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はてなキーワード:明治32年とは

2025-02-19

anond:20250219063622

明治時代仮想マイクロブログ社会がもたらした近代化の加速と文化的変容

概要

明治維新期に突如として出現した「瞬時伝達器」と呼ばれるマイクロブログ端末は、

出生時に人体に埋め込まれる生体統合デバイスとして全国民に普及した。

この技術革新明治5年1872年)の学制発布以前に実現したことにより、

日本史上空前の情報革命が発生。

福澤諭吉が『西洋事情』で予言した「言論電気的伝播」が現実化し、

明治政府中央集権政策民間自由民権運動が複雑に絡み合いながら、

従来の歴史認識根本から変革する社会構造形成された。

森鴎外の『舞姫』(1890年)に描かれたベルリン留学中の懊悩リアルタイムで共有され、

夏目漱石の『吾輩は猫である』(1905年)の連載が「写生運動」として全国規模の文学革命を引き起こすなど、

文学表現のもの双方向メディアへと変質した。

政治体制情報統制の変容

大政奉還前夜の情報戦

慶応3年1867年)の王政復古クーデターにおいて、

薩長同盟が瞬時伝達器を活用した情報操作が決定的役割を果たした。

西郷隆盛の「錦旗偽造疑惑」が全国民タイムライン炎上する中、

岩倉具視側近の情報工作班が作成した「討幕の大義映像コンテンツが300万回再生され、

徳川慶喜の恭順姿勢を決定づけた。

戊辰戦争では会津藩白虎隊が自陣の不利をリアルタイムで発信、

これが国際世論形成に影響を与え、

パリ同時通訳機能を備えた端末を通じて英仏の介入を阻止した。

明治政府検閲システム進化

明治6年1873年)の徴兵反対運動では、

全国の農民が瞬時伝達器で組織的抵抗を展開。

これに対し内務省は「治安維持電脳局」を設置、

自然言語処理AIによるプロファイリング技術を駆使し、

危険思想予測検閲実施した。

森有礼文相が推進した「教育勅語デジタル配信計画」(1890年)では、

国民の端末に強制配信機能実装され、

山県有朋の「国民道徳統合プログラム」として機能した。

文学芸術分野の変革

文豪たちの双方向創作

森鴎外陸軍軍医時代投稿した「戦場医学実況」(日清戦争)は、

従軍記者の報告を凌ぐ臨場感国民的人気を獲得。

鴎外は後に『ヰタ・セクスアリス』(1909年)の連載中、

読者からの「官能描写情報告」機能逆用し、

中人物の心理描写リアルタイム修正する実験創作を試みた。

夏目漱石は『こゝろ』(1914年)の連載時に「先生遺書」展開を読者投票で決定、

従来の作家観を超えた「集合知創作」の先駆となった。

若手作家の台頭とメディアミックス

芥川龍之介東京帝国大学在学中に投稿した掌編小説が瞬時伝達器経由で漱石の目に留まり

史上初の「バーチャル文芸サロン」が形成された。

谷崎潤一郎は『刺青』(1910年)の挿絵を読者から画像投稿構成する「コラボレーティブ・アート」を実践

永井荷風の『腕くらべ』(1916年)では吉原遊女たちが匿名アカウントで作中の描写反論するメタフィクション的試みがなされた。

社会運動大衆文化の進展

自由民権運動の加速化

明治10年1877年)の西南戦争では、西郷隆軍が瞬時伝達器を活用したゲリラ情報戦を展開。

政府側はAI分析による「感情予測アルゴリズム」で反乱軍士気低下を計画的に誘導

戦争期間を史実より3ヶ月短縮させた。

明治23年1890年)の第一帝国議会選挙では、

立憲自由党政策動画配信仮想演説会を組み合わせた「デジタル遊説」を実施

投票率が史実の91%から98%に上昇した。

大衆娯楽の変容

明治30年代に隆盛を極めた「活動写真」は、瞬時伝達器との連動でインタラクティブ映画として進化

日露戦争記録映像旅順要塞攻撃』(1904年)では視聴者攻撃ルート投票決定できる「参加型戦争体験」が提供された。

落語家三遊亭円朝は端末向け音声コンテンツ怪談電送話」を配信

バーチャル花火大会との連動企画で新たな大衆芸能を創出した。

国際関係技術革新

列強とのサイバー外交

明治32年1899年)の条約改正交渉において、

陸奥宗光外相が瞬時伝達器の暗号化機能を駆使した「デジタル砲艦外交」を展開。

治外法権撤廃交渉過程部分的公開し、

英国世論誘導成功した。

明治37年1904年)の日露戦争では、

明石元二郎大佐ロシア革命勢力と端末経由で連絡、

諜報活動効率化で史実より早期の講和を実現した。

技術限界社会適応

大正3年1914年)のシーメンス事件では、

海軍将校贈収賄記録が匿名アカウントを通じて暴露され、

従来の新聞スクープを凌ぐスピード政界震撼させた。

一方で、端末の生体統合特性逆用した「思考盗聴」の危険性が問題化

森鴎外が『沈黙の塔』(1910年)で警鐘を鳴らすなど、

プライバシー公共性ジレンマが早くも表面化した。

結論

仮想マイクロブログ技術明治期に存在した場合

その社会的影響は単なる情報伝達の高速化を超え、

国家形成プロセス自体根本から変質させる触媒作用を発揮したと考えられる。

文学における双方向性の獲得、

政治運動の即時組織化

国際交渉の多次元化など、

従来の歴史区分を超越した「加速された近代化」の様相を呈していただろう。

ただし、この技術がもたらす集合的無意識可視化は、

大正期のメディアアート運動昭和初期の全体主義的傾向に新たな様相付与し、

現代SNS社会が抱える課題を半世紀早く先取りするパラドックスを生み出していた可能性が高い。

今後の研究課題として、

端末の技術起源に関する考察海外技術流出説VS超自然的出現説)と、

大正デモクラシー期におけるメディアリテラシー教育実態解明が急務である

Permalink |記事への反応(1) | 07:11

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2024-12-02

ごちゃまぜという意味の「ちゃんぽん」と料理の「チャンポン」は関係があるのか?

以下、ごちゃまぜという意味言葉は「ちゃんぽん」、料理のほうは「チャンポン」と表記する。

まず辞書では、

ちゃん‐ぽん[名・形動]《「攙和」の中国からか》

1 2種類以上のものをまぜこぜにすること。また、そのさま。「日本酒ウイスキーちゃんぽんに飲む」「話がちゃんぽんになる」

2 肉・野菜などをいため、小麦粉に唐灰汁を加えて作った中華風の麺と一緒にスープで煮た長崎名物料理

ちゃんぽん(チャンポン)とは? 意味や使い方 - コトバンク

たいていは先に書かれるほうが古い用法なので、ごちゃまぜの「ちゃんぽん」のほうが先にあったということだろう。

しかWikipediaで「ちゃんぽん」を調べると、いくつかの語源説が出てくる。

なかでも「攙烹」説「吃飯」説「喰飯」説などは、明らかに料理が前提にあるので、「チャンポン」が先でないとおかしいように感じる。

ざっと検索たかぎり、「どちらが先にあったか」を明言しているところがほとんどなかったので、ちょっと調べてみた。

結論から言ってしまうと、「ちゃんぽん」のほうが先である

ちゃんぽん」は江戸時代からあった言葉で、三好一光『江戸事典』や、

ちゃんぽん 交互、又は両天秤にかけるをいう。

非人一「そんならお志は附けたり」非人三「女の詮議半分」中間「両方掛ければ、これがちゃんぽん」(南北、独道中五十三駅)

前田勇『江戸語大辞典』にも掲載されている。

ちゃんぽん ①彼と此と入り混じること。まぜこぜ。ごちゃまぜ。文政五年・花街鑑 下「芸者の滑稽、チリツンテン、ちやんぽんの大さはぎ」②交互。かわるがわる。文政九年・契情肝粒志二上「何時でも下馬一枚を棒組とちやんぽんで」


この「ちゃんぽん」の語源説は主に二つある。

ただ、前者は「鉦」が中国楽器、「鼓」が日本楽器から、という説明がくっつくことがある。

また後者は、中国人を「ちゃんちゃん坊主」などと言ったのは「鉦の音」に由来するというので、この2説は薄っすらとつながっていることになる。

一方、料理の「チャンポン」が生まれたのは明治30年代だとされる。

長崎明治32年創業した「四海樓」という中華料理店の「陳平順」という人が中国留学生向けに作ったというのが定説である

ちゃんぽんルーツ福建料理の『湯肉絲麺(とんにいしいめん)』である。湯肉絲麺は麺を主体として豚肉椎茸、筍、ねぎなどを入れたあっさりしたスープ。これに四海樓の初代陳平順(ちんへいじゅん)がボリュームをつけて濃い目のスープ豊富な具、独自のコシのある麺を日本風にアレンジして考案したものが『ちゃんぽんである

今日では缶詰冷凍など保存技術の発達により食材が年中あるが、当時は、そういうわけにもいかず苦労していた。そこで長崎近海でとれる海産物蒲鉾竹輪イカ、うちかき(小ガキ)、小エビもやしキャベツを使い、ちゃんぽんの起こりとなった。

ちゃんぽんの由来 | 中華料理 四海樓

ただ、これもなかなか難しいところで、「支那うどん」と呼ばれる同種の料理は他にもあったらしい。

四海樓でも当初は「支那うどん」という料理名で出されていて「チャンポン」とは呼ばれていなかったという。

以下、チャンポン支那うどんに関する、明治から大正にかけての記述を並べてみる。

明治40年『長崎紀要』では「チヤポン」が紹介されている。

「チヤポン」(書生の好物)

今は支那留学生の各地に入込めるが故珍しきことも有らざるべし。市内十数個所あり。多くは支那人の製する饂飩に牛豚雞肉葱を雑ゆ故に甚濃厚に過ぐれば慣れざるものは、厭味を感ずれども。書生は概して之を好めり

チャンポン」ではなく「チャポン」になっているのは誤字なのかわからないが、後述の「吃飯」説の傍証としてよく引き合いに出される。

明治41年『中學文壇』では「支那うどんチャンポン」であり、長崎固有の料理だと言っている。

支那ウドン 長崎只一の固有の名物長崎では「ちやんぽん」と言つて居る


明治41年『ホトトギス』でも同じく「支那うどんチャンポン」。やはり「チャポン」は誤字だったのではないか…?

長崎名物 一、チヤンポン 支那うどん、俗にチヤンポンと云ふ、東京だッてこんなうまいものはめッたにありやしない


大正3年『長崎一覧』には「支那饂飩元祖三角亭だ」と書かれている。

支那うどんも亦長崎名物の一つである 名の如く支那より伝つたうどんである 日本人の初めて製造せし人は大波止三角亭の上田百十郎氏である。氏は初め今の九州日の出新聞の所で飲食店を営んで居た、支那うどんを創めたのは明治三十二年であつて、創めた当時はあまり歓迎せられなかつた

大波止三角亭は大正年間に「支那うどん元祖大波止三角亭」という広告をあちこちに出していたようだ。創業年の明治32年四海樓と同じ。

大正7年『漫画巡礼記』の著者は「近藤浩一路」という人で静岡育ち東京住まいらしいが「支那うどんについては皆さんご存知だろう」という書きぶりである

長崎名物のうちにチヤンポンといふがある。チヤンポンとは支那うどん異名と聞いたら何だつまらないといふかもしれぬがこれが仲々莫迦に出来ない代物であるエビ豚、牛肉蒲鉾ねぎ其他種々のものがチヤンポンに煮込んであるから其名が起つたのであらう、先祖支那うどんと銘うった家が長崎市中到る処に見られるが、これが皆なチヤンポンだから驚く

また四海亭(四海樓のことか)の紹介もある。

しかし其中でも支那町の突当りにある四海亭が最も代表的なチヤンポンを食はせるといふので我等はK君の案内で此四海亭に始めてチヤンポンなるものにお目通りしたのである。見た所は他の支那うどんと大差はあるまいが、何せい材料料理法が違ふ。


ちなみにWikipediaには「明治初年には既に長崎人の本吉某が長崎丸山で、支那饂飩ちゃんぽんの名で売り出していたともいう」と書かれているが、これは昭和13年長崎談叢』がソースらしい。

チャンポン濫觴明治の初年我が長崎本吉某が丸山にて支那饂飩チャンポンと名づけて開業したるものにして終にチャンポン支那饂飩固有名詞となり了りぬ。


総合して、

といったあたりが気になる。

さて、料理の「チャンポン」の主だった語源説をまとめる。

いずれも確証はなく「発音が似ているか関係があるかもしれない」程度の話に尾鰭がついただけのようだ。

吃飯」説だけは、四海樓が主張しているという点において説得力があるが、それにしたって確証はなさそうである

以上。

ちゃんぽん」と「チャンポン」に関係があるかどうか、については結論が出なかったが、普通に関係がない可能性もあるということがわかったので、とりあえず良かった。

Wikipedia説明がまさにそうだが、「ちゃんぽん」の語源説と「チャンポン」の語源説がごちゃまぜになっている、つまりちゃんぽんになりがちなので、そこだけは気をつけたいところである

Permalink |記事への反応(3) | 23:05

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2024-08-05

ポジティブ意味で「上澄み」を使うのは誤用なのか

「上澄み」とはもともと、液体中の不純物が下層に沈んだあとの、上層に近い綺麗な部分のことを言う。そこから比喩的に「全体における良い部分」のことを指すようになった。

ところが、そうした用法は近年広まった誤用である、という主張がある。「上澄み」はネガティブ意味で使われるべきだ、というのである

最近気になってる日本語「上澄み」。

上澄みをさらう(すくう)、といった慣用表現があり、それは「表面的な理解」といった意味認識していた。

用例:そんな上澄みをさらった程度で○○を理解できたと思うなよ

しか最近よく聞く誤用なのか拡張なのか…逆の意味で使われているのをよく見る。

用例:葬送のフリーレンのクヴァールって、序盤に戦ったキャラなのに実はめちゃくちゃ強かったんだな。こいつ魔王軍の中でも上澄み中の上澄みだね。

「クヴァール 上澄み」で検索するとめちゃくちゃ出てくるこの用法

強さの評価で上澄み、と言われると表層に位置する浅い存在、すなわち弱い存在のように感じたのだが、明らかに上澄み=みんな気づかなかった強いヤツ、みたいな意味で使われている。

おそらく字面イメージで澄=よいこと、上=位置的に上、つまり上位であることという意味ポジティブに使われている。

液体の上澄みは、底に沈澱したものがあり、それを本質と捉えて「上澄み=表層的な浅い理解」と喩えた慣用表現だったはずが、完全に逆転してしまっている。

とりあえず葬送のフリーレンのクヴァールについて語る人以外では見たことがないのだが、クヴァールについて語る人はみんなポジティブ文脈で上澄み上澄み言ってるので気になっている。

この用法はすでに定着しているのでしょうか?— た介 (@BigotVinus)November 19, 2023


しかし、たとえば酒造や製油などにおいて「上澄みをすくう」のは、多くは底に沈む不純物を除くためであって、不純物を得るほうが目的だということは少ないだろう。その語源を考えれば、「上澄み」をポジティブ意味で捉えるほうが自然だと思うのだが。

実際にどういう使われ方をしてきたのか気になったので、比喩的意味で「上澄み」を使っている古い用例を探してみた。

明治26年饗庭篁村霜柱

古人の名作 皆な下習いが有る 紫式部源氏物語も 家筋だけに一体能文のうえ 日記も作り 歌の詞書もし 其外文や雑文に筆を練り 学は元より日本記の局と呼るる程までなり 其の上澄が彼の大作となッたのだ

調べたかぎりでは最も古い用例。上澄みが「良い部分」を指している用法だが、文章全体では上澄みを生むための「下習い」の重要性を説く。

明治32年『團團珍聞

アア世間は泥なるかな泥なるかな、吾独り澄めりと云う者も、矢張り泥の中の上澄を吸うの人なるのみ

上澄み自体は「良い部分」を指すが、文意としては「綺麗な上澄みも所詮は泥の一部にすぎない」といったところ。

明治39年 虚心窟主人『酔醒禅』

偽善は泥水の上澄の如し酌むべからず、移すべからず、忽ち濁ればなり。

同じく泥と上澄みに喩えた用法

明治39年エレンケイ二十世紀児童世界

然るに学期を分ち、試験を行い、小刀細工に類する形式的堀割を通して、之を流し込もうとすれば、肝腎な熱流の熱が失せ、有益なる含有物は途中に沈殿してしまって、児童の頭に這入るものは、ただ水のような上澄ばかりとなる。

翻訳書。上澄みよりも沈殿物のほうが有益だというので、明確に上澄みを「悪い部分」としている用法である

明治39年『新仏教

常時百余名という寄宿制も、実は変らぬところは六七十人の堕落書生で、濁った水の上澄を酌むように、余の三四十人は、毎日新陳代謝、だまされて入社し、裸になって退社する者等を総称して見た話して、頭数は百でも二百でも其中に書籍を読む者は、只の一人もないので、只稼いで喰って寝て居るのと、只喰うや喰わずに寝起して居るのと、人の物を盗って喰って居るのと、夫等が下方の沈殿物で、入社即退社が上水の澄んだ所なのだ

沈殿物が酷すぎるが、上澄みが優れているという書き方でもない。どちらかというと「上層は流動的・下層は停滞的」というイメージか。

明治41年田岡嶺雲『有声無声』

快楽上澄をのみ飽まで飲んで、渣滓の苦きには吸い至らず、花婿の其当夜に死んだ彼は永久に花婿である、彼を人生の最も幸福な者というも、強ち不当でない。

「美味しいところだけ味わって死んだ」という話で、やや皮肉めいた書きぶりだが、上澄みを「良い部分」とした用法ではある。

大正2年小泉要智『叟骨集』

前者の唯理想にも附かず、後者の唯現実にもなづまず、底までかきまぜずに措いて、上澄みの処で一致を立てん

極端な理想主義と極端な現実主義の上澄みを取る、という話で、ちょっと独特の用法な感じがする。「良い部分」ではあるか。

大正5年中条百合子『貧しき人々の群』

苗字もなく、生きて居るのさえうんざりした者達の集って居る、暗い罪悪にまみれて居る世界では、そのような事は何でもない。三面記事にさえ、載せきれない「彼らのいがみ合い」の一つとして、世の中の上澄みは、相変らず、手綺麗に上品に、僅かの動揺さえも感じずに、総てが、しっくり落付いて居たのである

上層は綺麗で上品で落ち着いているが、それは下層の濁りが上層まで伝わらないからだ、という用法

大正7年有島武郎『生れ出る悩み』

心の上澄みは妙におどおどとあわてている割合に、心の底は不思議に気味悪く落ち着いていた。

単なる表層・深層の言い換えだが、「上層は流動的・下層は停滞的」のイメージが入っているかも。

とりあえずこのあたりで。

以上から考えるに、「上澄み」の用法さらに4つに分類できる。

1. 上澄みは全体のなかの「良い部分」である

1-a. 上澄みは「悪い全体」のなかの「良い部分」である

2. 上澄みは全体のなかの「悪い部分」である

3. 上澄みは全体のなかの「流動的な部分」である

「上澄み」という語のイメージは「良い部分と悪い部分が上下に分離している」といったものであり、単純には1の用法なのだが、1-aの用法だと「実は悪い部分が底に隠れている」「実は沈んだ部分のほうが本質である」という逆張り的な文意になることが多いため、次第に「上澄み」自体に「うわべだけで本質的でない」ような印象がついていった、ということだろう。それが極まったのが2の用法。3の用法だけは独自な感じ。

最初の話に戻ると、

強さの評価で上澄み、と言われると表層に位置する浅い存在、すなわち弱い存在のように感じた

液体の上澄みは、底に沈澱したものがあり、それを本質と捉えて「上澄み=表層的な浅い理解」と喩えた慣用表現だったはず

というのは2の用法であるが、これが「本来用法」「正しい用法であるとは言い難いと思われる。少なくとも、さらに古くから「上澄み=良い部分」とした用法存在してきたわけで、今となってはどちらの用法も定着していると考えるべきだろう。

というわけで、ポジティブ意味の「上澄み」も気軽に使っていこうな。

Permalink |記事への反応(14) | 11:42

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2021-09-14

見て閘門

石井閘門 -宮城県石巻市北上川にある閘門1880年(明治13年)に完成した、日本初の西洋式の本格的な閘門現在日本国内で稼動する閘門の中では最古のものであり、国の重要文化財指定されている。

脇谷閘門 -宮城県石巻市1931年12月竣工北上川本川旧北上川間の船の通行のために、脇谷洗堰に併設された。

見沼通船堀 -埼玉県さいたま市。見沼代用水と芝川とを結ぶ閘門運河である昭和初期以降から使用されておらず、現在さいたま市緑区にその復元された遺構が残る。1982年(昭和57年)、国の史跡指定された。

荒川ロックゲート -東京都江戸川区小松川東京都流れる荒川旧中川を結ぶ。大震災時などの災害時に水上交通有効であることから改めて水路が見直されることになり、2005年10月に供用開始された比較的新しい閘門

扇橋閘門 -東京都江東区猿江一丁目。1976年(昭和51年)完成。小名木川に設置されている。

中島閘門 -富山県富山市1934年(昭和9年)8月完成。富山駅北側付近から富山湾の河口まで南北に続く、富岩(ふがん)運河中流にあるパナマ運河閘門現在運用されており、観光船が運行し往来できる(冬季運休)。国の重要文化財指定されている。

牛島閘門 -富山県富山市中島閘門と同時着工し1934年(昭和9年)8月に同時完成。富岩運河最上流部(南端)の富岩運河環水公園(旧 船溜まり)内にあり、並行するいたち川とを結ぶ現在運用可能パナマ運河閘門。国の登録有形文化財登録されている。

松重閘門 -愛知県名古屋市中川区堀川中川運河とを結んでいた。1968年に閉鎖され、現在閘門としては使用されていない。名古屋市有形文化財1993年(平成5年)には名古屋市都市景観重要建築物等に指定されている。

船頭平閘門 -愛知県愛西市立田町福原木曽川長良川の間をつなぐ。1899年(明治32年)に着工、1902年(明治35年)に完成した。1994年(平成6年)にはそれまでの手動から電動への近代化改修工事が行われた。2000年(平成12年)5月には明治期に建設されて現在でも使用されている貴重な閘門であるということで重要文化財指定された。冬季を除き、木曽川上流の葛木港より観光船が運航。一般には無料での往来解放がされている。

三栖閘門 -京都府京都市伏見区宇治川と濠川を結ぶ伏見港に1929年(昭和4年)に建設された。いまは遺構が三栖閘門資料館として開放されている。

毛馬閘門 -大阪府大阪市北区淀川旧淀川(大川)を隔てる閘門明治40年(1907年)8月に完成した旧第一閘門1976年(昭和51年)まで使用され、現在重要文化財指定されている。

尼崎閘門(尼ロック) -兵庫県尼崎西海岸町地先。日本初のパナマ運河式。物流機能としての運河を今なお支える船舶重要玄関口となっている。

下関漁港閘門 -山口県下関市本土彦島を隔てる小門海峡(関門海峡小瀬戸)にあるパナマ運河水門1936年の設置以来、現在も稼動中。

三池港閘門 -福岡県大牟田市1908年(明治41年) 完成。2008年機械遺産指定2015年世界文化遺産認定された明治日本産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業構成資産の1つ。

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