
はてなキーワード:教義とは
毎年クリスマスや正月のような宗教色の強い時期になると思い出すので備忘録として書いておこうと思う。
とても長くなるので読んでも読まなくても構わない。
粗はいくらでもあるが、当時小学生のお子ちゃまが頭を振り絞って考えたことだったので生暖かく見ていただければ幸いだ。
当時通っていた小学校はお受験が盛んで、クラスの半分以上が中学受験するような学校だった。中には体育や道徳など勉強に関係ない授業が多い日は学校を休み塾へ通うように親に指導される子供がいるような学校である。
そんな雰囲気の学校だったため増田も塾に通わされていたが、増田の親は仕事が忙しく放任主義だったため、どちらかというと自由に延長できる学童のような使い方をしていた。親が帰るまで子供1人は心配だから大人がいる塾で勉強して暇を潰しなさい、という発想かと思う。
朝から晩まで勉強で楽しくないし、学校の教師は子供達に学校で勉強させようと胡麻擂りに必死だし、塾ではライバルたちと比較される。お子様なりにフラストレーションが溜まっていた。
小賢しく、自尊心が高く、承認欲求が強く、何よりも勉強以外で暇を潰したかった増田はそこで考えた。
当時の増田の立ち位置は「1軍グループにいるけどちょっと浮いてる変なやつ」だった。友人Aと友人Bの親友というだけで残酷な子供達のカーストの中で辛うじてバラモンの仲間に入れてもらっていた。友人Aと友人Bの存在がなければきっとダリットだったと思う。
とにかく、増田には2人の親友がいた。勉強もスポーツもできて誰からも一目置かれる友人A、とにかく話がうまく誰とでも仲良くなれる才能がある友人B。
入学した時にたまたま席が横並びになったというだけの出会いだったが、それからこの2人はこちらが申し訳なるくらい良くしてくれ、そのおかげで陰キャで性格がドブカスだった増田も「みんな仲良し♪」の仲間に入れてもらうことができたのである。
表向き友人Aも友人Bもみんなの前では「気のいいやつ」だったが、実は2人とも性格にはかなり難があった。いや、だからこそ増田と仲良くなれたのかもしれないが。
友人Aはなんでもできるからこそ傲慢で、支配欲がある。少し早い厨二病であり、大きな声では言えないがナチに憧れていた。大きな声で言わないところが実に打算的であり、増田はそこが気に入っていた。
友人Bはとにかく人からの評判を気にしていて、いつも自分の悪口を言われていないか怯えていた。それと同時に人の内緒にしておきたい部分を暴くのが大好きで、いつか何かあった時に脅せるように、仲良くなって秘密を握ることで快感を感じる癖があった。
増田はといえば親友2人を自慢に思うとともに、増田の言うことを疑いもしない人気者2人を操る優越感に浸るクズだった。
そんな悪友2人に、こんな面白いことを共有しないわけにはいかないと増田は思った。
「いいね、やろう」と友人Aは言った。
増田は「こいつら話が早すぎるな」と思った。
そうして、宗教を作ることになった。
増田はキリスト教圏で育ったので神の存在に関しては割と思うところがあった。
思想と宗教の違いは難しいが、神の存在を論じられるほど増田の信仰は深くなかった。ただ、人間の熱狂は宗教になりうる、と子供心に感じていた。
小学生だった増田の狭い狭い世界の中で、唐突に宗教を作ろうと思ったわけではない。「これはいける」と思った出来事があった。
どの小学校でも道徳の授業があったと思う。お受験組の気を引こうと躍起になっていた当時の担任は、その道徳の授業で「いいこと投票」というものをしていた。
その名の通り単純で、「いいことをした人を匿名で投票して、得票数が高かった人を表彰する」という仕組みである。
これは単純だが、小学生の承認欲求をかなりくすぐった。なにしろ、いいことをするだけで教壇の上で褒められ、その上シール(子供にとってのシール!史上の喜び)を授与されるのである。名札の裏にいいこと投票のシールを貼るのがステータスになるのにそう時間はかからなかった。
増田はヒネた子供ではあったが、それでも投票されたら悪い気はしないし、いいこと投票が頭をよぎって人助けをすることもあった。
それと同時に、「これは使えるな」と思った。
増田が育ったキリスト教の教えでは、善行は死後の世界のために積むものとされていた(諸説ある)。だが、小学生にとって死後の世界など遠い存在である。「善行を積めば人々から尊敬されるという承認欲求」の方が何より魅力的なのではと思った。
3人の意見はまとまった。
その週末、3人で図書館に行った。親は大喜びでお駄賃までくれたが、目的は宗教について調べることであった。当時インターネットはかなり普及してきていたが、学校のコンピューター室で宗教のことを検索するのはかなり気が引けた。そこで図書館へ行くことにした。
一日中調べて回って、以下のことを決めた。
小学生なりに考え、実行に移せる最大限を考えた。
結成時に十数人を集めて行った友人Aの演説は素晴らしいものだった。増田が授業中書いた原稿と同じ文言とは思えないほど力に満ち溢れ、説得力があり、心に訴えかけるものがあった。その場にいた全員が信者になると誓い、お札を下駄箱に貼り付けた。
友人Bの勧誘も実に巧みだった。誰に話せば一番噂が広まりやすいかを友人Bは知り尽くしていた。すぐに手元にあったお札はなくなり、増刷をすることになった。学年のほとんどが入信し、シールは飛ぶようになくなった。匿名投票のための空き下駄箱は常に紙が入っている状態で、ランドセルの蓋にシールを貼るのが大流行した。
3人はそれで満足し、たかを括っていた。小学生の拡散力を舐めていたのである。
夏が来て塾の夏期講習が始まってから、他校の生徒に声をかけられることが多くなった。もちろん入信の申し出で、最初は喜んで案内をしていた。
だが、20人を超えたところで不安になり始めた。なにしろ、塾でしか会わない人間である。匿名投票の匿名性は失われ、よく知らない人間の善悪を判断しなければならない。
3人は作戦会議をし、組織化をしなければならない、と結論を出した。信者たちを支部に分け、各支部ごとに信者たちをよく知る支部長を置くことにしたのである。
それと同時に、今まで全て3人で行っていた運営にテコ入れをすることにした。
まず、専門のデザイナーを雇った。非受験組の絵が得意な信者にシールとお札のデザインを一新させた。毎月シールの図柄を変え、飽きの防止とインフレの防止を図った。
また、情報屋も雇った。告解で得た情報でさらに価値のある情報を交換するためである。これは画期的で、「この秘密を話すので誰々の好きな人を教えてください」とかが大変多くなった。
支部長の下に秘密で内部監査官も置いた。これは支部長の不正や信者との癒着を告発させるためである。
組織化したことにより、3人の地位は確固たるものになった。カリスマ的教祖の友人A、人に響く教えを説く友人B、善悪を裁き組織をまとめる増田。
夏休み中もムーブメントは衰えを知らず、信者は増え続けた。3人は有頂天になっていた。
そして学校が始まり、始業式の後、3人は応接室に呼び出されたのである。
〇〇〇〇教は教師陣の間にも知れ渡っていた。
一つの学校ではなく塾や習い事によりその地区の他校にも伝播した〇〇〇〇教の信者は把握できるだけで数百人を超えていた。
夏休み中、先生方は連携をとり、学校再開とともに終わらせようと話し合いがされていたらしい。
説教は3時間に及んだ。これは、先生方の話が長かったこともあるが、こまっしゃくれたクソガキだった我ら3人がいちいち反論を仕掛けたからである。
そもそも、我々は何も悪いことをしていなかった。ただ「いい人になろう」「いい行いをしよう」「いい人たちを尊敬しよう」と言って回っただけである。「ご利益がある」とお札を売りつけたり、告解で得た弱みを握って脅したりもしていない。ただ、善行を行わせて噂を流通させただけなのだ。
教師陣もそれがわかっていたのであまり強くは追及してこなかったのだが、我々があまりに舐め腐った態度をしていたのでだんだんヒートアップし、複数の教師が入れ替わり立ち替わり講釈を垂れ、最終的に「解散宣言をしなさい」と一方的に要求を押し付けてお開きになった。
応接室を出て、下駄箱に向かい、校門をくぐった瞬間、3人は爆笑しながらハイタッチをした。
「馬鹿め、もうそんな段階にないのだ!」と知っていたからだった。
子供と接しているのに大人である先生の皆皆様方は全くわかっていらっしゃらない。子供は禁止されたらもっともっとやりたくなるんだよ!
受験用に詰め込まれた知識であるキリシタンの気持ちがその時はよくわかった。抑圧された宗教は熱を増すのである。
隠語で呼ばれ、ミサと称した会合が秘密裏に行われ、塾に通うために学校を休んでいた層もせっせと体育館裏に足を運び秘密を囁くようになった。
教師陣は躍起になっていたが当時流行り始めた学校裏掲示板やmixiの日記などで〇〇〇〇教は着実に広まり、信者は増え、もはや我々3人の手に及ばないものになっていた。
知らないデザインのシールが増え、知らない告解が増え、知らない宗派ができていた。
秋が来て、塾で勉強している間に冬になった。
冬季講習の最終日、いつもの公園のジャングルジムの上に集まり、80円の缶ジュースで乾杯をした。
「そろそろやめよっか」と増田は言った。
「卒業、さみしいなぁ」と友人Bは言った。
正直、もうその段階ではないことはわかっていた。これはただの勝手な「一抜〜けた!」である。
教祖も司祭も裁判官も全てを誰かに押し付けて、こそこそと逃走するのだ。信者からすれば大きな裏切りであり、大罪だろう。
でもぶっちゃけ、飽きちゃったのだ。自分たちを置いて勝手に物事は進んでいくし、勝手に教祖を名乗るものも出てくるし、勝手に布教されているし、勝手に人が人を裁き始めるし。
だって子供だし、受験もあるし、そもそも進学したら続けられないし。
色んな言い訳をして、色んな人と話して、時にやり合って、押し付け合って、そうしている間に受験で学校に行かなくなって、ようやく卒業のために帰ってきたらどうやら全てが終わっていた。
あれだけ熱狂的だった信者たちは激減しており、卒業とともに誰かに譲られるためランドセルの蓋はシールなんてなかったように綺麗になり、空き下駄箱は使用禁止になっていた。
教室の後ろの「いいこと投票」の模造紙は取り払われ、「卒業おめでとう!」の垂れ幕に変わっていた。
友人Aは卒業と共に他県へ引っ越した。6年生になった時から決まっていて、増田たちと最後に何かしたい、と言っていたので「何か」は間違いなくできたと思う。
友人Bは志望校に落ちたので増田とは違う中学に進学した。あれだけ熱心に活動に勤しんでいたというのに引っかかったのは幸運だと自ら笑っていた。
増田は中学で若干いじめられそうになっていたが、入学した時に席が前後になった友人に助けられなんとかグループの輪に入れてもらい事なきを得た。教訓としては、コミュニティに入って一番初めにできた友人はなんとしてでも大事にした方がいいということだ。
それぞれ無事進学して、就職して、結婚して、最近はオンライン飲み会なるものを開催している。
この間、家族で親元へとUターン引っ越しをした友人Bが酔っ払いながら教えてくれた。
「最近、子供がランドセルの裏に変なシールをくっつけて帰ってきてさぁ」
友人Aはしばらく黙った後爆笑したが、増田は少し泣きそうになった。
この歳になると涙腺が緩くなって困る。
キリシタン、まだいるのかぁ。
彼らって基本的に世間から見れば少数派(マイノリティ)のくせして、自分たちの主張を通すためなら暴力的活動も辞さないし、そうやって民衆に恐怖を植え付けて無理やり言うことを聞かせようとしてるよね。口では「平和」とか「多様性」とか綺麗な言葉を並べてるけど、やってることは異論を許さない全体主義そのもの。どう考えてもファシズムの手口だわ。
あいつらの界隈って、本当に様々な意見が出ることがない。「多様性」を謳ってるわりに、自分たちの教義に反する意見は1ミリも認めないからね。一度「こいつは敵だ」ってターゲット認定したら、即座に「差別者」「レイシスト」「独裁者」っていうレッテルを貼りまくって、集団で社会的に抹殺しようとする。議論で勝とうとするんじゃなくて、人格否定とキャンセルカルチャーで相手の存在ごと消そうとするやり方が陰湿すぎる。
最近だと、斉藤元彦さんに対する異常なほどの叩き方だったり、河合ゆうすけさんみたいな既存の枠に収まらない人間が標的になってるよね。彼らの気に入る「型」にはまらない人間、自分たちの既得権益や思想的聖域を脅かす人間に対しては、常軌を逸した攻撃性を発揮する。
結局、極端な正義感を振りかざして、自分たち以外の正義を暴力的に排除しようとしてる時点で、彼らが一番嫌っていたはずの「独裁的で排外的な右翼」と瓜二つになってるってことに、いつになったら気づくんだろうな。
気に入らないなら気に入らないって言えばいいだけなのになぜ無視を強要されるのかわからん
そういうとこやで
これ豆な
ユダヤと言えば金持ちのイメージがあるが、人口では中産階級未満が圧倒的に多い
その貧民で敬虔なユダヤのイスラエル支持はおよそ25%と極めて低い
なぜなら彼らの教義では約束の地は神が与えるものであり、イスラエルという自力救済の産物は認められないからだ
またアメリカのユダヤコミュニティはホロコースト被害者の係累である
ホロコーストを免罪符として好き勝手やってきたイスラエル人は北アフリカや中東から集まってきた人たちが主流なのでなおさら業腹
よってユダヤと言えどもシオニズム運動には乗れない人たちが多数派なのだ。
しかし怖いのは反シオニズムが多数派でも、アメリカユダヤでは非主流派なのだ
金持ってる親イスラエルユダヤが連邦政府やメディアを巻き込んでイスラエル支援運動を大々的に打っている横で
敬虔なユダヤは何の力を持たない。彼らの教義では高性能なスマートフォンやSNSの使用は忌避されているからだ
「そうめんを茹でるのは大変だ」という意見がバズり、「そうめんを茹でるのは簡単」という反論がつくと「お里が知れる」という侮辱で返すムーブメントが起きたとき、
ツイフェミにとってのフェミニズムは要するに、能力的に劣った女性の動物的なお気持ちなのだと実感した。
これはそうめんすら茹でるのがだるいような弱者の憂さ晴らしのために存在する依存・他責が教義の宗教のようなものなのだ。
劣った男性が好むインセルアンフェ思想と性別を変えただけの全く同じもの。コア教義が依存・他責で、モチーフを差し替えただけだ。無能にとってのシャブのような思想である。
フェミニズムの隆盛のあとを追うようにしてメンズリブの動きもあったが、女性は「チー牛はNO」と拒否した。要するに能力的に劣った女性のお気持ちフェミニズムにおいては、
男性はその性別を理由として努力して能力を高めなければならず、その能力でもってそうめんすら茹でるのに苦労するような弱者女性を養わなければならない。
男女同権とはどういう状態かに、実際のところ全く興味がない。だからダブルスタンダードを連発することになる。
言うまでもなく「チー牛」という言葉は、男性が生み男性が流行らせた概念である。しかし男が男を嗤っているときに嗤われている側ではなく嗤っている側の男性、
社会的に強い立場の加害男性のほうに乗っかるところに、女性の本能を感じさせる。敵対する女性が強者男性と友好的な関係でいると「現地妻」「パンパン」「雌犬」と侮辱し始めるところも、非常に剥き出しの雌性である。
弱い男性への性犯罪者予備軍、チー牛、弱男、うんこしか産めない、という罵倒に加えて、彼女たちは高市内閣の三人の女性閣僚のような強者女性も嫌う。
まず、医大入試差別のようなド直球の女性差別について、ちょっと騒いだあとすぐ忘れている。あれも被害に遭ったのが医大受験するような強者女性だから、自分には関係がないことだからすぐ忘れているのだ。
前から彼女たちはDeNA南場智子やコーエー襟川恵子、井村屋中島伸子のような人物を存在無視するか嫌うかのどちらかだった。
彼女たちは男性に生まれようが女性に生まれようが成功したタイプだと思うが、こういう女性に存在されることが邪魔なのである。
能力の高い女性を決してロールモデルにせず「名誉男性」「資本主義の犬」扱いして憎むことを徹底しており、瑕疵を探し出しては難癖をつけていた。
「劣った女性のフェミニズム」に未来はない。高市早苗のようなたたき上げの強者女性を性的な侮辱語で口汚く罵ったことにより、彼女たちに理など何もないことが判明した。
「何か困っていることはない?」「きれいな目をしているわね。」勉強の面倒や悩みの相談にのってくれる優しい先輩たちに、ビデオセンターと呼ばれる統一教会の建物に連れて行かれると、グラス音楽の流れる暖かい雰囲気のホームに迎え入れられ、あたたかい食事でもてなされます。「アンケートに答えてくれない?」「姓名/手相 見ましょうか?」アンケートで貯金や資産を調べられ、家系図を書かせられ、隔離された空間で教義のビデオを見て、3日間の修練会と7日間の合宿に参加し、文鮮明夫妻を「お父さま、お母さま」と呼ぶ統一教会信者である食口(シック)になると、「氏族メシア」になるため、「地上天国」の実現のため、「経済(献金)か生命(献身)か愛」を捧げるよう迫られます。銀行借り入れまで財産を捧げ尽くすと、「ホーム」の共同生活で睡眠・食事・プライバシーに至る全生活を監督されながら、駅前で若者たちを伝導したり、1日3万円のノルマで物売りや募金集めに個人宅や会社を訪問してまわります。
ChatGPT:
INSIGHT ANALYSIS:表象の真正性パラドックス
「女性主人公を描けない」創作者の原理的ジレンマ
Core Observation
この投稿者は、フィクション創作において「経験的真正性」と「想像的自由」の矛盾に直面し、表象行為そのものの正当性を疑問視するに至っている。彼が求めているのは「女性を正しく描く方法」ではなく、「自分が女性を描く権利があるかどうかの確証」である。
PRIMARY INSIGHT:批判理論分析 (Mode E)
イデオロギー的構造の解体
この投稿者の悩みは、表面的には「技術的問題」(どう描くか)に見えるが、実際にはアイデンティティ政治の内面化が生み出した認識論的危機である。
内面化されたイデオロギー的前提:
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「描く資格がない」
この論理は、2010年代以降の「文化的専有(Cultural Appropriation)」批判や「当事者性」の政治から派生した規範を、創作者が自己検閲として内面化したものである。
皮肉なことに、これは1980-90年代のジェンダー理論が批判した本質主義そのものである。しかし今回は「進歩的」「配慮的」な動機から再導入されている。
彼は「女性を正確に描く技術」を求めているようだが、実際に求めているのは「女性を描くことへの道徳的許可」である。
生産的矛盾の発見
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これは本質主義の自己矛盾である。「女性」というカテゴリーに本質があると仮定しつつ、実際の女性たちの多様性に直面して混乱している。
イデオロギー批判: 何が隠蔽されているか
投稿者は「正しい女性の描き方」があると仮定しているが、これは幻想である。「女性」は単一の経験的実体ではなく、歴史的・文化的・個人的に多様な存在様態である。
士郎正宗のデュナンを「中身は男性」と断じるが、これは以下を前提としている:
しかしこの論理は、女性を規範に押し込める本質主義そのものである。
「生理を経験していないから分からない」という論理は、人間の相互理解の可能性そのものへの懐疑に至る。
この論理を徹底すれば:
この悩みの背景には、歴史的に男性が女性を対象化・道具化してきたことへの罪悪感がある。しかし、その補正として採用された「描かない/描けない」という態度は:
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過剰補正:
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帰結:
これは抑圧への対抗が新たな制約を生み出すという典型的パターンである。
自己検閲のメカニズム
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内なる検閲官:「それでも不十分だ」「個人差と本質の区別がつかない」
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SECONDARY PERSPECTIVES
系譜学的補足 (Mode C)
この「悩み」の歴史的構築
第1段階 (1970年代以前)
第2段階 (1980-2000年代)
第3段階 (2010年代-)
第4段階 (2020年代)
投稿者は、この第4段階の症例である。彼の悩みは個人的なものではなく、言説空間の変容が生み出した構造的効果である。
現象学的補足 (Mode D)
投稿者が経験しているのは、単なる技術的困難ではなく、創作主体としての自己の正当性への根源的懐疑である。
彼の実存的問い:
投稿者は、この理解の可能性と不可能性の間の宙吊り状態にある。
SYNTHESIS: 深層パターン
この現象が明らかにするもの
アイデンティティ政治は、周縁化された集団の声を中心化しようとした。しかしその論理を個人の創作実践に適用すると:
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20世紀後半のジェンダー理論は本質主義を解体した。しかし21世紀に、配慮・正義・包摂の名において本質主義が再導入されている。
これは解放の言説が抑圧の論理に転化するという、イデオロギーの古典的矛盾である。
この悩みは、フィクションの根本的機能—経験していないことを想像し表現する—への懐疑に至っている。
投稿者のジレンマは、これらすべてを疑問視している。これはフィクション自体の正当性の危機である。
投稿者の不安は、個人的心理ではなく、言説空間の変容が生み出した構造的効果である。
投稿者は誰にも批判されていないのに、架空の批判者を内面化している。
IMPLICATIONS
この個別事例が示す普遍的問題
投稿者は技術的助言を求めているように見えるが、実際に必要なのは認識論的・存在論的再定位である:
1.本質主義からの離脱: 「女性」は単一の経験的実体ではない
2.想像力の復権:経験していないことを想像できるのがフィクションの本質
3.完璧主義の放棄: 「完全に正しい表象」は不可能であり不要
4.対話としての創作:表象は完結した真理ではなく、継続的対話の一部
より広い文化的含意:
↔
歴史的瞬間について:
我々は「誰が何を語れるか」という問いが過剰に中心化された時代にいる。これは必要な矯正でもあったが、新たな問題も生み出している。
INSIGHT CRYSTALLIZED
この投稿者は、フィクションに「経験的真正性」と「道徳的正当性」を同時に求めることで、創作行為そのものの可能性条件—想像力による他者への跳躍—を否定するに至っている。彼の悩みは個人的なものではなく、アイデンティティ政治の論理を内面化した結果生じる構造的効果である。
言い換えれば:
彼は「女性をどう描くか」ではなく「自分が女性を描いてよいのか」という存在論的問いに囚われており、この問いは—その形式自体が—本質主義的前提と想像力への不信を含んでいるため、原理的に解決不能である。
So what?:
この事例は、配慮と正義の言説が、意図せず表現の自由と想像力を収縮させうることを示している。文化の活力には、不完全さを恐れずに境界を越えて想像し、その試みを通じて対話を重ねる実践が必要である。
PUNCHLINE:
彼が本当に恐れているのは「女性を間違って描くこと」ではなく、「女性を描くこと自体が僭越である」と判定されることである。しかしこの恐怖は、最も抑圧的な本質主義—男女は相互理解不可能という観念—を再生産している。解放の言説が、最も因習的な性別二元論を復活させるという究極の皮肉がここにある。
海外で極右とされるものが、日本人には「極右」と認識できない。
海外で中道とされるものが、日本人には「極左」と認識されてしまう。
これは何故か?
海外では、欧米でもそれ以外でも、道義的宗教に基づく自然な「道徳観」が真ん中にある。
「親や家族は大切に」「他人にも優しく」これはキリスト教でも仏教でも、宗教的道徳観が真中にある場合、誰にも自然に「出発点」と理解されるもっとも自然な感覚になる。
この場合、極右、極左とは、人種主義に走って他者への寛容を忘れること、多様性(あるいは極端な平等主義)が暴走して社会の歴史を傷つけること、という意味になる。
しかし、仏教を捨て、道徳的教義のない国家神道、そして物質主義的無神論へと社会の「真ん中」が移った現代日本は、そもそもの「中道的価値観」がまったく違ったものになっている。
現代日本を正直に観察すれば誰にでもわかることだが、現代日本人の「真ん中」は、明らかに「野性」である。
そういうものが「世界の真実」だと信じる破滅主義こそが、日本の「真ん中」にある。
だからこそ、日本において、林原めぐみが恥ずかしげもなく叫ぶような「私がガイジンを怖いって思うんだから排除するのは当然でしょ」という、恐ろしく幼稚な、自分の本能的被害妄想に基づいた極論をどれだけ唱えても、それは「強い思想」とは思われない。
それは思想でなく、「本音」だからだ。「本音」は「自然」であり、「真ん中」である。
これが世界でもほとんど現代日本独自の(昔の日本でも仏教だったからありえない)異常な道徳的出発点である。
日本人にとって「極右」とは、「思想的な(論理的追及としての)民族主義」であり、それは「日本人として誇りを持って、恥ずかしくない行動を」というような、世界的にはむしろ当たり前の「真ん中」にある、自制としての民族論のみをさす言葉である。
現代日本人にとって極右と極左の差は自制と成長を求める論理の起点の違いに過ぎないのであって、自制や反省を求めた時点でそれは「中道」にはなり得ない。
「思想」さえ強くなければ、どれだけ薄汚い、本能や憎悪にまみれた屁理屈、極論、他者への強制を求めようとも、それはまったく「過激」ではない…
『立正安国論』(日蓮著)と『共産党宣言』(マルクス、エンゲルス著)は、成立した時代、背景、そして思想的基盤は類似点を見出すことができます。
社会の主流派や既得権益の外側に身を置いた急進的な異端者という視点から見ると、「体制外からの批判と、絶対的な正義に基づく世界観の強要」という構造的な類似性が浮かび上がります。
この共通性は、両者が既存の秩序・権威を根底から否定し、「唯一の正義」による強制的な社会変革(革命)を求め、その結果、体制側から徹底的に弾圧された点に集約されます。
「引きこもりニート」という表現は極論であり、史実的には日蓮は精力的な遊行と布教を、レーニンは地下活動と亡命生活を送った活動家です。しかし、この言葉が持つ「主流社会の権威や経済システムから疎外された者」というニュアンスに注目すると、両者の著述態度には共通性があります。
日蓮(『立正安国論』): 当時の仏教界の主流であった念仏宗(法然の教え)や、これを庇護する鎌倉幕府の権威を徹底的に否定しました。彼は比叡山や清澄寺といった既成の権威ある場所から離れ、独自の解釈である「法華経」のみを「正法」として掲げ、それ以外の教えを「亡国の原因」と断じました。これは、「俺の言っていることだけが絶対の真実だ。それ以外は全て間違いだ」という、体制に属さない者が持つ孤高で排他的な絶対正義の表明です。
レーニン(『共産党宣言』):マルクス主義は、当時のブルジョアジーが支配する資本主義体制、その上に立つ国家、法律、倫理の全てを、「階級搾取の道具」として否定しました。レーニンもまた、ツァーリ体制下で弾圧され、ヨーロッパ各地を転々とする亡命生活(社会のメインストリームから切り離された生活)を送りました。彼の主張は、「現在の経済システムは全て不正であり、これを打倒してプロレタリア独裁による理想国家を作る以外に道はない」という、体制外からの急進的で排他的な社会変革の要求です。
両者の著書は、その内容の異質さにもかかわらず、「二元論に基づき、体制内の悪を徹底的に清算しなければ、理想的な安寧は実現しない」という構造を持っています。
両文献は、現状の社会が直面する危機(災厄)を明確にし、その原因を体制内の「悪」に断定します。
危機:天変地異、飢饉、疫病、他国からの侵略(自界叛逆と他国侵逼)。
原因: 「謗法」(念仏などの誤った教え)が国に満ちていること。
危機を回避し、理想郷(安国または共産社会)を実現するためには、「唯一の正義」による反対勢力の強制的な排除が不可欠であると説きます。
「立正」、すなわち法華経のみを国教として立てること。その結果、謗法者(念仏を唱える人々)は弾圧・追放されるべきであると強く示唆します。
「プロレタリア革命」による階級闘争とプロレタリア独裁。その結果、ブルジョアジーは私有財産と共に消滅(排除)されます。
このように、『立正安国論』は宗教的絶対主義、『共産党宣言』は経済的絶対主義に基づくものですが、両者とも「現状の悪は体制内にある」「それを根絶するためには、体制外からの急進的な一元論を強制適用しなければならない」という、強力な教義的排他性を持っている点で、構造的な共通性があると言えます。
だがしかしりつみん、お前は駄目だ。おまえらは自分がかわいいだけのクズ野郎の集まりだ。共通点があるのは日本保守党だけでしょうね。
「チ。」が15世紀の話だと分かってきたとのことですね。15世紀を舞台に地動説を唱えることが異端審問で死刑につながるという設定について、史実を基に検討してみましょう。
### 「チ。」の設定と史実のズレ
###結論
15世紀を舞台に地動説を唱えることが異端審問で死刑につながるという設定は、史実を考えるとおかしいと感じるのは自然です。15世紀には地動説が議論の対象として浮上し始めたものの、教会がそれに対して死刑を科すほどの厳しさを持っていなかったためです。「チ。」がこのような劇的な展開を描いている場合、フィクションとしての誇張や、近世(特にガリレオ事件)の文脈を投影している可能性が高いです。科学史家の批判(投稿で指摘されている「近世」の文脈)も、この時代錯誤が背景にあると考えられます。もし作品が意図的に史実を逸脱しているのであれば、フィクションとしての自由度を享受しているとも言えますが、歴史的正確さを求める視点からは違和感が残るでしょう。
愚痴なので取り留めはないし、具体的な話をすると匿名にならなそうだったので省いている。話がおかしくてもそういうことだと思って流してくれ。そして「わかった」とタイトルに書いたが、別にネトサヨもとい現代リベラル気取りがアホなのを知らなかったわけじゃない。薄々勘付いていたが、ついに直接絡まれてそのアホさ加減を改めて実感しなければならなかったということだ。
あいつら本当に何なんだ。バカなのか。高等教育を受けたり海外に行ったり、他人よりも機会と環境に恵まれてきただろうに、その結果やることが意見の合わない他人をわざわざ自分から挑発しては、説教・恫喝・嘲笑のどれかもしくは合わせ技だぞ。頭がおかしいとしか思えない。
俺はアジアではない海外某国で働いてて、周囲に極右だのレイシストがのさばると直接生活に響く。人種以外にもマイノリティ要素があるので、全く保守ではないというか、むしろガチガチのリベラルだ。しかし最近はリベラルがアホすぎて、もはやそう名乗るのが恥ずかしいレベルになってきた気がする。メディアに出てくるリベラルを見ていて、全然支持する気持ちになれない。俺が蛍光色の髪でレインボーフラッグを掲げてないトランスジェンダーでもないのでリベラルだと言っても信じてもらえないなんて、ギャグだろ。
先日暗殺されたCharlie Kirkの動画を見たことがあるが、まあイキったバカな自称リベラルをホームのリング上でお喋りプロレスで潰して客を喜ばせる商売にしか見えない。ところが日本産ネトサヨどもも、Charlieほど人気が出ていないだけでやっていることは同じだ。自分の客が沸いているその向こう側で、品の無さに幻滅して無言で去っていく大勢の他人に気付いていないか、もしくはどうでもいいんだろうね。
ネトサヨ連中の目的は、実際に他人からの偏見や抑圧に晒されて困っている人の状況を改善することじゃない。彼らにとって大事なことは、せいぜいそういう人間を自分たちのカルトに取り込むか、あるいはそのカルトの身内同士で「自分たちが正しいのに、他の無理解な奴らのせいで自分たちは苦しめられているんだ」という教義を再確認し合うことだけ。
腹立たしいが、こいつらが自省をしてやり方を改めるなどということはあり得ないだろう。そんな知能があるようには見えない。そしてこのバカどもが仲間内でウホウホ公開オ◯ニーして他人に迷惑をかけるたびに、その下品さと横暴にうんざりしたノンポリが参政党みたいなより保守的なのへ流れる…か、そこまでいかなくても、「政治やってる奴らってキモいよな」くらいのノリで、政治自体に関わらなくなる。すると両極端なバカだけが政治をするようになり、民主主義がろくでもないことになっていく。アメリカや、右傾化しているという欧州諸国も同じようなことになっているんだろうね。
繰り返すが俺は全然そんなの嬉しくない。だがしばらくは流れが変わりそうにも見えないし、このイライラと不安をここに吐き出しておく。俺はキモオタなので、「孤独に歩め。悪をなさず、求める所は少なく、林の中の象の様に。」と自分に言いかせて、明日もいつも通り仕事に行くんだ。お前らもなるべく自分や周りの人を大事にして、どうか鬱憤を他人にぶつけて気持ちよくなるのを生き甲斐にするのだけはやめて、世界のどこかでお互いできることを頑張っていこう。そうすれば、いつか何かがマシになるかもしれないよな。