はてなキーワード:新海誠とは
君の名は。って秒速5センチメートルの続編だったんだな
というか第4話「君の名は。」って感じ
秒速5センチメートルも君の名は。も距離と男女をテーマにした物語だった
第3話「秒速5センチメートル」は1話2話の要素を合わせ込んだエピローグ
それぞれの次元で距離が離れてしまった男女の物語を新海誠は描いていたんだな
なかなか面白いと思った
考えてみたら天気の子もすずめの戸締まりも離れ離れになる男女の物語だし全部一緒だな
ただ、物理(空間)・精神・時間という対になる概念で実験してる感じが天気の子とかとは違う感じがするな
まぁ天気の子とすずめの戸締まりも言ってしまえば天と地で対になってるか
実写版もこの勢いで観ようかな
・庵野秀明
やっぱ今回の結果を受けて大ボスに登場願いたいだろ流石に
ロボットアニメに関しては実績もあるしな
・新房昭之
おしゃれ演出とシュールな展開、あとバトルシーン演出にも定評がある
日本の深夜テレビアニメでこいつ外して誰入れるねんって感じもする
・新海誠
デビュー作がロボットアニメだったこと知らん奴おる?いねぇよなぁ!?
・押井守
・幾原邦彦
やれる、やれるんだ、押井と庵野ラインナップするんだったら入れてても問題ないはず
・長井龍雪
オルフェンスは岡田が悪かったんだって、なぁ、もう一回やってみないか?
・河森正治
流石にこのラインになってくると意外とっていうかガチになっちゃうので除外で
エントリー求む
オブリビオンとは「The Elder Scrolls IV: Oblivion」のことを指して言ってるんだが、このゲーム当時まともにやってた日本人って意外と少数なんじゃないか?
次回作のスカイリムは洋ゲーやる人なら知らない人はいないくらいのメジャータイトルだし国内プレイ人口もそれなりだと思うんだけど、オブリビオンが出た年は2006年?20年近くも前で発売当時は簡単に買えるもんじゃなかった気がする。
俺は何処でオブリを知ったのか今はもう覚えてないけど、日本語版は無く輸入版を手に入れようと思ったら秋葉原くらいしかなさそうという事で高校生時分にわざわざ関西から北米版を探しに行ったくらいだ。
スマホもなくSteamのようにゲームをダウンロードして遊ぶ時代でもなく、動画投稿サイトもまだまだ駆け出しの頃でニコニコもサービス開始前?あるいは黎明期の時代なのでオブリビオンは日本じゃマイナータイトルだったかも。
後々お買い求めやすくなったのかな?買った後のことは知らん。
で、ここからが本題なんだがこのオブリビオンってゲームは、俺の解釈では
だと思ってるのね。で、2021年公開の新海誠監督の映画「すずめの戸締り」を俺は見てないんだが、そのあらすじというのが
1人の少女が、ある時山の中で不思議な扉に遭遇する。その矢先、日本中で扉が出現し始め、その扉が開くことでさまざまな災いが次々と起こっていく。そこで、少女は各地の扉を閉める旅へ出発する。(google検索すると出てくる公式サイトからの引用を引用)
すずめの戸締りの宣伝見てまず思ったのが「これ完全にオブリビオンだよね?」だったんだけど、そのツッコミをしている人がほどんど居ない。
ネットでいくら検索しても出てこない。かろうじてまとめ系ブログのコメントで1件だけ見つけることが出来る程度。
実際の内容は全然違うのかもしれんけど、それにしたって指摘がほぼ無いのはやっぱりオブリビオンが弩マイナーなんだろうなと。
そもそもオブリビオンを知らないならこれ言ってもだれも共感できないなぁというモヤモヤがあったが、オブリがリマスターされるという話題に託けてこのモヤモヤを今ここで供養できたので良しとします。
気になる人はリマスター買え!いつ発売するのかと思ったら即日発売かよ!もう買えるのかよ!
批判する側も擁護する側もどちらでもない側も、誰も言及していない点がある。
仕草とか動きとか関係なく、純粋に顔の造形としての意味である。
CMなのだから、容姿のいいキャラを出すのは当たり前ではないか、と思うかもしれない。
しかし、いままで漫画やアニメで見てきたような「若い美人」とは何か違う。
うまく言葉では言い表せないような異質感をあの赤いきつねの女性には感じるのだ。
萌えアニメでもない、新海誠的な作品の女性でもない、ジブリ系に出てくる女性でもない、本当に前例がない。
今後、あの赤いきつねのCMは「新しい女性像を確立させたという意味で革新的なイノベーションだった」と言われるかもしれない。
キャラデザインも音楽もセリフの読み方もとにかく軽い。新海誠を筆頭とした平成後期型にあえて似せてるんだろうとは思うけど、原作とは雰囲気がかなり異なる。テーマもセリフもほぼ同じなのに。軽くて軽くてかなり雰囲気が異なる。時代の流れなのかな、とは思う。重要人物の声が皆高め。主人公も田宮良子も広川も。低い重厚な声優さんがあんまりいなかった。
原作は、平成初期のあの重苦しい雰囲気が内容と絵、テーマにマッチしていて、とても良かった。原作厨と言われても仕方ないが、アニメは少しライトにしすぎだったのでは、と思う。音楽もオープニングもエンディングも何回聴いても合ってなかったなぁ。
アニメには動きもキャラクターの声も音楽、効果音もあるはずなのに、アニメよりも漫画の方が迫力があるシーンがいくつかあって、漫画の表現力の凄さに改めてびっくりした。岩明均先生すごいんだな。
でも大改悪ってほどではなかった。韓国ドラマ版はただのスプラッタ映画になっていてかなり残念だった。アニメ版は見たことない人なら見てみると良いかも。原作読んだことある人は違和感はあるかな。環境問題も今の方が昔よりライトになってるから今の人には合っているのかも。
アマプラで「シークレットレベル」っていう色んなゲームを20分だけアニメ化した番組があって、それ見ようとしたんですよ。
そしたら「すずめの戸締まり」が配信開始してたんで見たんすよね。
「オッペンハイマー」も配信してたけどとりあず戸締まりを先に見たんすよ。
作品として特に気合入ってた所を振り返ると、主人公の椅子がヒロインに踏み台にされてる所かなと。
「もし俺がこの椅子だったら女子高生の靴下のいい臭いがしそうだなあ」という作り手の意気込みがねっとり伝わってきましたね。
じゃあここが言いたかったことなのかってなると多分そうじゃない。
だってそれにしては長すぎる。
犠牲になるべき役目の存在が犠牲になることを物語全体が奨励してさえいる。
だが、その役目を担うのが親しい人間であることに対して人間は強い苦痛を感じてしまう。
数十万数百万の幸せがたった一人の犠牲で解決するなら、それに拒否反応を起こすのは親しい数人か数十人程度だけだろう。
つまりは「人柱をどうやって選ぶべきか」という話なんじゃないのか?
そう考えると作中キャラクターの様々な行動が「アイツがこうやって犠牲になるのが一番正しいんだ」という物語に観客を誘導しているように感じる。
でも映画で行われたメタファーを解釈するなら、メタファーだから許された表現から元を読み解くならこう解釈することは可能だと思う。
誰かが辛い役目を負わなければ、世の中は崩壊してしまうので、誰かが犠牲になる必要があるというのは何も災害に限った話じゃない。
まだ正月だっていうのに客商売の人達は普通に働いてるし、年賀状の配達のためにバイトしてる人だっている。
インフラ維持のために監視している人は年越し蕎麦を宿直室で食ってたかも知れない。
誰かが犠牲になってる。
そのおかげで世界は回っている。
マジあざっす!だ。
でもそうやって犠牲になる人間、ましてやそれによって命をかけることになる人間は自分の身内じゃないほうが嬉しいなあという話なんだろうか?
震災とこの映画を結びつける人が結構いるっぽいが、それをやると上で書いたようなグロテスクな話になってしまう。
誰かが犠牲にならなきゃいけないなら、それはよく分からん都合のいい人柱であって欲しいという願望を全国で上映したことになる。
犠牲になるやつは犠牲になるべくして存在していた奴らで、その役目を放り投げるのは身勝手なクズだから黙って犠牲になれと。
たとえば自衛隊や消防隊員に対して、自分たちは普段からそういう感覚で接しているような気がする。
「お前らはいざとなったら死ぬことを前提として身分を保証されているし、そうでないなら訓練なんて単なるサバゲーやSASUKEでしかないんだから税金で雇う意味なんてないんだぞ」、と。
必要があれば死地に赴いて、本当に必要ならそこで死んでもらうのがお前たちの役割なんだぞと。
「自衛隊として日の丸に忠誠を誓って十年も二十年も税金で飯食ってた奴がいざロシアや中国が攻めてきた時に逃げ出したら税金泥棒として牢獄送りになるべきだと」いう思いさえ心の何処かにはあるらしい。
だが、本当に新海誠は「俺達の中からそんなものを引っ張り出すために」この映画を作ったのか?