
はてなキーワード:昭和21年とは
まず忘れてはいけないのが、仮名そのものが現代日本語の音を完全に写してはいないということ。
つまり、仮名は「音声の現実」をすべて映し出すわけではなく、歴史的経緯や実用上の必要に合わせて整理された“ざっくりした表”に過ぎない。
訓令式ローマ字は、この「仮名=整った子音+母音の組み合わせ」という表面上のきれいさをそのままローマ字に写したもの。
一見理屈は通っているようにみえるが、実際の発音とは結構ズレている。
一方、ヘボン式は「チ」「ツ」を chi tsu と書くように、仮名の不整合を認めつつ、実際の発音に近づけ国際的に通じやすい表記に工夫をしている。
つまり:
ただ悪い意味ではなく、「どの部分の実用性をとるか」という話でしかない。
昭和21年に歴史的仮名遣いが廃止され、現代仮名遣いに移行した時も「日本語文化の破壊だ」と強い反発があった。
「ゐ・ゑ」の廃止や、「は・へ」を助詞として「わ・え」と読む規則など、今では当たり前になっているものも「文化破壊だ」と批判された。
しかし数十年経った今、現代仮名遣いを当然のものとして使っている人は大多数で、「文化破壊」と言われた改革がむしろ新しい文化の一部だ。
実務面では、すでにパスポート表記が原則としてヘボン式に統一されている。
これは単なる慣習ではなく、国際社会でのやり取りにおいてヘボン式のほうが実用的だからだ。
実務的な観点から言えば、ヘボン式への移行は「日本語文化を壊す」というより、むしろ「国際社会で日本人が円滑に識別されるための表記整理」と言える。
表記というものは常に「音と文字を完全には一致させられない」という制約の中で作られ、時代ごとに妥協を繰り返してきた。
訓令式もヘボン式も、日本語そのものの文化を壊すわけではなく、「どんな妥協を選ぶか」という制度設計の問題にすぎない。
仮名もローマ字も、完璧さを求めてできたものではなく、常に「不完全さをどう扱うか」の試行錯誤の結果だ。
だからこそ「ヘボン式への移行」も、日本語文化の本質を揺るがすものではなく、「より実用的な妥協へのシフト」と見るのが正しいだろうし、そういった妥協もまた「文化の一部」だと思う。
「君が代」は正式な国歌ではなかったが、実質的な国歌として扱われていた。
学校教育、軍隊行事、儀式、国際大会(オリンピックなど)で演奏・斉唱された。
昭和11年(1936年)に文部大臣・平生釟三郎が、歌詞の意味を理解していない子どもが多いことに気づき、小学校教科書に掲載を指示。
教科書には「君が代」の意味を明記:「天皇陛下の万歳を祝ひ奉り、皇室の御栄を祈り奉る心で一ぱいになります」
「君が代」は「天皇の治世の永続」を祈念する歌として、国民的義務感を伴って歌われるようになる。
学校では「教育勅語」「修身」とともに重視され、起立・礼と共に斉唱される。
併せて「海行かば」や「紀元節の歌」なども準国歌的に使われた。
終戦後、GHQ(連合国軍最高司令部)は「君が代」斉唱を一時禁止(特に初期には日の丸掲揚も制限)。
昭和21年(1946年)11月3日、日本国憲法公布記念式典では例外的に「君が代」が斉唱された(昭和天皇・香淳皇后が出席)。
昭和22年(1947年)憲法施行記念式典では「君が代」が演奏されず、代わりに新国民歌「われらの日本」などが使用。
当時は「君が代」が旧体制の象徴とされ、GHQや日本国内の一部では批判的な見解があった。
しかし、半年後の1947年(昭和22年)5月3日に開催された憲法施行記念式典では「君が代」でなく憲法普及会が選定した国民歌「われらの日本」(作詞・土岐善麿、作曲・信時潔)が代用曲として演奏され、天皇還御の際には「星条旗よ永遠なれ」が演奏された[46]。「君が代」の歌詞について、第二次世界大戦前に「国体」と呼ばれた天皇を中心とした体制を賛えたものとも解釈できることから、一部の国民から国歌にはふさわしくないとする主張がなされた。たとえば読売新聞は1948年(昭和23年)1月25日の社説において、「これまで儀式に唄ったというよりむしろ唄わせられた歌というものは、国家主義的な自己賛美や、神聖化された旧思想を内容にしているため、自然な心の迸りとして唄えない」とした上で「新国歌が作られなくてはならない」と主張した[47]。
また、「君が代」に代わるものとして、1946年、毎日新聞社が文部省の後援と日本放送協会の協賛を受けて募集・制作した新憲法公布記念国民歌「新日本の歌」(土井一郎作詞、福沢真人作曲)がつくられ、1948年(昭和23年)には朝日新聞社と民主政治教育連盟が日本放送協会の後援を受けて募集・制作した国民愛唱の歌「こゝろの青空」(阿部勇作詞、東辰三作曲)がつくられた。前者は日本コロムビアより、後者は日本ビクターより、それぞれレコード化されるなどして普及が図られた[46]。1951年1月、日本教職員組合(日教組)が「君が代」に代わる「新国歌」として公募・選定した国民歌として「緑の山河」(原泰子作詞、小杉誠治作曲)もつくられた。しかし、1951年(昭和26年)9月のサンフランシスコ平和条約以降は、礼式の際などに、再び「君が代」が国歌に準じて演奏されることが多くなった
サンフランシスコ講和条約(1951年)によって主権回復後、公式行事で「君が代」が再び演奏されるように。
法的根拠はないが、「事実上の国歌」として扱われる慣習が確立。
ただし、特に教育現場では教職員組合(日教組)などが反発し、「起立・斉唱を強制するな」との議論が起きる。
1950年代には日教組が新国歌の公募を行い、「緑の山河」などが制作される(普及は限定的)。
一部の学校で「不起立運動」や「歌わない自由」を主張する教職員と教育委員会の間で摩擦が激化。
国旗国歌法(正式名:「国旗及び国歌に関する法律」)が制定。
https://www.boj.or.jp/about/education/oshiete/money/c07.htm
なお、一度発行された銀行券は、法令に基づく特別な措置がとられない限り、通用力を失うことはありません。
そうした特別な措置は、以下のとおり、過去に3回発動されたことがあり、その結果、
これまでに発行された銀行券(53種類)のうち31種類については通用力が失われ、現在は銀行券として使えません。
(1)関東大震災後の焼失兌換券の整理(1927年<昭和2年>)
13歳から43年間野宿していた「洞窟オジさん」こと加村一馬さんいわく、こういうご家庭だったそうな
加村さん:生まれたのは昭和21年(1946年)の8月。食べ物もろくに買えないのに、子供が8人もいる貧乏な家だった。両親はなぜかオレだけイジメてたんだよ。木の枝に逆さ吊りにされたり、雪の降る真冬にお墓にくくりつけられて一晩放置されたりね。オレだけメシをくれなかったりしたんだ。
https://www.hotpepper.jp/mesitsu/entry/yasushi-nishimuta/19-00227
あとこれも忘れちゃあならないね
居所不明児童 の悲劇、 川口高齢夫婦殺害事件(2013年) は絶対に忘れてはいけないと思う
■川口高齢夫婦殺害事件(2013年)
母親はホストクラブに通いづめとなり、少年は毎晩のように家に来るホストに付き合わされお酒も飲まされ、小学校中高学年から学校に通えなくなった。
母親と養父から身体的・性的虐待を受け、各地を転々とし、収入がある日はラブホテルに宿泊。日雇いの仕事がない日は、ラブホテルの敷地や公園で野宿。
そんな生活の中、母親は妹を妊娠し生んでしまう。もちろん出生届けすら出さない。
少年は妹の面倒を見るため働く。更には16歳でありながら、失踪した義父の代わりに借金を背負いながら働くが、母親は少年に給料の前借りを何度も何度も強要しこれ以上は前借ができない状態になる。
更に祖父母や親戚に借金をして回るよう要求され、「殺してでも借りてこい」と言われ、自暴自棄になっていた少年はその通りにしてしまう。
筑摩書房版の堀辰雄全集第4巻には「EinZwei Drei」という随筆が収められている。中村眞一郎と福永武彦に関する思い出を堀辰雄が昭和21年に書いた話だ(発表当初は「若い人達」というタイトルだったらしい)。
堀辰雄に私淑していた2人は軽井沢まで堀を訪ねて来た折、自転車に乗る練習をして自転車をボコボコにしてしまうのだが、それは奥さん(堀多恵子)の自転車だったという話だ。
当時この2人は10代後半か20代だったはずだが、それまで自転車に乗れなかったわけだ。昭和初期の人は子供の頃に自転車の練習をしなかったのか。
ちなみに、堀辰雄全集の編集者は中村眞一郎と福永武彦の二人だ。どんな話をしながらこの一編を全集に入れたことだろうか。
或る夏、軽井沢で二人揃って自転車の稽古をはじめたことがある。僕の家に遊びに来ていても、自転車があいていると、どっちか一人はかならず庭でその稽古をはじめる。中村はそんなスポルティフな事はぶきっちょそうなので、福永のほうがうまくなるかと思っていたら、反対に中村の猛練習が功を奏して、先きに乗れるようになってしまった。それを見ると、福永はそれっきり自転車は断念したようだった。––そのとき一番ひどい目に逢ったのは、僕の妻の自転車だったろう。二人のおかげで、すっかりハンドルが曲がり、ペダルが踏みにくくなってしまったと言って、こぼしていた。(まあ、けちはことはいうな。)
40なったら50まで生きたいといい
50なったら60
60なったら70という
バターン半島の陥落後、1942年8月に参謀本部附となり[2]、内地へ戻る。「日本ニュース」第115号にて、「本間将軍帰還」の肉声・映像が残っている。同月、予備役に編入され、以後は軍務に就くことなく、フィリピン協会理事長を務めて終戦を迎えた[2]。予備役編入の理由は、バターン攻略の不手際をとがめられたものとされる。終戦後、「バターン死の行進の関係者が処罰されるのでは」という話を陸軍が聞きつけ、「先手を打って処罰すれば刑が軽くなるのではないか」(いわゆる『一事不再理』の発想)と考え、本間の陸軍中将としての礼遇を停止した。しかし、結局マニラ戦犯裁判で、バターン死の行進の責任者(戦犯)として召喚された。本間は前述のとおり人道主義者であり、バターン死の行進での捕虜への非人道行為は本間の責任ではなく、部下の責任であった。しかし、結果的に責任をとることとなり、有罪判決が下り、本間は死刑と決まった。有罪判決が下ると本間の弁護団はアメリカ連邦最高裁判所に人身保護令を求めたが、6対2の判決で却下された。
処刑は、1946年(昭和21年)4月3日0時53分、ちょうど4年前に第14軍司令官であった本間の口より総攻撃の命令が下された同じ月日、同じ時刻にあわせて執行された。当時、ほとんどの将校が囚人服で絞首刑に処せられたのに対し、本間の場合は、略式軍服の着用が認められ、しかもその名誉を重んじて銃殺刑であった(同じくマニラの軍事裁判で死刑判決が下された山下奉文の場合は、囚人服を着せられたままの絞首刑であった)。58歳没。
サザエさんは昭和21年連載開始。今とはあまりに住宅事情が違う。
原作には「家賃が払えなくて大家さんを刺しに行くサザエさんを家族が止める」というエピソードがあったと思う。つまりサザエさんは借家住まい。
これによると,全国都市部の持ち家率は平均 57.5%,うち自己宅地は 57%, 借地持ち家は43%であった 。住宅の建て方では一戸建が全体の63.8%をしめ,アパート形式の住宅は5.2%にすぎなかった。また,全体の97.8%が木造住宅であった,
とあるので戸建から集合住宅に移り変わるちょっと前だったのかもしれない。
シロクマさん(id:p_shirokuma)の記事
https://blog.tinect.jp/?p=54303
というのを読んで、「え〜その割には子供の性被害事件多くないかなぁ」と思ったのでネット&ついでに丁度本屋にいたので政治コーナーの平成29年版犯罪白書を読んで調べてみたんですよ。
んで、まあシロクマさんの記事の本筋とはズレるんですけど、未成年の性被害や児童ポルノだとかいうのは萌えだとかロリエロだとかと語る上ではよく出てくる話なので、junglejungleさんの人気コメントに対してブコメで反論してみたんです。ソース付きで。
内容はこう↓字数制限のせいで文体素っ気ないのは許してほしい。
“人気コメへ。児童への性犯罪は増えてます。監禁、わいせつ、強姦、増加傾向。児童虐待全体ではここ10年で300%強の増加。無視してはいけないと思う。最新の犯罪白書http://hakusyo1.moj.go.jp/jp/64/nfm/n64_2_4_6_1_1.html”
白書を読んでほしかったので少し強めに書いたのは本当だけど、それに対して書かれた反論ブコメがこれ↓
“児童への性犯罪は減っています。児童虐待の加害者の大半は母親によるものです。無視してはいけないと思う。http://www.moj.go.jp/content/001178520.pdf”
煽られたとかはどうでもよくて、児童性被害のソースとして総数グラフを出すのがズレてるし、虐待加害者の大半が母親というのも事実と違って、これが故意のミスリードだったら怖いなって思ったんですよ。
http://hakusyo1.moj.go.jp/jp/64/nfm/n64_2_4_6_1_1.html
ここの(4-6-1-3表)を見たらわかるように、加害者1071人のうち、785:286で父親の方が多いんです。
てか、あ…
これ書いててグラフじっくり見てて初めて気付いたんですけど、後の人が貼ったページの性犯罪総数のグラフ(2-1-1図)、パッと見「めっちゃ減っとるや〜ん」と思ったけど、スタートが昭和21年じゃないっすか!めっちゃ昔やん。親も生まれてないわ。
しかもここ数年の偏移をよく見てみるとむしろ件数増えてた。今気付いた。なので上の方に戻って(注1)を足しました。すみません。
注1: 性被害、総数の方も減ってなかった。
強制わいせつ(2-1-2図)も増えてるし、平成25年から26年にかけては(2-1-3図)のわいせつ目的誘拐も増えてるし、(2-1-4表)の13歳未満のわいせつ目的誘拐も増えてた。
で、何が言いたいかいうと、なんでこれを書こうかと思ったかというと、性被害に逢う子供が増えている事実を、都合が悪いから揉み消そうとしている人がいるような気がして怖かったんですよ。スター付いてるし。
実在の子供を守るというのはフィクションを楽しむ上での前提じゃなかったのか?
こんなことしてたら信頼なんてとても得られないんじゃないか…。
あ、もし私がグラフの見方を間違えてたら指摘してください。顔真っ赤にしてしばらく潜りますので。
てか、ここ10年で児童虐待の検挙件数が250から1000になってるのは流石にびっくりした。あと、犯罪白書って、毎年その年の違ったテーマがあるんだね。どうやら平成27年度版が性犯罪特集だったらしい。色々勉強になった。
法治国家を否定するラディカルな思想を持つ人がいても、おかしくはない。
しかし、日本が人治国家になったら法律は無用=法務を専業とする弁護士も不要となり、自らの存在意義を否定する「矛盾」に陥るのではないか?
オウム事件とこの集団対応は、この「前例のない事件に対しては前例のない体制で」でやってきた。それだけの大事件であり、特異な集団であり、特異な思想だったからです。
で、今回の支援要請につき、国が応えられないなんてありえない筈、と確信しています。
・その必要性があり、決して憲法に違反するものではなく、法令に違反するものでさえないのだから。
・日本が、テロと闘うならば、そのテロ行為の背景などにも対応していくことによってこそ、「闘う」といえるのだから。
助けてください。
社会は常に変遷して行く。かつてない状況に出会ったら、新たな対処方法を確立する必要がある。そこまではOKだ。
しかし、最初は手探りの試行錯誤ゆえ不具合が生じた場合、後でちゃんと不具合を修正できるのか?
滝本弁護士の独断で、関係者の利害を調整することなく、物事を強引に進めてしまった場合、その結果重大な人権侵害などが起きても、ちゃんと回復できる仕組みも併設されているのか?
新規の対応で失敗しないためには、ちゃんと保険もかけているのか?そこを注意深く観察する必要がある。
デリケートな問題を扱うにしては、十分な議論を尽くすだけの「慎重さ」が欠けていないか?
万一、間違った前例を作ってしまった場合、後戻りできなくなるのでは困る。
歴史を振り返ると、人類は多くの失敗を繰り返している。(同じ失敗を繰り返すのは、単なるアホでしかない。)
「前例がない」場合こそ、十分に時間をかけて話し合い、慎重に対処すべきという「共通認識」が必要だ。
民事および刑事の係争は、法律というルールに基づいて解決を図るべきだ。
なぜ、滝本弁護士は、他の利害関係者と対話の機会を持たないのか?独断と偏見で話を進めていないか?
司法試験の勉強をしたなら、少なくとも一度は日本国憲法を読んだことがあるはずだ。
1945年(昭和20年)に、ポツダム宣言を受諾して連合国に対し降伏した日本政府は、そこに要求された「日本軍の無条件降伏」「日本の民主主義的傾向の復活強化」「基本的人権の尊重」「平和政治」「国民の自由意思による政治形態の決定」などにより、事実上憲法改正の法的義務を負うことになった。
そこで連合国軍占領中に連合国軍最高司令官総司令部の監督の下で「憲法改正草案要綱」を作成し、1946年(昭和21年)5月16日の第90回帝国議会の審議を経て若干の修正を受けた後、同年1946年(昭和21年)11月3日に日本国憲法として公布され、その6か月後の翌年1947年(昭和22年)5月3日に施行された。
第14条 すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
なぜオウムだけは差別して、議論の輪から外しても良いと言えるのか?(言っていないなら問題ない。)
「好き嫌い」という感情ではなく、「真偽」という論理、すなわち法律(ルール)に基づく説明ができなければ、法曹としては失格だ。
パブリックコメントを発する以上は、他者からの質問に答える義務がある。(質問を受け付けないのなら、それは単なる独り言でしかない。結果、他者も聞く耳を持たず、自身が孤立する結果を自ら招くだけだ。)
滝本弁護士には、公開の場で質疑応答を行なうだけの「誠意」を見せて欲しい。
「テロ」といえば昨今の「テロ等準備罪」を巡る議論を思い出す。
「日本では犯罪を実行したことを罰するのが原則です。それに対して、共謀罪は犯罪の計画に合意したこと自体を罪ととらえ、犯罪を実行する前に処罰しようというものです。深刻な犯罪を未然に防ぐことが狙いです」
「過失」を巡る法理の分類は、歴史的に「旧過失論」「新過失論」「新々過失論」(危惧感説)などが挙げられる。
テロ等準備罪は、危惧感説に基づく新しいタイプの法律と言える。日本では、藤木英雄先生が先駆者として有名だ。
藤木英雄(1932年2月20日 -1977年7月9日)は、日本の刑事法学者。元東京大学法学部教授。
戦後の数ある刑法学上の論争の中で、実務上最も重要な意義をもったのは過失責任を巡るものである。
藤木は、高度成長期において非伝統的な犯罪が多発するという状況に際して、新たに企業側の過失責任を拡張することで、被害に苦しむ市民を救わんと尽力し、新過失論を一歩進めて「新・新過失論」・「危惧感説」を提唱した。
危惧感説が登場する以前の新過失論は、逆に伝統的犯罪や交通事犯に対する過失責任の限定を意図していただけに、画期的な転換といえる。
危惧感説は、後に板倉宏らの一部の学者や検察官の支持を得て、森永ヒ素ミルク中毒事件で採用されるに至ったが、北大電気メス事件(札幌高判昭 51.3.18 高刑集 29.1.78) では明確に排斥されており、学会でも一般的な支持は得られなかった。
日本ではまだ、危惧感説に基づく国民の合意形成が十分になされている状況とは言えない。(テロ等準備罪も始まったばかり)
従って、滝本弁護士が、「テロと闘う」という大義名分の下、かつてない法的判断を要求するつもりならば、日本国民に対する説明の義務が伴う。
滝本弁護士が単なる思い付きや感情論で言っているだけなら、後世に悪影響を残す有害な前例を作ってしまうかもしれない。
ハッタリではなく、滝本弁護士が藤木英雄先生の業績を踏襲し、発展させる意気込みがあるなら、一概に有害とは言えない。
従って、公開の場で議論を尽くされなければならない。
どのような方法で公開討論を進めていくべきか?日本国民全員で検討する必要がある。
(滝本弁護士には「オウム問題を風化させたくない」という思いがあり、さらに法治国家を否定しているわけじゃなければ、この結論に至るだろう。)
横書きで句読点は,(コンマ)と.(ピリオド)でもいい?|日本語・日本語教師|アルク
句読点は表記法上は「くぎり符号」と呼ばれるものの一種です。政府がまとめたくぎり符号の用い方としては、昭和21年文部省国語調査室によって作成された「くぎり符号の使ひ方(案)」などが代表的なものといえます。
ここでは、くぎり符号のうち句読点に相当するものとしては「。」および「、」が扱われています。しかし、横書きの表記に関しては言及がみられません。横書きの表記法については昭和25年文部省編による「国語の書き表し方」の中に言及があります。それによるとくぎり符号の使い方は次のように書かれています。
くぎり符号の使い方は、縦書きの場合と同じである。ただし、横書きの場合は「、」を用いず、「,」を用いる
したがって横書きの場合の「,」の使用は強制ではないものの、一応正式に認められているということになります。しかし、「、」以外のくぎり符号については「縦書きの場合と同じ」ということは「。」については横書きの場合も同じものを用いるという解釈になります。つまり横書きにおける「.」の使用は正式な文書の形では言及されていないということです。
ただし、これも強制ではなくご質問にもあるように、最近では「.」を用いる本や雑誌も少なからず出版されています。目安としては縦書きが「、」および「。」で横書きが「,」および「。」ということになりますが、実際の使用は慣習に任されているのが実状といえるでしょう。
http://www.yomu-kokkai.com/entry/singi-kyohi-nakusu
これね。
憲法が先にあって、「会期中」という言葉が出てくるから、会期はいるだろう、帝国議会が3ヶ月だったから、まぁ5ヶ月で良いんじゃないか、という程度のことだったみたい。
http://teikokugikai-i.ndl.go.jp/
通常會の會期は百五十日間、すなわち五箇月となつております。現在の三箇月に比べますと、二箇月の延長となりまして、審議の充實を期することができると考えております。この點については政府側の臨時法制調査會では、四箇月とするという説が出ておりましたが、法規委員會の方では五箇月が適當であるということになりました。なお常會の會期というものを定める必要があるかどうかという點については相當議論がありました。すなわち新しい憲法の下では會期はこれを定めないで、アメリカと同じように一年中國會が開かれておるという建前をとるべきだという意見も相當強かつたのでありますけれども、憲法の中に「會期中」という文字が使用してある點竝びに憲法で臨時會を認めた點等を考え合わせ、かつ議員の便宜という點からいたしましても、會期をはつきり認める方が便宜ではなかろうかということに一定をいたしまして、この制度をとることになりました。
16歳女がトイレで産み落とした子を殺して捨てた件
が話題になっているけど、昔はどうだったのかなと調べてみると…
昭和8年(1933).12.26〔大学2年生(満18~19歳)が赤ちゃん殺害遺棄〕
大分県別府市の旅館で、関西大学2年生(20)と恋人の女(25)が赤ちゃんを産んですぐに絞殺、温泉に投げ捨てて12.26に逮捕された。
昭和10年(1935).8.19〔19歳(満17~18歳)女子が赤ちゃんを産み殺す〕
東京市神田区で、印刷業者宅の女中(19)が赤ちゃんを産んですぐに窒息死させ、翌日、橋から神田川に捨て、8.24に死体が発見され逮捕された
昭和21年(1946).11.20〔女子(満15~16歳)が兄と関係して赤ちゃん生み殺す〕
北海道勇払郡で、女子(17)が9月に赤ちゃんを産んで殺害した。実兄(25)との子供だったため、処置に困ったもの。11.20に逮捕されて、11.29に自白。
ちきりんの
http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20161017
を見て、じゃあ政令指定都市はどうなっているんだと単純に疑問に思い調べてみた。
| 政令市名 | 市長名 | 生年 | 回数 | 経歴 |
|---|---|---|---|---|
| 網掛け= | 女性市長 | 70歳以上 | 5期以上 | 中央官庁出身 |
| 札幌市 | 秋元克広 | 昭和31年 | 1期 | 市職員 |
| 仙台市 | 奥山恵美子 | 昭和26年 | 2期 | 市職員 |
| さいたま市 | 清水勇人 | 昭和37年 | 2期 | 県議会議員 |
| 千葉市 | 熊谷俊人 | 昭和53年 | 2期 | NTT、市議会議員 |
| 川崎市 | 福田紀彦 | 昭和47年 | 1期 | 県議会議員 |
| 横浜市 | 林文子 | 昭和21年 | 2期 | 日産、ダイエー |
| 相模原市 | 加山俊夫 | 昭和20年 | 3期 | 市職員 |
| 新潟市 | 篠田昭 | 昭和23年 | 4期 | 新聞記者 |
| 静岡市 | 田辺信宏 | 昭和36年 | 2期 | 市議会議員、県議会議員 |
| 浜松市 | 鈴木康友 | 昭和32年 | 3期 | 衆議院議員 |
| 名古屋市 | 河村たかし | 昭和23年 | 2期 | 衆議院議員 |
| 京都市 | 門川大作 | 昭和25年 | 3期 | 市職員 |
| 大阪市 | 吉村洋文 | 昭和50年 | 1期 | 弁護士、市議会議員 |
| 堺市 | 竹山修身 | 昭和25年 | 2期 | 府庁職員 |
| 神戸市 | 久元喜造 | 昭和29年 | 1期 | 自治(総務)官僚 |
| 岡山市 | 大森雅夫 | 昭和29年 | 1期 | 建設(国土交通)官僚 |
| 広島市 | 松井一實 | 昭和28年 | 2期 | 労働(厚生労働)官僚 |
| 北九州市 | 北橋健治 | 昭和28年 | 3期 | 衆議院議員 |
| 福岡市 | 髙島宗一郎 | 昭和49年 | 2期 | キャスター |
| 熊本市 | 大西一史 | 昭和42年 | 1期 | 商社、県議会議員 |
こうして見ると、中央官庁出身者は20人中3人で多くはない。全員中国地方近辺というのは偶然か。
多いのは地方議員(6人)と自治体職員(5人)で合計すると過半数だ。
やはり地方の行政組織や選挙(政治)に密着しているのは強みなのだろう。
民間企業経験者は5人(うち2人はその後、地方議員経験あり)、女性は2人と、
ちきりんの言う「改革派」市長ばかりではないだろうが、都道府県知事と比較してみると概ね、
・若い
・期数が短い
・中央官僚は少ないが、政治・行政出身が多いことは変わらない。
というのは確かだ。
この結果として、非都市部と比べて、住民が利益を受けているのか、不利益を受けているのか、
あるいは、中央と対峙しているのか、そうではないのか、といったことは、よく考えてみると、
とても面白いのではないだろうか。それに、各都市の構造も一様ではない(大阪市と浜松市では中枢性が違いすぎるように)。
また、都市の中の都市である、東京23区の首長の経歴がどうなっているのかも、調べてみると興味深いだろう。
ぜひ誰か調べてみてほしい。
ニュー山王ホテル
ニュー山王ホテル
ニュー山王ホテル(ニューさんのうホテル、New Sanno、ニューサンノー、New Sanno U.S.Force Center、ニューサンノー米軍センター])は、
東京都港区に所在する、在日米軍の施設である(管理者はアメリカ海軍)。
この施設はホテルの形態をしており、アメリカ軍関係者が東京を訪問した際の宿泊施設、及び在日米軍のための保養所、社交場として機能している。さらに、駐日アメリカ大使館関係者にも開放されている。
日本人は勿論、アメリカ人であっても軍と無関係の民間人は、原則として立ち入ることは不可能である。施設内で使用される言語は英語、通貨は米ドルとなる。当施設では他の在日米軍基地と同様、日本人の雇用例もみられる。利用や宿泊の条件は、アメリカ海軍の規定に拠って厳しく規定されているが、とりわけ週末には満室となり、宿泊予約が取れないことが多いという。
日米地位協定などについての協議を行う、「日米地位協定各条に関する日米合同委員会」の会合が開催されることでも知られる。
第二次世界大戦終結後の1946年(昭和21年)、アメリカ軍は旧日本軍の山王ホテル士官宿舎(東京・赤坂)を接収、以後占有した。
1983年(昭和58年)10月、同地は旧山王ホテルのオーナーであった安全自動車などの所有者に返還された。その代替として日本政府からアメリカ軍に提供されたのが、現在のニュー山王ホテルの土地・建物である。
現所在地は、安立電気本社跡地であり、部屋数(149室)、床面積(15万平方フィート)から、駐車場台数(74台)に至るまでのすべてが、移転前の旧山王ホテルのそれらと同一となっている。1981年6月に建築着工され、1983年6月に完成、同7月の閣議決定と日米間の政府協定の締結を経て、同年7月16日にアメリカ軍に提供された。
1983年11月に、日本の国の関係機関、ニュー山王ホテルの代表、地元町内会等から構成される「ニューサンノー米軍センター地域連絡協議会」が設置され、定期的な協議が行われている。
2004年から2006年にかけて、内外装に対する大規模な改修工事が行われた。作業は大成建設が施工し、特別な大理石を敷き詰めたロビーを始めとする重厚で華やかな仕様の工事には、1,000万ドル以上が費やされたという。
客室数:149(全室禁煙)
建物:地上7階、地下1階
管理部隊:極東海軍施設技術部隊(アメリカ海軍横須賀基地司令部)
売店
蜂蜜はハチが、生命を維持し、成長する上で必要なものが含まれています。
哺乳動物には離乳期があり、大人になってもおっぱいを嗜んでいるのは人間だけ。
おっぱいに対する栄養補給源としての純粋な気持ちは成長と共に減少していきます。
生地、トマトソース、チーズなどから効率よく摂取できるようになったそうです。
新婚期を過ぎても(カロリー消費の激しい)愛の言葉を減少させないようになってきたそうです。
宝塚市の温泉街にあったイタリア料理店“アベーラ”でピザが供され
そもそも愛の言葉をささやくと心臓がドキドキいったり、赤面したりします。
実はすんなり言えない方が正常なんです。
またキャベツを一玉食べるとお腹一杯になってしまうので他の物が食べられなくなってしまいます。
アセロラには10−20個分、CCレモンにはレモン50個分、テレビガイドにはXX(表紙の人数分)個分ビタミンCが含まれています。
しかも
不特定多数の人混みの中で生活しないで、大家族で生活していたので
ちなみに日本一レモンを生産している広島県の食器洗浄機普及率は日本一だそうです。
調理の為、熱を加えると
サルモネラ菌、カンピロバクター、肝炎ウイルスなど菌やウイルスが
生で食べるからいいんです。
生臭いのが、加熱によりタンパク質が焦げた匂いにより風味も増してしまいます。
ぜんそく、
アトピー性皮膚炎、
じんましん、
花粉症、
白血病、
心臓病、
糖尿病、
多動性障害、
腸壁出血、
扁桃腺炎、
偏頭痛、
便秘、
貧血、
リウマチ、
静脈瘤、
裂孔ヘルニア、
続発性中耳炎、
アトピーやアレルギーの人にはまず「はてな」をやめるように指導するそうです。
それだけで症状がよくなるケースが多いようです。
ここまで7つ不自然な事を書きましたが、
それははてなーの扱われ方です。
こんな扱われ方したらいいはずないでしょ。
昭和20年8月6日。祖父は戦争に行っていてもおかしくない年齢だったが、子どもの頃の怪我の後遺症で戦争には行けない身体だったため広島市内の工場で働いていた。
その日その時間に祖父がいたのは広島市の外れの方だったので原爆で目に見える被害はなかったそうだ。
原爆投下から数日後に爆心地付近に行き何日か人探しをしたと聞いている。
戦争が終わると祖父は生まれ故郷の青森に戻り、昭和47年に亡くなった。
祖父は私が生まれる前に亡くなってしまったため祖母や父から聞いた話になるが、病気がちでいろいろと苦労したらしい。
今日は原爆が何なのかを少し理解できるようになった娘と一緒に平和記念式典の中継を見ていた。
「入っていないよ」
「ひいおじいちゃんは入れてもらえないの?」
私は原爆死没者として慰霊碑に奉納されているのは原爆により直接亡くなった方、あるいは被爆者健康手帳を持っていた方だけで
被爆者健康手帳を持っていなかった祖父は、原爆死没者として認定されないと思っていた。
しかし、娘の言葉を受けて調べてみたところ、原爆死没者名簿に登載されるには被爆者健康手帳の有無は問わないそうだ。
ではどのような人が原爆死没者名簿に登載されるのか。広島市のホームページによると
被爆者健康手帳交付の資格があれば原爆死没者名簿に登載してもらえるということだろう。
1 直接被爆者
(1) 広島市内
ア 戸坂村のうち、狐爪木
2 入市者
原子爆弾が投下されたあと、昭和20年8月20日までに爆心地からおおむね2キロメートルの区域内に立ち入った方
3 身体に原子爆弾の放射能の影響を受けるような事情の下にあった者
(1) 15人以上(病室などの閉鎖された空間の場合は5人以上)の被爆して負傷した者が収容されている収容施設等におおむね2日間以上とどまった人
(2)被爆して負傷した者5人以上(1日当たり)と接触した人
(3) (1)、(2)には該当しないが、それらに相当する被爆事実が認められる人
4 胎児
私は原爆症と認定されたら手帳が交付されると思いこんでいたが、被爆者健康手帳を持っている人が発病したときに、その疾病が原爆に起因するのかどうかが判断されるということなのだろう。
原爆投下時に広島市内にいた祖父は被爆者健康手帳の交付の資格があったし、原爆死没者名簿に登載の資格もあると思われる。
今年は5507人の方の名前が新たに慰霊碑に納められ、原爆死没者は29万2325人となったという。
40年前に亡くなっている祖父を今更新規に名簿に加えてもらえるかはわからないが、そのうち広島市に問い合わせてみようと思う(今の時期は広島市の担当の方も忙しいだろうし)
日本では、バレンタイン・デーは「女性が男性にチョコレートを配る日」として、完全に定着している。これが、初期キリスト教の聖人、聖バレンティノにちなんだ日で、欧米では恋人に花などを贈る日とされていることなどもごぞんじの方は多いだろう。では、なぜ日本ではチョコレートを贈る日になったかはごぞんじだろうか。一般には、神戸の菓子屋の「バレンタイン・デーにはチョコレートを」のキャンペーンが全国に広まったものとされている。しかし、実はこの前の段階がある。
この行事はそもそも昭和21年の今日、進駐軍のバレンタイン少佐が子供たちにチョコレートを配ったという故事に由来しているのだ。
意外と知られてないが、これは事実なのだ。
昭和20年冬、終戦直後の神戸にやってきた進駐軍士官の中に、彼、ヴァレンタイン・D・クラーク少佐はいた。クラーク少佐は1920年2月14日、ボストンに生まれた。誕生日の聖人、聖ヴァレンティノにちなみヴァレンタインと名づけられたクラークは、その名の通り慈愛に満ちあふれた青年に成長、陸軍に入隊した後もその性質は変わらず、太平洋戦線で戦ったにもかかわらず、日本人に対して常に敬意と愛情を持って接した。そんな彼の性格がもっとも表れているのが、このバレンタイン・デーのエピソードである。
敗戦後の混乱の中で飢えに苦しむ人々、特に子供たちの悲惨さを見かねた彼は、日本にいた3年間毎年、自分の誕生日である2月14日に、子供たちへのプレゼントとして5000枚のチョコレートを配ってまわった。かっての敵である自分たちに対しても愛をもって接する彼の姿にうたれた人々は、クラーク少佐を記念して、2月14日にチョコレートを贈り合うようになったのである。
その後、この習慣がチョコレート業界の戦略から全国的に広まり、いつしか女性が男性に贈るものとして固定化し、やがて義理チョコなどの儀式が生まれてくるに及んで、ヴァレンタインの精神も完全に形骸化してしまったわけである。クラーク少佐も草葉の陰でさぞや嘆いているだろう。どうだろう、みなさんも一度クラーク少佐の真の愛情あふれる心に思いをはせ、習慣化した義理チョコなどではなく、世界の恵まれない子供たちにチョコを贈ってみては。
参考・「現代用語の基礎知識」(自由国民社)「究極超人あーる」(小学館)http://www2s.biglobe.ne.jp/~ttsyhysh/column.html