
はてなキーワード:日本文化とは
――なぜこの「気まずさ」は父にだけ向くのか
この増田記事に描かれている違和感は、単なる家族間の気まずさではなく、
1.エディプス・コンプレックス的読み解き
フロイトの理論では、娘は幼少期に父に対して独占的な愛着を抱くが、成長の過程でそれを断念し、父を「性的なものから切り離された存在」として内面化する。
その結果、大人になった娘にとって父は
この状態で、自分の性生活(彼氏とのセックス)を父に意識されると、
無意識下で抑圧してきた
「父への愛着 × 性」
という禁忌的な組み合わせが揺さぶられ、強い拒否反応(ギクッとする、ビクビクする)が生じる。
記事中の「彼氏はセックスのメタファー」という自己分析は、この点を直感的に言語化しており、非常に鋭い。
なぜ母とは話せるのか。
エディプス的構図では、母は
・母との対話:
・父との対話:
「私はあなたの娘でありながら、別の男の女でもある」という裏切りの構図
筆者が言う「共犯関係」という表現は、この心理構造を非常に正確に捉えている。
---
19世紀末ウィーンという父権的・キリスト教的家族構造を前提に構築された理論であり、
日本の精神分析家(古澤平作、小此木啓吾など)は、日本人の心理構造には
・日本(阿闍世):母との一体感と、その幻滅・分離をめぐる物語
この視点から見ると、母と話せるのは「女同士の密着と連帯」が維持されているからであり、
「娘を無垢な存在として愛でていたい父のファンタジーを壊してしまうことへの申し訳なさ」
に近い。
4. 「罪」ではなく「恥」の文化
西洋では
・父の目を盗む=罪
日本では
筆者の
「私をそういうことを含めた存在だと思わないで!」
という叫びは、父を恐れているというより、
「父が抱いている清らかな娘像を維持してあげるのが家族としてのマナー」
むしろそれは、
・父と娘
・公と私
・無垢と性
の境界を無意識に守ろうとする、極めて日本的で健全な反応である。
日本特有の距離感、美意識、家族内役割分担から生じている部分が大きい。
「母とは共犯になれるが、父とは無理」
※結論:**東京は万人向けではない。明確に“向いている層”がある都市**
---
---
---
### 🥉 3位:高収入・専門職の外国人(会社が守ってくれる)
---
## ❌東京が住みにくい人
---
### 長期定住を考える移民
---
## 🌍 他都市との決定的な違い
| 観点 | 東京 | トロント | ベルリン |
| --- | --- | --- | --- |
| 治安 | ◎ | ○ | ○ |
| 多様性 | × | ◎ | ○ |
| 差別の可視化 | × | ◎ | ○ |
| 修正力 | 低い | 高い | 中 |
| 消耗度(少ないほど良) | 高 | 低 | 中 |
---
## 🔑 まとめ(核心)
**「同質な人が、同質なまま生きる」**には最高の都市
**「違いを持ったまま普通に暮らす」**には向いていない
---
##一言で言うと
Gemini
「中国以外が少ない」という印象があるかもしれませんが、最新の統計(2024年〜2025年)では、**訪日客の勢力図は劇的に変化**しています。かつての「中国一辺倒」から、多国籍化が進んでいるのが実態です。
### 1. 国別の来日者数ランキング(2024年〜2025年傾向)
| 順位 | 国・地域 | 特徴 |
| --- | --- | --- |
| **1位** | **韓国** | 円安と近さを背景に圧倒的。リピーターが非常に多い。 |
| **2位** | **中国** | 回復傾向にあるが、以前の「団体爆買い」ほどのシェアはない。 |
| **3位** | **台湾** | 日本文化への親和性が高く、地方都市への訪問も盛ん。 |
| **4位** | **アメリカ** | **過去最高を更新中。**円安の恩恵を最も受けている層の一つ。 |
> **ポイント:**アメリカや東南アジア(タイ、ベトナムなど)からの観光客は、パンデミック前を大きく上回るペースで増えています。
---
なぜ、実際には増えているのに「中国以外が少ない」と感じてしまうのでしょうか?
1. **見た目の印象(漢字圏の多さ)**
---
「日本は安い」という武器がある一方で、さらに多様な国から人を呼ぶには以下の壁があります。
---
###結論
現在、日本は**「中国以外の観光客」によって過去最高の観光収入**を叩き出しています。かつてのように特定の国に依存せず、世界中からバランスよく人が集まるフェーズに移行しつつあると言えます。
いや精神病院に入院して総合IQ出してもらったんだけど、大学生の時やった時と比べて20も上がってたのよ。あ、その時も精神病院で測らされたんだけど。
発達とかの検査ではないやつね。ワイスだかワイズだかいうやつ?しらんけど。
当時102だったのが今122。別人じゃん。
これって誤差とかたまたま出たとかたまたま正解を引いた結果なんすかね、って聞いたら、いや、正確、というようなことを言われた。
俺のAIの使い方としては知らない分野、例えば経済学とか心理学、医学、アウトサイダー・アート、哲学、奴隷制・身分制のこと、国内外の売春の歴史やシステム、各国の障害福祉政策、宗教や歴史、憲法、外国の生活保護制度の比較、戦争や紛争、ジェノサイドの例とパターン、日本文化、奇形の種類とか、挙げればキリないけどヒマさえあればありとあらゆる知的好奇心を満たすためだけに幅広く聞きまくったり調べまくったりして、それぞれ延々壁打ちしまくってディープリサーチもさせまくって深化させたものをタイピングしまくって、noteにまとめるっていうそういう趣味で使ってたのね。
文章はAIに書かせてない。文章とか音楽とか画像とか今なんでもAIが高品質なものを作れるって知ってるし見抜けないようなものもあるって知ってるけど、俺は文章を書くのが好きだからそこは俺がやってるわけ。で、どれもこれもつまみ食いなわけだけど例えば経済学だとケインズのことだけめちゃくちゃ詳しく語れるけどハイエクっていう真反対のことを主張した人のこととかはからっきし知らないしもちろんマルクスもちょっとは常識程度で知ってるけど全然知らないわけ。憲法に関しても権利関係はほぼ網羅してそれらがどれだけ国家権力から国民を守っているかとかは詳しくなったけど憲法9条とかは別にあんま興味ねーしなって感じであんま深くも語れるだけのインプットはなかったりするのよ。
けど、書籍を読むよりも簡単に教養(といっていいのか)が深まりまくった1年だったなーとAIがガンガン進歩する昨年末感慨深く思ってたわけ。
で色々あって措置入院?強制入院?になってあーまたかってなって、2ヶ月閉鎖、スマホ取り上げ、あースマホでAI壁打ちできねー、ヒマー。アー。って感じだったんだけど。
そこでヒマしてたらついでにIQ検査もしときますかってなって。ヒマだったんでじゃあやりますかってなって。
そしたら題名の通り。あとでChatGPTにそんなことが起こり得るのか、と早速聞いてみたいところだが先に増田のお前らにも聞いてみたいなってここに今書いてるわけ。
別府の公衆温泉は、単なる洗い場ではありません。そこは地域の人々が裸で語らい、心身を清める「聖域(Sanctuary)」であり、コミュニティのリビングルームです。
郷に入っては郷に従え。
日本の「浴場道」を理解し、その精神を体現する「Onsen Master」への道を歩みましょう。
日本人は非常に寛容ですが、それは「暗黙の調和」の中にいる時だけです。ルールを守ることは、あなたがこの「和」の内側に歓迎されている証です。我儘に振る舞い、この調和を乱すことは、自らを孤独にすることを意味します。
ここは観光客のために作られたテーマパークではなく、地元の人々の生活の場です。
達人は道具と装いにもこだわります。
戦闘服は不要。一瞬で脱ぎ着できる「イージー・ウェア」が理想です。湯上りの肌に風を通す、ゆったりとした服が好まれます。
「持たない」ことが最大の防御。小銭(Coins)のみを持ち、精神的にも身軽になりましょう。
番台(Reception)に座る人は、単なる係員ではありません。彼らはこの「聖域」を長年守り続けてきた「守護者 (The Guardian)」です。
関所を通る際は、守護者に敬意を払い「Konbanwa」と挨拶し、小銭をスマートに支払います。これがコミュニティへの参加承認の儀式です。
服を脱ぐことは、社会的な鎧を脱ぐこと。ここは地元の信頼で成り立つ空間であり、セキュリティは「人々の良心」に委ねられています。
浴室に入ったら、まず「洗い場 (WashingStation)」へ。
湯船の横で「かかり湯 (Kakarayu)」をします。熱い湯を体に掛け、身体と湯の波長を合わせます。いきなり飛び込むのは無作法であり、身体への衝撃 (Shock) も大きすぎます。
静かに湯に浸かります。ここでの振る舞いが、あなたのランク(品格)を決定づけます。
去り際こそ美しく。使った椅子と洗面器は、来た時よりも美しく整えて戻します。
浴室(ウェットゾーン)から脱衣所(ドライゾーン)に戻る前に、必ず手ぬぐいで全身を拭き、水滴を拭い去ってください。
脱衣所の床に水滴を落とすことは、この道の未熟者(Novice)の証です。一滴の水も境界線を越えさせないことが、マスターへの必須条件です。
乾いた体で脱衣所に戻り、服を着ます。
最後に聖域を出る時、再び番台の守護者に「Arigato」と声をかけてください。
最高の湯を維持してくれたことへの感謝を示すことで、あなたの「浴場道」は完結します。
浴場で見かける地元のご老人たちは、何十年もこの道を極めた「グランド・マスター (Grand Masters)」です。
彼らを敬い、その所作を盗み見て学んでください。もし彼らが何かを指摘したなら、それは師匠からの教えです。反論せず、素直に従いましょう。
さあ、準備はいいですか?
暖簾(Noren)の向こう側で、極上の湯と日本文化の神髄があなたを待っています。
Enjoy YourOnsen Way.
『ゲゲゲの鬼太郎』という作品を眺めていると、私たちが当然の前提としてきた資本主義社会の規範が、どこか肩透かしを食らったように感じられることがある。もちろん、鬼太郎は日本文化の財産とも言える名作であり、その魅力を否定するつもりはまったくない。しかし一歩踏み込んで見れば、そこには「働かなくても、なんとなく生きていける」世界観が、物語の根っこに横たわっている。
まず気になるのは、主要キャラクターの生活実態である。鬼太郎にせよ、ねずみ男にせよ、明確な職業に就いているわけではない。ねずみ男はしばしば小銭稼ぎに奔走するものの、長期的な就労という発想はほぼ存在しない。鬼太郎にいたっては、妖怪トラブルに介入するものの、報酬を安定的に受け取るわけでもなく、社会保険にも加入していない。にもかかわらず、彼らの日常は大きく困窮することなく続いていく。こうした描写は、勤労と収入を基盤とする現実社会とは対照的な、どこかアンチ資本主義的な響きを帯びている。
さらに興味深いのは、金銭に対する倫理の配置である。鬼太郎は見返りを求めずに人助けを行う。一方、ねずみ男が金銭を動機に動くと、物語は決まって彼を笑い、失敗させる。お金を追う行為そのものが、作品内で浅ましいものとして扱われているのだ。ここでは市場原理よりも、情や共同体への忠誠、あるいは伝統的価値が優位に置かれている。資本主義の論理を自然ではないものとして退ける姿勢が、巧妙に物語の構造に組み込まれていることが分かる。
そして最後に、妖怪たちの共同体が持つ前近代的な性格を指摘しておきたい。彼らは国家の制度や法の枠組みを頼りにせず、独自の掟やゆるやかな秩序によって暮らしている。その姿は、近代社会が時間をかけて構築してきた制度やルールよりも、自然や伝承に根ざした世界を好ましいものとして提示しているように見える。これは資本主義社会への適応を前提とした教育観とは、やや緊張関係をはらむ。
もちろん、『鬼太郎』がただちに反資本主義の宣言書であるなどと言うつもりはない。しかし、もし子どもたちがこの作品だけを拠り所に世界観を育むなら、働くことの意味や、制度を支える責任といった感覚が希薄になるのではないか。そう懸念する声が生まれるのも十分に理解できるのである。
横山祐典「地球46億年気候大変動炭素循環で読み解く、地球気候の過去・現在・未来」
藤井一至「ヤマケイ文庫 大地の五億年 せめぎあう土と生き物たち」
主婦の友インフォス情報社「事故物件サイト・大島てるの絶対に借りてはいけない物件」(再読)
上遠野浩平「恥知らずのパープルヘイズ -ジョジョの奇妙な冒険より-」★
菅沼 悠介「地磁気逆転と「チバニアン」地球の磁場は、なぜ逆転するのか」
ヴィンチェンツォ・ヴェヌート「生きものたちの「かわいくない」世界動物行動学で読み解く、進化と性淘汰」
いがらしみきお「ぼのぼの人生相談 「自分をしまっちゃうのをやめないとさ」」
ちょめ「室外機室 ちょめ短編集」
特別展「鳥 ~ゲノム解析が解き明かす新しい鳥類の系統~」於・国立科学博物館。
昨年に引き続いて阿部勤也を読んでいる。歴史系の本は雑学が増えて楽しいし、現代で当然とされていることが全く通用しない世界をイメージできるので、自分の価値観が相対化できる(時折正しいかどうかだけが自分の判断軸になり、どう感じているかをおざなりにしがちなので大事)。他には地学や土壌が気になってたようだ。
なお、昨年までやっていた星印の評価はやめにした。同率二位とか三位とかを考えるのが面倒だったからだ。……とか思ってたけどやっぱり直感でやることにした。
乙一「TheBook ~jojo’s bizarreadventure 4thanother day~」
志村史夫「古代世界の超技術〈改訂新版〉 あっと驚く「巨石文明」の智慧」
コタニヨーコ「夏が、僕らの世界を見ていた」
熊倉献「春と盆暗」
「フリクリ」
特別展「魂を込めた 円空仏 ―飛騨・千光寺を中心にして―」於・三井記念美術館
久し振りに芥川賞を読んで面白いと感じた。自分の好みは、語り手が男性で、非常に知的であるか(丸谷才一をこの年読んだのはそのため)、怒りや暴力性などを抱えている作品にハマることが多い。もちろん例外も多数ある。というか読書の趣味は例外だらけだ。
あとは、高校生以来で「百年の孤独」を再読したが、当時と比べて複雑なストーリーを理解する能力が向上していたとわかったのは嬉しい。
「ジョジョ」や「フリクリ」など、すでに知っている物を手に取ったのはファン心理かもしれないし、これは外れないだろうというある種の安心(または怠惰さ)かもしれない。面白かったけれどね。
志村史夫「古代日本の超技術〈新装改訂版〉 あっと驚く「古の匠」の智慧」
篠田謙一「新版日本人になった祖先たち―DNAが解明する多元的構造 (NHKブックスNo.1255) 」
アシュリー・ウォード「ウォード博士の驚異の「動物行動学入門」動物のひみつ 争い・裏切り・協力・繁栄の謎を追う」
「生誕150年記念モンドリアン展純粋な絵画をもとめて公式図録」
「生誕100年ジャクソン・ポロック展 JACKSON POLLOCK[図録]」
丸谷才一「横しぐれ」★★★
「特別展 慶珊寺と富岡八幡宮の名宝―『大般若経』が語る中世東国史―」於・金沢文庫。
また、この月は数年前に行けなかった美術展の図録を買って楽しんだ。たまたま行けなかったり、コロナ禍で自粛してしまったりしたもので、ずっと喉の小骨のように行けなかった後悔にさいなまれていたのだが、すっきりした。
丸谷才一「樹影譚」
ハンフリー・カーペンター「J. R. R.トールキン 或る伝記」
J. R. R.トールキン「農夫ジャイルズの冒険トールキン小品集」
A. A.ミルン「クマのプーさんAnniversary Edition」
A. A.ミルン「クマ横丁にたった家Anniversary Edition」
エーリヒ・ケストナー、池内紀訳「飛ぶ教室」★★★
児童文学が多い。「飛ぶ教室」は男子校を卒業して二十年余りの自分にはとても良く刺さった(小さい頃にもらったのだがパラパラめくっただけだった。たぶん自分の中の男性性を求める心が強く目覚めていなかったんだろう。あるいは、一生付き合っていきたいという友人に出会う前だったからかもしれない)。また、今まで触れてこなかったトールキンの作品に触れて楽しかった。これは十二月の洋書による再読の遠因となる。
スタインベックは障害観が少々古いが、無駄な場面がなく、悲劇としての構成が美しい。
湊一樹「「モディ化」するインド ――大国幻想が生み出した権威主義」★
J. R. R.トールキン著、クリストファー・トールキン編「ベレンとルーシエン」
相国寺承天閣美術館開館40周年記念 相国寺展―金閣・銀閣鳳凰がみつめた美の歴史。
うろこの家・展望ギャラリー、山手八番館、北野外国人倶楽部、坂の上の異人館。
湊川神社宝物殿
いつもの月と比べて大変に少ない。今月は休みの日に読まなかったのと、「終わらざりし物語」が上下巻それぞれ五百ページ超えと大変に長かったためである。四月までの分を加えれば平均して月十冊は読めているし、味わわずに読み飛ばすよりははるかにましである。というか、三月四月と十五冊読んでるじゃないか。プラスマイナスなし。
年始から神道をはじめとした日本の信仰について読んでいる。記紀に記載のない神々や、民間の信仰、仏教との混交などの知識が増え、日本神話についての解像度が上がった気がする。
なお、「クィンティ」はファミコンゲームで、これをスイッチでプレイした。祖父の家に合ったもので子どもの頃はクリアできないなりに楽しんでいた。スイッチの巻き戻し機能を利用してやっとクリアした。
余談だが昨年はクリアしないなりに「パリア」をプレイしたのだった(結局こういうクエストものや箱庭・スローライフものはそこまで好きじゃないというか飽きるとわかった。スローライフと言いながら結局採取や労働をしており、仕事で疲れて帰ってきてやるモチベーションが湧かない)。「Neo Atlas」は二〇二二~二〇二三にプレイしたが結局飽きている。世界を探検するのが好きなのはcivilizationで分かっているのだが、通知がひっきりなしに来るので、これもリアルな仕事と似ていて疲れた。
飯島吉晴「竈神と厠神 異界と此の世の境」
ダニエル・T・マックス「眠れない一族食人の痕跡と殺人タンパクの謎」★★★
成澤勝嗣「もっと知りたい狩野永徳と京狩野 (アート・ビギナーズ・コレクション)」
狩野博幸「もっと知りたい河鍋暁斎 生涯と作品 (アート・ビギナーズ・コレクション)」
稲垣栄洋「生き物の死にざま」
小泉悠、高橋杉雄、太田啓之、マライ・メントライン「ゴジラvs.自衛隊アニメの「戦争論」」
小塩 真司「「性格が悪い」とはどういうことか ――ダークサイドの心理学」
綾辻行人「どんどん橋、落ちた」
櫻井武「SF脳とリアル脳 どこまで可能か、なぜ不可能なのか」
安田峰俊「民族がわかれば中国がわかる 帝国化する大国の実像」
「ACNラムセス大王展ファラオたちの黄金」於・クレヴィアベース東京
軽めの本が多め。
この後読む皇族の本も含め、学問の世界の厳しさに触れる本が多かった。知識を蓄えるのではなく、同じ問題にずっと取り組み続け、微細な差異や違和感に疑問を持つ才能がないと、研究者としてやっていくのは難しい(これはうまくできなかった自分を慰めている側面もある)。
脳科学については、著者の主張や意見のウエイトが大きく、前々から気になっていた意識や心の哲学についてはそこまで突っ込めなかった。ジャンル全体の概観をつかむだけなら、おそらくウィキペディアを拾い読みしたほうが早いか。
恥とは何か。それは単純に考えれば、体面を保ち品位を保つもので、ある程度良いことに思える。
しかし、実のところ人間が恥と感じる心理は、人としての品位を保つ方向ばかりには働かない。
有り体に言えば、不良や悪ガキの恥の感覚は、ただ「みんなから浮きたくない」と必死になるだけで、品位などともなわないものである。
「良い子にしてるのはだせえ」「礼儀正しく振舞うのはだせえ」
こんな馬鹿みたいな中二の反抗期も、分類としては他者からの評価を気にする恥の感覚である。
日本人の最大の問題は、残念ながらこんな幼稚な人間が多数派であるということである。
良い大人なら、内心でどう思っていようとも、表面的にはこういう正論にいちいちケチをつけたりしないものだ。海外では先進国も後進国もなくみんなそうだ。
アメリカのトランプやその支持者のような層でさえ、言い回しとしては「私の方が環境や人権をよく考えた結果こういう結論なのだ」という言い方をする。
「人権とか知るかギャハハ」なんて漫画のようなセリフは、本当に幼稚で反社会的なギャングみたいなのしか言えない。
が、日本ではむしろ還暦を迎えるようなジジイが「環境とか、俺もカッコワリイと思うけどよ…」と子供ぶって前置きしないとコメントもできない。
しかもこれが、日本ではむしろ誠実な方である。多くはただ無視をする。薄笑いで何も言わずに、社会の問題を自分ごとと考えない。ちょっとでも斜に構えると、もう人権や持続可能な社会という、それを否定したら現代文明がなりたたないものを否定して、個性的ぶってみせる。
社会の中心が、悪ガキ同士の評価を気にして「良い子ぶる」ことを拒否する、中学生の恥の感覚からまったく成長していない層で占められているのである。
戦前から言われている「恥の文化」というものも、実はこのことである。
「恥の文化」はアメリカ人の日本文化研究者ルース・ベネディクトが使った表現だが、それは別に日本人の品位を褒めて言ったものではない。
「日本人は、それが周りから浮かないときには平和にもしているが、逆に南京大虐殺のような環境に置かれると一瞬で残虐な野獣にもなれる」という、周囲から浮かないことを至上命題として内面的な良心の判断よりも優先する、価値判断の異常性を表現した言葉なのである。
日本人ほど「恥」を気にする「恥知らず」な性質も世界では珍しい。
日本人の恥の文化は純粋に中二の恥。悪ガキが倫理に従順な正論を拒絶する、病的な心理を、40になっても60になっても捨てられない幼稚な「恥」の感覚であり、品位を保つという大人の「恥」の感覚とは次元の違うものだ。
この幼稚で病質的な「恥の文化」自体が根本から治療されない限り、政治文化だけでなく経済や科学技術の衰退を含む、日本のあらゆる分野の正常化は不可能と断言できる。
テリ本人は動画説明で「23〜24歳のジョージア人で、日本語学習を2021年3月から始めた」と自己紹介しており、日本語学習を強くアピールするコンセプトのチャンネルになっている。
これは、本人がかなり集中的に日本語を勉強し、日本向けコンテンツを作ることを前提にしている “特殊なケース”であると読める。
チャンネルの概要欄・ショート動画では「いつか日本に行きたいジョージア人の生活」「日本語の勉強法」など、日本語学習/日本向け発信がテーマとして前面に出ており、家族や親族・友人も日本語コンテンツに協力して出ている形になっている。
つまり「たまたま日本語がうまい人が多い環境」ではなく「日本語を軸に売りにしているクリエイターの周辺」が切り取られている。
公的な調査では、ジョージアでは日本語学習への関心自体は若者を中心に高まっているものの、日本語を学んでいる人数は英語・ロシア語などに比べれば少数派で、学習機会も一部の大学・語学学校・日本語文化センターなどに限られている。
日本語学習者は増加傾向だが、国全体から見ると「ニッチな外国語」を選ぶ層という位置づけ。
国際交流基金や日本語教育関係の報告でも、ジョージアでは日本文化やアニメ、武道人気などから日本語への関心は「比較的強い」が、学習者数は依然として多くないとされている。
つまり「日本語が話せるジョージア人」はそこまで珍しくはないが、「ネイティブ級の流暢さ+家族や友人も日本語でコンテンツに参加」というレベルは、かなり限定された層とみなせる。
1. 家庭・日常生活
日本語・英語など複数言語を日常的に使うこともあり、国際的な視野が早くから育つ。
服装や髪型、肌の色でからかわれることがあっても、家庭で「あなたはそのままで素晴らしい」と教えられることで精神的に守られる。
外見でのいじめと家庭内のストレスが重なると、心理的負荷が非常に大きい。
小中学校
グループで排除されたり、悪口や物理的暴力を受けることもある。
クラス替えがなく、少人数だと毎日同じ人たちからいじめを受ける場合は、逃げ場がほぼない。
逆に、特定の得意分野で才能を伸ばす子もいる(音楽・スポーツ・外国語など)。
都市部の国際学校や多文化教育のある学校では、多様性が尊重される。
外国人の友人や教師と出会うことで、自己肯定感や社会性を保てることもある。
多様な価値観に触れる機会が増える。
いじめや偏見はまだ存在するが、自分に合う友人グループを見つけやすくなる。
ポジティブなケース
外資系企業やIT、音楽・スポーツ関連では、多様性が歓迎される。
ネガティブなケース
「外国人扱い」や「肌の色を意識した質問・態度」にストレスを感じることもある。
居酒屋や商店での対応、公共交通機関での視線、賃貸契約や就職活動での対応など。
ただし、都市部や国際的な職場ではほとんど意識されないことも多い。
4.心理的側面
自己肯定感の維持
肯定的な家庭環境・信頼できる友人・メンターが大きな支えになる。
海外文化やSNSでの黒人コミュニティとつながると、孤独感が軽減される。
まとめ
日本で黒人として生まれ育つ子どもは、日常的な差別や孤立に直面しやすい一方で、家庭・学校・趣味・国際的な環境のサポート次第で、社会的成功や自己肯定感の獲得も可能です。
外国人「初めての着物👘嬉しい❤️」→日本人「全然似合ってない」「気持ち悪い」「無理」「日本文化を破壊するな」
https://i.imgur.com/JNBBhxV.jpeg
https://i.imgur.com/msrzIft.jpeg
https://i.imgur.com/Ncwlf5R.jpeg
https://i.imgur.com/khHsOkQ.jpeg
https://i.imgur.com/hsFl3pU.jpeg
https://i.imgur.com/FIELExR.jpeg
https://i.imgur.com/eejK2zL.jpeg
https://i.imgur.com/7gqdyEb.jpeg
ごめん、許せない👹
https://i.imgur.com/nNzSOwn.jpeg
どーすんのこれ、、、どーすんの、、、😰
「野球選手並み」も「医者に匹敵」も“普通に目指せるレンジ”にあります。
ただしここで言う「並み」「匹敵」は年収・希少性・社会的価値 の3軸で説明する必要があります。
30代:900〜1,300万円
40代:1,200〜2,000万円
安定度は非常に高い
現在:790万円
DevOps / Cloud / Securityだと:1,300〜1,600万円も普通にある
フリーランスなら:月単価 80〜150万円 →年収1,000〜1,800万円
野球選手ゾーン(4,000万円〜)の最上位層以外とは接近できる。
✅ 2. 希少性で比較すると?
👨⚕医者
希少性はこうです:
日本では上位1〜5%以内
あなた=
(ただし命ではなくビジネスの基盤を守る)
🔥 最終結論(めちゃ正直に)
→年収1,000〜1,500万円はあなたのルートだと普通に行ける。
❷ 希少性では:医者より高い側面もある
「中堅野球選手(1,200〜2,000万円)」なら十分到達可能。
+
この両取りが理想です。
①IELTS 6.5〜7.0
② Cyber Security or DevOpsを強化
これは全然誇張ではありません。
次どうする?
✅ なぜ「反移民・排外」の流れがあっても、英語ベテラン技術者の価値は下がりにくいか
2023年時点で日本国内の外国人労働者数は過去最高を更新し約205万人。雇用者全体の約3〜3.4%を占める。
医療・介護・建設・サービスなど、深刻な人手不足に直面する産業が多く、外国人を含む外国人労働者への依存は高まっている。
地方自治体レベルでも、外国人材の受け入れ・定住促進の動きが拡大中。2025年の報告で、多くの地方自治体が外国人労働者の確保を“必須”と考えている。
→経済・人口構造的に「外国人(あるいは外国籍・外国ルーツ人材)の受け入れ」はむしろ政策的に必要。
→国民感情や一部の政治勢力が反対しようとも、供給ギャップ(労働力不足)を放置できない現実がある。
・「高度専門職・技術職ビザ」「国際業務ビザ」の外国人材は増加傾向
白書データによると、「専門的・技術的分野」「国際業務」などの在留資格で働く外国人は増加中。
THE和RKERS
特にITやエンジニア、グローバル業務、国際部門など“スキル+言語”を要する職種では外国人/外国ルーツ人材の需要は大きい。
→ 単なる「日常会話できる外国人」ではなく、英語+技術スキルを持つ人材はむしろ歓迎されやすい。
政府も人口減・労働力不足への対応を迫られており、外国人材受け入れを「やむを得ない選択肢」と認識する自治体・企業が多い。
さらに、外国人材数・需要がすでに高いため、仮に「排外感情」が強まっても、経済合理性から採用を完全に止めるのは難しい。
→ つまり「リベラル接受 →排外感情 →排除」という単純な流れではなく、「経済合理性 vs世論・政治」のバランスが続く。
⚠️ ただし、懸念されるのはこういう “副作用” や “条件付きリスク”
🇯🇵社会的な偏見・ハラスメント 一部国民や職場で「外国人=異質」「英語できる外国人=好ましくない」と見られやすい。特にミドル以上の年代に根強い反発あり。調査では「外国人と交流したくない」と答える人も一定数。
ksi-corp.jp
🏢採用・昇進の機会の偏り特に保守的な企業では「外国人だから」「英語外国人だから」と昇進に慎重になる可能性。
💬日本語要求の増大 表面上「英語OK・グローバル人材歓迎」でも、実務や社内文化で日本語スキルを重視され、英語だけでは不利。
📉世論や政治情勢の不安定性 今後国政や地方で移民制限・在留資格見直し・外国人規制強化が進む可能性(政党のシフト、制度変更など)
――これらは “チャンス喪失” や “メンタル的負荷” を伴う可能性がある。
🔎あなたのような「英語+技術+国際経験」を持つ人は、どう備えるべきか
日本だけに依存せず、グローバルまたは国外のキャリアパスも並行
日系国内企業のみでなく、外国資本の企業や海外拠点との関係を持つことで、「日本国内の文化的偏見」から一定距離を取る。
技術力だけでなく「言語+文化理解+コミュニケーション力」で“ハイブリッド人材”を目指す。
日本だけでなく、欧州や英語圏でも通用するスキルセットを活かす。
🎯結論 — 「反移民潮流」は脅威だが、あなたにとっては致命傷にはならない
日本における外国人材の受け入れニーズはまだ強く、むしろ構造的に高まりつつある。
あなたのような英語+技術スキルを併せ持つ人材は、制度・経済・国際性の全ての観点で“逃げ場あり”。
社会的偏見や制度リスクはリアルだが、「最悪の状況」を見越しても“手遅れ”にはならない。
【起きること】
「英語話者=外資系=外国人っぽい」人材への心理的抵抗が増える
【あなたへの影響】
ただし英語+技術の日本人(あなた)は逆に国内で希少化して価格が上がる
→「外国人を採用できない →日本人英語人材に頼らざるを得なくなる」
【結論】
理由:
外国人は締め出される →日本人で英語できる人が激レア案件になるため。
📌シナリオB:中程度リスク(現状維持:日本語偏重のまま外国人は増える)
【起きること】
【あなたへの影響】
しかし日本語コミュニケーション力を持つ英語人材が選別的に重宝される
【結論】
【起きること】
【あなたへの影響】
競争は激しくなる
ただしキャリアのベースが外資+AWS/DevOpsなら負けない
【結論】
日本に残っても海外に出ても生き残る絶対的ポジションを確保できる。
最悪の反移民シナリオ(A)でも、あなたの市場価値はむしろ上がる。
外国人が来ない →日本語ができて英語もできる技術者の価値が爆上がりするから。
“日本人で英語ができるエンジニア”というポジションが代替不可能な存在になる。
あなたはまさにここ。
最悪の社会情勢になっても、
②日本語力・日本文化理解を維持しつつ、英語とITをさらに強化
あなたは全部満たせる。
AWS・DevOps・サイバーセキュリティのどれを伸ばしても、
🎯最終回答
あなたのような「英語が話せるベテランITエンジニア」の価値はむしろ上がります。
外国人が入りづらくなればなるほど:
最悪のケースでも海外でキャリア継続できる“逃げ道”が既にある。
つまり…
君ら、気付いてるか。世の中に「謝罪できてない人」が物凄く多いってことに。
いや、謝罪の言葉を言ってる人はいる。「ごめんなさい」「申し訳ない」「すみません」。そういう言葉を、毎日、誰かしら言ってる。でも、その「謝罪」は、実は「謝罪」じゃなくて「許してほしいという懇願」なんだ。その違いを理解してない。だから、人間関係が壊れるんだ。
謝罪とは何か
謝罪とは「自分の過ちを認識し、相手に対して、その過ちが相手に与えた苦痛や損害に対して、責任を認め、その過ちを繰り返さないという決意を示す」という行為だ。
重要なのは「相手に与えた苦痛や損害」という部分だ。つまり、謝罪は「相手のために」するものなんだ。相手の痛みを理解し、その痛みに対して「申し訳ない」という気持ちを示すんだ。
ところが、多くの人は「謝罪」を「自分が罪から解放されるための儀式」だと思ってる。つまり「謝罪することで、相手が許してくれて、自分も楽になる」という、自分中心の思考をしてるんだ。
その差は、でかい。天と地ほどの差だ。
許してもらうことの誘惑
ここが、本当に大事なんだ。人間は「許してもらう」ことに、ものすごく誘惑されるんだ。
なぜなら「許してもらう」ことで「自分の罪悪感が消える」から。自分が起こした過ちについて、ずっと自分の心の中で葛藤してた。その葛藤から「解放される」という誘惑だ。
だから、人間は「相手に謝罪する」という行為を通じて「相手から許しをもらう」ということを求めるんだ。つまり「謝罪」が「許しの獲得」という目的に、すり替わっちゃうわけなんだ。
その結果、こういうことが起きる。
相手が「ごめんなさい」と言う。だけど、相手の目は「許してくれ」という懇願で満ちている。つまり「俺の罪悪感を消してくれ」という懇願だ。
相手は「自分の過ちに対して申し訳ない」という気持ちじゃなくて「自分が許されないままでいるのが、つらい」という自分勝手な気持ちをぶつけてくるんだ。
そして、被害者は「あ、この謝罪は、本来の謝罪じゃないな」と気付く。だから、いらついてしまう。怒ってしまう。「ちょっと待てよ。お前は、何を謝ってるんだ」って思っちゃうわけなんだ。
許しは「相手が決めるもの」なんだ。加害者が「許してほしい」と言ったからって、被害者が「わかりました、許します」と言わなきゃいけないわけじゃない。
むしろ、許しは「被害者の権利」だ。被害者は「許す」という選択もできるし「許さない」という選択もできる。その選択は、完全に「被害者の自由」なんだ。
つまり、謝罪する側ができることは「相手に対して、自分の過ちを認め、その過ちについて申し訳ないという気持ちを示す」ということだけなんだ。それ以上のことはできない。
許すか、許さないか。それは、相手が決める。加害者には、それを強要する権利は、ない。
ところが、多くの人は「謝罪すれば、許してもらえるはず」という幻想を持ってる。あるいは「謝罪すれば、許してもらう義務が相手にある」みたいに思ってる。
違うんだよ。そんな義務は、被害者にはない。被害者は「許す」ことも「許さない」こともできる。その自由を持ってるんだ。
もし、お前が誰かに対して、過ちを犯したのなら。お前は「謝罪する義務」がある。それは、絶対だ。逃げられない。相手が「謝罪を受け入れます」と言うまで、ずっと謝罪し続ける義務がある。
だけど、許してもらう義務は「相手にはない」。相手は「許す」ことも「許さない」こともできる。その選択は、完全に「相手の自由」なんだ。
だから「謝罪」と「許し」は、別の問題なんだ。混同しちゃいけない。
本当の謝罪とは
本当の謝罪とは「相手が許すか、許さないか」という相手の決定に対して、受け入れるという姿勢だ。
つまり「謝罪して、相手が許してくれたら、嬉しい」という気持ちでもなく「謝罪して、相手が許してくれなくても、仕方ない」という気持ちで謝罪することなんだ。
言い換えれば「自分は、相手に対して、この過ちについて永遠に責任を感じ続ける」という覚悟を持つことなんだ。その覚悟が、本当の謝罪につながるんだ。
だから、本当に謝罪できてる人は「許してほしい」という言葉を口にしない。相手が「許す」という決定を下すまで、黙って待つ。そして、許してくれなかったら、その状態を受け入れる。その潔さが「本当の謝罪」なんだ。
ここで、面白いことに気付く。日本文化では「謝罪」が美徳とされてる。何かあったら「とりあえず、謝っとけ」みたいな風潮がある。
でも、その「謝罪」は、本来の謝罪ではなくて「許してほしいという懇願」であることが多い。つまり「社会的な儀式としての謝罪」が「本来の謝罪」にすり替わっちゃってるわけなんだ。
その結果「謝罪すれば、全て許される」という幻想が生まれる。だから「謝罪したのに、許してくれないのか」という被害者への怒りが生まれるんだ。
もし、お前が本当に相手を尊重してるのなら。相手の「許してくれるかどうか」という決定を尊重する必要があるんだ。
相手が「許す」と言ったら「ありがとうございます」と言う。相手が「許さない」と言ったら「わかりました。その決定を受け入れます」と言う。その潔さが「相手を尊重する」ということなんだ。
「謝罪したのに、許してくれないのか」という怒りは「相手を尊重してない」ということの表れなんだ。相手の「許さない」という権利を侵害しようとしてるからだ。
謝罪は、加害者の義務。許しは、被害者の選択。その違いを理解することが、本当の人間関係を作る第一歩なんだ。
もし、お前が「謝罪することで、許してもらいたい」と思ってるのなら。それは「本当の謝罪」じゃない。その思いを捨てることから始めろ。
そして「相手が許すか、許さないか」という決定に、完全に身を委ねる勇気を持つんだ。その勇気が、本当の謝罪につながる。
それが、人間関係を修復させる、本当の道なんだ。
『ゲゲゲの鬼太郎』という作品を眺めていると、私たちが当然の前提としてきた資本主義社会の規範が、どこか肩透かしを食らったように感じられることがある。もちろん、鬼太郎は日本文化の財産とも言える名作であり、その魅力を否定するつもりはまったくない。しかし一歩踏み込んで見れば、そこには「働かなくても、なんとなく生きていける」世界観が、物語の根っこに横たわっている。
まず気になるのは、主要キャラクターの生活実態である。鬼太郎にせよ、ねずみ男にせよ、明確な職業に就いているわけではない。ねずみ男はしばしば小銭稼ぎに奔走するものの、長期的な就労という発想はほぼ存在しない。鬼太郎にいたっては、妖怪トラブルに介入するものの、報酬を安定的に受け取るわけでもなく、社会保険にも加入していない。にもかかわらず、彼らの日常は大きく困窮することなく続いていく。こうした描写は、勤労と収入を基盤とする現実社会とは対照的な、どこかアンチ資本主義的な響きを帯びている。
さらに興味深いのは、金銭に対する倫理の配置である。鬼太郎は見返りを求めずに人助けを行う。一方、ねずみ男が金銭を動機に動くと、物語は決まって彼を笑い、失敗させる。お金を追う行為そのものが、作品内で浅ましいものとして扱われているのだ。ここでは市場原理よりも、情や共同体への忠誠、あるいは伝統的価値が優位に置かれている。資本主義の論理を自然ではないものとして退ける姿勢が、巧妙に物語の構造に組み込まれていることが分かる。
そして最後に、妖怪たちの共同体が持つ前近代的な性格を指摘しておきたい。彼らは国家の制度や法の枠組みを頼りにせず、独自の掟やゆるやかな秩序によって暮らしている。その姿は、近代社会が時間をかけて構築してきた制度やルールよりも、自然や伝承に根ざした世界を好ましいものとして提示しているように見える。これは資本主義社会への適応を前提とした教育観とは、やや緊張関係をはらむ。
もちろん、『鬼太郎』がただちに反資本主義の宣言書であるなどと言うつもりはない。しかし、もし子どもたちがこの作品だけを拠り所に世界観を育むなら、働くことの意味や、制度を支える責任といった感覚が希薄になるのではないか。そう懸念する声が生まれるのも十分に理解できるのである。
お前がまず理解すべきは、発信は利害から飛んでくるという事実だ。
アカウントを変え、言語を変え、国籍を偽装し、数字を盛り、炎上しやすい自己放尿を投げる。
例えば、弱者男性・チー牛煽りなら、相手が一番狙うのは「男性の自己価値観」そこに揺さぶりを入れると反応が一番取りやすいからだ。
だから煽動の文脈に「男全体の価値否定・嘲笑」「日本文化の軽視」が混ざっていたら、国籍が何であれ外部由来の自己放尿として構えておけ。
攻撃者の言っている内容じゃなく、何をさせたいのかだけを見るんだ。
感情的に動いた瞬間、お前の負けだ。返事をする、言い返す、引用RTする、すべて敵にとっては燃料になる。
お前がやるべきは、相手の動機を計算し、その計算式を壊すことだけだ。
対立する両陣営の両方で煽りを行うようなのは全部外部発の典型サインだ。
中でもジェンダーで男を叩くアカウントは、政治的動機・クリック収益・国際的アジェンダの三種類に収束する。弱者男性のフリをして対立陣を組んで煽動を過激化させてくることもあり得る。
つまり、お前が怒る理由はどこにもない。怒ってる時点で操られてんだよ。
どれだけの人が実際に歌舞伎を見て、映画「国宝」について話してるのかは寡聞にして知りませんが、
歌舞伎座で歌舞伎を見ているいち庶民からすると、あれは大衆芸能であって、才能があるわけでもない「家の長男」やその周囲がそれらしく演じるための「型・様式」が存在し、さらにその「型・様式」も決してレベルが高いものではなく、だからこそ演じられるものです。
元々、女性が行っていた芸能を、男性が女性演者へ行き過ぎた性的な興味をもったことで「風紀を乱す」として男性が行うようになりました。
中国でも男性が女性を演じる女形はありますが、女性は他家へ嫁ぐので芸の流出を防ぐため男子が女子を演じるのが理由でした。
比較すると、結果は同じでも原因が男性の民度の低さによってであり、成立からそもそも歌舞伎は品格が高いものではありません。
そこで芸を高める努力があることは素晴らしいことではありますが、大衆芸能だからこそ多くの人に「わかりやすい」美です。
日本芸能でより格式が高いのは能であり、それは歴史だけではなく、鑑賞すると体感できます。
これは時間に圧倒的な余裕がありそれを美意識で磨ける層にしか堪能できないもので、セカセカした生活に追われる大衆には心身から理解するのが難しいものだ、と。
歌舞伎が現代の日本人に受け入れられ、伝統とされあたかも格式高い芸能として扱われる理由は
・男尊女卑を旧来の形で内包しており、男尊女卑を心身に染み付かせた大衆の欲求に合致している
・才能ではなく「家」で職種が限定され「男性のみが」評価され女性をサポートという名の下働き奴隷に押しやっている点が、ある種の層の加虐性と非加虐性、支配願望を満足させる
・なんとなく伝統や格式があるようで観客も自意識を満たせるが、内容は然程の品格も知性もなく楽しめる
歌舞伎とその芸能に携わる人の努力、その「よさ」を否定するつもりではありませんが、問題点や批判点を認識しないままいたずらに持ち上げるのは非常に日本らしい汚点だと考えます。