
はてなキーワード:放置子とは
実体験として当たってると思ってるけど、N=1の話なので三連休の暇つぶしのお供程度に読んでほしいです。これを書く目的は、とくにないですが、ふと教師の子供って大変だったなと思ったのでまとめてみました
自分は両親ともに中高の教師、グレてはいないけど高校を中退したり通常ルートから外れて社会に出ています
ご存知の通り、教師は激務です。私の親は学年主任や教頭なんかもやってたから他の先生より忙しく、帰りも遅かったです。結構、放置子に近い待遇だったかもしれません
学校でしか教師と接していない人だと、ある程度の年齢まで教師が教室内における権力者に見えますが、教師の子どもは家で気を抜いてる様子も見てますし、嘘をついたりどうしようもないところも見ているので割りと早い頃から教師も人間だと理解しています。あと、教師がやられると嫌なことも知っているので怖くなくなるのも早いかもしれません。教師をなめだすのも早いです
当然と言えば当然なのですが、何十年も教師をやっているので教師っぽさは家庭内にも持ち込まれます。一例を上げると、全ての先生がそうとは言いませんが揉め事をなあなあで済ませようとしたり、喧嘩両成敗として処理しようとします。せめて親くらいには100%の味方でいてほしい子供にとってこれは結構つらいです
4.親の世間知らずが嫌になる
世の中で言われてる通り教師はやっぱりズレてます。うちは両親ともに新卒から教職なので強烈でした。成長するにつれて世の中を理解していく子供に反比例して、学校という村社会から出ない教師親はどんどん世間知らずになっていきます。
このような感じで、教師の子供は金銭的には恵まれているかもしれないですが精神的には割りと不遇な子が多いのが、教師の子はグレやすいということなのかなと思います
タイトルが物騒ですみません。そう思った気持ちがいまだに消化できず、また友達もいない割に承認欲求高めの私はネットの海に流すことでその時の自分を昇華しようとしています。感情のままに書いたので読みづらくて申し訳ないです。可愛いインコが久しぶりに夢に出てきてくれたんです。最悪です。
結論から言うと殺していません。また、インコが嫌いだったわけでもありません。なぜ殺そうとしたのかは、私を虐待した家族が飼い始めたセキセイインコだからです。
餌替えも水替えも放鳥もカゴの掃除も温度管理も発情の止め方も私以外の家族は無関心です。動物の可愛いところだけを享受するのはさぞかし楽しいでしょう。
実家から出る際、この子は幸せに暮らせるのだろうか、いっそ殺してしまった方が楽じゃないのか、などと過ってしまったのが最悪の始まりです。そう考えた自分自身を戒めることが数年続いております。たかが鳥1羽でなにを悩んでいるのか、と考える方向に持っていくことがどうしてもできません。そう考えた私を許して欲しいです。自分自身の問題ですが、私は飼っていたインコに私を許して欲しいです。
私の足音を聞くとカゴのゲージに飛びついて、「ピピッ!ピピッ!」と呼び続けてくるような可愛い男の子です。カゴの前まで行って顔を見せるとようやく鳴き止み、私が可愛いね、可愛いねと喋りかけるのを黙って聞いてくれます。カゴから出すとまずは肩に乗って「ピピッ」と鳴き、部屋の好きなところへ飛び立つのが2人のルーティンでした。
水が少しでも汚れていると文句を言い、新しいおもちゃには一切触れない、賢くて少し気が弱いところもありました。今は一体どうしているんでしょう。私が弱いため家族に連絡が取れず、近況を知りません。
以下は私の自語りになりますので、興味の無い方は飛ばしてください。フィクションを交えながら生い立ちを少し記します。
私は児童養護施設で10年弱育ちました。いわゆる放置子であったため、近所の方の児童相談所への通報から施設へ預けられたとのことでした。(詳しくは怖くて聞けていません)
高校卒業後は借金をしながら一人暮らしで専門学校へ行き、その後に1年ほど働きました。ですが1日に10時間を超える労働、上司からのいじめやパワハラなどに遭い、ある日の朝に目を覚ますと起きられなくなり、涙が止まらなくなったため退職をすることにしました。住み込みの仕事であったため、退職後は借金返済中のこともありバイトをしながら実家のお世話になりました。精神科に行く考えは当時ありませんでした。
最初は家族と円満風だったのですが、やはり私を小さい頃からネグレクトしていた両親であったため、日々の生活に違和感を覚えるようになりました。
私は長女で、12下の弟がいます。母親は私を施設に預けたままでしたが、弟の面倒はきちんと見ていました。
私の学生の頃の生活は基本的に平日は施設、弟が生まれてからは土日は実家で過ごすようになりました。弟が生まれる前は年に数回だった帰省が、毎週の帰省になった時は当初とても喜びました。しかし、弟の面倒を見る要因として実家に連れて帰られていると自覚してからは帰省を拒否をするようになりました。
赤ん坊の弟を寝かしつけ、夜泣きをするとミルクを作り(ミルクが熱くないか哺乳瓶から直接飲んだ味も覚えています)弟に飲ませてあげ、ゲップを確認してまた寝かしつけ、うんちをすればオムツを替え、外出すれば暴れん坊の弟を見張り、時には無理やり引きずってベビーカーに乗せ、保育園の送り迎えや、小学生の朝の交通安全のたっている人(?)の担当もしました。この文章だけでは伝わらないと思いますが、とにかく私は弟の面倒を見させられており、節々から母親に所有物のように扱われている、ということを日々強く感じるようになりました。
退職後に実家にいる際、大きくなった弟が無断で外出をし、パニックになった母親が私へ弟の居所を聞いてきました。私はバイトから帰ってきたばかりで状況が分からず、知らないと答えると「お前のせいで弟が死んだからどうする!」と怖い顔で言われたのを覚えています。なぜ怒られたのかは不明です。その後弟は何食わぬ顔で帰ってきました。私に謝罪などはありませんでした。
両親は良いところもあります。私のためにしてくれたことも何個もあります。ですが、私にとって、私自身を認めてくれなかった苦痛の方が何十倍も大きく、もう数十年も経つのに未だに辛いです。よく見る夢は私と私の家族が笑って喋っている場面です。夢の中で両親は穏やかで、私は弟と同様に大事にされています。ありえない記憶に目が覚めた後は少し泣きます。もう何年もこの調子です。そろそろ病院に行こうか考えております。
本題、実家にいた頃に戻ります。2年ほどお世話になりました。最後の方は私が遅れてやってきた反抗期であったため、両親からは非常に嫌悪されており、早く実家を出ろと急かされていました。実家にお金は入れていないため、今考えると両親の対応は当然のように思います。私の成長のために学費などのお金を両親は使ってないのだから、私は両親へお金を入れなくて良いと考えておりました。
実家にいて1年ほど経過した頃、母親と弟がセキセイインコを連れて帰ってきました。
黄色のその子はとても小さく、餌も柔らかいものしか食べられませんでした。スプーンから餌を上げると、小粒の宝石よりも小さな嘴でちょこちょこと食べたのを今でも覚えています。かわいい、本当に可愛いと感じました。
インコとの暮らしが始まりました。ネットで調べたところ、夜は布をかけた方がいい、温度管理はちゃんとした方がいいとありました。当時私には借金返済でお金がありませんでした。給料日前、バスに乗る数百円のお金さえなく、雨の中濡れながら帰ったことがあるぐらいお金に困っていました。
なのでダンボールや安いビニール袋を使って冬はインコを暖めていました。インコを買ってきた当の母親は、ホッカイロを一つカゴに入れるのみです。そういえば母親は小さい頃にインコを飼ったことがあると話していました。そのインコはある寒い日の朝に死んでいたそうです。私は絶対にこの子を死なせないと誓いました。
今考えると、その倫理観の親がまたインコを飼うなんておかしいと思うんですが、当時の私はまだ親に洗脳されている状態であったため、おかしさに気づけませんでした。とにかく、私はインコを死なせまいと思っていました。夜に布を少し捲って、インコが生きているか確認したりもしました。インコは時々起きてしまって「ピ?」とかわいい声で鳴いておりました。今考えると申し訳ないです。
インコの放鳥時、ゲームをしている弟の肩へ止まると叩くように払い除けたため、私は弟を叱りました。母親は認めませんが、弟には発達障害があるようでした。インコを大事にするように私がしつこく教えると、しぶしぶ言うことを聞きました。ですが私がいない時は同じ対応をしていたようです。
ある日、私はバイトで隣県の店舗へ手伝いに行くことになりました。数日空け、昼間に実家に戻ってきた時、インコの餌が変えられておらず、水はフンがたくさん入っておりました。私はインコと私を重ねました。インコが私を見つけると、ゲージに止まって「ピピッ」と私を呼びました。少し元気がないように見えました。泣きながら謝って、餌と水を新しいものに変え、カゴを掃除し、インコが大好きな水浴びをしました。ごめんね、ごめんね、とインコに言っても、彼は機嫌良さそうに水浴びをしていたため、聞こえていたかは分かりません。
インコは居間にいます。私は家族と顔を合わせたくないため、基本居間には立ち寄りません。2階の部屋から直接バイトへ行っていましたが、顔は途中の公園で洗って化粧をし、制服の洗濯はコインランドリーでしていました。汗拭きシートで体を拭き、風呂は3日に1回温泉へ行きました。今思うと本当に迷惑な者でした。
日曜日の朝、思い切って居間に入りました。家族が少し驚いているのが空気で伝わってきました。私はインコのカゴを見て、餌と水が変えられてないことに気づきました。「ピピッ!ピピッ!」とインコが私を呼び続ける中、私は無言で餌と水のプラケースをカゴから取り出し、居間で寛いでる家族たちへ「インコの面倒を見て」と震える声で言いました。私の意見は基本的になかったことにされるため、とても緊張しました。いつものように返事はありません。私が「ねえ、」と促しても返事はなかったですが、インコのお腹が空いてるのに気づいて慌てて餌と水を変えました。「ピピッ!ピピッ!」と私を呼び続けるインコへごめんね〜また遊ぼうね〜と言うと、インコは静かになりました。私はすぐに自分の部屋へ戻りました。それからは、家族によってインコの餌と水が二日に一回は変えられるようになりました。
ようやくお金に余裕ができたため、私は実家を出て一人暮らしをすることを決めました。荷物をまとめている最中、Amazonで買った鳥のおもちゃと保温道具一式を段ボールから出しました。実家を出るタイミングは家族がいない平日の昼間を選びました。どうせ話をしようとしても会話にならないためです。
カゴの中から私を呼び鳴きするインコを出し、肩に止まったインコがご機嫌に鳴いて床へ降り立ちます。鳥なのに意外と速く歩く姿を眺めて、保温道具をカゴに設置しました。まだ秋ですが、家族がこれをちゃんと使ってくれる保証がありませんでした。保温機能が動くかを確認し、今まで使っていたビニールなどは捨てました。インコをカゴに戻す際、新しい道具が怖いのかなかなかカゴに戻ろうとしませんでした。ごめんねごめんね、と宥めながらカゴへ戻しました。新しく変えた水を飲んだ後は、ぶら下がっているおもちゃで遊んでいます。カワイイネ!カワイイネ!と言っていました。私がいつもインコへ言う言葉です。私は同じ言葉を繰り返す癖があるため、そのまま覚えてしまったようです。最後に水浴びをしてあげれば良かったな、と考えましたが家を出る時間が迫っていました。
ふと明日からのインコのことを考えました。餌は私が買っていましたが、数ヶ月は持つようにちゃんと補充しました。私がいなくても大丈夫です。新しいおもちゃも一応買ってありましたが、怖がりなインコが慣れてくれるかは分かりません。言葉は通じませんが、インコの鳴き声や行動で気持ちは何となく分かったつもりでいました。なので、私が明日から居なくなると、インコにとってもストレスであると私は分かっていました。彼は怖がりなので、お皿に入った水ではなく、私の両手で掬った小さな水場でしか遊べません。寂しがりのため、居間に誰かがいないとおもちゃの鈴を鳴らして呼びます。朝起きた時に可愛いね、と言わないといつまでも文句を言います。私はインコに何て酷いことをしたんでしょうか。最後まできちんと面倒を見られないのなら、初めから世話をしなければよかったんです。可愛いね可愛いねなんて言わなければ良かったんです。初めからインコを家族に任せていれば良かったんです。こんなに小さいのに、彼はとっても繊細で賢くて感情豊かです。メモ紙にインコの世話の注意書きを書きながら、私は涙が止まりませんでした。私がいなければ彼は傷つくことはなかったでしょう。鳥の気持ちが全て分かる訳ではありません。でもきっと彼は、毎朝餌と水を変えながら可愛いねと言ってくれる仲間が減ったことを理解するはずです。そして呼び鳴きをし続けるはずです。私は実家に二度と戻ってくる気はありませんでした。インコが居なければもっと早く出るつもりでした。カゴの外でうずくまりながら何かを言う私を、インコはゲージに止まって見ていました。目が合った時、私は右手でインコを握りしめる妄想をしました。が、すぐ後悔してまた泣きました。私はインコに「可愛いね、可愛いね、大好きだよ」と告げました。インコは「ピピッ!」と私を一度呼びました。ぶら下がっているおもちゃを揺らし始めたのを見て、私は玄関を出て、実家の鍵を郵便受けから中へ入れました。インコが鈴を揺らす音が最後に聞こえました。あれから数年、私は実家に帰っておらず、両親とも連絡をとっていません。あの時にした最悪の想像はずっと後悔しています。
私は、実家で虐待されたり施設でいじめられた過去を跳ね除けて、人生をやり直したいとは思いません。ただ、時々無性にこの世界から消えたくなる時があります。インコと私を重ねた結果、私は勝手にインコの気持ちを代弁したのです。あり得ないことです。インコと私は全く別の人生を歩んでいるのに。
賢くて臆病な黄色のインコが、今でも大好きなおもちゃで遊んでいるのを願っています。可愛いね、可愛いね、ピーちゃん可愛いね。
金がないから少子化、晩婚化だから少子化とか色々いわれるけどさ…
あれをしろこれをしろ、それはさせるなみたいなルール?常識?がどんどん作られてさ、育児・教育に求められる水準が上がり続けてんのよ。
みんな自分が子どもの頃のこと思い出してほしいんだけど、親が付きっきりで一緒に遊んでくれた記憶とかなくない?
公園の砂場に大人がいるのなんて見たことなかったし、小学生が未就園児連れて子どもだけで川遊びとか普通にやってたよ。
鍵っ子もめっちゃいたしよく遊んでたけど、多分今だったらSNSで「放置子」って悪口書かれてるね。
「昔は地域で子どもを見守れてたからよかった〜」みたいなこともいうけど、ホントにそうか?
普通に今より事件・事故に巻き込まれてたし、死んでたよ、子ども。
そのリスクをみんな共有してたから子どもに無責任に関われてただけでしょ。
近所の子に話しかけるとか、家に入れるとか、食べ物あげるとか、今やったら警察案件よ。
最近、迷子放送聞かないなって思うもん。みんな子どもから目離してなくてえらいね。
人に頼るリスク許容できないってことは親が全部背負うしかないけど、重すぎるのよ。
雑に扱ったら叩かれるし、非難されなくても罪悪感植え付けられるじゃん。
無理無理、しんどいこと多すぎ。
じゃあ行政がなんとかするしかないじゃんってなるけど、人権って金かかるのよ。
しかも一度手に入れた人権って、戦争か独裁でもないと基本的には手放せない。
理想の「子ども様」をお育てするには税金がいくらあっても足りないんです。
これは「子どもの人権をもっと軽視しろ」って言いたいわけじゃないよ。
子どもは宝だからね。自分もできる限り大事にさせていただきたいと思っております。
詰んでんじゃん、って感じ。
今の60,70代が子供の頃なんて、農村地なんか時間も金もないのに子供沢山いたわけじゃん
少子化の原因は「親としてのハードル」と「子供はこうあるべきのハードル」、要求水準が高くなったからだろ
経済に余裕なければ産むべきじゃない、親としての素養がないなら産むべきじゃない、子供への教育ができないなら産むべきじゃない、容姿にコンプレックスがあるなら産むべきじゃない、ブルーカラーは子供を生むべきじゃない、一人親なら産むべきじゃない、まともな養育環境を与えられないなら産むべきじゃない
国が悪いんじゃなくて、歪なほど潔癖で減点主義な思想が少子化を促進させてると思うよ
俺は工業団地があるような首都圏の工業地域に住んでるんだけど、スーパーで万引きしたり、自転車盗んだり、問題児兼放置子がウジャウジャいたし、団地なんてバイクうるせえバイクだらけだったけど、そういう奴らもなんだかんだ働いて家庭持って子供作ったりしてるし、俺はお前らみたいな潔癖で高潔な口だけの独身より、お前らのいう理想の子育てからは程遠いいけど子供作って子育てしてる俺の地元の連中のがよっぽど偉いと思ってるわ。
返信ありがとうございます。また身を案じてくださり重ねて感謝します。
恥ずかしながら私は幼少期や学生時代は奇行が目立ち、先天的なADHDである可能性が高いのですが、親との関係性も悪く(本人はそう思っていない様子ですが)、また物心つく前後から両親間のケンカが日常的にあり、「放任主義」という名の放置子であった記憶があったりと、生育環境に問題があり、それがADHDをより拍車をかけたと今になります思います。
一応先生には診断前に愛着障害と統合失調症の可能性を伝えた上でADHDと下ったので、そちらを信頼することにしています。
愛着障害が大人には適用されない、というのは初めて知りましたら。その上で、もしかしたら本来分けて治療をするべきなのでしょうが、現時点の投薬治療で視野狭窄が解消されたり、性依存や飲酒癖が治まったり、その他日常生活の出来ないこと出来るがストレスがかかることが、出来るようにまた楽に出来たりと生きづらさに大きく改善傾向が見られるため、このままの治療を続けていきたいと思います。
もちろん、よりよい方法が発見されたり、また保険の適用で負担少なく試せるのであれば是非ともやってみたいと思いますので、今後の医療医学の発展と発達、またこれらの障害について世間に正しく周知されることを併せて祈るばかりです。
最近話題の小学生いじめ問題について思うこともあったので一言物申す。
大人の目の前で普通に暴力振るうなんで馬鹿なことしませんし、当然大人から見えない形でいじめは行われる。
ある二人がメチャクチャ喧嘩して泣く程の事態になっても次の日には仲良く登校してくるとか普通にある。
今の時代小学生が金髪にしても注意出来ないプラス全てさん付け呼びなので、基本的に大人を舐めてる奴が多い。
そんでトラブルも増えるんだけど体と頭はガキのまんまだから正論言っても話にならないんだよね。
ある時クラスのAさんがBさんから仲間外れにされてるからなんとかして欲しいと保護者から要望があった。
そんでお互いの家庭に話を聞いたら、どうやらAさんが放置子で休みの度に家にノーアポで尋ねてくるんだって。
Bさん家は最初対応してたけど、休みの度に来るし飯まで強請るようになったから流石に無理になって最近は遊ぶの断ってたんだって。
それをAさんが勘違いして仲間外れにされたと思い込んで相談してたってわけ。
こんなの解決無理でしょ。
もう嫌だよ。
仲良し家族をアピールするために物心が付いた頃から父親の命令で毎日家族で晩御飯を食べていた。
幼い頃から晩御飯の度に妹に顔や体型や私の要領の悪さを遠回しな言葉でチクチクと馬鹿にされた
やめてほしいと言ったら、おそらくアスペルガー症候群で言葉の裏側やニュアンスを理解できない母親に「不機嫌にならないで!」「学校でもそんな態度取ってるの?」と怒られた。
それが幼い頃から高校卒業まで毎日続いた。食事の時間になる度に苦しかった。
ここまで厳格に統制された家であったにも関わらず、母は訳がわからないところで育児の手を抜いた。
外で遊びたいと言ってもパソコンがしたいからと言われて放置された。
5歳頃に一人で公園に行かされて、6歳ぐらい年上の放置子に卑猥な言葉を言われながら追いかけ回された。
小さい時からこんな状態だったからまともな自己肯定感を育めず、人間関係の構築方法も分からず、まともに友達を作れなかった。
小学四年生の時、授業中にからってきた男子にやめてほしいと伝えたら、教師に腕を乱暴に掴まれて廊下まで引きずり回されて、廊下で泣くまで怒鳴られた。
私が黙って我慢しないのが気に入らなかったらしい。
これがトラウマになって抵抗するのをやめて、からかわれても我慢していたら、小学六年生の時に別の教師に「からかってきた男子を睨んだ」と言いがかりを付けられて過呼吸になるまで怒鳴られた。
中学校の時の似たような状況だった。
中2の時、教科書を紛失したらしい男子に私が隠したと言いがかりを付けられて給食に洗剤を入れられた。その給食は別の女子に誤爆して騒ぎになり、なぜか私が責められた。
中3の時、別の男子に給食のスープを掛けられ、担任の音楽教師に「肌が赤くなってるのは火傷じゃなくて塩分のせい。だから問題ない」と言われた。
この状況を是正するため、塾に行きたい、私立の学校に行きたい、せめて精神科に行きたいと母親に言ったら「お金がない」と断られた。
我が家は父はマスコミ関係者、祖父は医者。経済的には恵まれていた。お金がないというのは本当だったとは思えない。
母と喧嘩して冷静になるために自室のドアを閉めて一人になろうとしたら、妹はわざわざドアを開けて母と一緒に私に聞こえるように大声で私の悪口を言い続けた。
高校生になる頃には変な妄想や衝動感に悩まされるようになった。独り言が止まらなくなった。
お小遣いは高校生になっても1000円。バイトは禁止。友達と遊びに行くことなんてできなかった。
この僅かなお小遣いを貯めてゲームを買ったら、購入の許可がなかったという理由で父が発狂して手鏡をこたつに叩き付けながら怒鳴られた。
後日、当て付けとして父は妹に全く同じゲームを買った。私は懐を痛めたのに。
高校でもまともな人間関係は築けなかった。部活も入ったけど頭がむちゃくちゃになって人と話すのが怖くてすぐに辞めた。
高校生になってからはただ道を歩いているだけで痴漢やナンパをされるようになった。
17歳の時にネットで知り合った風俗嬢でメンヘラのレズビアン女性に「一緒にラブホに行ってくれないと自殺する」と脅され、それを拒否したら「M女郎が」とその女性の取り巻きの19歳の女性に罵られた。
大学生になってからも結局妄想も虚無感も衝動感も恐怖も収まらず、30歳になった今も治らない。
無力感に取り憑かれて何かを継続することができず、職場も人間関係も転々とし続けている。その間たくさんセクハラやパワハラをされた。
「いやゲームをしている時は幸せだったはず。だから大丈夫」「今は幸せでしょ?だからいいじゃない」
はぐらかすのをやめてほしいと言ったら
「私だって辛いんよ」
と逆ギレされて泣かれて話にならなかった
これから私はどうすべきだろう
よその家にお邪魔するときは手土産を持たせるし、うちに呼んでほしくもないのであまりよその家にもお邪魔させてない。
多分、家の容積と構造の変化もこれをもたらしていると思う。
祖父母宅は屋根裏部屋も蔵もあって、収納スペースが大量にあったので、母屋の見えるところに収納をする必要はなかった。
自分が育った家は子供部屋が玄関から通じる廊下に直通していて、リビングにいる家の人に声をかけることはあっても中にまでは入らなかった。
今の自分の家は所謂リビングイン階段構造なのでリビングを通らないとどこにも行けない。
お姉ちゃんがお風呂に入っている間に弟の友達が遊びに来てリビングで遊び始めると風呂から出られなくなるあれ。
収納も少ないので、とにかくいつも家がごみごみしているから、誰かが来るとなると大掃除が必要。よって、あまり人に中まで入ってほしくない。
近所づきあいはそれなりにあり、子供も近所の大人と顔見知りだけれど、別にお互いに家の中にまで入らない。
子供のころは友達の家に行ったり、自分の家に今でいう放置子な子供が入り浸ったり、親の友達の家に泊まったりしてたけれど、誰かがいうような学びは特に感じなかったな。