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2025-12-12

中国擁護してる爺たちって

鈴木宗男日露友好と北方領土返還人生を賭けた挙句にさんざんに裏切られたが、

ロシア中国に置き換えたらムネオみたいに引き返せなくなってる政治家文化人が大量にいるんだろうなとなんか納得できたわ

人生を賭けて日中友好を訴えてきたら今更転向できないわな

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2025-11-26

インタビュースパイ防止法と「内なる敵」 日本近代史研究者荻野富士夫さん2025年10月10日 5時00分

 ――つまるところ治安維持法は、なぜ日本社会であれほどの猛威をふるったのでしょうか。

 「猛威の震源にあったのは国体存在だと思います()当局は、天皇中心の国を壊そうとする『不逞(ふてい)の輩(やから)』がいたとする負のレッテル貼りをし、新聞扇動的に報じました。その結果、国体変革を図った者への最高刑はその年、死刑に引きあげられています

 「拷問による取り調べの印象が強い治安維持法ですが、実は国内特高警察検挙されたうちの約9割は、警察限りで放免となっていました。それでもその多くは『非国民だ』という排除まなざしを向けられて、退学や退職を迫られたり地域白眼視されたりしています

 「つまり権力による処罰とは別に世間舞台にした道義的倫理的観点からの『社会的制裁』が機能していたのです。非国民との認定を受けた人を周囲の国民が誰に命令をされたわけでもないのに排除していく。国体が生み出すこの魔力を、当時の治安関係者は『強制的道徳律』と呼んで、効率的治安管理に利用しました」

     ■      ■

 「スパイ問題を考えるならば、神谷氏が松山市参院選中におこなった別の演説にも目を向けるべきです。日本公務員念頭に、極左の考え方を持った人たちが社会の中枢にがっぷり入っているので洗い出して辞めてもらわないといけない、と述べました。『これを洗い出すのがスパイ防止法です』とも」

 ――スパイ対策は、外国人だけを取り締まるものではないのですね。

 「ええ。たとえば戦前日本にあった代表的スパイ防止法は、明治期に作られた軍機保護法でした。近づく日露間の戦争を前に、軍事機密流出を防ぐ目的で制定されました」

 

 ――日露戦争下のそうした熱狂的なスパイ問題への関心は戦争終了後には実は低下していた、と指摘していますね。

 「摘発件数が減り、議会では軍機保護法廃止しようという議論まで起きました。息を吹き返したのは、次の戦争が始まったときです。37年に日中戦争が始まった直後、軍機保護法は全面改正されました」

 「日本スパイ天国だとアピールする当局情報操作もあり、最高刑が死刑に引き上げられる厳罰化が実現しました。何が守られるべき機密にあたるのかを決める政府裁量も広げられ、報道機関取材にも一層の萎縮をもたらしています

 「国民から見れば、どの情報軍事機密であるのか、何がスパイ行為に問われるのかが、より見えにくくなりました。摘発されてしまうことを恐れ、戦争軍事に関することは見ないでおこう/触れないでおこう/話さないでおこうという姿勢が広がりました。軍機保護法は、有権者現実直視しなくなる結果も生みだしたのです」

     ■      ■

 ――日本政界では今、参政党だけではなく、国民民主党や日本維新の会もスパイ防止法の制定に前向きな姿勢を示しています自民党総裁に先日なった高市早苗氏も、総裁選同法制定の必要性を訴えました。

 「スパイ活動防止を目的の一つにした特定秘密保護法が2014年に施行され、経済分野での機密保全も確保するための関連法も昨年すでに成立しています高市氏を中心にした自民党メンバーが今年5月に提言した、『諸外国と同水準のスパイ防止法』の導入検討を求める提言書も読んでみましたが、このうえなぜスパイ防止法が必要なのかは理解できませんでした」

 

https://digital.asahi.com/articles/DA3S16320457.html

Permalink |記事への反応(0) | 22:23

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2025-11-09

日本対外戦争に4回しか勝ってない

元寇

日清戦争

日露

4 WW1

負け戦は、白村江の戦い第2次世界大戦シベリア出兵ノモンハン事変・・・数がどうこうより負け方が・・・

民族好戦的なのになあ・・島国から地政学的にしかたないとはいえもっと戦って勝てなかったんか?

Permalink |記事への反応(3) | 19:46

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2025-10-12

anond:20251011153620

>メディア報道ではなく売れる虚言を垂れ流したこと

虚言が売れてしま社会経済国民が敵を求めて熱狂してた、って状況が戦争根本原因で、軍も議会メディア国民世論の求めるものをただ提供してただけなのに、それを指摘できないことには新たな戦争は確実に起きるんだろうなと思います

日清日露の「勝利」に浮かれて自由経済のもとで格差が激しくなって不満解消のため戦争求めて引き返せなくなって国土焼き尽くされてやっと目覚めて忘れて

国内格差問題を何とかするのが戦争回避の一丁目一番地

それができるのは強権をふるえる政治指導者しかいないから、そうなったら「独裁」とか「共産主義」とか言われてしまうのだけど

Permalink |記事への反応(0) | 09:10

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2025-09-04

近江一郎氏についての記述

1931年植民』より、「帆船南洋慰問の旅」という記事

五十噸の補助機関つき帆船海峡植民地から東インド約二ヶ年の予定で一周しようといふ企てがある――計画者は神戸市元町三丁目近江一郎氏でボルネオインドに久しく滞留、仏教研究して最近帰朝した岡本春岳師ほか二名の同志の力を得、海外在留民を慰問し、病没者の展墓弔霊燈台守の慰問をなし、併せてわづか五十噸の小舟で南洋を一周すること自体によって海事思想の普及に資し、寄港地では新聞以外に故国事情を知りたいと希望している人々のためには最近東京風景や観艦式などの活動写真を見せるとともに故国の発展ぶりや近情を講演し、商品見本やカタログなどを配って行き、簡単商品見本市を開き希望者には連絡の労もとり、各地にある日本人会の連絡をつけようといふのである。首唱者近江氏の厳父は日露戦役直後東京朝日新聞者がチャーターして満鮮巡遊団を企てた時のロセッタ丸の船長で、今年はその七周忌に当るので、亡父への供養の一端であると大した意気込みで、目下拓務省に補助の支出交渉であるが、それが纏まり次第四五月ごろには壮途につきたいと、近江氏は語る。

『明中教育十年』より、「明石中學校十年史」の1932年2月1日の項。

南洋調査団(鎖国丸)長拓務省嘱託近江一郎氏一行十名ノ為ニ市公会堂ニテ送別会開催ニツキ山内校長出席

直木由太郎編『家信 みとせのはるあき 上』より、1932年の「五月十六日神戸より」。

近江一郎氏の鎮国丸は最近琉球沖で難破し、船員一名死にました。詳細不明

1934年宗教文化誌 法華』より、音馬実蔵「看雲雑記」。

主義者近江一郎君はまだ知らぬ人だが、其著「小舟を住家に南洋へ」は近来非常におもしろく感ふかく読んだ書物の一であるので一筆書いておく。

第一此書は君が鎮国丸という小船に乗じて南洋に向ふ途中、琉球近くの与論島に於て、船が暗礁に乗り上げ大破、九死に一生を得たこの死線突破体験を本として、其遭難顛末と共に南洋開拓に就て、かねて諸方面に就き自ら準備のために取調べた生きた心得の数々を教へ示さんとするもので、世に机上の空論は多くてもこの書の如く命をかけて出来た書物まこと稀有と云ふべきで、この点に心ひかれるものがあるのである

『楚人冠全集』より、1937年杉村楚人冠バルサ」という記事

逓信省船舶試験場で、近頃絶対に沈まない救命艇とかを作った。(中略)沈まない船といふのは、バルサを用材にして作ったとの事だから、何も今に始まった新案でも何でもない、現に私の友人がこれで救命艇を作って、特許を願ひ出た次第は、一昨年の十一月の「グラフ」に私が書いている。彼は特許が許されないので、気前よくその船を私に呉れて行ったので、私はこれを手賀沼に浮べて、時々漕いで出るのを楽しんで居る次第も、その時に書いた。この贈主の名を近江一郎といふ。朝日新聞社明治三十九年の夏満韓巡遊の船を仕立てて、日本で初めて新聞主催団体旅行を企てた時、その乗艦ロセッタ丸の船長だった林橘治君が、即ちこの近江君の実父であった。

1940年『斜めに見たる神戸一中』。

近江一郎の著書で、第一神戸中学校のおそらく1935〜1939年頃の同窓会報に掲載されたコラムを集めたものである。内容としては、神戸一中の卒業生がこんなにすごいことをやった、こういう面白いことをやった、といったもので、下記の「中村文夫(日本板硝子社長)」や「川西実三(埼玉長崎京都東京知事歴任)」なども登場する。卒業生には海軍関係者が多かったようで、特に奥田喜久司とは親しそうな書き方がされている。内容としては、笑いあり涙ありの平和ものだが、支那事変日中戦争)が始まったことや、誰それが戦死したというようなことが書かれていたりもする。近江一郎自身のことはあまり触れられていないが、母親名前が「朝子」ということ、娘がいて神戸野田高等女学校入学させたこと、第一次大戦の青島の戦いに従軍していたこと、などが書かれている。

1959年『新民』より、寺岡謹平「祖国の礎特攻観音縁起について」という記事

昭和二十一から神戸の人近江一郎という老人がおりまして、南洋貿易をしておったのでありますが、戦争たけなわになりますと、日本航空隊では油がだんだんなくなる。潤滑油をなんとかして作ろうということで満州にわたって白樺から潤滑油を作る研究に目鼻がついた、ということを軍令部に進言致しました。そのときには戦争が終ってしまったので、戦争に敗けたのはわれわれ国民の協力が足りないため、ということを考えまして、なんとかして戦死した御霊をなぐさめたいということで、まず特攻隊の遺族を弔問しよう。御霊に参拝しようという念願を立て、二十一年二月から、全国、北は北海道、南は九州のはてから、ずっと単独で廻って歩いた。

(中略)

はじめのうちは簑笠にカーキ色の服を着た坊さんが現れると、これは押売りか物貰いだろうと思って、虐待された。いろいろ考えた末、各県の世話課に頼んで遺族の住所を調べ、予め紹介してもらって参りました。そこで今度は順序よく運んだ。行くと、先ず以て仏様の前にいってお経を読んで焼香をする。そして般若心経を半紙に書いたものを一枚奉納する。

これは神戸の友人で美田禾山翁という書家がおりまして、その人の仏心で般若心経を沢山書いてもらった。海軍特攻隊の遺族は、二五二五名おりますから、美田先生も老齢ではあるし、耐えられなくなった。そこで誰かに書いてくれということで、私も何百枚か依頼されましたが、電報で何枚どこそこに送れと、こういうふうにくる。

(中略)

そういうものお土産にもって廻って、六年間というもの休みなく廻りました。とうとうしまいには病気になりまして、二十七年一月二十一日に亡くなられた。その間に約一、九〇〇名の遺族を弔問しております。残ったのは東京東海北陸の一部で、東京都を最後に残したのは、終ったところでお上特攻隊の遺族の状況を奏上する、というのが狙いでございました。

吉川英治対話集』より、1959年の対談での吉川英治発言

近江一郎という無名の人がいるのです。軍に徴集されて、なにかのことで満州塾長をしたのです。開拓民の塾長じゃないかと思うのですが、終戦になってこっちに帰ってきて、さる人の紹介で、私が吉野村に疎開していたときに、杖をついて帰還者の服を着たままでやってきましたよ。そのころ、もう年齢は六十近かったでしょうか。

「いったい君はなにして歩いているんだ?」

「私は帰ってきて、たくさんの死んだ兵隊たちの家を一軒一軒歩いて、そうしてそこに年寄がいたら、年寄を慰め、仏壇があったらお線香の一本ずつもあげさせていただくのを生涯の念願にしている」「収入というものはどうしているんだ?」「収入はありません」「じゃ、どうして食べている?」「子どもが一人あって、女房神戸区役所人夫をしている」女人夫ですね。「子ども小学校に行っている。お父さんは好きなことをしていいと言うから、私はそれをやる」それから復員局で住所を調べましてね、全国を歩いていました。ほんとうに驚くべきものですよ。あるときその男と話をしまして、こういうふうに戦死者の家を歩いていると、ずいぶんひどいことを言われることがあるでしょうといったら、はじめてその男が炉辺でボロボロ涙を流しまして、このごろは復員局で言ってもらえるのでわかってきたけれども、いちばん最初九州、あのへんの山間を歩くんですね。なにしにきたとどなられる、弟を死なせたという兄貴がヤケ酒を飲んでいるところにぶつかって、「戦死したものの供養にきたと、それで死んだものが生きてかえるか」と上りかかったところを蹴落とされた。そんな目にも会いました。そういうふうにけとばされたり、つばをされたり、なぐられたりするたびに、「これは陛下の罪滅しになると思って私はしのんできました」というのです。

『あすへの話題』より、1965年中村文夫のコラム

近江一郎というのは私の中学時代のなつかしい同級の剣友であるが、五年の時、神戸一中を去って大阪天王寺中学に転校し、偶然にも、草鹿さん(註:草鹿龍之介)と同級となり、いずれ劣らぬ剣友同士の間柄だったのである

近江君と私は一年の時からの同級で、しかふたりは一時、剣道部の両雄として互いにしのぎを削った間柄で剣友として忘れられない一人だが、まことに気骨のたくましい一風変わった偉丈夫であった。それかあらぬか、一時は満州国に行って馬賊になったとまでうわさされたのであったが、敗戦となるや、彼は決然起って、あの戦争末期の花形として雄々しく散っていった海軍特攻隊の遺族を尋ねて全国行脚の壮挙を思い立ったのである

しかし何分にも当時世をあげて戦後の虚脱状態にあり、特別関係者以外はだれ一人としてこれを支援しようとする者はなかったが、彼は毅然として、すげがさ、負いずる姿のいでたちで、全く乞食坊主そのままの行脚を続け、全国にわたる戦没英霊実家を歴訪してその冥福と遺族の慰問精魂を打ち込んだのであった。

戦後の軍当局と連絡をとったものらしく、一地区ごとに行脚を終わると必ず大阪に私をたずねて来訪し、つぶさにその難行苦行の実情を物語ってその感想録と写真を見せてくれたものだが、ほんとうに涙なくしては聞くことも読むこともできなかった。当時在阪の草鹿さんともいっしょに、時々は三人で食事を共にして、近江君の労をねぎらい、かつ旅情を慰めたものであった。

1974年川西実三の『感銘録』より。

私の中学校の後輩で近江一郎という男がいて、父親船長だった関係もあり、南方の島の資源開発を思いたった。ここが素人の私にはわからないことだが、それには沈まない船をつくらなければならないというので、あちこち設計を頼んだり資金相談にきたりした。

この話を川西さん(註:川西清兵衛)が聞いて、近江君を助けてやろうということになったらしい。そして近江君の希望どおり不沈船が竣工して南方へ出発したと聞いた。ところが、どうしたわけか帰りがけに台湾沖で沈んでしまったという。なんともロマンチックな話だ。

Permalink |記事への反応(0) | 00:38

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2025-08-15

anond:20250815011559

第一次の勝戦記念日がいつかもわからんし式典とかないよな

日清日露もあっていいはず

Permalink |記事への反応(1) | 01:26

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2025-06-12

500歳になるので半生を箇条書きで振り返ってみた

500歳……もう人間いうよりも、なんや森の精とか神話のなかのもんやな。けどまぁ、生きてたとして話すとするならな、わしは1525年生まれや。戦国のど真ん中やな。うすうすしか覚えとらんけど、こんな感じやった気がするわ。

• 1525年、どっかの山奥の村に生まれた。名乗る姓もなかった。天と地と親だけが頼りやった

• 村の周りでは時々よそ者が通る。槍持った男らが何十人もぞろぞろ。戦が近いとわかった

• 幼いころに村が焼かれた。誰が敵で誰が味方かわからん。とにかく逃げた

• 十代で百姓頭に拾われて、畑と槍の使い方を同時に覚えた

信長名前が噂に上がったころ、わしは若武者の影のように働いてた。戦場空気はいまだに鼻の奥に残ってる

本能寺のあと、世の中がまたぐらついた。明日どうなるかわからん夜が続いた

秀吉が天下とったとき大阪はまるで金色の夢みたいになった。わしは城下で米を運ぶ仕事をしとった

関ヶ原の前は空が重かった。生き残ることより、誰につくかが命やった

家康時代になって、世の中がようやく静かになった。けど、なんや、息が詰まるような静けさやった

江戸の初めに、名前を持たされた。戸籍いうもんができた。わしはよう知らん名前を紙に書かれた

江戸の町がでかくなって、花火歌舞伎流行りだしたころ、もうわしは人ごみがしんどくなっとった

元禄のころの華やかさは、ちょっと別世界やったな。町人がえらそうに歩くのも珍しかった

飢饉もあった。大火もあった。川が溢れて、人も物も一瞬で流されてった

黒船が来たとき、空の色が変わった気がした。誰もが世界の外から何かが来たと感じとった

明治になったときは、まるで夢の中の話やった。髷を切るか切らんかで大騒ぎ

• 世の中が西洋かぶれになって、馬の代わりに鉄の箱が道を走るようになった

日清日露の戦、若いもんが国のために死にに行く姿を見て、なんとも言えん気持ちになった

大正デモクラシー?なんのことか分からんまま、若いやつがえらそうに語っとった

関東大震災はただの地震やなかった。文明のものがぐらぐら揺れたようやった

昭和戦争地獄。火と血と音。なによりも、もうあかんのやなと思った瞬間が何度もあった

戦後アメリカ匂いが街に混じった。ガムとコカ・コーラ時代

テレビが出て、みんな画面の中に吸い込まれていった。もう現実より映像の方が大事になった

平成?ああ、なんか静かなようで、空っぽになっていく感じがした時代やった

• 令和になってからは、もう人と機械区別あいまいになってきた

• 空飛ぶ車?知らん間に空を見上げても誰も驚かんようになっとった

• 人はよう喋るくせに、誰ともちゃんと向き合わんようになった

• 友も家も土地も、何度も失った。けど、ひとつだけ変わらんのは、朝日が昇るということやな

• いま?もう歩けんし、喋るのもやっとやけどな、風の音と、湯呑みから立つ湯気だけが、生きとる証や

• 500年て長いけど、一瞬でもあるんや。不思議なもんやな。気がついたら、また夜が来とる

……まぁ、こんな長生き、誰にも勧められへんけどな。でも、ここまで見れたことは、ありがたいことやと、そう思うようにしてるわ。

Permalink |記事への反応(1) | 08:18

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2025-06-11

もうすぐ200歳なので半生を箇条書きで振り返る

200歳……もう人の年齢ちゃうなこれは。生きとるいうより、残っとる、って感じやな。生まれは1825年、江戸江戸、まだ将軍がえらい顔しとった時代や。ほな、ぼちぼち振り返ってみるで。

• 1825年、江戸のはずれの農村に生まれた。土壁の家、井戸水で顔洗っとった

• 父は百姓、母は畑と家事の人。朝は鶏の声、夜は虫の音だけ

• 米なんて正月祭りしか食えん。麦と芋ばっかり

子どもの頃は寺子屋に通った。筆で名前書けるようになるとちょっとえらくなった気がした

• 村に旅芸人が来たときけが娯楽。三味線と踊りが忘れられん

黒船来航は10代やった。村に話が回ってきて、大人たちが真っ青になっとった

幕末の動乱、若いもんはみんな騒いどった。わしは遠くから見とるだけやったけどな

明治維新のころはもう40近かった。刀を捨てるお侍見て、なんか時代が変わるんやなと思った

明治の中ごろ、汽車が走り出して、町には西洋かぶれの人が増えた。背広とか、変な帽子とか

度量衡が変わって、金の単位も変わって、わけがわからんようになった

日清日露戦争、息子が徴兵された。生きて帰ってきたけど目が死んどった

明治が終わって大正になったとき、初めて写真館で家族写真撮った。あれは今でも大事な宝

関東大震災はほんま恐ろしかった。火が追いかけてきて、必死に逃げた

昭和になるころにはもう老いぼれてたけど、孫の顔を見るたびに元気もろうた

太平洋戦争中は防空壕に孫と隠れたこともあった。空が真っ赤になった夜、よう覚えとる

終戦、焼け跡、配給の列。米のありがたみはあのときが一番染みた

高度成長期はただただ驚いた。町が光ってた。もう別世界やった

テレビ冷蔵庫洗濯機が家に来て、うちも「文明人」になった気がした

昭和が終わったとき、あぁ自分時代はとっくに終わっとったんやなって思った

平成は静かな時代やった。みんな忙しそうにしとったけど、なんか寂しさもあった

スマホいうやつが出てきて、みんな下向いて歩くようになったの、不思議光景やった

• 令和になって、もう完全に別世界建物空気も、人のしゃべり方も、なにか全部軽い

• 人が機械と話して、病院も全部自動。わしにはついていけんけど、若いもんは頼もしい

• 200年……ようここまで来たなぁって思うけど、今は毎日がまるで夢の中みたいや

• 歩けんけど、耳も遠いけど、心だけはまだ昔を歩いとる

あんまり偉いこともしてへん。戦も行かんかったし、金もようけ持っとらん。でも、山の匂い、畑の土、祭り太鼓、孫の手のぬくもり……それだけで、もう十分生きた気がするわ。ほんまにな。

Permalink |記事への反応(1) | 21:48

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2025-05-30

安倍売国奴だったのか

プロンプト)

北方領土に関する安倍政権対応についてまとめてください。

(ChatGPT)

安倍政権第2次~第4次;2012 – 2020)の北方領土対応交渉の推移まとめ

時期 主な動き ねらい/背景 結果・評価

2012 – 2013 -就任2日後にプーチン大統領電話会談
-2013年4月モスクワ訪問で《北方領土を最終的に解決平和条約を締結する》共同声明領土問題を自らの手で”という首相の持論。対中包囲網意識し、対露関係戦略カードとして強化10年ぶりに交渉を本格再開。以後、日露首脳会談は計27回を数える

2014クリミア併合を受け日本も対露制裁に参加。しか欧米より規模を抑え、対話チャネルは維持 「プーチン訪日計画」は延期へ。制裁対話二股政権批判も強まる

2016 -5月ソチ首脳会談で**「8項目の経済協力プラン」**提示
-12月山口県長門東京会談:①島での共同経済活動に向けた協議開始 ②元島民墓参の航空機経済パッケージを梃子に「新しいアプローチ」で信頼醸成を図る領土帰属には踏み込めず、“経済協力だけ先行”との批判

2017 – 2018 - 共同経済活動の現地調査を初実施
-2018年11月シンガポール首脳会談1956年日ソ共同宣言(歯舞・色丹=2島)を基礎に交渉加速で合意 4島一括返還原則事実上棚上げし、決着優先へ大きく舵を切る国内世論賛否ロシア側は「主権は譲らず」と牽制し、防衛施設増強を続行

2019河野外相ラブロフ外相が精力的に協議も、ラブロフ氏「日本WWIIの結果を認めよ」と硬化。両国交渉枠組みは停滞 2島返還論すらロシア国内の反発が強く、妥協余地が縮小

2020(安倍退陣直前)ロシア改憲で**「領土割譲の禁止」**条項が盛り込まれ交渉余地さらに狭まる安倍首相退陣会見で「私の代で解決できず痛恨の極み」と述懐

---

交渉手法の特徴と評価

1. 「経済カード」中心の新アプローチ

8項目プラン医療インフラ省エネ等)でロシア極東振興を後押しし、信頼を醸成する作戦

日本企業側は案件形成に苦戦し、島の法的地位曖昧にしたままでは投資リスクが残った。

2. 首脳レベル個人関係重視

安倍プーチン会談は8年間で27回。互いをファーストネームで呼ぶ場面もあったが、ロシア側の外交軍事上の既定路線を覆すには至らず。

3. 4島→2島への“地歩後退”指摘

1956宣言路線は“現実的”との評価もある一方、返還範囲を狭めただけでロシア要求主権認否・漁業権米軍不在保証など)はむしろ拡大した。

4.ウクライナ情勢の外生ショック

2014クリミア、2022全面侵攻(安倍退陣後)で対露制裁が強化され、北方領土交渉のものが凍結状態に。



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全体総括

成果:交渉の「空白の10年」を埋め、墓参事業の拡充や共同経済活動の枠組みづくりなど人的交流を一歩前進させた。

限界ロシア国内法(改憲)、安全保障環境悪化領土ナショナリズムに阻まれ領土帰属の具体的前進ゼロ経済協力も限定的で、日本側譲歩の割に実利は乏しいとの評価多数派

教訓:①経済インセンティブだけでは主権問題を動かせない、②国際秩序の変動が交渉環境を左右する、③国内世論理解を得る情報発信戦略レッドラインの明示が不可欠。

安倍政権の8年間は「平和条約締結へ最もエネルギーを注いだ時期」であったものの、領土問題は未解決のまま次政権へ引き継がれ、ロシア憲法改正交渉余地はかつてなく狭まった――これが2025年時点の到達点と言えます

−−−

プロンプト)

「4島返還事実上棚上げ」したという点が評価の分かれるところかと思います。「あくまで4島返還突っ張り続けるべきだった」という意見理解はできますが、そうした場合ロシアの態度はどう変化したと予測できるでしょうか。

(ChatGPT回答)

「四島一括返還要求を貫いた場合に想定されるロシア側のリアクション

過去の事例と交渉理論からの推測)

想定される反応 具体的根拠過去事例) 影響

① 交渉チャネルの“凍結/極小化”1990年代2012年日本が四島要求を堅持していた間、ロシアは1993東京宣言以外ほぼ動かず。2004年プーチン大統領が「歯舞・色丹の2島で平和条約を」と再提示日本拒否すると交渉は停滞首脳会談の開催自体が稀になり、技術協議も停止。

② “主権は議題外”との強硬声明エスカレート2010年メドヴェージェフ大統領国後島を電撃訪問日本大使召還ロシアは「わが領土だ」と反発/2019年ラブロフ外相ロシア主権交渉対象にならない。まず日本第二次大戦の結果を認めよ」と通告交渉の前提条件が「日本の四島放棄」になるため、議論入口で止まる。

③ 象徴的・軍事的既成事実づくりの加速2010年以降、ロシア首脳の島訪問インフラ整備・地対艦ミサイル配備などが続く。日本が強い抗議を出すほど、国内向けに「譲歩せず」を誇示する材料になる(例:2010年国後訪問、以後“さらなる訪問計画”と示唆防衛施設民間投資が進み、“現地のロシア化”が加速。

④ 国内法による“封じ込め”の早期化2020年憲法改正で〈領土譲渡禁止条項〉を明文化日本が四島要求を続ければ、条項挿入の動きがさらに前倒し・強化された可能性大。交渉の法的余地のもの消滅

⑤ 経済カードの失効 四島要求を掲げる時期はロシア側が「まず主権承認」と壁を立て、漁業観光インフラなど共同経済の芽が育たず(2016年以前の停滞期が実証極東投資エネルギー協力をテコにした信頼醸成の機会を逸失。

⑥ 対米安保懸念の前面化ラブロフ外相は「米軍存在交渉を複雑化」と繰り返し牽制。四島返還米軍展開の余地と見なし、ロシア世論は一層硬化。 「返還NATO東進アジア版」と位置づけ、対抗的な軍備増強の口実に。

⑦ ウクライナ侵攻後の“完全断絶”は同じか、むしろ早まる2025年現在ロシアは「日本は非友好国、平和条約を語る余地なし」と表明。四島要求継続なら、この断絶が2018年以前に顕在化した公算が高い。制裁と相まって、交渉ルートは完全閉塞。

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総合評価シナリオ比較

観点 四島要求を堅持した場合 実際に採られた「2島軸+共同経済路線

交渉継続性 早期に凍結。首脳会談の開催自体が困難。 2013〜19年に27回の首脳会談を実現、局所的に協議継続

ロシア国内政治ナショナリズム刺激→憲法改正・軍備増強が前倒し。憲法改正はされたが、少なくとも対話余地模索できた。

日本側の実利 墓参・査証簡素化など人的交流すら拡大せず。 航空墓参や限定的経済協力枠組みなど「小さな成果」は確保。

長期的展望 膠着・悪化ロシアが完全に4島問題を「終戦問題ではない国内問題」と規定し、議論テーブル自体消滅。 「領土帰属で一歩も動かず」という結果は同じだが、対話ルート保持により“凍結からの再開”余地わずかに残存。

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まとめ

日本が四島返還要求を貫いた場合ロシアの態度は「交渉自体拒否し、主権既成事実化を加速する」という従来のパターンさらに強化したと見るのが妥当です。

2010年メドヴェージェフ訪問2019年ラブロフ発言が示すように、ロシアは「四島は不可分の結果」「まず日本主権を認めよ」という“前提条件”を突きつけて交渉を凍結する傾向が顕著でした。

その延長線上で、2020年憲法改正のような法的バリア軍備強化は、より早い段階で制度化された可能性があります

結果として、**「少なくとも2島でも、平和条約締結で外交関係前進させる」**というカードすら使えなくなり、日本交渉余地は一層狭まったと予測されます

もちろん、実際に採られた「2島+共同経済路線領土帰属前進ゼロに終わりました。しかし、四島要求一本槍であった場合交渉の“入り口”さえ閉ざされ、現在より早い時点で完全凍結に至っていたというのが、過去実例ロシア側の一貫した主張から導けるシナリオと言えるでしょう。

−−−

アッキーの件で「安倍売国奴」って意見が多かったので尋ねてみた。

なるほどねえ。

Permalink |記事への反応(0) | 11:53

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2025-05-17

anond:20250516170620

徴兵制にも女性枠が必要だよね。

日清日露太平洋戦争までの戦死者は約350万人なので、女性戦死者がその数に達するまで女性徴兵し続けるべきだと思う。

Permalink |記事への反応(1) | 09:15

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2025-02-15

anond:20250215094416

大和」は有効活用できなかったけど、航空主兵時代になっても上陸戦前砲撃なんかには、ww2でも戦艦有用性を示したとはおもうけどね

艦種兵器種でなく、個別兵器としていうなら、あえていえば日清戦争で鹵獲した鎮遠とか…

日清時点では東アジア最大の戦艦、ただ日露時は旧式陳腐化してたから、ちょっと違うのかね

Permalink |記事への反応(0) | 11:26

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anond:20250215094416

日露戦なんか今のウクライナロシア軍と同じでアリのように突っ込んで山ほど死んで気合いで勝っただけだし

大和結果的に使えなかっただけで

日本大艦巨砲主義空母にまけたあ!とか一昔前はよく言ってたけど

空母運用大戦果あげたのは日本最初なんだよね

日本空母運用する戦法で実績あげたか戦艦過去のものになったわけで事実は全く逆

Permalink |記事への反応(1) | 09:51

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anond:20250215091500

先の大戦での戦艦大和のように無意味な大型兵器類って日露戦争ときもあったのかな?

28サン大砲を一日でうごかしたってのはフィクションだとしても、持て余す大型兵器ってのも余り

なく、きちんと機能して勝利してるよね??日露戦の勝利ってやっぱりミラクルかな?

Permalink |記事への反応(2) | 09:44

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2025-02-09

日記】RTX10090を秋葉原に買いに行く

今日の天気:雪

東京はもう一週間近く雪だ。

ネットでは即品切れのRTX10090だが、某クローズドSNS情報交換チャンクでアキバでの店頭販売情報を見つけたので参戦することにした。

電気街口を出たところではいもの様に氷河期世代ホームレス達が「アイアムルーザー♪」などと米津玄師あいみょんのような往年の名曲を歌って物乞いをしている。

除雪された雪の壁に隠れてたちんぼメイドたちがかまくらリフレに誘う裏メイド通りを切り抜け、目的の店へ。

しかし店には既に人だかりができパニック状態ロシア人店員罵声を浴びせていた。中には石を投げ出すやつまで出てくる始末。

北海道北部が昨年から日露共同汎用AI開発特区になってからこの手の連中が増えている。

遠巻きに見ているとネオ民族派らしきデブロシア人に掴みかかり「お前の股間モスクワにも大穴を開けてやる!」と叫びながら隣の有料老人ホームへと突っ込んでいった。

すると途端に鳴り渡る警報施設から屈強なセキュリティが現れ警告を発しながらもクンフーの妙技によって即座に気絶させる。

するとどこからパトカーサイレンが鳴り、群衆は散り散りに逃げ、店員も慌てて店の中に戻る。

やはりRTX10000番台の入荷自体はあったのだろう。現状西アメリカ独立国製の密輸品でなければ監視のしづらい店頭に並ぶことは考えづらい。

寒すぎるのもあって一旦VRカフェに退避し、VRChat3.0でケモミチャイナ姿の上長に買えそうな旨を報告。

日が落ちてから先程の店に向かうともう警察もいなくなっていたので、入店

入荷情報を掴んでいることをほのめかしつつ、相場の2倍近い額を提示。どうせ利用料に上乗せするだけなので強気に行くと、店員が裏から箱を持ち出してきた。

なんとそれはRTX5090の美品!

タートルシェル体制が始まる以前の、台湾製チップをふんだんに使えたグローバル経済象徴するような一品で、低消費電力化や小型化に舵を切ったそれ以降のモデルよりも性能では上だ。

ニンテンドーWのPC経由モードでも使用できるかを店員確認すると、足がつかないよう秘匿仮想通貨決済で購入し施設へ戻る。

職場のゲーミング居宅療養施設「思い切って高級老人ホームに入所したら最高の老後が待っていた件」に向かうと、積もった雪が七色のライトアップを透過して輝いていた。

報告のためす所長室へ向かうと、白髪交じりで小太りの所長がVRグラスをつけたままニャンニャン言っていたので、さっさと翔太さんの部屋へ向かう。

3900号室の翔太さんは20代の頃に配信者として成功し、その頃の動画収入が未だに振り込まれるので、こうしていつも金に糸目をつけず脱法的な高性能ゲーミングマシンを所望する。

PCの蓋を開け5090をセットし、ケーブルをベッドのモニター接続すると、無事映像が出力された。(加齢黄斑変性で片目が見えないため、VR機器使用していない)

彼が少女の姿を借りて生まれ変わったアローラ地方への冒険に出られたことを確認すると、「また1時間後に来ますね」と声をかけ退出する。

翔太さんは残念そうに唸ったが、こればかりはしょうがない。

国の規定により、介護現場における連続してのゲームは1時間までと定められているのだ。

Permalink |記事への反応(1) | 13:58

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2024-10-05

anond:20241004005120

日露第一イタリアエチオピア以外のジャイアントキリングがあれば教えてください

Permalink |記事への反応(2) | 08:54

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2024-09-20

むかし兵庫県財閥が、裁判所相談して、再保険専門の会社である日露火災設立し、一般保険会社から、厳しい年貢契約料として取り立てることにしました

当時は日本会社外国再保険会社契約できなかったからだと言われています

日露は濡れ手に粟の商売で栄えましたが、一般保険会社貧乏になり、悪徳営業や不払いが増えました

日露は巨大資産ができると、関東大震災経営困難に陥ったと言って営業を中断し、3年後には軍産系の大倉財閥吸収合併されました

資産は、かなりの部分が裁判所大本営山分けされ、地下に隠されました

それは政治家法制賄賂として渡されたり、戦時裏金としてナチスに使われました

戦後最高裁長官関係者から選ばれたのも当然のことです

彼らが今でも正義面で踏ん反り返っているのは、その地下資金があれば、いつでもハマズのようなテロ団体設立できるからだそうです

  

神戸居留地にやってきた外国人と一緒に計画したとも言われています

Permalink |記事への反応(2) | 21:07

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2024-09-10

痴人の愛』以前に「なおみ」という女性はいたのか?

日本人女性名前「なおみ」は『痴人の愛』によって広まったという説がある。

たとえば以下の記事ではこのようにまとめられている。

英語の名前 “Naomi” はもともと日本語ではなく英語だった!? | 日刊英語ライフ

この記事では「日本のナオミが海外のNaomiとどう関係しているのかハッキリとわかる文献のようなものもありませんでした」と結論されている。

ところが近年では「日本のなおみは海外のNaomiに由来する」と断言している記事も出てきているようだ。

これらの言説は真実なのだろうか。

前述の記事でも引用されているが、『痴人の愛』には以下のような文章がある。

彼女はみんなから「直ちゃん」と呼ばれていましたけれど、或るとき私が聞いて見ると、本名奈緒美と云うのでした。この「奈緒美」という名前が、大変私の好奇心に投じました。「奈緒美」は素敵だ、NAOMI と書くとまるで西洋人のようだ、と、そう思ったのが始まりで、それから次第に彼女に注意し出したのです。不思議もの名前ハイカラだとなると、顔だちなども何処か西洋人臭く、そうして大そう悧巧そうに見え、「こんな所の女給にして置くのは惜しいもんだ」と考えるようになったのです。

「Naomi」と「なおみ」が似た発音であることを谷崎潤一郎意識していたのは確実である

問題は、「Naomi」から「なおみ」という名前を考えついてヒロイン名前にしたのか、それとも「なおみ」という名前を知って「Naomi」のようだと考えて作品に取り入れたのか、ということだ。

というわけで『痴人の愛』以前の女性名「なおみ」の例を探してみよう。

痴人の愛』は1924年大正13年から連載された作品なので、それ以前の人名録のようなものが欲しい。

また、名前だけでは男の「なおみ」である可能性もあるので、性別併記されているとよい。

そこで見つけたのが『日露戦史 軍国彰勲録』である

これは日露戦争に徴兵された人々の軍歴を記したもので、日本各地のバージョンがあるようだが、この版では長野県が中心のようだ。

出版明治44年なので確実に『痴人の愛』以前だし、「妻」「長女」など続柄が書かれているので男性なのか女性なのかも判断できる。

ここに記載されている「なおみ」を抜き出してみよう。

土屋正吉 父文右衛門 母亡ミワ 妻ナオミ 兄国助

金沢右中 父長四郎 母サダ 妻ミユキ 長女なをみ

武捨作蔵 妻ちさと 長女なをみ

とりあえず3名。

少なくとも『痴人の愛』以前から女性名としても使われていた、という証明はできた。

もちろん「名付けランキングの上位に入るようなポピュラー名前だった」というほどではないだろう。

しかし、特定地域からピックアップされたなかに三名もいるなら、ごくごく少数の珍名だという感じもしない。

なお古い例としてはフレデリックイーストレイク結婚した明治2年まれの「太田なをみ」がいる。

ただし、彼女キリスト教改宗しているので、そこで(Naomiにもとづいて)改名をした可能性もなくはない。

また、少し時代は下るが昭和初期の『人事興信録』でも、明治まれの「なおみ」を何人か確認できた。

ちなみに「なおみ」が「名付けランキングの上位に入るようなポピュラー名前」になってくるのは1967年ごろからである

こちらについては1967年デビューした佐良直美の影響が指摘される(「佐良直美自体芸名である)。

明治から昭和に至るまで「なおみ」という名の女性がそこそこ存在していたことはわかった。

だが『痴人の愛前後でどのくらい増えたかはわからない。

そもそも痴人の愛』を読んで、自分の子供に「なおみ」と付けたくなるだろうか?という疑問もある。

痴人の愛』の奈緒美は、主人公結婚しているにもかかわらず、若い男たちと遊び歩いているような女性である

そこから「ナオミズム」という言葉が生まれ新時代女性象徴となったというような話もあるが、当時の辞書には、

因習的な貞操観念なき変態性欲的恋愛をいう

などと書かれており、どう考えてもポジティブ意味ではない。

ふと思ったが、「〜み」「〜美」という命名は当時(『痴人の愛』以前)から一般的だったのだろうか。

「なおみ」だけがポンと出てきたなら、西洋の「Naomi」由来というのは説得力がある。

しかし、他にも「〜み」という名が多いなら、同じ要領で「なお+み」という名付けがされても不思議ではないだろう。

というわけで再び『日露戦史 軍国彰勲録』に出てくる名前を集計してみた(ただし「とみ」「なみ」などの二字名は除外)。

  • 「勝美」「カツミ」「かつみ11
  • 袈裟美」「ケサミ」「けさみ」3名
  • 「キヨミ」「きよみ」2名
  • 「睦美」2名
  • 「初美」1名
  • 「喜遊美」1名
  • 「たけみ」1名
  • ことみ」1名
  • 「アキミ」1名
  • カスミ」1名(霞?)
  • 「喜美」1名(よしみ?きみ?)
  • 「真美」1名(まさみ?まみ?)

「〜み」「〜美」型の名前は決して珍しくなかった、と言えそうである

とはいえ、これは「なお+み」という名付けが自然だったことの傍証しかならないだろう。

結論として、『痴人の愛』以前にも「なおみ」という女性がそれなりに存在した、とは言える。

痴人の愛』をきっかけに日本に「なおみ」という名が広まったかどうかは、データがないのでわからない。

「なおみがNaomi由来である」という言説は、否定する根拠も、肯定する根拠もないままである

Permalink |記事への反応(1) | 15:13

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anond:20240910031545

アメリカがいると防衛費格安国防できるからええやん

ロシア中国みたいに全方位に喧嘩売って経済ボロボロになるよりマシ

そろそろアメリカダメそうだから軍事化してリバイバル南京日露やで

Permalink |記事への反応(0) | 04:46

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2024-09-05

anond:20240905155204

日清日露と勝ち

第一次世界大戦でも勝ち組

一回だけ負けて

朝鮮戦争では大儲け

そりゃあ、戦争嫌いになる訳がない

Permalink |記事への反応(4) | 15:55

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2024-06-23

目先の生活第一党 政策

Permalink |記事への反応(1) | 02:41

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2024-06-22

anond:20240622030637

アジア系白人ハーフはうまくいくと不思議な美しさがあって

分かる。

ロシアには美女が多い」ってよく言われることの大きな理由の一つだよね。

ロシアは一つの国に白人アジア系の両方の人種を抱えてるから必然的白人アジアハーフが多いんだが、その血の混ざりが適度にあることによって美人がよく生まれるんだろう。

ちなみに戦前日本樺太満州では日露国際結婚比較的多く、美人ハーフも多かったらしい。

Permalink |記事への反応(1) | 21:57

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2024-05-19

なんだか世の中には平和のためにウクライナロシア降伏するべきだ論者がいるらしい。

嘘つくのやめろロシア人とは思う。偽ロシア人かもしれないが。

日本人であれば、来たる21世紀日露戦争に備えて一人でもロシア兵が減るのがよいはずである

ウクライナが負けようが勝とうがなるべくウクライナ兵がロシア兵を減らしてくれることが日本に良いことである

ウクライナ人は負けたらほぼ確実に民族浄化であるから、金や物資を出したら出しただけ戦ってくれるだろう。

金や物資を出しただけで裏切らず戦ってくれるならこんなに得なことはない。

50年以内に決して日露日中戦争が起きないと考えている奴は頭がおかしい。

それを避けられる道はウクライナの大勝ぐらいである。

まりこのままいくと避けられぬ。

一兵でも多く削ってもらおう。

感情を排して打算のみですらそうなる。

感情をのせるならなおさら支援せざるを得ないであろう。

専守防衛精神から当然に導かれる本土決戦をまさにやっているウクライナを心情的に応援できない日本人がどこにいようか。

モスクワまで攻めあがったなら批判するものも出ようが到底そういう状況ではないのだから

Permalink |記事への反応(0) | 14:41

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2024-02-20

anond:20240218213830

格差や痛みは生じるがトータルでの経済パイを拡大して強い国にする

それは名目日本格差や痛みによって実際にパイを拡大しているのは、英米と、日本財閥

しか戦前日本破綻し、ソ連軍拡競争を拡大したあげく日本バブルとともに崩壊し、

またロシア破たんすれば日本も道連れになる可能性が高い(日露バランス維持)

  

暴力、カネ(経済的自由)、思想(だまくらかし選挙立法権を獲って合法化

議員の不起訴は明確な賄賂容認思想司法職員も僅かな活躍女性も、不法資本流出の支持者だ

自分の子には投資ケチって弱らせ、人の子投資しておけば、財閥は安泰だから

Permalink |記事への反応(0) | 14:06

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2023-12-25

ロシア人気持ちフル無視

日露ミックス、幼少期からロシア人コミュニティに属していて親しい友人の半数以上がロシア人なんだけど

自分欲求を満たすためにロシアロシア人をモノ感覚で利用している反日親露日本人モヤモヤする

ロシア大国、むしろロシアから離れたら困るのは西側諸国」「BRICSをはじめとしてロシアの味方はたくさんいる」「経済制裁を受けてもロシアスーパーからものは消えないし何も残ってない」とか言って喜んでるけどさ

こういう人たちってロシア人がみんなそうやって考えてロシア最高!ってなってると思ってるのかな

それらは全部データとしては事実ではあるかもしれないけど、それで万事解決ロシア最高国民安心安全ハッピーってそんなわけないじゃん

なんだかんだいってアメリカヨーロッパ韓国日本文化的に惹かれて好きだったり就職仕事で関わることを望んでいるロシア人は多いし、戦争のせいでそれが困難になって悲しんでる人がたくさんいるってわからいか

自分中国好きだけど、純ロシア人って内心中国人というかアジア人見下してるし

我が国中国北朝鮮中東アフリカと仲良しです!🤝🏻って言われても、は…はあ…ってなるわけ

かに資源やらなんやらでは心強いかもしれないし国としてはいいかもしれないけど文化的国民的にははっきり言ってつまらないし憧れでもないし別に嬉しくないし仲良くしたくないんだよ

例えばさ、日本アメリカヨーロッパの敵になってその国との交流薄まったけど北朝鮮が守ってくれるし北朝鮮アフリカのものはたくさん入ってくるご飯にも仕事にも困らない!ってなるとして

これ嬉しいの?

例えが悪いかもしれないし自分はかなり北朝鮮アフリカ文化に興味あるけど一般的にはうーん…って感じじゃない?

それにロシア経済は順調だ!とか言う人いるけどそれ戦争資源だけじゃん原油死んだら死ぬ

汚い顔のEV出して喜んでるしさ

なんかイライラしてわけのわからない文章になったけど

自分に置き換えて考えるとかしたらどうなの

自分気持ちよくなるために他国民感情をフル無視しないでほしい

Permalink |記事への反応(3) | 22:37

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2023-12-05

anond:20231204222528

たった一回の災害だけで、社会が劇的に変わるわけがない。

ちなみに過去日本近代から現代に変わるステップとして、日清日露第一次、太平洋と4回の戦争必要だった。

最低でもあと2回くらいはウイルス災害必要なのかも。

Permalink |記事への反応(1) | 21:51

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