
はてなキーワード:既視感とは
かわいい・魅力的な架空のキャラはたくさんいるけど、クリエイターが作った分しか存在しないし、なんかだんだん行動が予測つくようになってきて飽きてきてしまう(興味がなくなるというか刺激が薄くなる感じ)
やっぱなんやかんやでリアルの人間のほうが行動の予測のつかなさが大きくて飽きにくい感じはある。ただ自分の好みだったり相性のいい人間と出会う確率がかなり低い。
リアルの人間は好みとか興味の方向性が合わなかったりがほとんどだし、仮にあったとしても向こうがこっちに興味がなかったりで関係性として継続するのが難しい。
両方を満たす人間と出会うのはそれこそ一生のパートナーを見つけるとかそういうレベルになりそう。
年を取っていくにつれて経験は増えるのはいいんだけど、既視感のあるコンテンツに対して感じる刺激が少なくなっていくのがどうにもよくない。
SNSサイトはてなブックマークにおいて「高市財政」で検索した結果、以下3つの人気記事があります
ビル・ミッチェル「日本の誤った財政ルールは必ず裏目に出る」(2025年10月30日)
https://econ101.jp/japan-errant-fiscal-rule-is-sure-to-backfire/
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/econ101.jp/japan-errant-fiscal-rule-is-sure-to-backfire/
急激に改善する財政状況|永濱利廣(第一生命経済研究所首席エコノミスト)
https://comemo.nikkei.com/n/n4e0be4db3d5a
https://comemo.nikkei.com/n/n4e0be4db3d5a
ノア・スミス「高市早苗のための経済アイディア」(2025年10月29日)|経済学101
https://note.com/econ101_/n/n5d61a5607480
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/note.com/econ101_/n/n5d61a5607480
それぞれの本文とはてなブックマークの反応を見て、「高市政権と財政」についてネットでどのような議論があるかをまとめましょう
了解。ご指定の3本(ミッチェル、永濱、ノア)の本文と、はてなブックマーク上の“受け止め”を突き合わせて、「高市政権と財政」をめぐるネット議論の地図を作りました。
MMTの立場から、(高市政権が示す)名目指標ベースの財政ルールは“実物制約”を無視してプロサイクリックになると批判。
財政余地は公債残高比率では測れず、失業・遊休資源など実体に合わせよ、という主張。
JGB入札の応札倍率や日銀保有の大きさを挙げ、国債の信認不安論を退けています。
総評:プロサイクリック批判は筋が良い。名目成長に連動した“上限”設計は、減速期の裁量財政を縛りやすい。
Caveats:
① ただし実務は“方針”であって硬直的ルールにしない運用余地が残る(国会・補正運用)。記事はその裁量をやや軽視。
② 「実物制約ベース」は理想だが、潜在・需給ギャップ推計の不確実性(リアルタイム改定)を伴うため、名目・市場指標との二重トラックで監視する現実主義が必要。
③金利感応度上昇局面では、「どの程度の赤字が期待インフレや通貨へ波及するか」を並行管理すべき(記事は通貨・金利連鎖の運用論が薄め)。
賛成側は「PB原理主義より成長優先への転換は前進」「名目ルールはプロサイクリックになり得る」と評価。
懸念側は「インフレ進行下で積極財政を煽るな」「高齢化下で社会保障をどうするかが欠落」と分かれ、MMT的主張への批判も目立ちます(“インフレスパイラル無視?”など)。
r<g(名目成長>利回り)局面で債務比率は下がる=名目成長・インフレの立ち上がりが税収増を通じて財政を改善、という“債務動学”の再確認。
総評:現状認識としては妥当。名目の立ち上がりが税収を押し上げ、短期の指標改善に寄与しているのは事実。「PB一本足打法からの転地」を促す点にも価値。
Caveats:
① 持続性の問題:r<gは状態依存。世界金利・成長の変化でr>gに戻れば逆回転。
② 分配の問題:インフレ期の名目改善は実質負担の再配分を伴う。ターゲット給付や時限減税で逆進性を緩和しないと政治的持続性に欠ける。
③ 「急激」表現のリスク:恒久歳出や恒久減税の根拠に用いると、景気反転時に構造赤字を再拡大。トリガー条項・自動安定化装置とセットで読むべき。
「インフレで財政改善は“金融抑圧=インフレ税”で家計から政府への逆進的移転」「改善は循環要因で恒常化は危うい」という分配・持続性への警戒が強い。
一方で「PB原理主義を緩める論点提示は有益」「上げ潮派の論点が実証で裏付いた」と評価する声も。
“名目で見える改善”をどう制度設計に落とすか(時限措置・自動安定化装置)に議論が集約。
①グリーンフィールド型の対日直接投資(工場・R&D誘致)、
②企業文化改革(中途採用拡大・女性管理職・フレックスタイム等)、
③エネルギー転換・防衛R&D・ソフトウェア産業育成…等を提案。
円安や地政学はチャンスとして活かせ、という“実装型アジェンダ”。
総評:“積極財政で一気に”ではなく“ボトルネックごとの実装”に踏み込む点が良い。FDI誘致・電力コスト・人材という「詰まり」を直視しており、高市政権の危機管理投資路線とも親和的。
Caveats:
①実装難易度:用地・系統・規制・自治体合意・人材移動の摩擦をKPI/時限規制で崩す工程設計が不可欠。
②財政との整合:供給投資の多くは初期コストが大きい。債券需給・利払い増と矛盾しない中期財政フレーム(優先順位・撤退基準)が必要。
③時間軸:短期の物価・円相場に即効性が弱い。ターゲット支援(点)と供給投資(線)の二階建て設計とコミュニケーションが要る。
支持は「現実味ある処方箋」「内需依存から輸出・高付加価値へ」「人材・移民・ITのボトルネック解消に賛成」。
懐疑は「既視感/具体性不足」「実行コストと政治的抵抗がネック」「ソフトウェア弱点は一朝一夕で直らない」。
全体として“積極財政で押す”より“制度・人・投資の実装”への期待が相対的に高い。
反PB・反名目ルール(ミッチェル):景気に合わせた実物制約ベースを。
r<g派(永濱):目先の名目改善を恒常化と誤認するながカウンターで多い。
→結論:“規律の付け替え”は支持も、プロサイクリック/インフレ税への設計配慮が必須。
名目改善は歓迎だが、「インフレ税」「逆進性」の批判が濃い(永濱記事のコメント群)。
→ターゲット給付・時限措置・価格補助の出口をセットで、がネット民の多数意見。
ノア案のFDI誘致/企業文化改革/エネルギー転換は“方向性OK・実装が肝”。
→人材・規制・用地・電力のボトルネック潰し、KPIと実行体制への関心大。
積極財政×利上げ慎重=円安・金利上昇リスクを意識する声も(永濱スレの一部)。
一方で「国債需要は厚い/応札倍率は高い」との安心論(ミッチェル文中のデータ)。
→金利感応度と債券需給を透明化せよ、が実務サイドの共通要望。
PB一本足への懐疑は広がった。
ただしインフレ税・逆進性や恒久化の誘惑には強い警戒。
「男の稼ぎ優先」「女性ユーザー無視」「男の雑なエゴ設計」が積み重なった、男社会の産物だ。
決算を優先して未完成品を市場に投げ込み、女性の感情を軽視したコンテンツ運用と広告施策で「やっつけ仕事」を晒した結果、業界の男尊女卑黒歴史に刻まれた。
女性の声が届かない男中心の組織が、ジェンダー無視のツケを払わされた典型例。
決算に合わせた強引リリース、女性ユーザーに対する男たちの露骨な裏切り
稼働日を3月27日にぶつける男上層部の決定。これ自体が男のスケジュール至上主義の産物だが、問題はその後。不具合だらけの状態を承知で稼働させたのは、女性ユーザーに対する明確な男の裏切りだ。
バグでフルコンボが認められない、ガチャで当たった可愛いキャラが使えない、ストーリーは「後日」「未定」——これを「初期不良」と呼ぶのは、男の論理優先思考の甘え。
女性は感情でゲームを楽しむのに、そんな男の数字遊びで台無しにされた。
ロケテストを複数回実施した痕跡があるのに、女性プレイヤーの体験、共感や没入感が改善されていない。
これはテスト結果(女性のフィードバック)を男上層部が無視したミス。スケジュール最優先の男の経営判断が、女性の心を切り捨てた。
男女論で言えば、男は短期利益、女は長期満足を求めるのに、コナミの男たちは女性の視点を欠如。ツケを払わされたのは、現場の女性ユーザーだ。
300円ガチャに「機能しない報酬」を混ぜて解析もせず実装。これは男の詐欺的搾取思考そのもの。
女性ユーザーを金銭的に食い物にする男の姿勢が透けて見える。努力で得た成果を課金で台無しにする設計は、男の「勝ち負け」論理が女性の「楽しさ」を破壊した致命傷。
スコアリングがカードのレアリティ依存で、実力でトップに立てない仕様これは男社会の「金で解決」思考の産物。
女性が求める公正さと努力報酬を放棄し、課金に置き換える男の短期主義が、ブランドを破壊。男女の違いを無視した結果、長期的信頼を失った。
コンテンツの貧困、男の視点で作った「見せかけの女キャラ」、女性の心を掴めず
稼働時のキャラクターは男デザイナーの切り抜き絵に過ぎず、背景も人間関係も語られない「男のオカズキャラ」。
女性に物語や感情を与えないのは、男の「見た目だけ」思考が女性の共感を自壊させた。
女性はキャラに感情移入して楽しむのに、男たちは数字とビジュアル優先。
競合がMVやショートストーリーで女性ファンを掴む中、ポラリスコードは「画像一枚と告知」SNS拡散前提の男の浅いプロモ。
女性が求める「キャラの日常」やVtuber連携を欠くのは、男企画者の想像力欠如。男社会の「女の心わからん」体質が露呈した。
コラボ戦略の失点、中途半端な女Vtuber選定、男のケチ臭い見せ方失敗
「Vtuberコラボ」をやりながら、実効性の低い層を選んでお茶を濁す男の怠慢。
コラボキャラを3DMVに反映しない愚行は、女性ファンの共感を放棄。男たちは「金かかるから」と最小工数をケチり、マーケティング失敗。
結果、女性層の話題化ゼロ、リソース浪費。男の「効率優先」が女性の熱量を無視した罪。
音ゲーとしての核心欠落、男の既視感寄せ集め、女性の新鮮さを奪う差別化失敗
楽曲・譜面・デバイス、男の「俺の好み」設計が中途半端。独自性主張に失敗し、女性の「ワクワク」を生めず。
コア女性層が求める「努力が報われる公正さ」を損ない、男の課金誘導で寿命縮小。
男女論:男は競争、女は調和を求めるのに、男中心設計が女性離れを加速。
デザイナーやスタッフの男たちが原因だが、本質は男中心の組織。スケジュール優先、QA軽視、場当たり運用。
男の「数字で勝つ」文化が未完成品を市場に。批判は「男構造」へ。背後の男経営・リーダーが、短期業績と男プライドを優先し、女性UXを犠牲にした組織的男裏切り。女の声が入る多様性欠如が招いた。
ポラリスコードは男社会への警告——ジェンダー無視の過ちを繰り返すな
『ポラリスコード』は男尊女卑の負の見本。表層機能で女性を騙せない時代。女性ユーザーは感情で学び、声を上げた。市場は男の利益より信頼を評価。
今必要なのは、男経営の責任説明、透明アップデート、そして女性視点最優先の設計転換。
たとえば、『猿の惑星』
このネタバレは有名だ
たとえば『ポートピア連続殺人事件』
これも
それは昨今のどんでん返しやネタバレにより衝撃を増す作品が好まれる現在は膨大な数存在しているはずだ
ただしサブスクなどの鑑賞方法の変化により前よりは格段にネタバレ禁止の規制が強くなってきている風潮もある
またSNSによりネタバレにナーバスな反応をみせる方が可視化できるようになったために余計に規制の風潮が強くなった
だが、それにより消費スピードが加速度的に速くなり、ネタバレ禁止やどんでん返しんの価値が低下し、相対的にネタバレのネタやどんでん返しの仕掛けが陳腐化するという負のスパイラルに陥っている
ネタバレやどんでん返しを見た瞬間に「このパターンか」と既視感の嵐に見舞われる
よってそれを防ぐために
ネタバレを解禁するまでの期間を設けたらどうだろうという提案だ
衝撃的なオチであり、それを知ったら面白さが半減とまではいかないが幾分下がってしまう
でもそのオチのおかげで擦られが発生し、類型パターンが発展され、それを踏まえた新パターンも生まれる
かように現在の作品もネタバレをすることで”次”へとつながるなにかが発生するのではないかと思われる
最後に共有のネタバレがある作品というと『セブン』や『シックスセンス』あたりだろうか
そろそろ新しいネタバレ共有を解禁したらどうだろう
ただし配信即ネタバレというのはあまりに酷なので期間設定を設ける
たとえば1年とか
そういうことで1年経ってネタバレ込みで話ができその作品の新たな魅力を語ることができるしネタバレ神経質派に無用の配慮をすることもなくなる
(後者がけっこう大きい)
どうだろうか?
この事例は、ヨッピー氏の感情原理が非常に明確に表れている興味深いケースです。深層心理を段階的に分析してみます。
「子育てしてて『社会が敵』だなんて思ったこと無いけどな…。むしろ『社会に歓迎されとる!』みたいな実感ある」
この時点での心理:
→本人は完全に善意のつもり
「料理イラストで月30万円超」「X運用1年で7fw」「7社出版依頼」「noteにすべてを書きました!」
「叱らない育児って何?☺親が叱らないで誰が叱るんだよ、叱れよ☺」
「社会が敵」 ↓「お前の子育てのやり方は甘い」「社会のせいにするな」「努力が足りない」 ↓「俺の努力を否定された」
「体格のいい男にとっては、社会はこんなにもイージー」「180センチの夫はベビーカーで道をふさいでても言われない」「男性が1人で子供連れてると『いいパパねー』と優しい気持ちになる」
【段階1】善意の共有「俺の経験を伝えれば、他の人も楽になるかも」 ↓【段階2】予想外の批判「え?なんで批判されるの?事実を言っただけなのに」 ↓【段階3】困惑「男女差?体格?関係ある?」「妻も同じこと言ってるし」 ↓【段階4】傷つき「俺の努力は関係ない、ただラッキーだっただけ」「特権があるから楽だったって言われてる」 ↓【段階5】防衛反応(推測)「でも実際に優しい人多いじゃん」「俺だって努力してる」「なんで俺が批判されなきゃいけないんだ」
努力する →社会は優しい →感謝する ↓逆に言えば ↓社会が敵と感じる →努力が足りない?
「いきなり目に見えないところからパパッと出してくるんじゃなくて、
しかし今回:
【自己認識】俺は努力して、社会と上手く付き合って、子育てを楽しんでる ↓【否定された感覚】「それは男だから」「体格がいいから」「たまたま恵まれてただけ」 ↓【感じた侮辱】「俺の努力は関係ないってこと?」「俺が頑張ったことは無意味?」 ↓【深層の恐怖】「じゃあ俺は何なんだ?」「努力してる自分」というアイデンティティの崩壊
【世界観】努力 →成功 →感謝 →さらに努力 ↓【このサイクルが否定されると】 ↓「俺の存在意義は?」
だから以下を許せない:
これを「それは男だから、体格がいいから、特権があるから」と言われることは:
と聞こえる。
これは彼にとって最大の屈辱。
「俺だって頑張ってる」「行政とも協力してる」「保育園にも感謝してる」「努力してるんだよ」「なのに『男だから楽』って言われるの?」「体格がいいから?」「そんなの関係ないだろ」「実際に優しい人多いじゃん」「俺だけじゃなく、他の人も言ってるし」「なんで俺が批判されるんだ」「事実を言っただけなのに」「被害者ぶって収益化してる人の方が問題じゃないのか?」
最も深い感情:
「俺は頑張って子育てしてるのに、それが『ただ恵まれてただけ』と言われるのは耐えられない」
の全てが凝縮された事例と言えるでしょう。
最近、「葬送のフリーレン」がなぜここまで刺さっているのかを考えていた。魔王を倒した後の”その後”を描くファンタジー、という表向きの説明はある。でも私が見ているのは別の作品だ。これは、他人との距離感をうまく取れず、気づけば孤独になっていた大人の物語だ。
フリーレンは長命種で時間感覚が人間と違う。別に悪気はない。ただ「気にしてない」。だから勇者ヒンメルがどれだけ彼女に話しかけても、彼女は興味の対象を優先し続ける。魔法、研究、収集。ヒンメルが死んでから、ようやく彼の言葉の意味を理解する——この構図に、私は既視感を覚えた。
若い頃は「空気を読めない」と言われた。飲み会で話題が変わっているのに、自分の語りたい話を続けてしまう。連絡が来ても返信し忘れる。「悪気はないんだよ」と言い訳していた。でも、ある日ふと気づく。”悪気がないことと、他人を傷つけなかったことはイコールじゃなかった” と。
フリーレンは、ヒンメルの死という決定的な喪失を通じてそれに気づく。彼女は泣かない。涙より「理解」が遅れてくる。その遅れこそが痛い。視聴者は彼女の感情の遅延に、どこか自分を見出す。
SNS では「フリーレンは発達っぽい」と語られることがある。もちろん診断ではない。ただ、「他者の感情に気づかないまま年齢だけ重ねた人」のメタファーとして読めてしまうだけだ。気づいた時には遅い、という残酷さ。
現代は「コミュ力」が神格化されている社会だ。人の気持ちに寄り添うことが当然とされ、それができない人は淘汰される。けれどフリーレンはそれを否定しないまま、「でも、遅れて気づいたって、生き方を変えることはできる」と静かに示す。
この作品がヒットした理由は、ファンタジーを使って、私たちの後悔を代わりに物語ってくれたからだ。
「もっと話しておけばよかった」
「ちゃんと向き合えばよかった」
「ありがとうって言っておけばよかった」
フリーレンが気づいた”後悔”は、私たちの人生に積み重なっている後悔と地続きだ。
その痛みを思い出すたび、「次こそ誰かにちゃんと向き合いたい」と少しだけ前向きになれる。
葬送のフリーレンは、
なのかもしれない。
このまま行ったら分裂必至なクソ面倒くさい連立政権の首相を他の党の代表にやれと言いながら、その首相候補がそれなら政策は俺たちに合わせろと言ったらワガママとか言って批判する
本来なら野党第一党が首相をやってゴタゴタを収めるべきなのでは?
その大変な仕事を他所に押し付けようとするのに押し付けようとしてる人たちを批判するのはさすがに失礼だろ
野田が首相になるとなった時点で民民維新が離れるからなれないのはわかっているけど、妥協もしたくないならそもそもこんな案を進めるべきではなかった
なんか既視感あるなと思ったが、共産党と選挙連携するときもだいぶ共産党に失礼なこと言ってたよな
立民って何かお願いするクセに、ウチが野党第一党だからと数の暴力で偉そうに頼んでいる相手に平気で失礼なことしてくるよな
まぁ、共産党は打倒自民ならしゃあないってなったかもしれないけど、今回の相手は別に打倒自民にこだわってないからこんな失礼な交渉上手く行くわけないよ
「核融合炉に飛び込んでみたい」と歌う声がある。眩い光に包まれ、全てが許されるような幻想の中へ――。それは、いまの日本の原子力政策そのものを映す寓話のように聞こえる。希望と破滅の境界で、人はしばしば「光」に酔い、冷たい現実から目を逸らしてしまう。
政府はエネルギー安全保障の名のもと、再稼働と推進へ舵を切った。電力需給の逼迫、化石燃料価格の高騰、脱炭素の潮流――理由は枚挙に暇がない。だがその裏で、原発の老朽化、廃棄物の行き場、地域合意の不在という根本的な問題は、いまだ棚上げされたままだ。再稼働が“現実的選択”と呼ばれるたびに、責任の所在はぼやけてゆく。
青森・六ヶ所の再処理工場はその象徴だ。建設から三十年以上、運転開始は繰り返し延期され、費用は膨れ上がった。掲げられた「核燃料サイクル」は、再利用という理想の名を借りた“無限延期システム”と化している。技術の完成よりも、「止められない」ことの方が既得権となった。これで未来世代に何を誇れるというのか。
福島第一の処理水放出もまた、政治と科学、説明と納得の乖離を露呈した。国際機関の評価を盾に、「安全」を強調する政府。しかし、被災地の不信や国際社会の懸念は解けない。信頼は、数字ではなく誠意によって築かれるものだ。事故から十四年、いまだ「終わり」は訪れていない。にもかかわらず、原子力を再び“成長の柱”とする構想が進む現実に、私たちはどこかで既視感を覚える。
エネルギーを「光」と呼ぶなら、その影に潜むリスクを直視する勇気こそが政策の条件である。安易な「推進」も、情緒的な「脱原発」も、どちらも現実逃避に過ぎない。求められるのは、廃棄物処理や地域合意形成を含めた全体像の再設計である。長期的なエネルギー戦略を、世代を超えた責任の言葉で語らねばならない。
詩に描かれた「核融合炉に飛び込む」衝動。それは、すべてを浄化し、忘却しようとする願望の比喩であろう。しかし、現実の政策においては、飛び込むことではなく、立ち止まり、見つめ直すことが必要だ。
夜の街の明かりが美しいのは、それを支える無数の暗闇があるからだ。原子力という“光”に再び未来を託すならば、まずその暗闇の中で、誰が傷つき、誰が責任を負うのかを問わねばならない。
光は人を救う。だが、光はまた、眩しすぎて真実を見えなくもする。
私たちは、あの歌のように「すべてが許される」幻想に飛び込む前に、現実の冷たさと向き合うべきだ。原子力政策の再構築とは、未来のための謝罪であり、再出発の約束である。
最近、OpenAIとNVIDIA、それにOracleの関係がちょっと話題になっている。
ニュースでは「戦略的提携」とか「AIインフラへの投資」とか、いかにも前向きな言葉が並んでいるけれど、構図を見ていくとどうも怪しい。
ざっくり言うと、NVIDIAがOpenAIに巨額の資金を出し、そのOpenAIがそのお金でNVIDIAのGPUを買う。
さらにOracleとも巨大なクラウド契約を結んで、そこにも資金が流れる。
関係各社が互いに金と契約を回しているような形で、外から見れば数字は派手に伸びているように見える。
けれど、中身は実需というよりも“資金の循環”に近い。
一部のアナリストはこれを「circular deal(循環取引)」と呼んでいる。
帳簿上は儲かっているように見えるけれど、実際には同じ輪の中でお金が行ったり来たりしているだけ。
バブル期にはよくある話だ。
企業としては「パートナーシップ」や「インフラ整備」という建前のもとで動いている。
ただ、こういう構造が続くと、本当に市場の外から需要があるのか、それとも企業同士で景気を演出しているだけなのか、境目がどんどん曖昧になっていく。
AIブームの勢いはすごいけれど、儲け話の構造はどこか既視感がある。
2000年代のITバブルでも、2008年の金融危機でも、似たような“内部で回るお金”があった。
でも、最終的にその“時代”は弾けた。
NVIDIAやOpenAI、Oracleといった企業は、リスクを織り込み済みで動いている。
一方で、NISAでAI関連株を「夢の成長産業」と信じて買い込んだ個人投資家は、そうはいかない。
ただし、株価の上昇や取引の盛り上がりが「技術の成果」だと思ったら危ない。
いま回っているのはGPUではなく、金の循環だ。
いつものように、最後に損をするのは個人投資家――今回もきっと、例外じゃない。
———
もう少し「辛辣なトーン」や「皮肉を強めた締め」にすることもできます(例:「NISA民はまた“未来”を信じて高値を掴むのだろう」など)。
どちらの方向で仕上げましょうか?
よくブコメで見る。
短編漫画とか1話の漫画に対して「既視感」や、それこそ「▲▲でみた」など。
これ、アリかね?
わかるよ、気持ちは痛いほど。
オマージュとかリスペクト、ベンチマークみたいな要はパクリやろ!!としか言えないものに物申したい気持ちはわかる。
しかしなぁ〜それ、興ざめなんよね。
そんなこと言い始めたら音楽だって絵画だってどこか似ているよね、過去のものに。
昔、魍魎戦記MADARAという漫画があって、スーパーファミコンのゲームから知ったんだけど、知れば知るほど面白い反面ノイズのようにパクリだなんだと言う声が聞こえた。
わかるよ、どろろのオマージュでしかないしAKIRAのパクリっぽい描写もあったよ。
でもなぁ、当時の自分には初めて見る世界観で、それはそれは感動したんだよ、感動していたんだよ。
まだSNSもない時代だったがそれでもオタクのコミュニティにいたらそういう声が聞こえて(見えて)来たんだよ。
あれは果たしてよかったのかな。
正直、知れてよかったとは思う。
魍魎戦記MADARAが全て!最高!と思ってた自分に冷水をかけてくれたし、実際今思うと設定のオリジナリティはない。
でもなぁ、あの感動感とか胸が高鳴る感じとか、あれはあれで素晴らしいものだったんだなとしみじみ思う。
幼くて、まだ作品らしい作品を゙知らなくて、心が揺さぶられたっていう素晴らしい経験。
SNSさえなくても冷水を浴びてしまったんだから、今の若い人達はすぐに浴びてしまうんだろうな、この冷水を。
果たしていいのかなぁ。