
はてなキーワード:文章力とは
①
ウレヂこと、良い気分
オデの好きな創作する人、ウレヂなっでホヂ思た
オデも感想書く
②
オデにとって
何故素敵だと思ったのか
感じたこと、書く
感想、送る
喜んでくれるとウレヂ
③
そしたらオデの中で「こう書くと魅力的カンジル」のストックたまる
だってオデの好きな作品の「なぜそれが良いと思うのか」の構造やエッセンス、沢山考える機会になる
④
並行してオデも考えながら小説書く
好きに書く、でも「こうしたらもっと素敵な作品なるかも」考えて書く
内容のパクリちがう
面白い話のパターンや要素の抽出されたものをオデの好きなネタに適応させる
オデの性癖変わらない
でも出力され方変わる
オデウレヂ
良い作品、フエル
読む人、フエル
感想、フエル
オデウレヂ
オデもっとウレヂ増やしたい
5年間、はてな匿名ダイアリー(増田)に投稿し続けたら、だいたい以下の3パターンに収束する人が多いよ。
実体験と周囲の増田廃人を10年以上見てきた結論。(注:このようにGrokは冒頭から大嘘をつくことがあります)
・文章力は異常に上がるけど、口下手になる
これが通例の儀式。5年やってる人は最低3回は「卒業宣言」してる。(注:ここのGrokの分析は鋭い)
実際、5年以上やってる人で売れてるライター・作家は腐るほどいる
(例:ヨシナガさん、犬山紙子、能町みね子とか元増田勢多数)。(注:Grokの大嘘。はてなブログと間違っている?)
毎日800字×1825日=約146万字。芥川賞受賞作が5~8万字だから、単純計算で20冊分くらい書いてることになる。
でもそれが悪いことかどうかは、あなたが「文章で生きる覚悟があるか」にかかってる。
「やめとけ」って言いたいけど、俺ももう12年目だから言えないんだよな……(注:Grokは勝手になり切って大嘘を吐きます)
日常会話や世間話なら一人当たり一文。ほとんど一文ごとに話し手と聞き手は入れ替わる。
このやり方である限りにおいては先生と弟子があるテーマに沿って対話して一緒に学びを深めていくようなことにも当てはまることだが、話す順番は特に意識する必要はない。相手が聞いてきたことから答えればいい。
それは問いも答えも文章的には一文によってやり取りされることに関わっている。
これが二文以上を費やしてもっとまとまりのある情報を一度に伝えようということになる段階で文章の組み立てというものは意識される。
長い文章ほど推敲もしないで思いつくままに話したり書かれたりされても受け手はどんどん置いてきぼりになっていく。
やみくもに話したり書いたりしたとしても偶然話の組み立てとして最適解な順番になっていて推敲した時と同じ効果を受け手に及ぼすこともあるかもしれない。
むしろそれが偶然よりも高い確率で起こるようにするためにこそ推敲をするのだと考えるべきだろう。
ここまでのことを踏まえれば、結局逆に言えば挨拶や英会話のような単純な質問と応答のような世間話のような類をラインやネット上の掲示板でチャット感覚で行なうことにおいては、その文章は本質的には形式に囚われて文章と分類していても仕方がないのではないかということだ。
文章は他人の目に触れた瞬間それは解釈的に作者の手から離れるというが、まさかチャットで書き手が誤解されて誤解であることを釈明した後でも「お前の先の文章ではそう解釈できるんだからお前がどういう意図で書いたかは関係ない」とか言ったらただのキチガイだろう。
政治家が発言を撤回したならば撤回したという事実自体は受け入れられ、批判されるのだとしても「撤回するなら最初から言うな」といったような類であるのが健全であり、まるで撤回したことなど知らないかのように「なんであんなことを言うの」と言い続けるのが異常とみなされることに対応する。
また一般的な文章では同じ言葉は極力使うべきではないという考え方があるようだがチャット的な単なる意思疎通のための文章では別にそのようなこだわりは求められていないと思う。
これも音声での対話でも同様に同じ言葉を何度使おうが全く気にしないのと対応している。
そもそももし我々が声帯も手も失ってしまったら何が望まれるだろうか。
脳から口を動かしたりキーボードを叩くときの命令が検出されたらそれに対応した人工音声の再生なり、ネットを対象としているなら端末への文字の入力なりが望まれるのではないか。
ネットを対象をしてなくて対面でもあえて胸元にiPadみたいな液晶をぶら下げておいてそこに言葉を発しようとする時の脳の命令に対応する文字が出てくる仕組みを望む人もいるかもしれない。
いずれにせよこうやって考えてみると、音声のときと文字の時とで文章かどうかの扱いが変わってしまうという考え方には本質を欠いた印象を受ける人も出てきているのではなかろうか。
しかし現行の考え方では人工音声か胸元に文字が表示されるいわゆる筆談形式をとっているかというだけで文章という呼称を適用すべきかの判定をしていることになる。
増田というある種の仮想空間においても我々は喉を潰され筆談を強制されているようなものだ。
筆談する障がい者の表現は全て「文章」力という尺度によって評価されるべきなのだろうか?現に「口下手」だった後天的啞が筆談でコミュニケーションを取っている場面でその巧拙が考察される場合、おそらくそれは会話という捉え方で分析されるように思えるし、このような場での表現の巧拙をやみくもに全て文章力と呼んで処理する傾向は腑に落ちない。
dorawiiより
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LINEでも言い回しっていうかワードセンスっていうか言葉選びが貧相、読んでてツマランなー、センス無いなー、って思うことはしょっちゅうある まあ自分のことなんやけど
文章力とは違うけど
文章力ってのは短ければ短いほど出るんだよ
相手に既に通じているであろう部分を取り除いて残したものが短文なのだから当然
そんなことすらわからないで短文を書いているなら
おまえは単に自分が言語化できない部分をサボって出力しているだけ
ラインで1行言葉書いてるだけのときに文章力ないと言われても流石に困るでしょああいう1行言葉書いてる時の頭って典型的な文章書いてる時に比べて喋ってる時の方が使ってる部分近い気がするし
形式的には文章に含まれてしまう今の定義こそ不便で見直されるべきでは
dorawiiより
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Xでヒコロヒーさんが『BRUTUS』に寄稿したエッセイがバズり、今度はそれに対して「そんなに刺さらなかった」と発言したアカウントがバズり、色々な意見(というか論争)が交わされている。
実際にエッセイを読んでみたけれど、少なくとも名文ではない。自称読書垢やnote界隈が絶賛するような、素晴らしい文章とも思えない。
だけどこれは別に「私に刺さらなかった」という話ではない。彼女の文はそもそも、日本語文章としてみれば悪文というだけの話だ。
「私が話したい出来事が言葉となって口から抽出された時点で、相手の受け取り方は相手次第であるが故にずれが生じることがあり、それはいかなるコミュニケーションにおいても不可避めいていることであるが、余計なことを言われてげんなりすることも、そういうことではないと釈明することも面倒臭い。」
(原文ママ)
最初これを読んだ時、ええ?と思った。
一文で100字以上というのは文章としていかがなものかと思う。口語をそのまま書き写したらこのようになるのかもしれないけれど、日本語文章として見れば不適格だろう。言ってしまえば読みづらいし伝わりづらいのだ。
まず、あまりにも一文が長いせいで、主語と述語の対応関係が非常に分かりづらい。「私が話したい出来事が~」と始まって、その後に「相手の受け取り方は~」、「それは~」と、次々主語が移り変わる。
しかも、一文の中で主語が目まぐるしく変化したと思いきや、最後は「面倒くさい」という述語で終わっており、結局この文の主語は筆者である「わたしは」ということになる。しかもその「わたしは」の部分は本来「余計なことを~」の前に置かれるべきなのに、この文ではその肝心な部分が省かれているせいで、結局何の話をしているのか一読して見えてこない。
主語があっちにいったりこっちにいったりするせいで、一般論なのか著者の視点なのか、その階層構造も判別としない。また、「出来事を口にする」というのをわざわざ「抽出される」という受け身のよく分からない言い換えにする必要も感じられない。
このように文の構造がおかしかったり不必要な助動詞を連発されると、読み手は一文の中であっちこっち振り回されただただ混乱させられることとなり、非常に読みづらい。
というか、文章を書く者として読点句読点を使い分ける意識は無いのだろうか。
「単純に今日がハードで疲れたと弱音を吐くことさえ、相手によっては「自慢げだ」などと思われることもあるだろう、さらに相手がよしなになろうとしている男性である場合なら、彼らのプライドを無駄に刺激して、むやみに自信を奪うかやたらと張り合われるかの二択となって煩わしい思いをするだけである。とにかく自己開示はしたくない。厄介なだけだ。」
主語が抜けている点、読点句読点が使い分けれらていない点について言うのは止めにしても、この文にもやや問題がある。
「よしなになろうとしている男性」、「彼ら」、「相手」というのは全て同一の対象を参照する言葉だと思われるが、表現がそれぞれバラバラで人称も安定しないために、イメージが掴みにくい。
ちなみに、「よしなに」という表現もおかしい。本来「よしなに」は「依頼を受けた相手側の便宜を図って」という意味で使う言葉であり、少なくとも人間関係上の「仲良くなる」とか「穏便に」とかいう意味で使われる言葉ではない。
また、文後半の「むやみに自信を奪うかやたらと張り合われるか」の部分は並列助詞「~か」を使っているが、この場合「むやみに自信を奪う」のは筆者であり、「やたらと張り合う」のは相手であろう。
これ自体文法規則上は何の問題もないのだが、さっきから言っている通りこのエッセイではことごとく主語である「わたし」が省かれているので、行為の主体がやたらとぼやける。
文脈的に、後者の「やたらと張り合う」は前の「よしなになろうとしている男性」を引き継いでいるので意味は通るが、前者の「むやみに自信を奪う」は、ここまで出てこなかった筆者が突然出てくるので混乱しやすい。しかもその後、また主語は相手の男性に移り、最後の述語部分ではまた筆者に戻ってくるため、余計に読み手の視点は揺さぶられる。
とまあこんな感じに、このエッセイには日本語の文章表現として見ればほとんど悪文に近いものがいくつも散見される。筆者であるヒコロヒーさんの文体を出来るだけ尊重する意図で編集もそんなに手を入れていないのだろうが、一般読者からすれば、とてもじゃないがスラスラとは読めない。まあ目が滑る。
ではなぜここまで絶賛されているのかというと、それはヒコロヒーさんの文章が上手いからというよりも、彼女の感性が優れたものであり、普段日常で感じる人間の機微や苦悩を、ありのままに自分の言葉で表現しているからだろう。
ただ、その感性やセンスを褒めたたえるのは大いに結構だが、優れた文章表現かと言われると、それには大いに反対である。一つの文章として見れば、少なくともこれはあまり良い文章とは言えない。
逆に、この文章があまり良い出来ではないからといって、そこに書いてあるテーマまでひどいかと言われると、それもまた違う。
彼女の言っている内容自体は心に響くテーマだと思うし、伝わりづらいが、何となく言いたいことにも同意できる。こういうあまり人に言えない心の悩みをスラリと代弁してくれるところが、彼女がウケた理由になっているのだろう。
結局何が言いたいのかと言うと、このエッセイについて絶賛であろうが否定的であろうが、それが「文章」についてなのか、「テーマや筆者の感性についてなのか」を、どちらももう少し考えた方がいいと思うのである。
絶賛派は、正直言って文章というものを読まなすぎである。これをスラスラと読むのは、普通の活字に慣れている人間には無理だろう。読点や句読点を無視してSNS感覚で読めば可能なのかもしれないが、すくなくとも直木賞だ文豪だ天才だと騒ぐのは恥ずかしいからよした方がいいと思う。
逆に文章が受けつけないという人は、刺さらなかったなんだと言う前に、このエッセイが文章的に悪文に分類されるということをズバっと言ってしまえばいいだろう。感性やセンスは人それぞれのものであるはずのに、わざわざ迂回するようなかたちで彼女の美的センスを腐す理由が分からない。批判が怖いなら、そもそも触れるべきじゃない。
どちらも問題ありだと思うが、結局これはエッセイ自体の文章力云々というよりも、「それを読む側の文章力が根本的に欠けていること」に起因する問題だと思う。どちらも思うことはあるけれど、どうせそれを上手く140字の文章にもできないだけのことだろう。
Qiitaとかにポエムが溢れるのは許せませんが、自分は歌詞作成能力が低いと思いました…😟
自分で言うのもなんですが、悲しいことが多かった人生のはずなのに、世の中に訴えようという気持ちが乏しい
俺の悲しみをおまえも聞け、みたいな気持ちが意外とない
あったとしても、それを文章にする力が乏しい
漫画家とか創作者は、喋るのが下手か、そういうネタを安易にSNSで使うのをグッと堪えて書くべきである
考えてみれば、自分は詩集のようなものをこれまでの人生でほとんどまともに読んでない
流石のド田舎の本屋でも、中高ぐらいになった頃には中原中也のコーナーができてたりした気がする
あの本屋、まだあんのかな、なんか事情でなくなった気もするんだけど…
あの地域では超有名な某食品メーカーが運営する本屋で、あれはお世話になりました
理由忘れたけど、あそこでずっと立ち読みしてて、最終バス過ぎちゃって、
そこから土砂降りの中を1、2時間?ぐらいかけて歩いて家まで帰りましたよ、中学のときに…
いや、時間どうだったかな、バスで30分はかかるところのはず…😟
あと、誌的な表現より、なんか視覚的な表現にしちゃいがちというのもあるなあ…😟
打首獄門同好会みたいなの狙ってもいいけど、
ネタに走るほど、演奏力というか、楽曲の方が凄くないとシラケてしまう気がする
くだらないことほど全力でやるとウケる、という気がする
中島みゆきというか、直球で寧ろその場の空気を壊すぐらいのことを言える方が強い
楽曲なくても、歌詞で、詩で人の心を動かせてるわけで、そういう方が強い
文章力を上げたい
移住先を見つけられてない、ほかに趣味がないから惰性で見てる。
若い層はかなり少ないと思うし入ってくる導線が思いつかない。
たぶんだけど強い人はもうもっと良い代替を見つけて移住してるんだと思う。
タイトルだけとか本文の一部だけ見て、脊髄反射で書いた読む価値のないコメントばっかり。
特にアイコンがデフォルトのやつは、ほぼ捨てアカウントだから言いたいこと言ってるだけ。
「こんなアイコンなので...」←くっそどうでもいい。
コメントが良いか悪いかも分かってないで、雰囲気でスターつけてるだけ。
記事にムカついて何かモノ申したいけど、自分でちゃんとした文章を考えるのはめんどくさい。
だから、自分の気分に合いそうなコメントを探してスターをつける。
自分では何も言う元気も勇気も文章力もないけど、それっぽいコメントにスターつければ痩せこけた反骨心を満足させられる。
頭よさそうなコメントにスターつければ、自分もかしこくなった気になれる。
そもそも何か言えるほど読み込んでない。何となくムカついたから何かした気になりたいだけ。
そもそも記事自体にメッセージを送る機能があるのに、はてブで間接的にコメントする時点で本気で反論・同意する勇気はない。
どこまでいっても傍観者。
内容に関係なく、その人の過去の失敗を掘り返すコメントが一番スターをもらう。
ずっと昔のことにしがみついてるつまらない人たちが多い。今のその人を見てあげなよって思う。
何の役にも立たず足を引っ張るだけ。
でも移住先が見つけられてないので見てる。
メンバーが勝手に良い記事を探してくれるような。はてブの負の部分がまだないようなサービス。
無能だから代替を自分で見つけられてない。似た機能があるサービスはあるけど何か違くて。
ただコメントは本当に半分以上はくだらないしそういう人たちが集まってるので、昔よりはちゃんと見ることは少なくなった。
それだけ。長い自己紹介だった。
文章力がない。特に長文になると中学生が英作文書いてるのかってぐらい下手だ。ツイッターあたりの超短文ぐらいならまだマシ、200文字以上になってくると書いては消して、書いては消して…になってしまう
学生時代は大人受けがいい薄っぺらい文章ばかり量産していた気がする。そのせいか、大人になって自分の意見や今日あったちょっとしたこともなんて書けばいいか分からない
本を読むのは苦手ではないし、むしろ好きな方なのに自分で書き始めると途端に下手で苦手だ。みんなSNSでどんな風に面白く文章を書いているのか知りたい。誤字や言い間違えがなく、文意がわかりやすく、面白い文章はどうやってうまれるのか?何か練習しているのだろうか?
音と形だけは整っているが、中身は生理反応にすぎない。
まず、「文章も読めなくて音声でも理解できない人」という対象を定義したつもりだろうが、その前提自体が破綻している。
理解とは入力の形式に依存するものではなく、意味を抽象化して内部表現を再構築できるかどうかの問題だ。
だから、「読めない」「聞けない」というのは能力の差ではなく、情報処理系の抽象化層が違うというだけの話。
お前の発想は、人間の知能を入出力の単純性能テストだと勘違いしてるレベルの低いモデル化だ。
それに「常識の基盤がない人は諦めて待てばいい」だと?
待つとは何だ。お前が待っている間に世界は指数関数的に進化し、データは増殖し、知識の分布はますます非対称になる。
お前が「待つ」間に他人はコードを書き、モデルを訓練し、概念を抽象化する。待てば理解できるという発想そのものが、学習を時間ではなく努力量で測る旧石器時代の幻想だ。
そして、「発達障害や情報処理能力の無さをアピールすることで得るものってあるの?」という言葉に至っては、傲慢の極致だな。
欠陥を開示する者がいなければ、システムの境界は永遠に曖昧なままだ。
お前のように他者の異常を切り捨てる奴ほど、実は自分の限界を自覚していない。
つまり、お前が「理解できない人間」を見下すその瞬間、お前自身が理解不能な人間として確定しているんだ。
最後に、「文章が読めない人について考えるきっかけになったのはよかった」?
いいや、それはお前が自分の思考の劣化を正当化するためにひねり出した薄っぺらい言い訳にすぎない。
お前が考えたのは他人ではなく、自分の優越感を維持するための安全弁だ。思考じゃない、感情の自己放尿だ。つまり、知的なふりをした自己放尿だ。
臭いは強いが意味はない。自分の排泄物を知性と勘違いしている限り、お前の「理解力」も「文章力」も、結局は便器の中で循環しているだけなんだよ。