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はてなキーワード:明治35年とは

2025-05-26

「押下」を「おうか」と読む例の初出

「押下」は「おうか」と読み、IT業界などではボタンを押す意味などでよく使われるという。

この言葉の初出はいつごろなのだろうか、と調査を開始してまず突き当たるのが「読み」の問題である

すなわち「押下」にはいくつかの読みがある。

送り仮名が「押下げる」「押下ろす」などであれば「おしさげる」「おしおろす」とわかりやすい。

しかし「押下して」ならば、「おしおろして」「おしくだして」「おうかして」のいずれの可能性もあるのだ。

たとえば明治6年の『医道日用綱目』の「押下す」、『童蒙窮理問答』の「押下らしむ」、『窮理日新 発明記事』の「押下し」など。

いずれも「押下」に「おしくだ」とフリガナが振ってある。

同じく明治6年の『訓蒙窮理図解』の「押下れ」は「おしさぐれ」か。

明治7年の『広益英倭字典』では「push down」を「押伏ル。押倒ス。押下(さげ)ル」と訳している。

明治10年の『理学教程講本』の例はどうだろうか。

第三十九図ノ如クスルトキハ水、酒精、越的児ノ三液斉シク管頭ノ空処ニ上テ水銀柱ヲ押下スヘシ

最後の「押下すべし」にフリガナはない。

「おしおろすべし」なのか「おしくだすべし」なのか「おうかすべし」なのか分からない。

それでは「押下する」はどうだろう。

明治11年物理小学

臂力ヲ以押下スル能ハサルニ至ル

「おしさげする」「おしおろする」「おしくだする」という読みはないだろう。

これはさすがに「おうかする」じゃないのか。

でも確証はない。

まり、我々はずばり「おうか」と書かれたフリガナを探さなければならないのである

というわけで明治35年日本赤十字社篤志看護婦人会教程 増訂である

看護者ハ左ノ示指(ひとさしゆび)ニテ軽(かろ)ク病眼(びょうがん)ノ下眼瞼(かがんけん)ヲ押下(おうか)シテ眼(め)ヲ開(ひら)カシメ

これはもう間違いなく「押下」と書いて「おうか」と読んでいるだろう。

さらに探してみたところ、増訂前の明治28年日本赤十字社篤志看護婦人会教程』第9版を、日本赤十字社デジタルアーカイブズで読むことができた(初版明治22年か?)。

https://adeac.jp/jrcsarchives/iiif/ct10020100402700/jrc004_027/uv#?c=0&m=0&s=0&cv=52&r=0&xywh=100%2C273%2C3652%2C1930

こちらでは「押下」に「おうか」「おしさげる」と二つのフリガナが振られている。

「仰臥」に「ぎょうが」と「あおむけにねかす」と振られたりしているのを見るに単なる訓読みではなさそうだ。

基本的には音読みだが、それだと初学者にはわかりづらいので補足説明を加えている、といったところか。

ではついでに、「ボタンを押す」のような意味で「押下する」が使われた例に限ったとすれば、初出はいつごろになるだろうか。

明治22年理学協会雑誌』の「フワンリッセルベルギー電信電話双信法」という記事に以下のような用例がある。

磁石及ビ蓄電器ハ流電ノ溜メトナリ鍵ヲ押下スルトキハ流電若干該器ニ溜リ鍵ヲ放ストキハ其溜リタル流電徐々ニ流出ルナ

「鍵」というのはいわゆるカギではなく、辞書的に言えば「ピアノオルガンタイプライターなどの、指先で押したりたたいたりする部分。キー。」のことだろう。

(なおフワンリッセルベルギーとはFrançoisvan Rysselbergheのこと)

フリガナ付きであれば、大正14年現代日用電気学講話』、

即(すなは)ち押(お)し釦(ぼたん)を押下(おうか)すると電池(でんち)から電流(でんりう)が発生(はっせい)してベルを鳴(な)らすのである

といった例がある。

というわけで結論として。

「押下」を「おうか」と読む例の初出は、現在のところ明治28年明治22年?)の『日本赤十字社篤志看護婦人会教程』ということになる。

厳密性を求めなければ、明治11年物理小学』の「押下する」の時点で「おうか」の例としてもよい。

また「押下する」は、明治から理科実験書や医学教科書で使われており、「電信電話用語として広まったのではないか」とは判断しづらい。

Permalink |記事への反応(9) | 13:07

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2025-05-13

パン食い競走の起源

現在、「パン食い競走」の起源については、一般にこう説明される。

起源については諸説あり、1896年明治29年)の札幌農学校1874年明治7年)の海軍兵学寮などが挙げられている。

この「1874年海軍兵学起源説」と「1896年札幌農学校起源説」について検証する。

1874年海軍兵学寮では、イギリス人ダグラス提督提案により「競闘遊戯」という日本初の「運動会」が開催された。

そこで実施された競技は詳しく記録されているのだが、そのなかにパン食い競走に類するものは見当たらない。

二年後の1876年にも同様の運動会が開催されたとするが、その内容を伝える『Japan Weekly Mail』の記事確認しても、やはりパン食い競走はない。

1874年海軍兵学起源説」は誤りだと見ていいだろう。

一方の札幌農学校であるが、こちらは1878年から毎年「遊戯会」という名の運動会を行っていた。

これは「大志を抱け」で有名なクラーク博士や、その後継のアメリカ人教師たちの指導のもと、生徒たちにより実施されたものであるという。

『恵迪寮史』によると、1896年の第十五回遊戯会にて「食菓競走」という競技が行われた。

これが「1896年札幌農学校起源説」の根拠になっているのだろう。

また1898年刊行の『札幌農学校』という書籍でも、現今の遊戯会では「菓子喰競走」が行われている、とある

この「食菓競走」あるいは「菓子喰競走」はパン食い競走と同様の競技だったのだろうか。

1895年札幌農学校卒業した松村松年は、『人間学としての体育』という本において、「昔時著者の学生時代に行はれたる競技」として「菓子喰競走―之れは両手を後方に廻はし、口にて途中に吊れる菓子を喰へ行くの競走」と説明している。

1902年明治35年)の新潟県高田中学校修養会の機関誌では、秋季大運動会の「食菓競走」について「飢えたる狼の如く押開いて突貫して来る一隊。目の前にぶらつくを取り得ぬもどかしさ」と説明している。

1910年明治43年)の『運動世界』の記事では、早稲田大学春季陸上運動会について「滑稽なのは菓子喰競走で宙にぶら下げた菓子を手を結びて馳け付け下からブリとやる、それを側に居る係りがワザと動かす、喰い付く動すと云う滑稽もの」と書いている。

これらを勘案すると札幌農学校の「食菓競走」「菓子喰競走」が現在パン食い競走と同じ形態だった可能性は高く、とりあえずは「1896年札幌農学校起源説」を採用していいのではないかと思う。

というか松村記述を素直に捉えるなら「菓子喰競走」は1895年以前にも行われていたかもしれない。

ただし松村はいくつかの学校転々としているので札幌農学校のことである確証はなく、また研究者として農学校に残っているのでそれ以降の記憶と混じっている可能性もある。

当時、こうした競技指導していたのは、ダグラス提督クラーク博士といったお雇い外国人教師であった。

たとえばクラーク博士の母校であるマサチューセッツ農科大学では「サイダーミート(Cider Meet)」というイベントがあったらしい。

サイダーミート」と呼ばれる最初の集まりブレイクフィールドで開催されたのは1878年10月20日で、’80年卒のクラスと’81年卒のクラスの対決は引き分けに終わった。両クラス夕方フィールドに集まり平和的にサイダーを飲んだ。興味深いのは、800人以上がこの集まりに参加し、その中にはスミス大学女子学生も多く含まれいたことだ。後の世代には奇妙に思えるかもしれない競技としては、ジャガイモ競走、3マイル競歩フットボール蹴り、三本脚競走、目隠し手押し車レース野球ボール投げ、太った男の競走、背負い競走、そして何よりも人気だったのが、油を塗った豚を追いかけるレースだった。

https://www.amherst.edu/library/archives/sources-on-college-history-/virtual-history-bookshelf/etext-tower

海軍兵学寮の競闘遊戯の種目だった「二人三脚」「背負い競走」「豚追い競走」などが記されているのは興味深い。

また「ジャガイモ競走(PotatoRace)」は札幌農学校遊戯会に「薯拾」として採用されていたようだ。

時系列的に、アマースト大学の「サイダーミート」そのものが、「競闘遊戯」「遊戯会」に直接の影響を与えたわけではないだろう。

しかし、おそらく同種の競技サイダーミート以前から行われており、それがお雇い外国人教師を通じて日本にも導入されたのではないだろうか。

その線で考えるなら、菓子喰競走も当時のアメリカ大学などで行われていたのではないかと思う。

しか菓子喰競走の実施がやや遅かったのは、日本学生たちが後から考えついた競技からだ、という可能性もある。

このあたりは今後の研究課題とする。

Permalink |記事への反応(1) | 00:00

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2024-12-13

中国人の「〜〜アル」の話

この件。

中国人キャラクターの「語尾アル」の元祖は誰なのか情報募集、最古は『のらくろ大事件』の中国人奇術師ほか部門ごとに発表へ - Togetter [トゥギャッター]

大まかな流れとしては、

1859年横浜開港1868年神戸開港

外国人居留地日本語英語中国語などが混じりあってピジン特に横浜ピジン)が生まれ

1868年明治元年

明治日本横浜ピジンが「外国人」の役割語として広まる

1904年日露戦争

1906年満鉄設立

満洲日本人が流入して日中ピジンが生まれ

1932年満洲建国

日中ピジンが整理されて「協和語」として用いられる

といった感じである

横浜ピジン日中ピジンの直接的な影響関係はわからないが、ピジン自然発生的なものなので、仮にまったく関係がなかったとしても、収斂進化で似たような形になりそうではある。

まずは最初ツイートへの一つの回答として、明治5年初演の歌舞伎『月宴升毬栗(散切りお富)』に登場する詹五九と亜松金という中国人を挙げておく。

ちなみに詹五九は実在人物で、身長が2m40cmくらいあり、矮人と一緒にヨーロッパへ渡って、見世物として話題になったという。

松金「あなた目ない、馬鹿馬鹿馬鹿

五九「此跡よろしい家あります、大さん美しい娘さんあります、皆々それ見るあります。」

松金「あなた踊りをどるよろしい。」

松金「私利口、あなた馬鹿馬鹿。」

五九「あなた踊るよろしい、私大さん見たい。」

これが横浜ピジン的な口調であるが、「見るあります」と敬語になっているだけで「〜〜アル」と変わりなく、「踊るよろしい」などの言い回しも「中国人が使うカタコトの日本語」のイメージそのままではないだろうか。

なお「大さん(たいさん)」というのは「たくさん」という意味で、

[ 2 ] 〘副詞 〙 ( 「たいそう」と「たくさん」をまじえた語か ) たいへん。

[初出の実例]「あなた踊るよろしい、私大(タイ)さん見たい」(出典:歌舞伎・月宴升毬栗(散切お富)(1872)大切)

たいさんとは? 意味や使い方 - コトバンク

辞書にもこのように書かれているが、これも横浜ピジン一種である

こうした横浜ピジンが、明治期の小説では(中国人に限らず)外国人役割語として広まっていたようだ。

たとえば明治22年、奥村柾兮『花日和』。

日本娘、たいさん多淫あります日本、卿、此娘と肉交あります、ペケ……娘……小生、サランパン、するよろしい、卿、娘と、マロマロよろしい……ペケー……

これはイギリス人医師グラマン氏が、日本人の妾の浮気を疑って言った台詞である

「サランパン」は横浜ピジンで「壊れる」、ここでは「離縁」の意味

マロマロ」も横浜ピジンで「通りすぎる」とか「出ていく」というような意味らしい。

「ペケ」は今でも「バツ」の意味で使われているが、実はこれも語源横浜ピジンである

まり、この台詞は「日本の女はとても多淫だ、そこの日本人の男はこの女と不倫しているんだろう、だめだ、女よ、おまえとは離縁だ、二人で出ていけばいい」といった感じか。

明治35年、江見水蔭『大幻燈』。

「私、当麻同類ある、津の公園、彼処で別れたです。何かする目的当麻。津、市、留りました。私、一人、此方へ来たです。貴女の話、当麻から聴きました。貴女の人相、委しく聴いて、記憶して居りました。私カーテス、実名あります。私と一処に稼ぐよろしい。日本ドロボウ未だ未だ幼稚あります。私、計画大さん大きいあります。これから味方になりませんか」

これもイギリスからやってきた悪人・カーテスという人物台詞

最初の「同類ある」は「〜〜アル」の形式かと思うが、それ以降が敬語なので判断しづらい。

著者の江見水蔭は当時の売れっ子作家だが、この役割語としての横浜ピジンを多用していたようだ。

明治37年、江見水蔭『錨』では、

水夫長らしい支那人は、茫然として甲板の隅に立つ美代雄に向ひ、達者な日本語で。『水夫見習、のお前あるか』『然うです』と美代雄は答へた。『翌日から勉強するよろしい。朝起きると、便所、前、中、後、三箇所ある、便所掃除するよろしい』『えッ、便所掃除?』美代雄は憤然とした。『左様、掃除するよろしい。それ、済む、皆々、靴、磨くある』『えッ、靴を磨くんですか』『それから米飯食べろ食べろ皆々給使する、それある後食べろ食べろ器、洗ふ事あるよろしい』

と、これは完全に「〜〜アル」型の中国人とみなせるだろう。

いわゆる「英国紳士」的なキャラクターだと敬語で「〜〜あります」になるので、「〜〜アル」は水夫のような下っ端でないと出てこない、という事情はありそうだ。

江見水蔭小説ではさら明治43年『探検女王』でも、

『這個、幾多少』と日本人は拙い満州語で問掛けた。

『ソレ、十六円九十銭、安いあるよ』と是も拙い日本語で答へた。

『那個、很貴』

『安いあるよ。ホント安いあるよ』

と「〜〜アル」型の中国人が登場している。

明治43年は1910年なので満鉄設立以降であり、この場面も満洲にやってきた日本人が露天商から謎の箱を買うというところである

少なくとも江見水蔭のなかでは「日露戦争以前の横浜ピジン的な外国人描写」と「日露戦争以降の日中ピジン的な中国人描写」は繋がっていたのではないか

「〜〜アル」型の中国人描写は、明治41年の遠藤柳雨『志士と佳人』などにもあった。

困った人間あるね、日本婦人、何うして左様、銭儲け嫌あるかね、船長夫人なる、お金ザクザク貰へるあるよ、お前さん、お金、欲しくないあるか

これも『錨』と同じく中国人の水夫の台詞である

というわけで、「〜〜あります」と「〜〜アル」を明確に区別しないのであれば明治5年の『月宴升毬栗』までは遡れるし、「〜〜アル」に限っても明治年間の作品確認できるので、『半七捕物帳』や宮沢賢治『山男の四月』よりも昔に遡れるよ、という話でした。

Permalink |記事への反応(1) | 13:30

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2024-05-21

読み応えのあるWikipedia7選

三毛別羆事件は内容が削られてたので選外。

八甲田雪中行軍遭難事件

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E7%94%B2%E7%94%B0%E9%9B%AA%E4%B8%AD%E8%A1%8C%E8%BB%8D%E9%81%AD%E9%9B%A3%E4%BA%8B%E4%BB%B6

1902年明治35年1月日本陸軍第8師団歩兵第5連隊青森市から八甲田山田代新湯に向かう雪中行軍の途中で遭難した事件。訓練への参加者210名中199名が死亡(うち6名は救出後死亡)するという日本冬季軍事訓練において最も多くの死傷者を出した事故であるとともに、近代登山史における世界最大の山岳遭難事故である


ルイ17世

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%82%A417%E4%B8%96

フランス国王ルイ16世王妃マリー・アントワネット次男8月10日事件以後、国王一家と共にタンプル塔に幽閉されていたが、父ルイ16世処刑により、王党派名目上のフランス国王(在位:1793年1月21日 – 1795年6月8日)に即位したものと看做した。名目上のナバラ国王でもあった(ナバラ国王としてはルイス6世)。しか解放されることなく2年後に病死した。


地方病 (日本住血吸虫症)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E6%96%B9%E7%97%85_(%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BD%8F%E8%A1%80%E5%90%B8%E8%99%AB%E7%97%87)

山梨県における呼称であり、長い間その原因が明らかにならず、住民らに多大な被害を与えた感染症である。ここではその克服・撲滅に至る歴史について説明する。


4千年紀以降

https://ja.wikipedia.org/wiki/4%E5%8D%83%E5%B9%B4%E7%B4%80%E4%BB%A5%E9%99%8D

3001年以降の予測


小林ハル

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%9E%97%E3%83%8F%E3%83%AB

日本瞽女。生後3か月で失明し、5歳の時に瞽女修行を開始。数多くの苦難を経て晩年に「最後長岡瞽女」、「最後瞽女」として脚光を浴びた


カルロスカイザー

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%AD%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%82%A4%E3%82%B6%E3%83%BC

ブラジルポルト・アレグレ出身の元サッカー選手

経歴詐称や仮病などの手段を駆使して「故障療養中の優秀なサッカー選手」のふりをすることで、実際には1試合しか出場せず、長年にわたってプロサッカー選手としての報酬を得ていたことで知られる。


珍しい死の一覧

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8F%8D%E3%81%97%E3%81%84%E6%AD%BB%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7

古代から現代までに記録された死の状況のうち、信頼できる情報源が「通常と異なる」ものとして言及した死の一覧である



(はしがき…Safari日本語のURLコピペしたら自動記号に変換してくれるようになってたので記念日記です。前から?)

他にあったら教えてね!

Permalink |記事への反応(2) | 20:20

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2021-09-14

見て閘門

石井閘門 -宮城県石巻市北上川にある閘門1880年(明治13年)に完成した、日本初の西洋式の本格的な閘門現在日本国内で稼動する閘門の中では最古のものであり、国の重要文化財指定されている。

脇谷閘門 -宮城県石巻市1931年12月竣工北上川本川旧北上川間の船の通行のために、脇谷洗堰に併設された。

見沼通船堀 -埼玉県さいたま市。見沼代用水と芝川とを結ぶ閘門運河である昭和初期以降から使用されておらず、現在さいたま市緑区にその復元された遺構が残る。1982年(昭和57年)、国の史跡指定された。

荒川ロックゲート -東京都江戸川区小松川東京都流れる荒川旧中川を結ぶ。大震災時などの災害時に水上交通有効であることから改めて水路が見直されることになり、2005年10月に供用開始された比較的新しい閘門

扇橋閘門 -東京都江東区猿江一丁目。1976年(昭和51年)完成。小名木川に設置されている。

中島閘門 -富山県富山市1934年(昭和9年)8月完成。富山駅北側付近から富山湾の河口まで南北に続く、富岩(ふがん)運河中流にあるパナマ運河閘門現在運用されており、観光船が運行し往来できる(冬季運休)。国の重要文化財指定されている。

牛島閘門 -富山県富山市中島閘門と同時着工し1934年(昭和9年)8月に同時完成。富岩運河最上流部(南端)の富岩運河環水公園(旧 船溜まり)内にあり、並行するいたち川とを結ぶ現在運用可能パナマ運河閘門。国の登録有形文化財登録されている。

松重閘門 -愛知県名古屋市中川区堀川中川運河とを結んでいた。1968年に閉鎖され、現在閘門としては使用されていない。名古屋市有形文化財1993年(平成5年)には名古屋市都市景観重要建築物等に指定されている。

船頭平閘門 -愛知県愛西市立田町福原木曽川長良川の間をつなぐ。1899年(明治32年)に着工、1902年(明治35年)に完成した。1994年(平成6年)にはそれまでの手動から電動への近代化改修工事が行われた。2000年(平成12年)5月には明治期に建設されて現在でも使用されている貴重な閘門であるということで重要文化財指定された。冬季を除き、木曽川上流の葛木港より観光船が運航。一般には無料での往来解放がされている。

三栖閘門 -京都府京都市伏見区宇治川と濠川を結ぶ伏見港に1929年(昭和4年)に建設された。いまは遺構が三栖閘門資料館として開放されている。

毛馬閘門 -大阪府大阪市北区淀川旧淀川(大川)を隔てる閘門明治40年(1907年)8月に完成した旧第一閘門1976年(昭和51年)まで使用され、現在重要文化財指定されている。

尼崎閘門(尼ロック) -兵庫県尼崎西海岸町地先。日本初のパナマ運河式。物流機能としての運河を今なお支える船舶重要玄関口となっている。

下関漁港閘門 -山口県下関市本土彦島を隔てる小門海峡(関門海峡小瀬戸)にあるパナマ運河水門1936年の設置以来、現在も稼動中。

三池港閘門 -福岡県大牟田市1908年(明治41年) 完成。2008年機械遺産指定2015年世界文化遺産認定された明治日本産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業構成資産の1つ。

Permalink |記事への反応(0) | 21:08

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2021-07-18

大正時代に「誕生日」は存在したのか

7月14日竈門炭治郎の誕生日おめでたいという話を聞いて

大正時代にすでに誕生日という概念日本にあったのか?」

「いやあったんだろうけどいつから始まったんだろうか?」

そんなふうに思ったので調べてみたところやっぱり明治時代からだった

具体的にはこんな感じらしい

明治時代に入ってから満年齢が導入され、明治35年(1902年)12月22日に「年齢計算ニ関スル法律」(明治35年12月2日法律第50号)が施行され、ひとりひとりの誕生日が毎年やってくることを浸透させようという動きがありました。

https://birthdays.life/magazine/2015/06/30/nihonnotanjoubi/

ところでいまは明治何年だ?

Permalink |記事への反応(1) | 15:23

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2019-10-31

anond:20191031184240

八甲田雪中行軍遭難事件(はっこうだせっちゅうこうぐんそうなんじけん)は、1902年明治35年1月日本陸軍第8師団歩兵第5連隊青森市から八甲田山田代新湯に向かう雪中行軍の途中で遭難した事件。訓練への参加者210名中199名が死亡(うち6名は救出後死亡)するという日本冬季軍事訓練において最も多くの死傷者を出した事故であるとともに、近代登山史における世界最大級の山岳遭難事故である

Permalink |記事への反応(0) | 18:43

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2018-04-21

anond:20180421095134

どうでも良いと言えばいいが、ブコメ昭和後期から平成前期の風俗として認識していてそれを疑いもしない人がほとんどというのがちょっと気に食わない。

この表記はかなり昔から続いてきたもののはずだ。青空文庫からサンプルを持ってきてみる。

幸田露伴 (慶応3年-昭和22年) 例 「鵞鳥」https://www.aozora.gr.jp/cards/000051/files/4109_7964.html

「そんな無茶なことを云い出しては人迷わせだヨ。腕で無くって何で芸術が出来る。まして君なぞ既にいい腕になっているのだもの、いよいよ腕を磨くべしだネ。」

正岡子規 (慶応3年-明治35年) 「初夢https://www.aozora.gr.jp/cards/000305/files/50396_39302.html

「なに今朝から立ったのだヨ。今朝立って見たら君、痛みなんどはちっともないのだもの。」「そうか、そりゃ善かった。大変心配していたんだヨ。もうとてもいけないだろうッて、誰れか言った位であったから。」

橘外男 (明治27年-昭和34年) 「雷嫌いの話」https://www.aozora.gr.jp/cards/001397/files/50076_37659.html

ゴロゴロと遠くの方でやり出すと、大丈夫だヨ、大丈夫だヨ、お父さん! 今日はこっちの方角だから、そう大して、鳴らないよ!

Permalink |記事への反応(0) | 18:58

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2017-10-05

[今日知った言葉]木口小平

木口小平(きぐち こへい、明治5年8月8日1872年9月10日) -1894年明治27年7月29日)は、日清戦争戦死した日本陸軍兵士。ラッパ手として、死しても口からラッパを離さなかったとされた。その逸話明治35年から昭和20年まで小学校修身教科書掲載され、戦前日本においては広く知られた英雄であった。

木口小平 - Wikipedia

Permalink |記事への反応(0) | 15:15

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