、

生活を見ていない ここまでバカなのかと絶望した

それから10年間、世界から凋落社会の貧しさ、倫理の欠落がめちゃくちゃ加速していった感覚がある

ほぼほぼ安倍政権と被っているんだよな

株やっていて儲けた、って同期もいて、そういう人にはい時代だったかもしれない

でも、金融経済実体経済を上回ると社会おかしくなる

ものづくりも基礎研究文化矜持も失われていった

そして今残ったのはボロボロ実態ごまかすために縋る愛国日本張りぼて

そんなもんでなにが取り戻せるのか

哀しいけど更に悪くなるだけの未来しか見えないんだよ 

何がこの30年あったのか、真面目に考えて選挙いってくれ

Permalink |記事への反応(1) | 19:44

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2025-06-11

もうすぐ120歳になるので半生を箇条書きで振り返る

明治の終わりに生まれた。家は農家田んぼと畑が遊び場やった

子どものころは学校まで何キロも歩いて通った。冬は足の指がしもやけパンパンやった

大正時代に入って、村に電気がきた。最初に見た電灯の明るさにびっくりした

少年時代は家の手伝いばっかり。遊び言うたら木登りと虫取りくらい

青年になって徴兵検査受けた。甲種合格で、軍隊に入ることになった

昭和になって、満州やら中国に出征。あの頃のことはあんまり話したくない

戦後、生きて帰ってこれただけで運がよかった。家は焼けとった

• しばらく闇市で働いたり、土方したり、なんでもやった。食うだけで必死やった

昭和30年代に工場就職して、やっと少し落ち着いた

テレビ買ったとき家族みんなで正座して見とった。白黒やったけど、よう覚えとる

子どもが生まれから毎日くたくたやったけど、それが幸せやったかもしれん

高度成長期は目まぐるしかった。あの頃はみんな前向いとった

平成になったときは、なんや変な名前やなと思った

• 妻が先に逝った。あれが一番こたえた。もう話す相手もおらんようになった

• 孫がパソコンくれたけど、よう使わんかった。最近ロボットが話しかけてくる

• 100超えてからは、もう一日一日をなんとなく過ごしてる

長生はええことばっかりちゃうけど、昔のことを思い出す時間があるのは悪ない

• こうして思い出すと、ええことも苦しいことも、全部まとめて宝もんやったんかもしれん

……まぁ、よう生きたわ。ほんまにな。

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2025-05-24

anond:20250524130903

ファクトチェック

麻薬及び向精神薬取締法(まやくおよびこうせいしんやくとりしまりほう、昭和28年3月17日法律第14号、英語: Narcotics and Psychotropics Control Law[1])は、薬物に関する法律で、刑法に対する特別法である

自由民主党(じゆうみんしゅとう、英語:LiberalDemocratic Party[56][57] / LDP)は、日本政党自由民主主義理念を掲げる政党である

略称は「自民党[10][24][58]」、「自民[59]」、英語ではLDP。1字表記の際は「自[59]」。

2012年平成24年12月以降、公明党自公連立政権構成している。戦後最も長く与党を務めている政党である[60][61][62][63][64]。

概説

1955年昭和30年)に日本社会党の台頭を危惧し、かつての自由党日本民主党が合同して結成された政党である[24][58]。

数字の大小比較ができないのかな?

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anond:20250524125116

ファクトチェック

労働基準法(ろうどうきじゅんほう、昭和22年4月7日法律第49号)は、労働基準労働条件に関する最低基準)等に関する日本法律である施行が間近に迫っていた日本国憲法第27条の趣旨および当時の労働情勢に鑑みて、第92帝国議会法案提出

1955年昭和30年)に日本社会党の台頭を危惧し、かつての自由党日本民主党が合同して結成された政党である[24][58]。

数字の大小が比較できないのかな?

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2025-05-02

anond:20250502150239

大西 洋(おおにし ひろし、1955年昭和30年6月13日 - )は、日本実業家三越伊勢丹ホールディングス社長。ほか日本空港ビルデング副社長羽田未来総合研究所社長日本百貨店協会会長[1]。

https://w.wiki/DyGL

Permalink |記事への反応(0) | 15:03

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2025-04-28

スタジオジブリ作品時代設定

見ていない作品もいくつかあるのでWikipedia等で調べたりした。

ジブリ作品に無関心ですまない。

かぐや姫の物語 奈良時代

もののけ姫 室町時代

風立ちぬ 1910年頃〜1945年以降

紅の豚 1929年

君たちはどう生きるか 1944年

となりのトトロ 昭和30年代前半(1955年1960年頃)

コクリコ坂から 1963年

平成狸合戦ぽんぽこ 昭和40年代(1965年1974年)

おもひでぽろぽろ 1982年(1966年?)

耳をすませば 不明(未来ではないので映画公開の1995年以前)

千と千尋の神隠し 1994年2001年(ほとんど異世界舞台なのでアウディ・A4がある時代映画公開の2001年までならだいたい成り立つ)

猫の恩返し 不明(「耳をすませば世界の中の物語)

まり堀越二郎三菱飛行機設計をしていた頃にポルコが飛行機を乗り回し、「風立ちぬ」が終わる頃にサツキが生まれ松崎海(コクリコ坂から)も近い時期に生まれ、「コクリコ坂から」の数年後に狸達が生存戦略模索していたということがいえる。

Permalink |記事への反応(0) | 19:25

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2025-04-10

anond:20250410011655

本当に賢い人達なら

1.先進国では儲からない製造業スリムにして、代わりにIT金融やら宇宙産業などの、次の基幹産業=儲かるセクターを更にテコ入れ

2. そんでもって社会主義アレルギーアメリカ庶民洗脳を解いて社会主義を少し導入、再分配

3. 超富裕層のダブつきまくった数百兆円を、おだてにおだてて、ある時は銃を突き付けて再分配

こうすると思うよ

製造業の復活なんて賢い人は目論まない(製造業でも半導体みたいな成長産業は別)

それはイオンを潰して昭和30年代の個人商店アーケード街を作ろうとするようなもの

そもそもあの国は30年以上前から富裕層は金が余って余って仕方ないのに下には金が無いっていう状態なのに、なぜか下層と中層が社会主義嫌ってるから

その辺の国民の頭の悪さが根本にあると思うよ

Permalink |記事への反応(0) | 02:05

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2025-03-19

はい、皆様、本日もご乗車ありがとうございます

さて、本日は皆様に、かつて日本自動車史にその名を刻んだ、一台の軽自動車についてお話させていただきましょう。その名も「スズキローラスルーゴーゴー」。

ええ、なんともユニークなネーミングでございますね。この名前を聞いただけで、どこか懐かしい、そして少しばかり奇妙な印象を受けられた方もいらっしゃるのではないでしょうか。

ローラスルーゴーゴーが世に登場したのは、1955年昭和30年のことでございます。当時の日本は、戦後復興期にあり、人々の生活も徐々に豊かになりつつあった時代でございます自家用車を持つことは、まだ多くの人々にとって夢のような時代でありましたが、そんな中で、手軽な移動手段として注目を集めたのが軽自動車でございました。

その黎明期において、スズキが送り出したのが、このローラスルーゴーゴーでございます。最大の特徴は、その車名の通り、「ローラスルー」という機構にございました。これは、エンジン動力をチェーンを介して後輪に伝える方式で、当時の一般的自動車とは異なる、非常にユニーク駆動方式採用しておりました。

また、そのスタイリング個性的でございました。丸みを帯びた愛らしいフォルムは、どこかユーモラスでありながら、当時の人々に新鮮な印象を与えたことでしょう。簡素ながらも、必要最低限の機能を備え、人々の生活の足として、あるいは通勤のための移動手段として、活躍いたしました。

しかしながら、ローラスルーゴーゴーは、その斬新な機構ゆえに、いくつかの課題も抱えておりました。チェーン駆動という方式は、耐久性騒音の面で、当時の技術的な限界もございました。また、自動車技術進歩とともに、より高性能で信頼性の高い軽自動車が登場する中で、ローラスルーゴーゴーは、徐々にその姿を消していきました。

短い期間の販売でありましたが、ローラスルーゴーゴーは、日本軽自動車史における、一つの特異な存在として、その名を刻んでおります。それは、当時の技術者の独創的な発想と、人々の生活を支えたいという熱意の証左と言えるでしょう。

現代の高度に発達した自動車技術から見れば、ローラスルーゴーゴーは、原始的簡素乗り物かもしれません。しかし、その背景には、当時の社会情勢や技術水準、そして何よりも、夢と希望に満ちた人々の想いが詰まっているのではないでしょうか。

もし、街中でローラスルーゴーゴーを見かけることがあれば、そのユニークな姿を眺めながら、日本自動車歴史、そしてそれを支えてきた人々の情熱に、少し思いを馳せていただければ幸いでございます

本日は、スズキローラスルーゴーゴーについて解説させていただきました。皆様、本日安全運転で、快適な移動をお楽しみください。ご利用いただき、誠にありがとうございました。

Permalink |記事への反応(2) | 09:51

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2025-02-28

anond:20231014123539

美しい鼻濁音の見本は最近ならいものがかり吉岡。「nGA」と軽くn音を入れたガ行発音。昔の音楽教育では当然だったが、最近ストレートな「GA」なので音が汚い。

昭和30年40年代義務教育を受けた者は、音楽先生から「さも当然」というようにこの鼻濁音歌唱を習う。

ただし地方差があり、ユーミン桑田佳祐は鼻濁音ではない。

時代歌手の多くは完全鼻濁音。

Permalink |記事への反応(0) | 17:34

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2025-02-22

竿コンテスト祭とか有りそうで無いよね

ちんこ神輿はあるんだから、竿自慢グランプリ祭りとか、まんこコンテスト絶対あったと思うんだよね。

今だに地方に行くと親戚の飲み会で遠方から来た嫁は触ってもいいみたいな風習残ってるからな。

1955年(昭和30年)悪書追放運動の時に一緒に奇祭風習も燃やされた可能性ありそう。

Permalink |記事への反応(0) | 08:34

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2025-02-12

歌舞伎揚ぼんち揚の違いについて

歌舞伎揚ぼんち揚は、日本代表的な揚げ煎餅であり、見た目や味に共通点が多いものの、製法や食感、歴史的背景には明確な違いがある。これらの違いを明らかにするために、それぞれの特徴を比較しながら考察する。

まず、歌舞伎揚天乃屋製造販売する揚げ煎餅であり、表面には甘辛いタレが絡められている。生地にはうるち米が使われており、比較的しっかりとした歯ごたえが特徴である。揚げることで生まれる香ばしさと、タレの甘みと塩味バランス絶妙で、多くの人に親しまれている。歴史的には、昭和30年代に誕生し、江戸時代歌舞伎文化にちなんで「歌舞伎揚」と名付けられた。パッケージデザイン和風で、伝統的なイメージを大切にしている。

一方、ぼんち揚は、大阪ぼんち株式会社製造する揚げ煎餅である関西発祥であるため、味付けには関西風の出汁の風味が感じられ、より軽い口当たりが特徴となっている。歌舞伎揚と異なり、もち米を主原料としているため、食感はサクサクとしており、噛むとほろほろと崩れるような軽やかさがある。昭和30年代に誕生し、関西を中心に親しまれてきたが、現在では全国的販売されている。パッケージには、関西らしいポップなデザイン採用されており、歌舞伎揚とは異なる印象を与える。

製法においても、両者には違いがある。歌舞伎揚うるち米を使った生地を成形して揚げ、タレを絡めるのに対し、ぼんち揚はもち米を使った生地を揚げ、味付けがより軽やかに仕上げられている。この違いが、食感や風味の差を生んでいる。うるち米を使うことで、歌舞伎揚は歯ごたえがあり、タレの絡みが良くなる。一方で、もち米を使うぼんち揚は、軽い食感と口どけの良さが際立つ。

これらの違いを踏まえると、歌舞伎揚ぼんち揚は単なる揚げ煎餅バリエーションではなく、それぞれに独自個性を持つ菓子であると言える。歌舞伎揚は、しっかりとした味付けと歯ごたえを楽しみたい人向けであり、ぼんち揚は、軽い食感と関西風の風味を好む人に適している。どちらも日本伝統的な菓子として広く愛されており、それぞれの特徴を理解することで、より一層その魅力を味わうことができる。

Permalink |記事への反応(5) | 21:57

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2025-02-04

いい加減昭和昭和いうのやめない?

昭和生まれおっさんから思うのだろうけど、最近昭和擦りいい加減にやめられんかね…

そうだなあと思う部分もありつつ、雑な論理展開だなと思うことも半々くらい感じる

 

昭和」の悪習~…というけど、平成期の風習と誤解されてることが多い

昭和時代人間が作った悪習だから平成期にも受け継がれてるっていうのはそうなんだけど、昭和期の悪習として紹介されるものの中に平成期の話が混入してることが多い。

特に経済事案系だけど、(たまたまとはいえ昭和の終盤は基本的好景気で終わったので、不景気に伴う悪習はほとんど平成のもの

 

昭和」という時代の長さは、ひとくくりに語れない

語るまでもないと思うけど、一応念のため…。今語られる昭和性って、昭和最後15年くらいで平和時代固定化された世相のみを切り取ってるような気がする

昭和1年~:1926年 普通選挙になったり、治安維持法思想統制されていたころ…。この数年前までは一定納税が無いと選挙権すらなかった

昭和20年~:1945年 言わずと知れた敗戦写真で見るような焼野原。裁判官闇市場コメ拒否して餓死したり。

昭和30年~:1955年 「もはや戦後ではない」あの戦争から10年で立ち上がる…失われた30年とか言ってる今のスピード感と違う

昭和45年~:1970年 安保闘争学生運動を経て左派が威勢良かった時代最後あたり。この後京浜安保闘争とかあさま山荘過激路線につながる。

昭和60年~:1985年 プラザ合意経て地価高騰、バブル景気の始まり。「24時間戦えますか?」ってTVCMで問いかけられたり。昭和天皇の崩去に近いころは、天気予報のように毎日昭和帝の脈拍とかがニュースで流れてた

  

その問題は「昭和」という時代性なのか、日本人性なのか

昭和」…というけど、権威への盲従性とか同調圧力って昭和時代性というより、日本人性のような気がする

そこらへんって江戸時代あたりから続いてるような(石門心学とか?)。時代問題として片づけると、本質から目を逸らされることもあると思う

 

  

とはいえ日本人日本全体としては凄く良くなったと思うよ

あの時代に戻りたいか…?と言われたら、あんな野蛮な時代に戻りたいとは思わない

から見たら原始時代みたいな野蛮性や狂気を許してた時代だったと確かに思う

  

Permalink |記事への反応(1) | 15:01

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2025-01-30

anond:20250130134713

女性社会進出制限したら

最大の反対勢力左翼フェミニストではなく

しろ資本主義を動かしてる側のあらゆる大企業やで

皆なぜか女性社会進出と聞くと高学歴大卒オフィス勤務者

フェミ思想の影響を受けて女性自己実現意識高い系

しかいないかのように錯覚しとるが

現実に働いてる女性の圧倒的大多数は

商店店員工場の工員(おもに高卒)やで

しかも働いてる理由意識高い自己実現とかではなく

単なる目先の生活のためが圧倒的に大多数

この人らが全員一気にごっそり労働市場から消えたら

世のスーパーやらショッピングモールやら工場やらの

経営者はみな頭を抱えることになる

無人レジみたいな機械化も外国人技能実習生も足りない

***

そもそも近代日本の「女性社会進出歴史」は

明治期の製糸工場やら紡績工場女工から始まってる

彼女らとフェミ思想とかほとんど関係ない

貧乏農家家計を支えるため働きに来たのが大部分

しろ子だくさん家庭で口減らし奉公一種出稼ぎに出された

当時の企業経営者はとにかく労働力が欲しかっただけ

***

市川房枝集』に収録されてる

1930年に書かれた『現代婦人問題』という文章にはこうある

婦人工場労働は、産業革命の直接の結果、生活必要のため

家庭から工場へ追い込まれもので、そこには婦人自身自覚

まったく見られないといっても差し支えはない。」

***

女性雇用昭和戦時下に男手が次々と兵隊にとられて

若い女性が大量に勤労動員された時期にさらに加速する

ええか、左翼フェミ思想じゃなくてもしろ

政府愛国思想女性社会進出を拡大したんやで!!!

黒澤明戦時中監督した国策映画一番美しく』を見るとわかる

***

戦後高度経済成長期も中卒や高卒工場集団就職した

大量の若い女性工員が電化製品やら精密機械の輸出を支えた

(この辺はNHKドラマひよっこ』で描かれてる)

そのころの大学進学率はせいぜい30%台な

女性大卒ホワイトカラーなんて圧倒的に少数派

***

『「育児休職」協約の成立 高度成長期家族責任』(勁草書房

という本によれば、1968年専売公社職員女性比率は43%(1万5600人)

平均年齢は35歳、平均勤続年数は16.4年、半数以上が既婚、82%が製造

――ええか公社やぞ、政府の金で運営してる企業やそ

国家が率先して女性労働者を雇っとったんじゃ

***

女性の働き方』(ミネルヴァ書房)という本によれば

東京商工会議所女性の軽労働について時間外労働(1日2時間)の制限撤廃

1952年労基法改正で、映画製作に深夜業禁止が解除

左翼フェミではなく資本の側が女性労働制限撤廃を主張していた!!!

***

誰も信じないが左翼フェミによる「女も働かせろ運動

などというもの現実にはほぼなかった

実際にあったのは「すでに働いてる女も男と同待遇しろ運動」な

それが実現したのが1985年男女雇用機会均等法なのだが……

***

読売新聞1985年5月17日夕刊の

男女平等へ”器”はできたが…」という記事にはこうある

「この法そのものが、職場での男女平等を進める労使の合意によって生み

だされたものではなく、国連婦人差別撤廃条約批准するため政府が成

立を急いだという色彩が強いことから、「お役所仕事として、性急にコト

を運ばれては困る」(大手通信機メーカー)という批判も出ている。」

読売新聞1985年5月18日朝刊の

女子差別撤廃批准には意義 外務省見解」という記事

西欧諸国の中には「安い女子労働で支えられた日本集中豪雨的な輸出

貿易摩擦を生んでいる」と非難する向きもあり、同省は「こうした誤解

を解いていくためにも条約加入は意義がある」としている。」

――雇用機会均等法の成立は左翼フェミ労働組合の要望もあったが

それだけでなく他の先進国経済的外圧で実現したのだ!!!

俺も当時の事情を調べ直してこの辺の経緯を知ったら驚いたが

かに1985年ごろなら日米貿易摩擦とかで叩かれてた時期だ

***

本稿は左翼フェミ擁護するものでなく

しろ左翼フェミは屁ほどの社会的影響力もなかった

という論旨なのである

では少子化根本原因は何かといえば日本が豊かになったか

より正確には農業中心社会から第三次産業中心社会になったか

昔の農民は家が仕事場子供も中卒ぐらいで労働力にしてた

それが昭和30年代からみんな会社員になって

家庭内労働力として家に何人もの子供必要なくなり

子供大卒会社員にさせるのがイケてる生き方になって

それだけ子供1人にかかる教育費がべらぼうに高騰していった

昔ながらの農家やら自営商店なら家と家産(農地や店)の継承

結婚出産義務感に大きく影響していたはずだが

みんな勤め人になればその義務感だった自然に解消する

どこの国も産業構造が高度化すると政治思想関係くそうなる

からといって農業中心社会に後戻りすることはできない

左翼フェミが反対するからじゃねーぞ

それ以上に産業界資本家が反対するからだよ

***

いまだに定期的に

炎上覚悟の暴論だけど日本のため言うが女性就労を~」

論者がくり返し何度も飽きずに出てくるが

悪いけど完全に的外れなんだよ

きみの最大の敵は左翼フェミじゃないんだ、資本主義なんだよ

ま、絶対に信じたくないだろうけどね

Permalink |記事への反応(2) | 23:52

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